5月 11

アリストテレスの『形而上学』から学ぶ

 アリストテレスの『形而上学』を、2011年の1月から3月の
 読書会のテキストに取り上げ、通読してみた。
 改めて、その巨大さに圧倒された。
 世間の言うアリストテレスとは、全く対極にあるアリストテレスを発見した。

 ■ 全体の目次 ■

(1)『形而上学』を読む観点
(2)アリストテレスとプラトン →その1

(3)「自然科学オタク」としてのアリストテレス
(4)アリストテレスの著作の読み方と、
   『形而上学』のアリストテレス哲学体系における位置
(5)アリストテレスの問題への向き合い方 →その2

(6)アリストテレスの「判断論」と「推理論」
(7)アリストテレスの「矛盾律」と「排中律」 →その3

(8)アリストテレス哲学の核心 全世界の発展における始まりと終わり →その4

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◇◆ アリストテレスの『形而上学』から学ぶ 中井浩一 ◆◇

(1)『形而上学』を読む観点

 アリストテレスの『形而上学』(岩波文庫版。ページ数はこれから)を
2011年の1月から3月の読書会のテキストに取り上げ、通読してみた。
20年以上も前に読んだことがあるが、当時のことはほとんど記憶にない。
対象が巨大すぎて、手も足も出なかったのだと思う。

 今回は、確認したいことがあり、そうした観点をもってのぞんだ。
 その分、今回は収穫があったように思う。

 アリストテレスとヘーゲルは、人類の哲学史上の2つの巨峰である。
ともに、それまでのすべての哲学が流れ込み、その後のすべての哲学が
そこから流れ出た。ヘーゲルは他の誰よりも、アリストテレスから学び、
アリストテレスを絶賛している。その核心部分を理解したかった。

 昨年、波多野精一著『西洋哲学史要』のアリストテレスの項を読み、以下を考えた。

———————————————————–

   アリストテレスのすごさとは何か。

   【1】個別と普遍(本質)の問題と、【2】変化・発展の問題と、
   【3】全世界の構造、神から物質までの階層、順番の問題。
   この3つの最も根源的な問題を、3つともにとりあげていることもすごいのだが、
   それらを1つに結びつけていることが、その圧倒的な高さだ。

   この【1】は誰もが問題にする。この【1】に対するアリストテレスの答えは
   並の答えで、すごいのは、この【1】と【2】とを結びつけて論じたことだ。
   【1】と【2】を、同じ事態の2つの側面としてとらえた。
   その結果、【3】を説明することができたのだ。
   ヘーゲルは、何よりも、ここから学んでいると思った。

    (以上「ヘーゲルとアリストテレス」メルマガ179号)

———————————————————–

 まず、この点を確認したかった。これが今回の最大の観点である。

 もう1点、確認したいことがあった。ヘーゲル哲学が、近代世界を
切り開いたものだと言われるのは、その「自我の内的二分」の考えによって、
全世界の中心に人間を置いたからだ。それはアリストテレス哲学ではどうだったのか。

———————————————————–

   アリストテレスには対象意識はあった。対象世界、その全体と
   その構造や最上位に君臨する神を、とらえていた。
   対象世界の中には、自然も精神(魂)も人間社会も含まれていた。
   人間社会では、法律も制度も道徳も国家体制もとらえていた。
   無いのは、自己意識(意識の内的二分)だけだ。

    (以上「ヘーゲルとアリストテレス」メルマガ179号)

———————————————————–

 この点も確認したかった。
 なお、以下の前提となる知識は岩波文庫下巻の解説による。

────────────────────────────────────────
 
(2)アリストテレスとプラトン  

 この確認作業の結果を述べる前に、改めて、アリストテレスの人生や、
歴史上の位置についても考えたので、それを最初に述べたい。

 アリストテレスは、紀元前384年ごろの生まれだという。これだけ古い時代に、
これほどの思想、思考レベルに到達していたことに驚く。

 アリストテレスとプラトン、この巨人二人の出会いは、アリストテレス17歳、
プラトン60歳の時。その後、プラトンが死ぬまでの20年間、アリストテレスは
プラトンの学園アカデメイアで修業を重ね、次第に頭角を現していた。

 しかし、プラトンの死後、学園の後継者(学頭)はアリストテレスではなく、
プラトンの血縁者(甥)だった。アリストテレスは独立し、自らの学園を作ることになる。
なぜ、後継者がアリストテレスにならなかったのかは、不明なようだが、
路線対立があったことは確かだろう。

 『形而上学』には、「1」や数学(ピタゴラス主義)とイデア論を
批判的に検討する部分が多く、全体の3分の1ほどある。
これは、アカデメイアで当時強まっていたイデア論の数学化、
神秘化への断固たる批判なのだろう。プラトン主義、そのイデア論についても
徹底的で執拗な批判が繰り返されている。

 しかし、こうした批判をする以前に、アリストテレスには
プラトンの下で学んだ20年間がある。したがって、批判は、
プラトンの下で学んだことを発展させるためのものであったと理解するべきだろう。
それがアリストテレスの発展の立場から、アリストテレス哲学を
理解することになるだろうから。

 アリストテレスが、プラトン(ソクラテスも)から学んだことは何だろうか。

 第1に、哲学する姿勢であり、第2にその能力であろう。
 現象ではなく、対象の「それ自体」としてのあり方(イデア論)を問うこと。
超感覚的なイデアの世界で考え、そこに生きること。
つまりたんなる現状肯定、現状追認ではなく、それを変革していくこと。

 そして、対象の「それ自体」(イデア)を考えるための方法と能力。
それはプラトンによって対話編として展開されるから、言葉の研究、
判断(定義)の形式の研究になっていく。その時に、その対象は、専門用語ではなく、
日常用語、生活の言葉や思考の形式であったことを改めて確認した。
そのことに新鮮な驚きがあった。

 例えば、『形而上学』でアリストテレスは「教える」ことの意味を次のように説明する。

  「また一般に、ひとが物事を知っているか知っていないかについては、
   そのひとがそれを他に教えうるか否かが、その一つの証拠になる。
   そして、この理由からするも、技術の方が経験よりも
   より多く学問〔学的認識〕であるとみなされる。
   けだし、技術家は教えうるが、経験のみの人々は教ええないからである」
   (1巻1章。上巻24ページ)。

 このように、「教える」という日常的な行為を取り出し、
その根源的で普遍的な意味を大きくとらえる捉え方に感心する。

 また、これに関連して、経験と技術(理論)の違いを他の箇所では次のようにとらえる。

 まず、経験家が個別のことにつては、理論化より、しばしば上手く
処理できることを認める。例えば、医術でも「(理論家が)概念的に
原則を心得ているだけであるなら、したがって、普遍的に全体を
知っておりはするが、そのうちに含まれる個々特殊については無知であるなら、
しばしばかれは治療に失敗するであろう」と述べるが、

 「しかし、そうは言うものの」と論を転じて、

  「『知る』ということや『理解する』ということは、経験によりも
   いっそう多く技術に属することであると我々は思っており、
   したがって、経験家よりも技術家〔理論家〕の方が、いっそう多く
   知恵ある者だと我々は判断している、このことは、「知恵」なるものが、
   いずれの場合にも、「知ること」の方により多く関するものであることを
   意味するのであるが、そのわけは、後者〔理論家〕は、物事の原因を知っているのに、
   前者はそうでないから、というにある。けだし、経験家の方は、
   物事のそうあるということ〔事実〕を知っておりはするが、それの
   なにゆえにそうあるかについては知っていない。しかるに他の人は
   なにゆえにを、すなわちそれの原因を、認知している」
    (1巻1章。上巻24ページ)。

 この「なにゆえに」つまり「原因」が実体であり、アリストテレスの研究対象になる。
こうした考えの進め方は、まさに「生活の中の哲学」そのものだ。

 当たり前のことだろうが、当時は、日常用語、生活の言葉と、
学術用語の区別がなかったのだ。哲学者も生活の言葉で考えている。
アリストテレスは、哲学用語をその言葉の生活面での使われ方から考えている。
それはさらに言えば、日常と哲学などの専門学術が分裂していなかったことを意味する。
アリストテレスの用語は、生活から地続きなのだ。

 その後、西洋でも両者は分裂するが、近代化の過程で日本などの「後進国」は
西洋の学問を輸入する過程で、この日常語と思考の言葉の間に完全な分裂が
起きている。この問題は、明治の夏目漱石らの先人達が押しつぶされそうに
なりながらも取り組んだ問題だが、私たち日本人には今も重くのしかかっている。

 さて、アリストテレスはプラトンから学ぶ一方で、プラトンを
激しく批判している。その批判点は何だったのか。

 それは、プラトンのイデア論では運動の説明ができないことにあった。
アリストテレスは、プラトンによって「自然についての研究は壊滅されるしかなかった」
(1巻9章。上巻67ページ)とまで言っている。

 アリストテレスの第1の関心は自然研究だった。
自然界には生成・消滅や変化があり、物理的な運動があるが、それが研究対象だった。
生物の世界、植物や動物の世界の分類、体系化がテーマだった。
ところが、それがイデア論では説明ができない。

 その限界を、イデア論を全否定するのではなく、イデア論を発展させることで
乗り越えることがアリストテレスの課題だったと思う。

 アリストテレスは、プラトンの死後、アカデミアを去って自分の学園を作った。
すでに40歳をすぎていた。ここからアリストテレスが自らの哲学を確立するための、
プラトンから真に自立するための、本当の闘いが始まったと思う。
そして、生涯をかけて自らの課題と取り組んだ。
そのアリストテレスの回答は『形而上学』にまとめられている。

1月 23

ヘーゲルの論理学の判断論と推理論 その5

 昨年(2010年)は、ヘーゲルの論理学では、
 第3部概念論の主観性から判断論と推理論を学んだ。
 これは言語学との関連もあり、
 関口ドイツ語学の学習と並行して進められた。
 それは大いに相乗効果があったと思う。

 昨年に学んだことを以下にまとめる。
 わからない点も、どこがどうわからないかをまとめておく。
 「推理論」そのものの詳しい検討は、後にまわす。

 ■ 目次 ■

 一.論理学全体、第3部「概念論」全体、「主観性」の全体として
 (1)なぜ、ヘーゲルの論理学では、[判断の形式]ですべてが貫かれているのか
 (2)なぜ存在論、本質論までは[判断]でいいのか
 (3)概念論の主観性の[判断論]
 (4)概念論の主観性の[推理論]
 (5)[概念論]は発展の論理であるが、それはまず[主観性]という
    大きな括りの中で示される。
   →その1

 二.「判断論」全体の問題点
 (1)認識主体(主観性)が出てこないのはなぜか
 (2)判断の矛盾、運動の原動力とは何か。
 (3)判断論の内部での進展は何を意味するのか。
    判断から推理への進展は何を意味するのか
 (4)文(命題)と判断とはどう違うのか
 (5)仮言判断の問題
 (6)主語が2つ、文が2つ現れるとは、どういうことなのか
 (7)概念のナカミはどこで問われるのか
 (8)カントとの関係
 (9)アリストテレスとの関係
   →その2

 三.判断論の各論
 ○判断の運動(質の判断から反省の判断へ)
 (1)質の判断
 (2)反省の判断 →その3
 (3)必然性の判断(種と類) →その4
 (4)概念の判断 →その5

 四.その他
 (1)例文について
 (2)「生活のなかの哲学」 
 (3)大論理学と小論理学
   →その5

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 三.判断論の各論

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 (4)概念の判断

 実然判断 この家は良い この人の行為は正しい

 蓋然判断 この家は良いかも知れない
      この家が○○ならば、この家は良い
      この人の行為が○○ならば、この行為は正しい

 確然判断 この家は○○の性状を持っているから、この家は良い
      この人の行為は○○の性状を持っているから、この行為は正しい
     
———————————————————–

 1)カントまでの理解

  実然判断    → 蓋然判断   → 確然判断
(?かも知れない) (?だよ(断定)) (?に違いない)

 2)概念の内容は示されない → それは自然哲学、精神哲学の内容そのものだから

 3)全体に

【1】いよいよ「概念」が現れてくる
 「真理」 対象とその概念との一致

 
【2】実然判断 → 蓋然判断 → 確然判断
 実然判断の中に、その根拠が内在していて、それが概念。
 それを表に出し始めたのが蓋然判断。
 

 その対象と概念が一致するか否かが問われ、
 その結果が述語で示される(概念のナカミそのものではない)
 述語が価値そのもの
 この前段が、表に現されると、文が2つになり、蓋然判断、確然判断
 概念の内容が現れている。

【3】個別は普遍

【4】確然判断
 個別と特殊と普遍の3項で、推理に
 確然判断の後段はそのまま、実然判断

【5】蓋然判断、確然判断
 これは、本当に判断なのか。すでに推理ではないのか。

 4)実然判断 (この家は良い。 この人の行為は正しい。)

 家の概念、人の概念 が問われている
 根拠=概念 潜在的に概念が問われている。
 なぜなら良い、正しいは、存在と概念の一致だから
 この家、この人、は個別で、根拠は特殊か?

 5)蓋然判断
  (この家が○○ならば、この家は良い。この人の行為が○○ならば、この行為は正しい)

 「○○ならば」は特殊か?

 6)確然判断

 この家は○○の性状を持っているから、この家は良い 
 この人の行為は○○の性状を持っているから、この行為は正しい

 前文は判断の根拠。後半は蓋然判断

 四.その他

 (1)ヘーゲル「大論理学」の判断論で、例文をほとんど出さない理由

 1つの文で、4つの判断の2つにまたがって例を出すことは無理。
レベルが違うから。
それぞれの判断の内部でも、その達意眼目において違う例文が必要になる。
だから、ヘーゲルは大論理学では、あえて、例文を出さないのではないか。

 (2)「生活のなかの哲学」 

 日常用語を哲学のカテゴリーとして使用する理由
 哲学の使命は、日常の人々の経験の意味を、
言葉にすることで、人々に気づきをうながすこと。
(『大論理学』3 寺沢恒信訳 以文社 193、194ページ)
これが牧野紀之「生活のなかの哲学」になる。 

 (3)大論理学と小論理学

 大論理学について誤解していたと思った。以前は、小論理学に対して、
大論理学の方が「詳しい」と思っていたのだが、不正確だった。

 大論理学は必要十分なことを、簡潔に述べている。
だから具体例も少ない。「詳しく」はない。むしろ小論理学の方が饒舌。
一部は小論理学の方が「詳しい」。(「補遺(付録)」部分に限らない)。

 小論理学は、大論理学を書いたあとで、一般学生にわかりやすく説明しなおしたもの。
大切な論理の説明も、一部ははしょっている。受け狙いの個所もある。
これをヘーゲルの真意だと思うと失敗する。
小論理学で具体例が多いのはありがたいが、その例として的確かどうかは考慮の余地がある。

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1月 22

ヘーゲルの論理学の判断論と推理論 その4

 昨年(2010年)は、ヘーゲルの論理学では、
 第3部概念論の主観性から判断論と推理論を学んだ。
 これは言語学との関連もあり、
 関口ドイツ語学の学習と並行して進められた。
 それは大いに相乗効果があったと思う。

 昨年に学んだことを以下にまとめる。
 わからない点も、どこがどうわからないかをまとめておく。
 「推理論」そのものの詳しい検討は、後にまわす。

 ■ 目次 ■

 一.論理学全体、第3部「概念論」全体、「主観性」の全体として
 (1)なぜ、ヘーゲルの論理学では、[判断の形式]ですべてが貫かれているのか
 (2)なぜ存在論、本質論までは[判断]でいいのか
 (3)概念論の主観性の[判断論]
 (4)概念論の主観性の[推理論]
 (5)[概念論]は発展の論理であるが、それはまず[主観性]という
    大きな括りの中で示される。
   →その1

 二.「判断論」全体の問題点
 (1)認識主体(主観性)が出てこないのはなぜか
 (2)判断の矛盾、運動の原動力とは何か。
 (3)判断論の内部での進展は何を意味するのか。
    判断から推理への進展は何を意味するのか
 (4)文(命題)と判断とはどう違うのか
 (5)仮言判断の問題
 (6)主語が2つ、文が2つ現れるとは、どういうことなのか
 (7)概念のナカミはどこで問われるのか
 (8)カントとの関係
 (9)アリストテレスとの関係
   →その2

 三.判断論の各論
 ○判断の運動(質の判断から反省の判断へ)
 (1)質の判断
 (2)反省の判断 →その3
 (3)必然性の判断(種と類) →その4
 (4)概念の判断 →その5

 四.その他
 (1)例文について
 (2)「生活のなかの哲学」 
 (3)大論理学と小論理学
   →その5

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 (3)必然性の判断 (種と類)

 定言判断  金は金属である バラは植物である

 仮言判断  もしAが存在すれば、Bも存在する
       カントの例:太陽が石を照らすと、石は暖かくなる
       もし山田氏が未婚ならば、彼は妻を持たない
       もし下痢をすれば、身体が衰弱する
       もし横綱が負ければ、この首をやるよ

 選言判断  AはBであるかCであるかDであるかである
       AはBかつCかつDである
       詩は叙事詩か抒情詩か劇詩である

———————————————————–

 1)全体として

【1】[主語]が類(普遍)になる(選言判断)ことの意味。

 [主語]と[述語]関係の逆転。※これは、いわゆる「判断」の止揚である。
 類=普遍そのものが、意識の中心に置かれた。
 [全体]が意識されるに至った。→必然性の判断。
 その全体の内実が具体的に検討され、
 その中身の関係が、具体的に考察されるに至る。→選言判断

【2】本質論の「現実性」に対応する
 「必然性の判断」は、本質論の「現実性」をさらに一歩進めたもの。
 ここでは発展の論理、生物進化の原理までが問われている(特に選言判断)。
 cf)精神現象学の「自己意識」の「生命」では、食物連鎖から「類」を出す。

【3】 定言判断 → 仮言判断 → 選言判断
 論理学の本質論の 実体性 → 因果関係 → 概念 へとの展開との対応

 2)定言判断

 「この金は」金属である
 「このバラは」植物である
 これが「金は」、「バラは」になる

 個別 )種 )類 )

【1】主語と述語は反省関係になっている
 自己と自己との同一性
 自己内反省=[肯定的統一]

【2】必然性は内的(実体関係)、偶然性、可能性の立場 → 必然性の外化、否定的統一(仮言判断)

【3】
 主語は述語である
 個別は普遍である → 種は類である(特殊は普遍である、という段階)

 ┏[主語](種)の内部の普遍性が引き出された
 ┗ 一方、[述語]の普遍性から、それを分割する形で、それ自体も普遍性の種を[主語]とする

 3)仮言判断 もしAが存在すれば、Bも存在する

 ※これは前段が個別、特殊(種)で、後段が普遍(類)なのか、
  それとも逆か。
  前だと、次の選言判断につながらないように思う

【1】他者との同一性の定立(定言判断は、自己と自己との同一性の定立)
 自己と他者との同一。同一の深化 →[否定的統一]

 同一だが、概念の同一ではなく、普遍、特殊、個別の3契機がない
 契機一般はある。主語と述語関係ではない。
 普遍→特殊までで、概念がまだない

【2】必然性の外化(因果関係)
 しかし、2つの存在は外的で偶然。その存在の必然性は定立できない。
 定立できたのは、2つの関係の必然性のみ。

【3】大論理学で、ここに 「可能性」という言葉が出てくるのは、
 「現実性」の可能性から必然性との流れがここで意識されているから。

【4】仮言判断は、すでに2つの主語(文)が出ており、
 自己と他者の両者が1つの文で直接示される(2つの文が内在している)
 初めての例。これは推理ではないのか。

 4)選言判断

【1】[否定的統一]の原理とは、概念の原理だが、つまり発展の原理のこと
 これが経験主義を超える可能性

【2】類=A,B,C,D 類の種別化、分類の原則、進化の原理 →「概念」

【3】普遍、特殊から個別(概念)が現れる。→ 概念の判断

【4】選言判断で、主語と述語の逆転が起こる

 主語は述語である
 個別は普遍である
  ↓
 特殊は普遍である
 が
 主語と述語が逆転する
 類が述語だったのが、主語が類になっている
 普遍は普遍である

 普遍は特殊の総体である
 コプラの両方が、普遍でまったく一致する
 この全くの一致に、コプラの充実(一応の一致)=潜在的な概念が現れている

【5】大論理学「主語は述語に対する自分の規定を失う」
 (『ヘーゲル大論理学 3』寺沢恒信訳注 以文社 195ページ,
  ズールカンプ社版全集6巻 407ページ)とある。

 寺沢はここで、コプラの充実と説明し(『ヘーゲル大論理学 3』432ページの注17)、
「必然判断」では性状が判断の根拠になっているとする
(『ヘーゲル大論理学 3』433ページの注18)。
私は、ただの「根拠」ではなく「概念」になっているのだと思う。

【6】2つの文が現れる必然性
 主語と述語が逆転することと関係するのでは

5)「反対概念」(AもBも が可能)と、「矛盾概念」(AかBか)

 (選言判断から)

 ┏同じ類の中で区別されるものが反対概念
 ┗相互に締め出す関係が矛盾概念

これはヘーゲル用語辞典に入れるべき。

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1月 21

ヘーゲルの論理学の判断論と推理論 その3

 昨年(2010年)は、ヘーゲルの論理学では、
 第3部概念論の主観性から判断論と推理論を学んだ。
 これは言語学との関連もあり、
 関口ドイツ語学の学習と並行して進められた。
 それは大いに相乗効果があったと思う。

 昨年に学んだことを以下にまとめる。
 わからない点も、どこがどうわからないかをまとめておく。
 「推理論」そのものの詳しい検討は、後にまわす。

 ■ 目次 ■

 一.論理学全体、第3部「概念論」全体、「主観性」の全体として
 (1)なぜ、ヘーゲルの論理学では、[判断の形式]ですべてが貫かれているのか
 (2)なぜ存在論、本質論までは[判断]でいいのか
 (3)概念論の主観性の[判断論]
 (4)概念論の主観性の[推理論]
 (5)[概念論]は発展の論理であるが、それはまず[主観性]という
    大きな括りの中で示される。
   →その1

 二.「判断論」全体の問題点
 (1)認識主体(主観性)が出てこないのはなぜか
 (2)判断の矛盾、運動の原動力とは何か。
 (3)判断論の内部での進展は何を意味するのか。
    判断から推理への進展は何を意味するのか
 (4)文(命題)と判断とはどう違うのか
 (5)仮言判断の問題
 (6)主語が2つ、文が2つ現れるとは、どういうことなのか
 (7)概念のナカミはどこで問われるのか
 (8)カントとの関係
 (9)アリストテレスとの関係
   →その2

 三.判断論の各論
 ○判断の運動(質の判断から反省の判断へ)
 (1)質の判断
 (2)反省の判断 →その3
 (3)必然性の判断(種と類) →その4
 (4)概念の判断 →その5

 四.その他
 (1)例文について
 (2)「生活のなかの哲学」 
 (3)大論理学と小論理学
   →その5

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 三.判断論の各論

 ○判断の運動(質の判断から反省の判断へ)

       バラ自身の判断の運動

 このバラは  赤である
        赤ではない
 あのバラは  青である
        青ではない →→→「色」を持つ
 そのバラは  黄色である
        黄色ではない
        紫である  
         ↓
         ↓ 悪無限(述語の運動)

 これは述語の運動。
そうして示されたのが、質の判断のレべル(存在論)。
しかし、それは同時に主語の運動でもある。
この側面を展開したのが反省の判断のレべル(本質論)。

 主語の運動とは、主語が他と関係し自己の本質を示していくこと。
 他者とは、他のバラ、他の種、類(バラ科、植物)、事柄(人間や病気→薬草)
 これを展開したのが反省の判断 → 「反省の判断」を「量の判断」としては
ならない理由がここにある。量も質の反省だが、自己内反省。

———————————————————–

(1)質の判断

 肯定判断 このバラは赤い     青である
 否定判断 このバラは赤ではない  青ではない
      色を持つ
 無限判断 

———————————————————–

【1】論理学の存在論の段階に対応する

【2】[述語]が感覚的規定
 すべての感覚や認識が、先ずは、この段階の判断として現れる

【3】この段階では「個別は普遍」
[主語]は個別。他の存在から切り離され、認識主体の感覚との関係だけで存在する
[述語]内容は特殊 色の中の赤とか、青とか

【4】[主語]の持つ多様な規定から1つが感覚でとらえられ、
 それが[述語]として引き出される
 [述語]から見れば、「赤い」対象は、「このバラ」以外に無数にある

【5】【3】と【4】から、[主語]と[述語]が、
 コプラで(同一)とされながら、わずか1点でしか接点をもたない
 この[矛盾]が、否定判断へと展開し、無限判断を生み出す。
 認識主体との関係も、感覚の1点(例えば視覚の中の色彩)
 でしかふれあわない(牧野より)

【6】無限判断の過程で、[述語]が、感覚から思考による規定へと移行する
 感覚の規定から、思考による規定に。
 このバラが赤い、 このバラは青い。
 といったバラの判断の運動(最初は個別のバラの運動)で、それが展開する。
 それによって、このバラは他のバラとも関係する。
 個々の色(特殊)から、色という普遍に。

【7】なぜ「定存在」の判断なのか、なぜ「定存在」から始まるのか

 ○(純粋)存在=自己関係、自己同一の意味だが、それはコプラに他ならない
 『ヘーゲル大論理学 3』(寺沢恒信訳注 以文社)、12ページ
 ズールカンプ社版全集6巻、14ページ
 das Sein als Kopula des Urteils 判断のコプラとしての存在

 ○定存在と存在の関係
 論理的な順番と歴史的な順番が反対になっている。

 ○牧野も『関口ドイツ語学の研究』(133ページ)で、
 独立存在が「?が存在する」、定存在が「?である」、
 この定存在の「?である」がさらに抽象化し、
 一切の規定なしになっているのが存在としている。
 これがコプラそのものなのだろう。

【8】「正しい」か否かが、問われる段階。 対象と表象の一致。
 「真理」が問われるのは、概念の判断以降。

【9】今日の言語学では、次のように考える。

 「このバラは赤い」は現実に話されることはない。不自然。
 文脈で、白いバラを注文した時に、赤いバラが来たときにのみ発言される。
 だから、こうした文例を使わない。

 これは、判断が対象の運動であるという側面を無視し切り捨て、
 認識の運動とのみとらえていることから生じる意見ではないか。

———————————————————–

(2)反省の判断

 単称判断 この植物は薬草である
 特称判断 いくつかの植物は薬草である
      ※単称判断に内在化されていたのを外化しただけ
 全称判断 すべての人間は死するものだ
      すべての金属は伝導体だ

———————————————————–

【1】論理学の本質論(仮象と現象)の段階に対応する

【2】[述語]は思考でとらえられた(自己内反省した)規定

【3】[主語]が、他の対象(病気や病人、医者、医療)との関係で捉え直されている
 同じ植物でも他の植物とも関係させてとらえられている

[主語]が他と関係する中で現した本質規定を[述語]としている
[主語]の潜在的な本質規定が[述語]として出されている

【4】単称→特称→全称 への展開は
[主語]が、個別→特殊→普遍(類)へと進展
[述語]は普遍のまま

 個別は普遍 → 普遍は普遍 に

 「すべての人間」→「人間そのもの」→「人類」=類

【5】「特称」の意味

   このバラは植物である
     ↓
  ┏いくつかのバラはAである。
 ┏┫
 ┃┗いくつかのバラはAではない。   反省 → 悪無限
 ┃   ↓
 ┗すべてのバラは?である。
 (Aの自己内反省)。
    

 ┏いくつかのバラはAである。
 ┗いくつかのバラはAではない。
 後者は前者に内在されている。

 牧野のコメント、「認識に知られた限りでは?」の意味もある、は間違い。
認識主体がどうとらえたか、とらえられたか。
こういった認識の運動と、事実(対象)そのものの運動とを区別すべき。
判断論はまずは、対象の運動である。そして、それゆえに認識の運動でもある。

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1月 20

ヘーゲルの論理学の判断論と推理論 その2

 昨年(2010年)は、ヘーゲルの論理学では、
 第3部概念論の主観性から判断論と推理論を学んだ。
 これは言語学との関連もあり、
 関口ドイツ語学の学習と並行して進められた。
 それは大いに相乗効果があったと思う。

 昨年に学んだことを以下にまとめる。
 わからない点も、どこがどうわからないかをまとめておく。
 「推理論」そのものの詳しい検討は、後にまわす。

 ■ 目次 ■

 一.論理学全体、第3部「概念論」全体、「主観性」の全体として
 (1)なぜ、ヘーゲルの論理学では、[判断の形式]ですべてが貫かれているのか
 (2)なぜ存在論、本質論までは[判断]でいいのか
 (3)概念論の主観性の[判断論]
 (4)概念論の主観性の[推理論]
 (5)[概念論]は発展の論理であるが、それはまず[主観性]という
    大きな括りの中で示される。
   →その1

 二.「判断論」全体の問題点
 (1)認識主体(主観性)が出てこないのはなぜか
 (2)判断の矛盾、運動の原動力とは何か。
 (3)判断論の内部での進展は何を意味するのか。
    判断から推理への進展は何を意味するのか
 (4)文(命題)と判断とはどう違うのか
 (5)仮言判断の問題
 (6)主語が2つ、文が2つ現れるとは、どういうことなのか
 (7)概念のナカミはどこで問われるのか
 (8)カントとの関係
 (9)アリストテレスとの関係
   →その2

 三.判断論の各論
 ○判断の運動(質の判断から反省の判断へ)
 (1)質の判断
 (2)反省の判断 →その3
 (3)必然性の判断(種と類) →その4
 (4)概念の判断 →その5

 四.その他
 (1)例文について
 (2)「生活のなかの哲学」 
 (3)大論理学と小論理学
   →その5

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 二.「判断論」全体の問題点

(1)認識主体(主観性)が出てこないのはなぜか

【1】主観性と客観性の対立(分裂)の関係は、本質論の現実性(労働)で
 すでに触れられ(『小論理学』148節)、概念論の概念でそれは止揚されている。

【2】「概念論」が主観性、客観性、理念との3分される以上、
 主観性の段階は、主客の対立の未分化の状態としてとらえられている。

【3】主観性と客観性が対立(分裂)するのは、
  客観性の目的論であって、ここではない。

【4】判断は存在世界の運動であり、それゆえにそれを反映する
 人間の認識の運動でもある。
 認識主体と対象(客観性)は、一体のものとして扱うのがこの主観性の段階。

 以上は、ヘーゲルの論理学の上での説明だが、これは現実には何を意味するのか?
 牧野もこれを問題にし、その答えは出していない。

(2)判断の矛盾、運動の原動力とは何か。

【1】判断を発展させる原動力は、
 [コプラ](である)が主語と述語の「同一」を示すのに、
 実際の主語と述語が全面的に一致していないという[矛盾]にある。
 その一致をめざして運動がおこり、それが判断論の進展である。

【2】コプラは概念そのもの。
 概念の契機である、普遍、特殊、個別の3要素はコプラに内在する。

【3】コプラの充実とは、主語と述語の両者が全的に一致すること。

【4】関口は、コプラを軽視するが、
 これはそこに矛盾の運動を見られないことと関係する。

【5】普通の言語学では、コプラは「主語と述語を『つなぐ』」と言うが、
 「同一」だとはいわない。これは問題を矛盾にまで突き詰められない悟性の限界。

(3)判断論の内部での進展は何を意味するのか。
   判断から推理への進展は何を意味するのか

【1】判断から推理へ 2項から3項へ。
 普遍、特殊、個別の区別が潜在的だったものから顕在化する。

【2】判断論では、個別は普遍、特殊は普遍、個別は特殊と進展する
 主語は、[個別]→ 特殊 →[普遍]と
 述語は、[普遍]→ 特殊 →[個別]と進展する。
 そして、これは最後(必然性の判断の選言判断)には
 主語と述語との位置が逆転することを意味する。

【3】判断の有限性。推理は無限。人類は男女から子どもを介して無限。

(4)文(命題)と判断とはどう違うのか

【1】論理学では、判断の述語となる言葉(概念)だけを対象としている。
 つまり、文(命題)一般が対象ではなく、
 判断の形になっているレベルを 問題にしている。
 判断とは、問いの形に意識されたものに答える形になったものだ。
 したがって、単なる描写は、最初から問題にならない。

【2】では、ヘーゲルでは文(命題)一般はどうとらえられ、分類され、
 それがどう発展したのが判断になると、理解されているのだろうか。
 それが書かれていない。

【3】判断が前提されるが、それはカントの影響も大きいだろう。

(5)仮言判断の問題

 ヘーゲルの判断論では、仮言判断は、必然性の判断の中に、
定言判断→仮言判断→選言判断として出てくる。

 しかし、仮言判断は、ヘーゲルにあっては、定言判断と選言判断の
媒介としての意味しか示されていないように思う。これでは仮言判断の持つ、
大きな意味のほんの一部しか明らかにされていないのではないか。

 この仮言判断で、初めて主語が2つ、したがって文が2つ現れるのだが、
その意味が十分にとらえられていないと思う。

 関口の「不定冠詞論」で第10章の「不定冠詞の仮構性の含み」では、
不定冠詞をつけた名詞が、一語で一文の意味(つまり「含み」)を
持つことを説明している。

 この「仮構性」で「約束話法」とは、仮言判断のことだろう。
また、「普遍妥当命題の主題目」の名詞に不定冠詞がつくのも、同じで、
例証的個別、架空的個別を出すと説明している。
1語の中に、条件文は「含み」として含まれるのだ。
「もし○○(名詞)が存在するならば」「もし○○が?ならば」。

 そもそも「否定」の文とは、「○○が?する」のを否定するのだが、
そのためには、先ず、○○を存在させ、その上で否定しなければならない。
この二重の手順なしに、否定はできない。
つまりある主語(名詞)の存在(または他の動詞)を否定するには、
まずはその存在(または他の動詞)が条件として含まれていると言える。
これは存在→否定とのヘーゲル論理学の展開とも関係するだろう。

 一般論を述べるにも、ある個別の主語(名詞)の存在
(または他の動詞)が前提とされる。
これらは、「肯定と否定」と「普遍と特殊」の二重性となっている。

 この「肯定と否定」の二重性は、ヘーゲルでは肯定判断と否定判断の
悪無限として質の判断ですでに説明されていた。
したがって、それは反省の判断でも、必然性の判断でも前提だ。
しかし、それまではその二重性が表に出て見えることはなかった。
こうした二重性が仮言判断では、はっきりと表に現れている。
仮言判断とは、潜在的な二重性が顕在化する段階なのではないか。
これが、文が2つ現れて来るという意味ではないか。

 その上で、主語が2つ現れるという、
仮言判断の特殊な側面が問われることになるのではないか。
ヘーゲルには、後者の説明はあっても、前者がない。
これはヘーゲルがカントに依存し、その範囲で考えていることから
生じているのではないか。

(6)主語が2つ、文が2つ現れるとは、どういうことなのか

【1】[仮言判断]では、主語が2つ現れる。
 したがって、文も2つあることになる。

【2】複文 主文と従属文。条件文(副文)は、[概念の判断]で現れる。
 この意味が説明されなければならない。私見は(5)に書いた。
 また、仮言判断は、論理的には推理ではないか。
 概念の判断もそうではないか。

(7)概念のナカミはどこで問われるのか

 人間とは?(人間の概念)である という判断は、この判断論では現れない。
 先の規定で、[精神哲学]における内容だから。

(8)カントとの関係

【1】ヘーゲルが行ったのは、カントが示したカテゴリー表、判断の分類の意味を深めただけ
 カントが考えていたことの潜在的な意味を、顕在化させただけ
 逆に言えば、この「?しただけ」(深めた)が重要。それが継承(発展)させること。
 これが私たちができるベスト。

【2】二人の違い
 すぐにわかるのは、カントの量から質の順を、ヘーゲルは質(定存在)から始めて、
 反省(量ではないが、全称や特称を扱う)へと展開したこと。
 他も、全体にそれぞれの判断の意味を変えている。
 しかし、ヘーゲルがカントに引きずられている部分もあるのではないか。
 判断の4種類など。

【3】仮言判断におけるヘーゲルとカント
 ヘーゲルとカントでは、仮言判断と因果関係との関係が正反対。
 カントは、仮言判断の存在から原因結果の関係を導出する。
 ヘーゲルは、逆である。
 これはカントがカテゴリーを人間の悟性の行う判断の形式から導出しようとし、
 ヘーゲルにとっては、概念の運動から判断を導出しようとしているのだから当然。

 それよりも、仮言判断と原因結果の関係を結び、
 定言判断 → 仮言判断 → 選言判断としているカントに、
 どれだけ強くヘーゲルが依存しているか、その側面こそが問題なのだ。

(9)アリストテレスとの関係

【1】アリストテレス以来の形式論理学の批判になっている

【2】アリストテレスでは、「肯定と否定」と「普遍と特殊」の対立が
 絶対的な基準になっているが、ヘーゲルはその相互転化を示すので、
 その対立は止揚される。

【3】ヘーゲルの論理学では、肯定判断と否定判断の相互転化は質の判断で示される。
 反省の判断以降では、この肯定と否定は契機として止揚されているから、
 その後の判断において繰り返し出てくるが、表には肯定の形しか示さない。
 それは止揚しているので、一々示す必要がない。

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