5月 14

2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
 この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。
 
1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―  中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」との関係 中井浩一

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名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―
         中井浩一

目次
1.関口存男の冠詞論と闘う
2.定冠詞論のむずかしさ
3.冠詞論とは名詞論である
4.名詞論としての定冠詞論
5.名詞が抱え込んだ矛盾
6.附置規定の主述関係
7.言い換えにおける名詞の分裂
8.名詞の発展の3段階
9.名詞こそが運動している →本日5月14日
10.関口の生き方

                                            
9.名詞こそが運動している

以上説明したように、定冠詞論は名詞論であり、その問題の本質的な解明は一応、第1篇、第2篇で終わった。では「第3篇 形式的定冠詞」では何をしているのか。ここでは、名詞の「特殊な場合」(名詞が傍局にある場合)を取り上げて、その特殊現象をも名詞の本質から解明しようとしているのだ。むしろ、名詞の解明のために、未踏の領域に踏み込んでいく。
1章と2章の「示格定冠詞」では名詞の格の意味、名詞が直接他の品詞に移行する場合、固有名詞、名詞の凍結などが取り上げられ、3章以下の「温存定冠詞」では前置詞+名詞で、さまざまな品詞になる場合の名詞を取り上げる。ここは前置詞論であり、名詞は名詞でなくなろうとしている。「名詞的意局が止揚される」。

すべてで名詞の本質が問題にされているが、1章と2章の「示格定冠詞」では、以下が特に目を引いた。事型名詞の本質、固有名詞、「凍結現象・掲称的語局」(名詞の凍結化)だ。

事型名詞とは、「?する(される)ということ」というdaßの副文章であり、「文章の短縮形」である。それは極端に言えば、「動詞」である。(593?5ページ)。
私は、ここで名詞から文や動詞が生まれていることに注目したい。
また、固有名詞の特殊性を説明しているのも面白い。固有名詞は特殊(個別)と普遍への分裂が前提となったもので、両者の統合で生まれるのだ。(682ページ?)
関口が「凍結現象・掲称的語局」(名詞の凍結化)の問題を取り上げていることは、とりわけおもしろいと思う。(709ページ?)
名詞化とは、そもそも凍結することに他ならない。それをさらに凍結すると言うのはどういうことなのか。
名詞は、確かに静止しているように見えるが、実際の内実は、内部で激しく運動し、分裂を引き起こそうとして待ち構えている。そうした名詞の運動を、本当に殺してしまった形態が、ここにあるのだ。逆に言えば、それまでの名詞は決して凍結していなかった。ぴちぴち跳ね回っている。
ちなみに、「凍結現象・掲称的語局」とは無冠詞の形態である。名詞の発展段階で言えば、「凍結現象・掲称的語局」とは第3段階の名詞が凍結されたものである。したがって、無冠詞は、一番最後に生まれた冠詞だということになる。
この凍結の形態は、すでに「6.附置規定の主述関係」で紹介した
das Tier Mensch(人間という動物 )、der Begriff Staat (国家という概念 77ページ)の例でもある。下線部がそれ。
こうした形態は、Der Mensch ist ein Tier. Der Staat ist ein Begriff.という主語・述語関係(判断)、命名文を繰り返した後に生まれると思う。
関口はさらにこのMenschやStaat を「人間ということ」「国家ということ」という掲称(概念を概念として際立たせる)としてとらえ、これを名詞だが、「省略された文章としての語局」ととらえる。しかし、もともと文章だったのだから、これは当然なのだ。

 3章以下の「温存定冠詞」では前置詞+名詞で、さまざまな品詞になる場合の名詞を取り上げる。ここでは名詞が名詞でなくなるまで、「名詞的意局が止揚される」過程が説明される。
前置詞+名詞から、動詞、副詞、形容詞、前置詞、接続詞的な観念が生まれる際に、「名詞的意局は,外廓を成す動詞的意局,副詞的意局等へと発展的解消を遂げる。これを名詞的語局の棄揚と謂う」(764ページ)。

特に面白かったのは「第七章 副詞概念の迂言的表現」だ。
 ここで、見地の意局の例として「バターは値が上がる」が挙げられる。
Die Butter steigt im Preis.
バターは「値が」あがるの「値が」は主語ではなく、形式的には副詞(952ページ)。
見地の意局はとかく動詞と一体になってまとまった観念を成す(953ページの備考)。
事物を比較して評価する場合は最も、見地の意局が必要(955ページの備考(1))。比較とは、「他と関係させ」その関係に現れる本質(運動)を示すことだろう。

「バターは値が上がる」にも、実は名詞の分裂がある。「バター」と(バターの)「値」への分裂だ。名詞こそが、実は運動している。その動きがなくなった(止揚された)時、副詞や動詞になる。名詞の運動を封じ込めているのが冠詞であり、前置詞ではないか。
運動の中で、他との関係が生まれるが、その関係性を示すのが「副詞」「動詞」ではないか。「関係性」として固定すると、名詞性の止揚(副詞か動詞)になる。「動詞」は運動していない。運動しているのは名詞だ。
ドイツ語で、定形が重要なのは、動詞が重要なのではなく、その主語が他との関係の中でその本質を示す際には、その関係が重要で、その関係を示すのが定形だからではないか。

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