8月 27

デハナイ、デハアル 松永奏吾 その1

松永奏吾さんは長く、デハナイ、デハアルについて研究してきた。2014年の春には「デハナイ」をまとめた。
その論文とこのテーマへの私の考え「日本語の基本構造と助詞ハ」は、このブログで公開している。
松永さんはそれを踏まえて、2015年の夏に、全面的な書き直しをした「デハナイ、デハアル」を提出した。
それについての私との意見交換があり、それを踏まえて9月に一応完成させたのが、今回掲載する
「デハナイ、デハアル」である。
14年の「デハナイ」が学会を意識するあまり、自説の展開が中途半端に終わったので、今回は学会を意識せず、
言語学の前提や常識を棚上げにし、ゼロから言語学のすべての前提(専門用語やカテゴリー)を導出することを
めざしてもらった。学会相手ではなく、ひたすら自分自身に対して対象(言語、日本語、助詞ハ)の本質を
明らかにすることに専念してもらった。その分、前進があったと思う。
その後、松永さんは2015年の年末から今年16年の4月にかけて、学会用の論文「デハナイ、デハアル」を
書き上げた。松永さんの指導教官だった野村剛史氏との意見交換を経て、現在はそれをさらに練り上げているところだ。

今回も、この問題への私見をまとめた。「言語をその起源から考える」がそれだ。前回の私のコメントの大枠は、
今も変わらないが、名詞の導出や、文の意識の導出やそれ以降の扱いがまだまだ不十分だったと考えている。

「デハナイ、デハアル」(松永奏吾)を、本日(8月27日)と明日(8月28日)に分けて掲載し、
「言語をその起源から考える」(中井浩一)を、8月29日と30日に分けて掲載する。

■ 目次 ■

デハナイ、デハアル 松永奏吾 

0.問題提起

1.AはBである
1.1 名詞「A」
1.2 判断

2.デハナイ
2.1 AはBではない
2.2 AはBではなくCである
2.3 AはBではないか?
※ここまでが本日(8月27日)掲載。

3.デハアル
3.1 AはBではないが、Cではある
3.2 AはBではあるが、Cではない
  3.3 AはBではある

4.結論と今後の課題
※ここまでは明日(8月28日)に掲載。

言語をその起源から考える 中井浩一
※8月29日と30日に掲載。

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デハナイ、デハアル 松永奏吾

0.問題提起

 「AはBである」は、日本語の基本文である。この助詞ハは、一文の要である。ところが、この
「AはBである」を否定すると、「AはBではない」となって、もう一つの助詞ハが現れる。この
二つ目のハは一体何であるか、なぜ助詞ハがここに現れるのか。また、助詞ハを伴うことによって、
デハナイという否定はどういう意味をもつのか。さらにまた、デハナイならぬデハアルという形もあって、
「AはBではあるが…」などのやや特殊な文脈に現れる。この特殊性はどう説明するべきか。
 以上の、デハナイとデハアルの問題を考えるのがこの論文の目的である。しかし、「AはBではない」
にせよ、「AはBではあるが…」にせよ、これらの文は、「AはBである」という基本文から派生した
存在なのだから、「AはBである」から考えないわけにはいかない。基本文としての「AはBである」から、
いかにして「AはBではない」と「AはBではあるが…」が出て来るかという論理を示さなければならない。
それはすなわち、助詞ハ自体の生成してくる論理にまで戻って考えなければならない。
この論文の目的は、デハナイとデハアルの意味を明らかにすることにあるが、それは助詞ハの本質を明らか
にする一つの過程でもある。この考察により、「AはBである」が日本語の基本文であり、助詞ハが日本語
の要であることの意味が、いっそう明確になるはずである。

1.AはBである

1.1 名詞「A」

 人間と世界との関係は、ある対象の存在を意識することから始まる。その時、自己に対して、対象が対象
としてそこにある。これは、自己と対象の分裂という事態である。この分裂を統合するべく、人間は自らに対して、
対象に対して、問いかける。「おや(これは何だ)?」と。これが思考の始まりである。この時、対象は、
問いの対象「何か」としてそこにある。人間が対象を意識するとは、自己と対象の分裂を意識することであり、
対象を対象としてとらえようとすることであり、対象を対象としてとらえようとすることの中には、
対象への問いが内在している。
日本語では、「これは(何だ)?」という疑問文が、この始原的思考を表す。「これ」は手元にある対象を指示し、
「これは?」のハは、対象化の意識=対象に対する問いの意識の現れである。と同時に、「これは?」という
問いは、答えを求めて発せられる。すなわち、ハは、問いに対する答えを導く。問われたものは答えられなければ
ならないからである。助詞ハは、対象を問いとして意識し、その答えを導く助詞である。
「これは?」という問いに対する、さしあたりの答えとして、その対象を「A」と呼ぶことにする。
「これはA」と。いったん「A」という音形を与えられた対象は、その後は「何か」ではなく、
「A」として意識され、記憶される。眼前にその対象が存在せずとも、ただ「A」と発声するだけで、
脳裏にその表象を思い浮かべることができるようになる。「A」は、人間が手を使わずに、思考によって世界を
とらえようとする、その欲求の形象化である。
問いの対象「何か」に対して、「A」という形を与えることによって、さしあたり、先の問いは解消される。
と同時に、「A」は、先に「何か」として意識された対象が、「A」として意識し直された結果である。
つまり、「A」の中には、「何か=A」という統合がある。ここに名詞「A」が発生する。この名詞「A」は、
問いを解消したという点では、自己内の分裂の統合形式である。ところが、「何か」を「A」と名付けること、
すなわち「何か=A」という統合は、人間の恣意によって与えられたものであるに過ぎず、対象自体の運動を
反映してはいない。対象自体の運動は判断に現れるのである。

1.2 判断

「A」と名付けられた対象は、現実世界の中で絶えず変化し、発展する。「A」だと思っている対象の中から、
いろいろな諸性質「B」や「C」や「D」が出て来る。これが現実の存在物自体の運動である。認識の側では
これをどうとらえるのか。
日本語では、先に「A」と名付けられた対象が、改めて問い直され、「Aは」と表現される。「A」を、
問いの対象「何か」として、改めて提示する。そして、「A」について理解された内容「B」が問いの答え
として表されると、「AはB(である)」となる。名詞「A」が「Aは」となることによって、ここに改めて
分裂が生じ、それが「AはB(である)」という文になることによって、改めて「A=B」という統合が成立する。
こうして「A=B」「A=C」「A=D」といった判断が現れる。「A」という対象が、「B」や「C」や「D」
という性質、本質をもっていたのだという風に理解するのだ。

 (1) この花は赤い。
 (2) この花はバラである。
 (3) バラは植物である。

 (1)は、ある「花」が「赤い」という性質を外化させていることを言い表す。しかし、それは個別的事柄であり、
感覚的な認識内容に過ぎない。すなわち、「この花」は決して「赤い」と同一ではない。「この花」は「赤い」と
いうだけでなく、現実に他の無数の性質を外に表してゆく。それはちょうどあたかも、「この花」について、
どんな形か、どんな匂いか、などの問いの答えを得てゆくことでもあり、「この花はB」「この花はC」
「この花はD」…とその諸性質で認識され表現されてゆく。この段階で述語部に現れる「B」「C」「D」が
形容詞である。
次に、「この花」が、「B」「C」「D」…という性質をまとめたものとして捉え直される段階がある。
先の「何か=A」というさしあたりの規定の内容が具体的なものになってゆく。「A」の分裂が進展し、
「A」に関する認識が深まってゆくと、「A」と他との差異が明らかになってゆく。かくして、(2)のような
種別名が表れる。さらに、(3)の「植物」という名は、「動物」という対象との対立関係が意識されて初めて成立する、
より高度な名詞、分類名である。これが名詞の発展である。
これら(1)-(3)のような文は、現実世界の対象自体の在り方と対応しており、対象に内在する性質の発現を表す文である。
これらが判断の文の原型である。対象として意識された対象「A」が主語、対象から現れ出た性質「B」が述語である。
この主語と述語の二項は、元々、名詞「A」の中に内在していた二項である。名詞を対象化し、問いとして意識した
ものが主語であり、対象の中から発現した性質が述語である。(2)の「バラである」にしても、(3)の「植物である」
にしても、(1)の「赤い」と同様、対象自体の中に根拠がある。
なお、(2)(3)のデアルという形式は、「ある」を含みもつことによって、これらの文が単なる命名文ではなくて、
在り方を表す文であることを表してもいる。すなわち、(2)(3)の「AはBである」は、対象「A」が「Bとして存在
する」という意味合いをもつ文であることを表している。つまり、デアルは、あくまで主語「A」の存在を表しており、
「A」に係る要素である。
元々、意識は、対象の「存在」を意識することから始まるから、対象として意識された名詞、主語の中には、
存在が内在している。「AはBである」のデアル、そして、「Aはアル」のアルは、その、対象「A」の存在が
表明されたものである。この抽象的な存在だけを表すアルが具体化したものが、動詞一般である。
つまり、動詞も「AはBである」から論理的に生成する。

かくして、ある対象を対象として意識することから、その対象を問う(「これは何か?」)助詞ハが生まれ、
その答えとして名詞「A」が生まれる。その名詞「A」の中にある「何か=A」という統合の分裂から主語と述語
が現れ、その再統合から文が生まれる。ここから他の言葉や品詞、他の文の形態などのあらゆる言語表現が生まれる。
助詞ハは、対象を意識し、名詞を対象化し、問い、そこから答えを導き出すものである。
以上のことから、「AはBである」が日本語の基本文であり、その中心にあって、「A」から「B」を導き出すもの、
助詞ハこそが、日本語の要なのだと言えるだろう。
以上は私の仮説であるが、この仮説をもとにしてどこまで日本語の本質に迫れるか、それに挑戦してみたいと
思っている。次章からデハナイとデハアルの問題を考えるが、それはこの仮説の意味を深め、その仮説の有効性を
証明する作業でもある。

2.デハナイ

2.1 AはBではない

名詞「A」の中にある「何か=A」という統合それ自体がすでに矛盾をはらんでいたが、文「AはBである」
における「A=B」という統合も、それ自体が矛盾をはらんでいる。すなわち、「この花は赤い」にしても、
「この花はバラである」にしても、「この花は植物である」にしても、いずれも「A=B」を表明していながら、
現実には、「この花」は「赤い」と同一ではなく、「バラ」と同一でもなく、「植物」と同一でもない。
つまり、「AはBである」だけでは、現実をとらえきれない。
「AはBである」は、名詞「A」を問いの対象としてとらえ、「Bである」と答える文であるが、
対象のとらえ方、認識がより高度になってくると、文(判断)そのものを対象としてとらえる、ということが起きる。
何かを意識の対象とすることはその対象について問うことであるが、文、判断を意識の対象とする場合、
すなわち、文、判断を問う場合、その問いの中には肯定と否定が内在している。つまり、問われた判断は、
肯定されるか否定されるかしなければならない。ただし、「AはBである」という判断を問うことは、
まずは、その判断を疑うことから始まる。すなわち、肯定よりも否定が先に現れる。助詞ハによって、
文が対象として意識され、疑われ、否定が表明されると、デハナイが現れる。

 (4) この花はバラではない。

 (4)が、文を対象としてとらえていることを図式化すると、次のようになる。

 (5) [この花はバラである]はない

(4)は、助詞ハによって、(2)の「この花はバラである」という文を対象化し、否定した文である。
まず、文を意識し、それを対象化することによって二つ目のハが現れる。対象化はただちに肯定文への疑問であり、
「AはBである」という判断に対する疑問が助詞ハによって表現されて、「AはBである」の中に内在していた
否定が、助詞ハによって分離されて現れる。この二つ目のハ、デハナイのハもまた、文という対象を意識し、
文という対象を問いとして立てる、と同時に、その問いに対する答えを導いて、ここに否定判断という統合が
成立する。否定が成立すると同時に、肯定も意識され、(2)が肯定判断として捉え直される。

2.2 AはBではなくCである

 「AはBではない」という否定判断は、「A」と「B」との統合の否定である。しかるに、「AはBではない」
とは、「A」と「B」との分裂を表しているだけである。すなわち、「AはBと違う」と。この「Bと違う」もの、
「Bではない」もの、それはこの世に無限である。つまり、デハナイは、無限の差異を表してしまう。
故に、「この花はバラではない」という否定判断は、「この花」を改めて対象化し、問いとして意識する。
「この花はバラではない」、では、「この花は何であるか?」と。その問いに対する答えが次のように現れる。

 (9) この花はバラではない。[この花は]トルコキキョウである。
 (10) この花はバラではなく、[この花は]トルコキキョウである。
 (11) この花はトルコキキョウであって、[この花は]バラではない。

ここに、「Bではない」と「Cである」という対立が現れる。否定と肯定の対立が意識される。
「Bである」に対して「Bではない」が定立され、「Bではない」に対して「Cである」が定立される。
肯定から否定へ、否定から肯定へ、という運動の過程において、デハナイに変質が生じる。すなわち、
元々、「AはBである」という文を対象化して成立した「AはBではない」が、「Bである」という肯定に対する
否定となり、そこから、否定の否定たる「Cである」を導き出すようになる。「AはBである」という文全体ではなく、
「Bである」という述語を対象化して否定するものとなる。つまり、デハナイが肯否の対立を意識して用いられる
ようになる。(9)-(11)について言えば、「バラ」と「トルコキキョウ」の対比に意識がある。
さらに、このデハナイの変質が進むと、次のような例をも生み出していく。

 (12) バラにではなく、トルコキキョウに水をやった。
 (13) 今日ではなく、明日行く。

 これらのデハナイは、すでに判断の否定でなくなっており、「ではなく(て)」という形で一語化した接続詞
のような形式である。「Bではない」が、BとCの対比を意識して用いられ、Bを否定し、Cを肯定する、
すなわち、「BではなくC」という一対の認識パターンをもった文型の中で使われるようになる。

2.3 AはBではないか?

 「AはBではない」とは、「AはBである」という判断を対象化して問い、否定した文である。
この時、助詞ハの問いは、自ら答えを導く問いであり、自問自答的である。それに対して、「AはBである」を、
他者に向けて問い掛ける場合がある。これには二通りのしかた、二通りの疑問文がある。

 (14) この花はバラであるか?  
    うん、バラだ。/ いいや、バラではない。
 (15) この花はバラではないか? 
    うん、バラだ。/ いいや、バラではない。

(14)と(15)の応答から分かるように、「AはBであるか?」という問いと、「AはBではないか?」という問いに
対する返答のし方は、同じである。(14)は「?であるか?」と問い、(15)は「?ではないか?」と問うているのに、
返答のし方は同じになる。
(14)の疑問文において、対象化され、問いとして立てられているのは「この花」であるが、その答えは出されずに、
他者にゆだねられている。すなわち、「この花はバラである」という判断は成立しておらず、「この花は?」と
いう問いはカによって延長され、他者に向けられる。返答者たる他者によって、肯定か否定の判断が下される。
一方、(15)の疑問文において、対象化され、問いとして立てられているのは「この花はバラである」という判断
である。すなわち、「この花はバラではないか?」という問いにおいては、「この花はバラである」という判断
が対象化されている、つまり、判断は既にある。質問者自らは「バラである」ということを判断しかかっている。
ところが、他者に向けては、「ないか?」という形の問い掛けが為される。
これが、デハナイカという疑問形式である。
要するに、助詞ハによって、(14)では「この花」が問われているのに対して、(15)では「この花はバラである」
という判断が問われている。返答者の側もそれを受けて、「この花はバラである」という判断に対する同意を、
「うん、バラだ」と肯定で答える。かくして、(14)と(15)の返答のしかたは同じになる。
ただし、問いの内実は異なる。(14)で対象化され、はっきりと捉えられているのは「この花」であって、
それが「バラである」かどうかの判断は不分明である。それは、他者にゆだねられている。
一方、(15)は「この花はバラである」という判断を既に対象化し、はっきりと捉えている。
質問者は自らの答えを既に想定し、「この花はバラである」という判断に傾いている。
故に、このカという問い掛けは、自らの判断を他者に対して確認するものである。
さらに、「AはBではないか?」という問いが、「AはBである」を対象化したものであること、
「AはBである」という判断に傾いていること、ここから、次のような用法が生まれる。

 (16) なんと美しい花ではないか! 
 (17) ひどいではないか!
 (18) 話をしようではないか!

これらの例も、カという形式をもっている以上、他者に問い掛けてはいるが、その内実から見れば、
(16)(17)は詠嘆文、(18)は勧誘文である。ここから、デハナイカが、詠嘆や勧誘を表す形式になる。
特に、(17)は「形容詞の終止形+ではない」、(18)は「助動詞+ではない」という形態をとっている点を見れば、
「AはBではない+か」ではなく、「ではないか」というこの形態で完全に一語化していることを示している。
ここに至ると、デハナイカはすでにデハナイではなく、デハナイがデハナイでなくなる。そしてそれが、
たとえば「ひどいじゃん!」のように、ジャンという形態にまで形を変えると、助詞ハは埋没し、問いの意識も消える。

明日(8月28日)につづく。

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