5月 12

6月の読書会の開始時刻の変更があります。

6月21日(日曜日)の読書会(テキストは『新しい家庭像を求めて』松田道雄著)

開始時刻を午後5時に変更し、午後5時から午後7時頃まで読書会を行います。

読書会の参加希望者は早めに(読書会は1週間前まで)連絡ください。
ただし、参加には条件があります。

参加費は1回3000円です。

『新しい家庭像を求めて』は中古品でしか入手困難です。
図書館で借りられるならそれでもかまいません。
いずれにしても早めに準備してください。

4月 15

読書会テキストが決まりましたので、お知らせします。

早めに購入して、準備してください。中古品でしか入手困難な本もあります。

読書会の参加希望者は早めに(読書会は1週間前まで)連絡ください。
ただし、参加には条件があります。

参加費は1回3000円です。

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読書会テキスト

(1)4月26日(日曜日)午後2時より

ヘーゲル『法の哲学』(中公クラシックス版。私は『世界の名著』版で読みます)
第3部の第2章「市民社会」。私の版で約60ページほど。

ヘーゲルによる近代市民社会論。資本主義社会と労働の分析です。

(2)5月24日(日曜日)午後2時より
『資源の循環利用とはなにか──バッズをグッズに変える新しい経済システム』
細田 衛士 (著) 岩波書店 (2015/2/14)

経済学から環境問題を考えた本です。

アマゾンの内容紹介には以下のようにあります。
「廃棄物」という考え方はもうやめる!
天然資源の確保と廃棄物の発生抑制という二重の資源問題は同時に解決できるか。
市場取引には資源利用の過程で生じる環境負荷などのコストは反映されない。
市場任せでなくモノの流れを制御し、生産と廃棄を統合した国内資源循環システムを
つくるために必要なものとは。グッズ(有価物)とバッズ(逆有償物)の理論を提唱
した著者がこの難題に挑む。

(3)6月21日(日曜日)午後2時より

『新しい家庭像を求めて』松田道雄著 筑摩書房 (1979/12)

少し古い本です。アマゾンの中古品で入手できます。図書館で借りても構いません。
家庭、子育て、女性の自立、主婦の問題を考えます。

人間が生まれて、老いて死ぬまでの一生をまるごと支えてきた「家」の話から始めて、
移り変わる時代背景の中で、女性たちが家族の中で、どのように、どんな思いで生き
てきたのかが、具体的に描かれています。
また、その系譜の中で今も、何故、どのように自立できないでいるのか、子どもを
過保護にしてしまうのか、
今後、女性としてどう勝負できるだろうかと、丁寧に考えていると思います。

(4)7月19日(日曜日)午後2時より

日本語学の三上章を取り上げます。テキストはまだ決まっていません。

三上は「象は鼻が長い」のハとガを研究し、ハは主語を示すのではなく、主題を示すのだとして、
西欧文法の輸入業者でしかなかった日本語の研究者たちに衝撃を与えました。
「日本語には主語がない」「主語がないから非論理的だ」「日本人は情緒的な民族だ」などと
言われてきたのが、いかに根拠のないものだったかが、わかるそうです。

4月 09

2015年1月17日から19日まで、尾道に滞在しました。

目的は須田国太郎と小林和作の絵画を見ることと、大林監督の尾道3部作のロケ地めぐりにありました。

須田国太郎の絵は近代の日本の画家の中で私が特別に愛しているもの。
彼の絵を見ていると、私の末梢神経から体全体へと強い快感が広がるのです。
それがどこから来るのかよくわかりませんが、とにかく大好きな画家です。

小林和作は須田の親友です。須田の文章で初めて知りました。
須田がその人物と画に惚れ込んでいることがわかり、一度その実物を見てみたかったのです。
小林は尾道を拠点にしていて、尾道の文化全般に大きな影響を与えた人なようです。

小林の遺族がその絵画などを市に寄贈していて、それをもとに1980年に尾道市立美術館が生まれています。
今回、尾道に行ったのは尾道市立美術館所蔵の小林の絵画がこの時期にまとまって公開されていたからです。

また、運よく同時期に尾道の隣の福山市のふくやま市立美術館で「須田国太郎と独立美術協会」の展示を行っていて、
そこで須田の作品を数多く(20点ほどありました。小林も3,4点)見ることができました。

須田国太郎と小林和作について、今回考えたことをまとめておきます。

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◇◆ 須田国太郎と小林和作 ◆◇

(1)須田国太郎と彼の親友小林和作の深い交流が確認されました。

須田は尾道によく来ていたようです。2人で共作して楽しんだ作品もありました。
福山市の神辺町には大林、村上という須田作品の大蒐集家がいて、それも須田が福山や尾道によく来ていた理由のようです。
大林、村上氏のもとにあった須田作品が、寄贈、寄託などで、ふくやま美術館に収蔵されていて、今回の企画展も可能だったのです。

(2)2人が親友になったこと。

須田と小林が知り合ったのは、独立美術協会に誘われて入会したのが同時期だったことのようです。そこで意気投合したらしい。

須田は京大で西欧の絵画理論を学んだ研究者。それがその理論を実践で確証しようとしているうちに画家になってしまった変わり種。
西欧留学でも、パリではなくスペインのプラド美術館に通い模写に没頭したらしい。帰国後個展を開くがすでに40歳をこえていました。

小林は京都で日本画を学ぶが、その後洋画に移り、風景画家として世に出たのが40歳をこえていました。
ともに特異な経歴であり、世に出た時に2人がすでにおっさんであったことも、2人を結びつけたのでしょうか。

時代は、西洋絵画と日本画の総合、日本人が油絵を書くことの意味が問われていました。
須田の絵には、根底に日本的な精神性、水墨画の精神があると思います。彼は能の謡や舞にも入れ込んでいて、舞台のスケッチも多数あります。
今回の「須田国太郎と独立美術協会」に、長谷川等伯の冬の松図のように墨で書かれた屏風絵がありました。小林などのアドバイスも加わっているようです。

小林には南画風の精神が横溢しているように感じます。ユーモラスでありながら、核心をつかむ能力と、強靭なふてぶてしさがあります。
それは今回購入して読んだ彼の文集『和作 花咲く 花咲爺』からもわかります。

日本の精神性の上に、油絵を描くというようなあり方が2人を結びつけたのでしょうか。
しかし、2人は同じ日本と言っても、水墨画と南画というある意味では対極的なありかたでした。
だからこそ、惹かれあったのでしょうか。

(3)須田の絵画の秘密
 須田の絵画は、精神としては水墨画なのだと思います。
 彼の画面は、クリーム色の肌合い(マチエール)がたまらなく心地よいのですが、その意味がよくわかりませんでした。

 一方で、彼の画面は黒が支配していて、全体が黒々としていることが多いのです。
その黒の意味を考えました。それは水墨画と同じで、黒の中にすべての色があるのではないか。
黒はすべての色を吸収した結果ですから、すべての色を内に含んでおり、それが外化します。
そのように、彼は黒の画面を作っていると思いました。

他方で、白(クリーム色)もすべての色を内在させており、そこからすべての色が現れてくる。
色が生まれ、色が消える、その全過程をとらえようとしているのが須田の絵画ではないか。
彼のクリーム色主体の明るい側面にも、黒主体の側面にも、その後ろに同じ運動がある。

今回、以上の3点を考えてみました。

4月 08

2015年1月17日から19日まで、尾道に滞在しました。

目的は須田国太郎と小林和作の絵画を見ることと、大林監督の尾道3部作のロケ地めぐりにありました。

須田国太郎の絵は近代の日本の画家の中で私が特別に愛しているもの。
彼の絵を見ていると、私の末梢神経から体全体へと強い快感が広がるのです。
それがどこから来るのかよくわかりませんが、とにかく大好きな画家です。

小林和作は須田の親友です。須田の文章で初めて知りました。
須田がその人物と画に惚れ込んでいることがわかり、一度その実物を見てみたかったのです。
小林は尾道を拠点にしていて、尾道の文化全般に大きな影響を与えた人なようです。

小林の遺族がその絵画などを市に寄贈していて、それをもとに1980年に尾道市立美術館が生まれています。
今回、尾道に行ったのは尾道市立美術館所蔵の小林の絵画がこの時期にまとまって公開されていたからです。

また、運よく同時期に尾道の隣の福山市のふくやま市立美術館で「須田国太郎と独立美術協会」の展示を行っていて、
そこで須田の作品を数多く(20点ほどありました。小林も3,4点)見ることができました。

大林監督の尾道3部作(「転校生」「時をかける少女」)を見たのは、すでに30年以上前。
寺社仏閣と古い街並み、海岸近くまで張り出した山(坂道)と海とが一体となった地勢に引き付けられて、一度行ってみたいと思っていました。

それが今回実現しました。

連日、ゼミ生のA君が案内をしてくれました。尾道は彼の郷里なのです。
A君のおかげで、尾道の現地の方々と、尾道の問題や文化について語り合うことができました。
それがとてもありがたかったです。尾道が私の内側に入ってきた実感があります。

3日間を振り返り、
須田国太郎と小林和作について、今回考えたことをまとめておきます。

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◇◆ 尾道の3日間 ◆◇

 2015年1月17日から19日までの3日間を、1日ごとに振り返りたいと思います。

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1月17日

(1)昼から尾道市立美術館で学芸員の方に案内してもらい、展示中の小林和作の絵(代表作20点ほど)を見ました。
彼は小林を「ヤクザの親分のような人」「尾道の天皇」と称していました。
小林が尾道で後半生を過ごすことになった理由では
「尾道では人との関係ができたから居座ったので、尾道の風景と彼の絵画には関係はない」と説明していましたが、
彼の風景画は、この尾道の地勢、気候、風土において確立したのだと思います。須田はそう言っています。
 なお、バブル期に地方でもたくさんの美術館が設立されています。その設立はよいとして、
その後の維持費は人件費も含めて大変な負担になっていると推測します。
尾道市立美術館の学芸員は1人しかいないようです。

夕方に、尾道駅から近い「おだ画廊」で和作の絵を10点ほど見せてもらいました。
日本画も数点あり、掛け軸も見せてもらいました。掛け軸は素晴らしかった。
和作にとって日本画も西洋画も、それほど違いはないように感じました。

その店主と話しました。先代が和作との直接の付き合いがあったようです。
地方での美術館と画廊との提携などについても聞いてみました。
一部の美術館では画廊と学芸員が協力して展示を企画するようなことも実現しているようですが、尾道にはないようです。

(2)美術館の周辺のロケ地めぐりもしました。

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18日

(1)昼からお隣の福山市に行き、ふくやま美術館(福山市立)で「須田国太郎と独立美術協会」の展示
(収蔵品の展示ですが、常設展示の一部を企画展風にしたもの)を見ながら、
学芸員の方に話を聞きました。
須田の水墨画風の松図(屏風)、和作らとの共作の掛け軸や共作で絵付けした焼き物などもありました。

尾道美術館とふくやま美術館。美術館によって、企画力に大きな違いがあることを痛感します。
ふくやま美術館では常設展の中にも、一部に年数回の企画展を実施しています。
美術館それぞれの予算や、スタッフ数などは違いますから、ふくやま美術館には余裕があると言えるかもしれません。
しかし、何よりもそれは、志の高さの問題であり、トップの考え方によるのだと思いました。

(2)その後、古い民家の再生と斡旋仲介(尾道全体の再生)をしているNPOが再生を試みているガウデイハウス(と呼ばれる)など、
彼らの拠点と駅の裏の散策からロケ地めぐりをしました。「転校生」で2人が入れ替わってしまう場面の神社とその石段を見ました。

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19日

(1)午前中は小林和作の旧宅を訪れました。ここを須田がしばしば訪れて、2人で語り合ったり共作していたのかと思うと、感慨がありました。
さらに、尾道大学の美術館で小林和作のスケッチ10点ほどを見ました。

(2)尾道のロケ地めぐり(「転校生」の主人公の家)をし、タイルのある小道(「時をかける少女」)を発見して喜んだり、ミーハーそのものですね。

(3)午後に、古い民家の再生をしているNPOの代表・豊田雅子さんと話しました。
  JTBの海外のツアーガイドをしていた普通の女性が、故郷にUターンしてからNPOの代表として大活躍をするまでの物語も面白かったです。

  そして今後の課題の課題から出てきた
「港町は職人を育てない」「職人を育てる枠組みを作りたい」とのコメントが、尾道を理解するうえで、興味深かったです。

3月 31

東京国立博物館で4月28日(火)?6月7日(日) 特別展「鳥獣戯画―京都 高山寺の至宝―」が開催される。
国宝「鳥獣戯画」の実物を見るチャンスだ。

実は、この特別展は、昨年秋に京都で開催されていた。
それの巡回なのである。

私は昨年、京都にこの展覧会を見に行った。
そこで感ずるところがあり、それをきっかけに、考えたことをまとめた。

それはすでに昨年2014年10月28日のブログに掲載した。

本日、再度、掲載しておく。

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高山寺明恵上人の「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」 中井浩一

2014年10月16日に、京都博物館で「国宝鳥獣戯画と高山寺」展を見た。
高山寺の明恵上人を改めて強く意識した。
鳥獣戯画が高山寺に残された背景に、明恵が存在していることを意識したからだ。

明恵については以前から気になっていた。
河合隼雄が『明恵 夢を生きる』を出していて、
明恵が青年期から晩年まで膨大な夢日記を残していることを知っていたからだ。

今回の展示で、
明恵が傍らに置いていたイヌやシカの彫刻も愛くるしかったし、
聖フランチェスコのような「樹上座禅図」(明恵が自然の中で、リスや鳥たちに囲まれて座禅をしている)も面白かったし、
「仏眼仏母像」(明恵が身近に 置いた持仏像で、亡くなった母と仏が重なっている)も鮮烈だった。

展示の中で気になったのは、
明恵が周囲に置いていた画僧と協力して華厳宗の新羅の2人の坊主を主人公にした2つの絵巻(国宝です)を作っていたことだ。
なぜ、中国の偉い僧でなく、新羅の僧なのか。

帰ってから
白洲正子の『明恵上人』
河合隼雄の『明恵 夢を生きる』
上田三四二『この世 この生』の「顕夢明恵」
を読んだ。
いずれも面白かった。

新羅の2僧は、明恵の自己内の2つの自己なのだとわかった。

今回、初めて華厳宗に触れた。
華厳宗についてはまだ不明だが、
「あるべきようわ」を問う明恵には、強く共振するものがある。

「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」は明恵の座右の銘であり、「栂尾明恵上人遺訓」には以下のようにある。
 「人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)の七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり。乃至(ないし)帝王は帝王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきようなり。このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり」。

 河合隼雄は『明恵 夢を生きる』で次のように説明する。「『あるべきようわ』は、日本人好みの『あるがままに』というのでもなく、また『あるべきように』でもない。時により事により、その時その場において『あるべきようは何か』と問いかけ、その答えを生きようとする」。

「あるがママ」でも「あるように」でもない。
他方で、「あるべきように」でもなく、
「あるべきようわ(何か)」という問いかけである。

「ある」=存在 を問うことが、生き方(当為)を決める点が、真っ当だと思う。
「ある」といっても、ただの現象レベルが問題になるのではない。
存在の本質に迫ろうというのだ。そのためには、現実や自分や他者に働き掛けつづけなければならない。

「あるべきようワ」という表現には、「あるべきよう」を自他と現実社会に問いづけ、存在=現実=理念の形成を促し、その中に参加し、没入しようとする、明恵の姿勢がはっきりと示されている。

存在と現実と理念が1つであること、
夢(無意識)と現実(意識)が1つであること。
明恵はそれをよく理解し、それを生きたようだ。
つまり理念を生きたと言えるだろう。
私はヘーゲルを思っていたが、
その点になると、
河合はバカな二元論者になってしまうと思った。

明恵は栄西などの宗教者だけではなく、西行とも親しかったようで
すごい歌がある。

あかあかやあかあかあかやあかあかや
あかあかあかやあかあかや月

これはまさに
言葉が生まれるところから
生れていると思う。

2014年10月28日