5月 12

2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
 この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。 

1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―  中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」との関係 中井浩一

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名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―
         中井浩一

目次
1.関口存男の冠詞論と闘う
2.定冠詞論のむずかしさ
3.冠詞論とは名詞論である
4.名詞論としての定冠詞論
5.名詞が抱え込んだ矛盾
6.附置規定の主述関係
7.言い換えにおける名詞の分裂 →本日5月12日
8.名詞の発展の3段階
9.名詞こそが運動している
10.関口の生き方

                                       
7.言い換えにおける名詞の分裂

「後半 間接に規定される場合の定冠詞」では、いわゆる言い換えが問題とされる。
第六章 前文の既出概念または文局そのものを間接規定とする場合
第七章 前文の既出概念または当面問題になって来た概念を換言する場合
がそれである。

関口のすごさは、こうした言い換えのすべてに、主述関係があると看破したことである(288?)。これには一瞬、何を言っているのかわからず虚を突かれた。
前に出された名詞、観念、イメージを、次に「受けて」他の名詞で言い換える。この時、後者は前の名詞を含んでより一般化された名詞であることを関口は示す。前に出された名詞、観念、イメージは主語=特殊で、それを「受ける」名詞は述語=普遍と考えられるのだ。したがって、ここにもまた、名詞の分裂が起こっており、普遍と特殊の分裂がおこっているということになる。

「既出概念と,それに結びつけて導入される関係概念との間には,一方が問題になった以上は期せずして他方もまた同時に問題となる,と云ったような,密接であると同時に自然な連関がなければならない」。
「Aというと,考えはさしずめBに飛ぶといったような連想円滑性がなければならない。此の連想円滑性を仮に『さしずめ性』と呼ぶならば,『さしずめ性』こそは,人間意識の表面の機構そのものと云ってもよいほど重要な意識形態(或いは関心形態)で,従ってまた重要な意味形態である(如何となれば言語という現象はVerstehenという現象のそのままの反映なのであるから)」。(以上263ページ)
関口はハイデガーがこの「さしずめ性」を思考の根源としていると、説明する。

5月 11

2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
 この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。
 
1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―  中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」との関係 中井浩一

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名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―
         中井浩一

目次
1.関口存男の冠詞論と闘う
2.定冠詞論のむずかしさ
3.冠詞論とは名詞論である
4.名詞論としての定冠詞論
5.名詞が抱え込んだ矛盾
6.附置規定の主述関係 →本日5月11日
7.言い換えにおける名詞の分裂
8.名詞の発展の3段階
9.名詞こそが運動している
10.関口の生き方

                                       
6.附置規定の主述関係

関口は「第1篇 前半 直接に規定される場合の定冠詞」と「第1篇 後半 間接に規定される場合の定冠詞」において取り上げられる名詞のすべてにおいて、そこに主述関係を見抜いていこうとする。

「第1篇 前半 直接に規定される場合の定冠詞」では特に附置規定が問題になる。

冠置規定と附置規定の区別は以下である
daßchöne Mädchen (冠置規定)
das Mädchen schön  (附置規定)

関口は言わないが、この冠置規定と附置規定のいずれにも以下の主述関係が伏在している。Das Mädchen ist schön.

日本語でも同じで
白い雲が? 冠置規定
雲の白きが? 附置規定
この冠置規定と附置規定のいずれにも以下の主述関係が伏在している
「雲が白い」。

関口はこの附置規定の分析から始める。最初は、名詞が附置になる場合が取り上げられる。

「掲称的附置」
das Tier Mensch(人間という動物 )
der Begriff Staat (国家という概念 77ページ)が例である。下線部が附置規定

関口は、ここに Der Mensch ist ein Tier. Der Staat ist ein Begriff.という主語・述語関係(判断)、命名文が伏在する(内在する)と考える。
また、関口はこれを、名詞の特殊(個別)〔主語〕と普遍〔述語〕の2つの名詞への分裂として考える。(以上135,6ページ)
「人間(特殊)は動物(普遍)である」。「国家(特殊)は概念(普遍)である」。
私は、この「掲称的附置」は、命名文(判断)による名詞の分裂と統合を繰り返した中から、生れたものだと推測する。

このder Begriff Staat は、der Staat als Begriff であり、der Begriff des Staatesと2格(掲称的2格)で表現することもできる。ここにも主述関係がある。

この「掲称的2格」からは、2格が名詞の分裂を統合する役割を持つことがわかる。ここに「2格」の生成の意味があるのではないだろうか。
関口はさらにこのMenschやStaat を「人間ということ」「国家ということ」という掲称(概念を概念として際立たせる)としてとらえ、これを名詞だが、「省略された文章としての語局」ととらえる。こうして名詞から文章が生まれ、名詞を規定するdaß節が生まれるのだ。(関口は、dasからdaßが生まれたと推測している)
関口は、このdaß節とdaß節に規定される名詞との関係が並立関係から従属関係(主述関係)になることを説明する。これが主文と従属文への分裂の生成である(146、7ページ)。
関口は、名詞に文章が含みとして内在し、そこから主文と従属文への分裂が生まれることを示した。これによって、文が無限に立ち現われる可能性を証明した。この点で、関口はヘーゲルの判断論を超えていると思う。ヘーゲルは、文からなぜ複文が生まれるのかを示せていない。
関口は、西洋合理主義の生成を、このdaß節に規定される名詞との関係が並立関係から従属関係(主述関係)になったこと、つまりdaß節の独立に見ている。「客観化」「事実関係を事実関係として主観から独立せしめる」ことから科学精神が発生した、と説明するのだ。これは非常に面白い。
さらに関口は、ハイデガーがこのA als Bととらえる能力を、人間の論理的思惟の最も根源なものとしている(die Als-Struktur der Auslegung 147)ことを紹介する。

関口は、「第1篇 前半 直接に規定される場合の定冠詞」の「附置規定」を「掲称的附置」「掲称的2格」から始めるが、その後名詞を規定するものとしてdaß節、zuを含む不定句と述語句、関係節の順番に検討していく。これは名詞との主述関係が強い順で、zuを含む不定句と述語句は中間形態で、関係節では主述関係はなくなる。これによって関口は、名詞の分裂の基本が主述の関係、特殊(個別)と普遍の分裂であり、他の関係はそこから派生したものであることを示しているのだと思う。

 なお、ここで関口が示した主述関係の伏在、普遍と特殊への名詞の分裂と統合が内在化した形態は、日本語では助詞のノとガが担っている。(ただし、助詞のノとガの原始的な姿に特に多く見られるので、例は上代語にかたよっている)

○の○ 花の美しき、我が背の君、花の生涯、雲の青雲、花の咲けば、
○が○ 嵐が丘、自由が丘、私が読んだ本

 ちなみに、主述関係が伏在ではなく明示されるのは、普通の判断文であり、関口はそれを不定冠詞論で扱う。それに対応する日本語の助詞はハである。

5月 10

2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
 この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。
 
1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―  中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」との関係 中井浩一

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名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―
         中井浩一

目次
1.関口存男の冠詞論と闘う
2.定冠詞論のむずかしさ
3.冠詞論とは名詞論である
4.名詞論としての定冠詞論
5.名詞が抱え込んだ矛盾 →本日5月10日
6.附置規定の主述関係
7.言い換えにおける名詞の分裂
8.名詞の発展の3段階
9.名詞こそが運動している
10.関口の生き方

                                          
5.名詞が抱え込んだ矛盾

「名詞とは何か」についての関口の考えがまとまっているのは『不定冠詞』182?186ページだ。それをもとに、私流に説明する。

(1)世界は運動し流動している。しかし、それをそのままにとらえることはできない。動いている世界を、物として静止させ、物化し固定化してとらえたのが名詞である。
「本来は流動的であり融通的であるはずの達意(「世界」と受け止めたい。中井)をも、流動をとどめ融通をさえぎって凍結せしめる、これが名詞の機能である」。
(2)運動を静止したものとしてとらえるのは、矛盾である。だから名詞は矛盾の塊だ。
名詞は一方では運動そのものを内に含みこみながら、それを強引に閉じ込めている容器のようなものだ。原子炉をイメージするといいと思う。内部では核分裂が激しくおこっているが、その放射能が外に出ないように押し込めようとしている。それには相当の無理があり、爆発、暴発も起こる。
(3)名詞は、運動するものを固定化するという矛盾そのものだ。そこで、名詞は実際にはさまざまな運動を引き起こす。そこに、さまざまなニュアンス(「含み」)や表情が生まれ、そのニュアンス(意局)を直接に表に現すのが冠詞なのだ。
(4)冠詞は冠詞そのものに機能があると言うよりも、名詞の運動の結果として生れた機能なのだ。これは日本語では「テニヲハ」の助詞である。
(5)名詞の矛盾は運動を生む。それは第1に、名詞の分裂と統合、つまり判断であり、関口が定冠詞論で説明しているようなさまざまな主述関係の伏在する関係を作り出す。
(6)この名詞の分裂と統合の運動から、名詞の格、語尾変化。冠詞、前置詞などの他の品詞。動詞、形容詞などは、その変化をも生み出す。文も、複文も名詞から生まれる。
  (名詞の分裂と統合の運動から動詞が生まれたことについては、別稿「判断の『ある』と存在の『ある』との関係」を参照されたし)
(7)言葉の始まりは名詞であり、名詞からすべてが生まれたのだ。

関口が人生の最後に総力を挙げて取り組んだのが冠詞論だったことの意味は重いと思う。関口がやっているのは事実上の名詞論だ。しかし名詞を名詞としてとりあげて、いくらいじくりまわしても名詞の本質は見えない。その本質は文における他の語句との関係に現れ、その関係(関口のいう語局)を端的に示すのが冠詞だ。だから関口は冠詞論によって、名詞の本質に迫ろうとしたのだ。

関口と私との大きな違いは以下だ。
関口自身は、人間の認識と対象世界の区別をしない。したがって関口自身は、世界の流動性ではなく、言語表現の流動性に着目し、名詞以外のすべての品詞が流動し、流動の達意を表現する、ととらえる。その中に「ただ一つ流動しないものが言語の中にある。流れに押されて動きはするが、それ自体は流動せず、万象流転の言語現象に抗するかのごとく、固く結んで解けず、凝として凍って流れず」。それが名詞だという。「本来は流動的であり融通的であるはずの達意をも、流動をとどめ融通をさえぎって凍結せしめる、これが名詞の機能である」。
私は、対象世界を人間の思考でとらえた(反映させた)のが認識の世界だと考える。したがって、世界の流動性に「抗するかのごとく、固く結んで解けず、凝として凍って流れ」ないのが名詞だと考える。「本来は流動的であり融通的であるはずの世界(中井が変えた)をも、流動をとどめ融通をさえぎって凍結せしめる、これが名詞の機能である」。しかし、それは矛盾だから、名詞は運動する。そして、言語表現の中では、名詞こそが運動し、その運動からすべての他の品詞、他の品詞の活動が生まれたと考える。名詞以外の他の品詞が流動するのは、名詞の矛盾と運動に、すべての根源があるのだ。

 上記の名詞についての(1)から(7)の考えを前提として、関口の定冠詞論(名詞論)の核心部分を説明しておく。 

5月 09

2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
 この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。
 名詞論(定冠詞論)それ自体のまとめ(「名詞がすべてである」)と、「判断の『ある』と存在の『ある』との関係」は、合わせて読んでいただきたいと思う。
 
1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―  中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」との関係 中井浩一

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名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―
         中井浩一

目次
1.関口存男の冠詞論と闘う
2.定冠詞論のむずかしさ
3.冠詞論とは名詞論である →本日5月9日
4.名詞論としての定冠詞論 →本日5月9日
5.名詞が抱え込んだ矛盾
6.附置規定の主述関係
7.言い換えにおける名詞の分裂
8.名詞の発展の3段階
9.名詞こそが運動している
10.関口の生き方

                                      
3.冠詞論とは名詞論である

今回は、私が関口の定冠詞論から学んだことの大枠を、できるだけ簡潔にまとめておく。ただし、私が理解した限りでの関口の冠詞論(名詞論)であり、関口自身が実際に表現したものとは違う。私が関口の真意(ヘーゲル的に言えば「真理」)としてとらえたものだ。本来は、関口の実際の説明と、私が捉えなおした説明は区別するべきだし、なぜ私がそう理解したかを説明する必要がある。
また、私にとっての前提は、ヘーゲル論理学の判断論であり(メルマガ183?187号参照)、アリストテレスの形而上学であり(メルマガ199?202号参照)、野村剛史の日本語学である(メルマガ175,176号参照)。それらがなければ、関口との戦いを最後まで戦いきることは不可能だったろう。したがって、それらの説明も必要だ。
しかし、そうした検討作業や説明は、今回は省略する。関口「名詞論」の核心だと思うことをまとめて示すことを優先したいからだ。

関口の冠詞論は、全体として名詞論になっている。この「含み」を言葉にすれば、言語とは名詞に他ならないということになる。すべての始まりは名詞にあり、他のすべては名詞の本質、名詞の運動から生まれた。名詞の格、語尾変化。冠詞、前置詞、動詞、形容詞などの他の品詞。動詞や形容詞などの変化をも含めてそうだ。文も、複文も名詞から生まれる。それは壮大な名詞一元論である。

関口は、名詞を判断として、つまり主述関係に分裂、また主述関係として統合する運動として、つまり個別(特殊)〔主語〕と普遍〔述語〕への分裂と統合としてとらえる。このことを普通の文、つまり判断の文で検討しているのが不定冠詞論である。

関口は定冠詞論でも、名詞を主述関係に分裂、また主述関係として統合する運動としてとらえようとする。それを「規定される名詞」におけるすべての場面で確認し、その意味を名詞の本質から解き明かそうとする。その徹底性、執拗さ、強靭さには、驚嘆させられる。

                                       
4.名詞論としての定冠詞論

関口が定冠詞論でやったことを、まず簡単に説明する。
定冠詞論の全体は次のように構成されている。

第1篇 指示力なき指示詞としての定冠詞
第1篇 前半 直接に規定される場合の定冠詞
第1篇 後半 間接に規定される場合の定冠詞
第2篇 通念の定冠詞
第3篇 形式的定冠詞
1章と2章 示格定冠詞(1)、(2)?固有名詞その他
3章以下は 温存定冠詞

関口は「第1篇 前半 直接に規定される場合の定冠詞」と「第1篇 後半 間接に規定される場合の定冠詞」において取り上げられる名詞、つまり名詞が規定されるすべての場合において、その規定部と規定される名詞の関係に主述関係を見抜いていこうとする。ここは圧巻である。
規定される名詞において、その規定部と名詞の関係に主述関係を見ていくことで、関口は何を明らかにしようとしているのか。関口が示そうとしたのは、名詞が個別(特殊)と普遍へと分裂し、またそれを統合する運動であること、つまり名詞がヘーゲル論理学でいうところの「普遍→特殊→個別」へと発展することだと思う。それによって、名詞とは何かを明らかにするためだ。

そして、一般に名詞そのものの発展を「普遍→特殊→個別」としてとらえ、整理しようとしたのが「第2篇 通念の定冠詞」だろうと考えた。
では「第3篇 形式的定冠詞」は何か。ここでは、名詞の「特殊な場合」を取り上げて、それまでの説明方法で、特殊現象をも解明しようとしている。
1章と2章の「示格定冠詞」では名詞の格の意味、名詞が直接他の品詞に移行する場合、固有名詞、名詞の凍結などが取り上げられ、3章以下の「温存定冠詞」では前置詞+名詞で、さまざまな品詞になる場合の名詞を取り上げる。ここは前置詞論であり、名詞は名詞でなくなろうとしている。

以上から明らかなように、定冠詞論は冠詞論というよりも、名詞とは何かを明らかにしようとする名詞論なのである。ではそれが冠詞論とされているのはどういうことか。
これを示すには関口のとらえた「名詞とは何か」の核心部分を理解しておく必要がある。

5月 08

2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
 この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。
 名詞論(定冠詞論)それ自体のまとめ(「名詞がすべてである」)と、「判断の『ある』と存在の『ある』との関係」は、合わせて読んでいただきたいと思う。
 今回は、私が理解したことのアウトラインだけをまとめた。詳しい検討や考察は、後日に期したい。

1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―  中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」との関係 中井浩一

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名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―
         中井浩一

目次
1.関口存男の冠詞論と闘う →本日5月8日
2.定冠詞論のむずかしさ →本日5月8日
3.冠詞論とは名詞論である
4.名詞論としての定冠詞論
5.名詞が抱え込んだ矛盾
6.附置規定の主述関係
7.言い換えにおける名詞の分裂
8.名詞の発展の3段階
9.名詞こそが運動している
10.関口の生き方

                                     
1.関口存男の冠詞論と闘う

2010年6月から関口の『不定冠詞』を読み始め10月に読み終えた。『定冠詞』から始めなかったのは、『定冠詞』の方が難しそうだったのと、判断の形式を直接に問題にしているのは『不定冠詞』であり、それを早く読みたかったこと、さらに関口自身が「空想」「仮構性」に強くのめり込んでいて、それこそが不定冠詞の役割なので、おもしろく読めそうだったからだ。実際に、楽しく、おもしろく読めた。
2011年1月から『定冠詞』を読み始めたが、これにはてこずった。関口のアプローチが、まったく独自のもので、彼のやっていることの意味が分からなかったからだ。特に「第1篇」は数回読み直した。何とか関口がやっていることの意味が見えてきたが、「第2篇」でも、「第3篇」でも、また関口のやっていることがわからなくなり、その意味を考えながら進めた。そしてやっと今年(2013年)4月1日に読み終えた。
途中でギブアップすることなく、一応、関口の定冠詞論の山頂まで自分なりに登りきれたと思っている。
定冠詞論で理解したことをもとに、この4月8日から再度『不定冠詞』を読み直し始めている。そして最後に『無冠詞』を読むつもりだ。
『不定冠詞』を久しぶりに読み直すと、関口が余裕をもって、読者サービスに務めていることがわかる。面白く、わかりやすいのは、豊富で深い日本語の理解と、関口自身の家庭の内輪ネタなどの例示が滅茶苦茶リアルで面白いからだ。それは関口が不定冠詞を、深く的確につかみきっているから可能なのだと思う。
それに比べて、『定冠詞』には関口の遊びや余裕は、あまり感じられなかったことを思い出す。関口自身が必死で取り組んでいて、私たちも息苦しくなってくるほどだった。
今回は、定冠詞論を読んで考えたことをまとめておく。すでに不定冠詞論と定冠詞論を読み、定冠詞論の中に凍結的意局として無冠詞論の説明があったので、関口の冠詞論の全体像はある程度つかめたと思っている。
(本稿では説明の簡潔さのために、関口の『冠詞』の第1巻定冠詞篇と第2巻不定冠詞篇をそれぞれ『定冠詞』、『不定冠詞』と呼ぶ。また、その内容はそれぞれ、定冠詞論、不定冠詞論と呼ぶ)

                                           
2.定冠詞論のむずかしさ

定冠詞論にはてこずった。その理由は2つある。
第1に、関口の世界の巨大さ、深遠さだ。彼はどえらいことを考えている。
私は世界の言語学者の中で関口が断然トップ、他から超絶した巨人だと思うようになっている。
第2に、関口が、自分の考えを、的確には表現できていないこと
 関口は全く他から孤立し、ただ一人で、エベレストに挑んだ。
彼が武器にしたのは、ハイデガー哲学だった。これが不幸だったと思う。関口を読めば読むほど、彼の仕事とヘーゲルの論理学が重なってくる。しかし関口はヘーゲル哲学、そこに集約されているアリストテレス以来の哲学史の総体から、自覚的に徹底的に学ぶことをしなかった。
 そのために、その言語のとらえ方には大きな欠陥があり、用語や表現にも混乱や未整理な部分がある。個々には圧倒的に鋭い洞察があるものの、全体の中での個々の位置づけを見失いがちだ。