親子関係はいかにあるべきか 親子関係の3段階の原理・原則
中井浩一
■ 目次
※前日からのつづき
2.第2段階 親=子どもの段階
(1)親子関係が親=子どもの段階
(2)社会人としての関係、結婚後の関係
(3)子どもの自立が真に問われる
(4)親不孝と恩返し
(5)親子のつきあい方は両者の合意に基づく
3.第3段階 親<子どもの段階 (1)親子関係が親<子どもの段階 (2)老人の尊厳、自立・主体性をどう保障するか (3)老後の問題の前に、定年後の人生という問題がある (4)死に方、看取り方 (5)どのような社会を目指すのか 4.ことわり(男女の役割分担について) ============================== 2.第2段階 親=子どもの段階 (1)親子関係が親=子どもの段階 子どもが就職し、社会人になれば、経済的に自立し、それは対等な大人同士の関係になることを意味する。 (2)社会人としての関係、結婚後の関係 対等な大人同士の関係にも2つの段階がある。 1.独立した社会人としての対等とは、親子の個人としての面であり、法的人格の平等と経済的自立による対等関係である。 2.その上で、子どもが結婚をすることで、夫婦としても、両親夫妻と対等な関係になる。 男女の夫婦関係は、根底に性関係があり、それは閉じた関係であり、他者がそこには踏み込めない領域を持つ。 親といえども、子どもの夫婦間のプライバシーには踏み込めない。 子どもも、両親の夫婦間のプライバシーには立ち入れない。 親子がそうした領域をともに持ち、それが自覚されることは、真に対等の関係をうながす。 結婚式は、親子の親子としての最終局面、それ以降は対等な大人同士の関係になるということだ。 本来は個人(社会人としての子ども)としての関係でも、性的な領域、信仰や信念、思想などで、 踏み込んではいけない領域、距離を置くべき領域はあるのだが、無視されやすい。 それが、結婚によって自覚されるという側面がある。 ※注釈 師弟関係は特別。弟子の夫婦関係にも踏み込むことができる (3)子どもの自立が真に問われる 親子が対等になった時点で、子どもの「自立」が真に問題になる。 なぜなら、子どもは、その生き方、物の見方、価値観において、無自覚ではあるが、両親の圧倒的な影響を 受けているからだ。 自立するためには、親の価値観や思想を相対化し、それに対置する形で、子どもは子ども自身の生き方、 物の見方、価値観(つまり自分の思想)を、自覚的に作っていく必要がある。 ※ここで、テーマと先生がどうしても必要になる。 (4)親不孝と恩返し 子どもは直接的には親に育てられ、教育され、一人前の社会人となる。その恩返しをどう考えたら良いのか。 子どもの本質は「未来の社会の働き手」である。親にとって、子どもは社会からの預かりものであり、 次の社会の働き手、その変革の主体として育て、教育し、社会へと返すものである。(以上は1.の(2)) 子どもは確かに、直接的には親に育てられ、教育されたのだが、より本質的には、その教育の主体は社会なのである。 したがって、その恩返しも、まずは社会に対してのものでなければならない。親へのそれは副次的なものなのだ。 子どもは第1には、未来の社会の立派な働き手となり、人類や社会に貢献しなければならない。 そして、いつかは自らの子どもたちを生み育てる。それが次の未来への働き手となるように。それが社会への恩返しである。 親に対する「恩返し」は副次的である。もちろん、親への感謝や敬意は必要である。 しかし問題は、社会への貢献と親への恩返しの間に対立・矛盾が起こる場合があることだ。 その時は、親に反対されても、自分の信念を貫かなければならない。親の立場は過去と現在のものであるが、 子どもの立場は未来のものであり、現在の社会を発展させ、それを止揚した未来を作ることがその使命であるからだ。 親との対立や否定は、表面的、外面的には「親不孝」であろう。 しかし、親たちの世界や価値観を真に超えることが、真の「恩返し」である。 (5)親子のつきあい方は両者の合意に基づく 親子は、人生の節目節目で意見交換ができればよい 大学進学、就職、結婚、離婚、定年、遺言 その結果、親子の価値観の違いがはっきりと現れる場合もある。 政治的なこと以外に、生活上の礼儀や習慣でも、違うことが起こる。結婚観、人間観、社会観、つまり思想一般においても。 価値観が違っても、それを認め合ってつきあうことは可能。 しかし、そのためには、その違いを表明し、それを受け入れ合うための話し合いの過程が必要。 それが不可能なら、親子関係を終わりにする(絶縁、絶交)ことも可能。親子は対等なのだから。 つきあうなら、どうつきあうかは、対等な関係として決まる。一方の要求だけではだめで、 両者の合意があった範囲のつきあいかたになる。 場合によってはルールを提示し、その合意を確認し合うことも必要。 「どうつきあうか」といっても、「つきあう」限りは、そこから生ずる義務・責務がある。 どういうつきあいかたをするかは、「つきあう」ということから生ずる最低限の責務の上にある。 「つきあう」こと自体が無理ならば、絶交するしかない。 3.第3段階 親<子どもの段階 (1)親子関係が親<子どもの段階 親の体力や知力が衰え、経済力がなくなるなど、自立が不可能になり、経済的な援助や介助や介護が必要になる段階。 力関係が逆転する。 親<子ども (2)老人の尊厳、自立・主体性をどう保障するか 老人の尊厳性の根源とは、彼らがこれまでの社会の担い手であり、働き手であったことである。 したがって、老後の介護は、その子どもたち家族だけではなく、第1には社会全体が担う責任がある。 (3)老後の問題の前に、定年後の人生という問題がある 多くの人は、定年によって人生の目標を失う。経済的な問題や、老後の資金の問題もあるが、 生きる上で何よりも大きいのは、人生の目的やテーマを失うことであろう。定年後には、新たな目標やテーマが必要なのだ。 前半生での目標(仕事、社会的な目標、子育て、子どもの自立)は達成した。それが失敗だったとしても、 すでに終わったことである。 ではどうするのか。本当は、定年前から定年後のための目標やテーマを準備しておくことが必要なのだ。 この問題は、父親の場合も深刻だが、母親の場合はもっと深刻になりやすい。 これは本来は、親の自己責任である。 子どものできることは少ないが、アドバイスは可能。 (4)死に方、看取り方 親は、自分の生涯の最後の段階の過ごし方、最終段階では何のために生きるのか、 死の迎え方、それを静かに深く考えていく必要がある。 子どもは、介護が必要な親とどう関係するか、どう支えるか、死までの見送り方、それを静かに深く考えていく必要がある。 親の死の局面とは、親子関係の最終的な段階であり、それによって、その親子関係が何であったかが最終的に確認される。 親子関係は、第1段階から第2段階、そして第3段階と進んできて、その間に様々な問題が起こる。 その問題解決のために、何度も話し合い、原理原則を繰り返し反省してきたはずだ。 そして親の死の局面は、それらすべての意味、すべての是非や成否が確認され、確定される段階である。 互いの関係と互いの本質がそこで最終的に確認される。そのことを肝に銘じて、最後の局面で、どういう関わり、 どういう関係を持つかを決める必要がある。 それは「仕事を止めて自宅で介護する」から「施設に入ってもらう」、さらには「一切関わらない」までの 幅広い選択肢があり、そのどれが正しいということはない。現実に可能な範囲の中で、これまでの関係の終わり方として 適切なものを選択するだけのことだ。 この最終局面では、遺言や遺産相続などで、隠されていた家族間の関係や本質が明らかになることも多い。 そのすべてが、それに関わった関係者の本質の現れである。それから逃げることなく、しっかりと受け止めて、 自分の人生をしっかりと振り返るべきだろう。次の自分自身の終わり方の準備のためでもある。 (6)どのような社会を目指すのか 大家族制度は崩壊し、2世代家族(核家族)が中心になったが、3世代家族の見直しもありうる。 大家族制度や家制度が復活することはない。墓に関する制度は事実上崩壊している。 血縁関係にこだわらない集団生活もアリだ。 新たな社会の構想力、思想こそが必要だ。 4.ことわり(男女の役割分担について) 夫婦間の役割分担については議論がある。 専業主婦の在り方、男女の役割分担、そこでの子育ての役割分担。 それらについては、今回は触れていない。 2016年10月4日初稿、2018年6月11日増補改訂