4月 11

家庭、親子関係を考える その3 「依存」と「自立」と 10月の読書会から

斎藤学『アダルト・チルドレンと家族』(学陽書房)をこの秋にも読書会で取り上げた。この本は親子関係が子供の人生に決定的な影響を与えることを示した点で、またアダルト・チルドレンという命名で、この問題にわかりやすいイメージを与えた点で、社会的に大きな影響力を持った。悪い親子関係は、その子供が親になることで拡大再生産されること、アルコール依存症や暴力に関して、夫婦間での依存関係を明らかにしたことなど、本書の功績は大きいと思う。
もちろん、そこには大きな限界もある。アルコール依存症や家庭内暴力などの「悪い」特殊な親や家庭だけが問題になっていて、一般化ができていないことだ。しかし、一部の「悪い」親や「悪い」家族関係だけが問題なのではなく、「良い」ケースも含めて、すべての親子関係で、親の子供への影響力が圧倒的に大きい(9割は親の影響ではないでしょうか)ことが核心的な問題ではないか。そこでは、良くも悪くも、親子の一体化が起きている。子供は親からの影響をどう相対化し、自分の生き方を選択できるのか。それが真の「問い」であり、真の課題だ。本書の例はその特殊例でしかない。
しかし、今回言いたいのは、そのことではない。「依存」「共依存」の用語法についてだ。これが一見わかりやすいようだが、誤解を与える表現ではないかと思うようになった。
これは、「アルコール依存症」という用語から来ているとおもうが、この本では「依存」即「悪」、「共依存」即「悪」、であるかのような使用法が行われている。

「依存」と「自立」は確かに正反対の言葉だが、実際の関係性においては、両者は対立するだけではなく、深く結びついてもいる。「アルコール依存症」からして、「依存」即「悪」なのではなく、「自立」の面が大きく損なわれた特殊な「依存」症状を問題にしているだけなのだ。
人間はそもそも「社会的な動物」なのだから、すべての人間は社会に、つまり他者に依存して生きている。また、「恋人」「夫婦」などの社会から一応は「閉じた」二人の関係でも、「依存」と「自立」はもちろん切り離せない。「依存」即「悪」といった用語法やイメージは、この面を見られなくするのではないか。
自立した関係とは、依存していない関係ではない。むしろ相互に正しく依存していることが、相互に自立できていることに他ならない。自立と依存は切り離せないのだ。
「依存」か「自立」か。この問題設定は間違っている。「どのような依存が真の自立につながり、どのような依存が自立につながらないのか」。これが正しい問題の立て方だ。
甘え合い、依存しあうことが問題なのではない。その関係が、病をますます悪化させていること、例えれば、デフレスパイラルに陥って抜け出せないような状態になっていることが問題なのだ。それは「間違った」依存関係だから「間違い」なのだ。
この2人の「自立」と「依存」の関係が、家族としては社会に対して「開かれた」家族か、「閉じた」家族かの問題に重なる。ここでも、家庭や夫婦関係が社会から「閉じる」ことが問題なのではない。その「閉じ方」が、正しく社会に「開かれる」ことにならないような関係が問題なだけなのだ。
こうした間違いは、ソ連の社会主義革命の初期にかなり広がったし(ライヒの『性と文化の革命』参照)、1970年代の共同体運動にもかなりあった。
斎藤環が『社会的ひきこもり』で、家族内の個人、家族、外の社会の3者を3つの円でとらえたシステム理解図は大いに有効だと思うが、それはこの3者の他の2者への「開かれ方」=「閉じ方」の全体を見渡す視点を提供したからだ。閉じていることは大前提で、その上に「開かれ方」=「閉じ方」を問うている。
私は、しばしば母子一体化の問題を取り上げ、そこでの共依存関係の問題を指摘する。親には「子離れ」を求め、子どもには「親からの自立」を求める。しかし、母親が子供を生きがいにすることが即悪いのではない。子どもが親に依存していることが即悪いのでもない。その反対の悲惨な例が「児童虐待」である。大切なのは、今の視点と共に、子育ての全体の過程を通して、子どもの自立のあり方を考えることなのだ。そこで問われるのは、そもそも「子どもとは何か」「家族とは何か」「夫婦とは何か」「その目的は何か」である。こうした本質論抜きに、状況や方法だけを論じていてもダメなのだ。

問題を、「依存」か「自立」かといったスローガン形式で示すのはわかりやすく、問題をはっきりと自覚するために有意義に見える。しかし、その結果全体を見失い、両者の根底的な関係とその本質を見失えば、かえって混乱が大きくなるだろう。問題を的確な表現で捉えなければならない理由がわかっていただけるだろうか。善意か否かには関係なく、低い論理能力は低い結果しかもたらさないだろう。

4月 11

家庭、親子関係を考える その4 堺利彦の「家庭論」 

(1)堺利彦の「家庭論」

 鶏鳴学園で大学生たちと行っている読書会で、堺利彦『新家庭論』(原題『家庭の新風味』講談社学術文庫)を読んでみた。
 堺 利彦(さかい としひこ、1871年(明治3年) – 1933年(昭和8年))は、明治から大正、昭和初期にかけて活躍した社会主義者・思想家・小説家である。
 『家庭の新風味』は明治34年から35年に書かれている。つまり日露戦争の2年前であり、日本が富国強兵を押し進め、上昇機運に乗っていた時だ。多くの人々は日本がなんとか西欧の諸国と肩を並べられるようになってきて、慢心するようになっていた。工業力や軍事力は大きく伸びたが、一方で貧富の格差が広がり、労働者は苦しんでいた。その時に、社会主義者が家庭の実用書を書いたのだ。もちろんそれは、原理原則の書でもあった。

(2)進む親子の一体化への歯止めを

 本書を読む気になったのは、最近の家庭における親子の一体化、子どもを親の所有物化している風潮への、私の強い危機感があるからだ。
 昨年秋に教育専門誌からモンスターペアレンツ(学校への理不尽なクレームや要求をする保護者)についての寄稿を求められ、本書を思い出した。
 モンスターペアレンツが急増している背景には、明らかに家庭の変質、親子の一体化の問題があるように思う。盛んに報道されている「子どもの親殺し」「親の子ども殺し(児童虐待や育児放棄)」にも、この問題が横たわっているだろう。
 昔から「わが子」という言い方があった。親にとって子どもは自分の所有物のように感じられるようだ。そこに他者が入ることのない一体の関係。これは無償の愛ともなるのだが、自他の区別がなく、子どもが別人格であることを理解しないことにもなる。現代はこうした親子の一体化、共依存関係が進行しているために、子どもの親離れ、親の子離れが極めて困難になっているのではないか。
 他方で、この数年でビジネスマンの父親をターゲットにした子育て情報雑誌が多数出版されるようになった。経済紙誌の「お受験キッズ誌」だ。私立中高一貫校の受験に成功した子どもの家庭を紹介し、受験情報を提供する。
 これは児童虐待とは反対のあり方に思われる。しかし、親子一体の強化という意味では同じ事態が進んでいるのではないか。これまでの母子一体化に父親までが加わったのだ。母子一体化を壊す役割は、他者(社会)を代表する父親が担っていた。その父親までが家庭の一体化に加担してしまうと、そこには他者がいなくなってしまう。親離れ、子離れが極めて困難になっているのだ。
 こうした一体化への歯止め、抑制を可能にする論理は何だろうか。それを考えるとき、堺利彦の「家庭論」が思い出されるのだ。初めて読んだのは25年以上前になるのだが、それ以来、私の中に「子どもとは次の時代の働き手」という定義がしっかりと根を下ろしている。私自身が二人の子育てをしながら、「子どもは親の所有物ではない。子どもは次の時代の働き手であり、社会(人類)からの預かりものである。したがって、別人格として尊重し、大切にしなければならない」との堺のテーゼを時々思い出しては、拠り所にしてきた。愛情に溢れた温もりのある家庭、しかしそれは私的で閉じている。それに対して対抗できるのは、社会や人類の立場からの論理しかない。
 今は親子の一体化が強まっている。その時に、堺のテーゼはますます有効性を増していると思われる。確固たる原則がなければ、子どもかわいさという感情に流されるだけだろう。
 「子どもとは次の時代の働き手」ということは、私たちは現在の時代の働き手であり、人類とはそのように前の時代の遺産を継承し、より発展させて次につないで生きてきたことを意味する。それは人類史上に自分を位置づけ、労働を自分の使命と自覚することと結びつく。
 若者のフリーター、ニートが急増していることが話題になって久しいが、それももちろんこの問題と関係するだろう。若者の間に、仕事における自己実現を求め、「自分探し」をしているような風潮が流行っているようだ。しかし「自分探し」とは自己理解を内化によって成し遂げようとする低い考えだ。本来は、「自分作り」という外化によってこそ内化も可能になると思う。そして「自分作り」は自己理解の範疇内に限定されてはならない。そもそも、自己理解は、他者や社会全体の理解と一体になって可能になるものだ。つまり、自己理解とは、自分が社会でどのような役割をはたせるか、自分の労働の意味を考えることと切り離せず、それは自分を「次の時代の社会の働き手」「労働力」として「作る」ことを意識しない限り不可能だろう。
 社会や人類史を視野に入れず、「自分探し」しかできないでいることと、子どもの自立を促せないでいる親子関係は一対のものなのだ。
 

(3)家庭と社会との矛盾

 堺の『家庭の新風味』は夫婦論・家庭論から家庭の家事や育児や娯楽までを述べた「実用書」だ。しかし、「子どもとは次の時代の働き手」という「人類発展の立場」からすべてを論じ尽くしている理論書でもある。その意義についてはすでに述べたが、当時も家庭のあり方が大きな問題になっていたのだろうか。
 今回全体を通読してみて、すべてに貫かれる論理の力強さ、自立と人間平等の思想、世間をよく知った大人の知恵に心打たれた。しかし、道徳的な平板さも強く感じた。悪や対立、矛盾が、発展に必要な媒介、過程としてとらえられていないということだ。
 例えば、夫婦間の親愛を「相見る」「相思う」から「相化する」「相合す」までの発展の10段階で示している(第4冊の第2章)。しかし、その段階の高まりは平坦に進むものではないだろう。夫婦間には様々な対立、葛藤がおこり、それを克服することで次への高まりが可能になるのではないか。それが明示されない。また、最終ゴールが一体化だというのは適切だろうか。夫婦には理解が進み一体化する一方で、互いの孤独がかえって深まる面もあると思う。そうした距離感も大切にしたい。それと関係するが、「夫婦間には秘密があってはならない」との指摘にも疑問がある。戦友としての夫婦の戦場に関することは別だが、二人が適切な距離を保つためには、秘密はあった方が良いと思う。その方が人生は面白くないだろうか。
 こうした平板さは、家庭を「理想社会のひな形」として、その理想のあり方を次第に発育成長させ、ついには全社会に及ぼす、といった堺の言説(282ページ)に最もよく現れている。『君たちはどう生きるか』の吉野源三郎も同じ様な主張をするが、それはあまりにも単純化しすぎた表現ではないか。家庭と社会との間には、一般化したり、広げたりするには、あまりにも大きな隔絶、矛盾があるのではないだろうか。
 国家間にも、国家内部の社会にも争いがあり、強盗、殺人、詐欺、脅迫、賄賂など、無数の悪徳が行われている。「その中にただ一つきれいな清潔な平和な愉快な、安気な、小さな組合がある。それが家庭である」。「夫はわが身を思うがごとく妻を思い、妻はわが身を思うがごとく夫を思い、親はわが身を忘れて子を思い、家族はたがいにわがままを控えて人の便利を計る」。「将来の社会は、一国家にせよ、全世界にせよ、すべてこの家庭のごとき組合にならねばならないと思う」(以上281,282ページ)。
 確かに、家庭では相互の親愛や理解が簡単で、社会ではそれが難しい。家庭は血縁で成り立っており、親子の愛情は血縁という自然性の上に成り立っているからだろう。それに対して赤の他人同士には自然性に基づく親愛の根拠はない。そこには混乱、悪、犯罪が横行する。
 そこで、血縁や地縁関係で結ばれた関係を全社会に、全世界に及ぼすことで、諸々の問題が解決できると夢想したい。その気持ちは理解できる。人類を一家に例えたり、「人類皆兄弟」と唱えたりするのもわからないわけではない。
 しかし、それは根本的には間違いではないか。その間違いは、親子や地域の自然な感情を全肯定するように見えるところにある。否、本当は全肯定しているわけではないのだろうが、そのようなイメージに乗っかっている。そこには問題があるのではないか。
 そもそも血縁関係は、ただ肯定されるだけで良いものだろうか。それは自然性に基づくだけに、無私の愛情を可能にするが、他者に対しては閉じた関係なのだ。地域の自然な仲間意識も、他者を排除した関係である。また閉じた関係であるがゆえに、核家族化と少子化が進むと、親子の一体化や親の子どもの所有物化を妨げるものがなくなる。
 その閉じた家庭や地域共同体に対して抵抗できるのは、他者に開かれた自由な関係、一般社会(近代以降の市民社会)だけなのではないか。社会には確かに、他者同士の金や権力をめぐる争いがあり、無数の悪が行われているが、家庭や地域の閉鎖性を超えているという側面がある。閉鎖した関係より、市民社会の方が高い段階にあることを見逃してはならないだろう。
 もちろん、社会的な混乱、不正は確かにある。そしてその克服のために、社会主義的な思想が生まれている。しかし、その解決を家族主義的、地域主義的に理解することは後ろ向きであり、本来の方向ではないだろう。むしろ、家庭という直接性を否定し、そこで生まれた市民社会の矛盾をさらに克服することで生まれる社会、それが本来の理想社会だったのではないか。
 確かに否定の否定は最初のものへの環帰になるのだが、家庭と社会との関係は一直線に結ばれるものではなく、二回の否定で媒介されていることを弁えなければならないだろう。
 もちろん、堺も吉野源三郎も、そんなことはわかっている。わかった上で、人々にわかりやすいイメージを与えようとしているのだろう。しかし、家庭という愛に溢れた平和な共同体を社会全体に拡大しようというイメージは、その家庭の自然性が否定され、克服されなければならないという厳しさを、忘れさせてしまうのではないか。むしろ、血縁関係の否定面を強調する必要もあるのではないか。

(4)子どもとは家庭と社会の矛盾を克服するシンボルだ

 もちろん堺がこうした矛盾に触れていないわけではない。例えば、親の子どもへの愛情でも、父親と母親の違いを堺は述べている。
 「母親の子への愛は本然の愛(自然の愛)」で「父親の子への愛は自覚の愛」だと言う。母親も「本然の愛」の他に「自覚の愛」を持っている。そして、動物と人間の違いは「自覚の愛」にこそあると言う(208ページ)。母親の直接的な愛情は、一旦は否定されなければならないということだ。しかし、その否定はどこから生まれるのか。自覚からだ。何の自覚か。夫婦間の親愛が「相化する」「相合す」にまで高まって具現化したのが子どもだという理解だ、と堺は言う。さらに言えば、「子どもとは次の時代の働き手」だという認識だろう。
 この自覚は、親自身が社会で働くことで、自らを「現在の時代の働き手」であることを自覚し、人類史の中に自分を位置づけることから生まれるだろう。
 この父親と母親の愛情の違い、立場の対立を考えると、家庭とは実は大きな矛盾であることが分かる。そこには血縁関係だけではなく、他者同士の関係が含まれるからだ。そもそも夫婦からしてもともとは他人同士なのだ。それが夫婦になり、子どもという血縁関係を生む。しかし離婚すれば、夫婦は他人同士にもどる。しかしその時でも親子の血縁関係はそのまま続く。
 実は、この矛盾が「嫁姑問題」をも引き起こしている。母親と息子という血縁関係に他者(嫁)が侵入したために生まれているのが、この問題なのだ。
 そして、堺はこの「嫁姑問題」に有効な解決案を出せないでいる。せいぜい、別居を勧めるだけだ。ここにも原理的な解決策を打ち出すべきだったろう。
 また、堺は夫婦それぞれの出身階層の違いの問題に触れない。「上流家庭の家風」を批判するだけだ。これは堺が「健全なる中等社会」だけを相手にしているせいかもしれない。しかし、「中等社会」内にも階級の区別はあるし、他者である二人にとっての強固な「他者性」とは互いの階級固有の価値観、感性の違いだろう。それはどうやって克服できるのか。
 こうした矛盾は、実は「子ども」という存在に集約されている。他者同士である夫婦を親子の血縁関係で強固なものにするのも子どもである(子はかすがい)。しかし、家庭の中で親の愛情を一身に受けて育ちながら、両親から自立し、社会に出ていってしまうのも子どもなのだ。それによって「次の時代の働き手」となる使命を果たすために。
 子どもには、こうした矛盾が集約されている。それは何と不思議な存在であることか。私達大人が、両親が、子どもたちを尊重し、大切にしなければならないのは、彼らが「次の時代の働き手」であるからだが、それだけではあるまい。子どもたちはこの人類社会発展のための矛盾の体現者であり、その克服のシンボルなのだ。私達は子どもの使命の厳粛さに頭を垂れるのだが、それは私達自身の使命の厳しさを噛みしめることになるはずだ。
                          2008年4月2日

3月 29

シリーズ:「聞き書き」を
学び合う 第9回 
高校作文教育研究会4月例会

高校作文教育研究会は、一昨年秋から2年ほどの予定で、会のテーマを「聞き書き」として、聞き書きの可能性、授業で実践する際の具体的手だて、その課題などを検討しています。

この間、私たちの例会や全国大会に、各地の中学、高校のすぐれた実践家10人ほどをお招きし、みなで共同討議をしました。聞き書きに関するさまざまな課題について、生徒作品を丁寧に読みながら、具体的に考えてきました。

その成果は、昨年6月から雑誌「月刊 国語教育」に連載中です。

4月の例会では、冨田明さんの実践報告以外に、聞き書きの歴史や理論を考えます。
歴史から私たちは学ばなければならないはずですが、じっさいはそうなっていません。そのために過去の失敗を何度も繰り返し続けています。すぐれた実践や、そこから生まれた問題提起から学んでいきたいものです。今回、程塚英雄さんからは70年代の実践についての総括、古宇田栄子さんからは80年代始めの中学の実践が紹介されます。
また、理論的には文体の問題が大きいのですが、これはまだ手つかずで放置されている問題です。少しずつでも切り込んで、考えたいと思います。
新しい学習指導要領では、「全教科での言語活動の充実」と「国語科がその中心で指導する」ことが謳われています。それが稔りのあるものになるためにも、私たちの学習を進めていきましょう。
 
どなたでも参加できる研究会です。どうぞお気軽にご参加ください。

1 期 日    2010年4月18日(日)10:00から16:30

2 会 場   鶏鳴学園御茶ノ水校
         東京都文京区湯島1の9の14  プチモンド御茶ノ水301号
         電話 03(3818)7405 JR御茶ノ水駅下車徒歩4分
       ※鶏鳴学園の地図はhttp://www.keimei-kokugo.net/をご覧ください

3 報告の内容
(1) 聞き書きと文体を考える 
        鶏鳴学園 中井浩一
聞き書きを実践していると、必ず文体の問題にぶつかります。前回の機関誌ではそれについての私見を書きました。それに対して、程塚英雄さんなど複数の方々から意見が寄せられています。それを紹介しながら、この問題を考えたいと思います。

(2) 70年代の教育実践を振り返る
               茨城キリスト教学園高校 程塚英雄
70年代には鈴木正気さんや程塚英雄さんをはじめとして、茨城県ではすぐれた実践が多数行われていました。その総括を行うために茨城県教育科学研究会主催のシンポジウムが開催され、それが『教育』1981年1月号に掲載されています。
そのシンポジウムに参加した程塚さんから、ご自身の初期の実践を振り返ってもらい、その総括の意味を報告してもらいます。(中井記)

(3) 職業人への聞き書き
               神奈川県立有馬高等学校 冨田明
 2年生の夏休みに聞き書きの課題を出しました。
 1年次の青春時代(できれば戦争体験)の聞き書きにつづき、二度目の聞き書きの課題です。このときは3枚程度以上の条件を出しましたが、多くの生徒は3枚しか書かず、表面的なレポートになっていました。それに対して今回は枚数制限無しにしたところ、10枚以上書いて提出した者もいました。前年度はクラス文集・学年文集とつくっていきましたが、この年度はよくできたレポートをクラス別に選抜したプリントをつくり、授業で読み合わせをしました。
 それらの作品プリントを読み、問題点を報告したいと思います。検討をよろしくお願いします。

4 参加費   1,500円(会員無料)

6月の例会の日時と報告(の一部)が決まりました。

6月27日に例会を行います。
高校における「ディベート」についてみなさんと考えたいと思います。

報告者はもう20年近く、実践を積み重ねてきた杉浦正和さん(芝浦工業大学附属柏高校の社会科担当)と、杉浦さんとともに、県立小金高校などで実践されて、現在は大学の教職課程を指導されている和井田清司 さん(武蔵大学人文学部)からの報告があります。
 
お二人が編集した単行本には以下のものがあります。
◆生徒が変わるディベート術 国土社 1994
◆授業が変わるディベート術!―生徒が探究する授業をこうつくる 国土社 1998

3月 17

半年の予定で、月刊『高校教育』誌に「高校での『言語活動』の充実のために」という連載を始めました。新しい学習指導要領の問題提起を受け止めようというものです。
4月号では以下を書きました。

第一回 「国語科」とは何か  (軽視されてきた「形式」)
                         鶏鳴学園 中井浩一

1 新学習指導要領が私たちに問いかける問題

新たな学習指導要領には画期的な点がある。1.全教科での言語活動を求め、2.その中心に国語科を位置付け、3.高校生の体験、現場調査(フィールドワーク)を重視したことだ。
これを正面から受け止めるならば、その衝撃力は、前回「総合学習」が入った以上のものになるはずだ。なぜなら、この本当の意味は(1)全教科に「総合学習」を行うことを求め、(2)従来の教科の壁を壊し横の連携を求め、(3)「国語科」とは何かを初めて真っ正面から問題にしたからだ。

新学習指導要領のこの大きな変化は、もちろん現在の教育課題の大きさ、深刻さ、緊迫度に対応するものだろう。しかし、前回の「総合学習」の導入時と同じことが懸念されるのも事実である。つまり、条件面(人、物、金)の不十分さである。学校内の体制、教育委員会の支援体制が弱いのではないか。何よりも、学校現場の先生方の意識と能力に大きな疑問符がつく。矛盾はさらに大きくなるかも知れない。

しかし、現状を何とか変えて、より良い教育を実行しようとしている管理職や一般の先生方には、大きなチャンスであり、追い風であることは間違いない。これから半年間の本連載では、そうした方々を支援するために、具体的な課題のいくつかを明らかにし、その解決の方向を示したいと思う。「総合学習」が導入された時にも、本誌に「総合学習の現状と課題」を連載させていただいたが、それと同趣旨のものだ。

2 今の高校生の課題は何か。

校長先生以下、管理職の方々にとって、学習指導要領が変わるときこそ、学校現場を変えていく大きなチャンスだと思う。今回は、教科の厚い壁を壊し、全教科の横の連携をうながし、学校全体でその教育目標に取り組むことを求めている。

 だからこそ、それぞれの学校の教育課題、教育目標を再度確認する必要があるし、そこから始めるべきだろう。それぞれの学校の課題は、読者のみなさんに考えていただくとして、私は少し一般的な話をしたい。

今の高校生に広く見られる問題とは、将来像がなく、親からの自立が進んでいないことだろう。それゆえに彼らは「自分」に自信がなく、他人に評価されないと不安でたまらなくなるようだ。その依存心、依頼心はますます強まっている。

 こうした原因としては、1.「豊かな社会」が実現し、社会自体が目標を見失っていること。2.体験の貧弱さ、現実社会の問題の見えにくさ、親子の一体化。3.自己決定=自己責任が求められる厳しい社会になったが、それに相応しい教育が行われていないこと、などが挙げられよう。

 そこで、根本的な対策が問われるのだが、まず教育目標としては「自分作り」を高く掲げなければなるまい。今の高校生は「自分」が弱い、または「自分」がないのだから、それを作り上げるしかないのだ。世間では「自分探し」なる言葉がはやっているが、「探し」て見つかるようなレベルのものではあるまい。「自分」とは、高校生一人一人の問題関心、「問い」、テーマのことである。それを獲得するには厳しく長い学習の過程が必要だろう。

 では、そのためにはどうしたらよいのか。1.個人的な体験を掘り起こし、個人的な体験の意味を考えさせること。しかし、1だけでは不十分だ。2.現実社会(自然も)の問題にぶつからせ、その問題の本質を考えさせること。3.その問題と、自分の生き方を関係させて考えさせること。

 以前は?だけでも自分のテーマを見いだすことができたが、現在はそれは難しい。だから現実や社会の現場に連れ出し、そこで現実と格闘している人々と「出会う」経験をさせることが必須になっている。

 こうした背景を考えるとき、今回の学習指導要領の有効性、その「追い風」の意味が明確になるだろう。私もまたこの連載で、「自分づくり」の方策を具体的に明らかにしていきたい。

3 「国語科」とは何か
 
私自身は長らく、高校生を対象とする国語専門塾で国語を指導してきた。そして世間で行われている国語教育への疑問を感じ、それに変わる教育方法を模索してきた。そうした私には、今回の学習指導要領は深く頷けるものがある。

私の国語科への疑問とは、それが事実上「文学」教育、「道徳」的な教育、マニュアル教育になっていて、本来の使命を果たしていないのではないかということだ。内容を教えようとしていて、形式(「型」の重視)の指導が弱すぎるのではないか。「答え」が重視され、「問い」を立てることが軽視されていないか。感性・感情(共同体の空気を読む=集団と一体)を学習させられ、論理=思考(集団との一体感を壊すことも恐れず、異論をぶつけ合い、本質理解を深める)が指導されていないのではないか。そこで学ぶ一般的な知識が、自分自身や現実社会と十分には関係づけられていないのではないか。

以上国語科の問題として述べたが、実はこうした問題は他教科でも同じであり、そうした矛盾が国語科の特殊性故に、国語科に集中する面があるのだろうと思う。

今回の学習指導要領で、そこに初めてメスが入ることになる。良いことだ。全教科の言語活動を国語科が指導する。そんな力は、今の国語科にはないだろう。その現状を、まずはしっかりと見つめ、学校全体で言語活動への取り組み方を考えていかなければなるまい。

それにしても、国語科とはそもそも何を教育する教科なのか。他教科とは何が違うのか。私は学習の事柄をその内容と形式に大きく分け、国語科以外の教科はすべて「内容」中心、つまり「知識」の獲得に重点がおかれ、国語科だけが「形式」を主に学ぶ教科ととらえるのが正しいと思う。「内容」中心ということは、つまり「知識」の獲得に重点がおかれることだ。国語科だけが「形式」を学ぶ教科だということは、国語科は「思考・論理のトレーニング」「型の学習」をする場であり、「知識」の「運用能力」を獲得する場だということだ。

 内容=知識 → 国語科以外の全教科
 形式=思考・論理のトレーニング=能力 → 国語科

 しかし、世間では「形式」は極めて評判が悪い。それは空虚なもので、内容となんの関係もなく、外的で装飾的なものでしかない。そうした理解が一般的だ。(だからこそ、「無内容」な国語科にも何か内容を求め、他教科にはないものを探した。その結果が、今の「文学」教育ではないだろうか。)

ところが、真実は世間の理解とはまるで逆なのだ。形式(「型」)こそが物事の核心であり、形式なしに内容を学習することはできない。例えばテキスト理解だが、その内容(イイタイコト)は、形式を読むことで、初めて的確に深く理解することができる。逆に言えば、深く正確に考えるには、思考・論理のトレーニングが必要なのだ(詳しくは拙著『日本語論理トレーニング』講談社現代新書を参照されたし)。

どうして日本では問題解決型の教育ができないのか。内容主義は「答え」を教え込むことになりやすく、「問い」を出す力を育てる形式の学習が弱いからだ。これは国語科だけの問題ではない。実は、どの教科の中でも、内容の面と形式の面があり、いずれも内容に大きく偏っていると言える。国語科が本来の使命に立ち返ることは、他教科内部の形式面の重視につながるだろう。

実は、この形式軽視の問題は、もっと基本の部分にまで広げて考えなければならないだろう。生徒の生活習慣、学習習慣、挨拶や礼儀、ルールや規律などだ。それがここまで崩れてしまったのはなぜなのか。もちろん、一部にはこうした形式を重視し、その指導に勤める方々がいる。しかし、その指導もまた「内容主義」的に、上からの押しつけ的になっていないだろうか。まことに、病は重いのである。

4 理科や社会のレポートと国語科の表現とはどう関係するのか

話をもどそう。国語科とは何を教育する教科なのか。他教科とは何が違うのか。これが今後、具体的に問われることになる。例えば、理科や社会のレポートと国語科の表現とはどう関係しているのか、関係すべきなのか。これに明確に答えられる人がいるのだろうか。例えば、事実や客観性重視が理科や社会科、「思い」や生徒の主体性重視が国語科だ、という見解がある。読者のみなさんはどう考えるだろうか。
 
ディベートについてはどうだろうか。社会科や英語で取り組まれているようだが、国語科の関わりはどうか。理系や英語などではレポートなどの指導でパラグラフ・ライティング(パラグラフ理論)を取り入れるところが多いようだが、国語科では無関心なようだ。こうしたことはどう考えたらよいのだろうか。

次号からは、こうした点を取り上げて、論点を整理し、具体的な解決策を提言していきたい。実は、私は一〇年以上にわたって高校段階の表現指導の研究会を組織してきた。そこでは国語科だけではなく、理科、社会、数学、英語、家庭科などの先生方とともに、研鑽を重ねた。その成果もお伝えできればと思う。

3月 15

3月6日の週刊『東洋経済』誌で塾、予備校の特集があり、鶏鳴学園も紹介されました。