8月 29

日本画(南画)に洋画を止揚した男 萬鐵五郎 

近代の日本の洋画家で、私が特別に愛しているのが萬鐵五郎だ。

彼の回顧展が神奈川県立近代美術館 葉山で「没後90年 萬鐵五郎展」として開催されている。
会期は9月3日(日曜) まで。その後、新潟県立近代美術館に巡回。

8月27日に、海水浴客でにぎわう葉山まで行ってきた。
ただ、萬鐵五郎に向き合い、彼と対話をしてくるためである。

今回の展覧会は、過去最大の規模であった。
それは量の話だけではない。
1つ1つの作品の制作過程を、彼が撮った写真、デッサン、下書きや下絵からたどったり、
1つのテーマ(構図)が繰り返し、繰り返し、時を置き、現れてくる様子が示されていて、
あれこれと考えさせられた。

特に、今回の展示のポイントは、彼の日本画(南画)に焦点を当て、
子どものころから最後の作品に至るまで、
その決定的な役割を解明しようとしているところだ。
私は彼の南画が特別に好きなので、それをこれだけの規模で見られることが嬉しかった。
確かに「過去最大」規模である。

すでに361号に「日本画・東洋画と洋画と」を掲載し、そこに私の想いは書いているのだが、
今回改めて、彼の洋画と日本画が統合されていく過程が確認できた。

今回その全体を見渡して思ったのは、
萬鐵五郎にとっての洋画と日本画(南画)の統合は、
洋画に南画を止揚したのではなく、
南画に洋画を止揚したということだ。それがそのまま彼の洋画の作品なのだ。

なんというすごい、すばらしい人だろうか。

                         2017年8月29日

1月 31

2015年11月14日から16日まで広島を旅した。掛君が同行した。

15日午前には福山市の広島県立歴史博物館(企画展「頼山陽を愛した女流画人平田玉蘊」)、福山市美術館。午後には広島市の頼山陽史跡資料館(頼山陽史跡資料館開館20周年記念特別展「風流才子の交わり」 ?頼山陽と田能村竹田を中心に?)、広島原爆ドームと平和資料館。
16日は終日、下浦刈島で蘭島文化振興財団の事務局長の取材と2つの美術館などの文化施設を回った。ここは「歴史と文化のガーデンアイランド 下浦刈島」としてサントリー地域文化賞を受賞している。取材は、地域資源経営を考えるヒントになると思ってのもの。
下浦刈島に行ったのは、蘭島閣美術館(秋季特別展『靉光とゆかりの画家たち』)、三之瀬御本陣芸術文化館(『須田国太郎の足跡をたどる』)の展示を見たかったのだが、 靉光や須田の絵画がなぜどのようにして、ここに集まっているのかを知りたかった。
下浦刈島の蘭島文化振興財団については別稿にまとめることにし、今回は、広島県立歴史博物館の常設展示と企画展を見て回り、企画展では学芸員さんに教えてもらったこと、そこから考えたことをまとめておく。

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◇◆ 文化意識と国防意識と  中井浩一 ◆◇

(1)菅茶山と平田玉蘊

福山市の広島県立歴史博物館の企画展「頼山陽を愛した女流画人平田玉蘊」を見た。
学芸員の方に案内をしてもらい、江戸時代後期・文化文政期の日本の文化状況を教えてもらった。それは面白く、刺激的だった。

平田は尾道の豪商の娘だったが、当時すでに尾道や福山、神辺、竹原、広島などを結ぶ地域の文化のネットワークがあり、
その文化センターが神辺(現在の福山市内)の儒学者・漢詩人の菅茶山(1748?1827)であった。
菅茶山は当然ながら、平田玉蘊(1787?1855)のパトロンであり、庇護者、支援者であった。
頼山陽(1781?1832)も、若き日に放蕩三昧で実家を追い出され、菅茶山のもとにおいてもらっていた時期がある。
そこで頼と平田は出会ったらしい。2人は恋に落ちたが、悲劇的な別れが待っている。
その後、平田は尾道を拠点にして職業画家として生きたらしい。

そして、平田にとっては、菅茶山はつねに変わることない庇護者だった。
例えば、平田が伊藤若冲や蠣崎波響などの作品の模写をしているのだが、その事実は菅茶山が当時の文化の最先端の絵画を所有し、それを平田が自由に閲覧できたことを物語っている。
この歴史博物館には菅茶山関係の資料が集まっており、その解読、分析が進んでいる。

(2)全国各地と地域を結ぶ文化のネットワーク

当時の日本には、全国各地と地域を結ぶネットワークができあがっていた。知識人、文化人のネットワークの完成である。
それがそのまま政治、文化に関する情報ルートとなっており、文化に関する多様な情報も、そのネットワークを通じて全国に流れていた。
 中央には江戸の知識人たちがいるのだが、幕府のトップである松平定信(1758?1829)自身がそうした全国的な文化のネットワークの中心にあり、
そのネットワークの完成者として自覚的な動きをしている。各地の文化のセンターたる文化人たちはその事業の協力者だった。

 例えば、『集古十種(しゅうこじっしゅ) 古画肖像之部』の刊行である。集古十種は、日本全国の古美術の木版図録集(目録)であり、
1859点の文物を碑銘、鐘銘、兵器、銅器、楽器、文房(文房具)、印璽、扁額、肖像、書画の10種類に分類し、その寸法、所在地、特徴などを記し、模写図を添えたものだ。
その編纂は松平定信を中心に柴野栗山・広瀬蒙斎・屋代弘賢・鵜飼貴重らの学者や家臣、
画人としては谷文晁、喜多武清・大野文泉(巨野泉祐)・僧白雲・住吉廣行・森川竹窓などによって4年の歳月を掛けて行われ、
寛政12年(1800年)に第一次の刊行がなされた。
絵師らは奥州から九州まで全国各地の寺社に赴き、現地で書画や古器物を写しとった。
現地調査以外に直接取り寄せることや模本や写本を利用することもしている。(以上の集古十種の説明はウィキペディアに依っている)

 この編集作業のための全国各地の協力者たちがいた。それが当時の知識人、文化人のネットワークであった。
その背景には、国防意識やナショナリズムの高揚があったようだ。当時、日本各地にヨーロッパ列強の影が現れていた。
ロシアが南下を開始し、北海道に迫っていた。オランダに代わって、フランスやイギリスがその勢力をまし、日本沿岸に現れていた。
日本を舞台にしてそれら列強が覇権を争うような事態も想定できた。その対策に当たったのが松平定信だった。
彼は、当時の最大の文化人の1人として、国防意識と文化意識が一体となった事業を遂行していった。
国防意識やナショナリズムの高揚と地方の文化振興策は一体となって進んだようだ。

(3)尾道、福山、神辺、竹原、広島、三原などを結ぶ文化のネットワーク

各地の拠点はその地域での文化の広がりや浸透に大きな役割をはたした。
そこに文化の保護者、パトロンの存在があり、各地の自立性があった。

西日本の一大センターが福山の神辺の菅茶山だった。それは四国、九州、中国地方におよぶ大きな文化圏を形成していた。
広島だけでも、尾道、福山、神辺、竹原、広島、三原などを結ぶ文化のネットワークがあったことは、歴史的にもうなずける。

そうした中に、頼山陽や平田玉蘊が生まれ、九州の田能村竹田らとの交流も保障されているようだ。
尾道は商業都市として経済的に栄え、都市としての自立性もある程度持っていたようだ。
平田玉蘊の父親がそうだったように文化的なパトロンも多く、田能村竹田はそうした後援者のもとを何度も訪ね、ある年は半年も滞在している。

そうした伝統は近代、現代になっても続いているように思った。
私の大好きな画家・須田国太郎のパトロンがいたし(その1人は岡林監督の父〔開業医〕だったらしい。福山にも彼の支援者たちがいた)、
彼の親友だった小林和作は尾道が気に入って住み着いてしまったのだが、後に尾道の文化のセンターとして地域のボス的存在にまでなっていたらしい。
小林は須田の絵画の販売や保護、文化的な位置づけまでを決定する役割を果たしている。

(4)文化の成熟と国防意識

私は若いころは日本文化を低く評価していた。ちまちまとまとまっていることが嫌だった。
洗練はあっても激しさや強靭さが弱いと思っていた。ハチャメチャで激烈で広大な世界こそがあこがれだった。

しかし、今は少し違っている。日本文化の総体に、文化の成熟、爛熟、高い美意識を見出し、それを評価するようになったのだ。
この「日本文化の総体」という意識は江戸時代の後半に成立すると思うが、それは日本人の自己意識の深まり、日本文化の総体の反省の上になりたっていると考える。
それが日本文化の成熟、爛熟をもたらしていると思う。

こうした日本人の自己意識の深まりは、過去の作品の収集と整理、その分類から始まる。
そうした作業の1つが集古十種の編集作業だったろう。江戸時代に手鑑(てかがみ)の類が多数作成されたのもその現れだろう。
手鑑とは数多くの古筆・名筆を鑑賞する目的で作成された手(筆跡のこと)のアルバム。
奈良時代から南北朝・室町時代の各時代にわたる古筆切が、台紙に一枚から三枚ほどが貼り付けられ、その台紙を50枚ほどつなげて、帖(じょう)に仕立ててある。
ここにあるのはコレクション、編集・編纂、異文化のコラボ、プロデュースの意識である。
そしてその強烈な自己意識は他者意識との響き合いで強まり、高まる。
その背後には諸外国の影と国防意識やナショナリズムの高揚があったことを今回、意識した。

(5)「海の道」

 福山市の広島県立歴史博物館は、美術館ではない。それがこうした女流画人の企画展を行うのも面白い。
ここでは学芸員が全員まわりもちで、企画展を実施するようにしているのだ。
これは福山市の市立美術館でも同じだった。そうしたことに感心する。

そもそもこの博物館は、福山市の草戸千軒町遺跡の発掘調査の成果を展示するために生まれた。
草戸千軒とは、福山市街地の西部を流れる芦田川の川底に埋もれた中世の集落跡である。それは中世の瀬戸内に栄えた港町・市場町であった。
今もこの常設展では、その港町・市場町の様子が再現され、遺物や関連資料が展示されている。
ここ瀬戸内海は古くから九州と近畿地方とを結ぶ物品と文化の大動脈だったのだ。その交易の様子なども展示されていた。
そうした展示を見ながら、「海の道」を強く意識した。
私にとっては陸の道が普通であり、空の道が例外で、海の道には縁が薄いのだが、近世までは海の道こそが中心だった。
瀬戸内海はその意味で、物流と文化の基幹道路だったことに目が開かれた気がする。
瀬戸内海の拠点は、そうした意味での拠点群であり、尾道もその1つだったのだ。

4月 09

2015年1月17日から19日まで、尾道に滞在しました。

目的は須田国太郎と小林和作の絵画を見ることと、大林監督の尾道3部作のロケ地めぐりにありました。

須田国太郎の絵は近代の日本の画家の中で私が特別に愛しているもの。
彼の絵を見ていると、私の末梢神経から体全体へと強い快感が広がるのです。
それがどこから来るのかよくわかりませんが、とにかく大好きな画家です。

小林和作は須田の親友です。須田の文章で初めて知りました。
須田がその人物と画に惚れ込んでいることがわかり、一度その実物を見てみたかったのです。
小林は尾道を拠点にしていて、尾道の文化全般に大きな影響を与えた人なようです。

小林の遺族がその絵画などを市に寄贈していて、それをもとに1980年に尾道市立美術館が生まれています。
今回、尾道に行ったのは尾道市立美術館所蔵の小林の絵画がこの時期にまとまって公開されていたからです。

また、運よく同時期に尾道の隣の福山市のふくやま市立美術館で「須田国太郎と独立美術協会」の展示を行っていて、
そこで須田の作品を数多く(20点ほどありました。小林も3,4点)見ることができました。

須田国太郎と小林和作について、今回考えたことをまとめておきます。

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◇◆ 須田国太郎と小林和作 ◆◇

(1)須田国太郎と彼の親友小林和作の深い交流が確認されました。

須田は尾道によく来ていたようです。2人で共作して楽しんだ作品もありました。
福山市の神辺町には大林、村上という須田作品の大蒐集家がいて、それも須田が福山や尾道によく来ていた理由のようです。
大林、村上氏のもとにあった須田作品が、寄贈、寄託などで、ふくやま美術館に収蔵されていて、今回の企画展も可能だったのです。

(2)2人が親友になったこと。

須田と小林が知り合ったのは、独立美術協会に誘われて入会したのが同時期だったことのようです。そこで意気投合したらしい。

須田は京大で西欧の絵画理論を学んだ研究者。それがその理論を実践で確証しようとしているうちに画家になってしまった変わり種。
西欧留学でも、パリではなくスペインのプラド美術館に通い模写に没頭したらしい。帰国後個展を開くがすでに40歳をこえていました。

小林は京都で日本画を学ぶが、その後洋画に移り、風景画家として世に出たのが40歳をこえていました。
ともに特異な経歴であり、世に出た時に2人がすでにおっさんであったことも、2人を結びつけたのでしょうか。

時代は、西洋絵画と日本画の総合、日本人が油絵を書くことの意味が問われていました。
須田の絵には、根底に日本的な精神性、水墨画の精神があると思います。彼は能の謡や舞にも入れ込んでいて、舞台のスケッチも多数あります。
今回の「須田国太郎と独立美術協会」に、長谷川等伯の冬の松図のように墨で書かれた屏風絵がありました。小林などのアドバイスも加わっているようです。

小林には南画風の精神が横溢しているように感じます。ユーモラスでありながら、核心をつかむ能力と、強靭なふてぶてしさがあります。
それは今回購入して読んだ彼の文集『和作 花咲く 花咲爺』からもわかります。

日本の精神性の上に、油絵を描くというようなあり方が2人を結びつけたのでしょうか。
しかし、2人は同じ日本と言っても、水墨画と南画というある意味では対極的なありかたでした。
だからこそ、惹かれあったのでしょうか。

(3)須田の絵画の秘密
 須田の絵画は、精神としては水墨画なのだと思います。
 彼の画面は、クリーム色の肌合い(マチエール)がたまらなく心地よいのですが、その意味がよくわかりませんでした。

 一方で、彼の画面は黒が支配していて、全体が黒々としていることが多いのです。
その黒の意味を考えました。それは水墨画と同じで、黒の中にすべての色があるのではないか。
黒はすべての色を吸収した結果ですから、すべての色を内に含んでおり、それが外化します。
そのように、彼は黒の画面を作っていると思いました。

他方で、白(クリーム色)もすべての色を内在させており、そこからすべての色が現れてくる。
色が生まれ、色が消える、その全過程をとらえようとしているのが須田の絵画ではないか。
彼のクリーム色主体の明るい側面にも、黒主体の側面にも、その後ろに同じ運動がある。

今回、以上の3点を考えてみました。

4月 08

2015年1月17日から19日まで、尾道に滞在しました。

目的は須田国太郎と小林和作の絵画を見ることと、大林監督の尾道3部作のロケ地めぐりにありました。

須田国太郎の絵は近代の日本の画家の中で私が特別に愛しているもの。
彼の絵を見ていると、私の末梢神経から体全体へと強い快感が広がるのです。
それがどこから来るのかよくわかりませんが、とにかく大好きな画家です。

小林和作は須田の親友です。須田の文章で初めて知りました。
須田がその人物と画に惚れ込んでいることがわかり、一度その実物を見てみたかったのです。
小林は尾道を拠点にしていて、尾道の文化全般に大きな影響を与えた人なようです。

小林の遺族がその絵画などを市に寄贈していて、それをもとに1980年に尾道市立美術館が生まれています。
今回、尾道に行ったのは尾道市立美術館所蔵の小林の絵画がこの時期にまとまって公開されていたからです。

また、運よく同時期に尾道の隣の福山市のふくやま市立美術館で「須田国太郎と独立美術協会」の展示を行っていて、
そこで須田の作品を数多く(20点ほどありました。小林も3,4点)見ることができました。

大林監督の尾道3部作(「転校生」「時をかける少女」)を見たのは、すでに30年以上前。
寺社仏閣と古い街並み、海岸近くまで張り出した山(坂道)と海とが一体となった地勢に引き付けられて、一度行ってみたいと思っていました。

それが今回実現しました。

連日、ゼミ生のA君が案内をしてくれました。尾道は彼の郷里なのです。
A君のおかげで、尾道の現地の方々と、尾道の問題や文化について語り合うことができました。
それがとてもありがたかったです。尾道が私の内側に入ってきた実感があります。

3日間を振り返り、
須田国太郎と小林和作について、今回考えたことをまとめておきます。

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◇◆ 尾道の3日間 ◆◇

 2015年1月17日から19日までの3日間を、1日ごとに振り返りたいと思います。

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1月17日

(1)昼から尾道市立美術館で学芸員の方に案内してもらい、展示中の小林和作の絵(代表作20点ほど)を見ました。
彼は小林を「ヤクザの親分のような人」「尾道の天皇」と称していました。
小林が尾道で後半生を過ごすことになった理由では
「尾道では人との関係ができたから居座ったので、尾道の風景と彼の絵画には関係はない」と説明していましたが、
彼の風景画は、この尾道の地勢、気候、風土において確立したのだと思います。須田はそう言っています。
 なお、バブル期に地方でもたくさんの美術館が設立されています。その設立はよいとして、
その後の維持費は人件費も含めて大変な負担になっていると推測します。
尾道市立美術館の学芸員は1人しかいないようです。

夕方に、尾道駅から近い「おだ画廊」で和作の絵を10点ほど見せてもらいました。
日本画も数点あり、掛け軸も見せてもらいました。掛け軸は素晴らしかった。
和作にとって日本画も西洋画も、それほど違いはないように感じました。

その店主と話しました。先代が和作との直接の付き合いがあったようです。
地方での美術館と画廊との提携などについても聞いてみました。
一部の美術館では画廊と学芸員が協力して展示を企画するようなことも実現しているようですが、尾道にはないようです。

(2)美術館の周辺のロケ地めぐりもしました。

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18日

(1)昼からお隣の福山市に行き、ふくやま美術館(福山市立)で「須田国太郎と独立美術協会」の展示
(収蔵品の展示ですが、常設展示の一部を企画展風にしたもの)を見ながら、
学芸員の方に話を聞きました。
須田の水墨画風の松図(屏風)、和作らとの共作の掛け軸や共作で絵付けした焼き物などもありました。

尾道美術館とふくやま美術館。美術館によって、企画力に大きな違いがあることを痛感します。
ふくやま美術館では常設展の中にも、一部に年数回の企画展を実施しています。
美術館それぞれの予算や、スタッフ数などは違いますから、ふくやま美術館には余裕があると言えるかもしれません。
しかし、何よりもそれは、志の高さの問題であり、トップの考え方によるのだと思いました。

(2)その後、古い民家の再生と斡旋仲介(尾道全体の再生)をしているNPOが再生を試みているガウデイハウス(と呼ばれる)など、
彼らの拠点と駅の裏の散策からロケ地めぐりをしました。「転校生」で2人が入れ替わってしまう場面の神社とその石段を見ました。

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19日

(1)午前中は小林和作の旧宅を訪れました。ここを須田がしばしば訪れて、2人で語り合ったり共作していたのかと思うと、感慨がありました。
さらに、尾道大学の美術館で小林和作のスケッチ10点ほどを見ました。

(2)尾道のロケ地めぐり(「転校生」の主人公の家)をし、タイルのある小道(「時をかける少女」)を発見して喜んだり、ミーハーそのものですね。

(3)午後に、古い民家の再生をしているNPOの代表・豊田雅子さんと話しました。
  JTBの海外のツアーガイドをしていた普通の女性が、故郷にUターンしてからNPOの代表として大活躍をするまでの物語も面白かったです。

  そして今後の課題の課題から出てきた
「港町は職人を育てない」「職人を育てる枠組みを作りたい」とのコメントが、尾道を理解するうえで、興味深かったです。

3月 31

東京国立博物館で4月28日(火)?6月7日(日) 特別展「鳥獣戯画―京都 高山寺の至宝―」が開催される。
国宝「鳥獣戯画」の実物を見るチャンスだ。

実は、この特別展は、昨年秋に京都で開催されていた。
それの巡回なのである。

私は昨年、京都にこの展覧会を見に行った。
そこで感ずるところがあり、それをきっかけに、考えたことをまとめた。

それはすでに昨年2014年10月28日のブログに掲載した。

本日、再度、掲載しておく。

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高山寺明恵上人の「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」 中井浩一

2014年10月16日に、京都博物館で「国宝鳥獣戯画と高山寺」展を見た。
高山寺の明恵上人を改めて強く意識した。
鳥獣戯画が高山寺に残された背景に、明恵が存在していることを意識したからだ。

明恵については以前から気になっていた。
河合隼雄が『明恵 夢を生きる』を出していて、
明恵が青年期から晩年まで膨大な夢日記を残していることを知っていたからだ。

今回の展示で、
明恵が傍らに置いていたイヌやシカの彫刻も愛くるしかったし、
聖フランチェスコのような「樹上座禅図」(明恵が自然の中で、リスや鳥たちに囲まれて座禅をしている)も面白かったし、
「仏眼仏母像」(明恵が身近に 置いた持仏像で、亡くなった母と仏が重なっている)も鮮烈だった。

展示の中で気になったのは、
明恵が周囲に置いていた画僧と協力して華厳宗の新羅の2人の坊主を主人公にした2つの絵巻(国宝です)を作っていたことだ。
なぜ、中国の偉い僧でなく、新羅の僧なのか。

帰ってから
白洲正子の『明恵上人』
河合隼雄の『明恵 夢を生きる』
上田三四二『この世 この生』の「顕夢明恵」
を読んだ。
いずれも面白かった。

新羅の2僧は、明恵の自己内の2つの自己なのだとわかった。

今回、初めて華厳宗に触れた。
華厳宗についてはまだ不明だが、
「あるべきようわ」を問う明恵には、強く共振するものがある。

「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」は明恵の座右の銘であり、「栂尾明恵上人遺訓」には以下のようにある。
 「人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)の七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり。乃至(ないし)帝王は帝王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきようなり。このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり」。

 河合隼雄は『明恵 夢を生きる』で次のように説明する。「『あるべきようわ』は、日本人好みの『あるがままに』というのでもなく、また『あるべきように』でもない。時により事により、その時その場において『あるべきようは何か』と問いかけ、その答えを生きようとする」。

「あるがママ」でも「あるように」でもない。
他方で、「あるべきように」でもなく、
「あるべきようわ(何か)」という問いかけである。

「ある」=存在 を問うことが、生き方(当為)を決める点が、真っ当だと思う。
「ある」といっても、ただの現象レベルが問題になるのではない。
存在の本質に迫ろうというのだ。そのためには、現実や自分や他者に働き掛けつづけなければならない。

「あるべきようワ」という表現には、「あるべきよう」を自他と現実社会に問いづけ、存在=現実=理念の形成を促し、その中に参加し、没入しようとする、明恵の姿勢がはっきりと示されている。

存在と現実と理念が1つであること、
夢(無意識)と現実(意識)が1つであること。
明恵はそれをよく理解し、それを生きたようだ。
つまり理念を生きたと言えるだろう。
私はヘーゲルを思っていたが、
その点になると、
河合はバカな二元論者になってしまうと思った。

明恵は栄西などの宗教者だけではなく、西行とも親しかったようで
すごい歌がある。

あかあかやあかあかあかやあかあかや
あかあかあかやあかあかや月

これはまさに
言葉が生まれるところから
生れていると思う。

2014年10月28日