5月 02

高校作文教育研究会の再出発
1998年に我々高作研が発足してから20年、2016年には『「聞き書き」の力』を大修館書店より刊行し、活動の成果を一応形にすることができました。一区切りついたところで、昨年の秋以降半年ほど、今後の方針を巡って、運営委員で話し合いを続けてきました。
高校3年間を貫くような指導体系、基礎となる経験作文の意味や諸問題、高校段階のゴールとしての論理的な文章の意味や諸問題、そうしたことをテーマにして、共同研究を重ねていきたいと思います。

以下、5月例会は、そうした方針をもっての最初の例会になります。

高校作文教育研究会5月例会
2つの報告と討議があります。

1つめは、古宇田さんによる、表現指導の入門期の指導についての報告です。入門期の指導は重要です。始まりがその後のすべてを決めるからです。どういう考えで、どういう指導をしていったらよいのでしょうか。それを古宇田さん自身の若かりし日の実践を題材にして検討します。
古宇田さんは、長く日本作文の会の常任委員を務めてきました。その古宇田さんの「初心」が聞ける貴重な機会になると思います。

2つめは、中井さんによる意見文、小論文の指導の実践報告です。クラブや部活、文化祭や体育祭などの行事作文や、それに関する意見分はよく書かれていると思います。そこには様々な問題が出てきますが、本来はどういう観点からの、どういった指導が必要でしょうか。それを検討したいと思います。
中井さんは、『日本語論理トレーニング』や『脱マニュアル小論文』などの著書があり、そのエッセンスを聞く機会です。

みなさんにとって、すぐに参考にして授業に生かしていただけるとともに、表現指導をさらに本質的に考えていくヒントにもなると思います。どうぞ、みなさん、おいでください。

1  期 日   2018年5月27日(日)13:00?16:30

2 会 場  鶏鳴学園
〒113?0034  東京都文京区湯島1?3?6 Uビル7F        
 TEL 03?3818?7405
 FAX 03?3818?7958
ホームページ https://www.keimei-kokugo.net/   ※こちらで地図をご覧ください
       
3 報告の内容

(1) 初めての実践「今でも忘れられないことを、出来事の通りに、詳しく書いてみよう」を
書かせた時のこと
茨城 古宇田栄子

1973年、教師2年目で初めてやった作文の授業を報告します。

当時、班日誌の指導に行き詰まっていた私は、「あったことをあったとおりに、事柄を押さえながら詳しく書いていく展開的過去形表現」の方法で、
「長い間の生活の中で、今でも忘れられないある日ある時のことで
喜んだり 悲しんだり 苦しんだり 腹立ったりしたことなどを
よく思いだして、時間の順序に生き生きと書く。」(高校2年)
を指導しました。
その時生まれた生徒作品「私の胸に輝く日々」が今でも私を励ましてくれます。事柄をふまえて書くこと、がすべての文章表現指導の始まりであると思います。

自分が書きたいことは何か、を考えさせること。
事柄をふまえて書く、詳しく書くということはどういうことか。
誰でも実践できる入門期の指導をやさしく詳しく報告するとともに、それが若い先生たちと今時の生徒たちに通用するのか、どう役立たせることができるのか、を皆さんとともに考えたいと思います。

(2) 個人の問題と組織(ルール)の問題
                                      東京 鶏鳴学園  中井浩一
 
鶏鳴学園の中高生は作文の題材として、クラブや部活、文化祭や体育祭などでの運営面の諸問題をよく書いてくる。しかし読んでいておかしいと思うことが多い。組織の問題であるにも関わらず、個人の問題ばかりが取り上げられて、組織(ルール)が問われることがほとんどない。現在の学校では、どうもこのルールに大きな問題があるようなのだ。
鶏鳴学園では、組織のルールと個人の関係を整理し、生徒には問題への原則を提案し、それに基づいた問題解決をうながしている。

昨年秋の高校2年生への意見文とこの春の小論文講習での指導から、生徒の認識の深まりや、実際の活動や考え方の変化を報告したい。意見文や小論文指導の意義や役割についても考えてみたい。

4 参加費   1,000円(会員無料)

連絡先  田中由美子 (鶏鳴学園)
メールアドレス keimei@zg8.so-net.ne.jp

2月 15

高校作文教育研究会(高作研)主催で、
北海道立高校教諭として33年の教師歴を持つ池田考司さんに、
これまでの実践とそれを支えた理論を振り返ってもらう学習会を企画しました。

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◇◆ 実践報告「生活綴方教師にあこがれて歩んできた高校教師としての33年間」高校作文教育研究会臨時学習会 ◆◇

このたび、北海道の池田考司さんが高作研の学習会に参加してくれることになりました。
池田さんは、さまざまな困難を抱えた生徒たちと向き合って、温かくも、積極的な実践をされている方です。
池田さんは書いています。生徒たちには、「試行錯誤する権利」と「未来に対する権利」がある。そしてそれを行使できる主体に育っていく権利がある。
「倫理」の授業では、そのような課題(目的)を授業のテーマに位置づけ、書く力や話し合い、発表する力をつける機会を作ってきた、と。
池田さんの実践には、感動があります。池田さんは「研究」と「実践」を大切にされている方です。
今回は、池田さんご自身の教師としての歩みをふまえつつ、実践報告をしてくれることになりました。
池田さんの実践報告から、さまざまなことを学べる、またとない機会です。
どうぞ、みなさん、お出でください。参加費無料です。

1 期 日    2018年3月18日(日)13:00?15:30

2 会 場   鶏鳴学園

3 実践報告
「生活綴方教師にあこがれて歩んできた高校教師としての33年間」
北海道 池田考司

(概要)1985年3月に明治大学を卒業し、北海道立高校教諭として勤め、33年が経とうとしています。
大学生時代、教育系サークルを立ち上げ、民間教育研究団体の実践家・研究者と出会い、具体的な理想の教師像を思い描き、学校現場に入りました。
 しかし、当時の高校は校内暴力の真っ盛りで、激しく「荒れる」生徒たちとのやりとりが教師生活最初の10年間でした。そこで考えたこと、生徒との関わりの切り口は、「なぜ、この生徒は荒れているのか?」「この生徒は何を訴え、何を求めているのか?」ということでした。そのような発想には、学生時代に読んだ生活綴方教師の著作も大きく影響しています。村山俊太郎、石田和男等の言葉を時々読み返して、「荒れた」生徒と向き合ったことが何度もありました。
 地方2校での勤務を経て、札幌の後発進路多様校に移り出会ったのは、休み時間に廊下でじっと立っている生徒、「人を信じられない」という生徒など、傷ついた心を持つ生徒たちでした。生徒の抱える「悲しみ」「生きづらさ」を聴き取り、寄り添い支援していく。その取り組みを学習指導の中で行っていく。それが札幌圏での2校18年間の日々でした。その時、考察と実践の土台になったのは、大学院での師でもある田中孝彦氏が立ちあげた臨床教育学でした。
 そして再び、地方の高校に出て4年勤務し、昨春、札幌圏の現任校に異動しました。どちらも「教育困難」校です。家庭が崩れ、愛されずにいる生徒たちの尊厳と生活をどう守り、支援していくのか。生活環境の再編をどう他職種の専門職とともに行っていくのか。そのことがこの5年間の中心テーマになっています。
 私の教育実践史と、底流にある生活綴方教育・臨床教育学についてお話しできればと思っています。

(池田考司プロフィール)
 北海道野幌(のっぽろ)高等学校(社会科)。大学非常勤講師。教育科学研究会副委員長。日本臨床教育学会事務局次長 【著書】◆『18歳選挙権時代の主権者教育を創る』(佐貫浩・教育科学研究会編共著)新日本出版社、2016年。 ◆『子どもの生活世界と子ども理解』(教育科学研究会編共著)かもがわ出版、2013年。 ◆『ジュニアのための貧困問題入門』(久保田貢編共著)平和文化、2010年。 ◆ 『教職への道しるべ』(姉崎洋一編共著)八千代出版、2010年。

4 参加費無料

8月 26

中井ゼミのゼミ生、塚田毬子さんの卒業論文(卒論)「三性説の研究」についての
中井による評価「問題意識を貫いた卒論」を掲載します。
この卒論のどこがどう模範的と考えるかを説明しています。

「問題意識を貫いた卒論」では【1】【2】【3】などの記号が使用されていますが、
それは論拠となる卒論の個所を示すために、卒論の該当箇所につけた記号を指します。
その個所を参照してください。

■ 目次 ■
問題意識を貫いた卒論 中井浩一

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◇◆ 問題意識を貫いた卒論 中井浩一 ◆◇

塚田さんの卒論は、大学生の卒論としては上の部である。
それには2つの理由がある。

1つは、塚田さんが自分自身の経験から生まれた問題意識をもって、卒論の最初から最後までを貫くことを
目標にし、一応それができたからである。
塚田さんは、自身の経験から生まれた問題意識を深めるため、自分の経験を媒介として、テキストを読む
という姿勢を、徹底的に貫いている。これは立派なことだと思う。
そのことは、序論の「1 論文の目的」で宣言し、「2 筆者自身の問題意識」で具体的に述べている。
本論でも、ポイントでは自分の経験で考えることを徹底した。【4】【5】(「二 アーラヤ識説」の
「2『摂大乗論』におけるアーラヤ識説の検討」から)、【8】(「三 三性説」の「2『摂大乗論』における
三性説の検討」から)でそれを確認しできる。
また、その立場から、アサンガがそうしていないことへの批判もきちんとしている(【2】「一『摂大乗論』の構成」
のラスト)。これは重要な批判だと思う。アサンガは自分自身と自分の教団内部の問題を具体的には一切語らない。

もう1つは、この重厚で難解なテキストに対して逃げることなく、自分の立場から一応とらえ返したことだ。
これはすごいことだ。
普通は、序論だけは自分の問題意識を貫いて面白く書くことはできても、本論では巨大な対象に押しつぶされて、
つまらなくなりやすい。それがそうならず、最後まで一応は自分の問題意識で考えている。
特に、「三 三性説」の「2『摂大乗論』における三性説の検討」で「ことば」の問題に言及している個所
(その始まりと終わりの段落の最後に【7】をつけた)には、本人の切実な経験と問題意識が込められていて力がある。
ただし、「四 無住涅槃」ではすでに力尽きた感がある。

以上に挙げた2点が、この卒論が模範だと思う理由である。
なお、塚田さんの大学における卒論審査の場でも、この卒論は教官に高く評価されたとのことだった。

 では、模範的な卒論が書けたのはなぜか。
 中井ゼミには明確な立場、つまり「発展の立場」(ヘーゲルの弁証法)がある。塚田さんはそれを学び、
それを拠り所とすることで、塚田さん自身の経験と『摂大乗論』をとらえ、位置づけることができたのだと思う。
例えば、間違いの自覚の問題(これはマルクスの「経済学批判の序言」を下敷きにしている。
序論の「2 筆者自身の問題意識」の始まりと終わりの段落の最後に【1】をつけた)や、
ところどころに出てくる「結果論的考察」を見てほしい。

 しかし、問題はある。塚田さんが、中井と中井ゼミのことを一切伏せて、卒論を書いたことだ。
「運動」と言う言葉が多数出てくるが、これは本来は「発展の運動」「発展」とすべきだ。
「3」の数字の説明があるが(「二 アーラヤ識説」の「2『摂大乗論』におけるアーラヤ識説の検討」
では【3】、「三 三性説」の「2 『摂大乗論』における三性説の検討」では【6】)、これは弁証法から説明すべきだ。
それを隠したから、結論が曖昧になった。

今回の卒論では、「発展の立場」に依拠しようとしたから、何とか自分の問題意識を貫けた。
このことの意味をしっかりと理解するならば、今後はヘーゲルを本気で学び、自分のan sichな立場を、
自覚していくことが課題になるはずだ。

今回、塚田さんを指導して2つの感想を持った。

1つは、塚田さんの潜在能力の大きさだ。卒論の締め切り1週間前にはほとんど何も文章になっていなかった。
そこから1週間で書き上げる突破力は大したものだ。弓は引き絞れるだけ引き絞られていた。
しかし、これは逆に言えば、いつもは余裕こいていて、追い詰められないと何もできないことでもある。
「ウサギと亀」のウサギさんなのだ。

もう1つは、塚田さんが1年ほどの間に中井ゼミで学んだことが、大きく生かされたことだ。
中井ゼミで1年間学んできた内容を、卒論を手がかりにして、考え抜いたのが成功した大きな理由だろう。
塚田さんの学習能力は非常に高いが、それは彼女の問題意識が強烈だからだと思う。
この卒論を書き終えた後は、するべきことはもはや決められている。

8月 25

中井ゼミのゼミ生、塚田毬子さんの卒業論文「三性説の研究」を全文掲載します。

今号は最終回。

卒論につけられている注釈は掲載していません。出典の引用箇所を示すためのものがほとんどです。
卒論に【1】【2】【3】などの記号がついているのは、すべて中井によるものです。
中井の「問題意識を貫いた卒論」の根拠となる個所を示すためのものです。

■ 塚田毬子著「三性説の研究 『摂大乗論』を中心に」の目次 ■

※前日からのつづき
四 無住涅槃
 1 『摂大乗論』第8、9、10章の位置づけ
 2 『摂大乗論』における無住涅槃
結論
参考文献

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◇◆ 三性説の研究 『摂大乗論』を中心に  塚田毬子 ◆◇

四 無住涅槃

1 『摂大乗論』第8、9、10章の位置づけ

ここまで『摂大乗論』の理論編を検討し、筆者の実践を理論づけてきた。
それでは、この実践にはどんな意味があるのか。問題の解決とは何を意味するのかを考察したい。
第8、9、10章では無分別智について述べられ、実践による結果が示されている。
第8章において無分別智の性格が説明され、それが第9章で二分依他の展開である無住涅槃として説明される。
第10章では、無分別智を仏の三身という点から述べている。本論文では、第8、9章について検討を加えてみたい。

2 『摂大乗論』における無住涅槃

 8章において、無分別智について言語でできる限りの説明が行われる。無分別智とは円成実性の達する智で
人法無我の智であり、真如に達する智である。無分別智の依り所は心ではないが、心から生じたものであり、
心というのは分裂を指し、依他起性から円成実性に至ることが示されている。
 16節において、無分別智を得た後に、後得智を得るということが述べられる。
後得智とは、涅槃にとどまらない無住涅槃の立場が示される。 無住涅槃については第9章1節において簡潔に述べられている。

  菩薩たちの〔障害の〕断除は、〔声聞たちと同じく涅槃であるが、ただし涅槃には〕止まらないという
  涅槃(無住涅槃)である。それを定義づけるならば、およそ汚染を捨離すると共に、輪廻は捨離しない
  〔という、この二つの〕ことへの依り所があり、すなわち依り所の転回(転依)なるものがあることである。
  その中で、“輪廻”というのは、汚染分に属するかの他に依る実存であり、
  “涅槃”〔すなわち煩悩など汚染の捨離〕とは、清浄分に属する同じ〔他に依る実存〕である。
  〔この二つのことへの〕“依り所がある”とは、これら二分あるものとしての他に依る実存そのものである。
  〔依り所の〕“転回”とは、他に依る実存が、それ自体に対する対治が起こされたとき、
  汚染分であることを停止して清浄分に転回することである。(『摂大乗論』第9章1節、長尾 1987, pp.298-299)

ここでの菩薩とは、知らるべき真実をその対象とする大乗の菩薩である。煩悩を滅して涅槃に入ることは、
それに向かって進むべきものだが、最終目標ではない。『摂大乗論』においては、最終目標は設定されない。
その最終目標が設定されない状態を何というかというと、無住涅槃と呼ばれる。
涅槃に達して、そこから出てこないことは、涅槃に執着しているとみなされる。
無住涅槃は、涅槃に達していながら、どこにも安住しないあり方だ。変化があるのは分裂の中だけであるから、
分裂の中に身を置いて、ひたすら分裂を深め続けることを行う。ひたすら運動をおこし続けることを、
自ら選択することである。それこそが真の意味での涅槃であるとした。
これが、『摂大乗論』においてアサンガが示す、問題を解決することの意味である。
しかし、無住涅槃で菩薩が運動を起こしているにもかかわらず、衆生が救われないのはなぜかと問いが立つ。
その答えが第8章23節に述べられている。

  (1)それらの衆生には〔財宝や地位などを与えようとする菩薩の神通力を〕妨げるような業がある
  と見られるからであり、(2)もしその財富の施与がなされることとなれば、〔そのことが彼らにとって〕
  善事をなすことへの妨げとなることが見られるからであり、(3)〔逆に財富が与えられないならば、
  彼らは貧困に苦しみ〕この世を厭う思いがまのあたりに起ることが見られるからであり、
  (4)もしその財富が与えられることとなれば、〔そのことが却って〕悪事を積み重ねることの原因となる
  ことが見られるからであり、(5)またその財富が与えられたことそのことが、それ以外の極めて多数の
  衆生に損害を与える原因ともなることが見られるからである。
  それ故、貧窮に苦しむ衆生が現にあるとみられるのである。(『摂大乗論』第8章23節、長尾 1987, pp.294-295)

 ここでアサンガは、衆生が救われないのは菩薩のほうに問題があるのではなく、衆生のほうに問題があるとした。
これは正しいと思われる。外側から働きかけても、内側が追いついていなければ反応できない。
自分の中に根があるものにしか反応できないのである。外側から与えられれば救われるというものではない。
では、どうやったら衆生の内面は追いつくのか。それは、自分で何とかするしかないが、自分の意志では
何ともすることができない性質のものである。意識下の分裂の深さは、自分で認識することも、
コントロールすることもできない。そこで『摂大乗論』では、その根本原因を業であるとした。
それは先天的で、選べない。輪廻でしか説明することができないものであるとした。
以上、問いを解決することの意味と、その困難に対するアサンガの思想を確認した。
無住涅槃は、涅槃にあっても執着を許さず、汚染された現実世界の中に身を置き、
分裂を深め続ける無限の運動であることが理解された。

結論

本論文では、筆者自身の問題意識を唯識説を媒介にして深めることを目的として、
筆者自身のこれまでの実践を唯識説で理論付け、『摂大乗論』を検討してきた。
なぜ人間は問題を自覚し、それを解決しようとするのか。そして問題を解決することは何を意味するのか。
それは、以下のように結論付けられる。
人間は内面に分裂を持ち、それが反映した世界で生きている。これが現実世界のあり方である。
分裂は絶えず運動を起こしているから、人間は外界と常に関係し、関係は絶えず変化している。
意識下で分裂が深まると、それが意識上に外化し、問題となって自覚される。なぜ問題となって自覚されるのか。
それは、現象を認識で把握することには限界があり、純粋な理解というのは不可能であるからだ。
人間は問題を自覚すると、自分の意志で問題を解決するために行動を起こすことができる。
そして他者にはたらきかけることによって、関係を変化させることができる。
それは、関係し合っている自分と他者を変化させることになる。それにより、問題が解決に向かうと、
自分自身が以前より明確になっていく。より自分自身に迫ることができる。そして、より分裂が深まり、
また外化して、次の問題が自覚される。以下、無限の繰り返しである。現実世界から分裂は無くならず、
真如に到達することはできない。ただ、分裂を深め続けることによって、自分自身に無限に迫っていくことができる。
その性質を持つのは人間だけであり、これがもっとも人間的な生き方と言える。
分裂があるという人間の本質が根源にあり、それが人間の生き方を規定する。
そしてそれを生きることにより、再び人間の本質に迫っていくことができる。
人間は自らの意志で、変化しようと思って変化するのではない。
そうではなく、変化する性質を持つ存在であるから、変化することができるのである。
人間はその性質として分裂を持ち、その分裂が運動を起こしている。
運動は意識的に起こそうと思って起こすものでも、起こさなければならないものでもない。
運動は分裂が決めるものである。運動により分裂が深まると、問題が外化する。
問題が自覚されたら、人間は行動によってその問題を解決に向かわせることができる。
そこで初めて、人間の意志がはたらく。問題が外化されるのは分裂の仕組みによるものであり、
運動が起きるのも分裂の仕組みによるもので、その問題は意識下でどの程度分裂が深まれば外化するのか、
認識では把握できない。それは自分自身で意志することのできない領域である。
何をしたら分裂が深まるかは分からない。次に自覚される問題が、行動の結果を示す。
行動している間は、それが正解かはわからない。筆者は自分の内面を直視しないという自分の問題を自覚し、
引きこもりを辞めるという行動をとったが、これがどのような結果をもたらすかは、次に自覚される問題が示す。
人間は分裂に乗っ取られ、分裂に突き動かされて生きている。分裂こそが人間の本質である。
人間は分裂の深さにより、それぞれに違う問題を持っている。それを選択することはできない。
問題を選択できないのは、自分を選択できないのと同様である。自分は自分から離れることができない。
自分が自分に生れてきたことは全くの偶然であり、生まれ、育ち、名前、身体、環境などは先天的なものである。
そして自分の問題は、自分が関係した現実世界の中から生まれた、自分だけにしかない特殊なものである。
人間は誰しも、その人にしかない特殊な問題を持っており、内的な深まりと外的なはたらきかけが一致した時に、
その問題を自覚し、解決に向かうことができる。内外のどちらが欠けても、転換は起こらない。
それは、人間が関係の中に生きているからだ。自分自身の問題を解決させようとして起こす行動は、
必ず他者と関係することになる。自他を分別して自分という存在があると思っていても、
自分一人で生きることは生命活動として不可能である。人は何かと関係しないでは誕生せず、
生命を維持することもできない。そして関係し合いながら、現実世界全体が変化を続けていく。
自分の問題意識を深めることは、他人に関係し、働きかけることになる。
人間は内的な分裂がなければ変化できないが、外的な分裂にも触れなければ変化できない。
それは分裂を自覚する際にも、解決のために行動する際にも当てはまる。
筆者が引きこもりを辞めようと思ったとき、筆者の内的な条件は意識下で揃いつつあったが、
それは他者からの批判によってはじめて意識上に外化した。そして問題を解決するため、
外界と関係することで今までの自分を壊そうとしている。では、外界とのどのような関係が転換をもたらすか。
それは、どんな関係においても転換が起るわけではない。関係する他者に自分と通じる問題意識が無ければ、
転換は起こらない。Aは筆者のあり方を問題だと思い、筆者を批判した。
それを問題に思わない他者から批判は出てこない。Aが問題意識をもって筆者の問題に切り込み、
筆者は自分の問題を自覚することができた。このように問題意識が共鳴する他者との関係において、
問題は深まると言える。
現実世界で、時として自分の中に否応なく響いてくるものと出会うことがある。
自分を引っ張り上げてくれるような対象に出会い、世界が見違えるような経験をすることがある。
そしてそれにより自分のあり方が変わる可能性が考えられる。それは何が響いているかというと、
問題意識が響いている。ある対象が持つ、自分が引き付けられる強さの正体は、その対象が持つ問題意識の深さであり、
自分の内面の分裂がそれに反応し、響き合っている。筆者が引きこもっている際に接していた音楽や本、映画は、
当時の問題意識に響き、筆者のあり方に影響を与えたものであった。
しかし問題意識が変化した今、それらは以前のようには響かない。
自分の問題意識が引き付けられる対象を感覚し、判断することで、自分自身が少しずつ変化していく可能性があると言える。
筆者が『摂大乗論』をテキストとして選択したことも、筆者の問題意識がそれに引き付けられたからである。
『摂大乗論』は、アサンガがアサンガの問題意識から書いたものであり、
これを検討したことで筆者の自分自身の問いが深まった。『摂大乗論』はアサンガが自身の問題意識に
対する答えを言語という表象をもって表現したものであり、それを玄奘が玄奘の解釈で訳し、
長尾が長尾の解釈で訳し、筆者が自分の解釈で理解した。何重にも分別が重ねられており、
純粋なアサンガの思考を理解できたとは言い難い。しかし本論文で『摂大乗論』を取り上げたことで、
筆者自身の問題意識はより深まった。本論文が明らかにした『摂大乗論』のテーマは、この世界がどうなっているか、
この世界でどう生きるかということである。そしてその答えとして、理論としてアーラヤ識と三性説を述べ、
実践編で修行の内容と、その結果が述べられていた。『摂大乗論』は瑜伽行派の哲学的な論書という面だけではなく、
現実世界で生きるための手引きという側面もあるように思われる。そのような側面を持つ本書おいて、
アサンガが自身の生き方に少しも言及しないのは、改めて本書の大きな欠陥であると言わざるを得ない。
しかし、本論文のテキストに『摂大乗論』を取り上げ検討し、自分の実践を理論付けたことによって、
筆者の問題意識は深まった。それは『摂大乗論』を書いたアサンガと筆者の問題意識が響き合った結果である。
自分自身の問題意識が深まったことは楽果であり、よって筆者の問題意識が『摂大乗論』を選択したことは
善因だと言えるのである。

参考文献

長尾雅人(1982)『摂大乗論 和訳と注解 上』、講談社
長尾雅人(1987)『摂大乗論 和訳と注解 下』、講談社
無著造、玄奘訳『摂大乗論本』(大正 No. 1594, vol. 31)

8月 24

中井ゼミのゼミ生、塚田毬子さんの卒業論文「三性説の研究」を全文掲載します。

今号は第2回。

卒論につけられている注釈は掲載していません。出典の引用箇所を示すためのものがほとんどです。
卒論に【1】【2】【3】などの記号がついているのは、すべて中井によるものです。
中井の「問題意識を貫いた卒論」の根拠となる個所を示すためのものです。

■ 塚田毬子著「三性説の研究 『摂大乗論』を中心に」の目次 ■

※前日からのつづき
一 『摂大乗論』の構成
二 アーラヤ識説
1 『摂大乗論』第1章の構成
2 『摂大乗論』におけるアーラヤ識説の検討
三 三性説
 1 『摂大乗論』第2章の構成
 2 『摂大乗論』における三性説の検討
※ここまでを本日に掲載。

四 無住涅槃
 1 『摂大乗論』第8、9、10章の位置づけ
 2 『摂大乗論』における無住涅槃
結論
参考文献
※ここまでは明日に掲載。

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◇◆ 三性説の研究 『摂大乗論』を中心に  塚田毬子 ◆◇

一 『摂大乗論』の構成

 『摂大乗論』は、十章から成る唯識の論書であり、体系的に書かれているのがその特徴である。
物事を体系の形でとらえるのはアサンガの思考の特徴とも言える。
本論文では『摂大乗論』の全体を大きく五つに分類し、以下の構成に基づいて検討を進める。
一、あらゆるものの根本(第1章)、二、あらゆるものの実相(第2章)、三、相に悟入するプロセス(第3章)、
四、悟入の具体的な実践内容(第4、5、6、7章)、五、その結果(第8、9、10章)
『摂大乗論』においては、表象は転識とアーラヤ識の相互因果で引き起こされており(第1章)、
表象は実体が無いが、あると思い込むと汚染になるということ(第2章)、表象に悟入することとそのための修行と
(第3?7章)、無分別智、汚染から目を覚まし清浄にもとづいた縁起への転回(第8、9章)、
そして涅槃にとどまらない無住涅槃(第10章)が説かれている。
本論文では、『摂大乗論』の核心は第2章の三性説であると位置づける。三性説を展開する道具立てとして、
第1章のアーラヤ識説が機能している。そして、第2章で示された二分依他説の理論が『摂大乗論』の全体を
貫いていると考える。
瑜伽行派は実践を理論と同じく重視し、『摂大乗論』ではその半分を実践編にあて、第4章から第7章にかけて
修行の内容も挙げられてはいるが、具体性・現実性に欠けているように思われる。その根拠として、アサンガは
この世界がどうなっているかを解き明かしたが、アサンガ自身がこの世界をどう生きたか、どう生きるかという
実例が挙げられていない【2】。これは『摂大乗論』の大きな欠陥ではないかと思われる。
『摂大乗論』に書かれた理論で実践が説明できなければ、理論は机上の空論である。
そこで以下では、筆者自身の実践を具体例にしながら、アサンガが解き明かした理論を検討していく。

二 アーラヤ識説

1 『摂大乗論』第1章の構成

 第1章は62節から成り、その約半分をアーラヤ識の存在論証が占めている。瑜伽行派が打ち立てたアーラヤ識
という新しい用語は瑜伽行派が勝手に作り出した妄言ではなく、仏説にその根拠を求められると証明することに、
多くの文量を割いている。その分、アーラヤ識の性格の説明については、素材は出されているが未整理で
プリミティブな部分が多く見受けられる。
第1章の全体の文量は第2章のおよそ倍である。アーラヤ識説が本書の冒頭に置かれ、またアーラヤ識は特徴的な
用語であるから、第1章は目を引く。しかし、アーラヤ識説はあくまでもその後の三性説を展開するための道具
立てであり、その根底にあるものである。それを以下で確認していく。

2 『摂大乗論』におけるアーラヤ識説

アサンガが『摂大乗論』第1章においてアーラヤ識の性格の定立を行っているのは、14節から28節である。
この箇所を、本稿では以下の構成に基づいて検討する。
1.相の定立
三相(14節)、熏習(15節)、種子(16節)、アーラヤ識と諸存在の関係(17節)、熏習の種々性(18節)、
以上のまとめとしての縁起論(19、20、21節)
2.アーラヤ識詳説
種々の六義(22節)、熏習の四義(23節)、種子の生因と引因(24節)、種子の内と外(25節)、
アーラヤ識と転識(26節)、26節の教証(27節)、縁起論(28節)
以下、筆者自身の実践を理論づける相の定立の部分を中心に詳しく見ていきたい。
アサンガは14節において、アーラヤ識に三つの性格があることを挙げている。それは、「自相」、「因相」、
「果相」の三つである。このアーラヤ識の三つの性格は並列ではなく、相互因果の構造を持つことを、まず初めに
挙げている。

  そこで次には、どのように考えてその相を定立すべきであろうか。
  要約してそれは三種、すなわち自相の定立と、因性の定立と、果性としての定立とである。
  その中で、(1)アーラヤ識の自相とは、あらゆる汚染せる存在から熏習されていることが基盤となって、
  種子を保持し備えていることにより、それ〔すなわちあらゆる汚染ある存在〕が生起するための因相としてあることである。
  またその中(2)因性としての相とは、右のようにあらゆる存在の種子を有するかのアーラヤ識が、それら汚染ある
  存在に対する因性として、あらゆる時に現存することである。またその中の(3)果性としての定立とは、無限の過去以来、
  その同じ汚染ある諸存在から熏習を受けていることによって、アーラヤ識が〔行為の結果として〕起こっていることである。
  (『摂大乗論』第1章14節、長尾 1982,pp.133-134)

因性は玄奘訳原文では「因相」、果性は「果相」と表されている。アーラヤ識の性格(相)に三つあることを示し、
まず初めに自相を挙げるが、自相は因相と果相の相互因果を示しているので、同語反復にも思われる。
しかし、ここで性格を三つ挙げることの意味は、因果関係は相互関係だということを強調することにある。
『摂大乗論』の全体を貫く論理の構造は、三で説明することである。三は並列ではなく、一の中にその他の二が具わり、
二の間で運動が起きていることを示す。ここではこの三の論理で、アーラヤ識と汚染ある諸存在との因果が無限に
繰り返されることを説明している【3】。これはすべての諸存在は外化に向かうことを意味している。相互因果の中で、
絶えず熏習され、絶えず外化していく。それは、アーラヤ識と汚染ある諸存在である転識が、分裂していることにより、
絶えず運動が起きているということである。
 次に15節と16節において熏習と種子が説明される。熏習とは、種子に汚染が染みつくことである。
アーラヤ識が諸存在と同時に生じ滅することで、熏習された種子がアーラヤ識に蓄えられる。蓄えがある条件まで
成長すると外化する。
また、アーラヤ識は種子を蓄えている蔵であるが、熏習された種子がアーラヤ識と一体であったら、アーラヤ識は
固定化してしまい、次なる諸存在の因となることは出来ず、運動は起きない。種子とアーラヤ識は一体となって
固定されているものではない。
続いて、アーラヤ識と転識の相互因果が26節において教証をもって示される。

  それは『中辺分別論』の偈頌に、説かれている如くである。
  一つは〔因〕縁としての識であり、第二は〔現象的な面において〕享受あるもの〔としての識〕である。
  そこ〔第二の識〕には、享受すること、判別すること、および動かすものという、もろもろの心作用がある。
  (『摂大乗論』第1章26節、長尾 1982, pp.169-170)

第一の識はアーラヤ識、第二の識は転識を示している。アーラヤ識は縁起を引き起こす識である。
外化された諸存在は、転識によってまず初めに享受される。感覚で捉えられたものが、意識で判断され、
作用となって動く。この三段階は、感情・思考・行動と言い換えることができると考えられる。
受動から能動に至る運動である。感覚した分だけ、思考することができ、それが行動に表れる。
分裂が運動を引き起こすということを示している。
この理論で筆者自身の実践を説明する。筆者は外界に触れ、様々なことを感覚し、それを「間違っている」と判断し、
引きこもった。外界に触れることが「享受すること」であり、間違っていると思ったことが「判別すること」であり、
引きこもったことが「動かすもの」に当てはまる【4】。
では、より多くのものを享受し、判別し、動かすことはいかにして可能となるか。それは、分裂の度合いが感覚の
度合いを決めているので、分裂を深めればよい。分裂を深めるにはどうしたらよいか。18節では、熏習の結果は
外化されることによってわかるということが述べられている。これは分裂が深まることについて著されていると
考えられる。

  例えば絞り染めをするために布を絞っても、その時にはまだ種々 の色は現れないが、
  これを染料の器に入れるならば、その時、布の上に別々に異なった色が、多数に種々の模様として現れるのである。
  それと同じようにアーラヤ識も、種々雑多な熏習が薫じ付けられてはいても、熏習の段階ではそこに種々〔の〕が
  あるのではなく、結果を生ずべき染料の器の中に置かれたならば、そこに種々雑多の存在が無数に現れるのである。
  (『摂大乗論』第1章18節、長尾 1982, p.145)

ここで示されているのは、熏習し、アーラヤ識に蓄えられた種子は、外化されることによってその熏習の結果を表す
ということである。善因が楽果をもたらすわけではなく、楽果となったものが善因となる。熏習された種子が、
ある段階に達したところで、条件が整った分だけ外化される。
この理論で筆者自身の実践を説明すると次のようになる。筆者が引きこもっている間に、筆者には認識できない
意識下で熏じつけられた種子が変化し、それが外化し、以前は気が付かなかった自分の内面の問題に気付くことができた。
気づくことができたのは筆者にとって楽果であるので、楽果を引き起こした引きこもる行為は善因と位置付けることが
できる。引きこもっている間に、どのようにして条件が整えられていたかは、意識下の変化であるので筆者には認識
できない。問題が外化したことによってはじめて、条件が整えられていたということがあらわとなった。
条件がある段階まで達したら外化する、その条件は認識では知り得ないものであって、自分の意志で外化させることは
できないということを示している【5】。
つづく19節においては、以上をまとめる形となる縁起論が展開される。ここでの縁起には二種があり、
玄奘訳において前者は「分別自性縁起」、後者は「分別愛非愛縁起」と訳されている。 分別自性縁起とは、
アーラヤ識と転識が相互に因となり果となるものそれ自体が生起する仕組みであり、外化の仕組みを表す。
分別愛非愛縁起は、アーラヤ識が非連続的に連続して、輪廻転生を引き起こすことを表している。
以上、『摂大乗論』のアーラヤ識説を検討した。アーラヤ識にあらゆる種子がすべて蓄えられていて、
異熟によってそれが外化する。どう外化するかは異熟によって異なる。ある条件まで発展したところで外化する。
それがまた異熟となる無限の相互関係である。

三 三性説

 1 『摂大乗論』第2章の構成

第2章は、34節から成り、アーラヤ識説の理論を基盤にしながら三性説の説明が展開されている。
本論文では第2章の全体を以下の五つに分類し、これに基づいて検討する。

1.三性1-5節、2.唯識無境(表象のみ)6-14節、3.三性の実存15-25節、4.教説26-30節、
5.その他(三性の直接的な説明はない)31-34節

まず1-5節で世界の実相として三つの相があることを挙げ、6-14節でそれをアーラヤ識縁起とのつながりで説明し、
15-25節でさらに詳細な説明を加えている。
『摂大乗論』第2章の特徴は二分依他説にあり、この論理に『摂大乗論』全体が貫かれている。
以下でそれを検討していきたい。

2 『摂大乗論』における三性説の検討

  次に知らるべきものの相は、如何様に考えるべきか。──それは要略して三種である。
  すなわち他に依る相と、妄想された相と、完全に成就された相とである。
  (『摂大乗論』第2章1節、長尾 1982, p.272)

第2章冒頭にまず初めに挙げられる三性は、玄奘訳ではそれぞれ「依他起性」、「遍計所執性」、「円成実性」と
訳されているものである。『唯識三十頌』など、他の論書では「遍計所執性」、「依他起性」、「円成実性」の
順で挙げられることが多いが、『摂大乗論』では依他起性を初めとする順で挙げられるのが一つの特色である。
この順序も二分依他の論理を表している。これ以降の節においても、三性はこの順序で表される。
続く2節から4節において、三性それぞれの性格が述べられている。依他起性はアーラヤ識に基づく純粋な縁起の
世界であり、依他起性が分別され対象化されると遍計所執性となり、また依り所が無になると円成実性となる。
そして、この三性がどのような関係にあるかを17節で示している。三性は、相互に異なる独立して存在するものではなく、
一つの世界の観点の違いだと説明する。ここでも三の論理で理論づけられている。依他起性は迷いから悟りへの転換
を可能にする根底であるということが示されている。
この直前の16節において、アサンガは我々の現実世界のあり方を解き明かしている。遍計所執性における分別する
ものと分別されるもののそれぞれと、遍計所執性について解き明かしている。

 (1)意識こそは、分別するものである。その性質が分別を具えたものだからである。
  それは〔意識〕自らのことばによる熏習を種子として生じ、またあらゆる表象のことばによる熏習を
  種子として生じている。それ故にそれは無限に種々の形相のある分別として起るのであって、
  〔遍く〕あらゆるものについて構想し分別するという点からして、〔遍き〕分別構想と称せられる。
  (2)他に依るという実存が、分別構想されるもの〔妄想の対象となるもの〕である。
  (3)他に依るという実存が、ある形相をもって分別構想されるとき、それ〔ある形相〕こそは、
  ここに妄想された実存である。ある形相をもって、といったのは、
  「〔あるあり方の〕そのように」という意味である。
  また分別は、どのように分別構想するのか。すなわち何を対象とし、如何なる相を把握し、何に執着し、
  いかにことばとして発言し、如何に世間的な言動をなし、また非存在を存在とするような誤認が如何様に
  なされるのか。──概念(名)を対象として分別するのであり、それ〔概念〕を他に依るという実存の上に
  相として把握し、それ〔相〕を見て執着し、種々に考察を廻らしてことばとして発言し、見たり〔聞いたり〕
  などの四種の言語動作を通じて世間的な言動をなし、また、ものが存在しないのに、〔非存在を〕存在と誤認する。
  これらによって分別構想するのである。(『摂大乗論』第2章16節、長尾 1982, pp.328-329)

以上で、なぜ主体と客体の分裂が起き、認識が起るのかを説明している。
(1)では、意識こそが分裂を引き起こすものだと述べられている。そしてそれは意識の性質が分裂であるからだとされる。
なぜ意識が性質として分裂を備えているか、それは意識自らのことばによる熏習の種子として生じ、
またあらゆる表象のことばによる熏習を種子として生じているからだという。
ことばによる熏習とは、第一章58節においてアーラヤ識の分類として熏習に三種あることが述べられるうちの一つである。
ここでの「ことば」とは、話され書かれる言語ではなく、意識でものを考える際の中心となるものという意味で用い
られている。話され書かれる言語は意識の表象であり、ここでの「ことば」とは異なる。「ことば」は玄奘訳では
「名言」と訳されている。【7】
人間は「ことば」で判断している。感覚で捉えられたものは五識によって享受されるが、そこでは判断は起こらない。
主体が客体を享受する、能取が所取を受用するに留まる。前五識によって受用された感覚は、意識によって判断される。
この時意識の中心にあり、判断をなすのに用いられるのが「ことば」である。「ことば」とは、いわば自分の中に
もう一人の自分がいることだ。
例えば、何かを耳が聞いた時にそれが「人の声だ」と思うのは意識が「ことば」で判断しているからであり、
何かを目が見た時にそれを「机だ」と思うのも意識が「ことば」で判断しているからである。
私を「私だ」と思うのも意識が「ことば」で判断しているからだ。
人間は「ことば」で判断する。「ことば」が概念を生む。私を「私だ」と判断するとき、私と思われている自分と、
私と思っている自分がいる。自分の中に主観と客観の両方が存在している。これが意識の分裂である。
主観と客観を認識し分別を起こすのは、意識が分裂しているからであって、その分裂の中心にあるのは「ことば」
による判断である。
(2)と(3)で述べられているのは、依他起性の純粋な縁起の世界は外化に向かう相互因果の円環構造であり、
全てが外化に向かって進むのがその仕組みであるということである。それが作用し、外化して表象となって
意識に上がってきたものが(1)で述べられるように分別され、遍計所執性となるということである。
酒を飲んだら酔うという仕組みと、実際に酒を飲んで酔っ払うというはたらきが別であるのと同じように、
仕組みとはたらきは別物である。それが依他起性と遍計所執性の関係にも当てはまる。
「また分別は」から始まる段落で述べられていることは、概念を対象として分別し、それが存在の誤認だという
ことである。概念は玄奘訳では「名」と訳される。「名」を対象とするのは意識の働きである。
ここでは、「ことば」に対する不信が述べられている。対象を把握し分別し執着することの中心には「名」があり、
概念があり、「ことばによる熏習」がある。「ことば」によって捉えられたものは分別された世界となる。
真如は「ことば」によっては捉えられない。
しかし同時に、「ことばによる熏習」が無ければ外化は行われないということも意味している。
アーラヤ識を依り所とする純粋な縁起の世界は、「ことばによる熏習」によって外化され、それが因となり
果となってまた熏習される。その無限の繰り返しがアーラヤ識縁起だ。「ことば」は分別しているものであり、
「ことば」で捉えられる表象はすべて分別されたものである。そこには真如はない。真如への到達とは、
「ことば」では達成されないものである。認識とは、分別していることを指す。認識では、純粋な理解は達成されない。
しかし、人間同士のコミュニケーションや、自分の意識を外化させるには、「ことば」の表象を用いなければならない。
アサンガが『摂大乗論』において自らの思想を表した文章も、「ことば」の表象にすぎず、分別されたものである。
言語という表象をもってアサンガの思想が完全に純粋に書かれることは不可能であるし、書かれていることは
アサンガがアサンガ自身の「ことば」による表象を分別したものであるから、二重に分別されている。
だが、自分の思想を自分の内に留めず、他者の目に触れさせることを目的として表現するとき、
「ことば」の表象の形を取る以外に方法が無い。それが人間の生きる現実世界のあり方であるから、
それを認めて、受け入れるしかない。現実世界のあり方を認め、受け入れて、分別し、分別されるのを覚悟の上で、
アサンガは『摂大乗論』を書いたのだと思われる。遡ればシッダールタも、菩提樹の下で悟りに達した後、
それを自分の内に留めずに、説法をして回り、自分の思想を外化させた。外化されたものは、
他者により分別され、それは何十にも妄想が加わることとなる。外化され分別の対象になったものは、
他者に純粋な形で伝わることはあり得ない。しかし、それをわかっていながら、シッダールタは死ぬまで
説法をつづけた。その意味は、自分たちの現実を否定しない、この現実こそが悟りに達する唯一の道だと
いうことなのではないか。そしてそれをアサンガも受け継いでいるのである。
筆者が『摂大乗論』を読むとき、どうしても筆者の解釈を入れて読んでしまう。アサンガの記述を筆者の
解釈に引き付けて読んでしまう。純粋なアサンガの摂大乗論を自分の中に入れようとしても、純粋にそのままを
入れることは難しい。それは『摂大乗論』を筆者が享受し、意識で判別しているから、常に分別が起る。
誤解と伴った理解しか得ることができない。
長尾は意識の分裂を「ことば」と訳したが、これは長尾の分別であり、解釈である。
「ことば」を漢字表記の「言葉」とは表さず、ひらがな表記することによって、従来の意味から異化させよう
とした意図が汲み取れるが、「ことば」というのは何かの表象を示す語であり、真の意味とはズレを感じる。
訳語には訳者の解釈が入るし、原文も著者の解釈なのであるから、玄奘の訳語も、アサンガの原文も真の
意味を表してはいない。そうであるならば、筆者は筆者自身の解釈で長尾が「ことば」と訳したものを
日本語で可能なかぎり自分なりに表現してみる。「ことば」とは自分の中にもう一人の自分がいることであるから、
「ことば」に代わる訳語としてふさわしいのは、「内的二分」ではないかと考える。意識の中心には分裂がある
ということをこの語で示すことができると推測する【7】。
人間の相互理解というのはいつでも不完全なものであり、解釈を伴って、誤解を伴って理解がある。
しかし、誤解ばかりでまったく理解とはかけ離れていくわけではない。誤解を伴いながら、少しずつ理解を
深めていくことができる。それはなぜか。それを証明するのが三性説の二分依他説である。

  他に依る実存は、妄想されたという一分のあることによっては、輪廻なのであり、その同じものが、
  完全に成就されたという一分によっては、涅槃でもあるからである。
  (『摂大乗論』第2章28節、長尾 1982, pp.373-374)

  他に依る実存の中に、妄想された実存があり、汚染分に属する。
  完全に成就せる実存もあって、清浄分に属する。他に依る実存そのものは、それら二分を有するものとしてある。
  このことを意趣して、世尊は説かれた。(『摂大乗論』第2章29節A、長尾 1982, p.376)

 依他起性が二分を有するのは、それが分裂の仕組みを持っているからである。
転識とアーラヤ識が分裂し、その二つが相互因果のはたらきをして、アーラヤ識に蓄えられた種子が転識に外化し、
それがまた熏習されてアーラヤ識に蓄えられるという無限の循環を続けており、それはすべてが外化に向かう
運動として捉えられる。純粋な縁起の世界は、固定化されず、常に流れている。その仕組みで種子が外化し、
表象として分別され執着されたとき、それは妄想となり、依り所がアーラヤ識から智へ転回すると円成実性となる。
そのことを、次節29Bで「金が含まれている土塊」の比喩を用いて説明している。 土塊の中の土と金の分裂を
例えたものであるが、金が含まれている土塊は物質であるから、意識を持たない。あくまでも比喩であり、
現実的ではない。意識を持つものの例として、代わりに、二分依他を筆者自身の実践に置き換えて考察する。
 これまで置き換えて説明してきたように、人間である筆者は、現象世界で汚染に囲まれて生きている。
人間が汚染を汚染だと気が付くのは、意識が分裂しているからであり、それはすなわち意識の中に清浄と汚染と
を持っているからである。意識の分裂によって、現象世界の表象を認識している。なぜ人間には意識の分裂が
起っており、自分の中に清浄も汚染も持っているのか。それは先天的に備わっている能力だからである。
人間だけに意識の分裂が起る。その意識の分裂の最も深まった表象として、人間だけが言語を使用する。
それが人間に具わっている性格であり、現実である。この分裂の仕組みが依他起性である。汚染を汚染だと
思うのは、人間が依他起性の仕組みを持ち、分裂が絶えず運動を起こしているからである。絶えず運動して
いるからこそ、分裂は変化の可能性を持つ。依他起性は、遍計所執性にも、円成実性にも変化する可能性を持つ。
その仕組みを二分依他説は説明している【8】。
こうして、筆者の実践は唯識によって理論づけられた。なぜ人間は問題に気付き、それを解決しようとするのか、
それは人間が分裂の仕組みを備えているからである。分裂が外化に向かって運動を起こしているからである。
では、問題を解決するとはどういうことか。何を意味するのか。