1月 03

日本語の基本構造と助詞ハ  その5

三 日本語の基本構造と助詞ハ            中井浩一

 1. 松永さんの論文について
 2. 代案
  2.1 現実世界で対象が意識される場合
(1)対象として意識する
(2)名付け
(3)文(判断)が生まれる 
(4)「判断のある」と「存在のある」
(5)「存在のある」と他の性質  
(6)「存在のある」と他の動詞
(7) 肯定と否定 
(8)全体から部分へ、部分から全体へ 
  2.2.言語世界で対象が意識される場合
(1)文全体が意識された場合
(2)文から述語部に

                                     

 1.松永さんの論文について

 松永さんは東大の大学院で野村剛史氏のもとで日本語学を研究してきた。20代の後半に始め、
すでに10年以上の期間になる。松永さんの評価できる点は、日本語の助詞、特に助詞ハの研究に
専念してきたことだ。助詞は日本語の根底をなしており、その中でもハは核心だ。こうした大きな
研究対象に取り組むことは普通は避けられる。大きすぎ、根本すぎて、すぐに成果は出ない。
評価されにくい対象なのだ。

 そのハの研究にあっても、デハナイに着目したことも、すぐれた直感だったと思う。ここにはハの
根源的な機能が隠されていると思う。

 問題に気づけた人は、その答えを出す能力を持っている人だ。マルクスがそう述べているが、
松永さんにもそれが言えるはずだ。ただ、助詞は、そしてハは、ムズカシイのだ。日本語の基本構造が
そこにあり、それをつかまない限り、真相は見えてこない。

 この4年間、私は松永さんと一緒に野村氏の助詞ハ、ガ、ノに関する論考や関口存男の『冠詞論』を
読みながら、言語一般の発生(名詞の生成)からの展開、文(判断)の成立の意味、名詞の変質・消滅
までを考え続けてきた。

 同時に、ヘーゲルの判断論、アリストテレスの形而上学を読みながら、人間の認識そのものの成立過程、
展開過程を考えてきた。その両者は基本的には同じことなので響き合い、相互に深まりあうことになった。

 松永さんはこの2年ほど、繰り返し、デハナイの意味について論考を書いてきた。しかし、それはまだ
まだバラバラで混乱していた。1つの原理原則から、すべてを押さえようという覚悟が感じられないのが、
一番不満だった。それを繰り返し指摘してきた。名詞の生成と分裂(判断)から、すべてを捉えつくせ!

 今回掲載した論文(今年の3月に書き上げられた)で、松永さんは初めて、それをなんとかやりとげたと思う。
全体を1つの原理で貫徹しようとしたことが、何よりも優れている。全体も、細部も、一応は論理的に展開され
ているし、「3.デハナイ」と「6.否定と対比」がよく考えられていると思う。その志の高さから、すでに可
能性としては、日本語学の研究者の中ではトップだろう。

 それだけに、これからどう生きるかが重要だ。それは学会との関係や距離を定め、在野の存在で終わることも
覚悟し、ひたすらに真理に向かって突き進めるかどうかだ。

 その点で、一番気になったのが、今回の論文を野村氏の理論を踏まえて展開したことだ。踏まえるのは良いが、
対立点が明示されず、野村氏の理論に対する自分自身の立場を表明していないことだ。これは「ひよっている」の
ではないか。このことは、もっと根本的には学会との関係、そこで前提とされている専門用語の使用法としてあら
われている。

 今回の論文は、多くの前提を持っている。主語と述語、肯定と否定、文と単語、名詞、判断、個別と普遍、
助詞、助詞ハの基本用法、確定と仮定、用法などなど。しかし、本来は一切の前提なしに、それらすべての生成の
根源から説明しなければならない。そうでなければ、助詞ハには迫れない。それに迫るには、そもそも言語とは何
かを、一切の前提なしに解き明かさなければならない。その覚悟があるのだろうか。

 そのことと重なるが、今回の論文の内容で言えば、デハナイを「述語部」内の分裂と理解した点が致命的な誤り
だと思う。私は、デハナイは、文が文のままに対象化されたものととらえる。

 今、松永さんに問われているのは、どこまで根底的に、根源にさかのぼって言語、日本語を捉える覚悟があるのか、
という点だ。

 2. 代案

テーマは、助詞ハとは何かだ。今回の松永さんの論文に即して批判をすることは不可能なので、端的に、
私の代案を示しておく。

 2.1 現実世界で対象が意識される場合

(1)対象として意識する
 言葉の始まりが問われる。それは人間に、外界の現実世界の何かが対象として意識されることだ。
「ムッ!」「ウン!」。ここにすでに対象と自己との分裂が起こっており、その対象は何かという疑問、
問い(つまり自己内二分)が潜在的に存在している。人間の個人的レベルでは、赤ん坊の空腹や排泄物での
不快感などを想像してほしい。それが人間集団のレベルでは狩猟・採取段階の労働や家族関係の中でも生まれてくる。

この対象を対象としたという意識には助詞ハも潜在的には生まれている。それは「その対象ハ何か」という形で意識
される(これが主題のハの潜在的状態)。また、「存在のある」も潜在的には生まれている(後述)。

(2)名付け
 次の段階では、とりあえず、その対象をAと名付ける。これが名詞の始まりであり、ドイツ語では無冠詞。このAが、
その対象は何かという問いへの一応の答えであり、一応の解決になっていることに注目したい。(この点は関口存男
の『無冠詞』)から学んだ)。

(3)文(判断)が生まれる
 しかし、それはただ名をつけただけで、その対象が明らかになっているわけではない。さらにその問いに答える
ためには、対象世界自らが分裂し、自らの本性を示すことが必要だ。それがその対象から1つの性質(B)が現れること
である。

A=B、A ist ein B、

AはBであると表現される。この時、その対象は何かという問いへの答えは、より深く、対象の
内実に迫っている。これを判断と言う。ここで対象は対象としてはっきりと意識され(それが主語になる)、それに
ハがつく(主題のハの顕在化)。

 主語(主題)とは対象として意識された対象のこと。対象から分裂して現れた部分を述語部という。
AからBが現れたのだが、これをヘーゲルはAがAとBに分裂したと言う。判断は外的世界の二分と統一だが、同時に
それを認識する意識の内的二分とその統一でもある。そして判断においてA(主語)はナカミの空虚な入れ物でしかなく、
そのナカミはB(述語)で示されるとヘーゲルは言う。ここで意識はA(主語)からB(述語)へと重心を移動している。

(4)「判断のある」と「存在のある」

A ist ein B、AはBである。 この花は赤い、この花は美しい

 こうした判断の中に現れてくる「ist」や「である」は「判断のある」と言われる。

 これに対して、A ist.  Aはある
これを「存在のある」と呼ぶ。

 ここで、「判断のある」と「存在のある」の関係が問題になる。しかし、本当は、この「ある」がそもそもどこから
生まれてくるのかが問われるべきだ。

 それは対象を対象として意識した時、そこに対象の存在が潜在的に含まれているのだ。それが顕在化し、外化した
ものが「存在のある」なのである。つまり、対象Aを対象(A)として意識する時、それは(存在したA)であり、
それを意識した時にAは(が)ある。A ist. と表現される
 
 そして判断とは、その意識された対象Aが分裂し、そこから性質(B)が現れることなのだから、そこに「存在の
ある」が存在しており、それが転じて「判断のある」が現れていくるのだ。つまり、「判断のある」は、対象Aに
潜在化していた「存在のある」から生まれたものと言える。ただし、以上は、論理的な説明で、時間的な順番ではない。

(5)「存在のある」と他の性質 
 A ist ein B、AはBである。 この花は赤い、この花はきれいだ

 これは判断である。
 ではA ist.  Aはある  Die Blume ist. この花は(が)ある
は何か、これも判断なのか。

 私は、これも先の判断文と同じ判断であり、Die Blume「この花」の分裂の1つだと考える。ist(sein)「ある」も
「この花」の性質の1つで、それが外化されたものなのだ。その意味で存在の「ある」は、「赤い」、「きれいだ」、
「小さい」、「バラだ」などとなんら違いはない。

 しかしもちろん違いはある。存在の「ある」も「この花」に含まれた性質の1つでしかないのだが、それはもっとも
根底にある性質といえる。「この花」の持つ諸性質の中で、「ある」が一番基底にあるからだ。

 なぜなら、「赤い」「きれい」「小さい」「バラ」ではなくても、「花」は存在できるかもしれないが、
「ある」がなければ、「花」は存在できない。それは無だ。つまり「この花」と「ある」は切り離せず、「この花」
とは「この花はある」ということなのだ。

(6)「存在のある」と他の動詞
(1) Die Blume ist. この花は存在する
(2) Die Blume riecht.  この花はにおう
(3) Diese Blume zieht Leute an.  この花は人を引き付ける

 私は先に、(1)「この花は存在する」は判断だと述べた。では(2)や(3)はどうなるのか。
(2)や(3)も、実は「ある」と同じなのだ。つまり、「この花」の諸性質が外化したものでしかない。普通はこれを判断
とは呼ばないが、実は同じ分裂が起こっているのだ。ここからわかるのは、動詞であろうが、形容詞や名詞であろうが、
述語部に来るすべての品詞は、主語に置かれた名詞からその諸性質が外化したものでしかないということだ。
その意味では、動詞は決して特別なものではないのだ。

(7) 肯定と否定
 判断で肯定と否定の形があるが、それはどこから生まれるか。それは「存在のある」(sein)とその否定、つまり
「存在しない」=「無」(nicht)から生まれる。
この「無」は対象(A)として意識された対象(A)が実際に存在しなくなる、消滅したり変化したりすることで意識される。
この「存在」と「無」が、判断の形式のレベルで捉え直されたときに、「肯定」と「否定」が意識されるようになる。
ここに「否定」が生まれ、「反対」「対極」という考えが生まれる。肯定の否定は否定だが、その否定の否定は肯定である。
この花は赤い、この花は美しい、この花はバラだ、この花は香る といった肯定表現に対して
この花は赤くない、この花は美しくない、この花はバラでない、この花は香らない が否定表現だ。

(8)全体から部分へ、部分から全体へ
 認識が進むと、最初に意識した対象全体から、その部分へと意識が移ったり、その逆に部分から全体へと意識が移っ
たりする。その意識の中には全体を否定し、その反対の部分へという意識があり、それは「否定」「反対」という考えが
前提となっている。これが全体と部分の「対比」の意識にもなる。

 以上は、そもそも現実世界からある対象が意識される段階から始めて、名前が生まれ、さらには判断が生まれてくる
段階を見てきたのだが、そうした判断の形式が、普通の日常で、ごく普通に使用されるようになると、現実世界とは
別の言語世界(観念の世界)で、同じことが繰り返されるようになる。

 2.2.言語世界で対象が意識される場合

 ここからは、対象は現実世界のものではなく、言語世界での文や語句になる。ある判断(文)や、文の中のある語句
や単語が、対象として意識されるのだ。

 そこで、ここでは、わかりやすいように、意識された対象を(  )でくくって示すことにする。

(1)文全体が意識された場合

 ある文、判断が対象として意識される場合を考える。
(A ist ein B)、(AはBである)が対象として意識される。
「ムッ!」「ウン!」。ここにはすでに対象と自己との分裂が起こっており、対象化された判断への問い(つまり自己
内二分)が内在化して存在している。

 その問い、疑問には、対象化された判断への「否定」(疑い)が内在化されている。逆に言えば、まったくの「肯定」
の場合には、対象と自己との分裂が起らず、その判断が意識の対象とはならない。

 その否定を外化させれば、次のようになる。
(AはBである)はない。
(AはBで)はない。

 「ムッ!」「ウン!」とある判断が対象として意識され、その判断への疑問、問い(つまり自己内二分)が自覚され
るが、検討の結果、最終的には「否定」でなく「肯定」になった場合は次のようになる。

(AはBで)はある。
これは(AはBである)はない。と思ったが、結局は(AはBである)であった。ということだ。

 なお、松永さんが仮定条件にはデハナイが現れない理由を考えているので、それへの私見を出す。人に文が意識され
れば、その文を意識してハが現れるのが普通だ。仮定条件とは、その(意識された文)が仮定条件として意識されるこ
とだ。それが「?デナイならば」と表現され、「?デハナイならば」とならないのはなぜか。「ならば」の機能の中に、
文を意識するというハと同じ機能が含まれているからだ。

 これは、人は1回に、1つのことしか意識できないことをも意味する。ある文(肯定文)を意識した時に、
デハナイが現れる。しかし、そのデハナイと意識された否定文を、今度は仮定条件として意識した時には、仮定条件
「ならば」に意識の焦点は移り、否定文中にあった肯定から否定への屈折「デハナイ」に意識が留まることはない。
意識が2つの焦点を維持することはできないのだ。意識とは流れゆくものであり、その都度に、1つの対象(焦点)
が意識されては消えていく。関口なら「達意眼目は常に1つだ」と言うだろう。

(2)文から述語部に

 ここで意識の対象が文(判断)全体から、その述語部Bに集約される場合を考える。

それはBが意識される場合であり、Bへの疑問が潜在的にある場合だ。それが自覚された表現は次のようになる。
Aは(Bである)はない。
Aは(Bで)はない。

 次に、このBの否定が意識されると、そこに内在化された問いは「それに対する肯定は何か」になる。
Aは(Bではない)。 (Cで ある)。
(Dで ある)。
(Eで ある)。
(Fで ある)。

否定と肯定でBとCDEFなどの他の性質が比較され、性質同士の関係が差異から区別、対立、矛盾へと進展していく。
これが「ハ」の「対比」の機能とされるものの内実である。

なお、
Aは(Bで はない。(Cで ある)。

ここから、
Aは(Bで はなく)、(Cで ある)。
また、Aは(Cで あって)、(Bで はない)。
が出てくる。

もう1点補足する。今検討したAは(Bで)はない、と「1.」で取り上げた AはBでない、とはどう違うのか。

この花は赤くない、この花は美しくない、この花はバラでない と
この花は赤くハない、この花は美しくハない、この花はバラでハない。 

この「は」が入るか否かの違いは何か。これは現実世界の否定がただ反映された表現と、言語世界で述語部が意識され、
そのが否定が意識された表現との違いである。

以上で松永さんが問題にした諸点についての私見の概要の説明を終える。なお、以上の説明ではこれを主に認識の運動
として表現したが、もちろん、対象世界がそのように運動するから、人間がそれを認識できるのである。

また、「1.」では現実世界と意識との関わり、「2.」では言語世界内での意識の動きを説明したが、「2.」の
言語世界は「1.」の現実世界の反映として、現実世界とつながっているから、文や語句の意識といっても、現実世界
の対象意識とも重なることは当然である。しかし言語化された上での意識とそれ以前の意識を区別することは重要だと思う。

                     2014年10月31日

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