12月 27

4月から言語学の学習会を始めました。その報告と成果の一部をまとめました。
1.言語学の連続学習会 
2.日本語研究の問題点 
と掲載してきましたが

3.関口人間学の成立とハイデガー哲学
は、以下の順で4回で掲載します。

(1)関口の問題意識と「先生」
(2)関口の自己本位の由来
(3)ダイナミックな思考法 (すべては運動と矛盾からなる)
(4)ヘーゲルとハイデガー (世界と人間の意識と言語世界)

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◇◆ 関口人間学の成立とハイデガー哲学 ◆◇  

(3)ダイナミックな思考法 (すべては運動と矛盾からなる)

 さて、こうして生まれた関口のドイツ語学は、どのようなものになっただろうか。
 まずそれは、人間の本質を明らかにする「人間学」となった。
 関口のように語感と「含み」を中心にすることは、それを生み出した人間の意識そのものを問うことになり、それは「人間そのもの」を問うことにほかならない。

 そして、それは同時に、ヘーゲル張りの「発展」的な把握、概念的な把握になっている。なぜなら、「含み」を明らかにすることは、潜在的な思いを顕在化することに他ならず、それ自体が発展の論理に他ならないからなのだ。それは冠詞論全体の構成、展開法から、個々の用語の細部の説明にいたるまで、貫徹されている。

 感動的なのは彼の名詞論だ。『不定冠詞論』182?186ページにある「名詞論」は圧巻だった。

 関口は言語表現の流動性に着目する。すると、およそすべての品詞が流動し、流動の達意を表現する。その中に「ただ一つ流動しないものが言語の中にある。流れに押されて動きはするが、それ自体は流動せず、万象流転の言語現象に抗するかのごとく、固く結んで解けず、凝として凍って流れず」。それが名詞だという。「本来は流動的であり融通的であるはずの達意をも、流動をとどめ融通をさえぎって凍結せしめる、これが名詞の機能である」。
 では、なぜに名詞が必要なのか。「全体の円滑なる流動は、部分の非円滑なる凍結のおかげ」だからだ。「人間社会とその生存の努力は、滔々と流れ流れて停止するところを知らざる万象流転と新陳代謝そのものであるとはいえ、その流転、その代謝は、局部的停止、部分的凝固、一時的凍結なしには円滑に代謝流転できないのである」。これが言語の世界に名詞という反流動的な意味形態が必要になった理由として、関口が挙げる理由なのである。もちろんここには自家撞着(矛盾)がある。その結果、「名詞性に多少の段階」があるのだ。
 関口は名詞と他の品詞を比較し、名詞こそが優勢であり、「名詞が本当にことばであって、名詞以外は何だかことばらしくない」というのが「感触の実状」であることを示す。
 しかし、真実はその反対であり、「ことばというものは流動と融通と融解と無常とを以て根底とする」ものだと、言う。では、どうしてこうした逆転が起こるのか。
 「流動そのものである言語は、しきりに何かはっきりとした姿を取った拠点、しがみつくことのできるような不動の何物かを求めてやまないからこそ名詞を重要視する」のだ。
 ここには「無理」があり、矛盾がある。そのために「名詞の名詞性に無限の段階が生じ、無限のニュアンスが生ずる」。そして、その名詞性を示す「目印」こそが、「冠詞」なのだ。そこには定冠詞、不定冠詞、無冠詞の3種があるが、最も注目すべきなのが不定冠詞だという。
 つまり、名詞は、運動するものを固定化するという矛盾そのものだ。そこで、名詞は実際にはさまざまなニュアンス(「含み」)を持つ。そのニュアンスを直接表に現すのが冠詞なのだ。これが関口の冠詞(特に不定冠詞)の説明なのである。

 だから、関口は『不定冠詞論』で不定冠詞の含みを4段階に示し、その第2の「不定性」では「或る」の5種類として、その微妙な含み(ニュアンス)の違いを展開している。
 このように関口は言語世界に矛盾とそれゆえの運動を見ており、それをとらえるために、全力を傾注している。それがヘーゲルやマルクスの弁証法のようなダイナミックな思考を生みだしている。

 また名詞論で、関口は名詞が世界を「つかむ」(ここからbegreifen「概念的把握」をヘーゲルは引き出す)ために生まれたことに着目するが、この「つかむ」の説明のために、彼は労働論を展開する。そして労働(つかむ)から思考への発展を展開してみせる(327ページ)。これは労働から思考が生まれたという、ヘーゲルやマルクスの思想と同じ内容であり、関口がそれらを読んでいないだろうことを思うと、そのすごさに圧倒される。

 言語世界が矛盾であり、絶え間ない運動であることを関口はよく理解しており、その矛盾が運動を生み出すこともよく理解している。だから、彼の言語学は、この矛盾を矛盾のままにとらえることになるのだ。
 矛盾と運動が関口の対象なのだから、彼自身もまた誰よりも激しく運動する。彼はつねに内部に矛盾を抱え、自分と他者との間で激しく往還運動をする。それは日本語と西欧語の間でもそうだし、意味形態論と形式文法の間でもそうだ。

 以上からわかるように、関口はヘーゲルの「発展の立場」に極めて近いところにある。しかし、そこにある大きな違いに目をつぶることはできない。

12月 26

4月から言語学の学習会を始めました。その報告と成果の一部をまとめました。

1.言語学の連続学習会 
2.日本語研究の問題点 
と掲載してきましたが

3.関口人間学の成立とハイデガー哲学
は、以下の順で4回で掲載します。

(1)関口の問題意識と「先生」
(2)関口の自己本位の由来
(3)ダイナミックな思考法 (すべては運動と矛盾からなる)
(4)ヘーゲルとハイデガー (世界と人間の意識と言語世界)

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◇◆ 関口人間学の成立とハイデガー哲学 ◆◇  

(2)関口の自己本位の由来

 関口に西欧コンプレックスがないのは、西欧の一般的な学問の中に自分のような「問い」が存在しないことを明確に知っていたからだし、西欧の内部には、低レベルの一般の言語学と、それと対峙するハイデガー哲学との激しい対立があることを知っていたからだ。
 つまり、西欧といっても一括りにはできず、内部に対立があり、一般的レベルはくだらない物でしかないことを知っていた。西欧にはすぐれた物もあるが、酷い物もある。それは日本の一般の学者と関口との対立と何ら変わらない。そして関口のようにハイデガー哲学に連なる人間が、なぜ西欧一般にコンプレックスを持つ必要があるのだろうか。

 関口にないのは西欧コンプレックスだけではない。当時の多くのインテリが抱えていた「大衆へのコンプレックス」もまるでない。それどころか、彼は言語学者などをはなからバカにし、ひたすら大衆に向けて語っていたことを忘れてはならない。関口は三修社という出版社を起こし、ドイツ語の雑誌の編集と執筆をほぼひとりで行っていた。彼の論考は学会ではなくそこで発表されている。これも、彼の「語感」主義、「含み」第1主義からの必然的な結果だろう。
 語感とは決して関口個人のものであるはずはなく(そうならそれは客観的に取り扱えない)、日本語を使用しているすべての人々の中に無意識ではあるが確かに存在し、それは連綿と続く歴史の中で日本民族の中に蓄積されてきたものだ。その語感を第1にする関口は、民衆と直接につながっている。そのことを関口はもちろんよくわかっており、そのために、関口には根底に日本民族への深い信頼がある。
 もちろん同じ事がドイツ語にも言えるから、彼にはドイツ民族への深い信頼がある。こうした前提があるために、関口はドイツ語を日本語で相対化し、日本語をドイツ語で相対化する。両者の関係が全く対等であるのは当たり前なのだ。

 関口にとって、直接の「先生」はハイデガーだが、より深く捉えれば、先生とは日本とドイツの民衆であり、それは人間そのものである。しかし、「語感」「含み」に現れているその民族の真実は、民衆には自覚はできない。それを意識的にとらえ言語化するのは知識人のしごとである。そこでドイツ語にあっては、人類の哲学史上のトップ(と関口は考えていた)ハイデガーが、直接には彼の「先生」となったのだ。彼にはもう一人の「先生」がいる。詩人ゲーテだが、それは西欧語では詩こそがその言語の精華であり、ドイツ詩人の最高峰であるゲーテが、彼にとって生涯の師になったのは当然だ。以上が関口の「自己本位」と「自立」の秘密である。

12月 19

4月から言語学の学習会を始めました。その報告と成果の一部をまとめました。
1.言語学の連続学習会 
2.日本語研究の問題点 
と掲載してきましたが

3.関口人間学の成立とハイデガー哲学
は、以下の順で4回で掲載します。

(1)関口の問題意識と「先生」
(2)関口の自己本位の由来
(3)ダイナミックな思考法 (すべては運動と矛盾からなる)
(4)ヘーゲルとハイデガー (世界と人間の意識と言語世界)

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◇◆ 関口人間学の成立とハイデガー哲学 ◆◇  

 関口存男にあっては、先に挙げた日本語研究の3つの問題が見事にクリアーされている。第1に、関口ほど、自らの生活実感とその学問が一体になった人はいないだろう。また、その視野は身近な日常生活から森羅万象にまで届いているように見える。そして彼は一般大衆に直接語りかける「べらんめえ」の文体で自らの言語学を述べる。
 第2に、彼ほど西欧への「奴隷根性」から自由な人を知らない。彼ほどに「自己本位」な人を知らない。
 第3に、彼は、ハイデガー哲学を自分の物にし、西欧の認識論や哲学に精通している。彼はドイツ語や西欧語を学びながら、人間一般の本質に迫っている。その中に自ら自身の母語である日本語とは何か、日本人とは何かは、その背景として含まれている。

(1)関口の問題意識と「先生」

 こうしたことが、なぜ関口には可能だったのか。まだ『冠詞論』全3巻中の『不定冠詞論』しかを読み終えていない段階ながら、一応の仮説を出しておきたい。

 第1に、関口のテーマ、問題意識の独自性のゆえであり、第2に、テーマを深めていく上で「先生を選べ」を実行したことがあげられる。この2つは切り離せない。

 関口の言語学上のテーマとは、自分の「語感」が感じた物の正体を明らかにすることだった。それは言語の「含み」の存在とその含みの意味を明らかにすることに他ならない。
この「語感」や「含み」とは、自分が感じる物であり、形式文法のように外形上では根拠を出すのがムズカシイ。そもそもそれが「含み」だからだ。この「含み」や「語感」とは、自分の中に食い入っているもののことで、それは自分の存在そのものと言って良い。それをテーマにするということは、最初から、自分の実感を信じて、それを根拠に考えると言うことだ。それには自己理解の深さが必要であり、強い主体性が求められる。こうしたテーマを持ったことが関口の関口たるところだ。
 こうしたテーマを持って、西欧文法や西欧の言語学を読めば、そこにあるのが「形式文法」でしかなく、関口のテーマに答えてくれないことはすぐにわかる。その答えの是非をどうこう言う以前に、問題にしていることがまるで違う。関口が求める回答はどこにもない。それどころか、参考にできるものすら存在しない。(もちろん、西欧だけではなく、当時の日本にも存在しない)。

 その時に、関口はハイデガー哲学に出会ったのだと思う。その哲学だけが、関口の関心の方向に根拠を与える物だった。関口の意味形態論は、ハイデガー哲学なしにはありえない。ハイデガー哲学によって、確立されたのだと思う。これを説明しよう。
 関口は、言語活動を3要素、つまり「意味(事実)」と、話し手・書き手が「意味(事実)をどう考えたか」と、その「言語表現」とに分けた上で、「意味」と「意味をどう考えたか」には直接の関係はなく、「意味(事実)どう考えたか」と「言語表現」こそが関係し、一体であることを示した。これが彼の意味形態論の大前提だ。(この3者の関係が「媒介関係」であることは、明らかですね)
「意味」と「意味をどう考えたか」に直接の関係がない以上、「意味」は「意識に反映された限りで」問題にすれば良いことになる。これがハイデガー哲学の立場であり、この立場の上に、関口は含みの研究に安心して没頭することができたのである。
 関口にとっての生来のテーマである「語感」や「含み」とは、「言語表現」の中に現れた(または潜在的で隠されたままの)「意味をどう考えたか」のことなのだ。そして、関口は「言語表現」の中の「含み」を明らかにすることに全力を注ぐ。こうして「含み」の研究を中心とする意味形態論、つまり関口ドイツ語学が成立した。

 そして、関口は彼のドイツ語学の中で、自らの前提としたハイデガー哲学をさらに具体化し、発展させているのではないか。
 関口の仕事のすべてがその具体例になると思うが、例えば『不定冠詞』の第10章「不定冠詞の仮構性の含み」で「未来に関する仮構」を取り上げている。そこでは「人間は未来一辺倒の存在物」という人間の本質を明らかにし、ハイデガーが問題提起した「企画」の含みを徹底的に展開して見せている。この「企画」とは関口の訳語だが、一般には「投企」として知られた用語であり、サルトルの『実存主義とは何か』で一躍有名になった。

9月 17

『コミュニティビジネス入門』から学ぶ 
 (5)社会資本、地域資源は誰のものか 「所有」と「主体」の問題
 (6)本書の意義と限界
 
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(5)社会資本、地域資源は誰のものか ?「所有」と「主体」の問題?

 さて、「地域」が、外部者も含めたものであるのならば、
社会資本、地域資源は誰のものか。ここに、「所有」「主体」の
問題が浮き上がってくる。

 この「所有」「主体」の問題のところで、本書では捉え方が曖昧になる。
一般にも、この点が曖昧なので、問題提起しておきたい。
一般に「コミュニティビジネス」を論ずる人は、その主体を個々の事業主、
つまりNPOや企業、団体として理解、その内部での「所有」の問題を論ずる。
しかし、その団体も含めて、その事業に関係するすべての関係者が
「主体」なのではないか。
これが本当の、地域資本、社会資本という考え方ではないか。

 例えば、ワインツーリズムは誰のものなのか? 
企画運営者の笹本さんたち(3次)だけのものではない。
ワインツーリズムの関係者のすべてのものだろう。
もちろん中心は2次産業のワイナリーだが、「かつぬま朝市会」や地域の
散策組織(「勝沼フットパス」)も加わっている(以上は3次、一部は4次)。
ワインツーリズム参加者はそのワイナリー周辺地域を散策するが、
そこに1次産業のぶどう農家が大きく関わってくる。
ワイナリーにぶどうを提供しているのは、彼ら(の一部)なのだ。

 長く1次の農家と2次のワイナリーには対立があった。
地域の人々から見て、外部の笹本さんたちが偉そうにしていることも
面白くないだろう。そこに都会からワイン好きが集まってきて、
地域の自然や文化財をも楽しむ。

 これらがすべてを所有者、主体として考えるべきではないか。
ここには、多様な利害関係者がいるし、対立の側面は常にある。
一般に、「コミュニティビジネス」の一事業やイベントには、
多様なステイクホルダー、複数のセクターが関わるので、
そこには必ず利害対立が起こり、矛盾がある。だからこそ、
それを解決するための民主主義が、情報公開が問題になるのだ。

 ワインツーリズムでは、実行委員会が一応立ちあげられている。
委員長は笹本さんで、副委員長に大木さんや朝市会の主催者、
ワイナリーや地元農家からは委員が出ている。
地元甲州市の行政マンも委員だ。しかし、議論は低調で、
笹本さんたちにお任せの状態が続いた。関係者間には利害対立があって、
収入アップになるワイナリーと、ボランテアを「強いられた」と感ずる
地元農家との間には、感情的な対立がある。補助金獲得を巡り、
行政や地元、笹本さんたちとの間にも対立がある。
しかしそうした対立が表面化していないので、うやむやになっている。
ワイナリーや個々の利害関係者に、どんな金の流れがあったのか?
それは、現段階ではオープンになっていない。
これが「ガバナンス」の問題であり、「所有」の問題なのだ。

(6)本書の意義と限界

 今示したのは、この社会資本のモデル、理念から見えてくる
論点のほんの一部だが、その有効性がわかるだろう。

 これでワインツーリズの総括ができる。他の似たような
活動をしているコミュニティビジネス(ソーシャルビジネス入)の分類、
位置づけ、評価の観点や課題の整理と、その解決のための政策づくりが可能になる。

 本書では、この社会資本というモデルを提示したことが
最大の貢献だと思うが、ヨーロッパモデルの考え方や情報、
日本でのたくさんの事例が紹介されているのも、参考にはなる。
ヨーロッパの社会的企業。福祉国家から福祉社会への転換。
EUの「社会的排除」との闘いなど。

 コミュニティビジネスを評価する人にも2派がいる、という指摘は重要だ。
一方は「社会的排除との闘い」(社会民主主義)の側面を見る。
他方は「安上がりサービス」(新自由主義)の側面を見る。
この2つは必ずしも正反対の立場ではないが、
どちらを中心とするかで対立をはらんでいるのだ。
これは『良い社会の公共サービスを考える』でも指摘されたことだが、
表面的にはともかく、問題が起きるたびに、どちらの立場なのかが
問われるだろう。そのことを自覚しているだけでも、対応は変わる。

 本書の意義を挙げてきたが、もちろん問題もある。
「用語集」を付けて、今の諸問題を整理し、方向を明確にしている点で、
教科書として成功していると思うが、その内容には疑問も多々ある。

 すでに社会資本の「所有」「主体」のとらえかたに疑問を出したが、
他では、就労形態で、「ワーカーズコレクティブ」と「生協」の違いが
分からない。結局は大きさ、規模の違いなのではないか。
生協は大きくなりすぎて、小ささが必要なのではないか。
所有と意思決定と労働の間で、小ささの持つ意味が問われているのでは。

 「社会的企業」とか「社会起業家」の「社会」も曖昧だ。
「正しい」とか「正義の」といったニュアンスだが、それでは
「社会的」でない「企業」や「起業家」が存在することになるし、
それを認めることになるが、それで良いのか。本来は、
企業や起業は社会的な物なのだから、こうした「社会」という冠が
不要になることが最終ゴールなのだ。「社会的企業」という言葉がなくなること。

 つまり、本書の「用語集」では、一般に言われていることを
まとめているだけで、著者たちの自説や掘り下げがないのだ。
もっとも、そもそもまだ概念が曖昧で混乱している段階だ。
私たちで自前の「用語集」を作り直すような覚悟が
必要だということだ。用語、概念は単なる知識ではなく、
課題を深く、広く考えていくための基本的な武器なのだから。

 こうした基本概念に対する理解の程度が運動のレベルを決めてしまう。
概念には、人類の問題意識と英知が集約されている。
 

 本書には問題を深めるよりも、きれいごとで済ませている箇所も多い。

 例えば、コミュニティビジネスの意義を強調するために、
行政と民間企業の限界を以下のように強調する。
地域、家庭の崩壊により、行政サービスが拡大したが、
それも今では財政破綻したし、もともとが一律サービスしかできず、
特定の地域ニーズには対応できない。一方の民間企業は
多様なサービスを提供できるが、ニーズがあり利益があがる限りのことだ。
こうした狭間で、利益が上がりにくい多様なサービスを提供できるのが、
コミュニティビジネスだと言うのだ。そのためには、民間以上の力で
「経営的イノベーション」の能力が必要になる。しかし、
それほど困難で高い能力を持つ人が、本当にコミュニティビジネスに
関わるだろうか。彼らの年収は約200万だと言う。
ここには根本的な無理がないか。

 この点で、コミュニティビジネスと生協との連携などを提案しているのは
現実的だ。理解ある企業との提携が一番現実的だろう。

 しかし、そうした際にも、結局は、また「所有」の問題にぶつかるだろう。
これがやはり肝なのではないか。だから、本書では多様な
コミュニティビジネスを紹介しているが、一番知りたいのは、
その所有の問題や、内部対立をどう解決しているかなのだ。
もちろん、内部民主主義と公開の原則の重要さは言われている。
しかし、そうした建て前ではなく、実際のコミュニティビジネス内部での
深刻な対立の問題は出さなければ、説得力はない。

 現在のコミュニティビジネスにはたくさんの問題がある。
なぜ横の連携が取れないのか。なぜ小さくしかまとめることができないのか。
それぞれの小さな組織で、お山の大将でいたいからではないのか。
単なる補助金荒らしではないのか。

 そうした内部の深刻な問題には触れていない。
しかし、それは求める方が間違っている。自分たちで行うべきだろう。

 私たちの議論の中から、次のような意見も出た。
「社会的排除」と言うと、いわゆる「社会的弱者」を念頭に思い浮かべやすいが、
そうでない場合もある。ワインツーリズムでの「社会的排除」とは、
「大量生産・大量消費のマーケットや受身の社会生活に満足できない層」を意味する。
彼らは山梨では、プライドが保てない。出て行って(排除されて)しまう。
 こうした視点も大切にしたい。

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9月 16

『コミュニティビジネス入門』から学ぶ 
 (1)「コミュニティビジネス」と「地域の自立」
 (2)「社会資本」というモデル
 (3)「社会資本」「地域資源」とは何か ?産業構造の組み換えや統合?
 (4)「地域」とは何か。 ?地域外部の人間の必要性?

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(1)「コミュニティビジネス」と「地域の自立」

 『コミュニティビジネス入門 地域市民の社会的事業』
 (風見正三・山口浩平 学芸出版社)。

 これは現在世間でも注目され始めている、「コミュニティビジネス」
「ソーシャルビジネス」の入門書だ。大学などの教科書としても
使用できるように作られている。事例が豊富で、一応の理論化もあり、
用語集もついているので、考えるキッカケには相応しいと考えた。
著者たちに純粋な研究者はいない。みなが現場の人間か、
現場経験者から研究者に転じた人ばかりだ。

 笹本さんたちは、山梨でワイン農家や醸造家などの活性化のために、
「ワインツーリズム」を企画し、成功した。その意味を、その本質を考え、
こうした方法や考え方を、山梨県全体に、さらには日本全体にも
広げていくことが、今後の課題だ。
それが「地域再生」「地域の自立」を進めると考えるからだ。
そのためには、まずワインツーリズムの意味、意義を
しっかり考えておかなければならない。そのための課題や論点を
はっきりさせるために、このテキストを読んだ。ここから、
今後の政策立案に向けた取り組み方、公開学習会の進め方も見えてくるだろう。

(2)「社会資本」というモデル

 結論からいえば、このテキストを選んだのは正解だった。
ここには地域再生のための1つのモデルが、
極めて有効なモデルが示されていたからだ。

 そのモデルは「社会資本」という考えを中心とする3点からなる。

 【1】地域の社会的資本(地域資源)を、
 【2】その所有者である地域自身が主体となり、
 【3】それによって、地域資源が「持続可能」なように経営(管理運営)すること。

 これは社会資本が循環するモデルで、わかりやすく明確な
イメージが持てる理念だと思う。地域重視については、
「地産地消」「スローフード」「マルシュ」「第6次産業」などと
さまざまなことが言われる。しかし、そうしたもろもろは
すべて副次的なもので、核心にあるのはこの3点だと思う。
そして、他は大切なものでも、この全体の中に位置づけられるべきだろう。

 このモデルによって、ワインツーリズムやコミュニティビジネスの
課題を整理し、その全体像や分類などをすることができるのではないか。

 しかし、このモデルは、方向性は明確だが、問題への
回答そのものではないだろう。あくまでも論点を明確にするしかけである。
まだまだ曖昧な点が多く、矛盾もあるように思う。
ただし、それは本書の問題と言うよりも、まだこれらの概念が
生まれたばかりで、混沌としている段階だからしかたない面もあるだろう。

 したがって、このモデルの曖昧さを、自分たちの実践で
はっきりとさせていくべきなのだ。
以下は、本書をヒントにした私見であることを断わっておく。

(3)「社会資本」「地域資源」とは何か ?産業構造の組み換えや統合?

 「社会資本」「地域資源」とは何か。
その地域の自然と社会のすべて、物質面と精神面のすべてが含まれる。
このように本書では言われる。
その中心は産業そのものと、人間の社会関係であると思う。

 地域資源を改めて見直していくことは、産業構造の組み換えや
統合をもたらし、人間関係を作りかえる可能性がある。

 従来の「産業」構造は、1次 → 2次 → 3次 → 4次(情報産業)と
発展してきたが、それは常に前の時代の産業を否定することでの発展であった。
例えば、高度成長期に2次産業と、それを支える3次産業(サービス業)が
急速に伸び、家電製品が家庭に氾濫するようになった。
しかし、それは各地の農村から労働力をひきはがして
過疎化を進めることで成立している。このような否定の仕方もあるし、
他方で共存共栄の止揚のありかたも、本来は可能なはずだ。
しかし、従来は単なる否定が多かった。したがって、産業間の利害関係も
人間相互の対立も根深いものがある。工業化における
資本家と労働者の対立も大きかった。今は、2次、3次産業の
実物経済を否定するような形のマネー資本主義(貨幣そのものを商品とする、
4次の究極の姿)へと進んでいる。
実物経済はマネー資本主義の道具になり下がった。

 実物経済を否定した今の社会は、発展のどん詰まり、
否定の行きついた果てだ。これから先の発展とは何なのだろうか。
これを止揚するとはどういうことなのだろうか。

 それは、今や手段にすぎなくなった、1次に始まった実物経済を、
単なる否定ではなく、価値ある止揚へとするようなあり方だろう。
それまでの各段階が、4次の中で、契機としてそれぞれが有効に機能しているか。

 つまり、再度、1次、2次や3次産業の実物経済、その再編統合によって、
全体を発展させる以外にはないはずだ。それを考える役割が
4次(思考)や3次のサービス業にある。
これが産業構造の組み換えや統合をもたらし、人間関係を作りかえるのだ。

 例えばワインでは、2次のワイナリーは1次の農業(ブドウ農家)と
相互依存しているが、対立関係もある。1次産業はすべてのベースだが、
従来の固定した関係性をそのままにしていて、地域の再生は不可能だ。

 そこでワインツーリズムの登場だ。都会の消費者が、
ワイナリーをまわってワインを楽しみながら、そのワイナリー周辺地域を
散策する。そこに展開されるのは1次産業のぶどう農園であり、
さらには歴史的文化的な観光資源や、地域の産物の店が出店されている。

 つまり、これを企画運営した、笹本さんたちソフトツーリズム(株)や
従来からあった「朝市会」(以上が3次)を中心に、2次のワイナリーが参加し、
さらに1次の農園を取り入れ、そこに地域の自然や歴史財をも取り入れていく。
このことで、従来の産業間の関係や、人間関係が変わってくる。
これが「地域コミュニティの再構築」だと思う。

 この「地域コミュニティの再構築」はもちろん重要だが、
これを本書は次のように説明する。

 これまでは、行政(公)、企業(民)、市民(市民中心のNPO)の
3分類が普通で、相互に対立するか無関心であることが多かった。
しかし、そのすべてがここでは資源に含まれる。
そこに従来の公私を越える、「新たな公共」
(=行政ではなく多様なステイクホルダー)を見ようとする。
複数のセクターが関わるので、それは「協働型社会」になる。
行政主導ではないし、補助金依存でもない。

 しかし、こうした説明では、肝心な産業構造の変化を見られず、
従来の産業間の対立や協同の具体的変化も見えてこない。

(4)「地域」とは何か。 ?地域外部の人間の必要性?

 さて、私のように考えるとき、「地域」とは何か。
それは地図上の地域、その住民だけをさすような閉じた意味の
「地域」ではない。本書でも地域コミュニティとテーマコミュニティ、
地域内と地域外の連携の必要性を強調する。
外部の人間の積極的な関わりこそが必要だからだ。

 本来は、地域資源こそ、その地域の「誇り」であるべきだ。
笹本さんが、自らの地域再生のための運動名を「KOFU Pride」と
名付けたことには、正しい方向性があったことがわかる。

 しかし、その地域の住民が、その資源の資源である価値に
気付いていない場合が多い。例えば、山梨の人間は、
実はワインをあまり飲まない。山梨のフランス料理店、
イタリア料理店においてあるワインは、山梨産ではないことが多い。
ここに「地方」の問題があり、中央指向や「他者本位」の問題がある。
地域資源を評価できるのは、むしろ、東京に出た後に
Uターンした人間であることが多い。

 だから、地域をその地域内の人たちに限定してはならないのだ。
地域を開き、地域外との連携が必要なのだ。ワインツーリズムの場合も、
企画運営にあったのは、そうした人たちだ。会代表の笹本さんも
副代表の大木貴之さん(甲府市内の小カフェーのオーナー)も
山梨出身だがUターン組だし、ワインツーリズムを行った勝沼の住民でもない。
ワイナリーの土屋幸三さん(機山洋酒工業社長)も、家業の跡取り息子だったが、
阪大で学び、企業や国の研究所で働いた上で実家の家業を継いだ。
ワイナリーだが、場所は塩山であり、勝沼のワイナリーにとっては外部者である。

 それにしても、地域の人々自身の地域資源への関心の弱さには、
地方の屈折した思いがある。長く、地方は中央の文化を輸入してきた。
それが劣等感にもなっている。しかし、これからの時代は、
旧来の「中央の高い文化を、文化的に低い地方にもたらす」方向ではダメだろう。
その逆に、地方から中央に新たな価値を発信するものであるべきだろう。
そうでなければ、地域のプライドにはならないだろう。

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