6月 14

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の1回目 

吉木政人君は、この春に立教大学(教育学専攻)を卒業した。8年かかっている。彼は、5年前に私のゼミに通い、卒論で『山びこ学校』に取り組んでいた。その時は挫折し、ゼミからも消えた。

それが昨年の春に復帰した。こうした「復活」劇は、ゼミの歴史上初めてのケースとなった。彼にはこの4年間に、それなりの事があり、それなりの覚悟ができていたように思う。そして卒論にまた取り組むことになった。しかし、順調には進まなかった。

結局、12月の締め切りに何とか間に合ったものの、本人も納得できない内容だった。
今年2月3月の就職活動がきっかけとなって、書き直しをすることになった。その書き直したものと、それを振り返った文(「ありのままを認めるということ」)と、全体への私のコメントを掲載する。

吉木君のように、ゼミを1回やめてから「復活」したような人の経験こそ、読者にとって参考になるのではないだろうか。

なお、今回、卒論の一部ではなくすべてを掲載した。この長大な分量の3分の1ほどは、『山びこ学校』の3つの生徒作品からの引用である。それを省略することはできたのだが、このメルマガで『山びこ学校』を初めて読む方もいることを考えて、あえて全文を掲載した。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。戦後教育を語るなら、まずは『山びこ学校』を読まなければならない。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。
「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない、このメルマガの若い読者たちには、一度でもそれを体感してほしいと思う。『山びこ学校』は岩波文庫に収録されている。

■ 全体の目次 ■

・卒業論文「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人
 →1回?11回
・ありのままを認めるということ 吉木政人
 →12回
・父親と向き合う 中井浩一
 →13回

■ 卒業論文の目次 ■

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人
序章 →1回
第1章 川合末男「父は何を心配して死んで行ったか」
 第1節 「父は何を心配して死んで行ったか」 →2回
 第2節 問いについて →3回
 第3節 問いから答えへ
 第4節 答えを出した結果どうだったのか →4回
第2章 江口江一「母の死とその後」
 第1節 「母の死とその後」 →5回、6回
第2節 2つの問い →7回
 第3節 問いから答えへ
 第4節 次の課題へ →8回
第3章 佐藤藤三郎「ぼくはこう考える」
 第1節 「ぼくはこう考える」 →9回
 第2節 佐藤の作文の分かりにくさ
 第3節 佐藤の素晴らしさ →10回
終章  →11回

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◇◆ 「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 ◆◇

序章

『山びこ学校』は戦後間もなくの山形県山元中学校で行われた文章表現指導から生まれた詩・作文集だ。『山びこ学校』は1951年3月に出版されている。
私は『山びこ学校』の作文に力強さ、迫力のようなものを感じる。なぜ彼らはそのような文章を書けたのだろうか。『山びこ学校』の実際の生徒作品を詳しく分析することで少しでもその答えに近付ければよいと思う。
以下、『山びこ学校』に関する簡単な背景説明をしておく。
山形県南村山郡山元村という当時非常に貧しかった山村で中学生の指導にあたったのは、無着成恭という新任教員である。無着は1927年生まれで、同じ山形県南村山郡内の出身だ。ちなみに当時、山形県の南村山郡にあった山元村は、1957年には上山市に編入されている。また、山元中学校は生徒減少のため2009年春から廃校となっている。
無着は戦前からの生活綴方に学び、自身がその実践を戦後の中学校で行った。山形新聞の論説委員で、戦前には教員として旧制小学校で生活綴方による教育を行っていた須藤克三からは特に多くを学んだようだ。
『山びこ学校』に収められている文章を書いたのは1935年度生まれの生徒だ。無着と8つしか歳は変わらない。彼らは1948年4月に中学校に入学し、1951年3月に卒業している。その学年の全ての生徒の文章が『山びこ学校』には収められている。新任である無着にとって、彼らは教員として初めて受け持つ生徒だった。無着はその学年の生徒を入学から卒業まで3年間担任した。新任として赴任した当時、山元中学校には1年から3年まで126名の生徒がいたのだが、教員が校長を含めて7名だったために、無着は担任クラスの国語、社会、数学、理科、体育、英語、さらに3年生の国語まで担当したという(佐野眞一『遠い「山びこ」』新潮文庫、2005年、19頁を参考)。
ちなみに、『山びこ学校』は1951年3月に初め青銅社から、後に百合出版、角川文庫から出版されている。しかし、いずれも絶版となっていて、1995年から現在にあっては岩波文庫で発行されている。この論文では岩波文庫版を参照した。それから、『山びこ学校』という本は実は、「きかんしゃ」という学級文集をもとに作られていることを述べておく。『山びこ学校』に収められている生徒の文章は、そのほとんどが無着学級で作られていた「きかんしゃ」という文集(全16号)の中から選ばれた一部に過ぎないのだ。「きかんしゃ」は、あくまでも学級文集であって公に出版されたものではないのだが、山形県立図書館に複写版が保存されているので、現在でも読むことが出来る。この論文の中で「きかんしゃ」を参考にした箇所があるので先に述べておいた。
この論文では生徒作品を全部で3つ扱う。
第1章では、川合末男の「父は何を心配して死んでいったか」。川合末男は病気だった父が亡くなり、その父のことを考えている文章だ。
第2章では、江口江一の「母の死とその後」。江口江一の家は山元村でも最も貧しい。こちらも母が亡くなって、貧しさと母の死という2つの問題をしっかりと見つめようとしている文章だ。
第3章では、佐藤藤三郎の「ぼくはこう考える」。佐藤藤三郎は学級の代表的な人物で級長も務めていた。農村の問題についての意見文を書いている。
彼らは同じ中学校の生徒だが、それぞれ置かれている状況は異なる。まず、川合と江口は親が亡くなり、その直後に作文を書いている。
また、川合は農村の次男以下の問題、つまり家の財産を継ぐことができずに別の仕事を選ばなくてはいけないという状況にいる。
江口は親の死によって、中学2年生にして家の責任者となるのだった。江口の家は山元村でも最も貧しい家の1つで、自分でどうやって生計を立てていくかが彼のテーマだった。
 佐藤は、農家の跡取りとして育てられた。しかし、一方では級長を努めるほど優秀で、勉強をしたいという意思を持っている。
 彼ら3人の作文を分析するにあたって、注目したのは問いとその答えを求める運動にある。彼らの問いは何だったのか、何のために作文を書いたのか。どのような答えを、どうやって得て、その結果どうだったのか、作文を書いたことにどういう意味があったのか。そういったことを注意して分析した。

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6月 11

「ふつうのお嬢様」の自立  全8回中の第8回

江口朋子さんが、この春に「修了」した。
その修業に専念した6年間を振り返る、シリーズ全8回中の第8回。

眠りから覚めたオオサンショウウオ (その4)
 ?江口朋子さんの事例から、テーマ探し、テーマ作りのための課題を考える?
            中井浩一

■ 本日の目次 ■

(8)本当の自立
(9)「お嬢様」の凄み

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(8)本当の自立

表のテーマである「人生のテーマ作り」と、裏テーマである「親からの自立」には、「先生を選べ」が欠かせない。この「先生」の重要さは絶対的なものであることがわかっていただけると思う。それだけに、先生への依存は一時的には強まる。
「今までは師弟契約をしていた中井さんに頼っている面が少なからずあった。それも仕方ない面はあり、自分一人では先に進めないわけだからアドバイスを受けるのは当然だが、自分でやって先生の意見を聞くというより、中井さんからの提案や助言を受けて考える、行動するということも多々あった」。
江口さんの現状の問題は、「自分でやって」が弱いという以外に、私への批判や問題提起が少なく、ほとんどないということがある。今回の振り返りの文章でも、私への批判は皆無といってよい。
しかし、この6年間の私の指導への疑問、不満や怒りなどは多々あったと思う。実際に、私の力量不足で、指導が的確ではなかった場面は数多かったと思う。3つのテーマ変更の意味がわからなかったし、「引きこもり」の意味も十分にわかっていたわけではない。
江口さんからの適切な問題提起や質問や相談がもっとあれば、不要な混乱は少なく、停滞した時期も短くすんだかもしれない。しかし、それがその時点での二人の力量の結果だったといえる。私と江口さんは、その渦中ではそれぞれのベストを尽くしてきたし、その中で成長してきた。

江口さんは親からの自立をへて、私からの自立、つまり独り立ちが今後の課題となる。それは、外での勝負、闘いの中でおのずと解決されていくだろう。

 「これからは今までのような守られた世界から外へ出て、他人や世間にもまれて、時には自分を正面から否定されたり、思うようにいかない事態をたくさん経験することが必要だと思う。そうしなければ、今までの自分がある意味そうだったように、自分とは何か、自分のテーマは何かがぼんやりしたままで、はっきりしない。具体化されていかない」。

江口さんは、経験の幅が極端に狭い。この6年間の「引きこもり」でそれはいっそう強まった。これからは、おもいきって経験の幅を広げる必要がある。素敵な男たちと出会い、深刻で猛烈な恋愛をたくさんして、歓喜と苦しさのあまりのたうち回って欲しい。バカなことも、悪いことも徹底的にやって欲しい。敵とは激しく戦い、友や同志ともとことん付き合って欲しい。海外に出ることも、世界中の「うた」と出会うことも必要だろう。すべてはこれから始まる。それに必要な最低限度の力はあるはずだ。

「他人とぶつかるということは、自分の未熟さ、低さが露わになることでもある。例えば歌会に参加すれば、そこでの自分の態度から自分が議論の場で問題提起できないことが明らかになる。歌についても、わからないことがいくらでも出てくるし、自分の歌に対する参加者の批評を聞けば、自分の歌の駄目さを嫌でも感じさせられる。千年以上の歴史をもつ日本の歌に対して、足がすくむような、越えようのない壁が立ちはだかっているような不安や恐れを感じてしまうのが正直な気持ちだ」。

自分がテーマに決めた歌への畏敬の念と、ふるいたつようなあこがれと、武者震い。そうした初心がすべてを決める。
今後、江口さんは短歌の創作で勝負していかなければならない。歌会で勝負し、投稿で勝負し、論争で勝負する。その中で、自分の歌詠みとしての立場を確立し、自分のグループを作っていくことになるだろう。
そこでは組織の原則と、師弟関係の原則が問われよう。
こうして、自分自身のぎりぎりの立場が問われていくことになるだろう。

 「本当のところ、立場の問題は自分にとってまだまだ曖昧なところが多い。それは、自分がまだ本当には立場を問われたことがなく、この問題に心底悩んだことがないからではないかと思う」。

 今後、江口さんがこうした課題をどこまで達成できるかは、今はわからない。それはすべて、江口さん次第である。

(9)「お嬢様」の凄み

さて、本稿を終えるにあたって、冒頭に述べた守谷君と江口さんの比較にもどろう。そこでは、守谷君と江口さんを、動と静、たえざる運動と引きこもり、外的と内的、躁状態とうつ病的、などと対比した。面白いことに、この数ヶ月は、それが逆転し、入れ替わったような気配がある。江口さんが外での活動を開始した一方で、守谷君はそれまでの外での活動を自粛し、内面に沈潜している。自分の心と体との対話を静かに繰り返し、自分の人生を振り返る作業をしている。ここにも、大きな意味があると思う。

冒頭ではまた、守谷君と江口さんを「特殊」と「ふつう」と対比し、江口さんを「ふつうの人」「ふつうの女子高生」「ふつうのお嬢様」だったとし、それを「わかりにくい」と述べた。そして、このメルマガの読者の多くの「ふつうの人」には、江口さんの事例の方が参考になるだろうと。
こうした言い方は、「ふつうの人」「ふつうの女子高生」「ふつうのお嬢様」をバカにしているような印象を与えると思う。しかし、それは違う。むしろ反対だ。私は「ふつう」の凄さ、「ふつうのお嬢様」の凄みを語りたいのだ。

江口さんは、確かに「お嬢様」だった。しかし、彼女は、師弟契約第1号として、私を選んで、ただ1人、単身で飛び込んできてくれた。これほどの度胸と思いっきりのよさも、世間を知らないからこそ可能になったともいえる。
 その後、オオサンショウウオに自分を重ねていたことも、すごいことだ。お嬢様があの奇怪なオオサンショウウオを自分の本当の姿だとしていたのだ。
友人関係をすべて切り、6年間のひきこもりを最後までやりきったことも尋常ではない。そもそもの初心がそれ程に激しいものだった。それは、それまでの自分のすべてを否定するような激しさだ。こうしたことは、とうてい「ふつう」とはいえない。守谷君以上に「特殊」であり、稀なことではないか。
 しかし、それも、いかにも「お嬢様」的だと思うのだ。もちろん、お嬢様たちのすべてがそうではないのだが、その中からとんでもない傑物が生まれるのも、歴史上の事実だ。
 「艱難汝を玉にする」という諺があるように、世間では苦労人を評価し、貧窮した生活環境からこそ傑物が生まれるといった理解がある。そうした人ほど問題意識が強く、大きな仕事をすると、考えられている。
 しかし、それだけだとすると、豊かな時代になればなる程、傑物、偉大な人間は生まれなくなるだろう。

 私はお嬢様に大きな可能性を感じている。「両親の愛情にも恵まれ」、「何不自由なく暮らし」、苦労知らずで、のんびりと育つ。すべてに満たされていて、金銭や物品や愛情等への欠乏感はない。確かに問題意識は育ちにくい。しかし、何かことが起これば、すべてのものを投げ捨て、大胆な行動をとることもできる。一方、苦労人は、富や名声にしがみつきやすいという面もある。
 私は、江口さんによって、「お嬢様」の凄みと可能性を改めて確認した。読者の方々の中には、「ふつうの人」や、「ふつうのお嬢様」も多いと思う。そうした方々には、御自身の大きな可能性と、それゆえの厳しさを思っていただけると思う。

本稿の引用はすべて江口さんの総括文から。下線はすべて私(中井)による。

(2011年5月29日)

6月 10

「ふつうのお嬢様」の自立 全8回中の第7回

江口朋子さんが、この春に「修了」した。
その修業に専念した6年間を振り返る、シリーズ全8回中の第7回。

眠りから覚めたオオサンショウウオ (その3)
 ?江口朋子さんの事例から、テーマ探し、テーマ作りのための課題を考える?
            中井浩一

■ 本日の目次 ■

(6)「引きこもり」の意味
(7)親からの自立

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(6)「引きこもり」の意味

 「この6年間、自分は実質的に引きこもり状態だった。付き合う人が量的にも質的にも限られ、文章など読んでいても、家族と鶏鳴以外に生身の他人がほとんど出てこない。これは自分の関心に集中し、余計なものに邪魔をされたくなかったからだが、そういう時期も人間の成長の一つの段階として必要だと思う」。
 「重要なのは、引きこもること自体ではなく、むしろ風邪と一緒で引きこもりの期間をうまく過ごせるかどうかではないかと思う。自分の殻に閉じこもってはいけないとか、他人とうまく付き合わなくてはという無理をすると、後々問題が生じかねない」。

「引きこもり」は、江口さんが動物的本能で選択した戦略だったと思う。オオサンショウウオが他の生物の流れからはおり、一人うずくまってしまったように、江口さんも、友との関係を切り、徹底的な「引きこもり」を始めた。
昆虫がマユやサナギの中でしずかに変態の時期をすごすように、外界との関わりをたち、しっかりと自分を守れる状況を作った。それは自分を守るためだが、それは徹底的に自分自身と闘いきるためだったと思う。
これを「甘ったれ」「甘やかし」だと批判するのは間違いだ。「引きこもり」は、「古い自分を破壊し、新たな自分をつくる」という困難な課題と正面からとりくむためであり、日常的に危機的状況にむきあっている。それを続けるには、しなやかでタフでねばり強い強靱な精神力を必要とすることを理解しなければならない。途中で引きこもりを止めて、いい加減な行動をする方がはるかに簡単なことだ。しかし、それでは課題を達成できない。江口さんは最後まで課題をやりきって、変態作業を完了し、蝶になった(そうであってほしい)。

「自分は思う存分引きこもったと自信をもって言える。(中略)不思議とこれだけ引きこもれると、逆にもう外に出て第三者とぶつかっても何とかなるだろうと思えるし、外に出たいという気にもなる」。

さて、以上が過去から現在までの振りかえりであり、そこから今後の課題が見えてくる。

(7)親からの自立

今後、何をすべきか。それは明確だ。短歌をテーマに決めた以上は、その道を突き進むしかない。それによってのみ、その選択が正しかったかどうかがわかる。短歌がそれまでのすべてを止揚するものかどうかも明らかになる。
江口さんは、すでに「先生」をさがし、歌会にも数カ所に参加し、研究者にも連絡をとって授業に出たりしている。短歌の創作活動はもちろん日常的な活動である。

しかし、そうしたこと以上に、重要なことは、これまでの「引きこもり」を終わりにし、外の世界で勝負していくことだ。外の嵐の中でも自分の足でしっかりと立ち、現実社会の中で徹底的に闘っていくことだ。
つまり、「自立」の完成がこれからの目標である。それが、江口さんのゼミの原則からの振り返りの文章の中に書かれている。

 これまでは、表のテーマである「人生のテーマ作り」とともに、「親からの自立」が重要な裏テーマだった。
 それはどういうことか。
6年前も、今の江口さんにも、大きな欠落部分がある。

「自分を含めて、他人に対して、全体に対して常に問題提起するということが課題だ」。
「現状維持・現状肯定ではなく、自分で自分に対して問題提起できるような目を、自分の中に持つ必要があると思う」。

 それができないでいるのは、それまで育った環境に大きな原因がある。
「どちらかというと学校や家庭で優等生的に振る舞ってきたためか、自分には問題点をさらっと流してきれいに整えたがる傾向がある」。

「もともと自分に問題提起や葛藤、衝突を避ける傾向があるからで、これは自分の過ごした学校生活が特に影響していると思う。つまり、幼稚園に入った4歳から14年間同じ私立の女子高で過ごしたので、そこでの温室状態というか、周りが似た者同士で自分が何者かを問われるほど他人を意識する経験がなかった状態が体に染みつき、無意識のうちに居心地良く感じるようになってしまった。結果として、自分に対しても、他人に対しても、見たくないものに反射的に目をつぶるような、要するに問題点を指摘して先へ進めていくようなことができにくくなったという面がある」。

しかし、学校の選択は親が行ったのだから、それも含めて、親の影響は決定的だ。この親からの影響は、20歳までの人格形成の8割から9割を決めると思う。
「その理由の一つに学校生活を挙げたが、それ以外に親からの影響もあると思う。要するに、両親もどちらかというと現状肯定で、波風立てず安定した生活を送りたいという気持ちが本音としてあると思う」。

 親からの自立とは、親への反抗や反撥ではない。親を批判し否定することではない。親の人生、その価値観への深い理解と、その親と自分との決定的な関係性の理解のことだ。そのような相対化だけが、自立の可能性を生み出す。

「自分に対する両親の影響の自覚や相対化は、6年前と比べると進んだと思う。大学卒業直後、自分がこれから何をどうするかを話し合った時は、父親は自分の話を理解できず、むしろ母親は同調する傾向が強かったが、それは母親の理解があったわけではなく、ただ母娘が一体化している面が強いだけだった。その後、自分の関心やその時々の大きなテーマが変わる節目ごとに、両親と話し合ってきた。その結果、例えば父が会社勤めではなく、教師という学問や研究を仕事としていることは、大きくみれば自分と似ていること、自分に働くように強く言わないのも、テーマを作ることの大変さを一応わかっていて、父自身職に就くまで時間がかかったことが関係していることなど、両親の言動を背景も含めて考えるようになった」。

今後、外で勝負して行くには、当然ながら、経済的にも自立しなければならない。
「親との関係で今一番大きい問題は経済的に依存していることで、家を出て独り立ちすることが避けられない課題である。そもそも、親に全面的に養われている立場では自立とはとても言えない。衣食住の心配のない安全な場所にいて、本当にいい歌が作れるのか、中身のある仕事ができるのか、他人に対して何か意見が言えるのか、そうした問題に向き合わないといけない」。

しかし、「引きこもり」をやりきるには、親に徹底的に依存することも必要だった。
「今までは、親に養ってもらっている事実を敢えて見ないようにしてきた面が強く、それを意識してしまうと自分の関心やテーマ作りに集中できなくなってしまう恐れがあった」。

また、親の側にも、それを許せた事情があった。
 「自分が大学卒業後6年間も働かずに好きなように過ごせたのも、当然両親の影響があり、特に父の影響が強い。父自身、浪人や留年で大学卒業まで人より3,4年時間がかかっており、更に大学院まで進んだので、実質的に社会に出て働き始めたのが30歳近くになってからで、その間学費などで親に援助してもらうこともあった。だから本当にぎりぎりの生活の苦労を経験せず、どこかで親を頼れる意識があり、その意識が自分の子供に対してもあり、私にもそのまま受け継がれている」。

 こうして、「引きこもり」の課題をやりきり、親の人生の意味を深く理解した今こそ、経済的な自立が、リアルな課題になってくるのだ。

6月 09

「ふつうのお嬢様」の自立 全8回中の第6回

江口朋子さんが、この春に「修了」した。
その修業に専念した6年間を振り返る、シリーズ全8回中の第6回。

眠りから覚めたオオサンショウウオ (その2)
 ?江口朋子さんの事例から、テーマ探し、テーマ作りのための課題を考える?
            中井浩一

■ 本日の目次 ■

(4)ゼロからの「自分探し」
(5)テーマがくるくる変わったのはなぜか

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(4)ゼロからの「自分探し」

引きこもって、何を始めたのか。自分の生涯を貫くはずのテーマ探しであり、テーマ作りだった。それは「自分探し」であり、「自分作り」であった。世間ではこれを「自分探し」と言うが、私はそれに反対で、「自分作り」と名付けている。テーマは確かに潜在的には内在しているのだが、「探し」て簡単にみつかるようなものではなく、それを顕在化させるには、主体的に闘いとるような激しさが必要で、それは「作る」という言葉で表現するのがふさわしいと思うからだ。
しかし、江口さんの場合は、文字通り「探し」始めたのだ。自分を「つくる」ためにそれが必要だったからだ。

江口さんの「自分探し」は徹底していた。それは過去の自己への完全な否定から始まったからだ。それは自分を「ゼロ」ととらえることから始まる。
 「他のゼミ参加者と比べて、自分は本当に中身の何もないゼロからのスタートだったと思う」「自分には『これに関心がある』と言えるものが4月の時点で何もなかった。(中略)それまでの大学生活で自分の興味関心を本当のところで意識していなかった。だから最初はほとんど中身が空っぽの状態で、自分が何に興味があるかわからず、そもそも興味が向くもの自体なかった」。

ゼロから始めて、テーマを発見するために、何をしたのか。
「本当に自分の心が動き、身体が反応したもの」を探し、それを1つ1つ文章にまとめては報告を重ねてきた。それを地道に辛抱強く、行ってきた。
「鶏鳴で何をやってきたかと聞かれてまず思い浮かぶのは、何より自分の実感に従って、自分が何に強くひかれ、逆に何に関心が弱いかを、自分に対してはっきりさせてきたということだ。今の自分が持てる関心は出し尽くしたと思う。これは自分のテーマを作る上で、一つ必要な段階ではないかと思う」。
 「中身の空っぽの状態から始めた自分にとっては、何かに興味をもつということは、同時にそれに対して感じたことや考えたことで自分の中身を埋めていくことでもあった」。

1つ1つの対象を、自分の実感でとらえていく。それは同時に、それらの対象によって、自分の中の感覚、知覚を1つ1つ呼び覚ましていく作業だったのだと思う。何かを本当に感ずるためには、「感ずる」練習が必要なのだ。テーマを「探す」作業は、同時にゼロから自分の感性そのものを「つくる」という厳しい作業だった。

 しかし、その作業は簡単ではない。どんなに強い初心、明確な目的意識があっても、途中では行きづまり、自分を見失い、テーマがわからなくなる時期もあるからだ。
文字通り、死んだようになって何ヶ月も引きこもることもあった。自殺しないかと心配したこともある。
そうした時こそ、自分の状況を発展的に理解する力が必要だ。それらの停滞や破綻や挫折はマイナスに見えるが、その中にこそ、次への発展の芽がある。
 そして、「先生」が必要なのは、まさにこうした時だと思う。事態や状況を発展的に理解し、その意味づけをし、それを辛抱強く見守ってくれる人がいること。何よりも、自分を信じてくれる人がいること。

江口さんのテーマは「ころころ」とかわった。「石とは何か」から「地形とは何か」へ、そして最後に急に「短歌」が出てきた。
「6年間を振り返ると、確かにその時々の変化に意味があると思うし、特に「石とは何か」というテーマで論文を書けず、地形とは何かも途中のまま、急に短歌が出てきたというこの約3年の流れは、一応12月の時点で意味づけを報告に書いたものの、自分でもよくわかっていない」。
この変化は私にもよくわからず、本人同様に私もとまどっていた。

 人間個人の成長過程が矛盾と葛藤のプロセスであるように、テーマの対象世界も同じで、そうしたプロセスを経て、成長、発展する。
自分のそうした過程を理解する力は、対象世界の理解を深め、テーマを明確にするだろう。そこでは認識の力が大きく伸び、文章力が飛躍的にのびる。
そして、思考力、自己理解の深まりがあるレベルに到達すれば、おのずからテーマも見えてくるのではないか。江口さんのテーマは「短歌」になった。歌人になるのが江口さんの当面の課題であり、「自分とは何か」の取りあえずの答えは「歌人」だ。
実は、昨年の12月、今年1月に、江口さんは、短歌の創作の様子と、祖父母の病死と死の看取り、病院や看護士の対応などを厳しく見つめた文章を提出している(私的な内容なので、今は公開しない)。
その洞察、観察の深さ、的確さ。文章の落ち着きと静けさ。それに深く感動した。この人はもう一人でやっていける力を獲得している。それが今回の修了の意味だ。「短歌」が本当に生涯のテーマなのかどうかは、私にもわからない。しかし、いずれにしても「独り立ちする力を持っている」ことは間違いないと判断した。後は実際に外に出て勝負していくしかない。
私の判断が正しいかどうかは、この6年を振り返った江口さん自身の文章で考えてもらえるだろう。

(5)テーマがくるくる変わったのはなぜか

意外にも、くるくる変わったのではなく、「自分の関心は一貫している」というのが江口さんの答えだ。
 「過去6年間の報告や文章を読み直すと、自分の関心は奈良に行った時から基本的に変わっていないのではないかと思った」。
 「自分の興味ある対象に向かって、どう切り込んでいったらいいかわからず、試行錯誤し、時間がかかったように思える」。
「ただ自分の関心をはっきりさせるだけでは足りず、その対象にどう入っていくか、どういう方法で対象を理解するのかが問題になるが、自分が苦労していたのもこの点だったのではないか。イサム・ノグチや日本庭園、民俗学、石、地形など試行錯誤を繰り返したが、やっと「短歌」という方法に出会い、これならいけると思えた」。

もちろん、スムーズにいったわけではない。「無理や強引さや、その時々のテーマの変化の急さ」はあった。しかしそうしたことも含めて、「自分の関心が向けられている対象ははっきりしていて、それに対して手を変え品を変え何とかアプローチしようとしている」ことがわかった。「しかしそう思えたのも、今までの失敗があったからではないかと思う」。
こうした思考法が、江口さんには確立されている。
しかし、結局、「短歌」は最終的な答えなのかどうか。

「石から地形、地形から短歌という変化にどう意味があるということは、今の自分にとっては正直どうでもいい。それは、今いくらかんがえても仕方がないという意味だ。これから短歌の道を進みながら、考えていくしかないと思う」。
この考え方は、ヘーゲルが『精神現象学』の序言で述べていたものでもあり、真っ当だと思う。出した答えが正しかったかどうかは、今後の方向性と活動にかかっている。

江口さんは自分の傾向性を次のように分析する。
「自分の場合、ある対象に心が動かされると、その対象に自分が乗り移りかねないほど、対象にひきつけられてしまう。対象と一体化してしまうとも言えるかもしれない」。
「しかし対象を深く理解するためには、いったん自分と対象を切り離し、対象それ自体として見なければならない。これが自分には苦手で弱いのではないだろうか。例えばイサム・ノグチについても、彼のアトリエで見たままのもの、例えば彼がつくった庭や周りの屋島や五剣山など地形との調和には心が動かされる。しかし、そうしたアトリエを作った彼の人生、時代背景となると、関心が薄れてしまう。総じて歴史、経済、法律、社会に対する興味が片寄って少ない」。

前者は江口さんの最大の武器になるだろう。
そして、後者、特に「歴史、経済、法律、社会に対する興味が片寄って少ない」点は、今の段階ではしかたがないものだ。それはこの6年間の「引きこもり」生活による。

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6月 08

「ふつうのお嬢様」の自立 全8回中の第5回

江口朋子さんが、この春に「修了」した。
その修業に専念した6年間を振り返る、シリーズ全8回中の第5回。

眠りから覚めたオオサンショウウオ (その1)
 ?江口朋子さんの事例から、テーマ探し、テーマ作りのための課題を考える?
            中井浩一
■ 全体の目次 ■

(1)「特殊」の守谷君と「ふつう」の江口さん
(2)江口さんの初心
(3)オオサンショウウオになってしまった
(4)ゼロからの「自分探し」
(5)テーマがくるくる変わったのはなぜか →本号(205号)掲載
(6)「引きこもり」の意味
(7)親からの自立
(8)本当の自立
(9)「お嬢様」の凄み →206号掲載

■ 本日の目次 ■

(1)「特殊」の守谷君と「ふつう」の江口さん
(2)江口さんの初心
(3)オオサンショウウオになってしまった

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眠りから覚めたオオサンショウウオ
 ?江口朋子さんの事例から、テーマ探し、テーマ作りのための課題を考える?
            中井浩一

(1)「特殊」の守谷君と「ふつう」の江口さん

私のゼミで師弟契約の第1号は江口朋子さんだが、師弟契約を結んだ時期は、江口さんと守谷君がほぼ同じで、それから6年ほどになる。
この二人は、正反対の位置にいるように思う。かなり「特殊」なのが守谷君で、「ふつう」なのが江口さんだと思う。二人は、動と静、たえざる運動と引きこもり、外的と内的、躁状態とうつ病的、などと対比することもできよう。
守谷君は、きわめて特殊で、鶏鳴学園以外では「居場所」を見つけられない人だと思う。幼年期から小・中・高校と豊かな(プラス面でもマイナス面でも)経験をし、問題意識も強く、大学時代にもたくさんの活動をし、他の「先生」方にはしっかりと絶望し、その上で私を選び、師弟契約が結ばれた。この6年間も休むことなく、活動と報告と文章を出し続けてきた。守谷君は、1つの理想モデルとして、「わかりやすい」と思う。
守谷君については、最近でも修士論文を掲載した(メルマガ189号?194号)が、それ以前にも大学の卒論と大学卒業までをまとめた文章を掲載した(メルマガ127?129号)。それぞれについての私の評価、コメントも出し(メルマガ130号、195号)、守谷君を事例として「若者の自立のためには何が必要なのか」をまとめている(メルマガ130号)。
江口さんは、守谷君とはまったく違う。守谷君が「わかりやすい」のと比べると、「わかりにくい」のではないか。江口さんは「ふつうの人」「ふつうの女子高生」「ふつうのお嬢様」だった。経験の幅は極端に狭く、私を選んだのも、他のさまざまな人々との比較によるものではない。その意味で、それは偶然だったといえる。そういう人が、なぜ私の下で6年間もの修業にたえ、「修了」第1号になることができたのか。
このメルマガの読者の多くも、「ふつうの人」だと思うので、江口さんの事例の方が自分を重ねやすく、参考になるだろう。また、最近では、10代、20代の若者に「引きこもり」や「ニート」が急増していることを踏まえると、江口さんの事例はきわめて重要なのではないかとも思う。

江口さんは、幼稚園から高校まで同じ私立女子校に通った典型的なお嬢様だ。鶏鳴学園には高校時代に通っていたが、作文を書かせてもたいした経験は出てこない。他者との対立もなく、自己内の葛藤も弱く、めだたない生徒だった。正直にいって、当時は、彼女と将来に師弟契約を結ぶことになるとは夢にも思っていなかった。むしろ、そうした可能性はゼロの人だと思っていた。
慶應の文学部(教育学専攻)に進学したが、大学1,2年のときに、鶏鳴学園で松永さんが行っていた大学生対象の古典の学習会に出ていた。私との関係は、江口さんが大学3年になってからで、鶏鳴学園の研修制度で、現国の読解指導、作文指導を学んでいた。そして卒論は「読むとは何か」をテーマにし、西郷信綱の『古典の影』を参考にした。その卒論の指導は私がした。卒論に専念していた大学4年の夏にはすでに、慶應文学部の大学院にそのまま進学する予定を変更し、私のもとで修業する決意を固めていたと思う。
大学4年の1月から3月にかけて、ゼミで論理トレーニングの学習会を行い、守谷君も参加した。そこでは論理と生き方が結びついていることを強調したが、その学習会を終えてから、江口さんとは師弟契約をし、その後、守谷君も続いた。

こうして見ると、江口さんの変化が見えるようになったのは、大学入学後であり、特に大学3年以降だと思う。
「ふつうの人」「ふつうの女子高生」「ふつうのお嬢様」が、自分自身のテーマを作り、それに生涯をかけて生きていくことになった。現在は、まだまだその入り口のところにいるにすぎないが、それでも大変な変化である。
それはなぜ可能になったのか。その過程にどのような困難があり、それらをどのように克服していったのか。

(2)江口さんの初心

まずは、江口さんの「初心」の激しさを思ってみなければならない。この激しさなしで、師弟契約第1号はなく、ましてや「修了」第1号はありえなかったと思う。
師弟契約第1号とは、契約をした時点で、他に誰もいなく、何の組織も制度もなかったということだ。示せるほどの実績もまだなく、何の保証もなかった。そこにただ一人で飛び込んでくれたのだ。
「今自分の中にある関心、具体的にいうと6年間の文章で関心をひいたものとして取りあげた一つ一つの対象は、どれも本当に自分の心が動き、身体が反応したものである。興味がないのにあるような振りをしたり、ごまかしたものはない。それは、師弟契約をした時にはっきり意識したことで、今まで自分はやりたくない勉強を嫌々やったり、周りに合わせて何となくやり過ごしてきたので、これからはそういうごまかしはしないと決めていた」。
初心の激しさは、それまでの自分の生き方への「否定」から生まれていることがわかる。
「ごまかしはしない」という決意は、最後までゆらぐことはなかった。江口さんの文章には「ウソ」がない、「ハッタリ」がない。ゼミ生の誰よりも、正直な文章だと思う。それは、第1には、この初心によって、つまり過去の自己への否定の強さに支えられていた。

(3)オオサンショウウオになってしまった

その否定の激しさは、江口さんを突き動かし、外的にも急激な変化をもたらした。
 「最初の1年は自分の関心以前に、現状を理解することで精一杯だった。大学院進学を辞め、それまでの友人と関係を切り、親とも話し合いでぶつかるという、それまでと逆の方向に走り始めた自分の状態を、自分で理解するのに精一杯だった」。

 親との話し合いは、私がアドバイスしたことだが、友人関係を切ってしまったのは本人がしたことで、その報告を聞いて驚いた記憶がある。幼稚園から高校まで同じ私立女子校に通ったお嬢様で(大学もその延長)、その外の世界を知らない江口さんにとって、その友人との関係を切ることは、世界との唯一の関係を切り、全く孤独になることを意味する。

江口さんは、一方では自分がつんのめりそうなまでに前のめりになって突き進んでいき、他方では「認識」がそれについていけず、何が起こっているのかわからないために、不安で恐くなることも多かったと思う。
その頃、江口さんは地球の生成と発展、生命の誕生と生物進化の過程に強い関心を持っていた。そして生物進化の本流からおりて、休んでしまったようなオオサンショウウオに自分を重ねていたようだ。
 「私は師弟契約をしてゼミで学ぶようになってすぐ、地球の進化に興味をもち、それについて書いた文章で中井さんから『発展を問題にしている』と言われた。その後も同じことを度々言われたが、自分では『発展』という言葉をどこかで避ける意識があった。今思うと、発展するということは、矛盾が露わになること、問題が起こったりそれに伴う苦しさから避けられないが、そうした自分に迫ってくるものから逃れたいという気持ちが強かったのだと思う」。

それまでの自分を否定する時は、その否定が強ければ強いほど、それへの抵抗も激しくなる。内部の矛盾は激化する。人生で初めてのことに、江口さんはどうしてよいかわからないままに、しかし、直感的に、自分を重ねられるオオサンショウウオを見いだし、自己相対化をはたしていたのだろう。
オオサンショウウオが他の生物たちとの進化の競争路線からはおり、一人うずくまってしまったように、江口さんも、友との関係を切り、徹底的な「引きこもり」を始めたとも言えよう。それは結果的に正しい戦略だったのではなかったか。