6月 08

伊佐義朗  花木と人間の社会と歴史

 草木が好きだ。植物園によく行く。植物園が主催するガイドツアーにもよく参加する。その場合には専門家の説明を聞きながら、一緒に椿や薔薇やさつきや紫陽花を見て回ることになる。
 ガイドツアーから学ぶことは多いのだが、不満もまたある。それは花や樹木の形態の説明に終始し、そこには人間にとっての園芸や鑑賞という観点しかないことだ。つまり、それが人間の社会や産業の中で果たしてきた役割の説明がないことである。こうした不満を感じるのは専門家からそうした観点からの花や樹木の説明を受けた経験があるからだ。私の20代の終わりごろのことだ。
 当時は、それを普通のこととして受け止めていたのだが、その後そうでない経験を重ねてくると、それが貴重で、私にとっての教育になっていたことがわかる。
 その指導者とは伊佐義朗である。この人がどういう人かは私も詳しいわけではない。彼の経歴でわかることしかわからない。
 彼は京都府立大学農学部の卒業。京都府立植物園在職18年。京大演習林上賀茂試験地主任在職22年。その間に京都大学農学部講師。後に京都芸術短期大学講師。
 京都府立植物園在職期間に、京都園芸倶楽部の設立にかかわる。ここで、園芸家や花木のファンを相手にガイドツアーを始めたのだろう。
 著書に『新しい庭木200選』『竹と庭』『観賞花木』『街路樹』『花木への招待』などがある。
 経歴の中に、植物園と園芸倶楽部、演習林があることと、その著書の内容が、伊佐とは何者かを解き明かすだろう。
 私は彼が京都芸術短期大学講師として、また園芸?楽部で彼が行っていたガイドツアーに5,6回参加した。いずれも彼の晩年だったのだろうと思う。
 彼にとっての花木の意味は庭木などの鑑賞用だけではない。日本の外来種は古代から数多く渡来してきたが、その多くは鑑賞用ではなく、薬用効果を目的としていた。そうした効用の観点、染色や生活用具などの工芸や産業、街路樹などの都市設計や景観づくり。そうした人間社会での役割の歴史を重視していた。
 そうした話を聞きながら、植物と人間との関りの深さに感動し、私の周りの世界が違う見え方をするようになった。花木とは何かという問題は、人間とは何か、社会とは何か、へと広がっていくのだ。
 私は彼との出会いに感謝しているし、その教えはその後の30年、静かに私の中で育ってきていることを感じている。

2022年5月31日

6月 07

花は生殖器である

 花は美しい、強い香りや甘い香りを放つものも多い。しかし、ではなぜそのように美しいのだろうか。また、なぜ強い香りで人を引き付けたりするのか。それを考えたことがおありだろうか。

 端的に言えば、花は生殖器であり、生殖活動のために存在しているからである。花が美しいのはその生殖活動のためなのである。虫や鳥に受粉してもらうために目を引き、その五感に訴えるのである。
 人々が愛でる花々は生殖器そのものであり、それを美しいなどと言っているのは少々滑稽なのである。花はただ、生殖器としての使命、生殖活動をひたすら行っており、自らの種の保持をそこで果たそうとしているだけなのである。無心にそれを行っている。
 ただ人間がそれを美しいとか、高貴だとか、可憐だとか、勝手なことを言っているのだ。それだけではない。人間が登場すると、本来の意味が失われ、大きく変質していく。
人間にとって美しいという観点から、観賞用の園芸種が沢山生まれていく。あざやかさ、華麗さ、清楚さ、色や形に趣向を凝らし、まさに百花繚乱である。しかし本来の生殖器としてのあり方からはかなり逸脱しても行く。
 その典型がソメイヨシノである。ソメイヨシノは本来の生殖機能を全く失ってしまった花である。

 「花は生殖器である」。それを知ると興ざめと思う人も多いだろうが、私は花を生殖器として意識してこそ、花の美しさを一層意味深く、観照できると思う。花は果実を生むことで、植物の生涯の「終わり」であり、また次の世代の「始まり」である。植物の一生は、花を咲かせ、果実を作ることで完成する。そこには美しさも儚さもあるが、自らの種を維持するために懸命に生きる強さがあり、そこにいじらしさも感じる。
 生殖器として花を意識して観賞するようになると、人には気づかれることなくひっそりと目立たないように咲く花々の姿が見えてくる。
 どんぐりになるような樹木郡は皆そうである。多数の地味で小さな花をざわざわと毛虫のようにつけていてまるで美しくない。強い香りを放つが、それは生臭く、まさに生殖のにおいである。そしてそのざわざわとした花々からたくさんのどんぐりが実っていく。

2022年5月31日

5月 11

原理・原則を持って生きる

 人が生きていく上では、原理・原則を立て、それで自分を律していくことが必要だと思う。それは自分の基準を持つことであり、自分の生き方を自覚しながら生きることになる。
 それがない場合はどうなるか。ただ、状況に流される、その自覚もないままに流されるのではないか。それは偶然性の立場である。私はそれに対して必然性の立場に立ちたい。必然性を理解し、その上で生きていきたいと思う。

 原理・原則と来ると、すぐに「例外」が問題なる。
 どんな原理・原則にもたくさんの例外を挙げられるだろう。それをどう考えたらよいのだろうか。
 例外があるなら、その原理・原則は無効だとする意見がある。いや、そう簡単に破産宣告ができるわけではない。
 例外があることが意味するのは、大きくは2種類である。
 1つはその例外が、原理・原則の根本的な間違いを示す場合と、もう一つは根本の間違いではなく、その部分的な限界を示す場合である。
 後者の場合には、その原則は一部の場合にしか有効ではないのだが、そこから次の問いが生まれる。では全体とは何か、それに対して原則の有効である部分はどこに位置づけられるのか。それを調査、観察し、より有効な原則を作ることができるだろう。
 しかし、前者の場合では、原理・原則を打ち立てた立場には、根本的な欠陥があり、それを解決するしかない。しかし、例外は原理・原則の欠陥とは何かを考えるヒントになる。
 こうして理解は深まっていく。そしてこうしたことができるには、そもそもの原理・原則を立てていくしかないのである。例外は、ただ原則の無効性を示すのではなく、その原則を発展させるものなのである。
原理・原則を待たない生き方には、発展がなく、それは先がない生き方ではないだろうか。
 
 こう考えてくると、原理・原則とは、一般的には「方法」のことになるのではないか。原理・原則を持って生きるとは、「方法」を持って生きることに他ならない。
 人は大きな問題に対しては、自分の方法を意識して臨むべきなのだ。問題の解決のためはもちろんだが、その方法を繰り返し反省するためにもそれが必要なのだ。
 そしてこの「方法」が反省によって深まった時には、それは自分の「哲学」であり、それが自分の人生を作り、人生を決めていく。

2022年4月30日

5月 10

人の呼び方

 中井ゼミでは、メンバーの互いの名前の呼び方が問題になる。さん付け、君付け、などの違いが問題になる。
 思想を問題にする組織である以上は、平等、公平を考えるべきであり、呼び方が問題になるからだ。

 一般には姓名を呼び合うだろう。大人同士であればさん付けが普通であろう。
 しかし、男性に対しては年齢によって、若者たちには君付けで、ある年齢以上になるとさん付けになったりする。
 女性には一般に姓名のさん付けであるが、結婚や離婚によって姓が変わるため、それがわずらわしい。そこからも夫婦別姓の問題が見えてくる。
 学校などでは、一般に女性にはさん付け、男性には君付けが行われてきたが、それは不公平なので、すべてにさん付けにしているところも多い
芸名やペンネームでは、結婚や離婚に関係なく、同一の名前を使用するのが普通だ。

 本来は個人の時代であれば、ファーストネーム、名前を呼ぶことが解決になると思う。西欧ではそのように行われている。しかし日本では一般的にはファーストネームを呼び合うことはなく、姓名を呼び合うのが普通なので、この慣習とのギャップをどう考えるかが問題である。
 読者のみなさんはどう解決しているだろうか。

2022年4月30日

5月 09

感受性訓練

中井ゼミのメンバーに、感受性訓練にはまった人がいる。その人は、一時、感受性訓練に夢中になり、人への勧誘にも精を出したようだが、大きな疑問も感じて苦しんでいた。
 私自身も20代ではカール・ロジャースの開発した「エンカウンター・グループ」に何回か参加し、人間理解、自己や他者理解において、多くを学んだ。しかし、そうした方法の限界にもぶつかり、それを超えるために、ヘーゲルやマルクスを学んできた。

 感受性訓練の意義と限界について考えておく。
 その意義は、今の社会には自分の心を閉ざしている人間が多く、その対策になっているということである。しかもかなり有効な対策だと思う。
 多くの人が、今、他者に対する疑心暗鬼の中で生きている。傷つくのが怖いので、人に心を開くことができない。体を鎧で固めて生きているようなあり方である。
それは他者への対応だけではない。実は、自分自身の感情や情動にどう向き合うか、どう対応したら良いかがわからないでいるのだ。
 これは単に心の問題、心の在り方の問題だけではない。人との実際のコミュニケーションのあり方の問題になっている。それは家庭での子育てや夫婦、親子関係から始まり、広く社会的なコミュニケーション、さらに社会的な教育の場や、政治や経済の場での議論の中でも大きな問題になっている。
 感受性訓練は、こうした問題に対しての対策としてはかなり有効である。このレベルで苦しんでいる人が多数いるのだから、その人たちには救いであり、それによって他者に心を開き、自分の感情や情動と向き合えるようになるだけで、解決する問題も多数あるのだ。
 人は本当に生きようとするのなら、他者や自己の感情に心を開き、人と深く関わるような生き方を始めるしかない。たくさんの失敗も起こり、その都度傷つくだろうが、その中で貴重な出会いも経験できるはずだ。

 しかし感受性訓練は、こうしたレベルにおいての有効性しか持たないことも言っておかなければならない。現代社会の大きな枠組みの問題、経済の問題、その経済の上に存在する国家や社会制度、法律や憲法の問題それ自体については無効である。それらについては知識と認識と思考の能力が必要になってくる。
 社会とは何か、経済とは何か、国家とは何か、法律や正義とは何か、人権とは何か、そもそも人間とは何か、そして私とは何か、私はこの現実世界の中でどう生きたらよいのか。
 これらの答えは感受性訓練からは学ぶことはできない。

2022年4月30日