2月 20

 本日、拙著『日本語論理トレーニング』(講談社現代新書)が書店に並びます。本書は、私塾で四半世紀にわたり試行錯誤しながら開発してきた、読解方法の紹介です。これは評論の読解、論理トレーニングの本なのですが、日本における国語教育、大学の一般教養教育、国語学や言語学を批判する、問題提起の書でもあります。
 ぜひ、書店で手にとって見てください。参考までに、「第1章」を転載しておきます。長いですけど、興味のある方はお読みください。
 

「論理トレーニング」と「国語」教育

1 「国語って、勉強してもしなくても変わらない」
読者の皆さんは、小学校、中学、高校と長い期間に渡り「国語」を学びました。さらに大学で本や文献の読み方を学び、レポートや論文の書き方を学んだ人もいることでしょう。しかし、それらが現在の生活に役立っているでしょうか。ほとんど何の意味もなかった。そう思っている人が多いと思います。
「国語って、勉強してもしなくても変わらない」。私は主に高校生を対象とした国語専門塾を主宰していますが、こうした声が中学生や高校生からよく聞かれます。いや彼らだけではなく、社会一般の圧倒的多数の声と言っても良いでしょう。
まったく、国語くらい重要だと言われながらも、バカにされている教科はありません。小学校では「主要四教科」、中学・高校では英数とならんで「主要三教科」と言われながらもです。事実、英語や数学のためには塾や予備校に通っても、国語はほっておかれています。
「現代国語は勉強法がまったくわからない。数学とか英語だったら、こうやればこう伸びるという予想がつくけど、現代文に関しては何をやればいいかわからない。がむしゃらに問題集を解いてもできるようにならなかった」。こんな声も多いのです。
 その結果、「国語ってセンスでしょ」とか、「本を読んでないから読めない」とかと言った俗論がはびこるのです。また、他教科は実用的で、現実と関わっていると思われていますが、国語は全く実用的でないと思われています。せいぜいが「教養」になるぐらいです。
私は二〇年以上に渡って、高校生を中心に、中学生や大学生・社会人の方々に文章や本の読み方を指導してきました。その経験を踏まえて申し上げるのですが、こうした俗論はすべて間違いです。国語にセンスは関係しても、それは無視してよい程度です。本をどんなにたくさん読んでいても読めない人はいます。いやほとんどの人がそうです。国語には本当は正しい方法があります。そして、国語はすべての他教科の基礎なのです。それは実用的どころか、現実と深く切り結び、みなさんの悩みを解決し、この社会を変えるために威力を発揮します。

2 国語力って、本当に「能力」?
しかし、私のような意見が広がることはありません。世間の大声、大合唱に圧倒されてしまっています。なぜでしょうか。
実際の教育現場で、本来の国語の指導がなされていないからだと思います。そこには国語教育のきちんとした「方法」が存在しないように見えます。どうしてそうなってしまうのかと言えば、国語とはどういう能力を養成する教科なのか、それがはっきりしていないからだと思います。
「えっ、国語って能力なの」。ほら、読者のみなさんは驚かれるでしょう。しかし国語は立派な能力なのですよ。では現国の能力とは何でしょうか。それは一言で言えば、思考力のことです。つまり論理の運用能力です。
「国語」というとあいまいですが、「日本語」と言えばハッキリするでしょう。日本人は、日本語で考え、日本語で生きているのです。その能力が問われているのです。それがはっきりすれば、その「トレーニング方法」とは、先ずは「思考トレーニング」、つまり「論理トレーニング」に他ならないことがわかるはずです。
このことは「国語」と他教科との関係を考えればはっきりするはずです。国語の教科書を広げてみて、そこにどんな種類の文章がはいっているかを調べてみましょう。評論、報告文、紀行文、インタビュー、ルポ、手紙、コラム、エッセイ、小説など、ほとんどあらゆるジャンルがあります。しかし、注意してほしいのは、そのテキストのナカミです。その内容を見れば、ほとんどすべての教科に関係していることがわかります。例えば異文化理解や人権をテーマにした社会科のナカミが入っています。自然との関わり方やエコロジー等の理科も入っています。数の不思議やコンピュータ言語などの数学もあります。日本語と外国語の比較をする言語学のナカミもあります。音楽も美術も保健体育も家庭科もあります。
およそすべての教科の「内容」がそこにあるわけです。しかし、そうであるならば、なぜその内容を、わざわざ国語科で学習しなければならないのでしょうか。それはそれぞれの教科でやれば良いはずです。
では、国語の時間に学習しなければならないこととは何でしょうか。それは文章の「形式」を読むということです。すべての文章はその固有の「内容」を、それに相応しい「形式」で表現しています。その形式にはジャンルということも含まれますが、その核心には「論理」があります。その形式と論理を学習することこそが、国語科、日本語の学習に固有の目的です。

3 「道徳教育」と「文学教育」
ところが、こうした根本の点が曖昧にされているだけではありません。むしろ、その正反対のことが、国語教育の名の下に行われているのです。一言で言えば、「道徳教育」と「文学教育」です。
国語が道徳教育になっていることは、石原千秋さんが『秘伝 中学入試国語読解法』で喝破した通りです。小中の国語の時間は、道徳のすり込みに特化していることが多いのです。文章の「形式」を丁寧に読むよりも、その道徳的結論がわかれば良いことになっています。つまり、ナカミが読めればよいと言う内容主義です。そして、それを逆手にとって、内容的にパターン化した方法で、受験問題を説いて見せたのが石原さんの方法です。
しかし、道徳で何が悪いのでしょうか。それが国語と違うだけなら、それほどの問題はないかも知れません。しかし、道徳はある意味では国語の対極にあるのです。むしろ、道徳教育は国語力を伸ばすことを妨げるのです。実際に教育現場で行われている「道徳」ではきれいごとが支配し、建て前を読みとることしか求められないからです。そこでは本音や現実の蔭の部分が切り捨てられます。しかし、本来は現実に深く切り込み、現実と徹底的に格闘することこそが、国語力なのです。本音や蔭の部分にも目を向けることで、立体的な現実像が得られますし、それによって、現実をしたたかに生きていく力を得られるはずです。そこでこそ「論理」が鍛えられるのです。
国語が文学教育になっていることも、良く知られています。小中の国語の授業では、物語や小説に多くの時間がさかれています。それも、道徳教育に関係します。子どもたちにとって身近でわかりやすい物語を教材にすることが、道徳教育には有効だからです。
全体として日本の国語教育は、評論などに比べて文学の比重が大きすぎ、その指導のナカミでもテキストの分析や論理性よりも感性的で「文学」的なことに偏りすぎ、しかも道徳を教えればよいと言う内容主義になっているのです。病は重いと言わざるを得ません。
この傾向は、小中だけではなりません。高校でも国語は事実上、文学教育と道徳教育になっていることが多いのです。それは、教員の補給源に大きな問題があるからです。
高校で国語を教えている先生方は、大学で何を学んだ人たちでしょうか。論理でしょうか。文学でしょうか。多くの先生方は、国文科の出身で、文学を研究してきた人なのです。人間は自分の知っていることしか教えることはできません。論理を学んでいない人が論理を教えることはできないのです。
そして、もう一つ言っておきましょう。国語が道徳教育になっている理由についてですが、それは世間や行政からそのように要請されているだけではないのです。基本的に、今の学校(大学も含む)の教員には、道徳しか教えられないと言う事情があるのです。なぜなら、彼らのほとんどは、学校や大学などの世界しか知りません。しかし、これらの世界は現実の矛盾や厳しさから隔離され、守られてきた場なのです。そうした、現実から浮いた世界しか知らない人には、現実の建て前や表面は教えられても、その厳しい側面は教えることはできないのではないでしょうか。
しかし、国語力が論理力だと言うと、すぐに、では文学は教えなくてもいいのか、という反論が出てくると思います。日本人は、日本語で考えるだけではなく、日本語で「感じて」もいるのだ、というわけです。そのトレーニングはどうなるのか、というわけですね。
小・中ならかまいませんが、高校の国語までが文学中心である必要はないと思います。それは、音楽や美術と同じく、「文学」という選択科目であるのが妥当だと思います。必修ではないと言うことです。すべての日本人、高校生が必修として学ぶべきなのは「文学」ではなく、先ずは思考力であり、論理の運用能力に他なりません。文学を読む上での基礎にも、やはり論理があるのです。それは音楽や美術の基礎にそれがあるのと同じことです。

4 大人のための「日本語トレーニング」
幸いにも、本書の読者は大人の方々です。子どもたちではありません。日々、リストラの危機やグローバリズムの嵐に巻き込まれながら闘っているサラリーマンの方々です。行政改革、公務員改革、地方分権などでもみくちゃになっている行政マンの方々です。老人介護や家庭内離婚、子育てや子どもの受験で悩みを抱えている主婦の方々です。皆さんは酸いも甘いもかみ分けられる大人の方々です。社会にもまれ、現実の裏も表も見てきています。人間関係の難しさも良く理解し、本音と建て前の使い分けにも習熟されています。それでこそ、国語のスタートラインに立てるのです。今こそ、大人のための「日本語トレーニング」を始められます。
「道徳国語」とはさようならです。学校の試験や入試のために勉強する必要もありません。もはや建て前で発言したり、人の顔色を見たりする必要はありません。本当に自分自身のために、現実を深く理解するために、家庭や社会を深く理解するために、リアルな認識を持つために、真の国語を勉強するのです。
本当に、幸いなるかな、です。それでこそ、本当の学習を始められます。国語は言葉を駆使して、思考力でもって現実を認識するためのものです。私たちは現実と向き合っていますが、それを媒介するのは言葉であり、思考力だからです。私たちは他人とコミュニケーションをしますが、それも言葉によるのです。この他人とのコミュニケーションの一つが文章を読むこと、書くことです。言葉によらないコミュニケーションもありますし、直感力も大切です。しかし、最後には、やはり言葉を駆使し、思考力でまとめてこそ認識が確かなものになります。身体的コミュニケーションや直感力も、言葉によって磨かれるのです。

5 シンプルで簡単な方法
さて、以上を理解してもらったとします。しかし、その先がまた問題です。「形式」を学ぶこと、「論理」を学ぶことの重要さはわかったとして、それはしちめんどうで、ムズカシいのではないか、と不安にならないでしょうか。もう何度も「論理」トレーニングに挑戦したが、結局ものにならなかった。結局は「机上の空論」で役立たなかった。そうした苦い思い出もあるでしょう。
そもそも日本の教育現場において、「論理トレーニング」はどこでどの程度行われているのでしょうか。国語教育のほとんどは道徳教育や文学教育です。中学や高校の社会科や国語科の一部などでディベートが取り入れられるようになってきました。模擬裁判なども行われるようになっています。「国語」の枠内でも、大学受験対策は論理的な読解が問われますし、予備校などで行われるマニュアル的な指導の中にも「論理トレーニング」的な要素があります。多くの支持者を得ている参考書もいくつかあるようです。「小論文」のマニュアル的指導にも「論理トレーニング」的要素が含まれます。
では大学ではどうなのでしょうか。ほとんど何も行われてこなかったと思います。有名になった東大の野矢茂樹氏の『論理トレーニング』は、そうした現状を打破するものだったからこそ、話題になったのでしょう。
彼は大学の現状への批判から始めています。大学の「論理学」の授業は「記号論理学」一辺倒で、そのままでは「ただの珍奇な代数」で、現実には役立ちません。そこで野矢氏は、記号論理学はもちろんのこと、ディベートや「反論」に関する本を読んだり、大学の教員が毛嫌いしそうな「受験参考書」にも丁寧に目を通し、模索した末に、たどり着いたのが「論理トレーニング」でした。
『論理トレーニング』の最大の価値は、その実践性、実用性にあったはずです。だからこそ評判になり、かなり売れたのでしょう。大学生よりも一般サラリーマンが読んでいるようです。
 こうした現状を見れば、日本社会全体に少しずつ「論理」の意味やその「トレーニング」法が意識されてきていると思います。私は、これらの試みを地味に追い求めてきた方々の努力に敬意を払う者です。
しかし、それもまだまだ途に付いたばかりだと思います。こうした流れを、よりしっかりとした巨大なうねりに高めたいものです。今回、私の方法を公表するのもそのためです。
私の方法はごくごく簡単なものです。わずか三つの論理しかありません。反対の関係の「対」、同一の関係の「言い換え」、橋渡しをする「媒介」です。この三つの組み合わせで、すべての論理を読み解くのです。
それは中学生以上のすべての人がやっていけるような簡単な方法です。そして、そのトレーニングによって、論理の能力を向上させ、複雑で難解な文章や本も理解することが可能です。そして、何よりもこの方法は、現実をどこまでも深く考えるために威力を発揮します。それは、本編で確認してみてください。

2月 06

 昨年2008年11月15日に、九州大学の1年生を相手に、大学でのレポートの書き方について講演をしました。ハウツーをお話しする気は最初から無く、大学の先生との関わり方が大切だとお話ししました。

 学生からは、先生のレポートの評価基準が分からない、レポートに何を求めているのかわからない、と言った不満の声が多かったのです。もちろん、大学の先生がダメなのですが、学生のできることは、先生たちに評価の基準の公表を求め、実際の評価例などを、授業で解説するように求めるべきだとお話ししました。不満を持っているだけで、行動をしなければ何も変わりません。

 学生がまともなレポートを書けない、といった不満は大学の先生たちの間に多いですが、その先生方は本当にやるべきことをやっているのかが、大いに疑わしいです。

 レポート提出を求める前の段階で、学生一人一人が、「書きたくてたまらない」「伝えたくてたまらない」「書かずにはいられない」、そうした状況までにしているのでしょうか。

 通り一遍の授業をして、レポートを書かせるだけなら、そんな先生はいりません。先生の学生に対する評価は、そのまま、先生自身への評価だと自覚すべきです。

2月 05

 この本は昨年(2008年)夏に刊行されたが、非常に売れているようだ。近くの図書館で予約してみたが、多くの希望者がいて順番が回ってこない。

 なぜ、それほど多くの読者に支持されているのか。面白いからだろう。読者サービスに徹している。面白く読める工夫に満ちている。「アドレナリン分泌」が促されるように書かれている。これは本書に限られず、佐野の本はすべてそうで、それゆえにほとんどが文庫化されている。

 「読者サービス」とは具体的にどういうことか。1つは、二重の物語を提供することだ。まず、テーマに関して、取材した人物たちが語る物語がある。これはルポなのだから当然だ。しかし佐野は、他に取材過程自体をもう一つの物語に仕立て上げている。つまり、佐野が取材をどう進め、どういった障害があり、その渦中で何を感じた(特に「アドレナリン分泌」の瞬間が強調される)のか。それがこと細かく書かれる。取材現場に読者を招待するわけだ。

 また、テーマの描き方だが、歴史や政治状況などの一般的な説明はほとんどない。あくまでも人物たちの人生を描くことで、大状況を語ろうとする。今回も、政治、経済、文化、芸能までの広い範囲の中から、トップエリートたち、政治家、運動家から、娼婦やヤクザまで、魅力的な人物たちをずらっと並べて、彼らの人生を、その彩なす織物のような人生模様を描くことに徹している。

 さらに、その人生の描き方だが、人間の相関図の中で、その人間を浮き彫りにする。その人の人脈を丹念にたどり、人、物、金の流れを追うのだ。ヤクザと政治家、左翼と右翼といった、思わぬ人との関わりを描くことで、その本質や問題を描く。これは一般にも有効な方法だが、地縁、血縁の強い沖縄だから一層有効だったことだろう。

 以上に述べた方法は、佐野が最も得意とするもので、彼はいつも人脈さがしから取材を始め、それらの人間を捜し出してインタビューする。そして、彼は、こうした過程で取材相手に激しく感情移入し、時には憑依するかのような迫り方をする。
 

 以上で、佐野の方法とその人気の秘密は明らかだろう。その方法は、本書でも「面白く読ませる」点では成功している。沖縄の全体像が浮かび上がり、戦前から戦後の沖縄の諸問題が立体的に見えてくる。天皇の関わり、基地の借地権、奄美への差別、ヤクザや政治家の動き、芸能プロダクションなど、知らなかったことばかりだった。

 しかし、ここには何がないかも明らかだ。あくまでも個人に光を当てているので、組織や運動、歴史や社会構造を理解することはできない。また、人間は地縁、血縁関係から描かれ、その思想は無視、軽視されている。正直に言って、本書は私には退屈だった。私の「アドレナリン分泌」は促進されなかった。

 いくつか、問題にしたいことがある。
 第1に、人物を、その人脈を描くことで示す方法の是非だ。それは、どこまで有効なのか。

 人の本質は、他者との関わりに現れ、その関係の総体が、その人に他ならない。それは真実である。したがって、その人脈をさぐる手法が有効なことは明らかだ。

 私も、最近、ある人を考えるときに、その出身地、出身校などの「出自」で、その人の根っこの部分がわかると思うようになってきた。しかし、それが淋しく、残念にも思う。それは、地縁と血縁(両親や親族)といった偶然のもので、人間の根底が決まってしまうことを意味するからだ。出身地は地縁そのものだし、出身校も地縁と血縁(両親の考え)で決まる。沖縄は島国で、こうした地縁と血縁が強いということなので、一層、こうした偶然の要素で決まってしまうだろう。

 しかし、それで良いのだろうか。私は、地縁と血縁に対しては、思想縁を対置したい。本人が自覚的に選択したものでない条件に対して、それを克服する可能性をさがしたいのだ。それを考えれば、調査はその人の思想縁に関係するような、先生、盟友、同志を、他の関係より重視するだろう。その思想が、地縁、血縁といかに闘ったかが中心になるだろう。

 しかし、こうした方向性は、本書にはない。そこには関心が向けられていないからだ。それが私にとって、本書が退屈な一番の理由だろう。

 本書で示された観点で面白かったことの一つは、「沖縄の芸能」を代表する人物として、多くの芸能関係者が瀬長亀次郎の演説を挙げていたことだ。瀬長は日本共産党に入党し治安維持法違反で3年の懲役刑を受け、戦後は沖縄人民党の結党に参加し、書記長になる。その後は那覇市長、日本共産党中央委員長、1970年からは7期連続で国会議員を務める。そうした人間が「芸能人」として評価されるのは、沖縄以外では考えられないだろう。

 この瀬長は本書でも取り上げられているので、さぞ面白い事実で埋め尽くされているだろうと期待する。しかし、それは完全に裏切られる。全体で650ページ、ヤクザ関係だけで150ページもある本で、瀬長の出てくる章は30ページ、しかもその内の瀬長に直接関わる叙述は10ページもない。思想の闘いはほとんど描かれず、獄中で家族宛に書いた手紙が届かなかった事実が書かれるだけだ。ここに、本書の駄目さが集約されている。私は政治向きのことだけを言っているのではない。それは省略しても、芸能としての彼の「語り」については詳しく展開してこそ、本書らしさがでたはずだろう。それがない。

 第2に、「大文字の沖縄」批判を取り上げたい。佐野は、大江健三郎や筑紫哲也らの書いた沖縄を贖罪意識で書かれた「大文字の沖縄」だと言う。それは沖縄を聖化し現実をとらえない。それは結果的に沖縄を愚弄することになるし、「それでどうしたの」といった感想を持つ。そう言うのだ。

 そして、それに対置しているのが、佐野自身のルポで、それが「小文字の沖縄」だという。しかし、その実態はすでに述べたものであって、私は「それでどうしたの」といった感想を持つ。

 「小文字の沖縄」とは、概念的な「大文字の沖縄」に現象的な把握が対置されているのだろうが、両者は本来は敵対するものではなく、相互補完的なものだろう。問題は、どちらが重要かではなく、それが概念的でも、現象的な把握でもよいから、そのレベルであり、それが対極の理解にどれだけ貢献できるかだけだろう。

 その時に、書き手の動機に焦点を当てることは不毛だと思う。佐野のように「好奇心」からでも大江のように「贖罪意識」からでも、動機はどうでもいいと私は思う。誰もが、自分の問題意識から始めるし、その得意な方法で対象を捉えようとする。そこには問題はないだろう。問題は、結果であり、どこまで対象の本質に迫れたかだけではないか。それには動機以外にも検証すべきさまざまな要素がある。問題意識の強さもあるし、その人の歴史や政治、経済の知識、活動力や取材力、何よりも認識能力に大きく依存する。その結果を問題にするときには、これら全体とその関係を問うべきだろう。

 小林よしのりは大江の動機を「自分だけは善良な日本人だ」と宣言したいと推測している(と、佐野は書く)ようだが、大江の全体像を示した上で言っているのだろうか。佐野は、自分の「小文字の沖縄」を持ち上げるが、私にはそれほど本質に迫れているように見えない。それは佐野の認識能力が低いからだと思う。

 例えば、佐野は、日本の高度経済成長を、戦時中の満州国の建設との関連でとらえ、「失われた満州を国内に取り戻す壮大な実験」だったと言うのだ。しかし、それは倒錯した議論だろう。

 一次産業から二次産業への転換、工業化の発展に必要だった条件(地縁、血縁から解放された自由な資本と労働力、大地主制からの農地解放など)が、戦前に国内にはなかった。それは戦後の占領軍統治下で実現し、それゆえに高度成長が可能になった。暴力で中国から奪った満州と、自由を求めて満州に飛び出した人々は、こうした条件を満たしていた。そこで高度成長の先取りのようなことが行われていたということだろう。もっとも、戦後になって「満州」はほとんど無視されてきたから、それに光を当てるのは必要だ。しかし、それを必要以上に持ち上げるのはおかしいと思う。

? なお、本書で、沖縄での創価学会(公明党)の力を指摘しているのはなるほどと思った。創価学会は高度経済成長下の農村出身の工業労働者が、地縁血縁から切り離されたことを代償するためのものだからだ。