9月 21

9月18日に、大修館書店のPR誌『国語教室』の座談会に参加しました。

新しい学習指導要領を入り口にして、これまでの国語教育、学校教育の問題点、その改革の可能性を論じ合いました。

他の出席者は以下の3人の教員です。
・藤森裕治氏(信州大学)
・釜田啓市氏(清真学園)
・臼田悦子氏(長野県野沢南高等学校)

『国語教室』は高校の国語教科書の販売促進のためのPR誌で、座談会は90号、本年11月に発行予定です。

座談会には高校現場から二人の参加者がありました。これまでの国語教育批判、学校教育批判において、私だけが浮いてしまうことを心配していました。しかしお二人(特に釜田氏)とは、基本的に考えが一致していました。心強く思いました。

8月 16

月刊『高校教育』9月号に拙稿が掲載された。

これは
「連載:大学・学校・教育委員会のパートナーシップ  ―スクールリーダー・フォーラムの挑戦―」のラスト、3回目に当たる。

大阪ではすでに8年あまり、大学・学校・教育委員会の連携を行っている。大学側とは大阪教育大であり、大脇康弘氏が中心に、活動している。この連載はそのスクールリーダー・フォーラム8回目の総括のためのものだ。

連載は   
第1回 スクールリーダー・フォーラムの理念と軌跡
  大脇康弘(大阪教育大学)、2009年7月号 

第2回 経営革新プロジェクト推進校の実践をつなぐ
  水本徳明(筑波大学)、2009年8月号

第3回 が私である。私のタイトルは「『生徒が3年間でどれだけ伸びたか』を競い合え」

以下が拙稿である。

? すべての高校生の『伸びしろ』を大きくする

 「学校教育の目的は、すべての高校生の『伸びしろ』を大きくすることだ」。参加校の皆さんが口をそろえてそう発言した。私は、このことに一番感動した。一般に「改革」に成功した学校は「偏差値」があがり、「良い生徒」が集まる。しかし、その分は必ず、どこかの高校が下がることになる。私立ならばいざ知らず、公立校がそれでは意味がない。大阪ではこの矛盾の答えを出した。「入学した生徒が3年間でどれだけ伸びたか」で競い合うと。

 今年2月に大阪で開催された「第8回スクールリーダー・フォーラム」。私はゲストとして参加した。このフォーラム、並びにその背景については、拙著『大学「法人化」以降』(中公新書ラクレ)の五章にまとめた。参照していただければ幸いだ。しかし今回、外部からではなく、実際にフォーラムに参加してみて、その面白さが予想を超えていることを知った。

 そもそもの発端は大阪教育大で大脇康弘氏を中心として生まれた研究会にある。大脇氏らは、大学と教育委員会との意見交換(ときに事業の共同参画)や研究者や教委スタッフ共同の学校訪問・支援といった双方向的協働関係を模索したかった。学校現場を中心とした連携だ。それが実現して8年目、ここまでにすでに多様な活動が展開されてきた。

 フォーラムはその活動の一つであり、他の活動と密接に関係しながら、その結節点を作ってきた。今回も、「府立高等学校経営革新プロジェクト事業」(以下、経営革新プロジェクトと略)の3年間にわたる成果を総括するのが目的だったのだと思う。

? 「個性」と達成目標とは何か

 「経営革新プロジェクト」は、府教委が主催する事業で、府立高校のいわゆる中堅校21校が参加し、3年間にわたる経営実践に取り組んだ。府教委では〇三年から北野高校、天王寺高校などのいわゆる「進学校」の教育内容の改革に取り組んでいたが、次には中堅校の特色作りに着手したかったのだ。

 今、教育界では「個性化」「多様化」「特色化」が大流行だ。しかし、それが大きな混乱をももたらしている。これらの言葉の本当の意味が理解されていないどころか、問題をごまかすために使用されたりする。例えば「高校生の多様化」「カリキュラムの多様化」とは、高校生の「低学力化」とそれへの対応のことだったりする。

 「個性」の理解の浅薄さは、普通科高校、特にその中堅校で暴露される。進学校や教育困難校なら看板を出しやすいが、中堅校になるとお手上げだ。その課題に取り組んで大きな成果をあげたのが、この「経営革新プロジェクト」だ。

 ここでは「特色作り」といっても、それぞれの学校の具体的な課題を明らかにし、その解決に取り組んできた。眼前の高校生たちの抱えた課題、それに全校で取り組むこと。学校の個性とはその結果生まれるものでしかない。

 しかし、中堅校は多様だ。伝統校も新設校もある。学習以前の生活態度の改善に集中しなければならない学校がある一方で、生活面から学習面へと指導の重点をシフトしなければならない学校もある。部活参加の割合を高めなければならない学校も、部活のエネルギーを学習にまわさせることに頭を悩ませている学校もある。そうした多様性の実態を知ることから、中堅校の全体像が見えてくる。その中での自校の位置、次の発展段階への見通しなども得られる。自校だけでなく、全体を視野に入れる中で、自己相対化が進む。

 その時に、各学校の課題が違うことも明確になってくる。画一的な目標や、達成度の競争は無意味だ。そうなると、教育成果をどう考えるかが大きな問題として浮かび上がってくる。改革の「成功」の基準はどこに置くのか。求められる成果とは何か。
「改革」で、学校内の生活指導や学習指導を改善するのは当然だし、学外への広報活動で努力するのも当然だが、その成果は「入り口」の入学試験の倍率や、「出口」の大学進学実績などで計られることになりやすい。そして成功した学校は「偏差値」があがり、「良い成績の生徒」が集まり、そこが浮上する。しかし、その分を、必ずどこかの高校が下がることになる。それでは意味がない。

  「成功」の基準は、あくまでも、「入ってきた生徒が3年間でどれだけ伸びたか」にある。ここに基準を置けば、すべての学校で可能であり、どこが上がった下がったという基準とは別に、絶対的な基準を用意することができる。

 また、「伸びしろ」を真剣に考えることで、各学校の目標・課題や、その成果の評価の考え方が変化するだろう。ある学校の校長は、「初めて浪人する卒業生が出た」という事実を成果としてあげた。その高校の大学進学者は少数で、入れる大学に進学していた。今は大学は「全入」だから、選びさえしなければどこかの大学には入れる。その結果、浪人は出なかったのだ。そうした中で浪人生が出現したのは、「どうしても入りたい大学」を意識する卒業生が出てきたことだ。これは大きな教育の成果なのだ。

 中堅校での教育目標とは何かの話も出た。「自分で食っていける」こと、そしてできれば、「他人を食わしていける」こと。こうした目標をはっきりさせて指導すべきだとの意見だ。

? オープンな雰囲気と緊張感

 研究会は、実態に即して具体的に検討しなければ意味がない。しかしそれが難しいのが実状だ。しかし、このフォーラムではそれができている。各学校の内情を隠すことなく、本音レベルでの報告がなされ、また討議も率直な意見交換が行われる。オープンな雰囲気がそれを可能にするのだろう。しかし、オープンではあるが、緊張感は維持されている。

 フォーラムのような場では、教育委員会と学校現場と大学の研究者の3者の連携のあり方が問われるだろう。そもそも、今はまだ、学校現場の改革のために3者が協力し合うこと自体が難しい。教育委員会と学校、管理職と教員とは敵対関係に近いことも多い。そうした中で、こうした連携が行われているだけでも大したことだ。しかし、大阪の試みはそこにとどまらない。

 ここにあるのは単なる外的な協力関係ではなく、内に批判の芽を持っている。他者への批判は、そのまま自分に跳ね返ってくる。教育委員会は現場を批判するだけではなく、現場の支援ができているかどうかが問われる。現場からだけではなく、大学の教員からの批判にも応えなければならない。学校も、支援を得られる一方で、外部からの批判にさらされ、課題などの内部事情はオープンにされる。大学の教員にとっては、自分の研究のための現場の調査やデータ収集ができるのはメリットだが、その学問のレベルは厳しく問われる。現場で有効な理論を提示できるかどうか。こうした緊張関係の中から、和気藹々とした雰囲気が生まれている。それがとても尊いことだと思う。

? 「書き言葉」と「話し言葉」と

 ここは現場主義ではあるが、実感にとどまることは許されない。気づきや疑問を言葉にして、深めていくことが求められる。その一つが「書き言葉」と「話し言葉」の一体の運用だ。毎回のフォーラムでは実践報告書が配布され、そこには大学の教員だけなく、各学校の管理職やスクールリーダーたち、教委のスタッフによる報告が並ぶ。それまでの討議は一旦は文章にまとまり、フォーラム当日はそれに基づいて議論が闘わされ、それはまた文章化されていく。多忙な中で文章にまとめるのは大変だが、この点では妥協がない。

 このシステムは、単なる現場主義に堕することを避け、理論的にも実践的にも蓄積を重視する立場で、これが8年間の連携を支えてきているように思う。

 この方法は大脇氏の発案だと推測するが、彼は雑誌媒体の利用によって、さらにこの「書き言葉」と「話し言葉」の円環運動を促し続ける。本誌『月刊 高校教育』や『月刊 悠』誌などには、フォーラム関係者の報告文がたびたび掲載される。

 それはフォーラム関係者のモチベーションのためでもあり、成果を学校現場の方々に還元するためでもあるし、研究成果の蓄積のためでもあるだろう。

 このように、外部や媒体をどん欲に取り組んでいくことで、フォーラムのマンネリ化は防止される。毎回、フォーラムには新たなゲストが登場する。今回は私も引っぱり出されたわけだが、フォーラム参加だけではなく、今執筆しているこの原稿もその一環なのだ。こうした大脇氏のプロデュース力が、大きな役割を話しているのだろう。

? 現実的理想主義のすごみ

 最後になるが、大阪という地域の特殊性を忘れてはならないだろう。大阪の府立高校では、以前から緊密な連携が生まれていた。校長たちの自主学習会も長い歴史を持つし、何十年も前から「教務研究会」が組織され、教務主任たちが横の連携を深めてきた歴史がある。みなで大阪の教育全体を支えようという意識が徹底されているのだ。その背景には、もちろん、大阪の厳しい状況がある。

 大阪の少年非行は全国ワーストワン。不登校や、学力低下、教育格差の拡大にも悩んでいる地域だ。そうした厳しさに向き合うために、もともと自主的な形で横の連携が作られていた。府教育委員会も並々ならぬ覚悟で取り組んでいる。

 フォーラムのある参加者が「大阪は商人の街。われわれも『上手くいってなんぼ』でやってますんや」と言っていた。商人の街大阪の、現実的理想主義のすごみをまざまざと見た気がする。

8月 15

第三文明社の子育て支援誌『灯台』9月号で
進路・進学決定のための特集を行っています。

私はその総論に当たるインタビューを受け、それが掲載されています。

以下がその内容です。

【タイトル】
仕事の話を聞かせて、
子どもの?問題意識?を育もう

鶏鳴学園学園長 中井浩一
取材・文/長野修

【リード】
有名大学に行けば一生安泰という時代は、終わった。これからの時代は、自分のテーマ、問題意識をしっかりと持った自立した個が、人生を切り開く。そのための鍵とは何か?

【本文】

●親からの自立が最優先
 進学・進路の決断を行なうためには、「自己理解」が不可欠です。つまり、自分の関心があることから人生のテーマを見つけ、問題意識を明確に持てば、進路進学は自ずと決まります。
 しかし、今の子どもたちにとって、これは非常に難しいのが現実で、それ以前の問題としてまず考えるべきは、親からの自立です。
 今問題になっているニートやフリーターは、少子化・核家族化が進む中で、親との一体感を非常に強く持ったまま育っているので、自立心が希薄です。そうすると、自分は何をしたいのか、自分の人生のテーマは何なのか、そういう問題意識を持つことができません。結果として自分の道を選び取ることができないのです。
 
●中高は、問題意識を育てるスタートライン
 昔は「大学に入ってから何をすべきか考えればいい。今は受験勉強だけをしろ」と言われたものです。これは、大企業に就職すれば生涯安心という終身雇用の時代には通用しましたが、終身雇用が崩壊し、離職率も高まっている現代にあっては、当てはまりません。今は、どんな局面でも自分で道を見つけ出し、乗り越えるための力が必要なのです。それを可能にするのが、問題意識なのです。
 従って、中学、高校時代は、自分のテーマ(問題意識)を見つけるためのスタートラインに立つ時期だと考えましょう。二十代である程度明確にし、三十代でそれを完成させる。ずいぶん遅いと思うかもしれませんが、今の社会では、このくらいの長い期間が必要です。

●親は自分の仕事の苦労を語れ
 問題意識を育てるために必要なことは、子どもに社会の現実をリアルに感じさせることです。具体的にはどうするか? 親が自分の仕事を語ることです。
 仕事の楽しさはもちろん、仕事の苦労や悩み、職場の課題、その背後にある社会の問題点などを、生々しく語るのです。そこで初めて子どもは、仕事をするということ、生きるということがどういうものなのかをリアルに感じ始めるのです。
 また、親の話を聞くことで、子どもは「親のようになりたい」とか「なりたくない」という生き方のモデルを持つこともできます。そこから問題意識が生まれ、自立心が芽生えます。親が自身のことを語ることが最初の一歩なのです。

●対象理解を通じて自己理解を進める
 進学進路の決断には自己理解が不可欠だという話をしましたが、これには時間がかかります。自己理解が不十分な場合は、「対象理解」に力を注ぐことも重要です。
 例えば、社会に関心を向けたり、職業や大学について情報を集め、調べます。社会という外側の世界を理解することを通じて、自分が何に関心を持てるか、持っているかを調べるわけです。つまり、対象理解を媒介として自己理解を進めるのです。
 対象理解を進めるためには、情報収集と現場を知ることが重要です。情報に関しては、インターネットや書籍などで十分収集できますが、それだけではなく、大学の勉強や職業について、実際に人に会って話を聞くことが大切です。

●大学は、興味関心で選ぼう
 大学選びは、仕事と結び付ける必要はありません。大学は職業訓練校ではなく、自立するための問題意識やテーマ探しが目的なのですから。例えば、法学部だけが弁護士になる道ではありません。工学部を出てロースクールで学べば特許関係に強い弁護士になれるし、医学部で学べば医療事故を専門とする弁護士にもなれます。要は、自分の興味関心があるものを学ぶのです。仕事を決めなくても、問題意識さえ持てればやりたい仕事が見えてきます。
 これからの時代に必要なのは、学歴ではなく、人間としての強さです。強さがあればどんな困難も乗り越えられます。その強さは、その人自身が培ってきた、テーマ=問題意識が土台となるのです。

【プロフィール】
なかい・こういち 1954年東京生まれ。京都大学卒業後、大手予備校講師などを経て、現在国語専門塾「鶏鳴学園」塾長。国語教育、作文教育の研究を続ける傍ら、教育改革についての活動も行なう。著書には『高校が生まれ変わる』(中央公論新社)、『「勝ち組」大学ランキング』、『大学入試の戦後史』、『大学「法人化」以後』(以上、中公新書ラクレ)等がある。

7月 30

 小中の先生方を対象とする月刊誌『悠(はるか)』8月号に、教員免許更新制の有効利用というテーマで原稿を書きました。
 この制度自体には問題がたくさんありますが、実施が決まった以上、それをできるだけ学校の先生方にとって有効利用するための考え方を示すことが、編集部からの依頼の内容でした。
 以下が拙稿です。
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学校外へと発想とネットワークを広げるために ?免許更新制の有効利用?

? 時代の転換期にあって

 免許更新制度は、突然上から降ってきました。それだけにいろいろと問題点が指摘されています。しかしすでに決まったことですし、毎年約一〇万人近くの全国の先生方が、校種や地域を越えて、全国の大学で一斉に講習を受けるのです。これはすごいことですから、是非、良い結果が出る方向に、この制度を運用しなければならないでしょう。

 そのためには、今が時代の大きな転換期だという認識が必要です。将来への展望を切り開けない閉塞感の中で、私たちの社会は不安やいらだちを募らせています。その中で、教育界はずっとバッシングの嵐の中にあります。「ゆとり教育」では文科省と公立校が、「法人化」では国立大学が、そして「免許更新制度」では学校と教員が強く批判を受けています。どうしてでしょうか。

 個々の問題は多々あるのですが、大きく言って、学校内と外との意識のズレが非常に大きくなっているのです。政治・経済のリーダーたちだけではなく、広く社会一般の意識と、学校や教育界の価値観、行動様式との間に大きなズレが生じているようです。

 学校、大学、教育界全般は、もともと強固な閉鎖社会でした。「子どもたち」を守るという善意からではありますが、しばしば外の社会に対して独善的になりました。外に閉じるだけではなく、内部でも個々の先生方は相互不干渉が普通でした。また、教員養成に関わる大学と学校と教育委員会、この三者もこれまではバラバラなことが多かったのです。

 しかし、そうした在り方が批判を受けているのです。今は私たちの社会や家庭が壊れかかっています。その時に、教育界と言えども、自分たちだけが守られることはできません。社会からの外圧を受けながら、逆に社会に働きかけ、学校や先生方の意識を変えながらも、逆に教育界全体や社会を変えていくような発想と戦略が求められています。

 では、特に本誌の読者である小中のスクールリーダーの先生方を念頭に、その戦略を考えてみましょう。そしてあわせて学校内の内向きの言葉を外に通用する言葉へと翻訳する能力、つまり媒介者の能力についても考えてみましょう。

? 戦略的発想と媒介者としての能力

 まずは、全体像を把握することが必要です。今回の免許更新制では、地域にあっては三者が登場します。主役はもちろん講習受講者の学校の先生方ですが、もう一方に講習実施者の大学があり、さらに地域の教育行政をつかさどる県教育委員会が存在します。この大学と教育委員会に、今回何が求められ、何が変化するのか、それを知ることが戦略作成の第一歩です。

 教員の養成をする大学と、教員の採用と教育を行う教育委員会は、本来は密接な連携と協力がなければならなかったはずです。しかし、そうした関係はほとんど存在しませんでした。だからこそ、今、それが強く求められています。大学間の連携も模索され始めました。

 教員養成系大学ではその教育・研究が教育現場の実践から遊離していることが問題とされてきました。そして今回の講習で、大学はその実力を世間にさらけ出すことになります。すでに今年度の申し込み状況に、大学間、個々の教員間での人気の差がはっきりと出ています。初回である今回はただの人気投票の意味しかもたないでしょう。しかし講習実施後には受講者からの事後評価が公表されます。口コミでも噂は広がり、来年以降はさらに厳しい結果が出るでしょう。こうして大学は社会から裁かれるのです。

 裁かれるのは教育委員会も同じです。講習の質を高めるには、現場の情報を大学に伝えなければなりませんが、それは教育委員会の役割だからです。教育委員会は、地域の学校現場の現状や課題を正確に理解していなければならないはずです。その実力も今回チェックされます。

 今回の免許更新制で、大学と教育委員会が直面しているのは以上のような厳しい状況です。受講者は、ただ受け身でいるべきではありません。自分たちが大学や教育委員会を評価するとの自覚を持って、主体的に関わるべきなのです。

 本来は、大学と教育委員会だけではなく、学校(先生方)をも含めた三者が普段から連携していなければならないでしょう。それができている地域では、免許更新制もスムーズに行くはずです。例えば岐阜県では、大学コンソーシアム岐阜(岐阜大を中心に県内17大学、岐阜県教育委員会が参加)の下部組織として免許更新事業を位置づけ、必修科目や選択科目に10大学が連携して取り組んでいます。このコンソーシアムの中で30時間分の講習を選択して全て揃えることができます。普通は、受講者は各大学単位の講習手続きする必要がありますが、ここでは一つで済むのです。岐阜では以前から、こうした連携が行われていたからこそ、こうしたことが可能になっているのです。こうした例と、自分の地域を比較すれば、その地域の課題が見えてきます。

 こうした全体を見る目と共に、先生方が自分自身の教師力を高める研修の場として、更新制度を利用することが大切です。現場に必要なものを主張し、それを学ぶ場を実現していくのです。しかし、単に教科指導や生活指導などの直接的な面だけではなく、スクールリーダーに必須の媒介者としての能力も磨くことができます。
講習では全国の小中高、私立・公立といった種別を超えた人々、大学の教員や教育委員会の関係者との出会いがあります。そうした場を意識的に利用して人脈を広げ、自分の地域や学校外とのネットワークを作っていくことです。それが、上記のような戦略的な発想を生むことにもつながり、媒介者としての能力を向上させますから。

7月 24

 昨日7月23日に、東大で講演をしました。
 と言っても、学生が対象ではなく、教員と職員が対象でした。
 それも、総長以下、副学長、理事、総長補佐らの執行部の方々や、部局長の方々、本部職員の方々です。

 東大は4月に総長が交代し、新たに濱田純一氏が就任しました。
 第2期中期目標・計画の案を6月に提出し、年度内に、より具体化した将来構想(「行動シナリオ」)を策定する予定で、プロジェクトチーム(トップは佐藤愼一副学長・理事)を立ち上げたところです。
 東大は、この「行動シナリオ」策定の一環として「学外有識者」から意見を聞く機会を数次にわたって設けており、その一人としてよばれたと言うことです。
 
 濱田総長は、「所信」の中で「タフな東大生」の育成を標榜されていて、その中身を煮詰めていく作業が今後行われるはずです。

 私が話した内容の詳細はここには書きません。いずれ東大の方で文章などにまとめられれば、ここに掲載するかも知れません。

 拙著『大学法人化』『大学「法人化」以降』『日本語論理トレーニング』『脱マニュアル小論文』の内容を踏まえて、根本的な問題提起をしました。

 今は、現実社会と大学が深く関わらざるを得ないこと。その結果、各大学の真の力量(その学問がどれほどのものか)が問われることになる。大学はあくまでもその社会の反省機能であり、その機能を失えば、大学も社会も滅びること。そのためには、大学は決して「なしくずし」に現実社会と対応するのではなく、筋を通し、それぞれの論点に原理・原則を打ち立てていかなければならない。自らの属す社会を根底から批判し、正しい方向性を指し示すこと。それが大学の使命だが、ほとんどの大学はそれができず、東大もゆらいでいる。

 教育の今の一番の問題は、子どもの親からの自立が難しくなっており、社会的自立には18歳からの10年ほどが必要だという覚悟が必要。その内の最初の4年、または6年を引き受けて、東大はどれだけの教育をする覚悟があるのか。人生のテーマ自体を作るまでは無理でも、その芽をしっかりと作り上げるまではしなければならない。

 論理的能力。自己理解と対象理解を、相互関係の中で深めること。これが大学での教育に求められていること。そのためには、教員自身にそれができていなければならないが、それが疑わしい。教員自身の自己理解について言えば、研究者としてのそれはできていても、教育者としては疑わしい。国民としてのそれも大いに疑わしい。税金で自らの教育・研究ができていることの自覚はどれほどあるのか。さらには、人間としてのそれはさらに疑わしい。

 一言で言えば、「東大を叱咤激励した」ということですね。

私は、東大は100点満点で60点ぐらいの大学だと思っています。60点が合格基準ですから、一応合格は合格です。それに他大学のほとんどが20点から40点ほどのところをうろついているので、相対的にはダントツの一番と言うことになります。しかし、80点でも、90点でもありません。その最大の課題は、教育責任を果たしていないことです。