2月 29

高校作文教育研究会4月例会

今回の例会では3つの柱があります。

1つめは、(やや)長い間のことを書く意義と手立てについて、古宇田さんが報告します。
古宇田さんは、「自分史と聞き書き、この二つをすべての高校生に書かせたい」と思っているのですが、
その自分史や自分の経験を描写する文章形式の問題を考えます。

2つめは、鶏鳴学園で私(中井)が指導した、進路・進学に関する授業実践を報告します。
この問題は、どなたも取り組んでいる大きな課題だと思います。
参加者の皆さんの取り組みなども話し合えたらと思います。

3つめは、文科省が導入しようとしているアクティブラーニングについてです。
これは重要な問題なので、古宇田さんからの報告を受けて、参加者全員で現状を話し合いましょう。

どうぞ、みなさん、おいでください。

1 期 日    2016年4月3日(日)10:00?16:30

2 会 場   鶏鳴学園
〒113?0034  東京都文京区湯島1?3?6 Uビル7F        
 ? 03?3818?7405
 FAX 03?3818?7958
ホームページ http://www.keimei-kokugo.net/
       ※鶏鳴学園の地図はホームページをご覧ください

3 報告の内容

(1)  (やや)長い間のことを書く意義と手立て
茨城県  古宇田  栄子

自分史と聞き書き、この二つをすべての高校生に書かせたいと思っている。
それができたらどんなに大きな教育的効果があがることだろう。
日本中の高校生が取り組んだらステキだね。そんなことを夢に見て、
今回は、(やや)長い間のことを書く意義と手立てについて、
私の初めての実践(1973年、教師2年目)を手掛かりに、次の5人の実践を分析してみたい。

?やや長い間のことを書く意義や、自己の変化・変容へ向かう手だて(中俣勝義)
?自分の本当の思いをわかってほしいと願って書く(工藤ふみ)
?自分を知り、生き方を考える生い立ちの記(山野みさこ)
?仲間と出会い、自分に向き合う(藤田美智子)
?生徒とともに「生きづらさ」を考える―Y君の自分史―(宮尾美徳)

この5本の実践記録は、「作文と教育」2016年1月号特集に書いてもらったものである。
特集のテーマは「やや長い目で見ることで、自己の変化・変容をとらえる」、私が企画編集したものだ。分析することで多くを学ばせてもらいたいと思っている。
「作文と教育」2016年1月号をお持ちの方は読んできてほしい。希望者には当日販売します。

(2) 進路・進学を考えるために
東京都  鶏鳴学園  中井 浩一

若者たちが将来の夢や志望をはっきりさせられないことが問題になって久しい。
鶏鳴学園でも、この問題に取り組んできた。
今年度の高校1年生のクラスでは、今年の1月から2月に掛けて、進路・進学をテーマにした授業を行った。
最初に各自が進路・進学での夢や現状を報告し、意見交換をした
進路・進学問題への具体的取り組み方についての私からのアドバイスも話した。
その後、それらを参考にしながら、各自の進路・進学に関する作文を書いてもらった。
その作文を皆で読み合い、また意見交換をした。
その授業の報告をする。

(3) アクティブ・ラーニングの現状と課題
茨城県  古宇田  栄子

2014年11月、文科省は中教審諮問にあたって、2016年度全面改訂、2020年度本格実施される予定の学習指導要領について、
初等・中等教育(幼稚園?高校)でのアクティブ・ラーニング(能動的な学習)を強く推進する方向性を打ち出した。
アクティブ・ラーニングとは、先生が一方的に知識を伝授するのではなく、
子どもたちが協力し合って課題の発見と解決に向けて調べ、議論し、学ぶ能動的な授業形式のことである。
大学で広がり、小中高校にも急速に導入されつつある。

これって、好機到来? 喜んでいいの? この方針の背景は何? 高校は本当に変われるの? 大学入試改革と大学入学希望者学力評価テスト(仮称)はどうなるの?
今、たくさんの問題が高校を取り巻いている。皆さんの学校にはどんな変化が起きているのか。
ざっくばらんに話し合うことで問題を整理し課題を見出したいと思っている。
資料は可能な範囲で用意します。

4 参加費   1,500円(会員無料)

2月 27

梅が咲き、早桜も咲き、春が近づいてきました。

4月から8月のゼミの日程が決まりましたから、それをお知らせします。

参加希望者は今からスケジュールに入れておいてください。
また、早めに(読書会は1週間前まで、文章ゼミは2週間前まで)申し込みをしてください。

遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加も可能にしました。
申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。

ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

読書会テキストは決まり次第、連絡します。

1.4月以降のゼミの日程

基本的に、文章ゼミと「現実と闘う時間」は開始を午後5時、
読書会と「現実と闘う時間」は開始を午後2時とします。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。

なお、「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

2016年
4月9日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  24日(日)読書会と「現実と闘う時間」

5月の連休中に集中ゼミを予定(4月29日、30日か、5月7日、8日)
希望者は前もって連絡ください。

5月14日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  28日(土)読書会と「現実と闘う時間」

6月11日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  26日(日)読書会と「現実と闘う時間」

7月9日(土)文章ゼミと「現実と闘う時間」
  24日(日)読書会と「現実と闘う時間」

8月に合宿(8月18日から21日)

2月 26

「家庭・子育て・自立」学習会をスタートしました

昨年の秋から、田中由美子さんが責任者となって、家庭論学習会が始まりました。

その学習会の目的や概要と、最初の2回の報告をします。

■ 目次 ■

※以下、昨日のつづき。

2.斎藤学著『アダルト・チルドレンと家族』学習会  田中 由美子 
(第1回、2015年11月8日)
(1)生きる目標の問題が核心
(2)親による無意識の刷り込み

3.斎藤環著『社会的ひきこもり』学習会  田中 由美子
(第2回、2015年12月13日)
私たち大人の「ひきこもり」

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◇◆ 2.斎藤学著『アダルト・チルドレンと家族』学習会  田中 由美子  ◆◇

斎藤学著『アダルト・チルドレンと家族』(学陽書房)学習会
                      (第1回、2015年11月8日)
 
「アダルト・チルドレン」とは、家庭の中、主に親との関係の中で深く傷付いた人を指す。
そのトラウマに苦しむ人の様々な事例は、壮絶である。
しかし、予想以上に、私たちの多くは、本書をたんに他人事としては読めない。
自分の親との関係や、子どもとの関係、夫婦関係など、様々な経験が思い起こされるのである。
今回の学習会でも、父親は「仕事人間」で、母親は過干渉、かつ肝心なことには無関心で、
いつもどこか不機嫌という家庭像、母親の顔色を見て生きてきて「自分がない」という思い、
しかし自分も親と同じ子育てをしているのではないか、つい子どもを過保護にしてしまうという悩み等々が出された。
それは、本書でこの問題の本質としている、「共依存」的生き方の問題を、私たちの多くが抱えているからだろう。
つまり、自分というものを持たず、誰かに必要とされることを生きがいとするような生き方を、
親から継承してきた人が少なくない。
そのことは、親子の強力な一体化という、現代の深刻な問題に真っ直ぐにつながる。
つまり、親子の「共依存」関係のために、親の子離れが難しく、子どもの親からの自立が難しくなっている。
しかし、今回の学習会では、子どもを持つ参加者も、自分の親との関係を振り返る話が中心となった。
そして、子どもの問題をどうするのかという話ではなく、私たち自身のことを話し合えたのは正しい方向だったと思う。
私たちは、まず自分自身の問題に取り組むしかない。子どもを救うとしたら、そのことによってのみである。
斎藤も、まず親自身が自分の親との関係の問題を直視することが重要で、そこからしか始まらないと述べている。

(1)生きる目標の問題が核心
初回の学習会であったにもかかわらず、何を目標に生きるのかというところにまで話が進んだ。
まさにそこが本丸ではないだろうか。
今回のテキストのアダルト・チルドレンの問題も、「共依存」や子どもへの過干渉の量の問題ではなく、
まずは大人がどんな目標を持って生きるのかが問われるのだと思う。

問題のない家庭を目標とする生き方
学習会の中で、できるだけ問題のない家庭を目指したいという意見が出された。
私はその意見に違和感を持ち、それでは子どもが問題を抱えていても外に表せないのではないかと疑問を投げかけた。
ところが、後でゆっくりと考え直してみると、それは無意識のうちにも私を含めた多くの人の望みだ。
誰もが問題は避けたい。また、目の前に問題があっても、なかなか真正面から見ることができない。
大した問題ではない、否問題なんかないんだと思いたい。
しかし、この意見を出した方自身が話されたように、実際には問題は起こり続け、避けられない。
そうであるのに、親が、問題が起こらないようにという減点方式なら、子どもには、究極的には
何も行動しないという選択肢しか残らないのではないか。何か行動を始めたら、問題が起こる確率が跳ね上がるからだ。
私に目標がなかったときの我が子の思春期の無気力には、そういう意味もあったのではないか。
問題に向き合い、取り組んで生きていこうということでないなら、問題を避けて生きようということしか残らない。

家族の幸せを目標とする生き方
別の方からは、家族の幸せを目標としているという意見が出された。
夫についても、外で働いているから何か特別なことがあるのかと考えると、突き詰めれば、
彼の幸せも子どもや自分の幸せであると。
そういうことが共依存だが、共依存し合ってお互いが幸せであり、そのことがお互いに高め合っていくという
よい連鎖になるなら、共依存は悪いことではない。また、結婚して20年経った今は、ここまでの心理的な幸せ、
葛藤があり、いろいろなことを乗り越えてきて、自分についても、夫についても、そういう確信があるという話だった。
確かに、そもそも、人間は、依存しなければならない状態で生まれてきて、関係し合い、分業し合い、
依存し合って生きるものである。「共依存」がたんに「自立」に対立する、悪いものという訳ではない。
足を引っ張り合うような「共依存」が問題なのであって、切磋琢磨し合うような「共依存」は、むしろ、
人間が生きる醍醐味である。
彼女の話を聞きながら、主婦として家事をするだけではなく、自分の家庭をどうつくるのかということを
よく考えてこられたのだろうと感じた。子育てを巡っても夫婦でよく話し合ってこられたのだろう。

ただし、家族の幸せとは何かという問題が残るのではないだろうか。
同じ方が、娘を大学に入れても、それがゴールじゃない、次は、結婚できるのか、そっちの方が大事だったんじゃないか
という不安を話された。
子どもに、共に生きようという伴侶を得てほしいと願う気持ちは、とてもよくわかる。
また、自分の家庭をつくって生きてほしいという気持ちもわかる。
しかし、家族の幸せ自体を目標にして、それを達成することが可能だろうか。
むしろ、結婚や子育ては新たな問題を生みさえする。その中で、家族がそれぞれどう生きることが、家族の幸せなのだろうか。
それはどう実現していけるのか。

社会的な観点を持つ生き方
 私自身が、家族の無事や幸せを求めて生きてきた。
 さて、この後の人生を、何を目標に、どう生きるのか。
また、私たち、大人がどういう生き方をすることが、子どもたちがよりよい人生を送ることにつながるのか。
社会という観点を持つ生き方が必要なのではないかと思う。しかし、それは具体的には何をどうすることなのだろうか。
学習会の中で考えていきたいと思う。

(2)親による無意識の刷り込み
 『アダルト・チルドレンと家族』の第4章、「「やさしい暴力」」の節、p139に以下の記述がある。
「世間や職場の期待とはまず統制と秩序であり、次いで効率性です。親たちはしばしば、
これら世間の基準にそって生きることを子どもたちに強制するのです。子どもたちはこうした状況のなかで、
親の期待を必死で読み取り、ときには推測し、それに沿って生きることを自らに強いるという自縛に陥ります。」
 
 私はこの中の「強制する」という言葉に違和感を持った。
学習会で、それに対して、何故私が違和感を持つのかをいう疑問が出された。
親の立場としても、子どもの立場としても、とても重要な箇所だ。
私が「強制する」という言葉に違和感を持つ理由は、親が「世間の基準」が自分自身の基準ではないことを意識し、
さらに、子どもにそれを押し付けていることも自覚したうえで「強制する」ことを意味しているように感じられるからだ。
しかし、実際の「やさしい暴力」とは、「世間の基準」以外の基準を持たない親が、
それを子どもに押し付けているという自覚もなく押し付けることだと思う。その基準に従う以外に、
親も子も生きる道がないという強迫観念の中で、子どもと共に生きることだ。
確かに、それは正に、子どもにその中で生きることを強いる、「強制」だと言える。親にその全責任があり、
子どもにはそれ以外の人生を選ぶ能力がないからだ。
しかし、「強制する」という言葉では、むしろ、親が自らの子どもへの「やさしい暴力」を自覚するところから
遠ざけると感じる。親は、自分は子どもに「強制」などしていないという認識に留まるのではないか。
また、子どもの立場としても、親に「強制された」と被害的に考え続けたとしたら、その問題を解決できない。
それは主に中学生クラスの授業の中で考えてきたことだ。
中学生たちは、親の価値観を刷り込まれたまま行き詰まる。
しかし、それがどんな価値観であっても、刷り込まれたこと自体が問題なのではなく、それが人間になる前提だと
考えなければ、一歩も前に進めない。生まれたときから毎日毎日、「これ、美味しいね」、「おもしろいね」、
「きれいね」、「それはダメ」と親に話しかけられたから、人間に育ったのだ。
刷り込まれなければ人間にはなれない。
そうやって親に与えられた人生を、いかに意識的、主体的に、自分の人生として捉え直すのかというテーマを、
私も含めて誰もが背負っている。
 だから、親が子どもに世間基準の生き方を「強制する」、ではなく、「無意識に刷り込む」という言葉を、私は使いたい。

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◇◆ 3.斎藤環著『社会的ひきこもり』学習会  田中 由美子 ◆◇

斎藤環著『社会的ひきこもり』(PHP新書)学習会
(第2回、2015年12月13日)

私たち大人の「ひきこもり」
                                 
今回「ひきこもり」についてのテキストを取り上げたのは、現在若年無業者(ニート)が70?80万にも上るという
社会問題について学ぶためだけではない。
まず、この問題が、私たちの子育ての問題の核心とつながっていると感じるからだ。
一言でいえば、親子の一体化の問題だ。そもそも、家庭には、必然的に家族間の「共依存」関係が強い中で、
子どもを「自立」させていかなければならないという矛盾があると言える。親として、子どもに何をどう指導し、
また子どもの自主性、主体性をどう尊重するするのかという問題は、子育ての中で日々直面するものではないだろうか。

また、子どもの「ひきこもり」増加は、私たち大人の「ひきこもり」的生き方がそのまま反映したに過ぎないと考え、
私たち自身を振り返るためのテキストだった。まず、私たち大人に、他者と深く関わるのではなく、
あたりさわりなく付き合う傾向が強いのではないだろうか。
斎藤は、親が社会とのつながりを持っていようとも、肝心な「ひきこもり」の問題に関して社会との接点を
失うという問題を指摘している。特に、子どもの「ひきこもり」という最も大きな困難を避けて仕事に逃避する
(=ひきこもる)父親の問題だ。ただし、最近、父親が子育てに参加することで、より強力な親子の一体化に
つながるケースもあり、一筋縄ではいかない問題である。
また、学習会の中で、男性が仕事にひきこもっているという言い方ができるとしたら、主婦も家庭の中に
ひきこもっているという見方もできるという意見が出された。主婦が成長の機会に乏しいのではないかと
いう問題提起だったと思う。
私自身は特に40代に社会からひきこもっていたと感じている。多少の仕事や付き合いはあっても、
子どもの思春期に戸惑いながら、その問題に関して家庭の外でオープンに話し合う場はなかった。
20代の参加者からも、友だちと群れ、顔色をうかがい合い、同調し合う傾向や、その裏での陰口の問題が出された。
私が授業で接する中学生たちも同じだ。「傷付けてはいけない」や「他人に迷惑をかけてはいけない」が
至上命題として刷り込まれ、その裏で陰口やいじめが日常化している。
私たち大人自身が「ひきこもり」的生き方をしていることが、「ひきこもり」や不登校が多発するような社会を
つくったのではないか。その大人の「ひきこもり」の解決なしには、子どもの「ひきこもり」の解決はない。

また、人が人と薄い関係しか持たないという問題は、今の社会だけの問題ではないように思う。
私の親も、そのまた親も、私の知る限りの世代の多くの人が、人と対等に本音でぶつかり合って生きたとは思えない。
貧しい時代を生き延びるために共同体やイエの中で生きた昔の人たちも、個人がバラバラでもとりあえず
生きていける私たちも、その「ひきこもり」的生き方に大差はなく、基本的には同じ生き方が継承されてきた
のではないだろうか。
人が互いにひきこもるのではなく、深く関わって、お互いを発展させるような関係は、私たちが今ここから
つくっていくべきもの、つまり、私たちの課題なのではないだろうか。さて、それはどういう生き方なのか、
それが私たちのテーマだ。

2月 25

「家庭・子育て・自立」学習会をスタートしました

昨年の秋から、田中由美子さんが責任者となって、家庭論学習会が始まりました。

田中さんは、鶏鳴学園の塾生の保護者でしたが、6年前から中井ゼミ(大学生、社会人のクラス)で、
ヘーゲル哲学を中心とした学習を積み重ねてきました。5年半前からは鶏鳴学園に中学生クラスを開設し、
担当してきました。

その田中さんのテーマは「家庭・子育て・自立」であり、満を持して、その学習会が始まったわけです。
今回は、この学習会の目的や概要と、最初の2回の報告をします。

■ 目次 ■

1.「家庭・子育て・自立」学習会をスタートしました 田中 由美子
(1)家庭についての思想をつくる場
(2)オープンに学び合う場
(3)「自立」を考える場

※ここまでを本日に掲載。

2.斎藤学著『アダルト・チルドレンと家族』学習会  田中 由美子
(第1回、2015年11月8日)
(1)生きる目標の問題が核心
(2)親による無意識の刷り込み

3.斎藤環著『社会的ひきこもり』学習会  田中 由美子
(第2回、2015年12月13日)
私たち大人の「ひきこもり」

※ここまでを明日掲載。

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◇◆ 1.「家庭・子育て・自立」学習会をスタートしました 田中 由美子 ◆◇

(1)家庭についての思想をつくる場
数年前から、鶏鳴学園の大学生・社会人ゼミに参加して、自分が築いた家庭について、
また、私が育った実家について振り返ってきた。
夫婦や子育ての問題について考え、また、両親の老後の問題にも取り組んでいく。
子育てが、社会で働く人間を送り出す仕事であるのに対して、
老後の問題は、それまで社会で働いてきた人が自力では生活できなくなったときに、
その生活をどう支えるのかという問題だ。
また、私自身はどう老いて、どう死ぬのか。
子どもを育てる中で、自分の子ども時代から思春期をある意味辿り直し、「復習」してきた。
そして、今後は親の介護や看取りに際して、
自分の今後のことを「予習」していく。それはどういうことなのだろう。

また、ゼミでは、私だけではなく、その多くが独身者であるゼミ生全員が、家庭、家族の問題を考えてきた。
直面する問題に対処しようとするとき、自分の生き方、考え方をつくっていこうというときに、
その問題は外せない。
私たちは誰もが、自分の人生を生きるために、一つの家庭で子どもとして育てられたことを
相対化する必要がある。

家庭、家族とは何か、自分はどう育てられたのか、また、子どもをどう育てるのか、
親の介護とは何かということについて、私たちそれぞれが自分の思想をつくっていこうということが、
学習会スタートの趣旨だ。まず、テキストを切り口として、私たちの生活の実感を率直に話し合い、
それぞれの生活を振り返ることができるようにしたい。また、その上で、問題解決のための方向性を、
テキストも手掛かりにして考えていけるような学習会を目指す。

(2)オープンに学び合う場
家庭の外での仕事については、たいてい同じ仕事をする仲間が周りにいて、学び合う場がある。
また、日々社会的な評価を受ける。
それに対して、家庭内の仕事、子育ては、各々の家庭という閉じた場で行われる孤独な仕事になりがちだ。
「家庭の恥」を外にさらしたくないという気持ちも働きがちだ。また、子育てへの評価は、親自身の価値観
の中に閉じたものになりやすい。
そして、子育てに関する自己教育の機会は乏しい。
私は、子どもの思春期に戸惑い、悩んだときに、本を読んだり、夫や友だちに愚痴をこぼしたりするだけで、
問題を根本的に考えて深められる場を持たなかった。
私たちの親の世代とは異なり、今は、一般教養的なことを学ぶカルチャーセンターや娯楽の場、また
ママランチなどの交流の機会には事欠かない。しかし、子育てなどの悩みについて本気で語り合い、
親自身の生き方について考えられる場は、今も乏しいのではないか。
PTAも、行事などのときに教師の手伝いをする役割しか担っていないのが現状だ。

しかし、本来子育てとは、子どもを社会に送り出すことを目的とする、正に社会的な仕事だ。
主婦の仕事と言えば、私はそれを家事だと考えがちだったが、それだけではない。むしろ、どう子育てするのか、
どういう家庭をつくるのか、そして、どう子別れするのかという思想をつくっていくことが中心にあるべきだった。
 そういう広い視点を持つことはなかなか難しく、いきおい、家事の完璧を追求することに偏ったり、
子どもの過保護や過干渉に陥りやすい。
 また、家庭の思想をつくることは、主婦に限らず、全ての母親、父親の仕事だ。
こういう大人の学習会の必要性を、中学生のための国語の授業に取り組む中でも感じてきた。
より広く言えば、どういう社会をつくっていくのかという思想が必要だ。
今現在の社会に合わせて子どもを育てようとするのではなく、こうありたいという理想の社会に向けて
働く子どもを育てようとするのが本来だ。そのために、現実社会にどれだけ向き合い闘えるのかが、
まず親自身に問われる。親の人生を切り拓くことが、子どもがその人生を切り拓くことの土台になる。
つまり、親の「自立」が問われるのではないか。
子育てから、また自分自身が「育てられた」ことから、社会を考え、また子育て、その他の問題を
社会的な視点をもって解決するために、オープンに語り合い、真剣に考えていける場をつくりたい。

(3)「自立」を考える場
「自立」とは何か、何をして、どう生きることが「自立」なのかというところで、私は長年混乱し、
つまずいていた。
また、それは私だけの問題ではなく、世間一般に根深い混乱があるようだ。大学生・社会人ゼミの
女子大生が、母親を「専業主婦で、ダメだ」と断じ、一方で、女子高生が「男が女を養う」と何の
留保もなく言う。梅棹忠夫の、経済的基盤を持たない主婦批判に対して、女子中学生が同調したかと思えば、
一転、感情的に反発する。
本来、「自立」の基準は、女性が外で働いているか否かではない。
家庭の中でも外でも、社会的な展望のある自分のテーマを持って生きているのかどうかだけが、その基準である。
男性も同様だ。社会で働いていることが、即、どういう社会をつくり、どういう家庭をつくるのかという展望を持ち、
「自立」していることを意味する訳ではない。
家庭内の仕事は、ある意味最も「共依存」の問題が問われる場だ。それは、家庭が、人間の本性がむき出しになり、
第三者の入る余地に乏しい閉じた場であるという話に留まらない。
また、妻が夫に経済的に依存することが多いからでもない。むしろ、そのように必然的に依存し合って生活する中で、
同時に個々人の「自立」が求められ、子どもを「自立」させる必要があるからだ。
親の「自立」、自分の「自立」を問うていきたい。

※明日につづく。

2月 16

旧約聖書読書会の感想 その5

昨年の9月から12月まで、旧約聖書(中公クラシックス)の読書会を4回行いました。

参加者の感想を掲載します。

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◇◆ 5.神を必要とし、人間になること 塚田 毬子(大学生) ◆◇

 旧約聖書は大学の授業で読んだことがあった。講読ではなく、旧約と新約の有名な個所を半期でざっと
味読する形の授業だった。その授業のねらいは西洋文化の根底を知ることであったので、聖書をあらゆる
文化の前提としてきたヨーロッパと、日本をはじめとする東アジアの文化のあまりの違いに異文化理解の
難しさを痛感した経験だった。鎌倉時代になってようやく宗教が民衆に根付き始めた日本と比べるとレベルが
違いすぎて、かなわないと思った。
今回改めて旧約聖書に接し、特に出エジプト記を興味深く読んだ。まず、モーセとアロンは一心同体であると
感じた。モーセはヤハウェの言葉を聞くが、民に語る言葉を持たないため、モーセの口の役割をアロンが担う。
モーセが抽象であり、アロンが具体である。正確には、モーセが思想であり、アロンはその表象であると言える。
その重要性が顕著に表れるのが28章の「金の子牛事件」であり、モーセがシナイ山に登り行方知れずになった途端、
民は分かりやすいイメージを求め、禁じられている偶像を作りそれを崇め奉るなど急に堕落し始める。
モーセが直接ヤハウェの声を聞くことができるため抽象のほうが優位なのだが、具体を伴わないとヤハウェと
民を繋ぐことができない。両者がバランスよく共にあることが必要とされていると思った。出エジプト記では何度も、
モーセが民に語っているかのように書かれているが、正しくはアロンが口の役割を担っているはずので、
アロンの記述の省略に違和感を覚えた。
また、4章16節にモーセがアロンの神となる、とヤハウェが明言しているのが気になった。出エジプト記中、
契約はヤハウェとイスラエル民族の間で成立するのだが、実際にヤハウェの言葉を聞くことができるのはほとんど
モーセのみであり、民はむしろ神の言葉を聞きたがらない。ましてやヤハウェ自身がアロンの神はモーセであると
言うのはどういうことなのか。23章のエテロの助言は、宗教を民を統治するための道具にしているように感じられた。
ここでの契約関係は人と神の一対一の関係ではなく、神と民の間に代表者を媒介とする。また、民がヤハウェを必要
としているとはほとんど思えない。民はヤハウェに連れられてエジプトから出てくるが、荒野での過酷さに
事あるごとにモーセに文句を垂らし、エジプトでの奴隷生活の方がましだと愚痴る。しかし重要なのは、
モーセとヤハウェの関係よりも、民がヤハウェを真に必要とすることであると思った。民族全体ではなく
民の一人一人と神との間に契約関係が結ばれれば、民を統治しようとする代表者は必要が無いので民によって
殺されてしかるべきだと思った。民は荒野での苦しい生活よりも快楽のあったエジプトでの奴隷生活を望むが
それは明らかに間違いで、どんなに過酷だろうと荒野に出て、神を必要としなければならないということだと思う。
イスラエル人を奴隷として痛めつけてきたパロは、蛙・虱・虻等々の嫌がらせをされてもイスラエル人に
暇を出すのを頑なに拒み、家臣に「いつまであいつにかきまわされるのですか」と冷静に忠告されるほど
何回も同じことを繰り返しているのだが、パロの心を強情にしているのはヤハウェであり、ついにパロに
出エジプトを許させたのもヤハウェであり、エジプト軍にイスラエル人を追って来させて海に沈めたのも
ヤハウェである。全ての黒幕はヤハウェであるので、人間の自由意志といっても神の自作自演のようではないか
と思った。あとは、金の子牛を作って大騒ぎしている民を見たヤハウェが怒りに任せて民を皆殺しにすると言う
のをモーセがなだめるが、山を下りて実際に騒ぎを目の当たりにしたモーセも怒りが燃えてしまい、
ヤハウェ直筆の石板を投げつけて粉砕する場面を個人的には最も面白く読んだ。

 読書会に参加し、大学の授業での聖書の読み方は一般教養としての知識に過ぎなかったと感じた。
それに対し中井さんの読み方は、中井さんの立場から聖書を考えるもので新しい発見があった。それまで私は、
神と人間は親子のような関係であり、神は自らが創造した人間がどれほど愚劣な行いをしても、それを見捨てず
愛を持って接するという印象を持っていた。しかし旧約の神は妬む神であるということ、そもそも契約は
対等でないと結べないこと、契約関係は双方向の関係であるので神も人間を必要としているということを学んだ。
神も人間を必要としているというのは、神は人間のことを忘れたり思い出したりするので初めはそんなことが
あるのかと思ったが、確かに人間を必要としていなければ妬むこともないだろう。30章14節で他の神を崇拝する
ことを禁じていることからも、旧約の時点では拝一神教であり、数多く存在する神からヤハウェだけを神に
「選ぶ」ことが求められていると思った。また、新約聖書での「愛」は、隣人愛など慈悲深いイメージだが、
旧約の段階で「愛」と呼べそうなものはほとんど執着であると感じた。
 旧約聖書との関連で読んだヘーゲルの『小論理学』の一部分も面白かった。ヤハウェが、善悪の木の実を
食べたアダムとエバのことを「われらの一人のように」なったと言うのは、認識は神的なものであるからだ
ということ。生命の木の実を人間から遠ざけたため人間の命は有限であるが、認識は無限であるということ。
中井さんの「原罪のただ中に救済がある」という言葉はまだ完全に理解できていないが、善悪を知ったことに
よって人間は動物とは異なる存在になり、自己内二分があるから精神を再び統一へ復帰させることができるのだと
把握した。それこそが最も人間的な営みであると感じた。
 イザヤ書については、中井さんが「イザヤ書こそが旧約の核心である」と仰っていたが全くついていけなかった。
自分で読んでいても途中で飽きて投げ出してしまっていたが、時間をかけて全体を掴みたいと思う。