5月 16

2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
 この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。
 
1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―  中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」との関係 中井浩一

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判断の「ある」と存在の「ある」の関係
                     中井浩一
目次
1.問い →本日5月16日
2.判断とは名詞が主語と述語部に分裂すること →本日5月16日
3.存在の「ある」 →本日5月16日
4.存在の「ある」から判断の「ある」が生まれた
5.すべての動詞は名詞の分裂から生まれた
6.判断の「ある」と存在の「ある」についての関口存男の意見

                                      
1.問い

西欧語、たとえばドイツ語のsein(存在)には2つの意味がある。
A ist B. AはBである。
A ist.  Aが(は)存在する。Aが(は)ある。

この前者を判断の「ある」、後者を存在の「ある」と呼ぶことにする。
では、この両者はどう関係するのだろうか。この問いに私案を出しておく。

                                         
2.判断とは名詞が主語と述語部に分裂すること

まず、以下の6つの文例をあげておく。

(1)Die Blume ist rot.
(2)Die Blume ist klein.
(3)Die Blume ist schön.
(4)Die Blume ist eine Rose.
(5)Die Blume ist.
(6)Die Blume riecht.
(7)Diese Blume zieht Leute an.

(1)この花は赤い(赤くある、赤である)。
(2)この花はきれいだ(きれいである)。
(3)この花は小さい(小さくある)。
(4)この花はバラだ(バラである)。
(5)この花は(が) ある。
(6)この花はにおう。
(7)この花は人を引き付ける。 

このうちの(1)から(4)までが、いわゆる判断と言える。これらに現れるseinは判断の「ある」である。(5)のseinは存在の「ある」で、(6)と(7)は普通の動詞による文だ。

(1)から(4)の判断だが、普通の理解では、これらの判断を、主語の「この花」と述語部を人間という認識主観が外から結びつけたものととらえる。しかし、ヘーゲルは「この花」自身が、自らをなんであるかを示し、個別と普遍に分裂したのだと考える。そして、それを認識主観内に反映させたのが、いわゆる判断文だと言うのである。(ヘーゲルの論理学の判断論から)。
「花」に内在化していた諸性質が、外に現れたものが述語部の「赤い」、「きれいだ」、「小さい」、「バラだ」等なのである。これは対象世界の「この花」の分裂であり、したがって、認識世界の判断文でも「この花」とされる名詞が主語と述語部に分裂し、また統合されてもいる。
このヘーゲルの考えを前提にして、以下を考えていく。

                                       
3.存在の「ある」

さて、では(5)「この花は(が)ある」をどう考えたらよいのか。
私は、これも先の判断文と同じで、「この花」の分裂の1つだと考える。「ある」も「この花」の性質の1つで、それが外化されたものなのだ。その意味で存在の「ある」は、「赤い」、「きれいだ」、「小さい」、「バラだ」などとなんら違いはない。
しかしもちろん違いはある。存在の「ある」も「この花」に含まれた性質の1つでしかないのだが、それはもっとも根底にある性質といえる。「この花」の持つ諸性質の中で、「ある」が一番基底にあるからだ。
なぜなら、「赤い」「きれい」「小さい」「バラ」ではなくても、「花」は存在できるかもしれないが、「ある」がなければ、「花」は存在できない。それは無だ。つまり「この花」と「ある」は切り離せず、「この花」とは「この花はある」ということなのだ。(以上は、ヘーゲルの論理学冒頭の「存在」「無」の展開と同じだと思う)
以上のことを逆に言えば、「この花」と提示することには「ある」も前提されており、その上での「赤い」「きれい」「小さい」「バラ」なのだ。しかし「ある」には実は、具体的な内実はない。それは「ある」というだけで、その具体的な諸性質は、その上に付け加わる「赤い」「きれい」「小さい」「バラ」によって初めて表されるのだ。

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