11月 04

震災後の国立大学の対応の取材

10月17日から19日は仙台の東北大と宮城県歯科医師会を取材しました。
東北大では医学部、歯学部、病院。地域イノベーション研究センター。

10月21日から23日は盛岡の岩手大学を取材しました。
岩手大ではINS(産・官・学の連携組織)、地域連携推進センター、本部。23日の震災復興への取り組みの報告会を取材。

成果は、雑誌や本で発表する予定です。

10月 05

島田紳助が暴力団との交際が発覚して芸能界を引退した。
紳助の某番組での発言に怒った右翼団体から街宣活動をかけられ、それに困り果てて、知人を介して暴力団の幹部に解決を依頼したのが関係の始まりだという。

島田紳助と同じく、暴力団との交際が噂されているのがビートたけしだった。そのたけし本人が、その詳細を語った(「週間文春」2011年9月29日号)。

たけしも、街宣活動をしばしば受けたらしいが、その対応が違っていたようだ。そして、その違いが、伸助は引退し、たけしは今もトップの地位にいる結果になっている。

たけしはフライデー事件で逮捕され、懲役6カ月・執行猶予2年の判決を受けて謹慎し、半年後に復帰した。その際に、日本青年社に「復帰が早すぎる」と街宣をかけられた。たけしは、事務所が何もしてくれないから「自分で話をつける」と決め、住吉会の当時の会長の堀正夫のもとに行き、謝罪した。住吉会のトップに会ったのは、その幹部に日本青年社の結成者がいたからだ。堀に、その幹部と日本青年社の会長のところに行くように言われ、たけしは謝罪に行った。2人には、芸能界を辞めることを申し出たが、当時の事務所を辞めることで、話がついた。以降も、そうしたことが何回かあったようだ。

紳助とたけしのこの違いについて、「伸助は『芸』がなかった」とたけしは言う。しかしこれは「芸」のある、なしと言うよりも、生き方そのものの違いだろう。

そういえば、そもそものフライデー事件の際にも、たけしは講談社のフライデー編集部に乗り込んで、直接に話を付けようとした。

講談社では暴力を振るい、他方では暴力団の圧力に屈服しているように見える。いずれにしても、暴力への親密度がそこにはある。
紳助にもそうした面がある。吉本興業の女性マネージャーに暴力をふるって謹慎していたことがある。

しかし、そうした共通性の一方で、誰にも頼ることなく、自分一人で問題を解決しようとするたけしと、紳助のそれとは大きく異なる。

こうしたたけしのスタンスと覚悟が、彼がここまでやってこられた最大の力なのではないだろうか。

今回のことで、暴力団と芸能界との関係がいろいろに言われているが、今回の事件の核心は1つだと思う。自分の言論に対して、右翼団体などからの街宣活動を受けたときには、どうしたらよいのか。これは広く考えれば、言論の自由はどう守られるか、自分の言論をどう守るか、と定式化できる。つまり、憲法の保障する「言論の自由」の問題なのだ。

そうとらえれば、これは私たち一人一人の問題なのだということがわかる。自分の言論の後に、私たちはどれだけの覚悟を持っているだろうか。

なお、今回の事件の報道や言論で、私のような視点はほとんど出ていない。この状況はとても危険なのではないか。

9月 13

9月6日から9日まで、福島県、宮城県の被災地を取材しました。
私の取材は、主に「教育」という観点からの取材ですので、学校、教育委員会、大学などが取材先です。福島では中小企業家同友会もたずねました。

7月にも、1週間ほど福島、宮城、岩手県をまわっていて、今回はそれに続く取材です。
10月にも、追加取材する予定です。

3月 13

2月11日の大震災の時、私は鶏鳴学園で授業の準備をしていました。
もちろん授業は中止になり、その日は帰宅できず鶏鳴学園に泊まりました。
ただし、元気でいます。

長野県の知人から次のようなメールが届きました。
「まだ全貌が見えませんが、今回の地震は東北地方だけの問題ではなく、
日本という国そのものの存亡に関わるような大惨事のような気がしてい
ます」。

私も、今回の地震の意味は大きいと思います。

自己決定ができず漂流している今の日本に、
その怯懦を改め、新生をはたすことを、
強くうながすような、大きな働きかけのように思います。

私たち一人一人が、自分自身の使命にどこまでしっかりと向き合っているか、それを再度チェックし、実践をしていきたいものです。

12月 07

 ◇◆ 「医療行為」と「治療行為」 ◆◇

 ゼミのメンバーに某大学の大学院生がいる。精神科の医者になることを目指しているが、現在は精神分析に関する修士論文を書いている。彼から「医療行為」と「治療行為」という対概念を聞いて、これは面白いと思った。

 医療については、民間療法や東洋医学、似非医学などが常に問題になる。薬も薬事法に基づく正規のものから詐欺まがいのものまでが混在する。私が高く評価している野口整体などは、「医療行為」ではないから、保険がきかない。そのために金持ちのための医療になり勝ちだ。
これをどう考え、どう整理したらよいのだろうか。

 国が認めた「医療行為」と「治療行為」を区別して考えると、いろいろなことが見えてくる。もともと人類の発生と共に、「治療行為」はあったはずだ。母親が手当(子どもの痛いところに手を当てたり、さすったりすること)をしたり、「いたいの、いたいの、飛んでイケ?」とまじないをかけたりするのは、誰もがやっている治療行為だ。それは人類とともに古く、また普遍的だろう。

 また、民間療法もそうだ。呪術師や行者たち、仏教者も、さかんに治療行為を行ってきた。はじめはそれが医療だったし、それしか医療はなかった。しかし、いつしか、そうした治療行為の中から、またはそれらとは別に、「医療」なるものが生まれ、科学とともに体系化され、国家が承認、管理するようになった。この段階で初めて、「医療行為」と「治療行為」とははっきりと区別されるに至ったのだ。

 しかし、これまでも、これからも常に、人々の中に、生活の中に治療行為はある。特に心理的な側面ではそれが大きな力を持つことは、誰も反対しないだろう。そうした普遍的で根源的な治療行為が行われる中に、極めて特殊な異物として「医療行為」が存在している。それが実態ではないだろうか。それが逆転し、「医療行為」の中に、異物として「治療行為」がきわめてまれに行われている。そうしたイメージが広がっているのではないか。どちらの把握の方が真実に迫っているのだろうか。