5月 18

(1)『「聞き書き」の力』(大修館書店)が、いよいよ刊行されます。

すっかり、お待たせしました。3年前からの作業過程をご存知の方は、待ちくたびれて忘れてしまったかも知れませんね。

この本は、高校作文教育研究会の共同研究の成果をまとめたものです。
研究会の共同代表である古宇田栄子さんと私の2人が執筆しました。

研究会では、テーマとして二〇〇五年には一年間集中的に「総合学習」における表現指導について、二〇〇九年からの二年半ほどは「聞き書き」(調査と取材)の研究を行ってきました。その討議を踏まえて、聞き書き指導の方法やその課題を明らかにしようとしたのが本書です。

「聞き書き」そのものの方法論だけではなく、たくさんの問題提起を行っています。

高校段階での表現の指導過程の問題も検討しました。自分史や生活体験文、調べて書く作文や聞き書き、意見文や論文(小論文も)、志望理由書などをどう関連付けて、指導していくべきなのか、という問題です。

本書のタイトルには「聞き書き」とありますが、広く一般的に、調査・取材したことをまとめた文章と理解してください。理科や社会科のレポートまでを範囲として考えています。対象は主として高校生を意識していますが、中学生や大学生、社会人の方々にも十分に有効だと考えています。
どうぞ、国語科や他教科での同志の方々との学習会などにご利用ください。

今、教育現場は「アクティブ・ラーニング」の取り組みで大騒ぎになっているようです。しかし、「学力の三要素」や「アクティブ・ラーニング」という言葉に振り回されることなく、変わることのない教育の本質と、時代の変化の両面をしっかりと見極めることが肝心だと思います。
「アクティブ・ラーニング」に真剣に取り組むならば、何よりも重要なことは、生徒たち一人一人が自分自身の問題意識、問いやテーマをしっかりと創っていけるように支援することでしょう。そのためには、「聞き書き」学習ほど適したものはないのではないでしょうか。

本書は、書店に並び、アマゾンなどで入手できるのは5月の20日過ぎごろになりそうです。

(2)本書の刊行を祝い、以下のような学習会(兼祝賀会)を開催します。

1 期 日 2016年6月19日(日) 10:00?16:30
2 会 場 鶏鳴学園
3 参加費
  1,500円(参加のみ)      
  または3000円(会場で本をお渡しします)

みなで本書をさかなにしして、聞き書きについての疑問や悩みや、成果や主張などを出し合って、大いに盛り上がろうという趣旨です。

ここでは、共同研究の仲間からの問題提起や、コメントの紹介も予定しています。

参加される方は、本書をぜひ一読してから、ご参加ください。

なお、参加申し込みは1週間前までにいただけると幸いです。

(3)本書のナカミを知っていただくために、本書の序章「なぜ今、『聞き書き』なのか」を、明日から掲載します。

12月 30

日本語の基本構造と助詞ハ  その1

松永奏吾さんの日本語学の論文「デハナイ」と、それに対する私の考えを掲載します。

松永さんの論文「デハナイ」は今年2014年3月に東大大学院の野村剛史氏のゼミで発表されたものです。
注の部分は省略しました。

また、この論文の概要(構成の説明と要約)を松永さん自身が野村ゼミでの発表のためにまとめた
ものを最初に出しました。これを読んでから、または並行して眺めながら論文を読むと、
読みやすいでしょう。

■ 目次 ■

一 「デハナイ」論文の概要     松永奏吾

二 デハナイ 松永奏吾
0. はじめに
1. デアル/デハナイ/デナイ/デハアル
→ ここまで本日 2014年12月30日に掲載

2. XはYである
3. デハナイ
→ ここまで12月31日に掲載

4. 形容詞や動詞の否定
5. デナイ
→ ここまで2015年1月1日に掲載

6. 否定と対比
7. おわりに
→ ここまで1月2日に掲載

三 日本語の基本構造と助詞ハ  中井浩一
 1. 松永さんの論文について
 2. 代案
 → ここまで1月3日に掲載

==============================

一.「デハナイ」論文の概要           松永奏吾

1 全体の構成

(1)デハナイの一般性……1節
・「デアル/デナイ/デハナイ/デハアル」の数値比較。1533/12/134/2
・「デナイ:デハナイ=1:10」によって、デハナイの一般汎用性を示す。
・終止法で比較すると、「デナイ:デハナイ=1:20」。

(2)「XはYである」の論理……2節
・「XはYである」、ないし、助詞ハの生成する論理の考察。
・主語名詞Xの内的二分(存在者と属性の二側面、主語性と述語性)から、
「XはYである」が生成した。

(3)「XはYではない」の論理……3節
・「XはYである」から「XはYではない」が生成する論理の考察。
・「XはYではない」の構造  [Yで] は [ない]
・述語名詞「Y」の内的二分(属性と肯否の二側面)から、「Yではない」が生成。
・デハナイとは、対象化された認識の否定。認識の認識。否認。

(4)クナイ、シナイとの違い……4節
・クナイ(形容詞の一般否定形)は、属性の否定であると同時に対立属性を意味する。
・シナイ(動詞の一般否定形)は、運動の否定であると同時に未実現状態を意味する。
・クナイもシナイも対立を意味するが、デハナイ(「名詞+ではない」)は差異しか意味しない。
・シナイは否定の範囲が曖昧になり得るが、デハナイは否定の対象を明瞭に提示する。

(5)デナイとの違い……5節
・仮定条件でデハナイが避けられる(デナイが選択される)のは、
デハナイの仮想提示と低条件が重なるため。
・デナイ終止法(69例)の分析によれば、形容動詞の否定形「容易でない」など、
そのほとんど(59例)が対立を意味する点、クナイやシナイと同類の否定である。

(6)否定と対比……6節
・「AではなくB」(20例)、「Bであって、Aではない。」(6例)、「Aではない。B」(37例)
のようにパターン化すると、デハナイ87例中(疑問用法47例を除く)、対比を示す用例が63例ある。
・「対比」が否定から導かれることの考察。対比否定起源説。

2 全体の要約

 形容詞や動詞の否定と異なり、デアルの否定には助詞ハが介在してデハナイとなるのが一般的である。
そもそも「XはYである」とは、主語名詞Xの内的二分(存在者と属性)が「X─Y」と分裂し、
その分裂を反映(意識)した助詞ハによって一文が二分された文である。
「Yではない」は、助詞ハによって、述語名詞Yの内的二分(属性と肯否)が意識された述語であり、
対象化された認識の否定、である。

一方、クナイやシナイは否定と同時に対立を意味する点、それと、否定の範囲が明瞭でない点が
デハナイと異なる。
(デハナイは否認と同時に差異しか表さないが、クナイやシナイやデナイは否認と同時に対立を意味する。)

デナイもまた本質的にクナイやシナイと同類で、対立を意味する。仮定条件でデハナイが避けられるのは、
デハナイの仮想提示と仮定条件が意味的に重なるためである。
デハナイには「AではなくB」、「BであってAではない」、「Aではない。B」などのパターンで
対比を示す例が多い。(デハナイは差異しか表さない場合が多く、その場合、対立規定が文脈上に現れる。)
対比は、助詞ハが否定の対象を明瞭にすることによって、対象外とされた存在者が暗示される、
という論理から生じる。

※「XはYである」→「XはYではない」→「XはYではなくZである」という展開。

2014/03/15 

                                         

二.デハナイ 松永奏吾

0. はじめに

 (1) 山田は大学生である。
 (2) 山田は大学生ではない。
 (3) 山田は大学生ではある。

 助詞ハは、(1)のように主語と述語とを二分するような位置に現れる一方で、(2)や(3)のように、
「述語内部」とも見えるような位置にも現れる。(2)は否定述語内部に、(3)は肯定述語内部に、
それぞれ助詞ハの現れた一例である。そして、そのこと自体は、動詞述語でも形容詞述語でも同様である。

(4)に否定の例を、(5)に肯定の例を、述語の形だけ挙げる。
(4) 食べはしない  美しくはない 
(5) 食べはする  美しくはある 

 以上の(2)-(5)は、その形態的特徴から見るだけならば、諸品詞の違いを越え、かつ、肯否の区別とも関
係なしに、ただ一様に述語内部に助詞ハが現れる、という現象を示しているだけのように見える。
しかし、(2)の「?ではない」だけは、他の(3)(4)(5)と根本的に異なる。以下、結論を先取りして述べる。
 まず、(3)の「大学生ではある」は、(1)の「大学生である」という一般的な述語に対する特殊な述語であり、
同様に、(4)もそれぞれ、「食べない」「美しくない」の方が一般的、(5)も「食べる」「美しい」の方が一般
的な述語である。つまり、助詞ハを内部に含んだ(3)(4)(5)は特殊な述語の形であって、助詞ハの特殊用法と
言って構わない。しかし、(2)の「大学生ではない」だけは、助詞ハを含んだこの形で、一般汎用的に使われる。
すなわち、「?でない」ではなく「?ではない」が、「?である」と肯否の対を為して使われる、一般的な述
語の形なのである。のみならず、(1)のような「XはYである」という形式の文を日本語の基本文の一つと見る
ならば、その否定文としての(2)もまた「XはYではない」というこの形式で基本文と見るべきである。故に、
そこに現れる「?ではない」という用法は、助詞ハの基本用法の一つと言い得る重要性をもつはずである。

 本稿の1節では、調査報告により、「?ではない」の一般汎用性を事実として確かめる。2節では、「XはY
である」という基本文の問題を論じ、それをふまえて、3節で、「?ではない」が一体いかなる否定述語なのか
を考察する。4節で形容詞や動詞の否定形との違いを述べ、5節では助詞ハのない「?でない」という否定形と
の違いを述べる。最後に6節で否定と対比の問題を論じる。

1. デアル/デハナイ/デナイ/デハアル

 本節は、助詞ハの介在した「?ではない」という述語の一般汎用性を、調査事実によって明らかにする。
以下、「?である」という述語を、デアル述語と略称し、「デアル」という表記によって、述語としての「?で
ある」を意味して使う。同様に、「?でない」を「デナイ」、「?ではない」を「デハナイ」、「?ではある」
を「デハアル」と略記する。

次の二点を留意されたい。

一、デアル述語は、「大学生である」「穏やかである」
「ゆっくりとである」「行くべきである」「行くわけである」等々あって、「である」の上接語は多様であること、

二、デアル述語には、口語的な「だ」、敬体の「です」「であります」等も含めて考えること、またデハナイの
口語体「じゃない」も含めること、の二点である。

 さて、デアル、デナイ、デハナイ、デハアルという四種の述語について、文庫本約210ページ 中におけるその
出現数を調べたところ、表(1)の結果が得られた。

表 1. デアル述語の出現数比較
デアル デナイ デハナイ デハアル
1533 12 134 2

この調査によって、次の事実が確かめられる。まず、肯定述語の数値に関して見ると、デアル1533例に対して
デハアル2例であるから、助詞ハを介在させたデハアルが非常に特殊な存在であることが分かる。ところが、
否定に関して見ると、デナイ12例に対して、デハナイが135例であるから、その出現率においてデハナイの方が
圧倒的に優勢であり、デナイの10倍以上である。つまり、肯定の場合と関係が逆転し、助詞ハを介在させた述語、
デハナイの方がむしろ普通一般の存在であることが分かる。
 さらに、この「デナイ/デハナイ」の関係に絞り、より詳しく内実を見る。下の表(2)と表(3)は、それぞれ表(1)
のデハナイ134例とデナイ12例について用法分類したものである。

表 2. デハナイ134例の用法分類
終止(主文文末の用法) 57
単純接続1(「?ではなく(て)」 20
単純接続2(「?ではないし」) 2
順接・確定(「?ではないので」「?ではないから」) 5
逆接・確定(「?ではないが」「?ではないけれども」など) 3
疑問(「?ではないか」「?ではあるまいか」など) 47
計 134

表 3. デナイ12例の用法分類
終止(主文文末の用法) 3
単純接続1(「?でなく」) 1
順接・仮定(「?でなければ」「?でなくては」) 7
逆接・仮定(「?でなくても」) 1
計 12

 なお、用例が1例もなかった用法は項目を略した。さて、表(2)と表(3)を比較すると、次の四点の事実が注目
される。

 第一に、各表中の一段目、終止用法について比較すると、デハナイの終止用法57例に対して、デナイの終止
用法はわずか3例である。主文末終止用法こそが最も基本的な述語の在り方であるとすれば、デハナイがデナイ
の20倍近い比率で終止用法に現れるというこの結果は、デハナイの一般汎用性を改めて示す事実である。

 第二に、「単純接続1」とした用例について比較して見た場合も、「?ではなく(て)」20例に対して、
「?でなく」1例という極端な差がある。かつ、この「?ではなく(て)」20例は、表(2)のおよそ15%を占め、
終止と疑問を除けば際立って用例数が多い。

 第三に、仮定条件のみ、デナイが優勢を示している。どころか、デハナイの仮定条件用法は1例もない。
順接仮定条件の「?でなければ」とか「?でなくては」という用例7例に対して、「?ではなければ」とか
「?ではなくては」といった用例は1例もなく、逆接仮定条件の「?でなくても」1例に対して、「?ではなくても」
といった用例は1例もなかったということである。これは、さしあたり、デハナイの一般汎用性に反する事実である。

 第四に、表(2)の「疑問」とした項目を見れば、「?ではないか」とか「?ではあるまいか」といった用例数が
47例ある。かたや、デナイにそれに類した用例は1例もなかった。付言すれば、肯定のデアル1533例中、疑問用法
の数は50例あったから、それと比較しても、デハナイの疑問用法が47例あったという事実は特筆すべきものである。

 以上、「デナイ/デハナイ」の用法比較により、注目すべき事実四点を挙げたが、本稿は第四点、すなわち疑問
用法についての考察はしない。疑問用法のデハナイは「否定」から生じたものではあっても、すでに「否定」を離れた
デハナイの特殊用法である。本稿は、第一点、すなわち、デアル述語の一般的否定形が、助詞ハを含んだデハナイである
という事実のもつ意味を明らかにすることを中心課題とし、第二点、第三点についても論じる。

10月 08

今西錦司の『生物の世界』から学ぶ (その5) 中井 浩一

■ 目次 ■

第3節 高度経済成長と今西の仲間たち
4.大衆社会の到来
5.時代の代弁者たち
==============================

第3節 高度経済成長と今西の仲間たち

4.大衆社会の到来

 しかし、桑原や梅棹らを含めた今西たちのグループが、
大学や学会全体の中で主流になったわけではない。
ただ、高度経済成長下の大衆から圧倒的に支持された。
アカデミズムからは煙たがれたが、財界人や政治家たちからも強く支持された。
こうした現象をどう考えたらよいのだろうか。

それは大衆文化の勃興、大衆消費社会の到来を意味する。
高度経済成長下で小金持ちとなった「中流」社会の大衆は、
文化的にも高いレベルでの「面白い」読み物を求めるようになった。

すべてが商品として現れる時代、衣食住レベルだけではなく、
文化的生活のレベルまで、上級の知識や学問までが商品化される時代に
入ったのだ。

そこでは小難しい理屈を振り回し、「専門用語」でしか
語れない文化人は不要だ。市井の言葉で、総合的な視点でものを言える
研究者が求められるようになった。
他人の言葉ではなく、オリジナルな自前の言葉で語れる研究者が。

桑原や梅棹らは、その流れを確実に読んでいた。そしてその流れに乗って、
それを拡充しようとしたのが彼らだ。「文化」が商品になり、
それが売れる時代が来る。それが彼らに分かったのはなぜか。
それをわかる感覚が、彼ら京都の文化人にはあるからだろう。
彼らの先祖は町衆であり、武士階級出身の文化人とは違い、
時代を見抜く目と商才があるのだ。「商才」をバカにすることなく、
そこに文化的能力を正当に評価できるのだ。
それが彼らの学問を他と違うものにしている。

5.時代の代弁者たち

 なぜ彼らに対して、大衆や財界や政界の一部からの熱い支持があったのか。
それは彼らが時代の代弁者、伴走者だったからだ。彼らの学問には、
敗戦後の復興をささえた大衆への励まし、勇気づけがあったのだ。
自信を失った彼らに日本人の誇りを回復させ、もう一度復興に向けて
立ち上がる勇気や覚悟を促すような力があった。

 敗戦は明治維新後に匹敵する日本の危機だった。敗戦ですべての権威が崩壊し、
空虚さが覆い尽くした。アメリカ占領軍の近代化方針は、日本に外から
押しつけられたもので、国民の内発的で自発的なものではない。
明治の夏目漱石が直面した危機的精神状況がそこにあった。

その時、いくつかの光を放ったグループがあったが、その1つが今西たち
だったのだろう。彼らは、近代文明と伝統の両面をかかえもっていた。
彼らには、日本人の誇り、日本人の原点 京都文化の誇りがあった。
失われた濃密な師弟関係 友情関係と師弟関係があった。

そして彼らはまさに日本の高度経済成長を代弁したのではないか。
彼らの中で、高度経済成長そのものに言及した人はいない。
直接にそれに関わった人もいない。しかし、事実上、また結果的に、
日本の戦後の方針や高度経済成長を擁護し、支援してきた。

今西の「棲み分け理論」は、日本が敗戦後に軍備をアメリカに任せ、
ひたすら経済活動にまい進したことを擁護するだろう。
結果的にこの「棲み分け」が大成功だった。

梅棹忠夫の「文明の生態史観」はヨーロッパと日本の文明としての
同一性を強調し、日本の戦後の復興を当然のこととした。そして
自らその企画に参加した万博は、戦後、高度経済成長を成し遂げ
アメリカに次ぐ経済大国となった日本の象徴的な意義を持つ
イベントとして開催された。

彼らは時代が求めるものを提供し、その見返りを得た。そう言えるだろう。
しかし彼らにできなかったことも、今日では明らかである。
彼らは時代の代弁者、伴走者であり、さらには時代をリードしたが、
時代を根底から批判し、それを越える観点を出すことはできなかった。
それは彼らの学問が、絶対的レベルでは低いものだったからではないか。

今西の理論的な不十分さは、彼らのグループ全体において言えることである。
共同討議や共同研究には明確な限界がある。そのレベルは討議のメンバー中の
最高者のレベルに規定され、それを超えることはできないということだ。

今西の「棲み分け理論」のように、日本は軍備をアメリカに任せ、
ひたすら経済活動にまい進した。しかしその成果が出た今、
そのつけが回ってきている。
中国や韓国との歴史認識問題の解決が見いだせない。

梅棹が関わった日本万国博覧会のテーマは「人類の進歩と調和」だった。
しかし「進歩」は必ず対立・矛盾を激化する。それを解決するのは
「調和」ではない。梅棹は『世界の歴史』河出書房版の最終巻『人類の未来』も、
ついに完成させることができずに終わる。
これは根本的に、梅棹が「発展とは何か」に回答を出せなかったということだ。

こうした彼らの未解決に終わったすべては、今を生きる私たちの課題である。
私たちはそれを引き受けて、その先に行かなければならない。

                          2014年7月2日

10月 07

今西錦司の『生物の世界』から学ぶ (その4) 中井 浩一

■ 目次 ■

第3節 高度経済成長と今西の仲間たち
1.逆転
2.桑原武夫の功績
3.文明論の大家・梅棹忠夫
==============================

第3節 高度経済成長と今西の仲間たち

1.逆転

 第2節では、今西理論の根源性とその限界の両面を見た。
私は今西の限界も指摘するが、それは絶対的基準から言うのであって、
今西が当時の世界基準において屹立した生物学者であったことは間違いがなく、
今回、本書を読むことで、その巨大さ、重厚さから学ぶものが多かった。

それにしても驚くのは、当時の日本で、ここまでの巨人がいたことだ。
そうした突出した研究者は、当時の学界にあっては孤立し異端的な
位置にいた。傍系とされ、無視されていたのだろう。

しかし敗戦後、逆転が起こる。すべてが灰燼に帰した中からの
日本社会の復興と高度経済成長の中で、傍流だった今西や今西グループは
脚光を浴びる。今西および彼の門下生たちは、戦後の日本の学術調査や
研究はもちろんのこと、さらに広くマスコミやジャーナリズムの分野でも
大活躍をした。今西は岐阜大の学長になり、1979年には文化勲章を受賞している。

こうした逆転を端的に示すのが、『生物の世界』だ。
その最初の刊行から30年後に講談社文庫として刊行されたのが
1972年。そして今もそのまま文庫で入手できる。
私が読書会のために購入した文庫本の奥付には
2010年12月1日印刷で第26刷とある。
こうした学術的な内容の本で、これほどのロングセラーは
他に存在しないのではないか。
いったい何があったのだろうか。

2.桑原武夫の功績

 もちろん、今西の学問の巨大さ、根源性、その真っ当さがあった。
それは大前提である。しかし、それゆえに異端で傍系とされていたのでは
なかったか。それが中央に躍り出たのはなぜだったのか。

それには、戦後の時代の大きな転換と、その流れを的確にとらえて
それをリードした人間が、今西グループにいたということが大きかった
のではないか。

その役割を果たしたのは、桑原武夫と梅棹忠夫である。

桑原武夫(1904年?1988年)は戦後、京都を中心とする学者たちの
中心的存在として、戦後のさまざまな社会問題や文化的問題への
発言で、主導的な役割を担った。

桑原は今西の親友であり、ともに京都の山岳会を作り上げた盟友
でもある。その登山の方面では、戦後の1958年に京都大学学士山岳会の
隊長として、パキスタンのチョゴリザへの登頂を成功に導いている。

 学者としては、共同研究という画期的なシステムの開発し、
実現したことが大きい。京大人文科学研究所(人文研)の所長として、
さまざまの分野の研究者を組織することにより、総合的な広がりを
持った研究を実行し、多くの実績を残した。その中に、
『フランス百科全書の研究』『ルソー研究』(1951年、毎日出版文化賞)
などがある。

 これは従来のアカデミズムの方法を打破する画期的なもので、
文系も理系もすべてを総合して学際的な学問をめざすものとなっている。
この共同研究の方法は明らかに、今西グループの登山や探検の活動方式
から必然的に出てくるものだろう。

桑原のすごさは、この共同研究者に多様な分野から、その所属に
関わりなく逸材を招集したことだ。梅棹忠夫、梅原猛、上山春平、
鶴見俊輔、多田道太郎らがそうだが、こうして、人文研では
多様な分野の多重的なネットワークの構築に成功した。
そしてそのネットワークから、新たな試みが多数生まれていった。
たとえば、鶴見が作り上げた『思想の科学』という雑誌の同人には
梅棹忠夫らも参加している。

桑原の凄さは、こうした人文研のメンバーに今西までを取り込んで
いたことだ。無給講師だった今西は、1950年に人文研に
有給の講師として移動。65年の定年まで在籍。今西は研究所に
社会人類学の部門を創設し、梅棹忠夫、岩田慶治、中尾佐助、
上山春平、佐々木高明、谷泰、米山俊直らと共同研究を行なった。
伊谷純一郎、吉良竜夫らも時々参加したらしい。

桑原は学問の世界だけではなく、ジャーナリズムの方面でも
近代化をめぐる根本的問題提起を次々に行い、大論争を巻き起こして
いく。「第二芸術論」が典型だが、日本の前近代的なあり方を
独自の視点から批判するものが多く、そこでは、思想だけではなく
感性的な領域をも視野に入れていた。桑原は近代主義者だが、
同時に伝統主義者でもあり、共同研究や共同討議方式を可能に
したのは、京都の知的サロンの伝統だったはずだ。

また彼は出版ブームの火付け役でもある。岩波書店、中央公論社等の
出版社との連携も強く、『文学入門』、『日本の名著』など、
新書のベストセラーを生み出している。

3.文明論の大家・梅棹忠夫

 この桑原が開拓した方面をさらに発展させたのが梅棹忠夫
(1920年?2010年)だ。彼は、探検のチームメンバーとして
今西に徹底的にしごかれて育った研究者だ。今西と同じく
生態学が出発点であったが、動物社会学を経て民族学(文化人類学)、
比較文明論に研究の中心を移す。日本における文化人類学の
パイオニアであり、情報社会論や未来学などの梅棹文明学とも
称されるユニークな文明論を展開し、多方面に多くの影響を与えた。

今西のような巨人には多様な側面があり、それを多数の弟子筋が、
それぞれに分業的に引き継いでいくのだが、今西の根源性や射程の
広がりを受け継いだのは梅棹である。今西の研究が人類の誕生から
現代までを射程に入れているのに対して、梅棹はさらに現代から
未来までを視野に論理を展開しようとした。

梅棹は同時に、桑原の弟子でもあり、論争的な著作を数多く発表し、
それが時代に大きな影響を与えた。鶴見俊輔らと『思想の科学』の
同人としても活躍し、生活の中の思想を展開した。
1957年「女と文明」を書いて「妻無用論」を唱えた。
これが「主婦論争」の始まりとなった。

また共同討議方式の応用では、1961年から10年ほど、
新聞紙面上で日本社会の文化や歴史上で多数の問題提起を重ねた。
それらは『日本人の知恵』『新・国学談』『日本史のしくみ』など
として出版されてよく読まれた。

今西との調査隊で行ったモンゴルの遊牧民と家畜群の研究を基盤に、
生物地理学的な歴史観を示したのが『文明の生態史観』
(1957年に雑誌に発表。1967年に本としての刊行)。
西欧と日本が同じ生態系に属し、そこに日本が近代文明の
担い手になる使命があることを論じたもので、大きな反響を呼び
論争を巻き起こした。

1963年には『情報産業論』を発表。未来の「情報化社会」の在り方
からその課題まで、文明論的な観点から大きな見取り図を示した。
そもそも「情報産業」という言葉の名付け親は梅棹である。

また、フィールドワークや京大人文研での共同研究の過程で
開発された具体的方法論をまとめた『知的生産の技術』
(岩波新書 1969年)は爆発的に売れ、長くベストセラーとなった。

梅棹のすごさは、文明論的にみた時代の発展と現代の意味を、
自らの社会的活動で実際に生きてみせた点だろう。

こうした桑原や梅棹らの活躍の背後には、1960年代から
70年代にかけての全世界の大転換があった。
日本に「反乱」「反抗」の嵐が吹き荒れた時代だ。
学問が根源的に問い直されることになり、
従来の狭いアカデミズムを越えた学問が求められた。

生き方と1つになった学問、縦割りの「タコつぼ」ではない
総合的な学問、西欧の物まねではないオリジナルな学問、
わかりやすい言葉で語られる学問、そうした普遍的な魅力を持つ学問。

それが求められた時、今西らが脚光を浴びたのは当然だったろう。
今西たちは従来のダメな学問への代案として、大衆や学生らに
熱く支持された。私もその熱狂的な支持者の群れの中にいた。

そうした流れの中で、今西への評価の高まりと
『生物の世界』の復刻出版もあったのだ。

当時は文庫や新書だけではなく、シリーズ物のブームがあった。
『世界の歴史』『日本の歴史』『世界の文学』『日本の文学』
『世界の思想』『日本の思想』といったタイトルのものだ。
そして、そうした1つ、『世界の歴史』河出書房版25巻が、
桑原たち京大の人文研メンバーを中心として企画された。

その第1巻は今西担当の『人類の誕生』、
24巻『今日の世界』が桑原担当(「戦後の世界」というタイトルに変更)、
ラストの25巻が梅棹担当でなんと『人類の未来』。

シリーズは1968年に今西担当の『人類の誕生』からスタートしたが、
これがベストセラーとなり、今西は一躍時の人となる。

72年には30年ぶりに『生物の世界』の文庫版での復刻出版、
74年からは『今西錦司全集』の刊行も開始される。

こうした転換期の時代の流れに乗った彼らの頂点は、
1970年に大阪で開催された日本万国博覧会の開催と、
その後の国立民族学博物館を設立だった。
万博開催に当たっては、当時の若手の研究者、芸術家、
建築家たちが多数その企画段階から参加した。
そのグループの中心の一人が梅棹忠夫である。

梅棹は世界の民族の展示を担当し、それらの収集品を元にして、
1974年万博の跡地に国立民族学博物館を設立することに成功する。
初代館長は梅棹。今西が先鞭をつけ、梅棹が進めてきた民族学と
文化人類学と文明論や未来論の研究と展示の殿堂がここに完成する。
これが彼らの頂点だったのではないだろうか。

10月 06

今西錦司の『生物の世界』から学ぶ (その3)   中井 浩一

■ 目次 ■

第2節 『生物の世界』から学ぶ
4.「支配階級」の交代
5.人類の誕生
6.相対主義への転落
7.仲間や師弟関係の問題

なお本稿での『生物の世界』からの引用は「 」で示し、
講談社文庫判のページ数を示した。
そこで強調したい個所には〈 〉をつけ、
中井が補った箇所は、〔 〕で示した。

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第2節 『生物の世界』から学ぶ
 
4.「支配階級」の交代

 さて、地球規模にまで生物の社会が拡大し、その世界が
一応完結した段階を見たならば、そこには支配と被支配の
複雑な構造ができあがっている。そしてすべての頂点に君臨する
生物が存在する。しかし、そこにも交代がある。
「1つの全体社会は、その発展の頂点に達したならば、
それはおそかれ早かれ自己解体を起し、その崩壊によって
今度は新たに別な特徴を持った全体社会が発展しはじめる」
(135ページ)。

この「発展の頂点における自己解体」といった考え方は
ヘーゲルやマルクスを思わせる。今西が使用する用語には、
経済学やマルクス主義の用語が多い。「分業」「階級」などの用語が
中心的な解明の箇所で使われる。生物の進化の過程、その
トップの交代も「支配階級」の交代として説明される。

例えば、恐竜の滅亡後の哺乳類の台頭について、
今西は次のように問いを立てる。
「この一躍時代の寵児となった哺乳類、このような偉大な
創造性を発揮した哺乳類というものは、そもそもどこから
現われてきたのであったか。爬虫類の時代には彼らは
どんな社会の隅に潜んでいたのであるか。そして
どうして他の動物ではなくて彼らが爬虫類を継ぐべき
支配階級となり得たのであるか」(140ページ)。

今西の回答はこうだ。
「哺乳類の時代を建設して行った哺乳類の先祖というものは、
どこから出て来たものでもない、実は爬虫類の時代に
すでにその爬虫類の社会自身のうちに〈胚胎されていた〉
ものと考えざるを得ないのである。つまり爬虫類の社会が
変革を経て哺乳類の社会へ変ったと見るから、そこに
〈断絶されたものがある〉ようにも思えるが、この変革を
通して爬虫類が哺乳類に変態したと見れば、それは
〈つづいている〉のである」(142ページ)。

この「胚胎」という用語や「発展の頂点における自己解体」と
いった語句が、いかにもヘーゲル的な内在的な発展観を想起させる。
生物の主体性を重んじる今西は、恐竜滅亡にも環境の側の問題よりも、
生物の側の理由を根本とする。それが「断続」と「継続」の
関係の説明にもなる。

「〔恐竜滅亡の〕原因はむしろ生物の側にあり、その全体社会の
自己完結性に内在していたものと見なさなければならない」。
この「自己完結性」に、今西は「生物の社会の平衡」や
「全体社会としての全体性」の根拠を見ようとする。

5.人類の誕生

 次いで哺乳類の台頭から人類の支配が説明される。

「中生代以後の歴史は要するに支配階級としての脊椎動物共同体の
興亡史でもあり、またその発達史でもある。人間は哺乳類共同体の
中から起り、哺乳類に代って一応は生物の社会の支配階級を占めた
ものであるといえる。それから後の歴史が正しく人間の歴史であろう」
(146ページ)。

そして「人間の次に世界を支配するものは何だろうか」と
問いを立て、次のように答える。
「恐らく人間の支配はまだまだつづくことだろうが、人間の発展にも
限度があると考えられてよいと思う。しかし心配しなくても今の人間に
代って立つべきものは ─もはや人間と呼ばれるべきもので
ないかも知れぬが─ 今の人間の中に〈胚胎〉されていなければならぬ。
〈今の人間の中から〉つくり出されねばならぬ。それが進化史の
教えるところである」(147ページ)。

先にも出てきた「胚胎」という用語が繰り返されているが、
ここに今西とヘーゲルの非常に近い関係がある。しかし
人間が登場する時点で、その違いも決定的になってくる。

今西は人間の次を今の人間に内在化されているとしか言えない。
進化の過程の最終ゴール、終局を示さない。生物進化の原因を、
「主体性」や「分業」の原理や「階級支配」の交代で説明しながら、
それによって究極的には何が達成できるのかを示せない。
端的に言って、人間とそれ以前の生物の違いが明示されず、
人間が生まれたことの意味を示せないのだ。

今西は生物の「自己完結性」を強調する。それは
「任意に他の階級と抗争を起し、他の階級を打ち敗かして
これに代ることのできぬ限定的な保守的な社会」(137ページ)
である。だから、恐竜の死滅の説明にしても
「もっとも可能性の少ないのは、次いで勃興するべき哺乳類との
生存競争の結果、爬虫類が知能的に破れたと考える説」だとし、
「生物の社会における階級としての同位複合社会は、
お互いの間を断絶によって結ばれた関係」だと説明する。

それほどに生物の「自己完結性」は強固なものなのだが、
その中で人間だけが外部に対しても、その内部でも
「任意に他の階級と抗争を起し、他の階級を打ち敗かして
これに代ること」ができるのだ。人間の特異性、異常性は
空前絶後である。
しかし、今西は人間と他の生物との違いの本質を示せない。

ヘーゲルはその違いを、自己意識の有無に見る。
自己意識とは自我であり、内的2分による思考を持つことになり、
それは自己内の葛藤、社会内部の闘争を必然にした。
これが他の生物との決定的な違いである。

また、人間が生まれたことの意味を、ヘーゲルならこう言うだろう。
「自然の真理が人間だ。この地球は自らの真実を実現するために、
その真実を認識し実践する可能性を持った人間を生んだのだ。
人間が生まれたのは必然だった。私たち人間の使命は
『地球の真理の実現』にある」。

地球の進化、発展は、次のような過程を経てきた。
地球(物)→生命。生命内でも、単細胞→植物→動物。
動物内では、魚類→両生類→爬虫類→哺乳類。
哺乳類内では、サル→霊長類→人間といった過程である。

この過程の中に、個々の偶然的な要素があったとしても、
基本的には人間が生まれるまでの過程は必然的な過程だった。
進化の過程は、最終的には人間を生むことで第1段階を終了する。

次の過程は、人間によるこの過程の意味の認識と、
その意味を実現する過程に移る。

人間が生まれたことは、第1段階のゴールであり、
それまでの進化の個々の過程とは決定的に違う。
霊長類から人間の発生は、一歩の違いだが、絶対的な違いである。

6.相対主義への転落

 こうしたことが今西にはわからない。それは今西や彼の弟子たちが、
霊長類の研究から人間社会を解明しようとしたことによく現れている。
今西たちは、チンパンジーなどの霊長類の社会から人間社会を考える。
また狩猟採集社会や遊牧民たちの社会の研究から現代人の社会構造を考える。
それは原理的に不可能だ。そのことがわからない。

マルクスが「人間の解剖はサルの解剖のための鍵である」と
述べたことは有名だが、今西たちは
「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」と言うのだ。
それはどこまで正しいのか。

一般に言って、発達した動物や社会は、未発展の段階の
動物や社会を考えるための大きな手がかりになる。
未発達の段階にあっては、その様々な要素のうちの
どれが将来につながる芽なのかは分からない。
しかし、発展した段階を知ってから過去を振り返るならば、
未発達の段階のどの要素が将来につながるものだったのかが明らかになる。

では、その逆はどうか。
ヒントにはなっても、解明にはつながらないだろう。
未来は過去の単純な延長上には存在しないからだ。
社会の発展は過去のそのままの延長ではなく、
必ず「否定」(今西の「断絶」)がつきもので、
しかもこの否定にこそ新たな展開、つまり真の発展の芽がある。

しかも「否定」(「断絶」)されうる点はたくさんあり、
そのどれが発展へとつながるものかは過去の時点だけでは
予測が難しい。

発展を考えるには、それが発展の芽かどうかを判断する客観的な
基準が必要である。しかし、今西はそれに明確には答えられない。
それは今西の発展観には曖昧な点があり、不徹底であることを意味する。

ヘーゲルの発展観は、「移行(違い=否定)の運動が、
本質に反省する運動になっているときに、それを発展という」
というものだ。
「本質」への深化が実現しているかどうかが決め手になる。
では本質とは何か。地球の真理とは何か。
それが研究されねばならない。
一元論も絶対的なものなら究極目的(地球の真理)を示さねばならない。
そうでないと、相対的な目的しか示せず、相対主義に転落する。
それは本来の一元論ではない。

今西は、相対主義に落ち込んでいるのではないか。
今西の考えでは「生物の多様性」「生態系の安定性(平衡性)」
「多種類の生物がこの地球上に繁栄する」といった曖昧な基準が
ゴールになりかねない。それは現代のエコロジー運動、
環境保護運動などに共通する弱点ではないか。

では、今西のダーウィンの進化論批判をどう評価するべきか。

「ダーウィンの進化論」を本書で取り上げている限りのものと
するならば、それへの反論としては、これで十分に有効だと思う。
それは機械論に対する目的論の優位性ということだ。
今西の優れた点は、地球の一元的な発展の立場に立ち、
それを基礎に置く目的論に立っていることだ。そこから見た時に、
機械論的な説明の欠陥は明確に見えてくる。

しかし今西にはダーウィンの進化論(自然淘汰説)の正しい面が
見えていないように思う。それはこの世界内や生物の世界内部の
対立や矛盾こそを進化を促す中心的な要因としてとらえている点であろう。

7.仲間や師弟関係の問題

 以上の今西の理解の不十分さは、その学問内容だけではなく、
研究集団のありかたの問題を論理的にとらえられないことにも出ている。
研究組織論や師弟関係論がないということだ。

人間社会に絶対的な矛盾と闘争があることを自覚すれば、
それはチームや師弟関係の中にも当然現れることになる。
そこにも下剋上の問題がある。弟子は師を追い抜くことで自立するが、
この過程で様々な葛藤が起こる。

世間でよくおこっている研究不正もここに根を持つ。
弟子の業績を奪うような教授の問題も、その逆もある。
その問題が今西にも起こっている。
例えば、梅棹忠夫の業績を今西が自分の物として
発表したことがあったようだ(梅棹自身がその不満を
述べていたが、今その出典が見つからない)。

なお、『生物の世界』(講談社文庫)で上山春平が執筆した
解説についても一言。
上山は京大人文研で今西の同僚で共同研究の仲間だったらしい
(第3節の「2.桑原武夫の功績」で触れる)。
しかし『生物の世界』での解説は、今西との正面からの対決を避け、
自分の専門の哲学的認識論の枠内でのみ発言している。
『生物の世界』の中で、認識論や世界観が描かれている
1章についてだけ詳しく解説して、その核心である4章(生物の世界の構造)、
5章(生物の進化)については賛否を言わず、当たり障りない範囲の
触れ方しかしていない。
これは今西の「棲み分け」理論の応用とも言えよう。
哲学にはコメントするが、生物学にはコメントしないという
棲み分けをしているからだ。

これは、上山が今西の賛美者としての役割に徹したともとれるが、
その批判者としての役割を放棄したことを意味する。
文庫の「解説」は初心者にわかりやすく説明する場で、
思想的対決をする場ではないと弁明するかもしれないが、
それは「逃げ」でしかない。

上山は、今西が西欧の物まねではない「自前の理論」を
作ったことを評価し、それを学んでほしいと解説で説教している。
それならば、今西の受け売りをするのではなく、今西を
きちんと批判することで、自らその範を示すべきだった。
それでこそ、本物の解説になっただろう。
こうした姿勢は、今西生前の全集の上山による解説
(5巻、10巻)でも同じだ。
それは自立した研究者のすることではないだろう。

しかし、こうした上山を批判せず、自らの取り巻きの一人として
置いておくのが、今西のやり方なのだ。
(今西死後の全集増補版の12巻の上山の解説には、
今西への厳しい言葉もあるが、「死後」であることに注意)