11月 02

みなさん、お元気ですか。
台風が毎週のように来て、雨が多い10月でしたが、
この数日は、気持ちの良い秋晴れが広がっていますね。

11月と12月の読書会テキストが決まりましたから、連絡します。

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◇◆ 11月、12月の読書会テキスト ◆◇

許 萬元 (著)
『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』 (大月書店1968年)
を読みます。

9月の読書会で取り上げたのですが、
内容がありすぎて、1回では終えられませんでした。

そこで、11月と12月の2回をかけて、丁寧に読んでみることにします。

11月は2章から5章まで
12月は6章と7章

『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』は刊行が古いですが
アマゾンで中古品で簡単に入手できます。

本書はヘーゲル哲学の発展観を深い理解で提示してくれます。
発展とは何か
その「始まり」「途中」「終わり」とは何か
認識と実践とはどう関係するか
など

最重要なテーマが取り上げられています。

◇◆ 2017年11月以降のゼミの日程 ◆◇

基本的に、文章ゼミと「現実と闘う時間」は開始を午後5時、
読書会と「現実と闘う時間」は開始を午後2時とします。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。

なお、「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

11月
 5日(日)文章ゼミ+「現実と闘う時間」
 19日(日)読書会+「現実と闘う時間」

12月
 2日(土)文章ゼミ+「現実と闘う時間」
 16日(土)読書会+「現実と闘う時間」

                                        
                                       
◇◆ ヘーゲルゼミ ◆◇

毎週月曜日

原書購読と日本語テキストで読む時間があり、
原書購読は午後5時から、小論理学の24節を読んでいます。
日本語テキストの時間は午後7時過ぎからで、
原書購読に関連する日本語文献を読んでいます。
 
                                       

10月 11

10月の読書会の追加テキストの案内をします。

10月22日(日)読書会テキストは

『アンティゴネー』 (岩波文庫) ? 2014/5/17
ソポクレース (著), 中務 哲郎 (翻訳) 

です。

ギリシャ悲劇の古典を読むのが目的ですが、

中井ゼミのメンバーが来春にこのテキストを上演することになったので
それを側面支援する目的もあります。

今、今回の読書会のための準備をしているのですが、
読書会テキストを追加することにします。

『演劇とは何か』 (岩波新書 赤版32)
鈴木 忠志 (著)
です。

アマゾンで
中古で安く、簡単に入手できます。

これは文字通りのテキストですが、
演劇の本質論を展開し、
現代のわれわれがギリシャ悲劇を上演し、それを観ることの意味も検討しています。
今回の読書会では、ギリシャ悲劇の古典を読むだけではなく、それを観ることの意味までを検討したいと思います。

9月 28

2017年の夏合宿の報告です。
感じられます。
それはそのままに、ヘーゲルやマルクスの学習を深めていきます。

6人の参加者の感想を掲載します。一部仮名です。
昨日に続いて
残りの3人です。

■ 目次 ■

4.人は自らの中に否定=限界を持つ  田中 由美子
5.自分の心の動きを意識する  黒籔 香織
6.存在論の中にある発展の論理  松永 奏吾

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◇◆ 4.人は自らの中に否定=限界を持つ  田中 由美子 ◆◇

 合宿では、ヘーゲルの発展の論理を、論理学のはじめの存在論などから学び、
人はどのようにして成長することができるのかを考えた。

 まず、自分が何者なのかということは、自分はこれこれの人間ではないということでもある。
どういう人間であって、どういう人間ではないのかというその限界が、その人が何者であるのかという規定である。
つまり、存在することのなかに否定や他者が含まれている。否定がなければ何も存在し得ないと言える。

 そうして人は自らの中に否定を持ち、そこに矛盾があるから、他のあらゆるものと同様、必然的に運動し、
変化する。自分ではないものへと変化し、しかし、それは元々自分の中にあった否定的な存在、
まだ外化していなかった自分が引き出されたのでもある。

ただし、その変化がたんに偶然的で、納得づくのものではない場合は、人は同じレベル内を虚しくさまように留まり、
自分をつくり上げるような成長にはならない。

しかし、人はその虚しい悪無限という限界も超えていくことができる。自分の限界を自らに対してはっきりさせ、
つまり限界を納得づくで、自覚的につくり出していくことで、人は人として成長する。自分の中の自らそのもの
である限界を探り当て、引き出し、明らかにすることが可能だ。そうして自分の中から自らつくり出した限界だから、
人はそれを超えていくことができる。その矛盾の運動を、自分のゴールに向けて何回でも繰り返し、深めることができるのだ。

 具体的には、何を目的やテーマとして生きて、そのために誰とどのように関係していくのかを、自分自身から引き出し、
その他者に現れた自分を超えていける。そうして自分自身、すなわち自分のテーマをどこまでも深めていける。
 今回の学習から、そう理解した。

 そのことをもとに、塾の仕事での現在の課題の一つを考えてみた。
生徒がおかしなことをしていたら批判をするが、腰が引けてしまうことがある。特に、生徒が自分の経験を
ていねいに作文に書いてきたときに、その内容、本人の言動に問題があっても、精一杯正直に書いたこと自体を
受けとめるところに偏りがちである。

世間には子どもをほめるべきだ、そのありのままを肯定すべきだという主張があふれているが、どう考えるべきなのか。
中井さんは、否定や批判がダメだという考えは、その否定が人間の外からのものだという誤解に基づいていると話した。

はじめに書いたように、否定や限界は人間の中にある。つまり、子ども自身の中に、今のままの自分では嫌だ
という思いがある。たとえば、子どもがいじめを正当防衛だと主張すれば、そのことに気をとられがちだが、
表面に表れていることの奥に、子ども自身の自らの否定、限界が生まれてきている。正に子どものその思いを
感じるからこそ、その上に強い批判は必要ないだろうと考えがちだ。しかし、その思いの意味をどれだけ深い
レベルで認めて光をあてることができるのかが問われるのだと思う。

◇◆ 5.自分の心の動きを意識する  黒籔 香織 ◆◇

1.合宿全体

2014年夏以来、3年ぶりに合宿の4日間すべてに参加ができた。予習をする余裕はなかったが、原書講読から
参加できて良かった。自分自身に対しても「合宿に4日間参加する」と意志を貫けて良かった。自分の中に
出てきた欲求、意志を周りに流されずに、捉えて自覚し、行動することを積み重ねていきたい。

合宿は、自分の中で竹の節のように区切り、制限(Shranke)を作る場で、自分の今の状況を確認する場として
とらえている。逃げ場がなく、自分自身を追い込める場との認識があった。自己確認の場として今回の合宿を
振り返ると、おおむね仕事としては順調であることが分かった。

一方課題としては、相手に分かるように的確に話をまとめられないことと、矛盾を捉えて、その矛盾を全面的に
押し出して展開した文章を書くこと。そもそもこの矛盾を捉えることがまだまだできない。矛盾を捉えられないから、
話を的確にまとめられない面もあると思う。今回中井さんから「『心が動く』ということには、そこに矛盾がある」
とのアドバイスを受けた。仕事や文章を書く上で心の動きを意識していきたい。

2.Shranke(制限)は乗り越えた後にはっきりする

中井さんが合宿で説明した「個々のGrenzeが1つのGrenzeとして捉えて理解が深まった時、絶望となり、Shrankeとなる」
という説明が分かりやすく、心が動いた。

私は一時期繰り返し自分がGrenzeに直面しているとの文章を書いていた。すなわち、周りからの評価ばかりを
気にする生き方では、私はやっていけないということを自覚し、それに代わる生き方をつかもうとしていた。
洋食屋のマスターに週1回話して、食やサービス業の一つ一つから、マスターの人や物事の見方を学んでいた。
日々の生活に大事なものがあることを伝えられる文章を書いていきたいと思っていた。当時書いていた文章は、
感覚的に心が動いたと思って書いたものでも、具体的にどの部分で私の心が動いたかを私自身、はっきりと
とらえきれていなかったのではないかと思う。コツコツと日常に大切なことを書こうとしてきて成果を出せた
今だからこそ、当時の自分を振り返られるのだと思う。

3.根本的な矛盾を捉える

存在論を丁寧によみ、ヘーゲルが「存在」(sein)と「否定」(nicht)から一貫してシンプルに論理学を展開
している点にヘーゲルの凄味を感じた。「存在」と「否定」という根源的な矛盾を捉えて言葉にしているからこそ、
その言葉が心に残り、自分の生き方や経験を振り返って考える行動を促す力があるのだと感じた。まだ矛盾を捉える
とはどういうことなのか、がわからない。心が動くということは、私の中で運動が起きているため、
何かしらの矛盾がそこにあるということだ。心の動きを手掛かりに、矛盾を捉えるとはどういうことかを
はっきりさせていきたい。そしてヘーゲルのように人の心に届く根源的な矛盾を伝えられる文章を書けるようになりたい。

◇◆ 6.存在論の中にある発展の論理  松永 奏吾 ◆◇

 ヘーゲル哲学の体系の中で、「制限と当為」が、存在論の中にあること自体に驚いた。普通の意味で、
「制限」とは、人間の意識が捉える限界のことであり、「当為」とは、制限を捉えた人間がそれを乗り超える
活動のことである。かたや、存在論は、論理学の第一部であり、後に本質論から概念論へと発展していく、
そのはじまりの部分であり、論理の基礎のような位置付けである。制限と当為は、動物や植物には関係のない、
人間の主体的な活動レベルの話であると思っていた私は、論理のはじまりのところにそれが出て来るということに驚いた。

 しかし、存在がただ変化し、移行するだけだったら、そこには発展がない。発展がないということは、
「進化」もない。中井さんの解説を聞きながら、私は昆虫の「進化」のことを思い浮かべて聞いていた。

トンボは、幼生期はヤゴとして、水中で生活している。ヤゴは、水中で脱皮を繰り返しては成長し、
羽化直前の終齢になると、羽らしきものを背負った姿になる。二つの複眼の間隔が狭まったトンボらしい顔つきになり、
餌を食べなくなり、水面から顔を出し、エラ呼吸が不要になりつつあることが分かる。これらはまさに「変化」であるが、
それは、トンボ類が水中生活から空中生活へと「進化」を遂げた歴史が、個体において繰り返されたものでもある。
水中生活の限界から空中生活へ、あるいは空中生活の限界から水中生活へと、生活を変えるべき諸問題が
そこにあったはずである。トンボにとっての諸問題は、トンボの外的環境の側にあったとも言えるが、
トンボの内的環境がそれを「制限」としたからこそ、トンボは変態を遂げ、「当為」を実現した。

人間はそれを意識を媒介にして行う、という点が異なるだけであり、植物、動物、昆虫の変化は、
制限と当為の論理そのものの実現である。存在論の中に、すでに生命のもつ論理が潜在的にある。
そしておそらくは、生命誕生の前、地球の活動の中にも制限と当為の論理はある。そこから生命が誕生し、
人間が誕生し、私が生きていることの意味もすべてこの論理の中にある。すべての存在の中に発展の論理がある。
合宿中にこういうことを考えた。

9月 27

2017年の夏合宿の報告です。
いつものように八ヶ岳のふもとの清里で、8月に3泊4日の合宿を行いました。
今年も、私の他に、社会人が5人、学生が1人参加しました。6人中男性は2人、女性が4人。

この数年、参加メンバーが実に多様になりました。
まず女性が多い。50代の女性が2人います。1人は専業主婦でした。
もう1人は今は鶏鳴学園で教えていますが、50歳までは専業主婦でした。
この春に大学を卒業したばかりの20代の女性は、演劇の世界で生きようとしています。
もう1人の30代の女性は、新聞社で記者として活動しています。
男子は少ないのですが、高松君は雅楽の笛の演奏の練習をしながら、雅楽の背景となる歴史や文化面を学んでいます。

今年の学習内容ですが、
前半の原書講読はヘーゲル論理学の「制限と当為」の関係の箇所を読みました。
特に、小論理学の92節の本文と付録と大論理学の該当箇所を初版で読みました。

ここはヘーゲル論理学のまさに「始まり」「根源」だと思います。
すべてがここにある。ここにその後のすべてを読みとれなければならない。

後半は、必然性についてと、発展とは何かについての中井の文章と関連する文献を、みなで検討しました。
発展の理解や必然性の理解は、「制限と当為」にまでさかのぼり、そこからとらえられなければならないと思い定めました。
そのために原書講読でこの範囲を読んでみたのです。

私には最近の心境の変化があります。
それはヘーゲル哲学のキーワード集を独自に作らなければならないと思い定めたことです。
それをしない限り、しっかりと私自身の考えを積み上げていけないと覚悟しました。
そのための準備として、「発展」と「必然性」の項目に何をどう書くかを検討したのです。

いつも合宿では、合宿でしか起こらないこと、できないことが起こります。
合宿でもいつものように「現実と闘う時間」があり、各自の課題を考えていきます。
毎晩あるのですが、休み時間や食事の時間、すべての学習の時間で、その課題が話されます。
4日間、3日間を一緒に過ごすことで、互いの理解が深まっていくのが感じられます。
それはそのままに、ヘーゲルやマルクスの学習を深めていきます。

6人の参加者の感想を掲載します。一部仮名です。
具体的な叙述が少なく、わかりにくい文章もありますが、それぞれが一生懸命自分の課題と向き合おうとしています。

■ 目次 ■

1.「他者は自己である」に関しての問題意識  岩崎 千秋 
2.自分の言葉にすることで限界を越える  高松 慶
3.ウサギの制限を超える  塚田 毬子

ここまで本日
以下は明日  

4.人は自らの中に否定=限界を持つ  田中 由美子
5.自分の心の動きを意識する  黒籔 香織
6.存在論の中にある発展の論理  松永 奏吾

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◇◆ 1.「他者は自己である」に関しての問題意識  岩崎 千秋 ◆◇

今夏、ゼミ合宿に初めて参加した。これまでは、漠然と母との関係に疑問を持ちながらも胸の奥に潜在的に
ある生き辛さが何であるのかを認識することが出来なかった。しかし、2年前よりゼミに参加することで
これらが外に現れて行き、母という対象がはっきりした。それが、発展の運動であることまでは理解していた。

今回の合宿では、さらに先に進むことができた。ヘーゲルは発展の存在論の中で他者への自己の外化を
「移行(変化)」の運動とすること、更に、他者への自己の外化は同時に自己の自己への内化であり、
これを本質論において他者への反照、反省の運動とすることを学んだ。つまり、他者のように見えた母が、
実は私自身であり、しかも本当の私の姿であるというのだ。母は、相手が母に対してぞんざいな接し方や
話し方をすることをとても嫌がっていたので、表面的で形式を気にする母と同じであるとは思いたくなかった。
しかし、母が私に伝えたかった内容や目的を考えることをせずに、母がどのように言ったのか、
どのようにすれば良かったのかと、形式や手段ばかり気にしていた自分をこの合宿で初めて認識して反省することが出来た。

この移行(変化)と反照、反省を合わせて理解出来るのは、ヘーゲルの概念論の段階であり、概念論こそが
発展であると学ぶことができた私は、これからも目的をはっきりさせて自己実現するために発展していきたい。
そして、母が私に子育てを通じて何を伝えたかったのか深く考えたい。

◇◆ 2.自分の言葉にすることで限界を越える  高松 慶 ◆◇

 ヘーゲルを4日間勉強するというのは私にとっては初めての経験であり、それゆえ緊張していた。
合宿というもの自体が、そこでの目的と、一緒に勉強する先生や仲間たちと24時間を共にするというものである。
人とあまり接してこなかった私にとっては苦行というイメージしかなかった。

 そして、実際に苦しかった。2日目のドイツ語でヘーゲルを読む時間までで体力が尽きてしまったのだ。
中井さんの話は聞くが、あくまで声が聴こえてくるくらいのもの。あまり頭が働いていなかった。

 しかし、逆に言えばそれは2日間だけでもしっかりと考えられたということだと思っている。
2日目までのドイツ語の時間では初版『大論理学』の存在論より「制限と当為」、
『小論理学』定存在の項より同じく制限と当為に関わる92節とその周辺を読んでいた。

私はその中で特に、限界はそれと気づかない限り越えられないものであるという説明に圧倒された。
何故なら、私が今まで自分の現状に気付いてこなかった、そのことを合宿の前と合宿の中で気付かされたためだ。
私は親の価値観を超え、新たな自分を作るために中井さんとの師弟契約を考え、親ともそれにかかる
お金の話をしたうえで無事師弟契約をした。しかしそこで私はもう親を超えられたと思ってしまい、
親との関係を放置気味にしていたからだ。そして8月に入ったあたりから、大学を卒業した後の進路で
親と考えがぶつかりあった。そして親と話し合っている中で、親の価値観に共感するばかりか、
そこに十分な反論ができない自分がいるとわかったからだ。

身近な大人、つまり親やその祖父母の価値観との戦いは、私のような大学生、さらには20代の人たちに
とって本当は避けられないもので、1度超えたらもう後は安泰、というものではない。安泰だと思っているのは、
そこで止まってしまっているということだ。その時には恐怖を感じていない。不足や欠点があると分からない。
運動したら、そこではぶつかり合うことへの怖さが生まれる。その怖さを避けてしまっているからだ。
自分ではそれに気づかず、それでいいとむしろ肯定している。そのことにもぞっとする。

限界を制限にするには、自分の深いところの本音をどこまで意識できるかなのだと思う。
何かに出会ったときに自分がどう感じ、考えたかは勿論のこと、前触れもなく急に自分の将来について
不安になるなどということ1つ1つの過程、背景をどの深さまで捉えられるか、言葉で後追いできるか、
その意志があるかということが大切だと思う。

あと、限界を意識し、制限だと分かったうえで乗り越えることは苦しさもあるが、そこには本当の喜びが
あるように感じる。止まっているときは安泰ではあるが、感情もその分だけ動かなくなってしまうのだと思う。
合宿所のロッジで私と同じ年くらいの人たちが楽しそうに大騒ぎしていたが、その根底で変化を求めている
からそうしているのだろう。自分の心の底から変わりたいと思い、それが多少なりとも実現した時、
本当の喜びがあるのではないか。

◇◆ 3.ウサギの制限を超える  塚田 毬子 ◆◇

 中井ゼミの合宿に参加した。これで二回目となる。前回である昨年は半分の参加だったが、
今回は全日参加で、大きく異なるのが原書講読への参加だった。

 合宿で扱う範囲を予習するために、8月に入ってからはゼミ生同士での予習会に追われた。
他に何をやっていたか覚えていないほどだが、ここで一気にドイツ語を詰め込んだことで自分のドイツ語
理解がかなり進んだ。合宿でも自分が訳していった範囲は理解しやすかった。私にとって語学は鬼門であり、
ドイツ語も嫌々やっていたのだが、少しだけ分かるようになり面白くなってきたというのが今年の夏に
起きた変化の一つである。しかし、原書で力を使い果たして後半の日本語文献では集中できず、
ほとんどが頭を通過するだけだった。この集中力の無さが今の自分の制限であると思う。

 また、4日間中井ゼミで過ごすのはとても異様な感じだった。中井ゼミの人間は、言葉をそのまま
文字通りに受け取る。世間の人が忖度したり慮って気を使い合うことを一切せず、引っかかったら即突っ込んでくる。
それはテキトーなことを言えない緊張感でもあるが、何より自分が発する言葉に自分が意識的になる。
こう言ったらどう受け止められるだろうかと常に考える。あやふやなまま口に出した言葉には案の定突っ込み
が入り、反省して寝られなくなる。上っ面な会話は一切ない。そのような環境の中で、自分の深くから自分でも
驚くような生の言葉が出てくることがある。

 昨年の合宿で何よりも大きかったことはこの先やるべきことが決まったことだったが、今年もそうなった。
機が熟したのでやるしかない。毎年合宿に来てブレている自分を軌道修正してもらっているが、
私は「ウサギと亀」のウサギである自分を寝かさないように、外的に制限を作りながら下半期を頑張りたい。

 ※中井注 塚田さんは、ソフォクレスの『アンティゴネー』を改作し、その上演をすることになった。
そのためには自分の劇団を立ち上げる必要がある。さあ、見ものである。

9月 26

「家庭・子育て・自立」学習会(田中ゼミ)は、田中由美子を担当として2015年秋に始まりました。
それから2年が過ぎ、学習でも運営面でも、確実に深まっていると思います。

2017年7月の学習会の報告を掲載します。

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古荘純一・磯崎祐介著『教育(虐待・教育ネグレクト 日本の教育システムと親が抱える問題』学習会(2017年7月23日))報告
                                        田中由美子

学習会終了直後に、参加者に今後の学習会テーマの希望を聞いたところ、「どうすれば食べていける子に育てられるか」
という本音トークがあった。
教育の最終目標はそれだと。
「食べていける」=「生きていける」ということだろう。

実は、今回のテキストのテーマもそれだった。
親や学校は、子どもに知識や学歴を身に付けさせれば「食べていける」と考えがちだが、それでは不十分だという話だ。
子どもにあれもこれも身に付けさせようとして「教育虐待」やそれに近いことが広く行われており、
しかし、そうして有名大学に押し込んでも、大学生活や就職活動で挫折する子どもが多いというのだ。
「教育虐待」とは、主に、子どもの成績や受験に関して、暴力や暴言によって子どもを追い詰めるような行為である。

テキストの著者、古荘氏は、精神科医であり、青山学院大学で教鞭も取る。
「教育虐待」をたんに特殊な問題として捉えているのではない。
子どもが「食べていける」ようにと願う親や学校の教育の中に、広く深く巣食うものとして問題提起している。
「恵まれた家庭で育ち、何の問題もないように見える多くの学生が、成長過程で抱えた心の問題を積み残したまま、
大学に入学して」、「授業に出て来られなってしまう学生もたくさんいます」と述べている。

本書では学校における「教育虐待」にも大事な問題提起がなされているが、この文章では家庭での「教育虐待」を中心に考えたい。

(1)「教育虐待」の広がり
親に叩かれたり、「死ね」などと言われたりするという話を、近年複数の中学生から聞いた。
理由は、勉強やその成績である。
かつて中学受験を前に暴力を受けたという子どももいる。
両親からの場合も多い。
経済的には問題のない、むしろ親の教育意識の高い家庭で、この種の虐待が少なからず起こっていることを知り、
この本を手に取った。
近年増加傾向にあるようだ。

子どもの能力がどこかストレートに発揮されず、自信がない場合、また体調不良や、学校での人間関係がうまくいかない場合、
その裏にこうした暴力の問題が潜んでいることがある。

親の「教育熱心」が、思春期の子どものプライドをズタズタにするところまで来ている。
「教育」が虐待の理由であるのは、報道でよく耳にする、主に貧困家庭での子どもの虐待が、しばしば「しつけ」の
つもりだったと弁解されるのを思い起こさせる。

また、暴力や暴言は伴わなくとも、子どもの強い管理が、いつの間にか急速に進んでいると感じている。
たとえば、親が子どもに次の試験では何点取るのかと理路整然と迫り、子どもは高得点を約束せざるを得ないという
ようなことが起こっている。
また、結果が悪ければ叱る。
子どもが勉強していなければ親が心配になるのは当然のことだ。
しかし、様々に悩みながら自立を目指さなければならない中高生に対して、成績だけを問題にして、
まるで幼い子どもでもあるかのように叱ることが、子どもを成長させるのだろうか。
子どもを別人格として尊重せず、そのプライドや自主性、また能力をも損なうものではないだろうか。

また、その大人の価値観や、子どもとの関係のあり方が、彼らの学校での人間関係に反映されているのではないか。
つまり、成績による序列を偏重し、相手の人格に向き合わない「教育虐待」の構造は、同じく序列を第一とする
スクールカーストやいじめの構造だ。
子どもが親分子分関係に甘んじているケースも少なくなく、 相手のプライドを損なういじめも横行している。

また、親から虐待を受けた子どもが、学校でもいじめられるケースが多いと感じている。

(2) 「傷付けないように」の限界
古荘氏が強調するのは、思春期は精神疾患を発症しやすいピークであるという事実である。
ストレスに弱い時期の子どもが、「教育虐待」によって発病したり、またその下地がつくられたりすることに警鐘を鳴らす。
また、その精神医学的知見が教育現場に行きわたらないことに焦りを感じている。

確かに、「教育虐待」は子どもの成長に甚大なダメージをもたらす。
発達障害の原因になる場合があると主張する学者もある。

また、問題は外からは見えにくく、暴力が伴わない場合でも、子どもは長い時間をかけて深く傷ついていく。
親が子どもに勉強を押し付けるというようなわかりやすい形で問題が見えることはむしろ少ない。
子ども自身が刷り込まれた強迫観念に追い立てられて、自ら大量の勉強や通塾をこなそうとしたり、
または、それができなくて追い込まれる。
自分の感情や気力を見失ってしまう様子も見られる。
古荘氏も指摘するように、親は子どものためだと思い込み、また子どもは自分自身を責める。
そういう子どもの苦しみに大人が非常に鈍いという主張にも同感だ。

しかし、古荘氏の、子どもを否定するよりも肯定しようという論調には疑問を感じる。
もっと率直には、子どもを「傷付けないように」という考えが底流に感じられ、しかしそれで「教育虐待」や、
子育ての悩みが解決するとは思えないのだ。
親たちは、むしろ子どもに将来問題が起きないように、傷付くことがないようにと考えて「教育虐待」に至ったり、
また子どもの心配をしているのではないか。

相手が子どもに限らず、「傷付けてはいけない」というのが、今の時代の考え方の一大トレンドだが、
その裏で、家庭という密室で子どもを最大限に傷付ける「教育虐待」が起こっていることをどう考えればよいのだろうか。

むしろ、私たちが他人を傷付けることを恐れ、また自分も傷付きたくなくて、他人と深く関わることができないことが
問題なのではないだろうか。
子どもの将来や教育に不安を感じても、私たちは夫婦でぶつかることも、学校の問題に踏み込むことも避けがちだ。
学校も、親に対して言うべきことを言わない。
学習会の参加者の一人は、学校は保護者への情報提供などサービスに努めるようになったが、親の顔色を見ている、
と感じておられた。
傷付けないことが最優先課題なら、批判などできず、疑問さえ出せない。
学校も親も一向に考えを深めることができず、子どもの教育は改善されることがない。
親は孤立し、先の見えない時代に子どもはどう生きていくのかと不安は高まる。

そのしわ寄せが、一番立場の弱い子どもに及んでいるのではないか。
他人との関係が希薄になる一方で、親子関係の一体化は一層深刻になり、そのことも虐待の一要因だろう。
表向きは何の悩みも傷付け合うこともないかのように繕われ、「プラス思考」がもてはやされる。
しかし、その大人の守りの姿勢の裏で、子どもが傷めつけられている。

また、古荘氏は、最近の子どもが些細なことにも傷付き易いことを示唆しているが、それは何故なのだろうか。

これについても、「傷付けてはいけない」というトレンドが、彼らをより傷付き易くしているのではないか。
傷付け、傷付くことを恐れる子どもたちは、むしろ傷付きやすくなっている。

傷付け合ってはいけないのだから、何か問題を感じても、腹を探り合うばかりで思っていることを話し合ったりできない。
教師は率直に話し合えと言うけれども、そんなことをしたら「いじめた」と責められるという子どもの声もある。
大人の守りの姿勢を、子どもが超えることは難しい。
結局、相手への違和感を態度で示すことにもなる。
それはより子どもを傷付け、そして誰も何も学べない。

また、「傷付いた」と感じた後も、相手と話すことも、誰かに相談することもできない。
あってはならないことが起こってしまって、そう感じたら最後、その場に立ちすくむ。
「傷付いた」という結果だけが蓄積されるのではないだろうか。

(3) 他人と深く関わって生きる
学習会で印象に残ったのは、大学生の母親である参加者が、大学入試のネット出願を全て親が行なったことを
悔いる発言をしたところ、なぜそれが問題なのかという疑問の声があがったことだ。
親自身は皆、かつて大学入試の出願は自分で行ったのに、子どもは勉強で忙しく、また出願ミスをするかもしれないという。

そういうことがまったく珍しくない中で、かんたんに挫折する子どもが増えている。
何のミスもリスクもないようにと、子どもを「勉強」に閉じ込めることが、子どもを自立から遠ざけているのではないか。
親がするべきことは、子どもの「手伝い」ではない。

また、私たちは本来、問題がよくわかるようにオープンにされて、自分の問題に気付き、そうして傷付く中でしか
問題を超えていけない。
にもかかわらず、まるで傷付くことを避けられるかのような考えは、問題解決の可能性を消し去ってしまう。

私たち大人は、「傷付けないように」という金科玉条をひっくり返し、傷付くことを恐れることなく他人に働きかけ、
大人が解決すべき問題を解決していかなければならないのではないか。
たとえば、子どもの学校に問題があれば、親は問題提起するべきだ。
部活の顧問などの体罰や暴言、いじめの問題はもちろんのこと、学校がむやみに大量の宿題を出すことや、
日々の自宅学習時間を報告させるような管理にも同調していてはいけないのではないか。
進学実績を上げなければ経営や運営が成り立たない学校と一体化して子どもを追い立てるのではなく、
子どもの成長を真っ直ぐに追求して、学校とは一線を画すべきだ。

また、子どもにも、傷付くことを恐れることなく他人に働きかけ、その中で自分をつくっていけるような教育を
保障しなければならない。
知識や学歴をたんに足し算のようにいくら身にまとわせても、そうした力はつかない。
もっと知識を、もっと成績をと子どもを追い立てるような教育ではなく、子どもが他人との関係の中でじっくりと
自分自身を見つめ、人間として成長する力を引き出す教育だ。

そうして目的を持って生きる人間として自立できれば、「食べていける」。
他者や社会と深く関わって生きていくことを目指してこそ、「食べていける」のではないか。

◆参加者の感想より

大学生の母、Aさん
「教育虐待・教育ネグレクト」が行われるキーワードは「代理」である。筆者は、『親自身の満たされない思いを、
子どもに投影してしまう?「子どもを自分の代理にしてしまう」という行為なのです』と述べている。
私達親は、それぞれの教育方針を立てて子どもを育てていくのだから、自身の過去の体験や思いが子育てに
反映されることは当然であり、それ自体は悪いことでは無いと思う。
私の場合、子育ての中心にはいつも母親がいた。私の母親は厳しくしつけをする人であった。私が子供だった頃は、
少しでも母親に反抗的な態度や生意気な言葉遣い(こちらの意図とは関係なく母親が生意気かどうかを決める)をすると、
一週間でも二週間でも口をきいてもらえなかった。これが母親流しつけであり、ことの重大さの差異はあるであろうが、
現代であれば筆者のいう「教育ネグレクト」である。許して貰えるまで何回も「ごめんなさい」と言い続けた経験から、
私は子どもを叱っても無視をすることはしないようにした。他にも、相手の言葉に敏感に反応してすぐに怒り出す
母親が理解出来ないまま大人になった私は、誰にでも優しく接するように子どもに伝え続けた。人に優しくして
傷つけてはいけないという考えは、「教育虐待・教育ネグレクト」とは一見真逆である。
しかし、今、私は子育てを振り返り反省している。何故か。相手を傷つけないようにすることが親切であると伝え続けて、
我慢をしていい子にしていることが美徳であるかのように強いて来たからである。常に母親とのことが思い出されて、
子どもの意思を尊重しない子育てをした私は、結局、「満たされない思いを子どもに投影して」しまっていた。
相手を傷つけないようにすることばかりを考えて、人と深く関わる機会を奪っていたのである。
では、筆者の言うとおり、「教育虐待・教育ネグレクト」の問題を、「子どもの意思を尊重する」ことや
「指示をする、子どもを評価するのではなく、子どもを自由にさせて」みることで、解決することに繋がるのであろうか。
そうは思わない。見守っているだけでは子どもの成長は限界があると思う。
子どもに自分の思いを投影してしまったのは、私自身自分がないからである。自身の生きる目的やテーマが
はっきりとしていれば、それを子どもに示すことができたであろう。そうすれば、強いることなく子どもに
考えや思いを伝えることができたのではないか。

高校生の母、Bさん
どの家庭でも大なり小なりの問題を抱えているのではないかと思うが、家庭の枠組みを超えてそれらの問題を共有する
場が少なく、親は思春期の子どもを抱えて堂々巡りをしているケースが多いのではないか。少なくとも我が家はそうだ。
この学習会に参加して、自分の心配事を話せて救いになった。夫以外の人と子育てのことを話し合えるということは、
それだけでストレス解消効果が大きかった。
今回のテーマは「教育虐待」だった。教育が虐待になり得る背景には、先行き不透明な世の中で生きていくため
「せめて教育だけでも」と思う親の心があると思う。親の過剰な心配が問題をこじらせるような気がする。
生きていく上で教育が必要なことは勿論だが、不透明な世の中を生きていくためには「学歴」以外のものも
それ以上に重要になる。コミュニケーション能力、ストレスをやり過ごすスキル、多様な価値観を受け入れる能力、
希望を持ち続ける力等々いろいろなものが考えられるが、親にとって、子どもに良い教育を受けさせ学歴を与えることが、
子どもに一番してあげやすいことなのかもしれない。幼少時からの受験産業の隆盛がこのことを示している。
「学歴」以外の人間力とも云うべきものは、結局、親の生き方が問われるので、我が身を振り返ると結構辛い。
子どもに向かって文句を言うことは、天に向かって唾をはくことに他ならず。今回の学習会はいろいろと反省する機会となった。

高校生の母、Cさん
「『教育虐待・教育ネグレクト』という大変衝撃的なタイトルでしたが、習い事や部活動、そして進学等の場面において、
どの家庭でも起こりうることだと感じました。
一度立ち止まって考える。
一歩離れたところから観察する。
そんな気持ちを忘れずに子供と向き合っていきたいと思います。
学習会に参加するのは初めてでしたが、終始和やかな雰囲気の中で話も大いに弾みました。
このような学びの機会に恵まれましたことに感謝いたします。

中学生の母、Dさん
テキストをみんなで読み込む会の参加は人生で初めてだったので脱線しがちになってしまって失礼しました。
でも、海外での教育状況、高校、大学、就職活動での様子など色々なお話を聞くことができて、とても参考になりました。
学校で塾でと日々頑張っていて「お疲れ」の我が子は せめて家庭ではゆっくりさせてあげなければと思いはするのですが、
だらけている姿とみると ついついあれこれ言ってしまいます。
成績が中から下でも、一芸に秀でていなくても、まじめに働けば人並みの生活が送れるような世の中であれば、
こうも親がしゃかりきになって学歴をつけさせようとはしないかもしれません。
子育ては20年もの長い期間(場合によってはそれ以上?)続き、しかも正解がわかりません。
自分たちが育ってきた時と比べて世の中の変化が速すぎて、10年先のことも予測できないのに、
子どもの将来を見据えて教育をしていくことの不安。
筆者のいう、「ありのままを受け入れる」のは、親である自分こそが「あなたの子育ては間違っていないよ、
大丈夫だよ」と認めてほしいのかもしれません。