1月 03

11月の読書会の記録 太田峻文

 (佐藤栄佐久『福島原発の真実』,清水修二『原発になお地域の未来を託せるか』)

 ■ 全体の目次 ■

 1、はじめに
 2、参加者の感想
 3、福島原発の問題を考えるための大きな背景(中井)
   →ここまで本日3日掲載
 4、佐藤栄佐久『福島原発の真実』の検討
 5、清水修二『原発になお地域の未来を託せるか』の検討
 6、記録者の感想
   →ここまで明日4日掲載

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◇◆ 11月の読書会の記録 太田峻文 ◆◇

 (佐藤栄佐久『福島原発の真実』、清水修二『原発になお地域の未来を託せるか』)

 1、はじめに

 11月26日(土)の午後5時から7時、鶏鳴学園にて読書会が行われた。
 先月に引き続き、東日本大震災をテーマに扱った2回目の読書会である。
 参加者は高校生2名、就職活動生1名、大学生1名、社会人2名、
 中井先生を含めた計7名。

 テキストは、佐藤栄佐久『福島原発の真実』(平凡新書)と
 清水修二『原発になお地域の未来を託せるか』(自治体研究社)の二冊。

 前者は、ながらく福島県知事として国の原発政策をめぐり、国、東電、
 経産省と闘ってきた佐藤栄佐久氏による告発本。
 後者は、30年あまり福島に住み続け、原発問題に取り組んできた著者が、
 今回の原発事故を社会科学、地方自治、経済的な視点から考察した書き下ろし。

 2、参加者のテキストについての感想

・清水さんの文書は文体的にも読みやすかった。
 特に社会学的な視点から電源三法、原子力政策というのを
 捉えているので分かりやすかった。

・原発が地域の自立を奪っているという事がはっきりと
 書かれており、面白いと思った。

・日本には原発の立地地域がたくさんある中で、なぜ福島県知事だけが
 国と喧嘩することができたのか疑問に思った。

・佐藤さんの著書を読んで、東京電力は変な考え方を持っているなと思った。
 清水さんの著書は、原発のなにが問題なのかがはっきりと
 書かれていて分かりやすかった。

・なぜ官僚は検証なしにブルドーザーで政策を進めてしまうのか。

・原発の「必要だから正しい、だから安全だ」という所に
 問題の核心があるのではないか。必要だから原価の計算を安く見積もったり、
 安全基準を作ったり、すかしたりしながらアメとムチで脅してやっていく。

・原発を推進するには様々な建前があると思うが、
 必要だからとにかくやる。そこにはロジックがまるっきり無い。
 これはとても恐ろしい事だと思う。

3、福島原発の問題を考えるための大きな背景(中井)

 〇55年体制

・日本は、戦争で戦時体制を維持する為に大政翼賛会を作り、
 電力会社はもちろんのこと、政治や各業界を再編成して
 一つにまとめていった。その体制が、戦後も55年体制として残っている。

・日本の経済成長を進める際に、この体制がものすごい大きな力を持ってきた。

 〇高度経済成長

・高度経済成長期には、55年体制があるところまでは有効に
 機能していった。しかし、高度経済成長は第一次産業を潰す形で
 第二次産業を押し進めていったため、労働力が地方から東京などの
 大都市に集中し、特に東北は高度経済成長のマイナスの部分を
 ひたすら背負ってきた。

・日本の経済発展ために犠牲になった地方が、少しでもその発展の恩恵に
 あずかれるような仕組みを作っていったのが田中角栄であり、
 原発もその中に位置付けることができる。
 

・経済成長の中で、東北の人たちがどういう思いを抱いて生きてきたのか。
 また東京の繁栄をどのように見てきたのか、という人々の
 恨みつらみといった思いもある。

 〇高度経済成長以後

・高度経済成長が終わって以後、55年体制も破綻せざるを得ない
 ところに追いつめられている。そのため、次の時代のあり方を
 作っていかなければいけないのに、基本的には成功していない。

・そんななか、今回の震災が来て原発事故が起きてしまったので
 大混乱に陥っている。だから復旧というところまでは出せても、
 その先のどういう地域社会を作っていくのかという、
 見取り図が出せていない。

 〇リスク管理

・原発事故以後、これからの社会を考えるうえで「リスク管理」
 という考え方が重要だ。これまでは、リスクについて触れることは
 許されないので安全だということで誤魔化してきた。

・しかし、今回の事故で安全が完全に壊れたいま、これまでの
 リスクか安全かという2項対立は成立しない。
 「すべてはリスクでしかない」という考え方が、大前提になるべき。
 そして、その上でリスクの管理をどのように行なっていけるか、
 リスク同士の比較を現実的に考え、議論をしていく段階に
 進まなければいけない。

 〇国策としての原発

・原発の問題に関して今回の両テキストで不足している視点は、
 原発は国策であるということ。そこには政治家や官僚の
 全面的な関わりがあり、財界も関わっている。
 当事者である東電は、財界を代表する存在でもある。
 そして国民はずっと、間接的に原発を支持してきた。
 これらがどのようなつながりの中で、今まで来てしまったのか
 という根本問題には触れられていない。

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1月 02

◇◆ 1月から3月のゼミの予定 ◆◇

予定は以下ですが、1月から3月は私が取材と原稿執筆で忙しくなるので、予定の変更がありえます。事前に確認の上、おいでください。

1月
 14日 文ゼミ
 28日 読書会

2月
 11日 文ゼミ
 25日 読書会

3月
 10日 文ゼミ
 24日 読書会

1月 01

迎春

昨年12月29日には、ゼミ生と1年の振り返りをしました。
それを踏まえながら、
昨年2011年の、私個人と、大学生・社会人ゼミについてまとめました。

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◇◆ 2011年の振り返り  ◆◇

? 中井個人について

(1)哲学
 昨年は、ヘーゲルの大論理学の概念論冒頭の「普遍、特殊、個別論」に取り組みました。この範囲の訳注である牧野紀之氏の『概念論 第1分冊』を参照しました。

 「特殊」論はかなり理解できたと思います。できたどころか、ヘーゲルの叙述の不十分な点、展開できないで終わっている個所がよく見えました。一方、「個別」論は全体にあいまいで、わからない印象で終わりました。
 この原因を考えると、もちろん私の能力不足が挙げられるでしょう。しかし、ヘーゲルの側の問題も大きいと思います。ヘーゲル自身というよりも、ヘーゲルの時代の限界です。まだ近代が、民主主義が、資本主義が始まったばかりの段階で、ヘーゲルはこの世界を考えざるをえなかったという限界です。
 今こそ民主主義の時代、平等の時代です。それがゆきすぎてポピュリズムが心配されているほどです。そして、「個性」「個性」と猫も杓子もわめきたて、他者との違いを売り込もうとしています。つまり、今こそ、特殊の時代なのです。
 ヘーゲルが必死で実現をめざした「人格の平等」は、今では大前提で、みながそれを疑うこともなく、それぞれの「個性」を競おうとしています。もちろん、その「個性」は非常に怪しげで、もろくはかないもので、本来の理解からは程遠いと思います。
 ヘーゲルには、こんな馬鹿げた大騒ぎになるとは想像もできなかったことでしょう。そのために、彼の特殊論は、具体的でなく、不十分で終わっていると思います。しかし、「個別」とは、特殊を止揚した段階です。その段階に至るには、特殊を十分に展開しつくし、その矛盾を徹底的に暴露する必要があり、その結果として「個別」の段階が明らかになるはずです。
 「特殊」論が不十分なヘーゲルに、「個別」論が具体的に展開できるはずはありません。そのため、彼の「個別」論も不明な個所が多かったのだと思います。

 しかし、こうした不満をヘーゲルに向かって投げつけてもしょうがありません。それは私の役割です。この「特殊」の時代の矛盾を徹底的に展開するのが私の使命だと思いました。

 ヘーゲルでは、他にも『精神現象学』の第5章「理性論」を牧野紀之訳(未知谷版)で通読しました。

(2)関口ドイツ語学と日本語学
1.1昨年の「不定冠詞」論に続いて、昨年は「定冠詞論」を半分ほど読みました。

2.さらに、日本語学の山田孝雄氏、野村剛史氏の論考を読んだのが、大きいです。判断を根底において、考えている点で、ヘーゲルと両者は一致していて驚きました。さらに名詞を、言語の根源的な矛盾としてとらえ、助詞や冠詞はその矛盾から生まれていると理解している点で、関口氏と野村氏は一致しています。

3.今年は関口の「定冠詞論」と「無冠詞」を読み終え、関口ドイツ語学についてまとめるつもりです。関口氏は、世界レベルであるだけではなく、それを超えた言語学者だと思います。

(3)著述
 3・11後、東北の被災地の取材をしました。7月、9月、10月、12月と、それぞれ1週間から2週間の滞在をしました。
 震災後の国立大学を取材し、東北地域の抱える経済、政治、医療、文化の問題を考えることができました。
 この一部は来年1月の『中央公論』2月号で掲載後、6月に新書ラクレで刊行の予定。
 他にも、福島県の原発地域の高校を取り上げて、原発地域と教育の関係を書く予定です。

(4)国語教育
 1.大修館の教科書の補助教材を作りました。
 2.「聞き書き」の本を刊行するために、その準備で大修館のPR誌『国語教室』秋号の「聞き書き」特集の企画とインタビューや対談などをしました。今年は、「聞き書き」本の刊行を目指します。
 3.来年は、論トレをビジネス書として刊行する計画もあります。

? 大学生・社会人のゼミ

 昨年は、江口朋子さんと守谷航君がゼミを「修了」しました。これは2人を社会人として1人前(以上)であると認めたことを意味します。これは約6年前に始めたゼミと師弟契約の関係者として初めてのことです。やっとここまで来ることができました。
 守谷君の「修了」では、彼が「辞める」形になったために多少の動揺がありました。しかし、今はゼミが、もう1つ上の段階に発展する可能性が生まれてきていると思います。

 1つは、「ゼミの原則」をまとめることができたことです。もう1つは、ゼミの立場の問題が浮上し、それを自覚的に追及することになったことです。
 実際に、ゼミ生の自主ゼミが11月から始まり、仲間同士の研鑽が深まろうとしています。私は、ゼミ生が必死で自分の殻を破ろうとする姿を見て、「負けられない」と奮起するようになっています。ありがたいことです。
 読者のみなさんも、関心があれば、一度見学に来てください。

 ゼミの読書会では、秋から「東日本大震災で提起された問題」をテーマにしています。この震災と原発事故への対応の中で、日本社会の抱えていた諸問題が表に吹き出し、誰の目にも見えるようになってきたこと。これが、今回の大きな不幸の中の、唯一の(と言ってよいと思います)成果です。
それを真剣に学ばなければならないと思っています。
読書会では、これまで
10月
   海堂 尊 (監修)『救命─東日本大震災、医師たちの奮闘』新潮社 (2011/08)
11月
   清水 修二 (著)『原発になお地域の未来を託せるか』自治体研究社
   佐藤栄佐久(著)『福島原発の真実』 (平凡社新書)
  12月
   『石巻赤十字病院の100日間』由井りょう子 (著), 石巻赤十字病院 (著)
を読みました。このシリーズは、まだまだ続きます。
 

12月 31

大学生と社会人のゼミで

 吉木君がリーダーになって、11月からゼミ生の「自主ゼミ」が始まった。
 ヘーゲルの原書に取り組む一方で、牧野紀之氏の『生活のなかの哲学』の
 諸論考などを読み合っている。
 そこから生まれた吉木君の文章「『1人』を選ぶことの意味は何か」を掲載する。

 これは吉木君にとっては、それまでと一線を画す大切な文章になっている。
 生まれて初めて、自分の問いの答えを、自分で出した文章だからだ。

 吉木君はこれまで、親や世間から突きつけられた問いをたくさん抱えてきたが、
 その答えを出すことはなかった。出す気があるとも思えなかった。
 それが、今回は親から出された問いに、正面から答えている。

 答えを出すために、牧野氏の文章を手がかりに、真剣に考えている。

 これまでの吉木君にはこれができなかった。そして、彼だけではなく、
 こうしたことは世間ではほとんど行われていないのだ。

 そのことを考えたのが、私の「『自分の意見』の作り方」 である。

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「自分の意見」の作り方 

 よくマスコミなどでは、有権者の意向調査などを行い、その動向を報道する。
それが政治を大きく動かすこともある。また、テレビなどで、何か事件があると
街の人々にインタビューをして「どう思いますか」「どうお考えですか」
「賛成ですか、反対ですか」などを問う。

 問われた方は、真剣に、または笑いながら、または怒りながら、
何かを発言する。それぞれ、もっともな意見に思えるし、ある立場を
代弁していると思う。しかし「言わされている」「番組で求められている答えに、
合わせている」とも感じる。

 そこで語られる「意見」とは何なのだろう。
意向調査で出される「意向」とは何なのだろうか。
それは本当に、その人の「意見」「意向」なのだろうか。
否。それらの多くは、テレビで誰かがしゃべっていたことを
オウム返しで言っているだけのことだ。社会全体としての気分、雰囲気、
世間の多くの考え方を代弁するだけのことだ。もちろん、それにも意味がある。
それを否定しているのではない。ただ、それは「意見」「考え」と言えるような
ものではない、と言いたいだけだ。

 もともと「自分の意見」などを持っている人はほとんどいない。
「他人の意見」「親の意見」「世間の意見」でしかない。なぜか。

 「自分の意見」とは次のようにして生まれる。

 【1】「自分の問い」が立つ。
 【2】その「問い」の「答え」を自分で出す。
 【3】その「答え」を実際に実行し、それを生きる
 【4】その中から、次の「問い」が立つ
 
 以下、繰り返し。

 この繰り返しの中で、自分独自の「問い」と「答え」が生まれ、
それが次第に領域を広げ、深さをましていく。そうして、
「自分の考え」が生まれ、それがあるレベルにまで到達した時、
その「自分の考え」を「思想」と言うのだ。
「思想」というとずいぶん偉そうだが、ただ、それだけのことなのだ。

 多くの人には、「自分の考え」がない。「他人の考え」「親の考え」
「世間の考え」を持っているだけのことだ。
それはこの【1】から【3】ができないからだ。

 まず、「自分の問い」が立たない。
何となく問題を感じる。何となく疑問を思う。
親や恋人に、上司や先生にいろいろ言われ、問い詰められる。
これはすべての人に起こる。

 しかし、そこから、真剣に自分の答えを出そうとしない。
なぜなら、親や世間一般の考えを自分の考えとしていても、
とりあえず困らないからだ。または疑問を感じても、
それに代わる意見を出すだけの気力も覚悟もないからだ。
つまり、自分自身の「問い」を立てようとしないのだ。

 よく、「ちょっと違う」という言葉が使われる。
しかし、その人はいつまでも、何に対しても「ちょっと違う」と
言い続けるだけで、その「ちょっと」のナカミに迫ろうとはしない。

 もし、本気で「問い」を出したとしよう。すべてはそこから
始まるのだが、世間一般の考えのレベルを超えて、「自分の答え」を
出すのは簡単ではない(だから「先生を選べ」が必要になるのだが、
多くの人にはその覚悟はない)。そこで、世間レベルにもどって
それに屈服するか、答えが出ないままに保留し続けて、結局は問いを流してしまう。
そして言うのだ。「ちょっと違う」。けれど、「ちょっと違う」だけだ。

 さて、頑張って「答え」らしきものを出せたとしよう。
しかし、「答え」らしきものを出しても、多くの人には、
それは「遊び」であり、その答えを生きようとはしない。
「答え」を出すのを、ゲームのように楽しんでいるだけなのだ。
頭の良い人に多いが、その「答え」は軽やかで「知」と戯れたり、
「奇矯」だったりする。

 その人は、深まることはなく、バラバラの知識が増えるだけのことで、
「自分の意見」にはならない。

 もし、「答え」を出したら、それを「実行」し、そのままを
「生き」なければならないなら、それはしんどいし、
他者との対立が予測されるので怖くなるだろう。

 それが何となくわかるので、答えを出さなかったり、
そもそもの問いを出さないようにする人も多い。それが普通なのだ。

 もし、「答え」を生きなければならないなら、答えを出すときは
真剣になるだろう。そこから、本当の思考が始まるのだ。
それはぶかっこうだったり、不細工だったりするが、
圧倒的な力を持って迫ってくる。

 「答え」を生きるなら、必ず問題が起きてくる。
最初の「答え」はまだまだ狭く、浅いものでしかないからだ。
「生きる」ことは全体的で、すべてが密接にからまっている。
「生き」る限り、次から次へと問題にぶつかる。その問題から
逃げることなく、真正面から次の「問い」を立てるなら、
そこから1つ上の段階に進む。そして、その段階で次の
「答え」を出していく。

 先に述べたように、このサイクルをどれだけ、先に進められるか。
それだけが問題なのだ。
どうだろうか。あなたの意見とは「ちょっと違う」だろうか。

(2011年12月24日)

12月 31

大学生と社会人のゼミで

 吉木君がリーダーになって、11月からゼミ生の「自主ゼミ」が始まった。
 ヘーゲルの原書に取り組む一方で、牧野紀之氏の『生活のなかの哲学』の
 諸論考などを読み合っている。
 そこから生まれた吉木君の文章「『1人』を選ぶことの意味は何か」を掲載する。

 これは吉木君にとっては、それまでと一線を画す大切な文章になっている。
 生まれて初めて、自分の問いの答えを、自分で出した文章だからだ。

 吉木君はこれまで、親や世間から突きつけられた問いをたくさん抱えてきたが、
 その答えを出すことはなかった。出す気があるとも思えなかった。
 それが、今回は親から出された問いに、正面から答えている。

 答えを出すために、牧野氏の文章を手がかりに、真剣に考えている。

 これまでの吉木君にはこれができなかった。そして、彼だけではなく、
 こうしたことは世間ではほとんど行われていないのだ。

 そのことを考えたのが、私の「『自分の意見』の作り方」 である。

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「1人」を選ぶことの意味は何か
     (『先生を選べ』より「先生を選べ」感想) 吉木政人 

 私は去年の9月から師弟契約を結んでいる。
5年前に鶏鳴に来ていた時にも、1年間中井さんと師弟契約を
結んでいた。逃げるようにして一度鶏鳴をやめて、
去年復帰するまでの間も、鶏鳴に戻ることを考えていた。
そういう意味ではこの6年間、ずっと中井さんを「先生」
にしていると言える。

 しかし、今年4月から勉強中心の生活を送ることにしてから、
1つ別の段階に入ったのではないかと思う。最近は、中井さんの
背景であるヘーゲルや牧野さん以外の本を、あまり読まなくなった。

 以前は「何か良いものはないか」と探すような感覚で、
色んな人の本を読むことがあったが、今はそういう段階ではなく、
中井さんに学ぶことだけに精力を傾けるべきで、
他に手を延ばしている場合じゃないなと思っている。

 「先生を選べ」について、なぜ1人に絞らなくてはならないのか
という批判がついてくると思う。1人に絞ることはとても狭いことだから、
色んな人から学ぶべきことを学んでいけばいいという考え方だろう。
私自身、父にそういう批判を受けた。「狭いところ(鶏鳴)に
ハマっていると、タコつぼ化して危険だ」という言い方だった。
今書いているのは、その批判に応える文章でもある。

 「先生を選ぶ」の反対は「先生を選ばない」になるが、
「先生を選ばない」には、そもそも誰も選ばないという意味と、
1人に絞らないで複数の人に学ぶという意味があるだろう。
では、人が成長するためになぜ先生を選ばなくてはならないのか、
また、なぜ1人に絞らなくてはならないのだろうか。

 牧野さんは学問の主体的性格として、
「【自分の問題意識を大切にせよ】」と言う。
さらに、「【自分の問題意識を追求しながらなおかつ
独りよがりにならないように】」、「【自分の追求している問題に関する
過去最高の成果を学ぶことが必要】」だと言う。

 これは、個人の問題意識が潜在的には社会問題やそれまでの歴史を
含んでいるが、先生との関わりの中で問いの位置付けを顕在化させる
ことによって、自分の立場を形成できるということだと思った。
『山びこ学校』の生徒達が、自分の家の問題を無着の指導の中で、
日本の農村全体の問題として理解していったことを思い出す。

 牧野さんは直接そういうことは言っていないが、
ともかく先生の存在が学問の客観性を作るということだろう。
「【君たちは自分の問題を独りで解決しようとしないで、
その分野の最高のものと格闘し、その最高の人の説をきいて、
また自分でも考えてみるということによって、君たちの学問は
普遍的で客観的な性格をもつようになるのです。
これが『学問の客観的性格』であります。】」

 しかし世間一般的に、先生を選ぶということは客観性とは
正反対のこととされていて、むしろ1人に絞らないことが
「客観的」だとされていると思う。
これは一体どういうことなのだろうか。
牧野さんの客観と、世間でいう客観にどういう違いがあるのだろうか。

 やはり私は、1人に絞らないとできないことがあると思う。
春から鶏鳴での勉強に集中している経験を考えてみると、
ヘーゲルを勉強するだけでいっぱいいっぱいで、他の人からも
学ぶ余裕など無い。首も痛くなった。高いものから学ぼうと思ったら、
学ぶ側はそれだけに集中する必要があるのではないだろうか。

 世間で言う客観性の立場は、多数からのつまみぐいにしか
ならないと思う。○○についてはAさんの言う通り、
××についてはBさんの、△△についてはCさんの言う通り
という学び方は、一見バランスが取れているようではある。

 しかし、実際にはAさん、Bさん、Cさん、それぞれの人間の
全体性を無視して、部分だけを取り出していることになる。
それこそ、その取捨選択自体に客観性が無く、独り善がり
ということにならないだろうか。
それでは結局、自分を選んでいるだけではないだろうか。

 学ぶ側は、自分に都合の悪いことからは逃げることができるので、
自分が否定されることもなく、次の成長につながらないのではないか。
ある全体性を持った1人に絞って学ぶからこそ、
矛盾が起こり、成長の契機が生れるのではないだろうか。

 もちろん、1人に絞って先生を選ぶとしても、選ぶのは
生徒だから主観的な選択ではある。牧野さんの言うように、
大学の講義を入口として選んだとしても、結局は選ぶのは
生徒の側だ。

 しかし、その主観的な選択をただの独り善がりで
終わらせないためには、やはり1人を選ぶ必要があるのではないか。
ヘーゲルがどこかで「自らを限定しなければいけない」と
言っていたと思うが、何か「1つ」の人や立場に限定しない限り、
自分の限界や、選んだ先生の意義と限界などは
明らかにならないのではないか。

 選択は、事実として主観的でしかあり得ないと思うし、
その限界を先生に学ぶことで克服していくのだろう。
しかし、選択が主観的であること自体にも意義はあると思う。

 私は今年の3月に、内定をもらった会社はやめにして
1年間勉強することに決めた。1年間延ばすことによって
新卒でなくなるリスクもあったが、ともかく決めた。
中井さん、ヘーゲルの考え方を少しでも身につける
という目的があって勉強しているわけだが、自分で決めたからこそ
一生懸命やらなければならないという責任感があって
やれている面もある。自分で選ぶという主体性が強ければ強いほど、
学びにも強さが出てくるのではないだろうか。