9月 02

8月が終わり、9月になりました。
異常気象が猛威を振るった夏が終わり、秋になって、学習に集中できるようになると良いと思います。
この夏はいかがおすごしでしたか。私はプラトンについて考え続ける夏でした。

今年は読書会で、1月、2月とプラトンの『国家』を読み、5月からヘーゲルの『哲学史講義』で、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの部分を読書会で読み、7月にはアリストテレスの『詩学』も読書会で読みました。
その記録をまとめてもらっているので、その確認をして、メルマガに掲載する予定でしたが、それもできませんでした。そこでは、要するに、プラトンが「わからない」、ヘーゲルもプラトンをわかっていない、としか言っていないので、ただそのままを掲載するわけにはいかないと判断しました。。

そのため8月は、プラトン(ソクラテス)についてずっと考えてきました。
プラトンは最初から最後まで「対話篇」という形で自分の哲学を表現したが、それはなぜなのか。なぜ、自らは全く姿を現さないその形で書いたのか。対話篇とは悲劇に近い創作なのだが、他方で詩人をほぼ全否定するのはなぜか。『国家』では個人を抹殺しているように見えるが、ソクラテスの生き方を継承し発展させることとどう関係するのか。
ヘーゲルはこうした問題をどうとらえていたのか。

まず藤沢令夫の『プラトンの哲学』(岩波新書)。これは大いに学ぶものがありました。そしてこの本を一つの道案内として、プラトンのいくつかの対話篇について岩波全集版の解説を読み、全集版で「パイドン」を丁寧に読みました。「パイドン」の訳注をしている松永雄二にも学ぶことが多かった。
解説を読んだのは、プラトンの「パルメニデス」「テアイテトステ」「ソフイスト」「ティマイオス」。
これまでは日本の古代ギリシャの研究者では、田中美知太郎と藤沢令夫しか私は意識していませんでした。しかし、今回、他に松永雄二や加藤信朗、井上忠などがいることを知りました。

ヘーゲルの『哲学史講義』でソクラテスとプラトンは読み直しもしました(まだ最後まで終わりません)。

こうした結果、少しずつ少しずつ、自分の中で明らかになってきたものがあります。これをまずこの秋の読書会の中で、皆さんに説明したいと思います。

例えば、アリストテレスの『詩学』における「カタルシス」や「真似」とは、明らかにプラトンの考えをまっすぐに受けたものです。「カタルシス」は「パイドン」に繰り返し出てきます。「真似」については対話篇のあちこちに。

そうしたわけで、9月25日の読書会では藤沢令夫の『プラトンの哲学』(岩波新書)をテキストにします。

その後、プラトンの対話篇をいくつか読もうと思っています。
『ソクラテスの弁明』『パイドン』『国家』などです(まだテキストの版など未定)。また、再度ヘーゲルの『哲学史講義』です。

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1.9月読書会テキスト

9月25日の読書会のテキストは藤沢令夫の『プラトンの哲学』(岩波新書)です。
まずはテキストを購入して読んでみてください。
?の「2 なぜ『対話篇』なのか」という、そのものズバリの箇所もあります。
?以降は、難しいですから、流し読みで良いと思います。
全体として、プラトンとその哲学について、考えさせられる箇所がたくさんあると思います。

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2 9月以降の中井ゼミの日程は次の通りです。

月の前半は、文章ゼミ+「現実と闘う時間」を行い、
月の後半では、読書会を行う予定です。
いずれも日曜日で、午後2時開始予定です。
オンラインでの実施予定

「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

参加希望者は今からスケジュールに入れておいてください。また、早めに申し込みをしてください。
ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

10月以降の読書会テキストはまだ未定です。決まり次第、このメルマガで連絡します。

9月
 11日
 25日

10月
 9日
 23日

11月
 6日
 20日

12月
 4日
 18日

8月 06

 中井ゼミの5月の読書会では、私の『現代に生きるマルクス』をテキストにしました。

 読書会の参加メンバーには、読書会後の感想を書いてもらいました。それを掲載します。
 参加者は15人でしたが、その中から12人が感想を寄せてくれました。

 最初のグループ(目次の1?10)は現在の中井ゼミのメンバーたち(一部ペンネームやイニシャル)です。
松永さんはこの読書会には参加していませんが、この本の原稿段階から意見をもらい、読書会の記録をまとめてもらっています。
あわせて、この本への感想を寄せてもらいました。
 目次の11,12の2人は、30年ほど前の大学生クラス(中井ゼミの前身)のメンバーで、
笹本さんとは10年程前に彼が県会議員選挙に出馬した時にそれを支援し、その失敗の総括をして以来です。
彼は山梨の甲府で「地域資源経営」に取り組んでいます。
 高山さんとは留学先のドイツでの濃密な関係がありました。彼は帰国後、演劇集団をつくり、
現在では演出家として世界を股にかけて活躍中です。最近では「あいちトリエンナーレ」の『表現の不自由展』の中止をめぐり、
「Jアート・コールセンタ」を立ち上げる対応をしたことで話題になりました。
 高校作文教育研究会のメンバーからは2人が参加してくれましたが、宮田さん(13)はその1人。
熊本県立農業高校の教員ですが、私が信頼している一人です。 
 ゆげさん(14)は、世界史専門塾ゆげ塾の塾長。塾生が鶏鳴学園と被ることがあり、交流があります。
本を送ったことへの返信から一部を掲載しました。

■ 目次 ■

1 「絶望」だけが人間を前に進める  花房 真衣
2 従来の林業の克服のために     掛 泰輔
3 使い捨て人間さようなら    白檀 栴
4 母の死の真相と私の使命    鈴木 明規
5 いまを生きる「根源」  高松 慶
6 自分を超える力        塚田 毬子
7 資本主義と家父長制      田中 由美子
8 己の限界と向き合うこと    K・K
9 徹底的にマルクスに寄り添った「内在的方法」 安藤 雷
10 ただ見ているだけでいい    松永 奏吾
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11 「地域の自立」と中央コンプレックス 笹本 貴之
12 悪こそは未来         高山 明
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13 20世紀最大の実験、共産主義国家失敗原因探求  宮田 晃宏
14 ブルセラショップの解説を、自由主義で説明するのは、度肝を抜かれました
                 ゆげ ひろのぶ

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1  「絶望」だけが人間を前に進める     花房 真衣

 序文(「はじめに」)に書かれているようにこの本にはマルクスの代名詞のひとつである『資本論』について
触れられていない。『資本論』以前のマルクスの唯物史観がその土台であり、その唯物史観こそが世界を変えたという、
それは一体どういうことなのか。今回の読書会を通し、マルクス主義がなぜ失敗、堕落という結果を辿ったのかを
マルクス自身に内在した問題にせまることで解することができた。一方で、20代のマルクスの偉大さの一端も体感した。
これは、一人で書に向かっているだけでは得られなかったことである。
 何より、マルクスの唯物史観を探ることでヘーゲル哲学の理解に少しだけ近づけたように思う。
ヘーゲルは存在の運動によって外化する本質を「ただ見ていればいい」というが、それは何もしなくてよいということではなく、
「対象への働きかけは不可欠である」ということ、中井さんが言った「人は死ぬまで前に進み発展する可能性がある」
ということを私なりに解釈すると、その可能性があるからこそ対象に働きかけることに意味がある。
教育もその働きかけに他ならないだろう。自分より若い世代に少しでも有益な働きかけができたらと思うと同時に、
私自身も教育、学びを得られる機会に貪欲でありたい。
 そしてもう一つ、ヘーゲルの「絶望」だけが人間を前に進めるという言葉。
今回も前回も中井さんが口にされたが、本書にその「絶望」が何を意味するのかが書かれていて、はっとする。
果して自分に「それまでの自己では一歩も前に進めない」と自覚する時が来るのだろうか。自己改造は厳しい。
しかし前に進まず終わることも空恐ろしい。
 読書会に参加したおかげで、独学では到底具体化できなかった先人たちの言葉の数々が生きたものとなり、
自分自身の在り方に引きつけて考えることができた。
しかし、こうして感想文を書いてみると、感じたことや捉えたと思ったことが言葉に表せず歯がゆい。
今後どこまで自分の言葉で語れるようになるのか。今回はようやくその始まりにたどり着けたかなという感触をもった。

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2 従来の林業の克服のために     掛 泰輔

 私は林業を生業としているが、最近、「個人が所有している森林であれば、その公的側面よりも、
私的側面を中心に扱っても良いのか」ということが問題になった。
 本書を読んで、これは山林所有者個人の考え方の問題ではなく、現代の「私的所有」「農村と都市の対立」
「(山林資源という)使用価値と交換価値の対立」という矛盾がそこに現れているだけではないのか
というふうに考えることができた。
 しかし、ではそうした「矛盾が、発展の契機である」、とはどういうことなのか。それは「契機である」というよりも、
矛盾を発展の契機であるというふうに対象に働きかける欲求が認識する側に生まれた時、
その働きかけ方によって矛盾を発展の契機とすることができる、ということなのだと思うが、
その働きかけ方はどう考えれば良いのか。
これについては、フォイエルバッハテーゼからその答えを考えることができるのではないか。
 フォイエルバッハテーゼが書かれている章(p124)では、テーゼ4、6を除いてマルクスの記述の仕方
(「AではなくB」というだけの考え方)は悟性的であり、代案が出てくる必然性、
その代案が発展であるということが示されないということだった。
 自分の仕事に引きつけても、従来の林業と、これからの林業を対置し、前者を低いものとして否定的に考えていたが、
本来は「テーゼ4」のような発展的、必然的(新しい林業が新しいだけでなく真であるということをできるだけ示すよう)
な考え方をしなければならない。今までの業界の考え方を、単に自分の考えとは違うというものを低いものとして扱い、
切り捨てるのではなく、現状のものの中に大事なものがあるという姿勢で、そこにあるものを大切にし、
かつその限界や矛盾を見出し、それを示せるような働きかけ方ができるのか。それを本書を読んで考えた。

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3 使い捨て人間さようなら  白檀 栴(びゃくだん せん)

 数か月前に中井ゼミに入る前に、私は、資本主義社会の中でどこか自分が使い捨て人間であるように感じていた。
利益重視の組織から搾取され、ひたすら働いて死に向かって生きているようで、行き場を失い、苦しさを覚えた。
この本を読んだ後は、今、自分が置かれている時代を俯瞰して見ることができるようになった。
そして、マルクスの言葉から、自分が問いを立てられることは、その答えを出す能力があると思えるようになった。
 マルクスの思想は世界を変えたが、限界があった。
「マルクスは、自分自身の内なる悪を直視できなかったのではないか。」
ここは、ヘーゲルの思想との大きな違いであると思った。
ヘーゲルの思想には、「矛盾を克服し、さらなる発展段階に進む存在が新たに生まれる」という発展の考え方がある。
そして、「ある対象とその本質を、その生まれてから滅びるまでの前後の進化全体の中に位置づけなおしたものが、
その対象の概念なのである。」という概念レベルの捉え方がある。
これまでの私の生き方は、自分の中にある悪を見ることも、人と対立することも避けてきた。
しかし、概念レベルの視点で望遠鏡を覗き、組織の中で自分と他者との意見の対立を明確にして、
正義や真理に向き合って行動を起こすことで、新しい自分に出会えることがわかる。人生は面白いと感じる。
私は、今、自分以外の組織全員が反対しようが、医療職者としてどうあるべきか、
目の前の人を救うためには何をしなければならないか、問い続けながら、真理に向って進む生き方をしたいと思う。

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4 母の死の真相と私の使命     鈴木 明規

 『現代に生きるマルクス』の読書会後の感想で、私は「看護師としての病院勤務を終えたときに書いた総括は
総括になっていなかったのではないか」と発言した。
それは、自分自身に対する概念的把握ができていなかったという反省であった。
再度考え直したい。
 2019年に中井ゼミに入った当時、私の内部には2つの欲求があった。
一方は、母親の「交通事故死」(6才当時、父から聞いた)を根拠にした救命医になりたい、命を救いたいという欲求であり、
他方は、大学院で教わった公衆衛生の立場や外来業務の経験を根拠にした、
病気を生み出す個人の生活や社会の仕組みを変えたいという欲求であった。
今思えば、前者は前の段階の当為から来る欲求、後者は次の段階の当為から来る欲求であった。
 2020年、中井ゼミの場で、6才当時から母の死因に関する疑いがあったこと、それを父に聞けずにいることを文章にして出した。
中井さんからは「30代にもなって親の死因を知らないでいるというのは社会性がない」と批判を受け、
真実を知るための調査を始めた。
父は「世の中には聞かない方が良かったと思うこともある」と頑なに母の死因を話そうとしなかったが、
母の短大時代の先生、母方の叔父に話を聞き、母が精神科の専門病院に半年ほど入院していたことを知った。
周囲が反対する中、その事実と、父や母を理解したいという思いを綴った手紙を父に送った結果、
父はようやく手紙で母の死因について答えてくれた。そこには、母の死因は産後うつの末の飛び降り自殺であったこと、
父も自ら命を絶つことを考えたが、子どものことを考えて我に返ったことなどが綴られていた。
 母の死の真実を知ったとき、ようやく病気や死の原因や、それらが周囲の人間に与える影響の全体が見えた。
同時に、身体的な意味での救命を目的に生きてきた自分を反省し、個人の生き方やその家族、
社会との関係の全体を中心とした医療をやりたいと思うようになった。これを概念的に捉えれば、
母の死の真相を知ったことを契機に、人間の本質、つまり、身体と精神を統合した人間の全体性を捉え、
次の段階の当為が前の段階の当為(身体的な救命を目的とした医療)を止揚したということだと思う。
 現在は医学部に進学し、患者中心の医療という現段階での当為を実現するために、生物学を基礎とした医学の問題、
医療における医師?患者、医師?看護師などの差別構造の問題、差別意識を生み出す医学教育の問題と闘っている。

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5 いまを生きる「根源」   高松 慶
 
 「根源にさかのぼる」という言葉がある。だが本来、根源は過去を探すことで見つかるものではなく、
いまの現実に至るまでの全過程を生きている。
では、その本来ある姿の根源をとらえるには、どのような態度が認識する側に求められるか。
 以上が感想と問いである。

 「根源がいま現実に至るまでの全過程を生きている」とはどういうことか。
中井さんは、マルクスの『根源』という言葉の使い方には内化しかなく、外化の観点が抜けがちと言っていた。
根源は発展を通じてたえず自己の内へ深まり、深まった自己を外化してきた。歴史をそのようにとらえなければ、
意識が根源らしきものにとどまり、そこで安住しがちになる。いまの現実を本質の観点から変革する運動が起こらない。
 私はここ1年で葬儀屋として、流産や人工妊娠中絶による死産の遺族対応を続けた。
その過程で、刑法(1907)上初めて、人工妊娠中絶は原則犯罪とされ、死産があった際の公的な届け出義務、
火葬・埋葬義務が1952年に両親に課されたことを知った。
 「なぜ胎児を殺してはならないのか」という問いが法律として現れることを通じて、
「人間が人間として生きるとはどういうことか」という問いがだれでも自覚可能な形になる。
そしていまの私が法律を発展の一契機として位置づけて遺族対応をすることによって、問題意識は一層外化する。
そうして、人間が生きることの根源はより問題意識として明確化する。
 
 だが根源への問いを深めるはずが、なぜある原始的な段階の一時点を根源としてとらえることにとどまりがちになるのか。
その原因が端的に言えば人間の悪なのだろうか。
 マルクス個人の経験を見ると、彼は1848年の革命に失敗した。敵であるブルジョアジーに負け、革命運動の仲間とも決別した。
 中井さんからすれば、マルクスが革命に失敗した経験は、彼にとって当時の社会全体の矛盾、
自分の所属する組織の中の矛盾、何より彼自身の矛盾を見るチャンスだった。だが、結局自覚できなかった。
結局唯物史観を根本から反省するには至らず、その代償は社会主義国家が崩壊する過程に現れた。
 悪の中身を、自分の失敗の中にある矛盾、一言で言えばタブーをタブーのまま放置し、のさばらせ、
なし崩しに黙認することだとする。その意味での悪と、過去の一時点としてまだ原始的な段階という意味での根源に
しがみつくことは、私は相通じることだと思う。
 私は、人間が何かをタブーだととらえるようになる、あるいはタブーだととらえられているものを犯すということに
寄り添いたい。そういう態度で、根源を見たい。死産時の対応も同じ態度から努力してきたのであり、今後も意識的にそうありたい。

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6 自分を超える力         塚田 毬子

 私はこれまで他者との関係に悩んできたが、「対象の内在的理解」を自分なりに試みたことがある。
他人を真剣に理解したいと思ったとき、この方法を参考としてやってみた。その成果として私に残ったのは、
他者への理解が深まった実感ではなく、他者を通して自分を理解することを一生懸命やっているような空しい感覚だった。
いくらやっても他者には触れられず、自分の中を堂々巡りしているような感覚。後から考えれば、
私が目指したのは「内在的理解」だが、実際にやっていたのは「外的反省」であり、
そもそも私が抱いた他人を理解したいという欲求は、自分を理解したいという欲求以上のものではなかったように思われた。
そうすると私は、私を超えた他人を捉えられないのだろうか。
 この反省を自分の課題として持ちながら、『現代に生きるマルクス』を読んだ。
ここで中井さんは徹底的にマルクスと関係し、真理を表現しようとしている。ここに表れるマルクスは中井さんのマルクスだ。
やっていることのレベルは大いに違うが、読んでいると自分の失敗からくる嫌悪感が内に溜まっていくようだった。
自分の能力から見ると正しいことばかり書いてあって息が詰まるとも思った。
 その嫌悪感は、自分が見る他者が自分そのものであることに対する嫌悪感だ。
他者は自分ではないから素晴らしいのに、私が認識しようとした途端に生きた他者が死ぬようだった。
私は他者の内に自分を見ているだけで、何を見ても自分を見るだけなのだ。
その広がりのない世界を脱するために他者を欲しているのに、である。
 しかし他者が自分の他者となるのは、自分がそれを捉えたからだ。自分の内にあるものがそれに反応してこそ
他者との関係が始まるのだから、自分の全く外では他者を捉えられない。自己内二分がある限り絶対に不可能だろう。
つねに限られた自分の認識で他者を理解するしかなく、より良くするためには自分の認識能力を上げるしかない。
が、その中で最も重要で難しいと思われるのは、自分の内部で自分を超える力を捉えることだ。
ゴミのようでもあり宝のようでもある現実は常に私を超えて存在するが、
自分のうちにも自分を超える力があるとこの本に書いてある。それもまた自己内二分がある限り絶対に存在し、
捉えることが可能なものだろう。可能なら実現するはずだ。それを獲得することが私の退屈を打ち壊せる方法だと思った。

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7 資本主義と家父長制      田中 由美子

 本書を通して、私がゼミに参加し始めてからの十二年間の前進は、まだ私の本質内部での成長に過ぎなかったのだ
ということが整理された。それが一つ、重要な気づきだった。
 私がどういう原理原則の社会の中の、どういう家庭で育ち、私はどういう人間なのか、今ようやくその大枠が見えてきたが、
私はまだその本質を超えられず、「本質レベルでの『終わり』の地点」、「概念の立場から見るならば、
まだ、発展の過程の前半が終わったにすぎない」のだろう。直面する問題に向き合い、その展開を最後まで見届け、
これまでの自分を終わらせなければならない。

 もう一点、私はこれまで、実家に家父長制的な問題があったと考えてきたが、今回「ブルセラショップの女子高生」
を読んだときに、そのもっとベースに「私のものをどうしようが私の自由でしょ」と言う「女子高生」と同じ
資本主義の論理があることが意識された。私的所有の自由以上の意識に乏しかったのではないか、
それが問題の核心なのではないかと思われた。
 たしかに、かつての家父長制の影響は、今現在の家庭や社会にまだ強く及んでいる。
特に、家父長制における女という立場と、資本主義、という組み合わせの矛盾は大きい。
 エンゲルスの『家族、私有財産、国家の起源』によると、私的所有を認める経済と、家父長制という組み合わせは、
人類の経済発展の歴史の中で必然だった。牧畜などによる富の増大によって、それまでは氏族共同体が所有していた
生産手段や生産物が、生産に主に携わる一人の男を中心とする家族の中の、その男、個人の所有となった。
つまり、私的所有を核心とする経済体制が始まった正にそのときに、家父長制が生まれたという。
 それは、人類が当初、氏族共同体の一メンバーとしてだけ生きてきた社会に、初めて個人が生まれたという意味で
大転換だったが、他方で、私有財産を手にしたのはごく一握りの男たちだけだっただろう。その後の歴史の中で、
より多くの人に私的所有が認められるようになっていくが、封建制が終わっても、この国で戦後になるまで、
女には、男兄弟も息子も無いというような場合を除いては、夫からの相続権さえなかった。
多くの女は、個人と私的所有を基盤とする資本主義社会に生きながら、長い間、少なくとも法的には私的所有権を持たず、
また、家庭内における意思決定権も無かった。
 戦後、その矛盾は法的には解決され、家父長制は法的な制度としては終わりを迎えた。
それは世界的にも、人類史上何千年ぶりの大転換の時期だっただろう。両親はその前と後を生きた。
 しかし、今回こうして資本主義と家父長制を並べて考えてきて、経済体制と家族制度は単純に比べられるものではない
にしても、その二つは、その個人や自由のレベルにおいて、大差のないものではないかと思われた。
以前から、家父長制的なものに対しては、家族個人の人権と責任を十分に認めない古臭いものとして、批判的にとらえてきた。
しかし、資本主義や自由経済の「自由」については、その問題が社会にあふれていても、
私の根っこにその「自由」に対するひいき目がある。戦後両親は、戦争や大家族のくびきからも放たれ、
自由経済社会を活き活きと生きた。その高度経済成長の中で私は育った。
しかし、資本主義の「自由」も、大したものではない。
フランス革命の人権宣言が、私的所有の自由を保障するものでしかないという、マルクスによる批判の箇所は以前にも読んだが、
今回の読書会を通して、それを自身の意識の問題として自覚した。
 そして、資本主義がある意味その程度のものでしかないから、家父長制が制度としては廃止されても、
その経済体制の下で、家父長制的な意識が今も根強く私たちの中に残っているのではないだろうか。そういうことを考えた。

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8 己の限界と向き合うこと     K・K

 自分が信じて精いっぱい努力した結果が、当初の目的を達成できなかった点において失敗したとき、
その失敗とどのように向き合い、どのように総括すべきか。その問いが「現代に生きるマルクス」の読書会後に、
一番強く残った。
 第V章「唯物史観」のp.205~208に、方法とその限界に言及している。マルクスが1848年の革命の失敗後、
唯物史観そのものを根本的に反省したり、大きな修正をしたりしていないと書かれている。
 自分に引き付けると、自分の課題を乗り越えるために取り組んだ仕事が結果として失敗した経験を思い出した。
本来するべきことを頭でわかっていても、行動に移せなかった。そのとき、具体的に何ができなかったのか、
何が行動を踏みとどまらせたのか。これらを言葉にしていくことが、失敗と向き合う第一歩になる。
私は、まだその振り返りが不十分で、根本的な反省にまで深められていないのではないか。
マルクスの失敗への向き合い方を読みながら、そう思った。
 自分の限界と向き合うとはどういうことか。失敗で明らかになった自分の行動の限界と、
その限界がこれまでの生き方とどのようにつながっているかを考え、言葉にすることではないか。
限界となった事実の把握と、その選択をせざるを得なかった自分のこれまでの生き方や、
その時の心情を結びつけて言葉にできるかどうかではないか。
 根本的な限界には目をつむり、さほど苦にならない枝葉の部分のみ努力して、
都合よく失敗した事実を自分の記憶から消したい。
 しかし、それは自分を絶対視して、客観的に見られなくなるばかりではない。自分に例外を許してしまうと、
自分以外のすべての現象に対して、客観的にとらえることができず、真理を見抜けなくなるのではないだろうか。
だから、成長して前に進むためには、つらいけど自分の限界と向き合うしかない。

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9 徹底的にマルクスに寄り添った「内在的方法」    安藤 雷

 「現代に生きるマルクス」では、マルクスがフォイエルバッハの圧倒的影響下にあることが明らかにされている。
フォイエルバッハは「発展の論理」の半分しか我が物にしていない。内化のみで、外化が欠けている。悟性的だとも言える。
このため、疎外態が敵視され、「根源への解消」や「逆転」が解決策となる。これはマルクスにそのまま受け継がれている。
そこに大きな問題があることもまた「現代に生きるマルクス」で示されている。
 しかし、発展が内化かつ外化の運動であることからすれば、内化のみでは不十分であることは自明に見える。
どうしてこんな「初歩的」なところで躓くのだろうか。読書会でのこの質問に対する中井さんの答えは
「そもそもヘーゲルが分かりやすく発展を示せていない」。我々には、中井さんがシンプルな形で示してくれている。
だが、当時はそうではなかった。空前絶後のものを生み出した当の創始者が、誰にでも分かりやすい形でシンプルにまとめる
のは困難なのだと思うし、そこまで求めるべきではないとも思う。だからこそ、その後の世代に果たすべき役割がある。
 だが、マルクスはその役割を果たせなかった。なぜか。1848年の革命の挫折を、真っ当な形で十分に反省できなかったからだ。
その結果として、唯物史観からはある意味で手を引き、下部構造である経済学の研究に自分自身を限定した。
さらには、革命運動への関わり合いも限定的なものとなり、組織における指導者と構成員の相互関係からも切り離された。
つまり、内化と外化の両方を押さえるのではなく、片方のみに自分自身を限定し続けたのだ。
これでは発展の論理を分かりやすく示し、かつ、それを発展させることは難しい。
 「現代に生きるマルクス」では、こうしたマルクスの思想の不十分さをマルクスの生き方の問題に求めている。
若きマルクスの初心と覚悟、人権宣言の不十分さに対する衝撃と怒り、1848年の革命の挫折の意味。
これらと関連付けて、マルクスの思想の意義と限界が示されている。徹底的にマルクスに寄り添った「内在的方法」の
見本になっていて、これこそが正しいやり方だと思う。生き方と思想の関連が至る所で言及されており、
自分自身はどうだろうかと何度も思わされる。

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10 ただ見ているだけでいい         松永 奏吾

 『現代に生きるマルクス』の2章で中井さんは概念論レベルの発展を説明する。
古い自分の崩壊から、新しい自分の誕生へ。本質論レベルの発展についてはすでに、ヘーゲルのドングリの例や、
牧野さんの「発展とは本質に帰る変化」という説明を、中井さんの解説つきで繰り返し聞いていたが、
それはどうも「発展」という感じがしなかった。いや、正確には、おもしろいなあ、なるほどなあ、という気持ちで
まず圧倒されるのだが、わずかに心のどこかでおかしい、と感じていたような気がする。しかし今、あらためて、
この2章の概念論レベルの発展の説明を読むと、ドングリの話はどう見ても発展ではないなと感じることができるし、
どうも前からおかしいと感じていたような気がしてくるから不思議である。
人生ではじめて「発展」という言葉に出会った時があるはずで、そのはじめの感触を思い出してみると、
どうもはじめから分かっていたような気がするから不思議である。(プラトンの想起というのはこれか。)
その時の「発展」という言葉の感覚は、新しい段階へと進んでいく感じ、明るく外に広がっていく感じ、そういうものだった。
それと比べたら、ドングリの永遠に繰り返す成長過程の方はなんというか、もっと静かなもので、ぐるぐる廻る神秘の連鎖。
本質論の世界は、生物の本などにある生命循環や食物連鎖の絵図のイメージである。
 その言葉を「よく見れば」、その言葉にはじめて向き合った時の感覚によれば、分かるはずのことを、
中井さんの論理的説明によって思い出させられる。ヘーゲルの言葉もそうで、本書で重要な三項になっている
「限界、制限、当為」もほんとうは、それぞれの言葉の感覚そのままに理解できる、ふつうの話である。
ただし日本語の場合、「限界」はまだしも「当為」になると日常生活用語ではないという問題が別にある。
そもそも、本質も概念も認識も自由も論理も発展もすべて漢語であって幕末から明治の近代化の際にこしらえた言葉である。
しかしそれは根本問題ではなくて、言葉を「よく見ていない」こと、その言葉のはじめの感覚を忘れていることをもっと自覚したい。「発展」という言葉をヘーゲルがあまり使っていないということを中井さんから聞いたが、使おうが使うまいが、
それが「成長」と同じ言葉だと分かれば、人は、私は、どうすれば成長できるのか、という問題くらい大事な問題もないはずで、
それがヘーゲル論理学の核心になる、というのも当たり前の話である。
 ヘーゲルの「ただ見ているだけでよい」というのもこの言葉通りの意味であって、本当に見ているだけでよいのかも知れない。
むしろ問題は、ものを見ることができない、ということにある。私は日本語の助詞ハについて長年考えているが、
一段階自分の認識が進んだと思った時、ふりかえってみて、自分がどれだけ「ハ」を見ることができなかったかということに
気づいて愕然とする。よく見たらそのままじゃないか。
 言語を対象にした場合、言語で言語について考えるということになり、手段も言語、目的も言語になる。
が、そもそも言語は手段である。言語という手段をつかって言語という手段のことを考える地獄におちいる。
どこにも対象が見えないのだから、私は何も見ていないことになる。
何に使うのかもわからない道具を人生かけて作り上げる地獄である。冗談じゃない。こういうことを書くのは、
今、やっと、「ハ」が見える感じがしてきたからである。ものが見えるようになればただ見ているだけでいい。
これが2章を読んで考えたことである。
 私のマルクスとのはじめの出会いは、高校の世界史の教科書で、ロシア革命の物語の背後に、マルクスの理論があると知った時。
教科書を読んで感動したのはロシア革命の書いてあるページだけだったかも知れない。
ナロードニキという知的なやつらがロシアの田舎の農民に話しかけ、話しかけることによって世界を変えようとしていた。
レーニンのことはあまり覚えていないが、彼らの知性の親玉がマルクスだと書いてあった。当時の感覚を今の言葉にすれば、
それまでの世界史は「発展」には見えなかったが、ここに「発展」の具体例があった。
人間の知性の発展がそのまま世界を発展させたところに感動があった。
 3章のマルクスは、物語のようだった。中井さんは1、2章で発展の論理を説明した後、こんどはその論理の具体例として、
マルクスという人間の成長物語を描き出している。マルクスが古いものと闘い、革命に挫折し破綻する姿を描いているが、
そこに1、2章で説明された、現実と理想、限界、制限、当為が反映していると思う。
 中井さんはいつも、ヘーゲルから学んだことを自らやって見せ、ヘーゲルやマルクスを批判したあとにはその代案を確実に出す。
おそらく2章と4章が重要なのは、そこが中井さんの代案を出したところだからである。
中井さんの、ヘーゲル、マルクス、牧野さんとの違いは、人間のはじまりの段階の捉え方にあると思う。
すべては欲求衝動、空想、妄想、夢、悪からはじまるという理解が中井さんであり、それをはじまりに置く以上、
どこまでもそれを展開させて終わらせることが発展だということを示しているのだと思う。
 3章に話を戻すと、マルクスに「寄り添う」ことを徹底的にやったという中井さん自らの説明があったが、
対象に「寄り添う」ためには、実証的な調査が必要で、この3章の徹底した実証性もすごいものだと思う。
「経済学批判」への序言に対して精密な注釈を施し、初期マルクスの、あまりまとまりのない、おそらくは読みづらい
大量の文献を丁寧に調べ、物語にとってどうでもよいところをカットしたんだろうと推測される。
初期文献の中にあるマルクスの思い、問題意識をはじまりとして捉え、それが展開し、崩壊する過程を、
諸文献を巧みに構成することで物語っている。「ただ見せるだけ」にしてある。実証的に事実に語らせ、
マルクスという存在を運動させることによって、あとは読者が「ただ見ているだけ」でよいという状況にしてある。
ヘーゲルは「ただ見ているだけでよい」と言いながら、自分の体系を「ただ見ているだけ」で分かるようには書いていない。
中井さんがここまで分かりやすく、「ただ見ているだけでよい」状態にしてくれた。私はこの3章に感動した。

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11 「地域の自立」と中央コンプレックス   笹本 貴之

 読書会には10年ぶりくらいの参加となりました。10年前に鶏鳴学園での学びに区切りをつけて以来、
私は地元甲府で一からペレットストーブ販売事業を立ち上げ、5年前からは上記事業のショールームにカフェとシェアスペースも
併設する施設の運営もしています。
 この間、私は生産力をつけて、地域で生産関係をつくってきたのだと思います。そして地域経済に紛れながら、
それをつぶさに見てきました。これは11年前に「地域の自立」という言葉を掲げて選挙を闘いながら、
実は私自身がこの地域で自立できていなかった、という深い自己反省の結果として、どうしてもクリアーすべき課題への
取り組みでした。
 今回、中井さんの『現代に生きるマルクス』を読んで、このように私の10年間の取り組みを振り返ると共に、
やはりこのまま地域経済に留まるのではなく、もう一度、そこから見えてきた(地方の)地域のあるべき姿、
つまり「地域の自立」を世間に問いたい、という意識が強くなってきました。
 しかし、今回の読書会でZOOMの画面を見ながら、私が無意識に考えていたことは、
「この参加者たちに、私たち地方の経営者の苦悩がわかるだろうか? いや分かるはずがない」ということでした。
そしてこのことは、20-30代に鶏鳴学園で学んでいるときにも、ぼんやりと思っていたことだったと思い出しました。
 私のこのコンプレックスは、未だ経済的にも精神的にも中央に従属している地方の地域社会における中央コンプレックス
そのものなのでしょう。そのことの克服をテーマにする私自身の中の深いコンプレックスに愕然としながら、
「中央でのグローバル経済に対して、地方の豊かなローカル経済を対置」している今の私のレベルから、
より発展的な見方のできる人間になろうと、希望を持ちました。

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12 悪こそは未来          高山 明

 およそ30年ぶりに中井さんの読書会に参加させてもらいました。大学時代以来です。
高校時代に鶏鳴学園に出会い、中井さんの授業を受け、牧野さんにドイツ語を学び、ドイツに留学し、
フライブルクに引っ越された中井さんと貴重な時間を過ごし・・といったことが一気に思い出されました。
Zoomの画面には鶏鳴で研鑽を積んだ笹本さんの顔もあり、30年という月日が一気に吹っ飛んで今に接続されたように感じました。
 『現代に生きるマルクス』を読んでいて、30年前から一貫しているなと思ったことがあります。
それは「至らないもの」に対する中井さんの姿勢で、若さ、感情、空想、妄想、夢、無意識、失敗、間違いといった、
ともすると簡単に「悪」だと否定されてしまうものへの姿勢でした。高校時代、中井さんの授業に出席していた時に
最も救われたのはその姿勢でした。自分の至らなさを可能性として見てくれている、
そこに一人の人間が成長するチャンスがあるとこの人は信じてくれている。
この感覚は私のそれまでの学校生活では体験したことのないものでした。その眼差しにどれだけ救われ、励まされたことか。
「寛容さ」や「あたたかさ」という言葉で表現したくなる姿勢ですが、実は個人の人柄や性格といったものを超えて、
そうした見方こそ発展の論理を地でいこうとする中井さんの実践であり、能力なのだと本書を読みながら改めて思いました。
それはマルクスの見方にも貫かれていました。とりわけ、マルクスが至らないもの(悪)を切り捨ててしまったこと
(発展の論理を地でいけなかったこと)を批判し、本書全体を通してその限界を乗り越え、発展させようとする叙述には、
頭だけでなく胸も打たれました。
 
*今後個人的に考えていきたい点をメモしておきます。
 フォイエルバッハ・テーゼの4は、宗教の「解消」を扱っています。私は演劇をつくっていますが、
演劇は宗教から派生した芸術であるため、テーゼ4で批判されている宗教と深く関係していると思いました。
私は演劇を都市(「自然」の対としての「都市」=「社会における諸関係の総和」の意味に使いたい)に戻すことを
テーマに演劇活動をしています。芸術的に表象化された世界、「王国」として「雲の上」ならぬ「舞台の上」に
固定された演劇をどのように生活のなかに戻すことができるか。(ちなみに、古代ギリシャ劇場では舞台の後ろに
自分達が生活する都市が見えました。都市生活の基礎を支えている共通のデータベースである神話が舞台上で解体され、
批評されますが、観客は客席にいながら舞台と都市の「二重化」を体験していたわけです。)
解消でも除去でもないかたちで「舞台芸術」にすぎない現在の演劇を批判し、演劇を都市へと返すこと。
その方法がテーゼ4に先取りして書かれているように思いました。この方法(能力)を自分のものにし、
演劇を更新したいです。(それはきっと、本質的に古代ギリシャ演劇へと戻ることを意味するのでしょう。)

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13 20世紀最大の実験、共産主義国家失敗原因探求     宮田 晃宏

 今回、初めて中井先生が主催する読書会に参加させて頂いた。私は、熊本県の高校教諭で教科は「農業」、
採用は「食品製造」である。しかも、農業高校出身で大学も農学部の農芸化学科出身であり、
その後、少々の社会科学を学んできたが、哲学を勉強したことはない。このような状況下で初めて参加ということであった。
 私の「マルクス」の印象と言えば、共産主義の象徴であり、ソビエト連邦時代のクレムリン「赤の広場」でエンゲルス、
レーニン、スターリンと共に掲げてあった肖像画である。スターリンの率いたソビエト連邦は第二次世界大戦で2,800万人
(全世界8,500万人、日本310万人、ユダヤ人590万人)とも言われる犠牲者を戦死者よりも餓死者や強制収容所で多く出し、
私はヒトラーを遥かに凌ぐ史上稀にみる独裁者だと捉えている。また、この他にもカンボジアの国民の1/3を虐殺した
ポル・ポト、キューバ危機を引き起こしたカストロ、ルーマニアのチャウシェスク、北朝鮮の金日成、
中国毛沢東の文化大革命、プラハの春、ハンガリー動乱、日本の連合赤軍事件というように例を挙げるとキリがないが、
共産主義を基にした国家・組織には正直言ってかなり悪いイメージを持ってきた。
 ただ、私が住む熊本市南端の隣町に嘉島町というのがあるが、この町出身に松前重義という人物がいる。
松前重義は、東海大学の創設者であり、共産主義の思想に寄り添っていたことでも知られている。
しかし、私は悪いイメージはなく、逆に好印象を持っている。そこで、「なぜ松前重義は共産主義に寄り添っていたのか」
と疑問に思っていた。
 また、今にして思えば、共産主義国家や組織が起こした出来事や事件にばかり目が行き、
「では、共産主義とは何か?」を深く知ろうとはしていなかった。それで今回の読書会に参加することは、
世の中や人間の根幹を考えるいい機会となった。加えて、自分の思想信条の根幹を確固たるものにするために
哲学は重要であると考えるようになっていたので、その入り口に立てたのは良かった。
これからも折をみて時間を作って学んでいきたい。

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14 ブルセラショップの解説を、自由主義で説明するのは、度肝を抜かれました   ゆげ ひろのぶ

 御本は、自身の学力では及ばない所、多々でしたが、ブルセラショップの解説を、自由主義で説明するのは、
度肝を抜かれました。確かに、「マルクスは古い」と言われます。トヨタの工場に人がいない時代なので、
「剰余価値説」は時代にそぐわないと言われます。
 しかしながら、「弁証法的に、封建制から資本主義、そして社会主義への発展」は現在でもなお、圧倒的な説得力があります。
 もちろん、学問の再構築が必要であり、貴塾も当塾もその人材を準備しているところに強烈な使命感があると
勝手に推測しております。

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8月 05

中井ゼミの5月の読書会では、私の『現代に生きるマルクス』をテキストにしました。

 この本は、現在の私の持てる力のすべてで、マルクスと勝負した結果であり、これまでの35年ほどの
私の研究の総決算となっています。何カ月も集中して作業をしていたために、書き上げ、刊行されてからも、
しばらくは、私自身は茫然とした状態でした。
 読書会で『現代に生きるマルクス』をテキストとして取り上げたのは、刊行した後の私の心に一区切りを
つけることが目的でした。読書会で参加者と意見交換することで、この本の意義、意味を客観的に見つめ直し
たかったのです。読書会に参加してくれたみなさんに感謝しています。
 読書会の参加メンバーには、読書会後の感想を書いてもらいました。
 この読書会の記録と、参加メンバーの感想を、発表します。

 本日は読書会の記録、明日には参加メンバーの感想を掲載する予定です。

■目次 

読書会の記録
テキスト:『現代に生きるマルクス』中井浩一
記録者:松永奏吾
読書会日時:2022年4月24日
参加者:15人

1.参加者の読後の感想
2.全体
3.存在は運動し、自らの本質を現わす。だから認識はそれを見ているだけで良い(第二章)
4.マルクスの人生(第三章)
5.若きマルクスの闘い(第四章)
6.唯物史観(第五章)
7.読書会を終えての感想

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〇=参加者の発言  ●=中井さんの発言

1.参加者の読後の感想

〇これまでばらばらだったマルクスが、この本を読んで全体が整理された。
マルクスがヘーゲルを理解するための具体例になった。
たとえば、下部構造が上部構造に止揚されるということは、上部に責任があるという意味だと理解した。
自分自身については、「発展」の理解。低レベルの当為で存在と一致するのではなく、
高いレベルの当為と存在を一致させるために、自分の認識能力をあげなければならない。(Aさん)

〇六章で、マルクス自身が自覚できていないことを中井さんが明らかにしているところがすごいと思った。
「問い」を立てて答えを出すことの重要性を思った。(Bさん)

〇マルクスに寄り添って書かれている。特に、1848年の革命の失敗の話と、人権宣言のところが、
マルクス自身にとってどういう意味をもっていたのかという視点で書かれていた。(Cさん)

〇四章が大きく響いた。中井さんが畳みかけるように、マルクスがフォイエルバッハとヘーゲルのつぎはぎに
なっていることを問題にしていた。また、自分の階層の自覚ということ、自分の限界の自覚ということが
どうすれば可能なのかが自分の課題としてある。(Dさん)

〇三章から四章で、マルクスの革命運動の失敗後の絶望を思った。二章で、ほんとうに「終わり」を終わらせる
ことのできる人というのは、認識の主体性が必要なのだと思った。(Eさん)

〇最近、他者がない感覚がある。他者を見てもその中に自分を見ているだけ。
六章に「自己の内部の自分を超えるもの」と書いてあったところが響いた。
また、六章に「人間の無意識に踏み込んだのが唯物史観」とあったのが参考になった。(Fさん)

〇発展と発展でないものが対比して書かれていて、ヘーゲルを学ぶ媒介としてマルクスは有り難いと思った。(Gさん)

〇今自分の生き方を白紙にしているところ。自分の心からやりたいこと、社会の発展につながるものを考えるヒントになった。
また、前回の読書会で問題になっていた、個人がどこから生まれるかということも引き続き問題になっていた。(Hさん)

〇私有財産の問題を考えた。山林管理の仕事をやっているが、山の所有者が個人の勝手で何もしないと
地域全体の問題になる。この問題を発展の契機として次に何をすればよいのか、考えている。(Iさん)

〇はじめに、四章の5、五章の5に感銘を受けた。一、なぜ売春は禁じられるのか。
これは社会が向き合っていない問題。二、思想は人の生死にかかわり、能力のない人がやると問題になる。
誰がやれるのか。三、「宗教は究極的には終る」とあるが、いつか。(Jさん)
●宗教の終わりはとうぶんない。数千年はない。しかし、終わりが何かということは、はじまりが何かと同様、
考えないわけにはいかない。

〇七章が響いた。しばらく学習から離れていたのでまとまったことは言えない。(Kさん)

〇山梨で地域資源をどう活かすかをテーマに仕事をしてきたが、11年経ってようやく経営が安定してきたので、
今後どうするかという現在、また学習を再開しようと思っている。(Lさん)

〇難しかったが、四章の「鶏鳴学園の実践」のところではじめてストンときた。(Mさん)

〇マルクス主義、社会主義、共産主義といえば、毛沢東、スターリン、ポルポトなど、非常にイメージの悪い人ばかりで、
あの人たちのことが頭に浮かびながら読んだ。彼らはなぜああなったのかということを考えながら読んだ。(Nさん)

2.全体

●今回の本は、マルクスに徹底的に「寄り添って」書いた。
マルクスの思想を内在的に理解すること、生成の必然性を示すことを心掛けた。特に三章。
こうした内在的な理解がなければ、マルクスを超えることはできないと思っている。
●本書で最重要なのは、二章と四章。
二章は存在論と認識論の捉え方について、中井の「足場」となる思想をはっきりと出した。特に、二章の3の(5)。
四章はマルクスを根源的に捉えて超えようとしたところ。
●マルクスを理解しマルクスを超えるためには、ヘーゲル哲学の理解が必須。(はじめに)
●マルクスの唯物史観は、人間が無意識に「前提」としていることを問うものだった。(はじめに)
●1960年代70年代に学生時代を過ごした人間にとって、20cの世界にとって、マルクス主義、社会主義は
それに賛成にせよ反対にせよ、ひとつの「転換軸」になっていた。(おわりに)
●牧野紀之の運動が失敗したことの総括をこの本の中で中井がしなければならない。
マルクスも牧野も自分たちの活動の総括ができていない。(おわりに)
●「付論」(2010年)は、中井がマルクスから自立したと思った時点の文章。それはそのまま牧野からの自立を意味する。

3.存在は運動し、自らの本質を現わす。だから認識はそれを見ているだけで良い(第二章)

●ヘーゲルの「存在は運動し、自らの本質を現わす。
だから認識はそれを見ているだけで良い」という認識論には、「結果論的考察」、「ミネルバの梟」といった問題がある。
●われわれの中にある欲求、衝動というはじまりの中に、未来がある。
その正体を言葉にし、認識のレベルにまで高めればよい。この、中井の「欲求、衝動」というものの捉え方が、
ヘーゲル、マルクス、牧野との立場の違い。
●「見ているだけ」というのは、何もしないでよいという意味ではない。対象がその本質を現わすように
、対立矛盾を深めるように、つまり発展するように主体的にはたらきかけることが、まず必要。
それがなされたならば、対象は発展して自らの本質、概念を示す。だから、認識はそれをただ見ているだけで良い。
●ヘーゲルの「存在論、本質論、概念論」という三段階の理解がすべて。
●マルクスはヘーゲルの存在論の論理(限界、制限、当為)を使って時代の変革、社会の変革の説明をしているが、
そもそも存在論の論理で発展(概念論)は説明できない。マルクスの概念論の理解は不十分だった。
●「分裂のない一体の状態→分裂、対立→一体の状態にもどる」は、本質レベルの発展。
概念レベルでは、「対象が生まれ(古いものが崩壊し)→対象が本質を実現し(古い世界を止揚し)→
対象が完成し崩壊する(新たな世界が生まれる)」となる。
●人間の成長、発展をどうやって認識するか。人間には、存在と当為の分裂、当為の選択の問題がある。
選択の基準となるものが概念。

4.マルクスの人生(第三章)

●マルクスの唯物史観は、フランスの人権宣言に対する批判という側面がある。
その自由、平等、安全、所有の権利は、ブルジョアの権利、利己的人間にとっての権利であって、
全人類のためのものではない。マルクスの先見性。
●しかし、マルクスはそれを理解しない他の思想をすべてイデオロギーとして切り捨てた。
本来は、人権宣言の「自由」を発展のはじまりの段階のものとして位置付ければよかった。
●マルクスはエンゲルスと共同で『ドイツイデオロギー』『共産党宣言』を出した。
個人主義の克服、共同性、協同性を主張したマルクス自身の、理論と実践の統一。
●1848年の革命の失敗のあと、マルクスは堕落することなく前進した。が、その時の反省に問題があった。

5.若きマルクスの闘い(第四章)

「フォイエルバッハ・テーゼ」は20代のマルクスが、世界を相手に一人で立った文章。
●「環境が人間を作る」ことと「人間が環境を作る」ことを統合するには社会を変革するしかない(テーゼ3)。
●テーゼ4こそが最重要であり、マルクスのすごさ。
ふつうは相手の意見に自分の意見を対置するだけだが、テーゼ4はフォイエルバッハ自身の考えを発展させ、
そこから自分の主張を導出している。これがほんとうの批判。このテーゼ4から直接テーゼ6が導出され、
テーゼ4と6の対立から他のテーゼが導出される。
●フォイエルバッハの疎外論は、発展の正反対の立場。疎外論は対立矛盾をわるいものとみなし、問題を「取り除く」。
●疎外論は「根源」に戻ろうとするが、根源に戻ったら、再度そこからの捉え直しで現在の外化された現実、
現象にまで進まなければならない。対象を真に発展させるために。
●マルクスは、先生を選べなかった。ヘーゲルの発展論とフォイエルバッハの疎外論のつぎはぎになっている。
●疎外論の本丸である宗教に対して、マルクスは疎外論の枠組みでしか考えられなかった。
宗教そのものへの批判ができておらず、堕落した宗教の形態を前提としてそれを批判しているだけ。
マルクスの宗教に対する浅い理解から、マルクス主義自体が宗教に転化してしまった。

6.唯物史観(第五章)

●唯物史観の最大の問題は、それを「能力」の問題として見ていないという点にある。
方法と能力は一体であり、方法には能力が必要。しかしその能力を上げる前提には、生き方の問題がある。

7.読書会を終えての感想

〇概念論の話のところに、存在論に出てきた「限界、制限、当為」が出てくるのはなぜか?(Aさん)
●存在論にあるものは本質論の中にも概念論の中にも止揚されてある。
ただし、それを本質論の意味で使うのか、概念論の意味で使うのかという違いは、明確に意識しなければならない。
マルクスにはそれがない。

〇欲求衝動の中に未来がある、と言われて、今の自分はそれが分からなくなっていると思った。(Bさん)
●欲求衝動がなくなると人間は死ぬ。

〇一、マルクスにとって唯物史観の一般化がなされた時点は、中井さんだと「付論」を書いた時点だろうと思った。
二、「経済学の方法」に唯物史観が書かれていないのは、1848年の革命後のマルクスの方針転換による、という説明は納得がいった。三、ヘーゲルは自分の弟子をどうやって教育していたのか?(Cさん)
●ヘーゲルもマルクスと同様、弟子をちゃんと教育できていない。これは大きな問題。

〇1848年の革命の失敗後、自分の限界の自覚と克服ができなかったマルクスは、運動から退いてしまった。
どうやって自分の能力の低さを反省し克服していくかが大事。(Dさん)
●マルクスは革命後の失敗を克服できないことを正直に表明し、自分のできないことを仲間に、
後世に託すことを表明すればよかった。それをせず大御所になってしまったことの俗物性。

〇ほんとうに根源が根源であるのなら、今の中にその根源がどう生きているのかを捉えないとおかしくなると思った。
根源だけ見ても現状への考察は出てこない。(Eさん)
●はじまりにあったものが根源ではなく、はじまりから今に至るまでのすべてを貫き、自己を実現してきたものが根源である。

〇マルクスの初期のユダヤ人問題の叙述などを読むと文学的なものを感じるのに、
マルクスはなぜ宗教、人間に浅い理解しかもてないのか。(Fさん)
●フォイエルバッハ・テーゼも文学的。文学的能力だけでは自分の限界は超えられない。

〇自分が3月に提出した総括の文章は、中井ゼミに入る前と後とで、自分のそれまでの生き方がどう発展したかを
ちゃんと総括することができていなかった。(Gさん)
●自分の人生の「区切り」を考える時には、古い自分がどう壊され、新しい自分がどう現れたかを、
発展を、まとめなければならない。

〇世間には「能力を上げる」と称する下らない方法がたくさんあるが、哲学を根本にしないと能力は上がらない。(Hさん)

〇自分は林業をやっているが、自分たちの新しい林業と従来の林業を対置していることに気づいた。(Iさん)
●古いものの中から新しいものの現れて来る必然性を見抜くことが大事。

〇資本論とか共産党宣言よりも前のマルクスを知った、マルクスがヘーゲルから出ていることを知った。
マルクスの若い時代がすごかったことを知った。(Jさん)
●私がすごいと思うマルクスは、ほぼ若い時代に限定されている。革命の失敗後ではなく。

〇この10年間、自分の人生のやり直しをやってきて、ようやく一息ついたところ。
この読書会に出たことで、自分を見つめ直しこれからのことも考えたい。(Kさん)

〇一、認知症の高齢者を相手に仕事をしていて、変わらない相手に言ってもしかたがないという気持ちを抱いているが、
それは相手の問題ではなく、認識している自分の問題。
二、自分の見ている患者は基本的には治らないが、それでも何か新しいなにかは生まれているのかなと思った。(Lさん)
●人間は生きている限り前に進み、新しいものを生み出そうとしている。
それを見ている人間がどうはたらきかけるか、によって変わる。人は死ぬまで発展することが可能。

〇自分の教えている農業高校にいるのが、ブルセラ高校生と同じ。彼らとの関りを考える時に、
今回学んだようなことが考えるヒントになるのだと思った。(Mさん)

〇最後の能力の話がすとんときた。(Nさん)

〇昔、高校でおちこぼれだった自分を、鶏鳴学園で拾い上げてもらった。
本の中の、空想や妄想や夢、悪のとりあつかい方、叙述に、あたたかいものを感じた。
当時の自分の抱えきれないものを思い出した。
宗教、芸術も同じこと。自分のやっている演劇は宗教から生まれた。
フォイエルバッハ・テーゼ4に衝撃を受けた。彼が批判している宗教にあたるものを自分自身が、今やっている。
自分はそれを社会の中にどうやったら返せるか、だけでなく、
それを再度外に出せるか、活かせるか、という課題に取り組んでいる。(Oさん)

8月 04

1 8月の中井ゼミ

この夏は8月14日(日曜)に文章ゼミ+「現実と闘う時間」をオンラインで行います。
他にはゼミはありません。
「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

参加希望者は申し込みをしてください。
ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

2 9月以降の中井ゼミの日程が決まりました。

月の前半は、文章ゼミ+「現実と闘う時間」を行い、
月の後半では、読書会を行う予定です。
いずれも日曜日で、午後2時開始予定です。
オンラインでの実施予定

「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

参加希望者は今からスケジュールに入れておいてください。また、早めに申し込みをしてください。
ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

読書会テキストはまだ未定です。決まり次第、このメルマガで連絡します。

9月
 11日
 25日

10月
 9日
 23日

11月
 6日
 20日

12月
 4日
 18日

4月 30

3月の読書会の記録を掲載します。

中井のこの2年間は、『現代に生きるマルクス』の原稿執筆でいそがしく、余裕がなかったので、読書会はおろそかになっていました。

この間に、どうしても読まなければならない本がたまっていました。
1つはプラトンの『国家』であり、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』などです。
『現代に生きるマルクス』を刊行し、ここで本格的に読書会を再開し、たまっていた本に取り組むことにしました。

3月はエンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』を読みました。
これは「家庭論学習会」(田中ゼミ)を主宰する田中さんにとっての必須の書のひとつだと考えるので、一緒に読んでおきたいと思いました。また、ゼミのメンバーに親から子への遺産相続の是非を考えている人がいるので、家族と私有財産について、考えてもらえるテキストを用意したかったこともありました。

『ウィキペディア(Wikipedia)』では次のようにまとめています。「単婚制は財産所有権を掌握した男性による支配の原則で、女性に対して不平等な支配のシステムと考え、この不平等な婚姻は姦通と 娼婦 制度によって補完されるとした。 古代文明の発展の過程と共に、女性は支配の対象となって家財として扱われるようになり、公的社会への参加権をはく奪されていった」。

この本には思い出があります。
20代の私は、男女の性愛のありかたに悩んでいました。相手を自分の所有物扱いするような考え方に強く反発していましたが、代案をきちんと示すことができなかった。
互いの自由と平等が保証されるような関係はどうしたら得られるのか。
当時、私はまだエンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』を読んではいなかったのですが、その影響下にあった本は読んでいました。
実際のエンゲルスを読んだのは30代の前半ですが、その時に、20代に読んでいた本の基になる本だと気づきました。それを今回久しぶりに読み直し、以前とは違う読み方ができるようになったと思います。エンゲルスの限界や不十分さについて考えられるようになったことです。

■ 目次 ■

3月の読書会(『家族・私有財産・国家の起源』フリードリヒ・エンゲルス著)の記録
記録者 田中 由美子

一 はじめに
二 参加者の読後感想
三 中井さんの問題提起
(1)文明以前の社会や、近親相姦の禁止をどう理解すべきか
(2)「単婚」に、個人の芽
(3)奴隷の必然と、家父長制  
(4)男女の関係、ほんとうの愛
(5)氏族制度から国家へ
(6)モルガンやエンゲルスの、その他の問題
四 参加者の感想(読書会を終えて)
五 記録者の感想
六 読書会を終えて(中井)
 
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3月の読書会(『家族・私有財産・国家の起源』フリードリヒ・エンゲルス著)の記録
記録者 田中 由美子

※ 〇=ゼミ生の発言  ●=中井さんの発言

一 はじめに

○日時  2022年3月20日 午後2時から6時
○参加者 中井さん、社会人ゼミ生9名、鶏鳴学園生徒の保護者1名
○テキスト 『家族・私有財産・国家の起源』(国民文庫1954/3/15)
○著者 フリードリヒ・エンゲルス

今回のテキストは、マルクス亡き後、その原始共産制社会や家族の研究を、エンゲルスが引き継いで著したものである。

特に古代からの氏族制度や婚姻を研究したモルガンを引いて、その家族史と、マルクス、エンゲルスの階級史観、国家観を結び付けようとした。

つまり、人類が氏族間の「群婚」から、一対の男女の「単婚」に移行したのは、人間がまず牧畜を始め、その分業と交換により牧畜民に富が蓄積されたことによると。

それ以前の血縁のたしかな女、母権の強い氏族共同体から、牧畜に直接たずさわる男個人が、私有財産と、相続を含めた決定権を持つ、個別家族への移行である。

そうして格差や対立が増大し、さらに商工業へと分業が進む中で、氏族制度は解体し、諸階級に分裂した社会をコントロールするための国家が生まれてくる。       

しかし、そうして始まった資本主義的経済と、支配階級のための国家により、被支配階級と女性は抑圧され、それは社会主義革命によって必然的に滅ぶべきものであるという彼らの革命論が示される。

また、エンゲルスは男女の関係のあり方に強い関心があり、「単婚」という「一夫一婦制」は、「個人的性愛」によるものではなく、私的所有を起源として、奴隷制にも関わり、売淫制を伴う産物であると問題提起し、それも革命により解決されると説く。

二 参加者の読後感想

〇他民族と交易や戦争を行うことで、貨幣も生まれ、民族は発展する。「ゲルマン人という名を、ケルト人からあたえられたp118」にも、他者と出会うことで、初めて自らが意識されることがよく現れている。(Aさん)
→●(中井さんのコメント)交易と戦争の二つが、社会発展を考えるときに重要。

〇古代人の踊りに二種あり、一つは日常の中の節目としての祭礼、もう一つは戦争において(p119の五と六)。その二つがあるということが重要であり、また、どちらが根源的なのか考えたい。
 ギリシャでの軍隊指揮者が司祭と裁判者も兼ねていることや、交易があって民族が入り交じり、またそうするために軍隊から貨幣が生まれるのが、おもしろい。(Bさん)
→●氏族から国家が出てくるときに、戦争のリーダーが国家の王になる。共同体が発展していく際に、戦争は必然のものだった。

〇家庭内の無償労働をどうするべきかという問いが既にある。今も未解決。
 また、子の教育を、公的社会はどう担うのか、なぜ家庭で育てなければならないのか。(Cさん)
→●家事労働は社会の公的労働なのか、私的労働なのか、これは今も重要な論点。
子の教育は、ロシア革命の後、社会が担うべきという考えで多くの実践が行われた。現在、大きく言えば、保育園、幼稚園、学校などの公的機関と、家庭の両者でそれを担うということになっている。

〇プラトンの『国家』に書かれている、子の共有と、モルガンの「群婚」が類似している。(Dさん)
→●プラトンの、私有財産を持たないことや、子の共有という主張は、当時すでにスパルタが行っていたことであり、それは「群婚」ではない。「群婚」から出てきたのは氏族制度であり、それが根底にはあるのだが、問題は、むしろ我々近代のもの。「私有財産」の中に、親が子を支配できる、男が女を支配できることが入ってしまっている。

〇私有財産や国家を論じるために、「単婚」の前段階を詳しく論じる必要はあるのか。エンゲルスに以前の大らかな婚姻への思いがあるのか、男女のあり方を語りたかったのか。「群婚」の方が女性の権利、母権が強かったのに対して、今の「単婚」は女性差別的だと批判している。
牧野紀之「労働と社会」p101「家族から集合社会への唯一の通り路は雄と雌との関係及び両親と子供との関係のなかにではなく、子供同士の関係のなかにある」が印象的(Eさん)
→●マルクス以上に、エンゲルスには、当時のブルジョアの婚姻に対する強い批判がある。彼には連れ合いはいたが、婚姻制度に収まることを拒否した。
 近代において家庭と社会はどう関係するのかを、ヘーゲルの『法の哲学』が解き明かしている。子どもは家庭で育つが、労働力として社会に出ていく。その際、彼は社会の中に個人として現れていく。これが「個人」が生まれる大きな要因。その観点がエンゲルスにはない。個人というものが、この本の中で明らかになっていない。国家のことは書かれているが、個人はどこから生まれるのか。これはエンゲルスの性愛の考えの核心に当たるところである。それがないのは、驚くべき欠落。

〇人が土地を私有できるということは、それを他人に譲渡できるということでもあるという、私的所有の二重性の捉え方p217がリアル。たんに抑圧する者が悪いという捉え方ではなく、私有の本質の話。その二重性により、実際に多くの農民の土地が借金の抵当に入り、彼らは結局土地を失った。氏族という共同体が土地を所有していたときには起こり得なかったこと。
 読書会前の中井さんの指示、「家族の眼目は個人をつくることだ、ということからエンゲルスを読むべき」については、この本に個人としての生き方や労働、能力の話は無いと思った。
氏族制度の中で、成員としての人間がどう育つのかという話はあるがp125、氏族制度の評議会決議は「満場一致」p117でなければならない。「原生的」とは言え「民主主義」と呼んでいいのか。
他方、四?八章で描かれる、各地で文明段階に向けて階級や経済格差が生まれてくる実例からは、どれもそこに何らかの能力格差があったのだろうと思われるのに、その能力格差の解決が論じられない。家族の目的が富の獲得になってしまっているという批判しかなく、たんに私的所有や階級、国家をなくすという解決策になってしまっている。(田中)
→●私的所有の二面性のとらえ方は、ヘーゲルの捉え方。私有できると同時に、自分のものだから他人に手放せる、自分のものでなくすこともできる。こうして交換、売買契約が成立する。
 「個人」が一番大事。氏族制度の中には個人は存在せず、存在するのは文明以降。インディアンの酋長がどれだけ立派な人格を持っているのかという話は、アイヌ民族の長が立派であるのに対して、我々現代日本人がカスであるという話と同じで、無意味。こうした話のインディアンやアイヌ民族の段階ではそこには個人が無く、今の我々の個人の人格とは別の話。
この本では、個人を規定して全体の中に位置づけないので、大混乱が起こっている。自由や平等という言葉は未開や野蛮の段階には使えない。個人が無い社会に、自由も平等も無い。そういう時代の男女の関係のあり方を出すこと自体が無意味。エンゲルスは科学的ではなく、感情的。

三 中井さんの問題提起(主に二章、九章に関して)

(1)文明以前の社会や、近親相姦の禁止をどう理解すべきか

●近代の資本主義では、生産力を高めることがすべてであり、ブルジョアとプロレタリアの階級闘争もそのためだが、その唯物史観を、それ以前の世界にそのまま当てはめることはできない。それ以前の野蛮や未開での人類の発展とは何か。
 文化人類学者が論じている、共同体間での女性の交換の意味は何か。女性が「商品」や「貨幣」の役割を果たしたとして、それが悪いことであるかのような捉え方は的外れ。女性が共同体にとって最高のものであり、だから、交換されるものになっていたのではないか。

●親子間の性交、次に兄弟姉妹間の性交が禁じられていく。そのルールが決まっていくのは、何が目的で、何がどうなるための禁止なのか。モルガンもエンゲルスも、強い子が育たないからと「自然淘汰」p49・68で説明するが、薄っぺら。道徳も科学も存在しない段階で、初めは種族内部に何のルールも無いところから、近親相姦が禁じられていく意味をどう理解すべきか。
 人間が個人として現れていくとは、意識の内的二分が明確にあること。それは端的には自分とは何か、自分はどう生きるのかという問いが、生きる中心になること。その問いが無いところには自己内二分もなく、個人は存在しない。個人の生成がどういうプロセスの中で行われていくのか。エンゲルスの中にはそれについての問題意識が弱く、お粗末。
 近親相姦のタブーは、人肉食がタブーになったことともつながっているだろう。何かをしないという自己規制をする、それが人間。人間とは何かということが、すでにここにある。意識の内的二分はここに始まる。氏族制度の中では近親相姦はしない、何でもありだがそれだけはダメだというルールがあることが、私たちを人間にしている。動物にはそれが無い。

(2)「単婚」に、個人の芽

●文明段階に入り、男女が婚姻相手を互いに一人選ぶようになる。たんに近親相姦をしないというところから、その「単婚」まで来た。一人を選ぶとは、他をすべて捨てること。人間は、これはしないということを増やしていく。最初は否定が無いが、否定に次ぐ否定へ。否定が一つ入って分裂し、もう一つ禁止が入るとまた分裂。こうして意識の内的二分が進み、深まっていったときに、一夫一婦の「単婚」になり、そこに個人が現れている。一人を選ぶ中に、個人の内的二分がはっきり現れる。選択の基準を考える時、それは自分とは何かを考えることになっていく。そこにエンゲルスの言う「打算婚」などどれほどの問題があろうとも、一人を選ぶところに個人の芽がある。これが無ければ個人ということは出てこなかったのではないか。ここで初めて自由や平等を考えられる。
 
●氏族制度が現れても、その段階には個人は存在しない。しかし、そこから「単婚」家族が生まれ、個人が始まっていく可能性がここにあった。「単婚」から生まれた子が社会に出ていくことで、個人の社会との関わり方の中に、自由と平等が始まる可能性が出てきた。

●夫婦の子が社会に出ていくことで個人ということがはっきりしていく。エンゲルスはエスピナスからの引用文を、「高等動物では移動群と家族はたがいにおぎないあうものではなく相対立するものである」p42と説明するが、これが何を意味して、その後とどう結びつくのか不明。個人がどこからどう生まれてくるのかが、ここで問われており、牧野紀之がそれを「労働と社会」で論じた。ただし、子どもから社会が始まるとは、どういうことか。子は家族の一部でしかないが、一つは、「単婚」の中に個人があり、もう一つ、その中に現れる子が、社会の中で、その成員としての自由平等を実現していく。

●ただし、家庭の中に個人が無い状態で、子が社会の中に自由・平等を実現することは可能なのか。そういう家庭から子が社会に出て、個人が成立するだろうか。

●一人を選ぶということの究極のところに、「先生を選ぶ」がある。

〇質問:文明以前には「個人が存在しない」とは、個人の気持ちや精神も存在しないということなのか。(Eさん)
→●集団としての意志決定は行われており、そこに「個人」があれば、その社会の決定に断固反対と言う個人が出てくる。そうでなければ、そこに個人が存在するとは言わない。
「一人一人がたがいにまったく無差別」p127とあるが、みんなが同じ意見なら、そこに個人はいない。そうすると、今のぼくたちの社会には個人はいないのではないか。そこが恐ろしい。

(3)奴隷の必然と、家父長制

●経済発展すると、またさらに経済発展していくには、労働力が必要。それを得るために奴隷が必要だった。ギリシャの社会を支える奴隷の数がすごい。都市国家アテネでは、自由市民約9万人に対して、男女奴隷は36万5千人との数値をエンゲルスは挙げている(p154)。これがギリシャの民主主義の実態である。
奴隷=労働力は商品として売買された。今の時代も、サラリーマンの賃金労働は労働力をお金で買うもの。その起源は奴隷。
奴隷制度は何か特別なことではなく、一般に広くどこでもやっていた。戦争の目的は略奪であるが、金銀財宝だけではなく、奴隷の労働力の獲得も目的だった。

●その奴隷と家父長制がセットになっている。緩い「対偶婚」から、固定的な「単婚」に進んでいくときに、家父長制がくっついてくる。家父長制は家族からは出てこない。後ろにある社会の経済発展のあり方から生まれた。なぜ男が威張っているのか、家長である男が決定権を持っているのか。今と重なる問題。

(4)男女の関係、ほんとうの愛

●女は子を産むという意味で、自然的(生理学的)にはここに「男女の分業」が始まるとしているp84。しかし、自然的な分業(役割の違い)と社会的な分業とは違う。出産後の子育てや家事労働で問題になるのは社会的な分業であり、自然的なものではない。
エンゲルスは「男女の分業」から階級対立、社会主義革命の話に持っていこうとしている。

●エンゲルスは「近代的な個人的性愛」p88を本気で考えていた。当時意識のあるインテリの多くは、ブルジョアの婚姻制度に反対だった。男女のほんとうの愛とは何か。古代に親が婚姻を決めていたときには、個人的性愛は婚姻外にしかなく、中世の騎士の恋愛も同じ。婚姻は、私有財産も相続も含まれる社会制度であり、結婚と恋愛は違うという話になる。近代では、婚姻も、資本主義と、フランス革命などによる人権や自由、平等が前提の「自由意志の契約」p102のはずだが、そうなっていない。

●「性愛はその本性上排他的」であり、「一夫一婦である」p104に皆さんは賛成するか。また、エンゲルスは所有欲を諸悪の根源のように言うがp230、「オレの彼女」「私の彼」「泥棒ネコ」などは、恋人の所有を意味するのか。たんに表現の問題なのか、あるいは男女関係の実質的な問題がそこにあるのか。男女の平等は、相互に所有し、所有されることなのか。その枠組みを超えていくことなのか。超えるならどう超えるべきか。

●革命成立後には、女性が公的産業に復帰するというエンゲルスの答えがあるがp95、家事労働を誰がどう行うことが、男女の、そして社会の正しい在り方なのか。男の優越や、女が離婚ができないといった不平等を単婚から取り除くために、女が稼げないという問題を解決すべきというがp105、それが本当の解決なのか。

(5)氏族制度から、国家へ

●第九章で、マルクス、エンゲルスの思想を、氏族制度につなげた。

●分業と交換で考えていく。まず牧畜の登場が最初の社会的分業p208。圧倒的な生産力。(農耕はその付属というとらえ方。スミスと同じ。)奴隷を労働力とすることによって、階級が生まれるp210。そうして、氏族制度が内部から切り崩されていく。ただし、搾取と被搾取というとらえ方だけで、能力差を問題にしなくてよいのか。

●この時男の支配がはじまる。これ以前は男女の財産の差は小さかったが、牧畜に直接携わる男の地位が上がり、家事労働する女の地位が下がる。いちおう男女全員参加で決議していた氏族制度が、この面でも壊れていく。

●氏族制度は基本的に内部対立が無いものだから、対立や格差が出てきたときに解決できず、国家に取って代わられたp219。国家は氏族制度の中から生まれたが、氏族制度の外に、氏族制度と対立して生まれたというとらえ方p220は正しい。国家は、氏族制度の概念からは生まれてこない。氏族制度の概念は滅びること。氏族制度を結果的につぶすために、国家はその外に現れたp221。

(6)モルガンやエンゲルスの、その他の問題

●モルガンが、親族メンバーの呼び名と親族制度をつなげて考えているのはおもしろいが(二章)、呼び名を今の言葉の意味合いで捉えてよいのか。今の意識を昔の世界に持ち込むのではなく、多くの媒介を考えるべき。そうした意識の弱い二章は、文化人類学や精神分析の立場から相当の批判があるだろう。人間は、動物とは異なり、まだ個人は存在しない段階でも、意識の内的二分はあり、それを社会として担っている。

●「一人一人がたがいにまったく無差別」p127の、個人の無い氏族制度が解体し、文明段階に入っていく過程の、エンゲルスの説明がひどい。人間は元には戻れない。ここでは、断然大きく進んだものがある。人間が、ここで自分というもの、つまり「個人」というあり方を持つに至った。その裏面として、どこまでも堕落できるということがあるが、逆に、どこまでも前に進める。二章、九章とも大方間違ったことは言っていないが、思想運動をする者が「いやしい所有欲、獣的な享楽欲、汚らわしい…」とうような言葉でアジってはいけない。自分が堕落し、仲間をも堕落させる。実際にそうなった。

●牧畜・農耕、工業に次ぐ第三の分業、商人の登場p215は、明確に社会の発展。社会が分業と交換で発展していくなら、交換をスムーズに進める商人が必要。交換の専門家が出てくることは発展に決まっている。共同体と共同体をつないでいたのは、女性と貨幣と芸能など。ところが、エンゲルスの、商人=「寄生動物」という捉え方は、間違い。貨幣や商品を貶めるのはおかしい。高利貸しなどいろんな人はいるが、そんなのは当然。こうした考えが、資本家の役割を役割として捉えられなかったことと通底している。

●本書最後のモルガンの引用「つぎの、より高い社会段階…は、古代氏族の自由、平等、友愛の復活、ただし、より高い形態における復活であろう」p232は、最初のものが分裂し、より高いレベルで統合するというレベルの「発展」の理解でしかなく、世間一般の「進歩」「発展」の理解のレベルであり、ヘーゲルの「発展」ではない。古代氏族には自由も平等も無い。個人が生まれるときに激しい対立が生まれる。個人の対立は、階級対立の中、家族の中に生まれ、個人はそのあらゆる対立の中からだけ現れる。対立が嫌なら、個人は無理。氏族の中で生きるしかない。しかし、ぼくたちはもうそこへは戻れない。

四 参加者の感想(読書会を終えて)

〇個人的性愛は排他的、だけではストーカー、相手を殺したいだけになる。(Bさん)
→●一人を選ぶとはそれ以外をすべて捨てることであり、そうでなければ一人を選んだとは言えない。それを排他的とも言える。つまり、二人は世界に対して自分たちを閉じる。「性愛はその本性上排他的」は正しい。
しかし、閉じていちゃいちゃしてりゃいいのかという問題があり、それはどう解決できるのか。
二人の関係を閉じたものとして固定的で安定したものにする。それはそのことによって二人がそれぞれに社会的な場で全力で闘っていくことを支えるためである。
2人がその性的関係を社会から閉じることは、2人をそれぞれに社会に大きく開くためなのである。ここが重要なところではないか。

〇相続がなぜ子にだけなされるのかが、問題になっていない。土地の私的所有は、逆に手放せるということでもあると論じているのに。(Bさん)
→●財産は、まず共同体が受け継いでいたが、個人の所有が出てきたときに、氏族がその権利を奪うことはもうできない。個人の所有権は、手放すこともできる権利である。所有物のすべてを自由にできるという権利である。
遺産を残す人は、遺言ができる。財産を自分の家族に残さず、全くの他者に残すという遺言も可能。これが法律で定まっている。個人の考えでやれるのが近代の制度。

〇家族内の近親相姦の禁止は、家族や社会の崩壊を防ぐためではないか。(Dさん)
→●今の家庭内の問題は、閉じているという問題が大きい。家庭内部には問題解決する力が無く、みんなが崩れていくだけ。そのことと近親相姦禁止は深くつながっている。

〇「今も個人が無い」という中井さんの話から、自分に抗いがあるときに個人性を発揮できたことがあるとすれば、それは親の経済力が前提になっていたのではないかと考えた。それは個人性の発揮と言えないのではないか。(Gさん)
→●経済問題はきちんと考えないと真っ当に生きられない。だからこそ、困ったときに自分で抱え込まず、相談ができなければならない。
 選ぶということで大事なことは、その基準。何を基準にしているのかが問題になるのが個人。その際の基準が、自分とは何かの答え。だから厳しい。それをいい加減にやっていると、ずっと個人になれない。

〇唯物史観の定式が曖昧でおかしいせいで、家族の発展と経済の発展が結びついていない。家族は上部構造なのか、経済と密接した下部構造なのかも曖昧で、この本は何かを言えているようでいて、言えていない。(Hさん)
→●家族が下部、上部のどこにどう位置づけられるのかは大事な論点。エンゲルスがこの本を書いていながらそれをやれていないのは大きな問題。
また、経済を背景に、家族はどう発展するのか、そこが十分に結び付いていない。牧畜が起こったときに、家族はどうなるのか、そうした説明があいまい。

〇個人的性愛にエンゲルスの執着があり、それを位置付けるのはよいが、家族の変遷を議論する中でこの書き方でよいのか。この人は六十歳を過ぎても成熟していない。(Hさん)
→●社会運動をやっていながら成熟しないのは大きな問題。プラトンが『国家』に書いた、哲学やってカスになり、ルールを無視するようになったり、ニヒリズムに陥ったりという避けられない問題をどう超えるか。
マルクス、エンゲルスがこの問題を解決できなかったのなら、それはなぜか。いつまでも若作りで成熟しないのはカス。悟りきって老成するのではなく、本当の成熟は、どう可能か。エンゲルスはついに真っ当にその答えを出せなかった。二章はモルガンに従っている。本来はすべてを再構成すべき。マルクスのメモが、それを一層難しくしている。

〇子どもは何のために家庭で育てるのか。(Cさん)
→●子どもとは何かが、まず根本。家庭から社会に子が送り出される。Cさんも、大学卒業後社会に出て働いてきた。他の人たちと全く対等の関係を持てる。そこを君がどう生きてきて、これからどう生きていくのか、それが一人一人に問われている。個人というものをやってきたのか。それが先。
 次に、社会がどのように個人をつくっていけるのか。今はそれぞれの家庭に任されているが、それでいいのか。社会が子の養育を引き受けるのか、それは誰がどうすることなのか。子が生まれた段階で親から切り離し、社会が育てるのか。そうしたことはロシア革命後、全世界で実験されてきて、今もやっている人がおり、結果が出ている。家族でやって問題も起こってきて、家族は要らない、社会で、という立場もある。何をどうすると社会できちんと生きていける人間をつくっていけるのか。難しい。

〇親という言葉もなく、人間という言葉もないときに、近親相姦も人肉食もただ自然のことだったのだろう。(Aさん)
→●人間とは何か、につながる根本的なところ。今の個人が現れてくるいちばん根っこのところにそれらの禁止があるのではないか。

〇親から子への相続した財産をどう使うかを決めるためにはもっと勉強しなければならない。(Hさん)
→●そうした相続の宛先が自分だった人は、それを拒否できる。遺言を残す人と受け取る人は、全く対等。Hさんは、最初から相続を拒否することも、君の選択次第でできた。
その時には、何もわからず、ただ受け入れるしかなかったとしても、今は自分の責任として受け止めるべき。今は拒否という選択肢をも含めて、自分の本当の選択をすることができる。

〇p229などで都市と農村の対立の問題が何度か出てくるが、その意味を勉強したい。私の親は戦中戦後に農村で多大な生活苦があったが、中井さんから、戦争中に農村がひどい目にあい、政治の失敗があったと聞いたことがある。(田中)
→●牧畜、農耕が始まり、それが第一の分業。
第二に手工業。そして第三に商人。こうして工業と商業が社会を引っ張っていき、都市を形成し、農村が取り残され、都市と農村の格差が拡大される一方だった。マルクスの時代に、農村では食べられない多くの人が都市に移住して、工業に従事した。一次産業がひたすら衰退した。しかしそれでいいのか。今、食糧が自給できていない問題もある。

〇文明の特徴として、もう一つ遺言制度を挙げている意味は何か。エンゲルスは私有財産を否定するのだから、反対しているのだろうが。(田中)
→●エンゲルスの私有財産の否定は、全てではなく生産手段の所有の否定。
 個人の所有を認めたときに、遺言制度が重要になるに決まっている。そうでなかったらおかしい。遺言が無い場合は、民法で、半分が配偶者、残りが子としている。遺言を書けば、その家族の枠組みではなく、個人の意志が最優先される。これが今のぼくたちの社会。

〇近親相姦禁止は本能によるのではないか。人文のアプローチの方がよいというのは、脳による説明はだめだということか。(Eさん)
→●脳という生理的な説明や本能という説明は、限りない可能性を持った人間にふさわしくない。人間の中核にある近親相姦禁止をどう理解するのかが、それぞれの人の思想の大きさを示す。
 近親相姦を考えるときに、まず旧約聖書を思う。そこでは近親相姦も親殺し、兄弟殺しなどがたくさん出て来る。きれいごとが無く、おもしろい。人間の欲望のむき出しの姿。近親相姦で何もおかしくなく、ごく普通。人間はそこから始まった。本能が禁止せよとは言わない。ただ、人間という存在は、その後近親相姦を許さなかった。その意味を理解したい。

五 記録者の感想
 
「家族の眼目は個人をつくることだ、ということからエンゲルスを読むべき」ということを、中井さんが読書会でやって見せてくれたと思う。
エンゲルスは、人間が「単婚」という一夫一婦制に至ったことを「偉大な歴史的進歩」p84だと述べるが、その肯定面の意味を論じない。「打算婚」p83や「姦通や売淫とによって補足される」p95というリアルな否定面を論じるのが彼の真骨頂であっても、それだけでは家族史と社会史を本質的につなげることはできない。
中井さんは、まず、エンゲルスが「自然淘汰」だと片づけた、「群婚」における親子間や兄弟姉妹間の近親相姦の禁止に、人間が人間であるゆえの意識の内的二分を見る。
そして、「単婚」でたった一人の相手を、互いに何らかの基準で選ぶというところに、より深まった意識の内的二分、つまり、個人の芽を見る。「単婚」にどれほどの問題があろうとも、選ぶことが無ければ個人は生まれなかった。それほどの画期的なことだった。
さらに、その男女の子が社会に出ていくとき、その社会との関わり方の中に、彼が個人になり、社会に平等を実現していく可能性があり、そこに家族と社会の関係の本質がある。

私は予習の段階で、人類の最初から、特に生殖の中には、自分の身体の所有という意味で「私有」は潜在的にあったと考えたが、個人が存在しない段階に「私有」という言葉は使えない。個人の存在しない氏族制度の段階に「自由」や「平等」という言葉は使えないという中井さんの指摘から、その段階と、次に氏族制度が崩壊して国家が取って代わり、個人が生まれていく段階とは、明確に区別しなければならないことを学んだ。
そして、その個人がより強く現れるところまで来た私たちが、個人になれないまま生きようとすれば、それは必然的に苦しいのだと思った。個人の存在しない氏族制度的要素は、今も家庭に、社会にあふれている。男女平等がいくらか進み、多くの女性が社会で仕事をするようになっても、親の子離れも、子の親離れも一向に進んでいない。

六 読書会を終えて(中井)

エンゲルス『家族、私有財産および国家の起源』(国民文庫版)の読書会で、
近親相姦の禁止のルールについて言及しました。

モルガンとエンゲルスの原始の親族関係論は、群婚(乱婚)の存在を示しているということで、物議をかもしました。大昔は「乱婚」だったのだと。私もずっとそういう主張だと思ってきました。
しかし、今回読むと、この事実が意味するものは、人間社会の内部で近親相姦の禁止が実現したことだと、気づきました。
群婚(乱婚)が存在したということではなく、「対偶婚」(「単婚」が時間的に短いもの)が一般的に広がっていて(これは当たり前の事態だろう)、その中で近親相姦の禁止が実現されていき、それが意識化されたことだと思います。
ただし、モルガンやエンゲルスはそう理解してはいないようです。

近親相姦の禁止は大きなことです。これは人肉食の禁止ともつなげて考えるべきでしょう。これは人間と動物とを分けるものであり、人間の概念をそこに考えなければならない。
そして、近親相姦の禁止に関しては、旧約聖書を思い出すとも言いました。旧約には近親相姦、子殺し、兄弟殺しなどが満載です。

読書会後に、近親相姦に、さらに息子の父親殺し、息子による母との相姦などがギリシャ悲劇の定番だったことも思い出されました。

親殺しは、かなり普遍的なテーマですね。ドストエフスキーの『カラマーゾフ』もその1つです。

これらは大きな問題であり、すでに文化人類学や精神分析学(フロイト)が扱っている題材であることはわかっています。
なお、近親相姦の禁止を文化人類学では「インセストタブー」と呼ぶことを知りました。

私はその後、世界の名著シリーズで、文化人類学(マリノフスキーとレヴィ・ストロース)と精神分析学(フロイト)の近親相姦の禁止についての解説を読み、さらに今西錦司にもその考察があることを知りました。
フロイトには、モーゼが殺されたことを意味づける論考もありましたね。

ここで、旧約がユダヤ教の経典であり、レヴィ・ストロースとフロイトがユダヤ人であることにも気づきます。

これらは、とても面白いと思います。
しかし、彼らの理論には、そこにどんなにすぐれた考察が含まれていようとも、「人間の概念」という観点がないと思います。そのレベルまで深めた考察が必要であり、私はそれに挑戦しようと思います。

なお、私はモルガンが民間(素人)の研究者であり、正規の学者たちから「無視」されていたことと、それを大きく取り上げたのがマルクス・エンゲルスであったことに注目します。
マルクス・エンゲルスもまた、民間(素人)の研究者でした。マルクスは大学の研究者になりたかったようですが、その政治的立場から実現しなかった。こうしたことをどう考えるか、自分はどう生きるか。と問いは立てられます。