8月 24

中井ゼミのゼミ生、塚田毬子さんの卒業論文「三性説の研究」を全文掲載します。

今号は第2回。

卒論につけられている注釈は掲載していません。出典の引用箇所を示すためのものがほとんどです。
卒論に【1】【2】【3】などの記号がついているのは、すべて中井によるものです。
中井の「問題意識を貫いた卒論」の根拠となる個所を示すためのものです。

■ 塚田毬子著「三性説の研究 『摂大乗論』を中心に」の目次 ■

※前日からのつづき
一 『摂大乗論』の構成
二 アーラヤ識説
1 『摂大乗論』第1章の構成
2 『摂大乗論』におけるアーラヤ識説の検討
三 三性説
 1 『摂大乗論』第2章の構成
 2 『摂大乗論』における三性説の検討
※ここまでを本日に掲載。

四 無住涅槃
 1 『摂大乗論』第8、9、10章の位置づけ
 2 『摂大乗論』における無住涅槃
結論
参考文献
※ここまでは明日に掲載。

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◇◆ 三性説の研究 『摂大乗論』を中心に  塚田毬子 ◆◇

一 『摂大乗論』の構成

 『摂大乗論』は、十章から成る唯識の論書であり、体系的に書かれているのがその特徴である。
物事を体系の形でとらえるのはアサンガの思考の特徴とも言える。
本論文では『摂大乗論』の全体を大きく五つに分類し、以下の構成に基づいて検討を進める。
一、あらゆるものの根本(第1章)、二、あらゆるものの実相(第2章)、三、相に悟入するプロセス(第3章)、
四、悟入の具体的な実践内容(第4、5、6、7章)、五、その結果(第8、9、10章)
『摂大乗論』においては、表象は転識とアーラヤ識の相互因果で引き起こされており(第1章)、
表象は実体が無いが、あると思い込むと汚染になるということ(第2章)、表象に悟入することとそのための修行と
(第3?7章)、無分別智、汚染から目を覚まし清浄にもとづいた縁起への転回(第8、9章)、
そして涅槃にとどまらない無住涅槃(第10章)が説かれている。
本論文では、『摂大乗論』の核心は第2章の三性説であると位置づける。三性説を展開する道具立てとして、
第1章のアーラヤ識説が機能している。そして、第2章で示された二分依他説の理論が『摂大乗論』の全体を
貫いていると考える。
瑜伽行派は実践を理論と同じく重視し、『摂大乗論』ではその半分を実践編にあて、第4章から第7章にかけて
修行の内容も挙げられてはいるが、具体性・現実性に欠けているように思われる。その根拠として、アサンガは
この世界がどうなっているかを解き明かしたが、アサンガ自身がこの世界をどう生きたか、どう生きるかという
実例が挙げられていない【2】。これは『摂大乗論』の大きな欠陥ではないかと思われる。
『摂大乗論』に書かれた理論で実践が説明できなければ、理論は机上の空論である。
そこで以下では、筆者自身の実践を具体例にしながら、アサンガが解き明かした理論を検討していく。

二 アーラヤ識説

1 『摂大乗論』第1章の構成

 第1章は62節から成り、その約半分をアーラヤ識の存在論証が占めている。瑜伽行派が打ち立てたアーラヤ識
という新しい用語は瑜伽行派が勝手に作り出した妄言ではなく、仏説にその根拠を求められると証明することに、
多くの文量を割いている。その分、アーラヤ識の性格の説明については、素材は出されているが未整理で
プリミティブな部分が多く見受けられる。
第1章の全体の文量は第2章のおよそ倍である。アーラヤ識説が本書の冒頭に置かれ、またアーラヤ識は特徴的な
用語であるから、第1章は目を引く。しかし、アーラヤ識説はあくまでもその後の三性説を展開するための道具
立てであり、その根底にあるものである。それを以下で確認していく。

2 『摂大乗論』におけるアーラヤ識説

アサンガが『摂大乗論』第1章においてアーラヤ識の性格の定立を行っているのは、14節から28節である。
この箇所を、本稿では以下の構成に基づいて検討する。
1.相の定立
三相(14節)、熏習(15節)、種子(16節)、アーラヤ識と諸存在の関係(17節)、熏習の種々性(18節)、
以上のまとめとしての縁起論(19、20、21節)
2.アーラヤ識詳説
種々の六義(22節)、熏習の四義(23節)、種子の生因と引因(24節)、種子の内と外(25節)、
アーラヤ識と転識(26節)、26節の教証(27節)、縁起論(28節)
以下、筆者自身の実践を理論づける相の定立の部分を中心に詳しく見ていきたい。
アサンガは14節において、アーラヤ識に三つの性格があることを挙げている。それは、「自相」、「因相」、
「果相」の三つである。このアーラヤ識の三つの性格は並列ではなく、相互因果の構造を持つことを、まず初めに
挙げている。

  そこで次には、どのように考えてその相を定立すべきであろうか。
  要約してそれは三種、すなわち自相の定立と、因性の定立と、果性としての定立とである。
  その中で、(1)アーラヤ識の自相とは、あらゆる汚染せる存在から熏習されていることが基盤となって、
  種子を保持し備えていることにより、それ〔すなわちあらゆる汚染ある存在〕が生起するための因相としてあることである。
  またその中(2)因性としての相とは、右のようにあらゆる存在の種子を有するかのアーラヤ識が、それら汚染ある
  存在に対する因性として、あらゆる時に現存することである。またその中の(3)果性としての定立とは、無限の過去以来、
  その同じ汚染ある諸存在から熏習を受けていることによって、アーラヤ識が〔行為の結果として〕起こっていることである。
  (『摂大乗論』第1章14節、長尾 1982,pp.133-134)

因性は玄奘訳原文では「因相」、果性は「果相」と表されている。アーラヤ識の性格(相)に三つあることを示し、
まず初めに自相を挙げるが、自相は因相と果相の相互因果を示しているので、同語反復にも思われる。
しかし、ここで性格を三つ挙げることの意味は、因果関係は相互関係だということを強調することにある。
『摂大乗論』の全体を貫く論理の構造は、三で説明することである。三は並列ではなく、一の中にその他の二が具わり、
二の間で運動が起きていることを示す。ここではこの三の論理で、アーラヤ識と汚染ある諸存在との因果が無限に
繰り返されることを説明している【3】。これはすべての諸存在は外化に向かうことを意味している。相互因果の中で、
絶えず熏習され、絶えず外化していく。それは、アーラヤ識と汚染ある諸存在である転識が、分裂していることにより、
絶えず運動が起きているということである。
 次に15節と16節において熏習と種子が説明される。熏習とは、種子に汚染が染みつくことである。
アーラヤ識が諸存在と同時に生じ滅することで、熏習された種子がアーラヤ識に蓄えられる。蓄えがある条件まで
成長すると外化する。
また、アーラヤ識は種子を蓄えている蔵であるが、熏習された種子がアーラヤ識と一体であったら、アーラヤ識は
固定化してしまい、次なる諸存在の因となることは出来ず、運動は起きない。種子とアーラヤ識は一体となって
固定されているものではない。
続いて、アーラヤ識と転識の相互因果が26節において教証をもって示される。

  それは『中辺分別論』の偈頌に、説かれている如くである。
  一つは〔因〕縁としての識であり、第二は〔現象的な面において〕享受あるもの〔としての識〕である。
  そこ〔第二の識〕には、享受すること、判別すること、および動かすものという、もろもろの心作用がある。
  (『摂大乗論』第1章26節、長尾 1982, pp.169-170)

第一の識はアーラヤ識、第二の識は転識を示している。アーラヤ識は縁起を引き起こす識である。
外化された諸存在は、転識によってまず初めに享受される。感覚で捉えられたものが、意識で判断され、
作用となって動く。この三段階は、感情・思考・行動と言い換えることができると考えられる。
受動から能動に至る運動である。感覚した分だけ、思考することができ、それが行動に表れる。
分裂が運動を引き起こすということを示している。
この理論で筆者自身の実践を説明する。筆者は外界に触れ、様々なことを感覚し、それを「間違っている」と判断し、
引きこもった。外界に触れることが「享受すること」であり、間違っていると思ったことが「判別すること」であり、
引きこもったことが「動かすもの」に当てはまる【4】。
では、より多くのものを享受し、判別し、動かすことはいかにして可能となるか。それは、分裂の度合いが感覚の
度合いを決めているので、分裂を深めればよい。分裂を深めるにはどうしたらよいか。18節では、熏習の結果は
外化されることによってわかるということが述べられている。これは分裂が深まることについて著されていると
考えられる。

  例えば絞り染めをするために布を絞っても、その時にはまだ種々 の色は現れないが、
  これを染料の器に入れるならば、その時、布の上に別々に異なった色が、多数に種々の模様として現れるのである。
  それと同じようにアーラヤ識も、種々雑多な熏習が薫じ付けられてはいても、熏習の段階ではそこに種々〔の〕が
  あるのではなく、結果を生ずべき染料の器の中に置かれたならば、そこに種々雑多の存在が無数に現れるのである。
  (『摂大乗論』第1章18節、長尾 1982, p.145)

ここで示されているのは、熏習し、アーラヤ識に蓄えられた種子は、外化されることによってその熏習の結果を表す
ということである。善因が楽果をもたらすわけではなく、楽果となったものが善因となる。熏習された種子が、
ある段階に達したところで、条件が整った分だけ外化される。
この理論で筆者自身の実践を説明すると次のようになる。筆者が引きこもっている間に、筆者には認識できない
意識下で熏じつけられた種子が変化し、それが外化し、以前は気が付かなかった自分の内面の問題に気付くことができた。
気づくことができたのは筆者にとって楽果であるので、楽果を引き起こした引きこもる行為は善因と位置付けることが
できる。引きこもっている間に、どのようにして条件が整えられていたかは、意識下の変化であるので筆者には認識
できない。問題が外化したことによってはじめて、条件が整えられていたということがあらわとなった。
条件がある段階まで達したら外化する、その条件は認識では知り得ないものであって、自分の意志で外化させることは
できないということを示している【5】。
つづく19節においては、以上をまとめる形となる縁起論が展開される。ここでの縁起には二種があり、
玄奘訳において前者は「分別自性縁起」、後者は「分別愛非愛縁起」と訳されている。 分別自性縁起とは、
アーラヤ識と転識が相互に因となり果となるものそれ自体が生起する仕組みであり、外化の仕組みを表す。
分別愛非愛縁起は、アーラヤ識が非連続的に連続して、輪廻転生を引き起こすことを表している。
以上、『摂大乗論』のアーラヤ識説を検討した。アーラヤ識にあらゆる種子がすべて蓄えられていて、
異熟によってそれが外化する。どう外化するかは異熟によって異なる。ある条件まで発展したところで外化する。
それがまた異熟となる無限の相互関係である。

三 三性説

 1 『摂大乗論』第2章の構成

第2章は、34節から成り、アーラヤ識説の理論を基盤にしながら三性説の説明が展開されている。
本論文では第2章の全体を以下の五つに分類し、これに基づいて検討する。

1.三性1-5節、2.唯識無境(表象のみ)6-14節、3.三性の実存15-25節、4.教説26-30節、
5.その他(三性の直接的な説明はない)31-34節

まず1-5節で世界の実相として三つの相があることを挙げ、6-14節でそれをアーラヤ識縁起とのつながりで説明し、
15-25節でさらに詳細な説明を加えている。
『摂大乗論』第2章の特徴は二分依他説にあり、この論理に『摂大乗論』全体が貫かれている。
以下でそれを検討していきたい。

2 『摂大乗論』における三性説の検討

  次に知らるべきものの相は、如何様に考えるべきか。──それは要略して三種である。
  すなわち他に依る相と、妄想された相と、完全に成就された相とである。
  (『摂大乗論』第2章1節、長尾 1982, p.272)

第2章冒頭にまず初めに挙げられる三性は、玄奘訳ではそれぞれ「依他起性」、「遍計所執性」、「円成実性」と
訳されているものである。『唯識三十頌』など、他の論書では「遍計所執性」、「依他起性」、「円成実性」の
順で挙げられることが多いが、『摂大乗論』では依他起性を初めとする順で挙げられるのが一つの特色である。
この順序も二分依他の論理を表している。これ以降の節においても、三性はこの順序で表される。
続く2節から4節において、三性それぞれの性格が述べられている。依他起性はアーラヤ識に基づく純粋な縁起の
世界であり、依他起性が分別され対象化されると遍計所執性となり、また依り所が無になると円成実性となる。
そして、この三性がどのような関係にあるかを17節で示している。三性は、相互に異なる独立して存在するものではなく、
一つの世界の観点の違いだと説明する。ここでも三の論理で理論づけられている。依他起性は迷いから悟りへの転換
を可能にする根底であるということが示されている。
この直前の16節において、アサンガは我々の現実世界のあり方を解き明かしている。遍計所執性における分別する
ものと分別されるもののそれぞれと、遍計所執性について解き明かしている。

 (1)意識こそは、分別するものである。その性質が分別を具えたものだからである。
  それは〔意識〕自らのことばによる熏習を種子として生じ、またあらゆる表象のことばによる熏習を
  種子として生じている。それ故にそれは無限に種々の形相のある分別として起るのであって、
  〔遍く〕あらゆるものについて構想し分別するという点からして、〔遍き〕分別構想と称せられる。
  (2)他に依るという実存が、分別構想されるもの〔妄想の対象となるもの〕である。
  (3)他に依るという実存が、ある形相をもって分別構想されるとき、それ〔ある形相〕こそは、
  ここに妄想された実存である。ある形相をもって、といったのは、
  「〔あるあり方の〕そのように」という意味である。
  また分別は、どのように分別構想するのか。すなわち何を対象とし、如何なる相を把握し、何に執着し、
  いかにことばとして発言し、如何に世間的な言動をなし、また非存在を存在とするような誤認が如何様に
  なされるのか。──概念(名)を対象として分別するのであり、それ〔概念〕を他に依るという実存の上に
  相として把握し、それ〔相〕を見て執着し、種々に考察を廻らしてことばとして発言し、見たり〔聞いたり〕
  などの四種の言語動作を通じて世間的な言動をなし、また、ものが存在しないのに、〔非存在を〕存在と誤認する。
  これらによって分別構想するのである。(『摂大乗論』第2章16節、長尾 1982, pp.328-329)

以上で、なぜ主体と客体の分裂が起き、認識が起るのかを説明している。
(1)では、意識こそが分裂を引き起こすものだと述べられている。そしてそれは意識の性質が分裂であるからだとされる。
なぜ意識が性質として分裂を備えているか、それは意識自らのことばによる熏習の種子として生じ、
またあらゆる表象のことばによる熏習を種子として生じているからだという。
ことばによる熏習とは、第一章58節においてアーラヤ識の分類として熏習に三種あることが述べられるうちの一つである。
ここでの「ことば」とは、話され書かれる言語ではなく、意識でものを考える際の中心となるものという意味で用い
られている。話され書かれる言語は意識の表象であり、ここでの「ことば」とは異なる。「ことば」は玄奘訳では
「名言」と訳されている。【7】
人間は「ことば」で判断している。感覚で捉えられたものは五識によって享受されるが、そこでは判断は起こらない。
主体が客体を享受する、能取が所取を受用するに留まる。前五識によって受用された感覚は、意識によって判断される。
この時意識の中心にあり、判断をなすのに用いられるのが「ことば」である。「ことば」とは、いわば自分の中に
もう一人の自分がいることだ。
例えば、何かを耳が聞いた時にそれが「人の声だ」と思うのは意識が「ことば」で判断しているからであり、
何かを目が見た時にそれを「机だ」と思うのも意識が「ことば」で判断しているからである。
私を「私だ」と思うのも意識が「ことば」で判断しているからだ。
人間は「ことば」で判断する。「ことば」が概念を生む。私を「私だ」と判断するとき、私と思われている自分と、
私と思っている自分がいる。自分の中に主観と客観の両方が存在している。これが意識の分裂である。
主観と客観を認識し分別を起こすのは、意識が分裂しているからであって、その分裂の中心にあるのは「ことば」
による判断である。
(2)と(3)で述べられているのは、依他起性の純粋な縁起の世界は外化に向かう相互因果の円環構造であり、
全てが外化に向かって進むのがその仕組みであるということである。それが作用し、外化して表象となって
意識に上がってきたものが(1)で述べられるように分別され、遍計所執性となるということである。
酒を飲んだら酔うという仕組みと、実際に酒を飲んで酔っ払うというはたらきが別であるのと同じように、
仕組みとはたらきは別物である。それが依他起性と遍計所執性の関係にも当てはまる。
「また分別は」から始まる段落で述べられていることは、概念を対象として分別し、それが存在の誤認だという
ことである。概念は玄奘訳では「名」と訳される。「名」を対象とするのは意識の働きである。
ここでは、「ことば」に対する不信が述べられている。対象を把握し分別し執着することの中心には「名」があり、
概念があり、「ことばによる熏習」がある。「ことば」によって捉えられたものは分別された世界となる。
真如は「ことば」によっては捉えられない。
しかし同時に、「ことばによる熏習」が無ければ外化は行われないということも意味している。
アーラヤ識を依り所とする純粋な縁起の世界は、「ことばによる熏習」によって外化され、それが因となり
果となってまた熏習される。その無限の繰り返しがアーラヤ識縁起だ。「ことば」は分別しているものであり、
「ことば」で捉えられる表象はすべて分別されたものである。そこには真如はない。真如への到達とは、
「ことば」では達成されないものである。認識とは、分別していることを指す。認識では、純粋な理解は達成されない。
しかし、人間同士のコミュニケーションや、自分の意識を外化させるには、「ことば」の表象を用いなければならない。
アサンガが『摂大乗論』において自らの思想を表した文章も、「ことば」の表象にすぎず、分別されたものである。
言語という表象をもってアサンガの思想が完全に純粋に書かれることは不可能であるし、書かれていることは
アサンガがアサンガ自身の「ことば」による表象を分別したものであるから、二重に分別されている。
だが、自分の思想を自分の内に留めず、他者の目に触れさせることを目的として表現するとき、
「ことば」の表象の形を取る以外に方法が無い。それが人間の生きる現実世界のあり方であるから、
それを認めて、受け入れるしかない。現実世界のあり方を認め、受け入れて、分別し、分別されるのを覚悟の上で、
アサンガは『摂大乗論』を書いたのだと思われる。遡ればシッダールタも、菩提樹の下で悟りに達した後、
それを自分の内に留めずに、説法をして回り、自分の思想を外化させた。外化されたものは、
他者により分別され、それは何十にも妄想が加わることとなる。外化され分別の対象になったものは、
他者に純粋な形で伝わることはあり得ない。しかし、それをわかっていながら、シッダールタは死ぬまで
説法をつづけた。その意味は、自分たちの現実を否定しない、この現実こそが悟りに達する唯一の道だと
いうことなのではないか。そしてそれをアサンガも受け継いでいるのである。
筆者が『摂大乗論』を読むとき、どうしても筆者の解釈を入れて読んでしまう。アサンガの記述を筆者の
解釈に引き付けて読んでしまう。純粋なアサンガの摂大乗論を自分の中に入れようとしても、純粋にそのままを
入れることは難しい。それは『摂大乗論』を筆者が享受し、意識で判別しているから、常に分別が起る。
誤解と伴った理解しか得ることができない。
長尾は意識の分裂を「ことば」と訳したが、これは長尾の分別であり、解釈である。
「ことば」を漢字表記の「言葉」とは表さず、ひらがな表記することによって、従来の意味から異化させよう
とした意図が汲み取れるが、「ことば」というのは何かの表象を示す語であり、真の意味とはズレを感じる。
訳語には訳者の解釈が入るし、原文も著者の解釈なのであるから、玄奘の訳語も、アサンガの原文も真の
意味を表してはいない。そうであるならば、筆者は筆者自身の解釈で長尾が「ことば」と訳したものを
日本語で可能なかぎり自分なりに表現してみる。「ことば」とは自分の中にもう一人の自分がいることであるから、
「ことば」に代わる訳語としてふさわしいのは、「内的二分」ではないかと考える。意識の中心には分裂がある
ということをこの語で示すことができると推測する【7】。
人間の相互理解というのはいつでも不完全なものであり、解釈を伴って、誤解を伴って理解がある。
しかし、誤解ばかりでまったく理解とはかけ離れていくわけではない。誤解を伴いながら、少しずつ理解を
深めていくことができる。それはなぜか。それを証明するのが三性説の二分依他説である。

  他に依る実存は、妄想されたという一分のあることによっては、輪廻なのであり、その同じものが、
  完全に成就されたという一分によっては、涅槃でもあるからである。
  (『摂大乗論』第2章28節、長尾 1982, pp.373-374)

  他に依る実存の中に、妄想された実存があり、汚染分に属する。
  完全に成就せる実存もあって、清浄分に属する。他に依る実存そのものは、それら二分を有するものとしてある。
  このことを意趣して、世尊は説かれた。(『摂大乗論』第2章29節A、長尾 1982, p.376)

 依他起性が二分を有するのは、それが分裂の仕組みを持っているからである。
転識とアーラヤ識が分裂し、その二つが相互因果のはたらきをして、アーラヤ識に蓄えられた種子が転識に外化し、
それがまた熏習されてアーラヤ識に蓄えられるという無限の循環を続けており、それはすべてが外化に向かう
運動として捉えられる。純粋な縁起の世界は、固定化されず、常に流れている。その仕組みで種子が外化し、
表象として分別され執着されたとき、それは妄想となり、依り所がアーラヤ識から智へ転回すると円成実性となる。
そのことを、次節29Bで「金が含まれている土塊」の比喩を用いて説明している。 土塊の中の土と金の分裂を
例えたものであるが、金が含まれている土塊は物質であるから、意識を持たない。あくまでも比喩であり、
現実的ではない。意識を持つものの例として、代わりに、二分依他を筆者自身の実践に置き換えて考察する。
 これまで置き換えて説明してきたように、人間である筆者は、現象世界で汚染に囲まれて生きている。
人間が汚染を汚染だと気が付くのは、意識が分裂しているからであり、それはすなわち意識の中に清浄と汚染と
を持っているからである。意識の分裂によって、現象世界の表象を認識している。なぜ人間には意識の分裂が
起っており、自分の中に清浄も汚染も持っているのか。それは先天的に備わっている能力だからである。
人間だけに意識の分裂が起る。その意識の分裂の最も深まった表象として、人間だけが言語を使用する。
それが人間に具わっている性格であり、現実である。この分裂の仕組みが依他起性である。汚染を汚染だと
思うのは、人間が依他起性の仕組みを持ち、分裂が絶えず運動を起こしているからである。絶えず運動して
いるからこそ、分裂は変化の可能性を持つ。依他起性は、遍計所執性にも、円成実性にも変化する可能性を持つ。
その仕組みを二分依他説は説明している【8】。
こうして、筆者の実践は唯識によって理論づけられた。なぜ人間は問題に気付き、それを解決しようとするのか、
それは人間が分裂の仕組みを備えているからである。分裂が外化に向かって運動を起こしているからである。
では、問題を解決するとはどういうことか。何を意味するのか。

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