12月 01

 すでに40年以上前に、私が今考えているのと、ほとんど同じことを、いなそれ以上の視野と深さで、考えている人がいたことに感動しました。

 1960年代から70年代にかけて、都立豊多摩高校では、奈良などの地域産業の調査を高校生が共同で行いレポートをまとめたり、戦争体験の聞き書きを行ったりするなどの先行的な実践が行われていました。それは筑摩の国語教科書にも掲載され、全国に強いメッセージで発信されました。

 その当時の実践のリーダーだった丸尾寿郎氏(教科書編纂をした小沢俊郎氏の同僚)に、11月22日の例会で、報告していただきました。当時の状況、実践の話、同僚たちとの連携、教科書に掲載後の反響など。
 これは戦後の教育史における「聞き書き」の歴史の確認でもあり、先人の実践の継承にもなったと思います。
 
 丸尾氏の実践家としての直観と信念、それを後で理論化する小沢俊郎氏。二人の間に響き合う信頼と敬意の念。それは残念ながらとてもまれなことであり、私の心にしみました。
 また、丸尾氏の実践と、それに響いて小沢氏が行う生徒作品の分析、実践の意味づけ。わたしがうなってしまうものがありました。
 抽象的な正義を振りかざす空虚な文章と、父母が体験した事実の重さを受け止めた文章の違い。形容詞の多い空疎な作文と、年齢、地名など、事実だけを積み重ねていく文章と。
 受け止めた文章は「戦争は許せない」式の単純な結論を排除します。ぎくしゃくした複雑な陰影を持ったものになります。
 「締め切り」をすぎてから提出した生徒の作品にすぐれたものがある理由の考察。教師への反撥、それがある生徒には何か芯になるものがあること。できあがった仲間たちの聞き書きに後押しされて、そうした高校生も書くに到る。こうした仲間との相互関係に、教育の力があること。
 こうした小沢氏の分析に、本当に感心しました。

 すでに40年以上前に、私たち以上のレベルで実践し、考えていた人がいたのです。それに素直に感動しました。しかし、同時に、そうしたすぐれた遺産が継承されず、埋もれてしまっていることにも激しい怒りと悲しみと無念の気持ちもあります。

 私たちは、本当に、歴史と先達に学ばなければならないと思います。
 詳しいことは、後日、文章にまとめるつもりです。 

 

12月 01

11月8日に、京都国立博物館の「日蓮と法華の名宝―華ひらく京都町衆文化―」を見た。

この企画展については、5月1日のブログで触れた。
そのブログでは「展覧会には2種類ある」として、「新しい視点、観点の提示をし、その視点からの展示をする」あり方を推奨した。

そこで、その期待する例として出したのだ。
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 京都国立博物館は、今年秋にも魅力的な展示を行う。「日蓮と法華の名宝―華ひらく京都町衆文化―」であり、「文応元年(1260)、39歳の日蓮は、度重なる災厄と国家の危機を憂えて、『立正安国論』を著し、鎌倉幕府前執権の北條時頼に献じました。それから750年目にあたる今年、それを記念し、『立正安国論』を軸に、京都十六本山を中心とした諸寺伝来の宝物の数々を、一堂に展観します」(博物館のHPより)とある。
 これはいわゆる「琳派」展だろう。江戸時代の本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ)、俵屋宗達に始まり、尾形光琳、尾形乾山らが確立し、その後もすぐれた継承者を多数生んだ「琳派」の流れの展示である。

 しかし、それがなぜ「日蓮と法華の名宝」なのか。光悦たちの多くが法華宗徒だったからだ。光悦は、京都の洛北鷹ヶ峯に芸術村(光悦村)を築いたことで有名だが、その住人の本阿弥一族や町衆、職人などは皆、法華宗徒だった。光悦の死後、光悦の屋敷は日蓮宗の寺(光悦寺)となっている。
 これには当然わけがある。浄土を死後の世界に求めず、現世に実現しようとする在り方、現世と人間の欲望を肯定する教えが、彼らの拠り所になっていたのだろう。
 その宗教と芸術との関係から「琳派」を見直すことで、これまでと違う側面が見えてくるかも知れない。
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その結果はどうだったか。
期待はずれだった。
そもそも、江戸時代の「琳派」の展示はほんの一部だった。何か「新たな発見」がそこにあったわけでもない。
本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ)、俵屋宗達、尾形光琳、尾形乾山らの展示は、それぞれ数点しかなく、新たに知った物は光悦の自筆の立正安国論しかなかった。「琳派」に新たな光が当てられたわけではない。

もちろん、新たに知ったことはある。以下は、今回の企画のHPからの引用。
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 本展はこれを記念し、『立正安国論』を軸に、鎌倉新仏教の一翼を担った日蓮の足跡をたどり、その門下の活躍、特に孫弟子にあたる日像の京都布教以降、公家文化と並ぶ町衆文化の形成に果たした日蓮諸宗の大きな役割を紹介します。
 日像は三度の京都追放にもめげず、帝都布教の悲願を達成し、大覚大僧正妙実(だいかくだいそうじょうみょうじつ)という優れた後継者を得て、その基盤が確立しました。やがて、法華信仰は室町時代を通じて町衆を中心に広がり、京都は「題目の巷(ちまた)」と称されるまでになりました。
 反面、勢いが強まったことで、旧仏教界の中心であった比叡山と関係が悪化します。天文五年(1536)、ついにその対立は天文法華の乱として火を噴き、京都撤退の憂き目をみましたが、ほどなく帰京が許されてから、再び勢いを回復します。
 その後、天正七年(1579)の織田信長による安土宗論での浄土宗への敗北、文禄四年(1595)の豊臣秀吉の方広寺大仏殿千僧供養に際して日蓮諸宗への出仕の強要による宗内の動揺など、政治と宗教という難しい問題にも遭遇しました。ちなみに、当館の敷地には、まさにその方広寺の遺構の一部が含まれており、史跡に指定されています。
 このような曲折を経つつも、今日なお、その伝統は京都十六本山を中心に受け継がれており、それを支えたのが町衆だったのです。
 この町衆が京都近世文化の形成に大きな役割を果たしたことは知られていますが、名だたる近世の芸術家たちが法華の信者だったことは意外と知られていません。たとえば、狩野元信、長谷川等伯、本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳、尾形乾山、彼らがみな法華信徒であったと聞くと「エッ!?」と驚く方も多いのではないでしょうか。つまり、狩野派、長谷川派、琳派といった画派は、この法華を媒介にした京都町衆の濃密な人間関係から形成されたともいえるのです。
  本展では、法華信仰の遺品はもとより、これら近世日本美術の名家の優品も展示することで、日蓮諸宗と京都町衆文化の奥深さを再確認するものです。こうした趣旨の展覧会はあまり例がありませんでしたので、十六本山を中心に事前調査を行い、多くの新発見に結びつきました。中には重要文化財級の作品もあり、数多くの初公開作品もみどころと考えています。多くの方のご来場をお待ちしています。

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 以上の中で、日像のことと、彼の京都布教以降、日蓮宗が京都の町衆文化の形成に大きな役割をはたしたこと。
狩野元信、長谷川等伯も法華信徒であったこと。今回の企画のための調査で長谷川等伯や彼の一派の作品が発見されたこと。
 ということは、安土桃山時代には、京都の主要な芸術家は日蓮宗だったと言うことになる。そしてそれが、当時の政治との関わりで大きな混乱があったらしい。
 そうしたことは、学んだ。

 しかし、そうした知識以上のものは、そこにはなかった。展示企画した側に、それ以上のものがなかったのだと思う。

 期待が裏切られること。それは良くあることだし、しかたがない。