10月 15

今後のゼミの日程が変更されました。

秋の読書会のテーマとテキストの一部が決まりました。

どうぞおいでください。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

◇◆ 1.今後のゼミの日程 ◆◇

今後の日程は以下です。

 10月29日(土曜日) 読書会

 11月12日(土曜日)  文ゼミ
    26日(土曜日)  読書会

 12月10日(土曜日)  文ゼミ
    22日(木曜日)  読書会

 12月末(28日以降)に成績発表と忘年会を予定

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

◇◆ 2.読書会のテーマとテキスト ◆◇

(1)読書会のテーマ

読書会のテーマを、東日本大震災で提起された問題とします。

(2)テキスト

1.10月29日は(土曜日)

医療現場から見た震災の姿です。
医療とは何か、人間が生きるとはどういうことか、
そうした根源的な問いと答えが、ここにあります。

海堂 尊 (監修)『救命―東日本大震災、医師たちの奮闘』新潮社 (2011/08)

2.11月26日(土曜日)

福島県の原発問題を考えます。
福島県は、宮城県、岩手県と比較して、震災後の復興がきわめて困難で、その心の傷は一層深いものがあります。
それは、原発事故による放射能汚染がすすんでしまったことから生じています。
そこから見えてきた問題を考えます。

福島になぜ、東京電力(自分たちの東北電力ではない)の原発がこれだけ集中したのか。
それを地方行政、地方財政の視点から解き明かしている清水氏の本と
実際に福島県の知事として、東電、国(経済産業省)と闘った佐藤前知事の告発本を
読みます。

その1
清水 修二 (著)『原発になお地域の未来を託せるか―福島原発事故 利益誘導システムの破綻と地域再生への道』自治体研究社

その2
佐藤栄佐久 著 『福島原発の真実』 (平凡社新書)

12月は未定です。

10月 05

島田紳助が暴力団との交際が発覚して芸能界を引退した。
紳助の某番組での発言に怒った右翼団体から街宣活動をかけられ、それに困り果てて、知人を介して暴力団の幹部に解決を依頼したのが関係の始まりだという。

島田紳助と同じく、暴力団との交際が噂されているのがビートたけしだった。そのたけし本人が、その詳細を語った(「週間文春」2011年9月29日号)。

たけしも、街宣活動をしばしば受けたらしいが、その対応が違っていたようだ。そして、その違いが、伸助は引退し、たけしは今もトップの地位にいる結果になっている。

たけしはフライデー事件で逮捕され、懲役6カ月・執行猶予2年の判決を受けて謹慎し、半年後に復帰した。その際に、日本青年社に「復帰が早すぎる」と街宣をかけられた。たけしは、事務所が何もしてくれないから「自分で話をつける」と決め、住吉会の当時の会長の堀正夫のもとに行き、謝罪した。住吉会のトップに会ったのは、その幹部に日本青年社の結成者がいたからだ。堀に、その幹部と日本青年社の会長のところに行くように言われ、たけしは謝罪に行った。2人には、芸能界を辞めることを申し出たが、当時の事務所を辞めることで、話がついた。以降も、そうしたことが何回かあったようだ。

紳助とたけしのこの違いについて、「伸助は『芸』がなかった」とたけしは言う。しかしこれは「芸」のある、なしと言うよりも、生き方そのものの違いだろう。

そういえば、そもそものフライデー事件の際にも、たけしは講談社のフライデー編集部に乗り込んで、直接に話を付けようとした。

講談社では暴力を振るい、他方では暴力団の圧力に屈服しているように見える。いずれにしても、暴力への親密度がそこにはある。
紳助にもそうした面がある。吉本興業の女性マネージャーに暴力をふるって謹慎していたことがある。

しかし、そうした共通性の一方で、誰にも頼ることなく、自分一人で問題を解決しようとするたけしと、紳助のそれとは大きく異なる。

こうしたたけしのスタンスと覚悟が、彼がここまでやってこられた最大の力なのではないだろうか。

今回のことで、暴力団と芸能界との関係がいろいろに言われているが、今回の事件の核心は1つだと思う。自分の言論に対して、右翼団体などからの街宣活動を受けたときには、どうしたらよいのか。これは広く考えれば、言論の自由はどう守られるか、自分の言論をどう守るか、と定式化できる。つまり、憲法の保障する「言論の自由」の問題なのだ。

そうとらえれば、これは私たち一人一人の問題なのだということがわかる。自分の言論の後に、私たちはどれだけの覚悟を持っているだろうか。

なお、今回の事件の報道や言論で、私のような視点はほとんど出ていない。この状況はとても危険なのではないか。

9月 23

今、練馬区立美術館で磯江毅の特別展をやっている。お薦めしたい。

特別展 磯江毅=グスタボ・イソエ マドリード・リアリズムの異才
平成23年7月12日(火曜)から10月2日(日曜)http://www.city.nerima.tokyo.jp/manabu/bunka/museum/tenrankai/isoe-tsuyosi.html

彼については、昨年10月に「スペイン・リアリズムの密度 磯江毅展」を平塚美術館で見て、牽きつけられたので書いたことがある。
それを再度掲載する。

=====================================

◇◆ 「スペイン・リアリズムの密度 磯江毅展」 ◆◇

10月5日に、平塚で「スペイン・リアリズムの密度 磯江毅展」を観てきた。平塚美術館のHPで磯江の絵を何点か観て、牽きつけられるようにして行った。

すばらしかったし、考えさせられた。彼のことも、スペイン・リアリズムのことも全く知らなかったので、これも今年の収穫の一つだ。お薦めです。

写実、リアリズムという「過去の遺物」を捨て去るのではなく、それを自分の立場として選び、それを発展させ、現代を表現するための武器にまで高めている。

磯江の作品は、最も現代的な絵画だと思った。静謐な中に深い精神性があり、溢れんばかりの力と才能が、それ以上の力によって、絵画の底の底に押さえ込まれている。

彼の画集『磯江毅|写実考』を購入した。その中で、スペイン人で彼の仲間で親友でもあるマヌエル・フランケロが、スペイン・リアリズムと磯江の「反時代的なあり方、生き方」を語っている。最も時代に深く根差して生きることが、最も反時代的になる矛盾だ。

パリ、ニューヨークなどの芸術の先端的な地域から離れ、フランコの独裁政権下で、スペインでの芸術はその時の流れを止めていた。そこから独自のスペイン・リアリズムが生まれたようだが、磯江はそうした「反時代的芸術と生き方」を意識的に選択し、生き抜いた。そうした人の存在に、私は勇気づけられ励まされるものを感じた。

私の好きな画家の中に、スペインと縁のある人がいることを思い出した。須田國太郎、関合正明だ。

展覧会の詳細は以下を参照されたし。
以下はすべて、http://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/art-muse/2010205.htmより

———————————————————–
スペイン・リアリズムの密度 磯江毅展
2010年9月18日(土)?11月7日(日) 
主催:平塚市美術館
協力:彩鳳堂画廊

●内容
 透徹した描写力をもち、現代リアリズム表現を追究した画家、磯江毅(いそえつよし1954-2007)の作品を、初めて公立美術館にてご紹介します。 
 磯江は大阪に生まれ、1974年、西洋美術を本格的に学ぼうと19才でスペインに渡ります。王立美術学校でデッサンの基礎を学び、プラド美術館に通って、デューラーやフランドル派の画家たちの名画の模写に没頭しました。マドリッドは、1970年頃から新たなリアリズム表現を求める画家の活動の中心地となっており、磯江は自らを「GUSTAVO ISOE」(グスタボ・イソエ)と名乗って、アントニオ・ロペス・ガルシアといった画家たちと交流し、80年代にはその運動を担う一人として活躍していきます。
 存在の実感―リアリティ―をつかんで平面上に写し取るリアリズム表現は、伝統的な西洋美術の根幹をなすものであり、20年以上をスペインに暮らして、それを体得した磯江の作品からは、事物の発するエネルギーやそれを取り巻く空間そのものさえ確固として感じることができます。「リアリズム絵画とは、実体とはフィジカルなものだけど、徹底した描写によってメタフィジカルな世界が見えてくるのを待つ哲学です」という磯江の言葉どおり、個人の情感や主観を排して描写に徹した画面からは、静謐で孤高な精神世界が現出しています。
 1996年からは日本にもアトリエを構えて、自分の学んだリアリズム表現を伝えたいとしていた磯江ですが、2007年に53才の若さで急逝しました。作品の完成に長い時間がかかることもあり、寡作な作家の活動の成果を目にする機会は、これまであまりありませんでした。この展覧会では作品約60点により、磯江が極めたその表現世界を展覧します。

9月 22

8月29日に立花隆氏へのインタビューをし、8月30日に塩野米松氏と対談をした。いずれもテーマは「聞き書き」で、大修館書店のPR誌のためのものだった。

大修館書店は高校の国語教師を対象にPR誌『国語教室』を年2回ほど刊行している。その94号(秋の号)で 特集として「「聞き書き」の可能性」を組むことになった。
立花氏へのインタビューはその巻頭におかれる予定だ。塩野米松氏との対談は特集の柱の一つになる。

2 「聞き書き」は一人語りという文芸だろうか

塩野米松氏は作家で、聞き書きの手法を駆使して『木のいのち木のこころ―天・地・人』 (新潮文庫) 、『木の教え』『にっぽんの漁師』など、多数の本を出版している。

『木のいのち木のこころ―天・地・人』は、法隆寺の修復にたずさわり「最後の宮大工」といわれる西岡常一氏、その高弟小川三夫氏、小川氏の工房の弟子たちへの聞き書きをまとめたもの。宮大工の仕事を通して、仕事、人生、文化・伝統、師弟関係などのテーマに深く切り込んだすぐれた本だ。

その氏が高校生の「聞き書き甲子園」を主催しており、それは今年で十年目を迎える。

「聞き書き甲子園」は、環境保護運動と「聞き書き」の手法をドッキングさせたものだと思う。「日本全国の高校生が森や海・川の名手・名人を訪ね、知恵や技術、人生そのものを「聞き書き」し、記録する活動です」と主催団体のHPにある。

塩野氏は、「教育」「国語」という言葉に疑問を持ち、「教育」の手段として「聞き書き」を位置づける事への反撥を持って、対談に臨まれた。したがって、意見の対立から話は始まったが、面白い内容になったと思う。

塩野氏は一人語りによる「文芸」として、聞き書きを紹介している。私はそれも1つのあり方と認めた上で、もっと広く社会科や理科などの問題解決をも視野に入れながら、現地で取材する活動から考えていく手法として考えたい。文芸とすると「国語」科の独占物のようになってしまう。それでは社会科や理科と国語科といった縦割り構造を強化してしまうだろう。これからの課題はそうした境界をこわし、相互乗り入れをすることで、本来の問題解決、主体的な学習の手法をめぐって意見交換を行うことだろう。それをうながすような手法と考え方を提案したいと思う。

私は、「聞き書き」を、何よりも、高校生の問題意識を拡充する強烈な武器として、とらえている。
そのためには、一人語りの文体よりも、高校生たちが自分の考えや疑問を直接に書くことができるような文体が必要だと思う。
それはインタビューの様子を再現するような形式、問いと答えの形式などになると思う。

詳しくは、『国語教室』94号を読まれたし。

9月 21

8月29日に立花隆氏へのインタビューをし、8月30日に塩野米松氏と対談をした。いずれもテーマは「聞き書き」で、大修館書店のPR誌のためのものだった。

大修館書店は高校の国語教師を対象にPR誌『国語教室』を年2回ほど刊行している。その94号(秋の号)で 特集として「「聞き書き」の可能性」を組むことになった。
立花氏へのインタビューはその巻頭におかれる予定だ。塩野米松氏との対談は特集の柱の一つになる。

1 「雑誌記者」としての立花隆

立花氏は1990年代に東大の教養学部でゼミ生たちに「調べて書く」ゼミを3年ほど行った。その活動の大きな柱が「聞き書き」であり、それは『二十歳のころ』(新潮社文庫、現在はランダムハウス講談社文庫から出ている)にまとめられている。

「青春期をいかに過ごすかが、その後の人生を決める。
1960年から2001年に二十歳を迎えた多士済々41人に、東大・立花ゼミ生が切実な思いを込めてインタビュー。
これから二十歳になる人、すでに二十歳を過ぎた人、新たなチャレンジをしようとしている人全てに贈る人生のヒント集」。

こう出版社の紹介文にある。
この方針の意図、結果、その評価、課題などを聞くことが目的だった。

そのナカミについては『国語教室』を見ていただくとして、
立花氏については、1点気になっていたことがある。

以前から「知の巨人」といった評価があり、他方でそれへの強い批判もある。
実際はどうなのだろうか、という疑問だ。

インタビューで感じたのは、彼の本質は「雑誌記者」だということだ。文芸春秋で雑誌記者、雑誌編集者としてのあり方、能力を徹底的に鍛えられ、また新人を教育した。当時「鬼軍曹」といわれていたらしい。
それを、大学教育でも実践したのが、彼の東大での立花ゼミの教育活動だったようだ。

これが彼の本質だろう。そして、その後の彼の多様な活動は、すべてその基礎の上に、どこまでも自分の興味関心のママに、面白い対象を追求していった結果なのだと思う。(例外は田中角栄裁判の傍聴記録で、これは社会的使命感から行ったようだ)

彼の凄さは、その徹底ぶりにある。

つまり、立花氏にはもともと「知の巨人」といったところはないし、それをめざしてもいない。そういう人を「知の巨人」と持ち上げるのもバカげているが、それに反撥して、そうでないことを証明することにやっきになることも、虚しい作業だと思う。