4月 12

ゼミの5月の読書会テキストと6月以降の予定のお知らせをします。

(1)5月11日読書会テキスト

◆5月は
フォイエルバッハの『将来の哲学の根本命題』(岩波文庫)を主テキスト、
エンゲルス『フォイエルバッハ論』(岩波文庫)を副テキストにします。

 マルクスにフォイエルバッハがいかに決定的な影響を与えているか、
を考えると、一度はフォイエルバッハをきちんと読んでおきたいと思います。

フォイエルバッハの思想について、マルクスは、ヘーゲル亡き後、
「真の理論的革命を内に含んでいる唯一の著作」(『経済・哲学草稿』から)
と評価しています。

ヘーゲル亡き後、一世を風靡した「ヘーゲル学派」は右派と左派にわかれて
対立します。その左派を代表するのがフォイエルバッハで、
唯物論の立場からヘーゲルを批判し、それをマルクスは継承することになります。

『将来の哲学の根本命題』(岩波文庫)には3つの著作が入っていますが、
「将来の哲学の根本命題」を取り上げ、他は参考テキストとします。

エンゲルス『フォイエルバッハ論』(岩波文庫)は、
フォイエルバッハのマルクスへの影響をわかりやすくまとめていますから、
参考書としては最適です。余裕のある人は読んでください。

なお、フォイエルバッハの『将来の哲学の根本命題』(岩波文庫)は
現在品切れで、古書でしか入手できないようです。
アマゾンなどから購入できますから、早めに入手しておいてください。
図書館で借りられたら、それでも結構です。

(2)6月、7月のテキスト

 以下を予定しています。
変更などがあるかもしれませんが、参加希望者はテキストを購入しておいてください。
延期はあっても、必ず読むことになります。

◆6月8日読書会テキスト
 マルクス『経済・哲学草稿』(岩波文庫)

◆7月6日読書会テキスト
 マルクス『経済学批判』(岩波文庫)からエンゲルスの書評とマルクスの「序説」

3月 08

2012年12月6日のこのブログで
以下をお願いしました。

◆読者へのお願い

 ヘーゲルがスピノザ著『エチカ』について、
「『規定態は否定である』はスピノザの哲学の絶対的原理である」と、
大論理学の「本質論」、第3編「現実性」の第1章「絶対的なもの」の
注解で述べています。

 この「規定態は否定である」はスピノザ著『エチカ』からの引用だと
思うのですが、見つかりません。

ご存知の方がいたら教えてください。

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これについては、ズーアカンプ社版のヘーゲル全集20巻「哲学史?」のスピノザの項に編集者の注があり、スピノザの書簡集の50番(スピノザからイエレス宛)にその表現があることがわかりました。

「形態は限定にほかならずまた限定は否定なのですから、形態は私の申したように否定以外の何物でもありえないということになります」岩波文庫版(畠中尚志訳)239ページ。

この「限定は否定」がヘーゲルの『規定態は否定である』だということになります。しかし、それが「スピノザの哲学の絶対的原理である」とはどういうことでしょうか。

この書簡の中に、「スピノザの哲学の絶対的原理」を説明しているような箇所は特になく、この書簡の前後、イエレス宛の書簡などを読んでみましたが、ヘーゲルの「『規定態は否定である』はスピノザの哲学の絶対的原理である」を詳しく説明しているような箇所はありませんでした。

私としては、『エチカ』の第1部の定義2「同じ本性を持つ他のものによって限定されるものは、自己の類において有限と言われる」「観念は、他の観念によって限定される」が、ヘーゲルの「『規定態は否定である』はスピノザの哲学の絶対的原理である」の根拠だと考えています。

しかし、「規定態は否定である」という表現には遠いと思います。

ここらへんを知っている方は教えてください。

2月 18

◆3月の読書会のテキスト◆

 3月の読書会テキストは、エンゲルス著『空想から科学へ』です。
 
 テキストは牧野紀之の訳注がある
 『マルクスの「空想的」社会主義』(論創社)を使います。

 2月に前半部(1章、2章)を読みました。後半部(3章、英語版への序文)を3月に読みます。

 参加を希望する方は事前に連絡ください。

なお、今後3月までのゼミの日程は以下になります。
 いずれも午後5時開始。料金3千円。場所は鶏鳴学園です。

  2月23日(土)文ゼミと「現実と闘う時間」
  3月 9日(土)読書会と「現実と闘う時間」
  3月23日(土)文ゼミと「現実と闘う時間」
 

2月 05

今年、私が社会人・大学生たちと行っているゼミで、
「階級」「階級意識」についての学習会を開くつもりです。

そのことでのご相談です。

今の関心は2点あります。

(1)今では、「階層格差」など、「階層」という用語が使用されることが多いですが、
なぜ、「階級」という言葉を使用しないのでしょうか。

この「階級」という用語を使用すると、その著者がマルクス主義の立場にあると表明することになり、
それを避けているのでしょうか。

 そもそも「階層」とは何のことでしょうか。年収での格差のことでしょうか。
マルクスにあるような「社会関係」をも含めて考えていないように思うのですが、どうなのでしょう。

 マルクス、エンゲルス、レーニンに「階層」という観点はあるのでしょうか。

(2)子供が自分の価値観を相対化するためには、自分を育てた親の価値観を相対化する必要があると思います。
それには、親の階級(社会関係)、その階級から生まれる価値観、物の見方や考え方、趣味などを考えることが必要だと思います。

マルクス、エンゲルス、レーニンの著書で「階級」を、その階級ゆえに生まれる価値観、意識から詳しく平明に説明した文献があるでしょうか。

 以上、アドバイスいただければ、幸いです。

12月 06

◆読者へのお願い

 ヘーゲルがスピノザ著『エチカ』について、
「『規定態は否定である』はスピノザの哲学の絶対的原理である」と、
『大論理学』の「本質論」、第3編「現実性」の第1章「絶対的なもの」の
注解や、『哲学史』のスピノザの項で、繰り返し述べています。

 この「規定態は否定である」はスピノザ著『エチカ』からの引用だと
思うのですが、見つかりません。

ご存知の方がいたら教えてください。

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