6月 26

7月のゼミの日程

7月のゼミの日程が変更になっています。

以下ですが、注意してください。

7月7日
午後5時より「文ゼミ」
その後、「現実と闘う時間」

7月14日
午後4時より読書会
午後6時より「現実と闘う時間」

読書会のテキストは『痴呆を生きるということ』(岩波新書847)です

6月 09

海外向けの多言語情報発信サイト『nippon.com』に、寄稿しました。

タイトルは
「学力低下」論争と「ゆとり」教育を検証する

以下で読むことができます。
外国の知人にも紹介してください。

日本語
http://nippon.com/ja/in-depth/a00601/

英語
http://nippon.com/en/in-depth/a00601/

フランス語
http://nippon.com/fr/in-depth/a00601/

スペイン語
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中国語版
簡体字
http://nippon.com/cn/in-depth/a00601/

繁体字
http://nippon.com/hk/in-depth/a00601/

多言語発信サイト『nippon.com』を運営している一般財団法人ニッポンドットコムについて、
以下、ニッポンドットコム自身による説明を引用します。

一般財団法人ニッポンドットコムは、海外向けの多言語情報発信を専門とする組織として、平成22年12 月に設立されました。民間による対外広報活動として、日本財団からの助成を受けて本年10 月に対日理解を促進するための多言語発信サイト『nippon.com』をスタートしました。
当サイトでは、日本に関心を持つ海外の有識者層を中心に、大学生以上の幅広い読者層に向けて、日本の文化、社会、政治、経済、外交、科学技術など幅広い分野にわたるオピニオンや、日本の現状を掘り下げて伝える記事を、日本語、英語、中国語、仏語、西語(順次アラビア語、ロシア語も加わります)で掲載していきます。
36 年間、日本の知識層の真実の声を海外に伝えてきた英文誌『JAPAN ECHO』誌の精神を継承し、ありのままの日本の姿をグローバルに発信していきます。
■対応言語
日本語、英語、中国語(簡体字・繁体字)、フランス語、スペイン語
■ウエブサイト開設
2011 年10 月3 日
■編集委員会
編集主幹 谷内正太郎 外務省顧問
編集長 白石隆 政策研究大学院大学学長
副編集長 宮一穂 京都精華大学教授、元『中央公論』編集長

〒100-0011
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日本プレスセンタービル

6月 03

「自己否定」から発展が始まる(その4)
(ベン・シャーン著「ある絵の伝記」の読書会の記録) 記録者 小堀陽子

 ■ 目次 ■

2.読書会
(3)テキストの検討
 <2>「異端について」
 <3>「現代的な評価」
(4)質疑応答
(5)読書会を終えて ─ 参加者の感想

3.記録者の感想
(1)記録を書いて
(2)他人との関わり
(3)自己否定の違い
(4)表現の違い

=====================================

2.読書会
(3)テキストの検討

 <2>「異端について」
 〈芸術家と社会の関係〉
 ・110、111p
 → 芸術家は社会と一体になっていたら表現はできないが、
  社会から切り離されて遊離しても表現はできないという、
  矛盾を生きている。

  実はあらゆる人がそう。
  それを極端に最も激しくやらなければ芸術家の仕事はできない。

  これがただの分裂にならないあり方というのはどういうあり方なのか。
 
 ・116pの後ろから2行目
 → この人は保守主義者を否定しない。自分の中に位置づけている。
  最後の行「そういう人の重要性を小さく見積るつもりはない。」
  なぜか。

  過去の芸術を僕たちが今美術館で見ることができるのは、
  まさに保守主義者がそれを守ってきたからだ、という捉え方。

  しかし、どうしても保守主義者は過去の作品が素晴らしいとなって、
  いま生まれている作品は苦手。
  今、生まれているもののどれが本当の芸術か、ということは難しい。

 <3>「現代的な評価」
 〈芸術家と民衆の関係〉
 ・145pから146p
 → 民衆に支持されてたくさん売れるのが良い絵なのか。それとも
  民衆から見向きもされないものこそが良いのか、という問い。
  この人はどちらでない、と例の調子。

 ・145p後ろから2行目?146p6行目
 ≪私も、多くの芸術家と同様に、民衆の賞賛を芸術の評価の標準に
  適用することには大反対である。

  しかし、それと同様に、今述べたような民衆に嫌われることを
  直ちによい作品の標準とする奇妙に逆転した考え方にも、
  私は大反対である。

  民衆の知性がどんなに堕落していようと、また民衆の眼が
  どんなに汚されていようと、民衆こそはわれわれの文化の
  現実性にほかならない。≫

 → ここで現実性という言葉が出ているのはヘーゲルばり。
  民衆こそがわれわれの文化の現実性だと言っている。ただし、
  それは民衆の評価がそのまま正しいということではない。

 ・146p7?15行目
 ≪民衆は、そこに白百合の種子を播くべき沃土である。

  芸術家たる以上は、この現実の縁飾の上に存在をたもつか、
  あるいは、その重要な一部分になるのがわれわれの努めである。

  芸術の民衆に対する価値を構成するものは、
  芸術の基本的な意図であり、責任感である。≫

 → 民衆と芸術家または民衆と政治的指導者、こういう関係は
  いかにあるべきか。
  これは永遠のテーマだが、この人はこういうスタンスで、
  僕も勿論同じだが、それを実現させるのが難しい。

(4)質疑応答

 (社会人)リルケの詩のところで、記憶を忘れてもう一度戻って
   くることを、ヘーゲルとの関連で説明したが、どういうことを
   ヘーゲルは言っているのか。

  →(中井)僕たちは、いろいろな経験をする中で自分を作っていく。
    普通は、経験そのものから次の一歩が出てくると考える。
 
    リルケは違う。この経験を忘れろと。忘れて、それと自分が
    一つになるまでにならなければ、結局次の一歩は出てこない
    と言っている。

    ヘーゲルは、次の一歩が出てくるというのは、一歩前に出る
    と同時に一歩自分の中に入ることだと言っている。

    過去に本当に何があったかが先に進めたこの一歩でわかる。
    その一歩を出す何かがここに十分出来上がった時、前に出る
    と言う。

    更にヘーゲルはこうやって一つ一つ出て行くのは、
    過去の一つ一つに何があったかがわかるという形で、前進即後ろ
    と捉えて、その全体が絶えずその中で明らかになっていく、
    という世界観。

    リルケの捉えようとしていることはヘーゲルと同じだと思う。
    こういう詩人が本物の詩人だと思う。
    このレベルの詩人が日本にいるだろうか。

(5)読書会を終えて ─ 参加者の感想

 (小堀)一人の画家の人の作品を一遍に展示している展覧会を
   初めて見た。学芸員の人の話が面白かった。

   シャーンは1930年代にたくさん写真を撮ったが、それは
   ニューディール政策(中井解説:社会主義的な政策)の仕事だった。
   その時、貧しい農村を撮って来い、必ず子供を撮れとか、
   素足の足を撮れとか、貧しさが強調されるように撮れという
   具体的な指示があった。

   シャーンもその指示に従っているが、あまり悲惨な写真に
   なっていない。ベン・シャーンが相手の人とのコンタクトによって
   一人一人を撮ろうとするのが写真に出ているのが面白いという
   話だった。

   そして実際に写真を見たら、一人一人がとても柔らかい表情を
   していた。そして、文章も人間が存在するような文章は、
   深く人と関われる人でなければ書けないと思った。

  →(中井)表情がいい。(図録46,47pなど)これは全部
    貧しい最下層の人たちだけれど、表情が全部豊か。
    彼の言う「社会から個人に」という方法が写真でも出ている。

 (就職活動生)「解放」という絵を、空虚な絵に描いているのが
   面白かった。自分の場合は就職活動が終わったとき解放されたが、
   その途端に自分になにもないのが明らかになった感じがある。
   そこは自分とつながっていると感じた。

 (社会人)最初言った通りで、特に加えることはない。

 (社会人)私は絵画を理解するのはその人の発展史を共に理解した方が
   いいのかと疑問を持った。固定された概念で見てしまうと、
   作品そのもの自体に迫ることができなくなるとも思う。
   けれど今日は、シャーンの問題意識の変化から作品に違いが
   出来てきたということが納得できた。

 (中井)絵はその一枚の絵で勝負するべきだし、一枚の絵で
  勝負できないものはダメな絵だと思う。

  ただ、ベン・シャーンという人間がやってきたことの全体がわかれば、
  自分が感動した絵の後ろ側にどれだけのものがあったかをわかるから、
  それによってその絵の理解が深まることはある。

  ただ、最初にカス絵だと思ったものが背景を知ったことによって、
  評価がカス絵ではないと変わることはないと思う。

  ベン・シャーンの中にもダメなものもあるが、心に届いてくるものも
  あるから、その意味は考えたい。

  今回は今日話したことをベン・シャーンで考えたが、これは自分自身の
  問題でもある。

  ベン・シャーンは圧倒的にアメリカの民衆に支持された画家。それは
  一つにはわかりやすい。漫画みたいな絵を彼は自分の方法として選んで生きた。

────────────────────────────────────────

3.記録者の感想

(1)記録を書いて

   テキストに目を通して、ベン・シャーンの絵が見たくなって
  展覧会に行った。なにか感じるものがあったから絵を見たいと思った
  はずだが、それは言葉にならなかった。

  読書会の最初に読後感想をもとめられた時、私には話すことがなかった。
  テキストに書いてある内容がわからなかったからだ。読書会で他の
  参加者の感想や中井さんの話を聴いてもよくわからなかった。

  記録を残すために、録音を繰り返し聴き、テキストを読み直して、
  やっと自分の感想が言葉になってきた。

(2)他人との関わり

   ベン・シャーン展で彼の撮った写真を見て強く印象に残ったのは、
  被写体のひとたちが、とても柔らかい表情をしていたことだった。
  ベン・シャーンが相手と積極的に関わったことが想像できた。
  そして、こんな表情を見せてくれるまでに、どんな会話がされたの
  だろうと知りたくなった。そして、文章表現にも同じ面があると思った。

  私は学生時代に、小説や随筆を好んで読んでいた。
  自分の心に残った作品は、文章に「ひと」の存在が感じられる
  ものだった。ベン・シャーンの作品は、そういう書き手の文章に
  重なるものがあった。

  今回のテキストで、ベン・シャーンが被写体と向き合う方法論を
  読み、実際にその結果が形になった写真を見た。
  文章表現も同じで、他人との関わりがそのまま表われるのだと思った。

  だから、他人との関わりを避けてきた私には「ひと」を書くことは
  できない、と思う。

(3)自己否定の違い

   大学、大学院で日本文学を専攻していた私は、仕事を始めてから
  小説を読まなくなった。実際に時間や気持ちに余裕がなくなったこと
  もあったが、意識的に読むのを避けた面があった。それは、
  大学院時代の自分を否定する気持ちが文学に関わることを
  拒絶させたからだった。

  全くの親がかりで生きてきた私は、その時期が終わった時、
  自分が大学院で一生懸命していたことは「空っぽな勉強」で、
  実際は「遊び」だったのだと思った。
  「大学院でやっていた文学」は金持ちの遊びに過ぎない、
  私にはもう縁のない世界だと思い、関わることを禁じた。

  勿論「大学院の文学」を否定することは、「本来の文学」の否定には
  つながらないはずだ。けれど私は、今でも文学が存在する意味が
  わからなくなったままだ。

  ベン・シャーンが、パリに学んだ自分を強く否定した中から
  自分独自の方法を作っていく過程を書いていた。
  それについて中井さんが、否定された自分も踏まえて前に進んでいく
  という話をした。否定は、否定した対象を自分の中に位置づけることだと。

  比べてみると、自分の否定は、過去の自分や「文学」を抹殺しようと
  していて、ベン・シャーンの否定とは大きく違うと思った。
  今は、抹殺する否定のあり方は間違いだとなんとなくわかる。
  けれど、過去の自分を抹殺しようという動きが自分の中にはある。

(4)表現の違い

   ベン・シャーンには表現したいものがある。例えば「恐怖をリアルに
  表現したい」という思いがあって、絵を構成していく。目的があるから
  そこに向かって作戦をたてて形にしていく。

  自分が時々書く文章との違いを考えた。
  私の書く文章は表現したいものがはっきりして組み立てて行く文章ではない。

  私が書く時は、自分の中のかたまりを、言葉にすることで、ほぐしている
  という感じがする。絡み合った糸をひとつひとつほぐすようなもので、
  書いていると自分の内側が静かになっていく。
  そしてその作業が今の自分には必要な気がする。(了)

6月 02

「自己否定」から発展が始まる(その3)
(ベン・シャーン著「ある絵の伝記」の読書会の記録)  記録者 小堀陽子

 ■ 目次 ■

2.読書会
(3)テキストの検討
 <1>「ある絵の伝記」
     検討3

=====================================

〈自分と異なる方法について〉
 ・62p後ろから3行目
 ≪クライヴ・ベルの理論のように、純粋形式のためにのみ描く画家は、
  芸術における最終的に可能な表現としての形式に確信を抱いている
  のであろう。≫

 → これは抽象絵画のこと。形と色だけが全てでそれが思想だと。
  勿論それも思想で、あるメッセージを持っている。

  作品にはその時代の何か、その人間の深さ、馬鹿さ加減、
  全てが丸見えになる。

  僕は抽象絵画でも関心が持てないものと、すごいと思うものが
  ある。ベン・シャーンの中にすごいと思う作品も、つまらないと
  思うものもある。

 ・62p後ろから2行目
 ≪フロイトの理論のように療法として芸術を見る人々は
  自分のしていることに自信があるだろう。
  いろいろな材料を巧みに扱うだけの画家たちも同様だろう。

  しかし、かかる芸術は内面的な経験をも、外部的な経験をも
  含むことができないのではないか。≫

 → 内面的な経験も外部的な経験も、作者と客観世界を
  引き離してしまうだけで表現できない。
  彼は両者を統一しなければならないと思っている。

 〈自分の方法 ─ 普遍性を描く〉
 ・63p5行目
 ≪私にとっては、主観と客観は共に極めて重要なものであって、
  前に述べたイメージとアイデアの問題のひとつの面に
  外ならない。

  取るべき手段はこの両者を芸術から抹消し去ることではなく、
  むしろ両者を統合して、一個の感銘を与えるもの、

  ─すなわち「意味」がその不可欠な要素になっている
  ひとつの視覚「映像」たらしめることである。≫

 → 統一することはこの人の核心。具体的には次の段落の最後
  「世界的な性質をもつシンボル」だと。65p「普遍性を描く」。

  しかし「概括」とか「抽象化」によって描くのではない。
  絵は具体的なものしか描けない。絵に表れるのは全部個別。
  そのことを一見否定したかのようなのが抽象絵画。

  66pは、個別しか表現できない絵で普遍的なものを描くことは
  いかにして可能か、という問い。

  65p最後にデ・キリコの絵とマサッチオの絵という2つの例を
  出している。自分が持っている問いについて、二人が
  一応答えを出している。

  66p「感情の極限から」生まれて「偉大な普遍性」に到達している。
  それはどういうことか。

 ・66p4行目
 ≪私が第二次大戦の末期頃に描いた作品、例えば「解放」とか、
 「赤い階段」とか─は、様式の上では、以前の作品とはっきり
  区別できるようなものではなかったが、一層個人的なものになり、
  一層内面的なものになっていたことは確かである。≫
 
 → 「解放」(図録69p,197)は第二次大戦末期にフランスが
  ドイツから解放されたニュースを聞いて描かれた。

  普通は解放を明るく描く。シャーンの「解放」では子供が
  死んだような顔をしている。

  これは、ある感情の深さから始まって普遍性に到達するということ
  を試み、苦しさの中でこの段階での結論として出されたもの。
  写実であるが写実を超えた作品。

 ・66p7行目
 ≪かつて秘隠的で難解だと思われた象徴主義が、今は
  戦争がわれわれに感じさせた「空虚」と「空費」の感じと、
  戦時下に生きんとする人間の力の弱さを表現しうる
  唯一の手段となった。≫

 → 普通は解放された時、良かった、明るいと捉える。
  一方シャーンは解放された時にその戦争の空虚さが露出する、
  という捉え方。
  これが戦争を経験した人たちにとっての最も深い受けとめ方
  である、ということ。

  先日、野見山暁治の抽象画を見てきて良いと思った。

  野見山が、戦争を20代で経験して引き揚げてきて、
  これから自分がどういう絵を描くかと悩んでいた時に、
  シャーンの「解放」は衝撃的だったと言っていた。

  「衝撃的」とは、自分の心の中がそのまま描かれている
  という意味。

  戦争に負けた日本人の心の中と戦争に勝った側の心の中が
  実は全く同じだと。

  これが、個人的なもの、または感情の極限が普遍化される
  ということだと思う。

  野見山は自分の作品についてベン・シャーンのように
  言葉にならない。けれどそれは彼の絵がダメだということ
  にはならない。
  言葉にできる人が本当にいい絵を描いているとも限らない。

  ベン・シャーンの場合は両立している。
  野見山の場合は言葉での表現はできないが問題はない。
  けれどもう少し言葉にしてほしい。

  ただ、野見山が「解放」という絵に自分が何を感じたかを
  言っている言葉は僕の中にとても響いてきたし、
  この絵がどういう絵なのかということがわかる説明だった。

 ・66p8行目
 ≪当時私は作品の形成だけが問題だった。つまり強く感じられた
  感情を、絵具を塗った平面の視覚像に形成することが、
  目標だった。≫

 → 油絵は構図及び表情だけではダメ。シャーンの絵は、
  背景の色使いがすごい。

  絵は二次元の世界だから、その中にどういう像を作っていくか
  ということがプロの画家の力量。

 ・66p12行目
 ≪私自身の見解では、これらの作品は成功だった。

  当時はっきりと知った事は、情感ある視覚像はわれわれの
  感情を動かす外界の事件そのものの映像である必要はなく、

  むしろ多くの事件の内面的な痕跡から組立てられる
  ということだった。≫

 → 例えば「解放」は実際のリアルな場面ではなくイメージを
  描いた作品。

  67p2行目「このようないろんなイメージこそ」を「形成」
  するのだと言っている。

 ・68、69p
 → 絵で表現するということはどういうことか。
  68p最後。それは色であり形であり、その触感、背景の肌触り、感覚。
  そこにまで落としこんでいく力がなければ画家ではない。

 〈人間の価値〉
 ・69p後ろから7行目
 ≪私は以前に私をひどく苦しめたアイデアとイメージとの間の
  長期戦のことを述べた。
  私はこの紛争をアイデアすなわち思想を放棄することにより
  調停することはできなかった。

  かかる解決は絵画を単純化するかもしれないが、同時に
  絵画というものを勇気ある、知性的な、大人の実践の闘技場から
  退場させてしまうことになるからだ。

  私にとっては、もし思想が作品から現示すべきでないとしたら、
  絵画にあまり存在理由を認めない。
  人間が思想をもつ力があるという点、そしてその思想そのものが
  価値があるという点にこそ、人間の価値があると
  私は考えているからである。≫

 → こういうことを言える思想家がいるだろうか。

  「知性的な実践の大人の闘技場から退場させてしまう」という
  ところにぐっとくる。
  要するに彼からすると、そいつらの絵は子供っぽい。
  大人がやる闘いは違うと言っている。

  これは本当に成熟した人の言葉を聴いている感じがする。
  成熟は今の社会では難しい。全共闘世代、吉田拓郎や井上陽水は
  60になっても子供みたいな顔をしている。

 〈晩年の作品─「マルテの手記」を題材に〉
 ・71p後ろから5行目
 ≪リルケはマルテの手記のなかで書いている。

 「一行の詩のためには、あまたの都市や、人間や、事物を
  みなければならぬ。─ 中略 ─ 詩人はまた死にゆく人の傍に
  いたことがなければならないし、開いた窓がかたこと鳴る部屋での
  通夜もしたことがなければならない。≫

 → この「詩」という言葉のところに自分のテーマを入れれば
  全ての人に当てはまる。

  あらゆるものを見てあらゆるものを聞いてあらゆるものを感じて、
  それが大前提だと言っている。しかしそれだけでは足りない。

 ・72p7行目
 ≪しかも、こういう記憶をもっていることで充分ではない。
  追憶が多かったら、これを忘れることができなければならない。
  そしてそういう追憶が再び帰ってくるまで待つ大きな忍耐力を
  もたなければならない。

  追憶はいまだほんとうの追憶になっていないからだ。

  追憶がわれらの身体のなかの血となり、眼差しとなり、
  表情となり、名前のない、われら自身と区別のつかないものに
  なるまでは…。

  そして、その時に、いとも稀なる時刻に、
  ひとつの詩の最初の言葉が、それら追憶のまんなかに浮き上り、
  追憶そのものから進み出て来るのだ」と。≫

 → リルケがリルケであるところはこの後半にある。

  忘れた追憶が再び帰ってくるまで、そこに最も忍耐力が必要。
  そこで人間は成熟する。これはヘーゲルそのもの。

  僕たちは強い経験をした時にその記憶は強烈な故に消える。
  普通はそのまま消えて終りだが、頑張った人にだけ浮かび上がって
  くる時はある。リルケは詩人だからそれが詩になる時だと言う。

  最後にこれを持ってきたベン・シャーンはまさに自分は
  これをやってきたと言っている。

  ベン・シャーンはこの一節に対しての思い入れが強く、
  マルテの手記の今の部分について最晩年に描いている。
  これを自分が最初にそこからスタートした石版画でやっている。
  ここにも意味がある。

6月 01

「自己否定」から発展が始まる(その2)
(ベン・シャーン著「ある絵の伝記」の読書会の記録) 記録者 小堀陽子

■ 目次 ■

2.読書会
(3)テキストの検討
 <1>「ある絵の伝記」
     検討2

=====================================

 〈自分の方法〉
 ・初めて自分がこれではないかと思えたのが、52pのドレフェスの作品
 (版画集「ドレフェス事件」図録21p、001?008)。
  こういう漫画みたいな絵を単純性、直接性という言葉で表わしている。
  53p後ろから2行目「第一に、私自身の作品が私の人柄とひとつになった。」
  それは当然「世間の反応も大きかった」。

  54p1行目「普通は展覧会に行かない」人々、つまり絵の専門家ではない人が
  見てわかる。そういう絵が、自分がやる方法ではないかと思った。

 〈思想の中身〉
 ・54p真ん中の段落
 ≪私が中心主題に関する絵画の仕事をした時は、内なる批評家は
  やや温和になった。次に問題になるのは、画家の思想そのものの
  中味である。≫

 → 形式がある程度見えてきて次に中身が問題になる。

 ・54p後ろから4行目、人間を「社会的に見る見解」から
  55p1行目の「個々の特殊性」へと変化した。

  この人は当時社会主義的な立場、つまり貧しい人たちに身を寄せて
  その悲惨さを描けばいいという立場にいた。
  それが、個人を見なければならない、と思うようになった。

 ・55p4行目
 ≪絵画や彫刻を見にくるのは、彼という個人があらゆる階級を
  超越し、あらゆる偏見を打破しうることをさとることが
  できるからだ。芸術品の中に彼は彼の独自性が確認されているのを
  見出す。≫

 → 「彼」は作品を見る人。展覧会に来た人が、絵に描かれている
  人が自分と違う階層であっても「これは自分だ」と思う絵になる。

  貧しい人がかわいそうだという立場で絵を描いても、上流階級は
  自分と何の関係も感じられない。さらにその奥に迫れるという考え方。

 〈個人と社会の関係〉
 ・55p7行目
 ≪人は社会的不正に苦しみ、集団的改善を強く望むが、
  いかなる集団であれ個人から成っている。
  個人は誰でも感情をもち、希望や夢をもつことができる。≫

 → こういうことを表現するのが芸術だと思っている。

 ≪このような考え方は私の確信している芸術の統一力に関する考え方と
  矛盾しない。

  私は常にひとつの社会の性格は偉大な創造的作品により形成され、
  統一されること、ひとつの社会はその叙事詩の上に形成され、
  ひとつの社会はその大寺院や、美術品や、音楽や、文学や、
  哲学のような創造作品によって想像するものだと信じてきた。

  社会がかく統一されるのは、高度に個性的な経験が、
  その社会の多数の個人の成員によって、共通にもたれるためであろう。≫

 → 社会と個人の関係。これは大衆と指導者の関係とも同じ。
  一方では全てを敵にまわしてでも闘わなければならないが、
  同時に全てを自分が止揚するために闘わなければならない。
  僕はそう考えている。ベン・シャーンは直感的にそれがわかっている。

 〈否定の意味〉
 ・彼はひとつずつ前を否定して次に行く。パリの絵に毒された自分に
  対してほぼ全否定に近い形から始まる。ではその否定はどういうことか。

 ・56p1行目
 ≪通り過ぎてきた芸術上の経路はすべてその後の作品に
  影響を及ぼし、変化を与えるものだ。

  私が捨てたものがなんであれ、それはそれ自体確実な形成力である。
  私は社会的な人間観を捨てても、共感や愛他心は大切にもち続けている。≫

 → この否定は、ヘーゲル的に言えば止揚されたということ。
  否定はその立場より上に行こうとしたということで、同じレベルで
  否定しているわけではない。

  信念は否定に否定をし続けてきた人だけが持てる。

 〈時代背景─思想の変遷〉
 ・56p後ろから6行目
 ≪私だけが「社会的な夢」に夢中になったのではなかった。
  1930年代には芸術は「大衆思想」に席巻され、一転して
  1940年代には抽象芸術に対する大衆運動が起った。

  社会的な夢が却けられただけでなく、夢全体が却けられた。
  30年代に仮定的な独裁と理論的な対策を描いた画家たちの多くが、
  40年代になると正方形や円錐形や、色彩の糸や、色彩の渦の絵に
  署名されるようになった。≫

 → 「社会的な夢」「仮定的独裁と理論的な対策」は
  マルクス主義者たちの当時の社会主義革命や理論のこと。
  1930年代、この人がまさにマルキシストだった。
  その全否定が抽象芸術という形で出てきた。

  彼は社会主義の形のものではダメだと。しかし、
  その全否定の抽象芸術もダメだと言っている。では何なのか。

 ・57p後ろから4行目
 ≪それまで「社会的写実主義」と呼ばれていた私の芸術は
  一種の「個性的写実主義」に転向した。私は民衆の性格を、
  絶えず興味深いものとして眺めた。≫

 → 自身の絵の変化を「個性的写実主義」と言っている。
  それ以前は、被写体の個性的な表情ではなく、ある役割として
  描いていた。それが「個性的」へ変化しても、やはり
  ある立場を表わしている。それは社会を否定した個性ではない。

  59p真ん中「個性的写実主義、すなわち人間の生活の
  個性的観察、人生と場所の気分の個性的観察」。
  さらに次に行くと、60pの「主観的写実主義」。

  結局今この立場だと言う。そうすると、ずっと写実主義の
  立場にいる。写実主義それ自体を否定する立場、
  抽象画の立場はとらない。

 ・60p1行目
 ≪私の企てたあらゆる変化を通じて、私が絵画の原則として
  もち続けた主義は、外的対象は細部まで鋭敏な眼で
  観察されねばならないが、この観察は総て、内面的な見方
  から形成されねばならない─いわば「主観的写実主義」とも
  称すべき立場であった。≫

 → この「主観的」という言葉は客観性を否定するという
  意味ではない。

  社会主義リアリズムでは、客観世界がそのまま作品に
  反映されると言う。しかしそれは間違い。

  なぜなら社会的な現実を、作者が媒介して作品を作る。
  そうすると、作者が客観世界とどのように関わっているか、
  また作者が人類の絵画の歴史をどのように担って生きているか、
  ということが作品の中に現われてくる。

  これが「主観的写実主義」。

  僕たちは全て自分自身を反映すると同時に自分の周りの
  全てを反映させてあらゆる表現活動を行なっている。

  客観世界にも作者にも矛盾があり、その矛盾から出てくる
  作品にも矛盾が起こる。だからこそ発展できる。

  僕は彼の言葉をそう理解した。彼はそれを自覚した立場で、
  全体を自分は統一しなければならないという意識。
  それは僕の立場でもある。

  ここまでは一般論。次に絵の特殊性の話へ。
 ・60p4行目
 ≪かかる内容は、油絵具であれ、テンペラであれ、
  フレスコであれ、絵具の種類に忠実な方法で
  描かれなければならない。≫

 〈抽象絵画に対する批判〉
 ・60p6行目
 ≪芸術が抽象化し、材料のみに媚びるのをみた私は、
  かかる傾向は画家に袋小路を約束するのみのように
  考えられた。

  私はこの方向を避け、同時に芸術の中にある深い意味を、
  政治的気候の変化にも枯渇しない泉のような意味を
  発見したいと思った。≫

 → 材料のみに媚びる芸術とは、恐らく抽象絵画。
  メッセージを全て排除して、油絵の具は油絵の具だけの
  ものを表現できるという、今もある立場だが、
  自分は違うと言っている。

 〈自分の絵画の位置づけ〉
 ・60p10行目
 ≪一人の画家のスタイルを形成する例の「受納」と「拒否」の
  バッテリーのなかから、ひとつの力として生じてくるものは、
  その画家自身の成長し、変化する仕事だけではない。

  他の現在及び過去の画家の仕事に対する評価も変ってくる。

  われわれはあらゆる傾向を観察して、実り多きものと思える
  方向を続け、他方永続きしないように思われる方向は
  遠ざけねばならない。

  かくして、画家にはある程度の知性も不可欠なものになる。≫

 → あるレベルに到達していく時に、進むと同時に
  彼を生み出した本質のところに戻る運動が起こる。
  これはまさにヘーゲル。

  ある立場に行けば現在の他の画家の仕事に対する評価
  および過去の画家の仕事に対する評価につながる。

  つまり、自分の仕事は、過去のどことつながって
  今自分はこれをやっているのかという自覚。
  ここに僕たちが歴史を勉強する理由がある。

  自分のやっていることを歴史の中に位置づけることが
  できて初めて、その意味が自分の中で確信できる。

 ・その具体的な例が53p7行目
 ≪私が心から寸時も離さなかったのはあのジオットが
  連続的な情景─個々の場面は単純で独立しながらも、

  全体としては彼にとって生きている宗教的な物語を
  表現している多くの情景を描いた際に彼が用いた
  単純性であった。≫

 → 自分の絵画は、絵画の歴史の中のどのことを
  意味づけるものなのか。これが抜き差しならない形で
  現われてくる人がいる。

  だから自分が前に進むことは周りへの批判になると
  同時に過去の意味づけにもなる。

 〈超現実主義に対する批判〉
 ・次の段落は、超現実主義に対する批判。
  人類の歴史で、この人の発展させた方向性以外に
  発展の方向がないのではない。
  違う画家は違う発展ができるしそれで正しい。

  でもこの人にとってはこれしかない。
  その立場からすると、超現実主義は違うと。

  60年代の終り、無意識の世界の中で表現されるものがいい、
  勝手にタイプライターを打って出てきたものが詩だとか、
  そういう一群があった。潜在意識こそが全てだと。61p。

  しかし、この人は潜在意識の持つ力を認めた上で、
  最終的にそれを統一するものを持つのは意図的な自己で
  なければならないと言う。

  例えば野口整体では、無自覚に無意識に僕たちの身体が
  動いて身体を整えている運動が鈍っていくことが問題である
  として、その運動を意識によって高めようとする。

  活元運動はそれを意識的に高めていこうという、
  意識で行なう無意識の運動。そういうことだと思う。

  ここでは、当時の、無意識こそが全てだという運動を、
  彼が位置づけて、自分はそれはやらない、と言っている。

 〈心理学者と芸術家〉
 ・62p5行目。
  ヴァン・ゴッホについての心理学者と芸術家で捉え方が
  違うと言っているが、これは不正確。

  ここで言っている心理学者は馬鹿たれで、心理学もそれが
  本当のものになっていったら、彼が言っているところに行く。
  逆に、芸術家の浅はかな人間が言うことは馬鹿なことだということ。