4月 11

毎週月曜日の晩に、ヘーゲルゼミを行っています。

原書購読と日本語テキストで読む時間があり、
原書購読は午後5時からで、ヘーゲルの『精神哲学』を読んでいます。
日本語テキストの時間は午後7時過ぎからで、『精神哲学』に関連するものを読んでいます。

参加希望者は問合せください。
ただし、参加には条件があります。

日程や開始時刻などでの変更もあり得ますので、必ず事前に確認を願います。

遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加も可能にしました。申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。

参加費は1回2000円です。原書購読と日本語テキストで読む時間の2コマがありますが、一方だけでも両方に参加しても、参加費は同額です。

4月 04

4月読書会テキスト

4月23日(土曜日)の読書会テキストが決まりました。

ヘーゲル『精神哲学』第1篇主観的精神の「C心理学 精神」を読みます。

岩波文庫下巻の64節から106節までを範囲とします。

3月の読書会では『精神哲学』第1篇主観的精神の「B精神の現象学」を読みました。
その続きで、ヘーゲル言うところの「理性」の段階、その理論と実践の説明を読みます。

いつものように
補遺は飛ばして、全体の関係を読むようにしてください。

参加希望者は
早めに(読書会は1週間前まで、文章ゼミは2週間前まで)申し込みをしてください。

遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加も可能にしました。申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。

ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

4月からのゼミのスケジュール

基本的に、ゼミの開始は午後2時、
読書会後の「現実と闘う時間」は開始を午後4時とします。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。

なお、「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

4月
9日日曜 文ゼミと「現実と闘う時間」
23日日曜 読書会と「現実と闘う時間」

5月
7日日曜 文ゼミと「現実と闘う時間」
21日日曜 読書会と「現実と闘う時間」

6月
4日日曜 文ゼミと「現実と闘う時間」
18日日曜 読書会と「現実と闘う時間」

7月
2日日曜 文ゼミと「現実と闘う時間」
16日日曜 読書会と「現実と闘う時間」

8月には合宿があります。
8月17?20日

                                     

4月 03

三種の神器 ペース、タイミング、バランス (これが本当の日本語辞典シリーズ)

ペース、タイミング、バランス。

世間では、何かに悩み、考え、実行する際に、この3点セットが良く使われる。まるで三種の神器のように崇め奉られているようだ。
この3点セットで物事を考えている人が多いわけだが、これは基本的には偶然性の立場に立っていることを意味する。それに対しては、必然性の立場があることを言っておきたい。
ペース、タイミング、バランスといった言葉は、それぞれの置かれた多様な条件下での議論で使われる。しかしそうした偶然的な条件を超える、根本的な原理・原則があり、それを押さえた段階があり、それこそがペース、タイミング、バランスを本来のありかたで位置づけることができるのではないか。

先日、山本崇雄著『なぜ「教えない授業」が学力を伸ばすのか』を読み、この本もまた、偶然性の立場の典型例だと思った。このテキストではポイントの提示で、必ずペース、タイミング、バランスといった用語が出てくるからだ。
この本は、実際の学校現場で、周囲の無理解と戦いながら、アクティブラーニングに6年間専念してきた教員の汗と涙と大いなる成果の物語である。
その目標は生徒の自立であり、そのために常に「問い」を前面に出し、生徒の自主的活動を中心に据えた授業運営をするなど、本書には正しい原則やすぐれた方法や実践が紹介されていて、学ぶことが多い。
しかし、その根本的な立場はどうかと言えば、それは偶然性の立場である。それは、本来的な自立とは矛盾するものだと思う。
                      2017年3月16日

3月 20

人間の平等の根拠は何だろうか。

西洋では、キリスト教の「神の前での平等」が根拠となっていると聞いたことがある。
本当だろうか。

加藤周一の「近代日本の文明史的位置」ではそうして前提での議論が行われた。
こうした議論がずっと気になっていた。
読者のみなさんはどうお考えだろうか。

私も、この問いを抱えて、考えてきた。
やっと自分なりの考えがまとまってきた。それを公表しておきたい。

■ 目次 ■

人格の平等の根拠  中井浩一

1 人間の平等
2 平等の根拠としてのキリスト教 ?加藤周一の「近代日本の文明史的位置」? 
3 失楽園の物語
4 人格の平等の根拠は意識の内的二分にある
5 加藤周一とは何者か

==============================

人格の平等の根拠  中井浩一

1 人間の平等

 人間は相互に平等であるということは、今では当たり前になっている。
これに正面から反対することは難しいだろう。それは差別主義者として批判される。
しかし、多くの人が本音では、その反対のことを意識している。「女はしょせん?」とか
「田舎者は?」とか「家柄や育ちが大切」とかは普通の意識であり、したがってそうした見解は
しばしば表現され、外化される。出自や階層、地域や民族間の差別意識なども一般的だろう。
ヘイトスピーチはそれが露骨に外化したものだが、もともと内にあるから外に出てくるだけだろう。
普段は抑圧しているだけなのだ。
歴史的には、人間が対等であったことはなかった。常に奴隷が存在したし、今でも人身売買が
公然と行われている。人間の普遍的な権利として政治上の平等が主張されたのは、フランス革命、
アメリカの独立宣言が始めである。その後、それがどこの国の憲法でも保障されるに至っているが、
それは建前であることが多い。政治上の平等だけではなく、経済上の平等も求めるのが社会主義運動
だったが、それは破綻し、資本主義内で格差が広がらないようにという程度に、その欲求は押さえられている。
さて、人間の平等、政治上の平等、経済上の平等を基本的な人権とする考えは、
一体どこに根拠を持つのだろうか。ただの理想で、実現は無理なのだろうか。
しかし、それが理想とされるには、それなりの根拠がなければならないはずだ。それは何か。

2 平等の根拠としてのキリスト教 ?加藤周一の「近代日本の文明史的位置」?
 
人間の平等の根拠としてキリスト教を挙げる人たちがいる。神の前の平等、神との関係における平等は
キリスト教で確かに謳われてきたことであり、それが社会的に一般化した権利として平等を考えるのだ。
たとえば、加藤周一の「近代日本の文明史的位置」である。加藤は人間の平等の根拠を問題にし、
それを日本と西洋との比較から考えている。
加藤によれば、西洋での民主主義(人間が平等であるという意識)は、個人主義を前提とし、
「その個人主義の歴史的背景は、人格的で同時に超越的な一神教である」。「人間が平等であるという
考え方は、自明の事実に基づくものではない。社会的経験は、むしろその反対を暗示している」。
そして「神との関係において、人間は平等であるという以外に、平等の根拠がない」と言う。
つまりキリスト教の「神のもとでの平等」、「神と個々人の関係の絶対性」に、平等の根拠を見ているらしい。
その上で、日本人の意識を問題にする。「日本の大衆の意識の構造を決定した歴史的な要因は、
明らかに超越的一神教とはまったく違うものであった。西洋での神の役割を、日本の二千年の歴史の中で
演じてきたのは、感覚的な『自然』である。その結果、形而上学ではなく独特の芸術が栄え、
思想的な文化ではなく、感覚的な文化が洗練された」。
平等の根拠が、日常生活の直接の経験のレベルには存在しない以上、それを超える価値を生み出せなかった
日本人に、平等の意識は生まれないのではないか。それが加藤が問う問題である。
加藤はその困難さを受け止めつつも、「われわれの側に主体的な要求のあること自体が、半ば、その可能性を
証明しているのだ」としてこの文章は終わっている。平等を求めるのは人間の根源的な欲求だとしているのだろう。
しかし、その根拠は示されない。
このテキストは60年以上も前の1954年の文章である。しかし、こうした議論は、今も続いているのではないか。

3 失楽園の物語

加藤周一は、キリスト教が人間の平等の考えを生んだと推測する。しかし本当は逆なのではないか。
人間が人間としてこの世界に現れた時、すでに人間の平等の根拠が事実として存在していたのではないか。
そして、それを自覚していく過程の中から、ユダヤ教が生まれ、キリスト教も生まれてきたのではないか。
人間が人間としてこの世界に現れた時、すでに人間の平等という根拠が存在していたとは、どういうことか。
人間が人間として現れた時、つまり他の動物の1つ上のレベルの存在として新たな種として人類が生まれた時に、
すでに人間は潜在的に平等であり、それ以外にありえなかったのである。それは人間を他と区別する
人間の本質とは意識の内的二分にあったからだ。
意識の内的二分とは、意識が分裂し、自己意識と他者(対象)意識が生まれたことを意味する。
それは外の自己と他者(対象)とを区別することであり、同時に内的に意識内が分裂し、
意識内に自己と他者(対象)への分裂が起こることである。
もちろんこの分裂は分裂に止まるものではなく、その統合への活動を引き起こし、それが人間社会を
発展させてきたのである。これが思考、善と悪との始まりであり、目的意識と労働、社会意識の始まりである。

旧約聖書の創世記の失楽園の物語を思い出していただきたい。神は土くれで人(アダムとイブ)をつくり、
エデンの園においた。アダムとイブは裸だったが、恥ずかしいとは思わなかった。神はエデンの園に
あらゆる木を、園の中央には生命の木と善悪を知る木を生えさせた。神はアダムに命ずる。
「園にある木の実は何を食べても良いが、善悪を知る木の実は食べてはならぬ。それを食べたら死んでしまうから」。
 ところが、ヘビに誘惑されたイブは善悪を知る木(の実)を食べてしまい、
ともにいたアダムにも与えたので、アダムも食べた。すると2人の目があき、自分たちが裸であることを知った。
2人は恥じらいを知り、いちじくの葉を腰に巻いた。
神は、2人が善悪の木の実を食べたことを知る。神はイブに呪いをかけ、出産と生活に苦しむようになると言い、
神はアダムに呪いをかけ、土地を耕すことに苦しむようになると言った上に、「おまえは土くれだから土に帰る」
と言う。そして神は「人がわれらのようになった。今にも人は生命の木の実も食べて永遠に生きるかもしれないと言い、
人をエデンの園から追放した。
これが人間が善悪を知り、呪いを受けるとともに、神のようになったという物語である。
これがユダヤ教の人間観なのだ。
この神話では、善悪の知識によって、人間がまず最初に恥を知ったことが強調される。
この恥こそが、人間の意識の内的二分によって生まれたものなのだ。
恥とは自己意識の分裂が生みだしたものだ。それは他者の視線を意識し、他者から見られる自分を意識する。
それは外界に自分と他者の区別が生じたことであり、それは同時に自己内に見る自分(他者)と見られる自分
との分裂が起きていることである。ここに人間の平等の根拠があると、私は考える。

4 人格の平等の根拠は意識の内的二分にある

意識が自己意識と他者(対象)意識に分裂し、意識内に自己と他者の両者が意識される時、
この両者は意識内では対等に並ぶことになる。これが「特殊」であり、特殊は特殊に対して、同格であり、
対等である。これは同時に、外の他者と自己とが対等に並ぶことでもある。
その分裂は、もちろん分裂のままにはとどまらない。見る自分(他者)と見られる自分との分裂が正しく
統合されると、自己相対化が起こり、自己理解が深まっていく。
特殊が特殊として同格でただ並ぶだけの段階から、この特殊性を超えて、全体をとらえた時に、
普遍、類がとらえられ、それが人類である。
そこには特殊と普遍の分裂があるのだが、この分裂から、人間の本質と、自分の特殊性とをともに意識して、
自分は人としてどう生きるかが問われ、その答えを出した時に、それが個別である。
これがヘーゲルが普遍、特殊、個別、の発展として考えていることだろう。

こうした全体の過程の中で、特殊の段階としては自己と他者のそれぞれが、特殊として相互に同格であり、
対等である。ここに、人格の平等の根拠があるのではないか。
そしてここから対等な関係である「契約」という意識が生まれ、人間と神との関係すらも、
この「契約」としてとらえるユダヤ教が生まれ、神と人との契約関係から、すべての人間同士の平等の自覚が
明確になっていったのではないか。こうした前提の上に、キリスト教は成立している。
以上を考えてくると、人間が人間としてこの世界に現れた時、すでに人間の平等という論理が存在していたと、
私には思われるのである。それはキリスト教から生まれたのではなく、逆にキリスト教の基本の原理を生みだした。
そして人間の平等は、西欧とか、キリスト教とかに関係なく、すべての人類に共通する普遍的な関係性
なのではないだろうか。どのような歴史的背景や精神的背景があったかには関係なく、
人がある自覚の段階に達すれば、必ず意識され、自覚されていく原則なのだ。
それは人間の本質である自己内二分から必然的に生まれてくるからだ。

5 加藤周一とは何者か

加藤周一を例として取り上げたので、最後に加藤の評価について触れておく。日本では加藤の評価は
大きく二つに分かれるようだ。一方には加藤を「知の巨人」として持ちあげる人々がいる。
他方で、ただのデイレッタントとして低く見る人々もいる。
 加藤にはその視野の広さと認識の深さがある。西洋と東洋の対立、そのキリスト教理解、宗教的理解の的確さ、
日本文化への見識。この幅と深さのレベルに達している日本人は少ないのではないか。したがって、
こうした意味で、加藤は評価されるべきなのだ。しかし、それ以上に持ち上げるのもおかしい。
 加藤周一の真価は、その問題提起、問題の把握の仕方にあると思う。どうでもよい問題ではなく、
根本的で根源的な問題をつかめたこと、そのつかみ方でも明確な対立・矛盾を示すことができたことが
その優れた点だ。今回取り上げた問題提起がまさにそれだと思う。
加藤の限界は、自分が提起した問題の本当の解決、本当の答えには到達できない点ではないか。
対立、矛盾を示すまでで、それを超えることができない。ヘーゲル的に言えば、彼は悟性のレベルにとどまり、
彼ができることは対立と矛盾の提示に止まる。その解決は彼の役割ではない。
加藤のこの両面をしっかりと理解していれば、加藤周一を有効に活用できる。その問題提起は大いに参考になる。
その答えは不十分だから、自分で代案を出せばよい。

(2016年7月11日)

3月 19

親子関係はいかにあるべきか

これまでは高校生を主な対象として親子関係を考えることが多かった。
高校生にとって、進学・進路の選択は重要だ。それは高校生が自分の人生を自分で選択すること。
つまり親の影響力から自立するための大きな1歩になる。
同時にそれは、親(特に母親)にとっては子離れという大きな課題であり、それは親の自立の問題なのである。

しかし、私の父が2年前に亡くなり、母が一人で暮らすことになった。
その母をどう支えるかが一人息子である私の責務になっている。

また、中井ゼミで師弟契約をするメンバーの年齢も20代から50代までと幅広くなっており、
親の立場から成人後の子どもへの関わり方が問題になったり、高齢の親の介護や遺産相続の問題に
直面したりするメンバーも出てくる。こうしたことを考えながら、親子関係のそれぞれの年代での課題、
つまりその全体像がはっきりと見えてきた。

それをここでまとめておきたい。

■ 目次 ■

親子関係はいかにあるべきか    親子関係の3段階の原理・原則  
                                中井浩一

0.親子関係の特殊性
1.第1段階  親>子どもの段階
 (1)親子関係が親>子どもの段階
 (2)子どもの本質は未来の社会の働き手
 (3)子どもの自立と親の自立(子離れ)の問題
 (4)子どもの進路、進学の選択
 (5)緊急避難
2.第2段階  親=子どもの段階
 (1)親子関係が親=子どもの段階
 (2)社会人としての関係、結婚後の関係
 (3)子どもの自立が真に問われる
 (4)親子のつきあい方は両者の合意に基づく
3.第3段階  親<子どもの段階  (1)親子関係が親<子どもの段階  (2)老人の尊厳、自立・主体性をどう保障するか  (3)老後の問題の前に、定年後の人生という問題がある  (4)死に方、看取り方  (5)どのような社会を目指すのか ============================== 親子関係はいかにあるべきか    親子関係の3段階の原理・原則                                  中井浩一 0.親子関係の特殊性 最初に確認しておきたいことは、 親子関係は特殊な関係であり、もっと一般的な他者や世間とのつきあい方が、 ここではより厳しく、より深く問われるということだ。  親子の「つきあい」方は、親子関係以前に、その人の他者一般、世間との関わり方の原則とその能力の現れである。 他者一般ときちんとした関係を築けない人は、親子関係では一層、難しくなる。 なぜなら親子関係は血縁関係であり、その特殊性は、相手を選択できないことだからだ。 他者一般では、付き合う相手も、つき合い方も選択できる。それゆえに自分の価値観や原則を貫徹しやすい。 ところが、親子関係となるとその選択ができないのだ。 つまり、親子関係をきちんとした原則で律するには、そもそも他者一般と対等な大人同士の関係を 築けるかどうかが問われるのだ。 そこでは意見の違いをどう解決してきたか。どう解決しているか。 相互の関係の問題をどうとらえ、どう解決してきたのか。 他者一般と対等な大人同士の関係を築ける人が初めて、親子関係でもきちんとした関係を築ける。 以上を前提に、 親子関係のあるべき姿を、以下の3段階で考えたい。   1.第1段階  親>子どもの段階

(1)親子関係が親>子どもの段階
夫婦関係が作られ、そこから子どもが生まれる。
親は子どもを育て、教育する権利と義務を持つ。
子どもは両親の保護下にあり、それがなければ死ぬ。
法律でも親の教育権、子どもの法的権利の代行を求めている。
親>子どもの関係
子どもは親の支配下にある。
衣食住だけではなく、生き方、物の見方、価値観においてもそう。

(2)子どもの本質は未来の社会の働き手
子どもの尊厳性の根源は、未来の社会の働き手ということから生まれる。

子どもは夫婦の、両親の所有物ではなく、
子どもは神(社会)からの授かりものであり、社会の働き手として育て、教育し、社会へと返すものである。
(この考えは堺利彦が明示している)

(3)子どもの自立と親の自立(子離れ)の問題
子どもの自立とは、未来の社会の立派な働き手になることだが、
そのためには、子どもが自分自身の夢とテーマを持ち、それを生きる覚悟と能力を持つことが必要である。

そのためには、子どもが親から自立する過程が必要で、それを保障しなければならない。

それが難しい。
子どもの側では、親から承認されたいという強い欲求があるからだ。
この承認欲求がどれほど強いものかを、深く理解する必要がある。
兄弟姉妹で、親からの承認欲求をめぐる争いと、その後遺症の大きさを理解しなければならない。
この両親や世間からの承認欲求は、成長への動機にもなるが、阻害の動機にもなる。
この真の克服は、両親や世間の価値観とは独立した自分のテーマと思想を確立することになる。

また、子どもの自立が難しいのには、親の側にも大きな問題がある。親もまた自立(子離れ)できないでいる
ことが多いからだ。

親は子どもへ過干渉、過保護になりやすい。
しかし、放任や放置は違う。親自身の考えをきちんと説明し、子どもの言動で批判するべきは批判する。
問題提起をするべきだ。
おしつけと、適切な意見や批判提言の違い。距離の取り方

母親が子育て、教育を自分の仕事、役割としている場合、子離れは難しい。失業になるから。
母親は子どもと一体の関係になりやすい。
親子の間の共依存関係になりやすい。
母親と息子の関係よりも、母親と娘の関係の方が難しい。同性ゆえに、距離が取りにくい。

父親は社会での仕事があり、仕事の目標やテーマを持つことが普通であり、
子育てを仕事としていないので、子離れはしやすい。
両親の子離れの過程での父親の役割は、母子の一体関係を壊し、母親と子供の両者が自立していくことを支えること

(4)子どもの進路、進学の選択
子どもが自立する過程では、経済的援助を含めて、親からのさまざまな支援が必要になる。
そこでは親が、子どもの進路、進学で、親の意向による方向付けをしようとしがちだ。

しかし、自立とは、親の価値観や思想からの自立をも含む。
それなしで、子どもが未来の社会の立派な働き手になることはできない。
未来には未来のための新たな価値観、新たな目的、新たな思想が必要なのだ。

親が子どもを支援するのは、親の価値観に従わせるためではない。
子どもが未来の社会の立派な働き手になるためである。それによって人類と社会に貢献するためである。

子どもは、そのことを忘れてはならない。自らは親や社会のお陰で成長できた。
そのお礼とは、第1に、未来の社会の立派な働き手となり、人類や社会に貢献することで果たすべきだ。
そして、いつかは自らの子どもたちを生み育てる。それが次の未来への働き手となるように。

(5)緊急避難
児童虐待などの暴力や養育のネグレクトなど親の側の問題が大きい場合、
社会が子どもを親から引き離し、守らなければならない。

子どもには何ができるだろうか。
残念だが、子どもは親を変えることはできない。
子どもは自分自身を守るために、児童相談所などの公的施設に助けを求めることはできる。
場合によっては、緊急避難的には家出をし、一方的に親子関係を切り捨てることもできる。
一般的には社会人となり、経済的に自立すれば、親から独立できる。

2.第2段階  親=子どもの段階

(1)親子関係が親=子どもの段階
子どもが就職し、社会人になれば、経済的に自立し、それは対等な大人同士の関係になることを意味する。

(2)社会人としての関係、結婚後の関係
対等な大人同士の関係にも2つの段階がある。

一、独立した社会人としての対等とは、親子の個人としての対等関係である。

二、それが結婚をすることで、夫婦としても対等な関係になる。
男女の夫婦関係は、根底に性関係があり、それは閉じた関係であり、他者がそこには踏み込めない領域を持つ。
親といえども、子どもの夫婦間のプライバシーには踏み込めない。
子どもも、両親の夫婦間のプライバシーには立ち入れない。
親子がそうした領域をともに持ち、それが自覚されることは、真に対等の関係をうながす。

結婚式は、親子の親子としての最終局面、それ以降は対等な大人同士の関係になるということだ。

本来は個人(社会人としての子ども)としての関係でも、性的な領域、信仰や信念、思想などで、
踏み込んではいけない領域、距離を置くべき領域はあるのだが、無視されやすい。
それが、結婚によって自覚されるという側面がある。

※注釈
師弟関係は特別。弟子の夫婦関係にも踏み込むことができる

(3)子どもの自立が真に問われる
親子が対等になった時点で、子どもの「自立」が真に問題になる。
なぜなら、すでに子どもは、生き方、物の見方、価値観において、無自覚ではあるが、
両親の圧倒的な影響を受けているからだ。
自立するためには、親の価値観や思想を相対化し、それに対置する形で、子どもは子ども自身の生き方、
物の見方、価値観を、自覚的に作っていく必要がある。
※ここで、テーマと先生がどうしても必要になる。

(4)親子のつきあい方は両者の合意に基づく
親子は、人生の節目節目で意見交換ができればよい。
大学進学、就職、結婚、離婚、定年、遺言

その結果、親子の価値観の違いがはっきりと現れる場合もある。
政治的なこと以外に、生活上の礼儀や習慣でも、違うことが起こる。
結婚観、人間観、社会観、つまり思想一般においても

価値観が違っても、それを認め合ってつきあうことは可能。
しかし、そのためには、その違いを表明し、それを受け入れ合う話し合いの過程が必要。

それが不可能なら、親子関係を終わりにする(絶縁、絶交)ことも可能。親子は対等なのだから。

つきあうなら、どうつきあうかは、対等な関係として決まる。一方の要求だけではだめで、
両者の合意があった範囲のつきあいかたになる。
場合によってはルールを提示し、その合意を確認し合うことも必要。

「どうつきあうか」といっても、「つきあう」限りは、そこから生ずる義務・責務がある。
どういうつきあいかたをするかは、最低限の責務の上にある。
「つきあう」こと自体が無理ならば、絶交するしかない。

3.第3段階  親<子どもの段階 (1)親子関係が親<子どもの段階 親の体力や知力が衰え、自立が不可能になり、介助や介護が必要になる段階 力関係が逆転する。 親<子ども (2)老人の尊厳、自立・主体性をどう保障するか 老人の尊厳性の根源とは、これまでの社会の担い手であり、働き手であったことである。 老後の介護は、その子どもたち家族だけではなく、第1に社会全体がになう必要がある。 (3)老後の問題の前に、定年後の人生という問題がある 人生の目標を失う。 新たな目標が必要。 前半生での目標は達成した。 子育て、子どもの自立 これが父親の場合も深刻だが、母親の場合はもっと深刻になりやすい。 これは本来は、親の自己責任。 子どものできることは少ないが、アドバイスは可能。 (4)死に方、看取り方 人の生涯の最後の段階の過ごし方、最終段階では何のために生きるのか それを静かに深く考えていく必要がある。 介護が必要な老人とどう関係するか、どう支えるか。   死の迎え方、死までの見送り方 (5)どのような社会を目指すのか 大家族制度は崩壊し、2世代家族(核家族)が中心になったが、3世代家族の見直しもありうる。 大家族制度が復活することはない。墓制度の崩壊 血縁関係にこだわらない集団生活もアリだ。 新たな社会の構想力、思想こそが必要だ。      2016年10月4日初稿、2017年3月10日改訂