11月 06

ヘーゲルの論理学における本質論  中井浩一

■ 目次 ※前日のつづき

6.根拠を深めるには、区別を深めればよい
7.矛盾の立場と思考の諸段階
8.根拠の立場
9.全世界は自己同一であり、自己区別の世界である
10.本質論における現象論と現実性論

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6.根拠を深めるには、区別を深めればよい

さて、この根拠の深さには違いがあり、その発展段階の違いがある。それは根拠に止揚される区別の深まりに対応するのである。
「根拠が複数挙げられた状態は、〔差異→対立→矛盾と進んでいく〕区別の概念に従って、たんなる差異〔たんに根拠がいくつもあるということ〕から対立〔した根拠があるということ〕へと進み。〔さらに〕同一の内容に対してそれを肯定する根拠と否定する根拠とが挙げられるということ〔矛盾の関係〕になります」。(『小論理学』121節 付録)
「差異」の立場とは次のように説明される。
「日常の意識は区別された諸項を互いに無関係なものと見なしたりします。例えば、『私は人間であり。私の周囲には空気、水、動物。その他いろいろなものがある』という言い方がされます。このように言うと、すべてのものがバラバラになってしまうのです」。
その深まりとは、「対立」の段階に進むことである。
「哲学の目的は無関係性を追放し〔諸事物を無関係な並存にとどめておかないで〕、諸事物の必然性〔必然的関係〕を認識し、ある物の他者がその物固有の他者として対立して現われるようにすることです」。(以上、『小論理学』119節付録2)
この「対立」の関係でとらえていく段階では、肯定的なものと否定的なものとが対立するのだが、この具体例としてヘーゲルは自然科学の示した二極性を挙げる。
「肯定的なものと否定的なものとはその本質からして互いに制約しあっており、相互の関係の中ではじめて存在するものなのです。磁石の北極は南極なしにはなく、南極は北極なしにはありえません。もし磁石を切断しても、一方の断片に北極、他方の断片に南極ができるのではありません。電気の場合でも同様で、陽電気と陰電気とは独立して存在する二つの異なった流れではありません」。(『小論理学』119節付録2)
この二極性において、すでに矛盾が現われている。それは区別と同一の直接的な統一だからである。それは根拠に内在している矛盾の深まりでもある。
これが社会科学の例になると、矛盾は深まり、同一性が浮き出てくる。
「〔肯定的なものと否定的なもの〕には絶対的な区別があるかのように思われがちです。しかし、両者は本質的には同一のものなのです。ですから、肯定的なものを否定的なものと呼び、逆に否定的なものを肯定的なものと呼ぶこともできるのです。
例えば債権と債務とは、二つの互いに別々な特殊な種類の財産ではありません。一方の人、債務者においては否定的なものが、他方の人、債権者においては肯定的なものなのです」。(『小論理学』119節付録2)
ここでは対立は、その奥にある同一性を示している。根拠はこうした同一性にまで深まっていく。
さらに、根拠として、肯定と否定という正反対のものが挙げられるようになる。
「同一の内容に対してそれを肯定する根拠と否定する根拠とが挙げられる」(『小論理学』121節 付録)場合は、そこに矛盾があり、その関係が問われる。社会問題では、それは深刻な対立になる。
「たとえば盗みという行為を取上げてみますと、盗みというのはいろんな面をもった内容です。〔第一に〕それによって所有〔権〕が犯されるということ、しかし〔第二に〕困っていた盗人は盗みによって自己の欲求充足手段を手に入れるということ、更に〔第三に〕盗まれた人はその盗まれた物を正しく使っていなかった〔だから、その物にとっても盗人が使った方がよい〕という場合もありうること、などです。
〔これに対して〕ここでは所有〔権〕が犯されたということ〔根拠〕が決定的な点であって、他の根拠はこの根拠に劣るということは。たしかにそうでしょう。しかし、根拠の思考法則〔自身〕の中にはどの根拠を決定的とするかということは入っていないので〔あって、根拠律の立場ではどの根拠も同等なので〕す」(『小論理学』121節 付録)。
 こうした複数の根拠は、相互に対立し、矛盾しあっている。この対立・矛盾は、人間社会における「所有」とは何か、の理解によってしか解決できない。それは人類史における所有の始まりから、近代社会の成立までに関わってくるだろう。
 しかし大切なことは、ここで矛盾に気づくことがなければ、その先には進めないということだ。
「根拠の思考法則〔自身〕の中にはどの根拠を決定的とするかということは入っていない」。ここに根拠の限界の自覚が生まれている。このことが重要である。
さらに巨大な対立関係がある。
「例えば、無機的自然はたんに有機的なものとは別のものと考えられるべきではなく、有機界の必然的な他者と考えられなければなりません。両者は本質的な相互関係の内にあるのであって、そのいずれもが、他者を自己から排斥し、しかもまさにその排斥することによってその他者に関係する関係の中でしか存在しえないのです。同じように、自然も又精神〔人間〕なしにはなく、精神〔人間〕も自然なしにはないのです」。(以上、『小論理学』119節付録2)
ここには巨大な矛盾がある。自然から人間が生まれ、自然から精神が生まれる。その生成は、同一律や矛盾律からすれば、とんでもない矛盾である。そして、そうした生成の中でも、人間が生まれ、精神が生まれたこと以上の謎はない。その根拠を考えるならば、自然史的な関係、人間とは何かを正面から問うことになっていく。それが人間の概念であり、自然の概念である。

7.矛盾の立場と思考の諸段階

以上の例を踏まえて考える時、ここには対立から矛盾の関係への深まりがあり、それが認識の不十分さを自覚させ、その先へと認識を推し進めることが理解できる。
こうとらえるヘーゲルにとっては、矛盾とは世界の運動の核心であり、したがって矛盾は認識の上でも核心である。
「一般に世界を動かしてきたものは矛盾である。矛盾が考えられないというのは笑うべきことである」(『小論理学』119節付録)。
矛盾を中心に据え、すべての根底において考えようとするヘーゲルの基本的立場がここに宣言されたのである。しかも、悟性的な考え方の中から、その内部の対立と矛盾によってそれが崩壊する中から。
実は、この矛盾による運動と、それによる矛盾の克服という展開は、ヘーゲルの論理学の最初から最後までを貫いている。この関係の深まりが、実は発展であり、その思考の諸段階をその順位に従って示すことが、ヘーゲルにとっての課題だったのである。
ヘーゲル哲学はだから、矛盾を根底に置いた哲学であり、それゆえに「弁証法」と呼ばれる。
ちなみに、この矛盾による運動と、それによる矛盾の克服という方法を、認識の上での最大の武器としたのが、マルクス、エンゲルスの唯物史観であり、唯物弁証法であった。そしてその成果が、階級闘争の理論と社会主義社会の到来の必然性の証明である。その最終結論は間違いだったが、その認識方法は人類への巨大な貢献である。

矛盾による運動と、それによる矛盾の克服という展開、この関係の深まり、発展にしたがって、思考の諸段階をその順位に従って示すことが、ヘーゲルにとっての課題だった。
「論理学の仕事とは、たんに表象されただけであるが故に概念で捉えられておらず証明されてもいない観念を、自己規定しゆく思考の諸段階として示すことでして、それによってそれらの観念が概念で捉えられ証明されるのです」。(121節 付録)
 だから、ヘーゲルは、ライプニッツが充足理由(根拠)律(すべてのものはその十分な理由を持って存在する)を主張したことを、論理学全体の発展の中に位置づけようとする。
「ライプニッツが十分な根拠ということを主張したが、ライプニッツが主張した考え方は、概念的に認識することが求められている所でたんなる根拠を持出して事足れりとするような形式主義の正反対のものです。これについては、ライプニッツは作用因と目的因とを対置し、作用因にとどまっていないで目的因にまでつき進めと主張しました。この区別で考えると、例えば、光、暖かさ、湿りけは植物の成長の作用因ではあるが、目的因と見なさるべきではなく、この目的因は植物の概念自身にほかならないというようなことです」。(121節付録)
 ヘーゲルは、作用因も目的因も、その他の根拠とともに、まずは根拠として取り上げ、その上で、作用因を本質論の中核に位置づけ、目的因を概念論の中核に位置付けていく。
 

8.根拠の立場

矛盾の立場、発展の立場に対して、「根拠」にとどまり、先に進もうとしない態度が「根拠の立場」であり、それをヘーゲルは批判する。「根拠」そのものが問題なのではない。
人がすべての変化する現象の中にあって、永久に変わらないものを問題にし、現象の理由を問うこと、そこからすべてが始まるのである。その時、理由として挙げられるすべてがまずは、根拠として取り上げられる。すべては根拠の段階から始まる。
問題はそこにとどまるか否かだけである。
根拠の不十分さを最初から分かっている人はいない。その不十分さ、問題点に気づき、それを克服していけるのは、何よりも、その不十分さ、問題点に気づいたからなのである。
どのように気づいたのか。区別の深まりによって、対立するものが根拠にされ、矛盾が起きているからである。
しかし、実際は、哲学や諸科学のほとんどは、根拠の立場にとどまっている。うすうすは問題に気づいているのだが、「もまた」によって誤魔化し、開き直るのである。ヘーゲルが批判しているのは、そうした態度である。それは真理に対する不誠実さだからである。

9.全世界は自己同一であり、自己区別の世界である

反省論で示された自己同一と自己区別とは、一般に比較が原理的に可能な根拠なのであり、同一律などの根拠なのだが、さらに根源的には、この世界に関係があること、すべての存在は相互に関係し、それらの複数の内的根拠もまた相互に関係しあうことの根拠になっている。
私たちの世界では、すべての存在するものが相互に関係しあっており、それぞれはその関係の中で相互の本質を映し合っている。こうした関係を、ヘーゲルは「反省」とか、「反照」とかと呼び、これを本質論段階のすべてにおける運動としてとらえている。
反省というと、外面から内面に向かう関係だけをさすように思うかもしれないが、ヘーゲルが言っているのは、すべての関係は本来は「反省」「反照」の関係だということである。
この世界では、存在するすべては他者との関係の中にあり、その関係の中でその内的本質を表している。すべてのものは、すべてのものと関係し、そうした関係の中にすべての本質が現れている。関係とは、内的側面と外的側面とのものだけではなく、外的側面の多様な存在同士の間にも、内的側面とされる本質の諸側面の間においても関係している。すべてがすべてと関係している。これが私たちの眼前に展開する世界である。
この根拠は、すべては自己同一、自己区別の関係にあるということである。この世界は自己同一、自己区別の世界である。
すべてのものは、すべてのものと関係し、そうした関係の中にすべての本質が現れている。しかし、もしそうした関係性だけが絶対的なものならば、そこからは相対主義、多様性の立場しか生まれないであろう。
すべては、その相手次第、その関係次第で、変わってしまうことになるからだ。ヘーゲルがめざしたのは、関係の中に、絶対的真理が確固として存在することだった。それは「この世界は自己同一、自己区別の世界である」ということからしか導き出せないだろう。しかし、  このことはただちには、理解できないだろう。
これは、ヘーゲルの立場に立てば、神がこの世界を創造したからというキリスト教の世界観からの結論なのであろう。しかし、生物学者の今西錦司のように1つの地球からその後のすべてが生まれたのだから、すべては1つであり、そして多様な世界でもある、という主張もあり、これならマルクス、エンゲルスの唯物論の立場からも受け入れられるのではないだろうか。
 この世界のすべてのものは、すべてのものと関係している。すべてはそもそも同一のものだからである。しかし同時に、分裂し、多様なものとなっているからでもある。そうした関係の中にすべての本質が現れている。外的世界と内的世界も、同一であり、区別でもあるからだ。
 ここまでを、ヘーゲルとライプニッツは、同一と区別の規定からとらえている。
 だから、最初からこの世界は1つであり、その1つが多様な世界になったのであり、それは1つの実体の多様な現れであり、必然的な関係がある世界に決まっているのだ。そしてその世界では、1つの実体、つまり中心があり、目的がある。それが私たち人間であることが後に明らかになっていく。

10.本質論における現象論と現実性論

以上がヘーゲルの本質論冒頭の反省論に書かれている。これが本質論全体への序論になっている。
 ここでは、同一と区別を取り上げることで、形而上学の3大法則を批判し、根拠の立場の不十分さの指摘と、その克服の道を示すことになっている。それは矛盾の立場からの批判と克服であった。
 そして、根拠の深まりを、哲学や諸科学において実際に具体的に展開するのが、反省論の後に置かれる、現象論であり、ラストに置かれる現実性論である。これが本質論段階での深まりであり、それを克服した概念論が続いていく。
 
関係を深めていくためには、それが部分的な関係から、より全体的な関係へとならなければならない。
それは空間的にも、時間的にもそうであろう。現象と本質の関係では、それが法則、自然法則や社会法則としてまとめられる。
それがさらに深まり、時間的にも、現在を大きく超え、最終的には生物の歴史、地球史の規模になっていく。そこでは1つの実体が、自己を実現していく。それが現実性論である。
存在するものが根拠からとらえ直された時、それが現象世界として現れる。これが現象論の段階であり、私たちの普通の意識に現れている世界である。
現象世界は存在論の世界が、本質論において、その内的根拠(本質)に媒介されて現れたものである。ここで現れる本質は、法則としてとらえられる。現象世界は多様に変化する世界だが、その中に変わらない本質、固定した本質としてとらえられたのが法則である。
 この現象世界では、存在するものは相互に関係しあっている。AとBがある時、AもBも相手との関係の中で理解できる。自己に反省すると同時に他者に反省し、相互に根拠と根拠づけられるものとして関係する。相手によって初めて自分の存在を持つ。この関係が「反省」「反照」であった。
 この段階の相関関係として、ヘーゲルは全体と部分、力と発現、内と外を示し、その内・外関係が1つになった段階として、最後の現実性を導出する。

現象世界が、世界の始まりから終わりまでを1つに貫く実体の現われとしてとらえられる時、そこに現実性論の段階が現われる。
現実性論は、世界をその全体として、1つの実体とその展開としてとらえる段階である。関係そのものがどのように生まれてきて、どうなっていくのか、関係そのものの発展が、可能性→現実性へととらえられる。反省論にあった根拠の立場とは、ここではまず可能性、偶然性として現れ、それの深まりが必然性、現実性として展開していく。
それは根拠の偶然性の克服が、まさにここで問題になっていることを示している。
この段階の相関関係として、ヘーゲルは実体とその現れ、原因と結果、相互関係を示している。
この段階を、ヘーゲルは必然性の深まりとしてもとらえ、それを止揚した段階として、次の概念論を出す。実体は主体としての概念に、必然性は自由へと止揚される。

2019年10月10日

11月 05

2019年の夏の学習会では
 前半の2日間はヘーゲルの原書購読。小論理学の本質論の112節から122節の本文と注釈(付録部分は適宜選択)
を読みました。
 
 この目的は、本質論における存在の運動とは何か、そこで明らかになる本質とは何か、
どうすれば認識は深まるのかについて、ヘーゲルの考えを確認することでした。
 本質論の最初に置かれる、同一、区別、根拠の展開の意味、本質論の前に置かれた存在論は何なのか、
そこで示される根拠とは本質一般のことだが、その後、現象論と現実性論で展開される本質とどう関係し、
概念とどう関係するのか。本質論が、関係の論理とされることはどういう意味か。
 これらを確認することが目的でした。それは達成できたと思います。

 その成果を掲載します。

■ 目次 

ヘーゲルの論理学における本質論  中井浩一

1.論理学の中で一番難しい本質論
2.本質論における反省論
3.根拠の立場の不十分さ
4.同一と区別の反省規定
5.根拠とは何か 
※ここまでを本号に掲載。以下は次号へ。

6.根拠を深めるには、区別を深めればよい
7.矛盾の立場と思考の諸段階
8.根拠の立場
9.全世界は自己同一であり、自己区別の世界である
10.本質論における現象論と現実性論

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ヘーゲルの論理学における本質論

1.論理学の中で一番難しい本質論

ヘーゲルの時代にあって、その当時の哲学や諸科学に対するヘーゲルの激しい不満は、その真理認識の不十分さにあった。その認識が偶然的なレベルにとどまり、必然的な真理を示せないでいることに対する不満である。
1つの現象に対する根拠(理由、原因)が複数挙げられ、そのうちのどれがなぜ重要なのかが示されない。しかも、対立する2つ以上の根拠がともに挙げられたりもする。それらの全体がどう関係するのかは不明なままで、そのどれがどのように正しく、どれがどのように間違いなのかは示されない。
 ヘーゲルがこの問題と闘ったのは、何よりも彼の論理学においてである。
 それは諸科学の問題の根底に、思考能力の低さ、そのカテゴリーの運用能力の低さ、つまり思考における悟性レベルの低さを見ているからであり、それを克服した理性レベルの思考を示すためである。
それは論理学のどこでどのように問題にされているのか。
論理学の全体は、存在論と本質論、概念論からなっている。その本質論こそが、この問題の主戦場である。世間や諸科学でなされていることはこの本質論が問題とする領域にほぼ重なるからである。
「本質論は論理学の一番難しい部分であるが、そこには、とりわけ形而上学と諸科学一般のカテゴリーが含まれている」(『小論理学』114節注釈)。
ここにヘーゲルが何と闘っていたのかが明示されている。敵とは形而上学と諸科学一般の考え方だったのである。
そしてそれは、ヘーゲルの論理学では、本質論に集約されているのである。それだけに、ヘーゲルはここでこそ闘った。それが「一番難しい」という言葉によく出ている。

2.本質論における反省論

ヘーゲルは本質論を3段階に分ける。「それ自身における反省としての本質」(今後「反省論」と呼ぶ)、「現象」論、「現実性」論である。
この現象論、現実性論は、哲学と諸科学の実際の認識が問われている。その前の反省論は、全体の序論として置かれ、問題のありかとヘーゲルの立場を明確に示している。
哲学と諸科学の認識に問題がある以上、問題がどのように生まれてきたのか、その過程の中に、その問題の克服の方法も示されている。
それは冒頭の反省論に端的に示されている。反省論の内部は、仮象論、同一と区別の反省規定、根拠となっている。ヘーゲルは仮象と根拠の関係から、同一性、区別の反省規定を導出し、その同一と区別の統一として根拠を示す。そして仮象と根拠の統一(根拠から仮象をとらえ直す)から次の現象を出す。
哲学と諸科学の問題とは一般的に言えばこの根拠の不十分さである。そして、根拠の立場に問題がある以上、その問題がどのように生まれてきたのか。その過程の中に、その問題の克服の方法も示されているはずである。これがヘーゲルの基本的な方法であり、これが発展の立場なのである。これらは序論として置かれた反省論で示されるはずだ。

そもそも、私たちに本質が問われるようになるのはどういう時だろうか。
 それは感覚の世界への疑いが始まった時だろう。感覚でとらえたものが、実際とはズレていることを知ったり、感覚でとらえる世界が確かなものではないことを自覚した時。
存在するものの世界は無常であり、ただ変化していく。生まれ、変化し、消滅する(これは変化する多様性の世界、区別の世界である)。その中に変わらないものがあるのではないか、感覚を超える世界(これは変わることのない同一性の世界である)があるのではないか、それが本当に確かなものなのではないか、ととらえた時に、私たちは本質論の入り口に立つのだろう。
 その時、感覚の無常な世界と、感覚を超える世界、変わらない世界との関係が問われる。
 それが無関係ではなく、変化しゆく、移ろう世界は、変わらない世界の何らかの現れではないか、ととらえた時に、本質論のただ中に、私たちは立つのである。
こうした関係において、一般に前者が外的な現れ、「仮象」と呼ばれ、後者が内的本質、「根拠」と呼ばれており、ヘーゲルもそれを踏襲する。この根拠とは、普通には理由であり、原因結果の因果関係としてとらえられる考え方である。

3.根拠の立場の不十分さ

ではこうした根拠の不十分さとは何か。
根拠の立場は、対象を内化させ、その内的根拠を探せばよい。対象を二重化させ、その根拠に媒介されていればよい。それがこの根拠の立場であり、それ以上のことは根拠では問われない。ここにその限界、根拠の不十分さがある。
ヘーゲルは次のように批判する。
「事物の根拠を問う時には事物をいわば二重に、まずはその直接態において、次にはその直接的なあり方ではない根拠において〔根拠から媒介された姿において〕、見ようとしているのです。事物は本来媒介されたものとして考察しなければならないということにすぎません」。
「論理学の仕事とは、たんに表象されただけであるが故に概念で捉えられておらず証明されてもいない観念を、自己規定しゆく思考の諸段階として示すことでして、それによってそれらの観念が概念で捉えられ証明されるのです」。 
「根拠というものはいまだ絶対的に規定された内容をもっておらず、したがって、ある物をその根拠から理解しただけでは。その物の無媒介の姿と媒介された姿との形式上の区別を知ったにすぎないということです。ですから、例えば、ある電気現象を見てその根拠を問い、その根拠が電気だと知らされても、それは、目の前に無媒介に与えられた同一の内容が内的なものへと翻訳されたにすぎないのです」。
「根拠は単に単純に自己同一なものであるだけではなく、〔自己内で〕区別されたものでもあります。ですから同一の内容について複数の根拠を挙げることができます」。「同一の内容に対してそれを肯定する根拠と否定する根拠とが挙げられるということになります」。
(以上『小論理学』121節付録から)

4.同一と区別の反省規定

根拠の立場に不十分さがあるのならば、それは仮象と根拠との関係に不十分さの原因がなければならない。またそこにその克服の道も示されるはずである。
したがって、仮象と根拠との両者を結ぶ、同一性と区別の反省規定が核心になる。

根拠とは、何らかの存在の内的本質(変わることのない同一性)であり、仮象とは根拠の外的現われ(多様な区別)のことである。しかし、この同一性と区別の2つの側面は切り離せないし、2つで1つなのである。1つの対象が2つに分裂、区別され、しかし、その2つは、1つの対象の2つの側面であるから、同一なのである。だからヘーゲルはここに自己同一性と自己区別を見ていく。
 この区別は自己から自己を突き放すこと、つまり1つの自己が分裂した状態がここにおける区別、つまり自己区別であり、だからこそ両者はそもそも同一、つまり自己同一(自己と自己との同一性)なのである。
 だからこそ、根拠の同一性とは、単なる抽象的な同一性ではなく、同一と区別という対立・矛盾を自己内に2つの契機として含み持った、より具体的になった同一性なのである。

ヘーゲルがここで導出した同一と区別とは、一般にはAとBを比較して、AとBは同じだとか、異なっているとかという際の、同一性(同等性)や区別(不等性)としてとらえられる。それがさらに抽象化され、同一律(A=A、AはAである)、排中律(ある物はAか非Aであり、第3者は存在しない)、矛盾律(Aは同時にAかつ非Aであることはできない)として意識されている。これらは思考の3大法則と呼ばれ、すべての人が従っているものであり、これゆえに比較が可能になっているとされている。
しかし、それは原因ではなく、結果でしかない。ヘーゲルは、それらの思考法則が成立するように見える根拠として、自己同一と自己区別をここで提示しているのである。つまり、比較の際の同一や区別を言うことが可能なのは、そこに最初から自己同一の関係があり、同時に自己区別でもあるからなのである。
このことは、世間でもある程度理解されており、比較が可能なのは、根底には同一性があり、その上での違いがとらえられるからだと言われているのである。(『小論理学』118節付録)
ライプニッツが問題にした「不可識別者同一の原理」(すべてのものは異なっている、完全に等しい2つのものは存在しない)をヘーゲルは取り上げて、その真意を「ある物はそれ自身で異なっている、それ自身の規定によって異なっている」という意味だと説明し、それを「自己区別」の主張だと言う(以上『小論理学』117節の注釈と付録)。それは「自己同一」の主張だと言っても同じことなのである。

こうしたライプニッツやヘーゲルのとらえ方は、もちろん、同一律・排中律・矛盾律への批判として出されているのである。
いわゆる同一律・排中律・矛盾律と、自己同一と自己区別とは、根底において全く対立し、矛盾する。ヘーゲルはここで、こうした思考法則を悟性的な低さとしてとらえ、それが哲学や諸科学の根底にあるがゆえに、その根拠の立場の不十分さを生むととらえている。
◆哲学や諸科学は、根拠を複数挙げることに躊躇ない。中には相互に対立するものを挙げても平気である。
「形而上学と諸科学一般のカテゴリーは反省的悟性の産物であり、反省的悟性というものは、区別された諸項を自立的なものとしながら、同時に又それらの区別項の相対性〔関係〕も認めるのだが、その時その諸項の自立性と相対性を並列的ないし前後的共存関係として、「もまた」というようなことで結びつけて終りとするだけで、これらの観念をまとめ〔内在的に関係づけ〕て、それを概念にまで統合することをしない〔から〕である」(『小論理学』114節注釈)。
この「もまた」ということをやめることから、哲学は、真の思考は始まるのだ。
では、その「概念にまで統合すること」、つまり、必然的な根拠、その全体を明らかにするにはどうしたらよいのか。

5.根拠とは何か

回答は、複数の根拠がただ並べられるだけの関係を、より必然的な関係へと深めていけばよい、となる。
その方法は、区別の関係を深めることによって示されている。
ヘーゲルは、反省論の反省規定で同一性と区別を取り上げ、区別の内部では、差異→対立→矛盾の順番に取り上げていく。この区別の進展に、ヘーゲルは関係の運動の深まり、発展を見ていく。
差異とは、ただの違いであり、直接的区別である。しかし違いが深まると「対立」関係が現われる。ここで対立しあう両者が反照しあう。「他者がある限りでのみ存在する」。「自己に固有の他者」を持ち(相互依存)、相互に排除しあう。「一方は他方との関係の内にのみ自己の根拠を持ち、他方に反省している限りにおいてのみ自己に反省する。他方もそうである」(『小論理学』119節)。ここに矛盾が始まるが、矛盾はさらに激化し、その中から矛盾を克服する運動が起こり、止揚される。

ここにヘーゲルが示す区別内部の深まりは、そのままに根拠同士の関係が対立し、その矛盾が深まっていく過程である。
そもそも、根拠とは同一性と区別という矛盾を止揚し、両者を自己の契機として含み持ったものであった。それは「総体性として定立された本質」であり、「矛盾として定立された対立の最初の結果が根拠である」(『小論理学』119節付録)。
根拠は自己内に同一と区別を含み持っている。だからこそ、1つの内容に対して複数の根拠を挙げることができるのである。
根拠は、実は仮象と根拠に分裂する以前の最初の同一性に戻ることであるが、最初の抽象的な同一性に対して、1つ上のレベルの具体的な同一性である。最初の同一性の中にあった、同一と区別を自らの両契機として止揚している同一性だからである。
根拠は、実は最初の同一性の中にあり、そこから区別として外化し多様な世界として現れるが、それらは対立から矛盾へと深まる中で運動をおこし、その対立や矛盾はその運動の中で止揚され、それらの根拠が現れてくるのである。
この対立から矛盾の深まりによって、根拠に戻るというとらえ方が、ヘーゲルの矛盾観であり、これが実は発展そのものの論理である。

明日へつづく

6月 18

「個人の問題と組織(ルール)の問題」の続きです。  

■ 目次 

個人の問題と組織(ルール)の問題  中井浩一 
※前号からのつづき
5.近代社会の原理原則とヘーゲルの『法の哲学』
6.マルクスの問題
7.犯罪と刑罰

付録 「部活、サークル、クラスの行事などの問題」(鶏鳴学園で高校生に配布しているプリント)

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5.近代社会の原理原則

 鶏鳴学園では以上のように考え、2章「組織運営上のルールの問題」、
3章「個人の問題はどのように取り扱われるべきか」に述べたように指導することにしたのだが、
実は、ここで問われているのは、現代社会の原理原則の問題そのものであり、近代以降の社会の原理原則なのだ。
 ここにおいては、ルールが確立されていることが、個人を束縛するだけではなく、
同時に個人を守る側面があることに注意したい。ルールに従っている限り、互いの善悪を問題にしたり、
その内面に踏み込まなくて済むからだ。

 これはヘーゲルが『法の哲学』で明らかにしようとしたことなのではないか。
その第2部道徳が、第3部Sittlichkeit(人倫と訳されることが多いがわかりにくい。法律や制度として
実現しているありかた)で止揚されることの意味は、ここにあるのではないか。
 個人の言動の良しあしが問われるのは、道徳の段階と言える。それに対して、組織のルール(Sittlichkeit)
の作成や確認を、人間の自由の実現の過程と見るのがヘーゲルである。
 カントの道徳律は、個人の内なる絶対的法則を示し、高く強い基準を打ち出した。
それに比較して、現実社会の諸制度や法律群は、はるかにぬるい、ゆるいものでしかない。
 では、そのどこが、道徳を止揚した側面なのか。
それは、明文化され、外化、客観化されていて、みなが簡単に確認できるところだ。
そして、それを守る限り、どんな他者も国家も、個人に踏み込むことはできない点だ。
ここに自由の実現の一歩があり、これが民主主義社会の基本的な枠組みなのではないか。
 そして、その時代と民族の発展段階が、その法制度にそのまま反映される。
その実体を超えたルールを作ることはできず、もしそうしたルールを作っても、
その運用面で時代と民族の現状を反映したものとなる。
そして古い民族の諸制度を超える民族や社会が現れて、古い民族とその諸制度は滅びてゆく。
 これらが、そのまま、私が考えたルール設定の意味と重なる。

 しかし、ヘーゲルの『法の哲学』をこのように理解した時には、ヘーゲルの考察の不十分さや限界も明らかである。
 個人の道徳レベルには大きな幅があり、そこにはカントの道徳律やイエスが求めたような高い基準もある。
実際に社会に実現しているルールは、それに比較すればはるかに低いものに止まっている。
それをどう考えたら良いのだろうか。ヘーゲルの叙述と展開ではカントの道徳律のような、
個人の内的な高い生き方が実現していく契機や過程がわからなくなるのではないか。
 ヘーゲルの『法の哲学』には、ルールや諸制度の確立と、個人の内面の問題の相互関係の段階が
きちんと設定されていない。本来は、第2部道徳、第3部Sittlichkeitと続いた後に、Sittlichkeitから
道徳がとらえ返される段階、両者の相互関係を問う段階が必要なのではないか。
そして、その相互関係から、時代と民族、その法制度の発展、つまり「世界史」を導出すればよかったのだ。
 その段階が欠落した『法の哲学』では、個人を組織の暴力から守る観点が弱く、
「個人がない」という批判を受けることになった。
 ただし、その批判は妥当ではない。または表面的なのである。
なぜならヘーゲルには「英雄論」があるからだ。
英雄=指導者と民衆の関係と、その民族の実体との関係をヘーゲルは次のように説明する。
 「英雄」は、その民族精神の実体を自覚し、それに向けて民衆を指導しようとする。
 英雄は民衆の中から現れ、役割が終われば、民衆の中に消える。
英雄が現れて、民衆の中の実体、真理を自覚し、民衆にその真理に目覚めることを促し、
その真理を実現するように指導していく。社会は民衆と指導者に分裂し、それを統合する過程で、社会は発展していく。
 ヘーゲルはこのように考えていたようだ。したがって、民族の発展は、英雄個人の意識に媒介される。
これは、外的な必然性は個人の内的意識(自発性)で媒介されなければならないということである。
ヘーゲルは、個人(英雄)の役割を認め、個人の意識の民衆などからの独立性、自立性を、
はっきりと認めていたことになる。つまり、ヘーゲル哲学にあっても「個人」は大きな役割を果たしている。
 しかし、ヘーゲルには時代の限界があり、現在の私たちから見れば、大きな問題があると思う。
それは大きくは2つある。
 (1)英雄と民衆の分裂と統合は、対立のない予定調和的なものではなく、
たえざる対立や闘争を媒介として進んでいく。(2)英雄と民衆の対立・闘争は、個人の意識内での分裂と
闘争を引き起こす。ヘーゲルは、これを英雄個人だけにしか認めていないように見えるが、
意識内の分裂はすべての民衆の意識内に起こり、その克服はすべての民衆の課題となっている。
 この2点を考える時、ヘーゲルの『法の哲学』では、ルールや諸制度と個人の内面との相互関係の段階が
きちんと設定されていなかった理由がわかるだろう。ヘーゲルには、個人を組織から守るという観点が弱い。
個人と社会の対立抗争によって、社会が発展するという理解が弱い。
 そして、この意味では、ヘーゲルには「個人」がないとの批判は当てはまるのだ。
 ヘーゲルの時代には、それは大きな問題にならなかった。民衆の意識がまだまだ未成熟だったからだ。
しかし、私たちの現代社会は民主主義の段階にまで進んでいる。
そこでは民衆の個々の意識内部の分裂と統合こそが問われるだろう。

6.マルクスの問題
 
 以上のように、今の私たちの問題からヘーゲルの『法の哲学』にもどって、近代社会の枠組みの総体を考えてくると、
どうしてもマルクスが思い出される。

 マルクスの疎外論や貨幣の物神化論、国家や私有財産の廃止論だ。それらには大きな問題があると思う。
そこでは疎外や物神化や国家や私有財産そのものを悪いとしているように見える点だ。
マルクスは、道徳から法制度へと発展したものを、また元の道徳のレベルに引き戻そうとしているように見える。

 本来、疎外や物神化、国家や私有財産そのものは何も悪くない。
それは見えにくい現代社会の問題が外化、客観化されたものでしかない。
私たちは、その内実を自覚することで、初めてその問題に取り組むことができる。
したがって外化とは自由への一歩だろう。
 また、その内実、問題とは、ただ善悪といった基準でとらえることはできない。
それはその社会の実情、その社会の能力の反映そのものだからだ。
そしてそう考えることが唯物史観なのだと思う。
 もちろん、疎外や物神化、国家や私有財産そのものが正義や自由なのではない。そこに何が外化され、疎外されているのかを問わなければならず、その問題に取り組むから自由が実現できるのだ。それが意識されず、自覚されないでいることをマルクスは問題にしている。
 しかし、それは疎外や物神化、国家や私有財産そのものが悪であり、不正義であり、
それを滅ぼさなければならないということではない。

 金もうけのために、すべてを手段とし、人間までを手段とする人がいる。「金で買えないものはない」。
 しかし、そうした人や考え方が生まれたのは、金のせいではないし、資本主義のせいでもない。
もとからその人は、自分のために、他人を手段としていただけのことだ。
貨幣や資本主義は、それを見えやすく外化させただけではないか。
それは問題が見えるようになっている分、自由への一歩である。

 以上のように、マルクスの疎外論や貨幣の物神化論、国家や私有財産の廃止論には、
道徳から法制度へと発展したものを、また元の道徳のレベルに引き戻そうとしている側面がある。
 しかし、実はそれにはヘーゲルへの批判として正しい側面も確かにあったのだ。
それは、ヘーゲルが道徳という個人の内面、個人レベルを軽視し、道徳とルールの相互関係の段階を
きちんと設定しなかったことへの批判である。
 しかし、マルクスは問題をきちんととらえることができず、
法制度の道徳への引きずり下ろしとなったのではないか。
本来は、法制度のレベルから再度、法制度と個人の内面性との相互関係を問うべきだったのだ。
 ここで、マルクスはヘーゲルの英雄論を検討するべきだったろう。
その意義と限界を示し、その限界の克服を目指すべきだったろう。ところがそれはできなかった。

 もちろん、マルクスはその唯物史観によって、『法の哲学』第3部Sittlichkeitの市民社会と国家の理解を深めた。
ヘーゲルの理解が英雄と民衆という単純化された2項対立にとどまっているのに対して、
リアルな現実把握をした。指導者も民衆も単一ではなく、指導者群の中での闘争もあるし、民衆内部での闘争もある。
指導者個々人の背後には、民衆内部の利害対立がある。それが社会関係(社会矛盾)であり、それが意識を規定する。
 指導者と民衆の対立・闘争は、英雄個人の意識内での分裂と闘争を引き起こす。
ヘーゲルも、これはわかっていたと思う。しかし、その英雄の意識内部の分裂が英雄だけではなく、
すべての民衆一人一人の意識内部にも起こること、それはわかっていなかったようだ。
少なくともそこに大きな問題があるとは思っていなかった。
 マルクスでは指導者群内部の闘争、民衆内部での闘争を、唯物史観で解明した。
民衆内部での闘争を社会関係(社会矛盾)としてとらえ、それが意識を規定することはとらえた。
そして、社会関係の矛盾をさらにリアルにとらえるには、
そうした闘争が個々人の意識内部の分裂と闘争を引き起こすこと、その分裂の理解が重要になる。
 しかし、マルクスも、個々人の意識内部の分裂の意味にまで深めることはできなかった。
したがって、マルクスの思想にも「個人」がないとの批判は該当する。
 それでは19世紀の革命運動は指導できても、20世紀の革命を指導するには、不十分だった。マルクスの後継者たちは、自分たちの組織を絶対視し、個人の価値をおとしめ、指導者の内紛、粛清、自己批判の嵐、内ゲバ、こうした問題を解決できず、全体主義へ転落していくことになったのである。

 現在の学校のクラブ活動の問題から始めた本稿は、夫婦関係や親子関係などにまで問題を広げ、
それをヘーゲルやマルクスの近代社会の原理的把握にまで立ち戻って考えてきた。
小情況の問題の中に大状況の問題が潜んでいる。
それを見据えながら、小情況の中でしっかりと問題を解決していく練習が必要だと思う。

7.犯罪と刑罰

 最後に、犯罪と刑罰について考えてみた。
 私は、仕事などで疲れた時の気分転換として、ミステリードラマをよく見る。
アメリカのものよりも、イギリスや北欧の番組が好きだ。そこに刑事、警部、警察官や私立探偵が登場する。
 彼らは犯罪者を見つけ、つかまえることに全力を注ぐ。
そこには、人間の悪の問題があり、彼らは犯人を追い詰めていくのだが、
その過程で逆に精神的に追い詰められていく場合もある。
 正義漢で、怒りの感情をほとばしらせる登場人物を見ながら、不思議な思いに駆られる。
被害者の犯罪者への怒りや憎しみは、彼らに引き継がれるのだが、その感情に翻弄されているように見える。
 犯罪者やその犯罪の背景には社会の問題や人間の心の闇がある。
そうした悪の問題を追及すると、それは自分の内部や自分の前提を掘り崩していくことになりかねない。
事実、多くの主人公たちは精神的に破たんしていく。
 これをどう考えたらよいのか。

 昔は犯罪への処罰は、目には目をの原則で、私的報復が正義だった。
現在は、個人の報復の権利を国家が奪い、国家のみが刑罰を与えることができる。
 個人と個人が直接的に憎み合い、罵りあい、殴り合い、殺し合う。
そうした私人レベルの報復の悪無限を止揚するために、警察や検察、裁判所といった公的権力・国家が介入するのだ。
それは、自由への大きな一歩である。
 しかし被害者側の加害者への怒りと報復感情の発露の場がない。
そこで、被害者側の思いもまた外化される保障が求められている。
しかし、そうしたことがあっても、国家による処罰の一元化は、自由への大きな前進なのである。

 ミステリードラマの愛すべき主人公たちは、公的権力の正義の抽象性を、もう一度、個人レベルに引き戻し、
そこで現実の個々の悪、社会矛盾と具体的に戦っていく。
抽象的で間接的な正義ではなく、具体的で直接的に正義を追求していく。
それがドラマとしての面白さである。
 しかしそこにはまた大きな危険性がある。
それは、公的権力の代行者としてのレベルから、個人の道徳レベルへと落ち込んでしまい、
公的レベルへと浮上できなくなってしまうことである。
 公的レベルと個人レベルの両者の関係の矛盾、対立が、ここに大きく問題提起されているように思う。 

2018年6月11日

付録 「部活、サークル、クラスの行事などの問題」(鶏鳴学園で高校生に配布しているプリント)

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部活、サークル、クラスの行事などの問題
組織運営上の問題と、個人の問題を区別する

1.組織を理解する
 組織には、目的があり、その目的を実現するために存在する。
 そしてその目的実現のための意思決定と問題解決のルールがある。 

 したがって目的が何なのかは、常にそのメンバーで確認しなければならない。
 目的が変われば、ルールも当然変わる。

2.組織運営 目的達成のためにルールがある
(1)組織の意志決定のルール
  顧問、コーチ、最高学年、権限と責任はどうなっているのか
  執行部(部長、副部長)はどう決まるのか
(2)問題解決のためのミーティングはどのように行われているか
  誰が開催できるのか
  意志決定はどうなるのか
  連絡事項はどう伝わるのか
(3)問題がある時に、その不平・不満・疑問を出す窓口があるか

3.ルールが明示されていなくても、暗黙のルールがある。
 だからルールを問題にし、みなで確認し、必要なら新たなルールを作っていけばよい。

4. ただし、問題が多すぎて、または大きすぎて何もできない場合は、両親に学校側と交渉してもらう。
 学校側と契約しているのは本人だが、学校側と対等に交渉できるのは、本人ではなく保護者だからである。
 なぜなら未成年者の法的権利は保護者が代行することが法律で定められているからである。

 問題が多すぎて、または大きすぎて何もできない場合とは、例えば、
(1)組織の意志決定のルールがあいまいで特定の個人の横暴がとおっている
(2)ミーティングがない、または学期に1回などと少なすぎる
(3)不平・不満・疑問を出す窓口がない
 さらに、学年での相談も、先輩との相談も、顧問やコーチとの相談もできない。
 そうした場合である。 

5.ルールを作る上の注意

(1)100点満点や「正義」を求めない。
(2)現状よりもよりマシなもの、現実にすぐに変えられるもの、
  具体的なものになっており、それが守られているかどうかを誰でもチェックできるようにする。
(3)ルールの改正のためのルールを決めておく。

説明
 ルールは、その組織の現状、そのメンバーたちの能力などの諸条件を反映し、それに依存する。
その大枠の中で、可能な範囲で、ルールを作るしかない。
 ルールは、その組織の発展段階を反映するもので、現状や発展段階に合わせて変えていかなければならない。
 ルールは不変のものではない。
むしろその逆で、その組織とメンバーたちの現状、直面した問題などに合わせて、たえず見直し、改訂、改正していくべきものだ。
 したがって、ルールの改正のためのルールが必ず必要になるから、最初からそこまでを含めて設定しておかなければならない。

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6月 17

個人と組織の関係は大きな問題です。
それは結局は、組織のルールの内容と運用にかかっていると考えるようになりました。

中学生や高校生を指導していて、学校という生徒たちの生活の場にはルールがない、
またはルールが明文化されていないことに驚きました。
これは深刻な問題だと思います。
なぜそうなってしまうのでしょうか。

改めて、この大きな問題をヘーゲルにまでさかのぼって考えてみたのが本稿です。

 学校現場の関係者には、ぜひお読みいただき、感想やご意見をいただきたく思います。
また、この問題は、単に学校だけではなく、私たちの社会全体の問題だと私は考えています。
その意味で、読者のみなさまにはぜひ一緒にこの問題に取り組んでいただきたいと願っています。

■ 目次 

個人の問題と組織(ルール)の問題  中井浩一

1.鶏鳴学園の中高生の作文
2.組織運営上のルールの問題
3.個人の問題はどのように取り扱うべきか
4.私たち大人の低さ
※以上が本日、以下は明日掲載します

5.近代社会の原理原則とヘーゲルの『法の哲学』
6.マルクスの問題
7.犯罪と刑罰

付録 「部活、サークル、クラスの行事などの問題」(鶏鳴学園で高校生に配布しているプリント)

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1.鶏鳴学園の中高生の作文

 鶏鳴学園の中高生は作文の題材として、クラブや部活などでの運営面の諸問題をよく書いてくる。
部長や顧問や、先輩、後輩、同学年のメンバー、その個々の言動の問題点がぎっしりと書かれてくる。
 また、文化祭や体育祭などの行事へのクラス参加の際の問題もよく書かれる。
クラスや行事担当の教員、クラスのリーダーや責任者とその他のクラスメンバーの葛藤。そこでも個々人の言動が問題にされる。
 これらは、彼らにとっての身近で切実な問題なのであろう。

 しかし読んでいるとおかしいと感ずることが多い。
 組織の運営上の問題であるにも関わらず、個人の問題ばかりが取り上げられて、組織の問題がほとんど意識されていないことだ。
これはどうしたことだろう。
 一般に組織にはその運営上のルールがあり、そのルールに基づいて運営される限り、
個人の問題だけがこれほど大きな比重を占めることにはならないはずだ。

 調べていくと、現在の学校では、どうもこのルールに大きな問題があるようなのだ。
そもそもルールがない。または暗黙のルールがあるだけで、明文化されていない。
役職や責任者の権限と責任があいまいだ。そのために、その時々の力関係でいろいろなことが決まっていく。
 そこでその不満は個々人へと向かうことになる。その人間の善し悪しが断罪され、その言動が細部に至るまで吟味される。

2.組織運営上のルールの問題

 以上のように考えるにいたったので、鶏鳴学園では、中高生たちには、組織運営上の問題にあっては
個々人の問題の前に、組織の問題があることを説明し、自分たちの組織のルールがどうなっているのかを
意識させることにした。実際に高校生に配布しているプリント「部活、サークル、クラスの行事などの問題」
は付録して収録する。
 そこでは以下のように説明している。

 組織には目的があり、その目的達成のために作られたのが組織なのである。
したがって組織にはその目的達成のために適切な組織の構成とルールが必要である。
 そしてこれらのルールがあり、そのルールに基づいて運営されている場合、個人に求められることは
そのルールを守って、組織の中での自分の役割を果たすことだけである。
 したがって、個々人の問題の前に、組織のルールの問題があるのだ。
 個人を批判したり断罪できる観点とは、本来はそのルールを守っているかどうかだけなはずである。
それ以外に、それ以上に、その良しあしは、問われてはならないのではないか。
 要するに、組織の運営上のことで個人の言動を問題にできるのは、組織のルールが明示されており、
それがみなで確認できるようになった後でのことだ。

 ところが、実際は、その肝心なルールが明示されておらず、あいまいなことが多い。
その場合は推測や忖度がはびこり、疑心暗鬼になり、運営する個々人の言動が問題にされるようになる。
しかもそうした疑問や不満がオープンになることはなく、陰でこそこそと愚痴りあうのが関の山だろう。
 だから、何よりもまず、自分たちの組織のルールを明らかにしなければならない。
そもそもルールがあるのかどうか。どのようなルールが明示されているのか。
場合によっては、「暗黙のルール」がたくさんあり、それらが明文化されていない場合も多いだろう。
それらを含めて、すべてをオープンにし、みなで確認し合うことだ。
そのためには、そもそも組織のルールとは何かを知らねばならない。

 では組織のルールとはどのようなものなのか。
 組織には目的があり、その目的達成のために組織とルールがある。
 したがって、何よりも、その目的をメンバー全員でつねに確認し合う機会が必要だ。
 そしてそれが確認されたならば、その目的達成のために組織内の分業、分担、それぞれの役割・役職などが設定され、
その権限と責任が決まる。
 その上で、組織の意志決定と問題解決のルールが必要になる。
 組織を運営する場合、常に何らかの意思決定をしなければならないが、その意思決定をめぐって
対立が起こるのは当然で必然的である。したがって、その意思決定のルールや手続きを決めなければならない。
その意思決定のプロセスと、最終決定に誰がどのように関わるのか。その権限と責任が明示されるべきだ。
そしてその意志決定後には、その決定がどこまで適切だったかを振り返り、その責任を含めて話し合うことが必要だ。
 また、組織には常に問題が発生し続けるから、それを解決していくプロセスも決めておかなければならない。
ルール違反への対応や罰則もその中に入れておかなければならない。

 さて、ではルールを作ろうとなった段階で、さらに指針を与えている。
彼らはそうした経験がほとんどなく、それゆえに、しばしば善か悪か、正しいか否かの二元論に落ち込むからだ。
 そこで、以下を注意している。
  ・100点満点や「正義」を求めない。
  ・現状よりもよりマシなもの、現実にすぐに変えられるもの、具体的なものになっており、
   それが守られているかどうかを誰でもチェックできるようにする。
  ・ルールの改正のためのルールを決めておく

 説明しよう。
 ルールは、その組織の現状、そのメンバーたちの能力などの諸条件を反映し、それに依存する。
その大枠の中で、可能な範囲で、ルールを作るしかない。
 しかし、ルールがあること、それを意識して問題やメンバーと向き合うことは、自他が利害対立する問題を自覚し、
その解決のための話し合いを促し、その理解を深めるだろう。こうしてルールはメンバーを成長させる。
そして、メンバーが成長していく過程では、ルールも成長していく。
 つまり、ルールは、その組織の発展段階を反映するものなのであり、現状や発展段階に合わせて変えていかなければならない。
 ルールは不変のものではない。むしろその逆で、その組織とメンバーたちの現状、直面した問題などに合わせて、
たえず見直し、改訂、改正していくべきものだ。そうでなければ、すぐに形がい化し、神棚に飾られる置物になり下がる。
 したがって、ルールの改正のためのルールが必ず必要になるから、最初からそこまでを含めて設定しておかなければならない。

3.個人の問題はどのように取り扱われるべきか

 さて、ではこうして組織運営上のルールが策定され、メンバー間で確認されたとする。
そこで初めて個人の問題を正面から問うことができるのだ。
 すでに述べたように、個人の言動の善し悪し、正邪を、それだけで論じることはできない。
それではただの抽象論に止まり、十分な根拠が出せないであろう。
個人の善し悪しは、当人が所属する組織の具体的なルールとの関係において初めて、
具体的かつ客観的に問うことができるのである。
 では個人の問題はこの段階でどのように問うことができるのだろうか。
 まず組織の側から見れば、それは簡単である。ルール違反があれば、その違反への対応もすでにルールの中に
書かれているから、それに従えばよい。ルール違反が確認されれば、ルールを守ってもらうための処置がなされる。
責任の大きさに応じた処分がなされ、罰則が適応されるだろう。役職の降格から除名までがありうる。
 しかし、普通はそれだけでは済まないであろう。違反が繰り返される場合は、
そうした違反が起こった過程や原因が問題になり、その個人の生き方や姿勢、考え方などが問われるだろう。
しかし、それはルールの範囲からは逸脱している。
そもそも組織は、どこまで個人の内面に踏み込むことができるのか。
他者や組織が、ある個人の生き方や考え方を批判することは、どのように許され、可能なのか。

 本人がそれをどう考えるかは、当人の責任で自由に行えばよい。
 問題は他者や組織による批判や弾劾である。とりあえず、この原則だけは示しておきたい。

 まずは、組織による批判には限界があり、その自覚が必要である。
この限界への自覚の有無は大きい。それがないと、組織による個人のつるしあげが起こる。
そこでは道徳的な批判もエスカレートする。そこでは、個人の人格の全否定にまで進む可能性がある。
(旧社会主義国、共産党による個人の「査問」、「自己批判」の強要、「粛清」などを想起されたし)

 次に、個人の問題と組織の問題とは相互関係であるという点だ。
個人を問うことは、その組織を問うことであり、その逆も同じである。
 一般には、組織のルールで個人が裁かれるのだが、実際には個人の生き方の方が、
組織のルールよりもはるかに高いレベルであることはまれではない。
その場合は、その個人を裁こうとすることは、逆に、その組織の内実が問われる。
組織の質やルールが厳しく問われることになるはずだ。(例としては企業や役所への内部告発など)
 組織の側に目を向ければ、家庭、学校、会社、地域や国家にいたるまで、組織には実に様々な
レベルと種類があり、その組織の目的や、その組織への入会と退会が自由であるかなどの条件がことなる。
その目的や条件によって、そのルールの是非や個人に対する権限が改めて問われねばならない。
また、個人は複数の組織に属し、その組織間は横並びの場合(各クラブのルールや各クラスのルールなど)も
上下関係(学校のルールとクラスのルール、憲法と諸制度など)の場合もある、
ルールとルールの間の対立、矛盾もある。それも問題になる。
 個人を問うことは組織を問うことであり、組織を問うとは、個人を取り巻く種々の組織の全体の関係を見ていくことである。
個人と組織との相互関係における対立や矛盾や葛藤によって、この社会は発展し、個人も発展していくのである。
 なぜなら、個人の生き方(思想)も組織のルールも、その根拠を深めれば最後は「人間とは何か」という
問いに行きつくからであり、その答えとして様々なレベルが対立し、それによって深められていくのだからだ。

 だから最後は発展観が問われる。
 個人の成長過程、組織の成長過程の発展的理解、人間の本質、組織の本質、個々の組織の相互関係の理解、
それらを全体的に理解していくことが必要である。
 組織にあっては、その実質的トップの、この観点における理解力にすべてがかかっている。

4.私たち大人の低さ
 
 さて、では、これほどに重要なルールが確立されていない学校が多いのはなぜか。
 なぜ、ルールの根本的な意味が、きちんと指導されていないのだろうか。
 学校で問題が起こると、先生たちは「話し合え」などと簡単にいうが、話し合って何をすれば良いのか。
何がどうなると解決なのか。それが示されていないのではないか。
 反省文を書いたり、加害者が皆の前で謝ったり、加害者と被害者を握手させることが解決ではない。
本来は、話し合って、解決に向けたルールを作ることが解決への一歩なのではないか。
 学校で生徒たちにルールが意識されるのは、多くの場合校則によってだろう。
しかしそれは、制服、制帽、服装のこまごまとした規定、携帯やスマホの所持使用の禁止などの
日々の生活への規制としてのものであり、その校則改正への動きが一部にあっても、
それは規制から自由になりたいというものに留まる。
自分たちの日々の問題を自分たちで解決していく手がかりになるルールは考えられていないのではないか。
 もちろん、問題は学校にだけあるのではないだろう。
日本社会のどの組織でも、同じ問題を抱えていて、それが教育の場故に学校において集約的に現れるだけだろう。

 さて、このようにこの問題は、一般的に放置されているのだが、その理由は、私たち大人たちが、
教師たちが、両親たちが、こうしたルールの意味や役割をほとんど理解していないからではないか。
 校則や法律などのルールのナカミを議論することはあっても、そもそものルールのあることの意味は、
ほとんど考えられたことがないのではないか。
 こうしたことが理解されないのは、ルールというものを、国家、地方自治などの大きな政治上の法律や
条例など(せいぜいが学校の校則まで)しか、意識されておらず、
それが日常的な生活の場から切り離されているからではないか。
 そして、日々起こっている個人間の問題は解決できないままに、その力関係で決まったり、
その場その場の状況に流されて決まるだけ。そして、それが国会の場で、狭義の政治の場でも行われているだけ、
つまり、それが大きく言えば、今の私たちの社会の能力の現状だとも言える。
 ではどうするか。
 狭義の政治のことは別にして、今すぐにできることから始めたい。夫婦関係、親子関係、
小グループの問題への対応である。
 人間が2人いたら、そこには必ず意志決定の問題が起こる。その際、ほとんどは力関係で決まったり、
その場その場の状況で決まったりしているだけ。本来は、とりあえず、ルールを設定し、
それを守りあうことで解決していくしかなのではないか。
 夫婦関係も、親子関係も、そこに現状をよく反映した具体的なルールを設定しない限り、
問題は抽象的な一般論に留まり、「世間では?」「普通は?」「本来正しいのは?」といった
水かけ論や罵りあいになるだろう。
 ルールを作り、その内容を確認し合いながら、そのルールはそれに関わる人間たちの現時点のレベルの
反映であることを自覚する。個人と組織のルールとは相互関係であり、
その対立・葛藤に、私たちのどのような本質や問題が現れているかを考え続け、それを深めていく。
そこから次のルールが生まれるだろう。こうした過程を歩んでいく以外に解決に向けた方法はない。

 こうした小さな組織でのルール設定は、最小単位ではあるが、まさに政治なのである。
政治の学校とは、そこにある。
そうした小さなところから、ルールの意味を学習していき、学校やクラブなどでもそれを学んでいくことが、
民主主義や政治を学ぶことになる。それが狭義の政治をも根本的に変えていく力になるだろう。

明日掲載分につづく

4月 08

ヘーゲル論理学の「現実性」は、本来どう書かれるべきだったか(つづき) 中井 浩一

■ 本日掲載分の目次 ■

4.ヘーゲル論理学の第2書「本質論」の第3編「現実性」の役割
5.ヘーゲルの意図について
(1)ヘーゲルの意図
(2)代案の根拠
(3)ヘーゲルの側の事情

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4.ヘーゲル論理学の第2書「本質論」の第3編「現実性」の役割

さて、今回牧野が、そして私が「現実性」の改訂案を出したということは、ヘーゲルの「本質論」
(特に第3編「現実性」)の初版が不十分なものであると両者が考えていることを意味する。
それはヘーゲルの意図や目的を十分に達成していないのではないか。

ヘーゲル論理学全体において「現実性」は核心部分であり、その理解はヘーゲル論理学全体の理解に大きく
影響する。私がヘーゲルの何に不満なのか、何がわからないのか、実際のヘーゲルの論理学(初版)の展開
に即して説明してみたい。

ヘーゲルの論理学は、客観的論理学(存在論、本質論)から主体的論理学(概念論)と展開されている。
存在論、本質論、概念論はそれぞれ3編からなる構成になっている。「現実性」は本質論の第3編に位置している。
その位置からわかることは、「現実性」は客観的論理学(存在論、本質論)の総括をし、そこから主体的
論理学(概念論)を導出する役割を持つということだ。
つまり、客観的論理学と主体的論理学は、概念の生成史と概念の展開史の関係だ。広い意味では客観的
論理学(存在論、本質論)全体、狭い意味では「現実性」が、概念の生成史であり、そこで生まれた概念が
自らその意味を展開するのが主体的論理学(概念論)なのである。
そしてこの生成史から展開史という順番は、ヘーゲルの発展の論理から生まれている。
ヘーゲルは、存在論は「移行」(外化)の論理、本質論は「反省」(内化)の論理、概念論は「発展の論理」だと言う。
それは存在論の「移行」の論理と本質論の「反省」(内化)の論理の統一が発展の論理だということだ。

概念の必然的な導出は、発展の論理の必然的な導出でもあるはずだ。つまり、「現実性」では概念の生成と同時に、
発展の論理の生成が示されねばならないのだ。ではその概念とは何か。
概念とは、地球の全歴史を貫いて、そこに実現していくもののことであり、その実現にはどうしても人間の主体的
な働きかけが必要である。だからこそ地球から人間は生まれてきたのだ。その意味では人間を概念と呼んでよい。
地球の歴史と人類の歴史を世界の始源(概念)が自己実現していく「発展的」過程としてとらえ、それを認識し
実現していく主体として人間(自我)を導出する。その導出が「現実性」で展開されなければならないはずだ。
そして、人間が実際にその使命を実現するために概念を理解し実現する過程は概念論で展開されるはずだ。

以上の意味で、概念(人間)を導出する本質論の「現実性」こそが、ヘーゲル論理学の核心であり、概念論は
ある意味では、その概念の実際上の展開でしかないと言える。
だからこそ、本質論が一番難しいという言明がされ(エンゲルスは「本質論が一番難しい」と言っていた。
ヘーゲル自身も『小論理学』の本質論冒頭の第114節の注釈で「論理学で最も困難なのは本質論だ」と言って
いる)、さらに「必然性から自由への、あるいは現実性から概念への移行が最も困難だ」と『小論理学』の
第159節の注釈で述べている。

5.ヘーゲルの意図について

(1)ヘーゲルの意図
ではそうした重要な役割を担う「現実性」をヘーゲルはどのように書いたのか。その意図は何だったか、
それは十分に実現できたのか。また、ヘーゲルの意図とは離れて、そもそも、論理必然性からして、
本来はどう展開すべきだったのだろうか。

ヘーゲルの大論理学の「現実性」(初版)の実際の内容は、以下のようになっている。
第1章はスピノザ哲学を紹介し、実体→属性→様態と展開される。
第2章は、可能性と現実性の関係を分析し、偶然性と必然性を論じる。
第3章は、実体性、因果関係、相互関係が展開されている。

この中で、ヘーゲル自身は第3章こそが核心で、それが概念の導出の役割をはたすと考えていたようだ。
小論理学の叙述(大論理学の第1章は省略、第2章「現実性」は序説扱い、第3章のみ本論)もそれを示す
だろうし、大論理学の概念論冒頭の「概念一般」では「実体性論(第3章)が概念の生成過程」と述べ、
その要約をしていることも、それを裏付けるだろう。なお「概念一般」では、その要約の直後にスピノザ哲学
とカント哲学への言及がある。ヘーゲルはスピノザ哲学を概念の直前の実体の立場として評価し、一方の概念
の立場(それはスピノザに欠落する個別の立場でもある)を切り開いた先駆者としてカント哲学を評価するのだ。

(2)代案の根拠
さて、ヘーゲルの意図は上記のようなのだが、それは確かなのだが、私には第3章が概念の導出となっている
ことが理解できない。この第2章と第3章の順番がわからないのである。第3章と第2章は入れ替えるべきではないか。
なぜなら、主体=人間=概念の導出を担っているのは、第3章ではなく第2章だと考えるからだ。
第3章の内容は、因果関係はもちろん、相互関係ですら、必然性全体の中では低いものだと私は考える。
動的な歴史的な発展過程を捉えるのは第2章である。第3章は、せいぜい第2章の内容を、分析的に捉え
直したものにしか見えない。

私の考えを支えると思う根拠をいくつか挙げておく。
この第2章と第3章は、それぞれ、カントの判断の4類型に対応する。関係性の判断(実体、因果、相互)が
第3章、様態の判断(偶然性、可能性、現実性、必然性)が第2章である。
 このカントの判断の4類型は、ヘーゲルが自らの論理学の体系を考える際の土台としているのだが、
質の判断と量の判断は、存在論の大枠をなし、関係性の判断と様態の判断を本質論の核心の「現実性」に
置いたのだ。ヘーゲルにはそれはすでに決まっていたことだろう。したがって、問題はその順番にあったはずだ。
ヘーゲルの概念論の主観的概念の判断論の展開を見てみる。これはカントの4つの判断を土台に、
その4つを発展的に位置づけたものになっている。それは質の判断、量の判断(反省の判断)と続くが、
最後に持ってくる概念の判断はカントの様態の判断であり、その前の必然性の判断がカントの関係の判断
に対応する。関係の判断では二つの項が全体の契機となり、ここに全体が類や種として示される。
そして様態の判断においてその全体(概念)との一致、不一致が問われる。つまり関係の判断よりも、
様態の判断の方が上であり、それを概念の判断としているのだ。

概念論の客観的概念が機械論と目的論の順番に展開されていることもそうだ。機械論は因果関係や相互関係
で把握される世界、つまり外的必然性の世界だし、目的論は内的必然性とそこから生まれる概念の段階に
対応するだろう。因果関係や相互関係は、ヘーゲル論理学の中では外的必然性という低い段階であり、
それを止揚したのが内的必然性だという理解が正しいと思う。

ヘーゲルがこの論理学の第2書「本質論」の第編全体のタイトルを「実体」とせず「現実性」としたことも、
現実性を直接扱う第2章(タイトルも「現実性」)こそが重要であることを示しているのではないか。
また、これまでヘーゲルの本質論研究でほぼ唯一の大きな成果である許万元著『ヘーゲルの現実性と概念的
把握の論理』が第2章の研究であり、第3章ではないことも考えたい。

(3)ヘーゲルの側の事情
ではなぜ、「現実性」の内部の展開が、様態から関係性へとなったのだろうか。
牧野は「ヘーゲルは因果等の必然的関係をどうしたら証明できるかと考えた」からだと説明するのだが、
私は違うと思う。

以下は、推測でしかないが、ヘーゲルは自分の立場を実体の真理として示したかったのではないか。
ヘーゲル哲学をスピノザ哲学の真理として示したかったのだろう。
ヘーゲルにとって、哲学史上ではアリストテレスが別格であり、近代の哲学者では直接にはカントが、
ついでスピノザが先達なのだ。そこで自らがその2人の正当の継承者であることを示したかったのではないか。
だからスピノザ哲学自体の展開が、自ずからヘーゲル哲学が導出される形を示したかった。
つまり実体論の展開がそのまま主体の導出になるようにしたかった。

しかもカントの判断の4分類をそのままに取り込むことで、それを止揚したものとして概念の立場を導出
したかった。そこでラストにカントのカテゴリーから関係性の3カテゴリーをもってきた。
実体→因果関係→相互関係である。
また、第1章にスピノザ哲学を置くと決めた場合、それは実体→属性→様態と展開されるので、
第1章最後に置かれた「様態」を受けてカントの「様態の判断」を2章に置き、最後に「実体」から始まる
カントの関係性の判断を置いたのが初版の構成なのではないか。

 または、実体の生成史とその展開史として、第2章と第3章を置いたとも考えられる。
偶然性から必然性への展開が実体(必然性)の生成史の意味を持ち、その成果である現実性=必然性=実体
の展開過程をその後に置いたつもりなのだろう。第2章で必然性の発展を外的必然性(B 実在的必然性)
から内的必然性(C 絶対的必然性)へと展開していたが、それを再度、実体→因果関係→相互関係で捉え直し、
そうした必然性の展開の結果、すべての存在、現実が全体の契機となることを示した。必然性の運動の結果、
その姿を現したその全体を概念とし、その概念の働きとして必然性を止揚した自由を出す。
これがヘーゲルが実際に行なったことのようだ。
そのように考える限り、牧野のように第3編「現実性」を偶然性と可能性と必然性に三分し、
最後の必然性の下位形態として実体性と因果性と相互作用の3つを置くという考えは、
ヘーゲルの真意を分かりやすく整理したものと言えるだろう。

 しかし、それがヘーゲルの意図だったとしても、それは論理的には無理筋だと思う。
ヘーゲルが実際に因果関係を出すことで示したかったのは、「自己原因」(一つの全体が形成され、
すべてがその全体の契機となる)という考えだったと思う。そこから概念の導出をするためだろう。
 しかし、因果関係→相互関係は、必然性の段階としては高いものではない。日常で普通に使う考えであり、
それが厳密に操作されれば自然科学や社会科学の基礎をなすものにもなる。しかし、それは必然性の段階
としては外的必然性であり、悟性段階のものである。確かに、それも必然性の展開に従って高まれば
自己原因という段階になるが、それを一緒にくくることはできないのではないか。

 なお、私は相互関係一般を外的必然性の段階と考えるが、その重要性を否定するのではない。
内的必然性はそれを止揚したものとしてしか現れないし、内的必然性の必須の契機として外的必然性は
存在している。例えば概念論の客観性の核心である目的論で、人間が自然を完成させるという人間自身
の使命を自覚し、その使命の実現のために、人間自身の個人的社会的な変革を引き受けるようになる論理は、
作用と反作用、相互関係の論理である。労働によって自らに都合がよいように自然を変革しようとする人間は、
その欲求実現のために、逆に自らの変革に取り組み、自らの能力を高め、社会を変革しなければならなくなる。
その過程の中から人間の使命、つまり人間の概念が自覚されるはずだ。そこから理念が生まれるのだが、
そこでの論理が相互関係であることは重要だ。しかし、それが内的必然性より上なのではなく、
そうした外的必然性を止揚して内的必然性と概念が現れてくるという意味で重要なのである。

                  (2016年4月1日 3・11から5年目の春)