2月 04

高校作文教育研究会は、昨年まで2年間ほど「聞き書き」をテーマとして研究してきました。大きな成果が出たと思います。

今年度は、その成果を踏まえながら、全国の実践家との交流をはかりたいと思っております。

表現指導には、実にさまざまな取り組み方があります。また、高校には多様な学校があり、多様な生徒たちが学んでいます。そうした多様な実態と、その中から生まれている多様な実践、多様な生徒作品。それらと向き合いながら、表現の可能性を広く、深く、考えてみたいと思います。

2月は、愛農学園農業高校の平岡敦子さんの登場です。愛農学園農業高校は、三重県伊賀市にある私立の全寮制農業高校です。1学年25人の生徒たちを相手に、唯一の国語科の先生として奮闘しているのが平岡敦子さんです。

また、聖心女子大学(文学部)の印出忠夫さんには、大学1年生への基礎教育として行っている半年間の表現指導の報告をしていただきます。

また、私、鶏鳴学園の中井は、昨年行った、聞き書きから論文、志望理由書までの指導を報告します。

どうぞ、みなさん、おいでください。

なお、参加希望者は、前もって以下に申し込みください。
  E-mail:sogo-m@mx5.nisiq.net

1 期 日    2011年2月20日(日)10:00?16:30

2 会 場   鶏鳴学園御茶ノ水校
         東京都文京区湯島1?9?14  プチモンド御茶ノ水301号
         電話 03(3818)7405 JR御茶ノ水駅下車徒歩4分
       ※鶏鳴学園の地図はhttp://www.keimei-kokugo.net/をご覧ください

3 報告の内容

(1)「経験文を書く」―大学での実践例
印出 忠夫(聖心女子大学文学部 東京)

 一昨年に引き続き、中井浩一著『脱マニュアル小論文』で提唱された作文指導法を、大学一年生対象の前期(2010年度)の教養演習「経験文を通して自分を知る」の場で実践した経験を報告します。  
今回は私自身が直面した課題 
? ポジティブな経験を具体的に書くのは、ネガティブな経験よりも難しいのか?
? 文章力のある学生に対する指導法    
以上2点について報告し、皆様のご意見をいただければと思っています。

(2)私立農業高校における国語教育
                   平岡 敦子(愛農学園農業高校 三重県)

愛農学園は、日本で唯一の私立の全寮制の農業高校です。生徒は農業を学ぶために全国から来ています。遠く離れた家族に自分の思いを伝える「一行詩」を8年間実践してきました。また、古典や漢文を学ぶ際には、必ず表現課題と結びつけた授業作りを続けてきました。
今回は「一行詩」の実践と、私が古典と表現教材をどう結びつけたのか、報告させていただきたいと思います。

(3)聞き書きから論文、志望理由書まで
                  中井 浩一(鶏鳴学園 東京)

聞き書きは、高校生が社会と自分を見つめ直す大きな機会になります。そこで生まれた問題意識を深めていけるような指導を、どう展開できるのか。論文、志望理由書へとどう発展させられるのか。それを昨年の実践から報告します。

ある女子高生には「不登校」の兄がいました。彼女はその兄を受け入れられずに避けて生きてきました。聞き書きをすることで、その兄と初めて正面から向き合って、彼女に大きな変化が生まれます。「私は今まで何も考えずに言われたことをただそのままやってきた受動的な人間だと感じたし、兄と比べると何と面白みの無い人間なのだと思いました」。
彼女のその思いを深め、今後に生かせるように指導しようとした試みです。

4 参加費   1,500円(会員無料)

1月 26

高校作文教育研究会の2月例会(2月20日、鶏鳴学園)の案内をします。

この研究会は、昨年まで2年間ほど「聞き書き」をテーマとして研究してきました。大きな成果が出たと思います。

今年度は、その成果を踏まえながら、全国の実践家との交流をはかりたいと思っております。

表現指導には、実にさまざまな取り組み方があります。また、高校には多様な学校があり、多様な生徒たちが学んでいます。そうした多様な実態と、その中から生まれている多様な実践、多様な生徒作品。それらと向き合いながら、表現の可能性を広く、深く、考えてみたいと思います。

2月は、愛農学園農業高校の平岡敦子さんの登場です。愛農学園農業高校は、三重県伊賀市にある私立の全寮制農業高校です。1学年25人の生徒たちを相手に、唯一の国語科の先生として奮闘しているのが平岡敦子さんです。

また、聖心女子大学(文学部)の印出忠夫さんには、大学1年生への基礎教育として行っている半年間の表現指導の報告をしていただきます。

また、私、鶏鳴学園の中井は、昨年行った、聞き書きから論文、志望理由書までの指導を報告します。

どうぞ、みなさん、おいでください。

参加希望者は、前もって以下に申し込みください。
  E-mail:sogo-m@mx5.nisiq.net

11月 09

高校作文教育研究会は、一昨年秋から2年ほどの予定で、会のテーマを「聞き書き」として、聞き書きの可能性、授業で実践する際の具体的手だて、その課題などを検討しています。

この間、私たちの例会や全国大会に、各地の中学、高校のすぐれた実践家10数人ほどをお招きし、みなで共同討議をしました。聞き書きに関するさまざまな課題について、生徒作品を丁寧に読みながら、具体的に考えてきました。

その成果は、昨年6月から雑誌「月刊 国語教育」に連載中です。

さて、連載も来年の三月までとなり、いよいよ全体の総括をすることになり、11月3日に、総括座談会を行いました。

そのために提出したレジュメを以下に発表します。

なお、当日、私のレジュメの二について、
「主観的心情」や「主観的感想」をレポートに書くことをめぐって意見交換があった。

これについては、物理学者だった木下是雄氏の『理科系の作文技術』(中公新書)が有名だ。そこでは「主観的な感想」を排除することを求めている。
「理科系の仕事の文書」とは「事実(状況をふくむ)と意見(判断や予測をふくむ)にかぎられていて、心情的要素をふくまない」。その中には、「原則として『感想』を混入させてはいけない」のだ。

これについては、『理科系の作文技術』として論考をまとめ、2010年4月13日のブログで紹介した。

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「聞き書き」の総括座談会のために
2010/11/03  中井浩一

一  表現指導の体系
  他者理解
              現実社会(特殊)客観的
調査をもとに意見をまとめる
説明、意見文

自己理解(主体的)
     個人的体験(個別) 総合(一般的知識=普遍)
描写の作文 志望理由、論文

※3年間であり、1年間でもあり、毎回の作文の3要素でもある
※毎回、内容面と形式面で、少ない課題を確実にこなしていく
※内容で、題材の表などを用意したらどうか

二 取材、インタビューの2種
(1)事実(データ)と対象(社会問題や自然科学の問題等)が中心。
調査は事実収集が目的。(社会科や理科のレポートや論文)
1.事実(データ)と対象が主で、語り手は副。データを持っていれば基本的には誰でも良い。

2.問いが個別具体的に明確で、答えを出すのが目的。

3.社会問題や自然科学の問題

(2)人生や経験、生き方が中心(国語科が引き受けることが多い)
1.語り手が主、事実と対象は副。語り手の視点、語り手の価値観が大きい。
対象や事実は語り手による理解(感情を含む)を通してしかわからない。両者の間にズレがある。
どう語ったか、どう表現(感情を含む)したか。そこに語り手の価値観が出る。
物語化が起こりやすい。

2.問いあるが、答えはすぐには出ない。

3.人生とは何か、どう生きるべきか。戦争とは何か、働くことの意味とは何か、といった大きなテーマが問題になる

(3)国語科の役割 ※これが重要
 普通には(2)だと思われているが、(1)と(2)は完全には切り離せない。国語科は全体の指導すべき

三 聞き書きの根本的な本質。その可能性と問題点。
(1)「聞くこと」と「書くこと」が一つになっている。
1.「聞くこと」              
             対象 
   聞き手(自分)         語り手(他者)
※「他者」や現実社会に直面する
2.「書くこと」      対象

    書き手(自分)         読み手(他者)

(2)矛盾  その可能性と問題点
1.普通は、語り手=自分=書き手。主体が1人。

2.それに対して、聞き書きは、語り手と書き手が違う。主体が2人いる。
話し手、語り手の表し方。聞き手、書き手の表し方。ここに問題が起こる。

四 表現一般の2種類 ※日本作文の会の「定式」との関係
(1)描写
対象のイメージが浮かぶ。直接的で五感でとらえ、読者の五感に訴える。
書き手の対象との一体化

(2)説明
間接的で、対象は一般化されてとらえられ、意味づけされる。

(3)普通は両者をともに使用する。必要な場合わけで、両方が使用できるようにしたい

五 「聞き書き」の表現上の2種類。
(1)説明風
1.「私の父は…と語った」。「程塚氏は、…と語った」。

2. Q&A 方式もある。

(2)1人語り。これは二の(2)に特殊な形式

(3)聞き書きの発展形として、ルポや一般化した論文、小説や物語がある
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9月 14

高校作文教育研究会9月19日例会
シリーズ:「聞き書き」を学び合う 第12回 

今回9月の例会は特別バージョンです。有名な民俗学者である宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)を取り上げて、学校教育における「聞き書き」と日本民俗学の「聞き書き」を併せて考えます。

 また、80年代の京都・八ヶ峰中学校を中心とした地域を挙げての戦争体験の「聞き書き」の実践が、ドラマ化された番組「梅の木の願い」のビデオを見て、検討します。

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1 期日    2010年9月19日(日)10:00?16:30
2 会場   鶏鳴学園御茶ノ水校

3 報告の内容

(1)宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)から考える
 宮本常一は、民俗学者として有名ですが、実は彼には小学校の教師時代があり、そこで綴り方を指導し、生徒文集も作っていました。「取材」や「聞き書き」もそこにあります。

 これは宮本だけの特殊なことではなく、日本民俗学運動と学校の教師たちや綴り方教育には、深い関わりがあったのです。1930年代の柳田国男を中心に生まれた「民間伝承の会」の設立時の会員には多数の教師たちがいました(小国喜弘著『民俗学運動と学校教育』から)。「聞き書き」は学校教育と民俗学をつなぐ手法だったのだと思います。

 そこで、宮本の代表作『忘れられた日本人』(岩波文庫)から「梶田富五郎翁」「土佐源氏」など数編を読んでみたいと思います。これは宮本が日本各地の古老からの聞き書きをまとめたものですが、日本民俗学史上で「生活誌」を確立した画期的な業績として高く評価されています。

 これまで中学生、高校生、大学生の聞き書きを考えてきましたが、そこでの論点を、改めて『忘れられた日本人』から考えてみたいと思います。

 また、今回、宮本の小学校の教師時代の生徒文集も読みたいと思います。

 報告は、古宇田栄子さん、程塚英雄さん、私(中井浩一)が行います。

※『忘れられた日本人』(岩波文庫)を購入し、「梶田富五郎翁」「土佐源氏」を中心にいくつかを読んで参加してください。生徒文集などで、必要な箇所は当日配布します。

(2)京都・八ヶ峰中学校の実践のビデオ「梅の木の願い」の鑑賞

 すでにこの例会では、京都・八ヶ峰中学校の実践から生まれた生徒作品の検討をしました。そして、この8月の全国大会の終了後、古宇田さん、程塚さん、中井で、その実践の中心の一人である中村恵子さんに会って取材もしてきました。

 それをもとに、古宇田さんの連載第16回ではこの京都・八ヶ峰中学校の実践を取り上げました。

 この実践は、当時有名で、NHKの「中学生日記」で取り上げられ、「梅の木の願い」というドラマになっています。そのビデオを鑑賞します。上映時間30分。

 1986年8月、八ヶ峰中学校の生徒も参加して、美山地区と八ヶ峰中学校で撮影されました。文化祭で生徒たちが構成詩を発表している様子に、3年生が地元の戦争体験者である森本キヨ子さんに話を聞いている様子を重ねてドラマ化しています。

 質問を受けるお年寄り、話を聞き出そうとする生徒たち、双方の戸惑いや悩みがよく描かれています。

 ビデオ鑑賞後、意見交換します。

4 参加費   1,500円(会員無料)

8月 28

新しい学習指導要領では「全教科での言語活動」「その中心の国語科」が謳われている。
その実際の実現のための提言を月刊『高校教育』の4月号から連載して、今回がラスト。

9月号の 第6回(最終回) ディベート学習の課題
          教育の「内容主義」と「形式主義」をめぐって

1.90年代のディベート・ブーム
言語活動の充実のために、いくつかの問題提起と具体的提案をしてきたが、最後にディベート学習を取り上げたい。「全教科での言語活動の充実」「スピーチ、発表、討論」と言われたときに、真っ先に思い出されるのがディベート学習であろう。しかしディベート学習については、それを支持する声がある一方で、強い批判や疑問の声もある。この混乱と対立の中に、言語技術の教育のための核心的問題があると思うからだ。
ディベート学習は80年代後半から中高の教育現場で始まった。前号で紹介した「学習院言語技術の会」の高校版教科書でも、その中の1項目として取り上げられている。しかし当時は英語科(ESS)を中心とする、少数の先端的な取り組みでしかなかった。その後社会科や国語科にも広がり、90年代にはブームになるほどだった。ディベート甲子園も始まり、多数のディベート関連の本が出版された。
最近では一時のブームは去ったようだが、社会科や国語科の教科書ではディベートが紹介され、学校の正規のカリキュラムに入っているところも増えた。熱狂の時期は去ったが、定着し落ち着いたとも言えるようだ。

2.ディベート学習の是非をめぐる対立
ディベート学習とは、「ある特定のテーマの是非について、2グループの話し手が、賛成・反対の立場に別れて、第三者を説得する形で議論を行うこと」(全国教室ディベート連盟)だが、この学習を効果的にするために、勝敗を争う競技形式で行われる。つまり、第三者(専門の審査員など)によって勝敗を決定し、賛成・反対の役割は、参加者の本来の主張とは無関係に決められる。
ディベート学習そのものは、ある主張をする際に、説得力のあるような論証をする練習、つまり、事実をよく調べて、十分な根拠に基づき、それを論理的に組み合わせて主張につなげる練習だろう。
賛成派は、ディベート学習によって、次のような能力が獲得できると主張する。論理的に物事を考え、他人の意見を聴き、自分の意見を効果的に伝え、相手(他人)の立場に立ち、情報処理や整理をし、多面的な視点を獲得するなど。また、それによって、問題意識や自分の意見を持つようになるとも主張する。
しかし一方で、それに対する強い批判や疑問もある。そうした反対派は、その目的に反対しているのではなく、その目的が達成できない、否、かえって逆効果だと言うのだ。その疑念や批判は、主にその競技的形式面に向けられているようだ。
勝敗を争うために、ディベートが単なる「口論の技術」「相手をやりこめる技術」になり、「詭弁家」を作ることになるのではないか。
参加者の意向とは無関係に、役割(肯定側・否定側)やテーマが与えられ、本来の主体性が損なわれるのではないか。本来は切り離せない人格と思想を、無理に分離させることは間違いではないか。学習効果はかえって小さくなるのではないか。
そうした問題点があるので、ディベートでは盛り上がっているように見えても、学習効果は小さいのではないか。

3.「生徒の主体性による共同的な探求学習」
 こうした批判に対して、「競技ディベート」支持派からは、「そうした懸念は当たらない。競技形式こそが学習効果を高める」との反論がある。しかし、ディベート支持派からも、「競技ディベート」への批判の声はあるのだ。「競技ディベート」と本来のディベート学習を区別しようとの意見だ。
それは主に社会科の先生方が中心だが、そうした立場を代表するのが『授業が変わるディベート術!―生徒が探究する授業をこうつくる』(国土社1998)だ。二人の編著者の一人は、もう20年近く、実践を積み重ねてきた杉浦正和氏(芝浦工業大学附属柏高校の社会科担当)。もう一人が、県立小金高校などで教え、現在は大学の教職課程を指導している和井田清司氏(武蔵大学人文学部)。
この本では、勝負の側面が前面に出てくる「競技ディベート」(「ディベート甲子園」がその典型)には批判的で、それに対して「生徒の主体性による共同的な探求学習」を対置する。それは勝負にこだわらず、あくまでも認識の深化を目的とする。
この違いは、審査の違いになる。前者は先生などの専門家が行うが、後者はクラスの仲間が行う。
そもそも、杉浦氏たちがディベート学習を始めたのは、教師からの一方的な講義形式の授業に対する不満からだった。生徒が主体的に学習することをなんとか実現するための方法がディベートだったのだ。
実は連載の第3回で紹介した川北裕之氏の総合学習「環境学」では、最初の3カ月の「触発学習」で2回にわたるディベート学習を行っており、その指導者は和井田氏(当時の川北氏の同僚)だった。川北氏は、それがその後の現地調査の触発学習として極めて有効だったと述べている。
「ディベートで、ある一方の側から立論をつくることは、仮説を立てて調べることにつながり、これは研究の基本です。自分と異なる立場で戦うのはつらいし、負けたときはくやしいので、『環境学』のようにこのエネルギーを探究活動にむかわせるようにします。後日、自分の意見を表明する小論文を書かせると良いでしょう」。
 私は、昨年秋に杉浦氏のディベートの授業見学をさせていただいた。笑いが起こる和気あいあいとしたものだった。ディベート学習は、やはり指導者の力量が大きくかかわると思った。杉浦氏は、高校生段階のディベート学習の成否は、そのテーマ設定にあると考えている。
テーマは、善か悪かと言う単純な価値判断では決められない問題がふさわしい。問題がさまざまな側面を持ち、その側面の事実を丁寧に分析する必要がある問題だ。現実に社会的論争になっている問題(政策課題)が良い。肯定側も否定側も、それぞれ有力な根拠を持っていて、簡単には判断が出せない。そうした問題からこそ対立説の双方を知り、複眼的思考を学ぶことができる。
 例えば、「熱帯木材輸入禁止」をテーマにすると、環境保護と開発(貧困からの脱出)の対立・矛盾が問題になるが、単純な白黒図式にはならない。肯定側は両者の矛盾を言えばいいだけだが、否定の輸入側は、開発が重要だと言うだけではなく、開発と環境保護が両立するとか、開発で豊かになってこそ環境保護も可能になると主張する。否定側も環境破壊を公然と認めるわけにはいかないからだ。
こうした議論の「正解」は容易には出ない。そこで、正解よりも、認識の深まりが問題になる。それが評価のポイントでもある。そして杉浦氏は、この「正解がない」ことを、ディベート批判派は認められないのではないかと、推測している。これは核心的な問題だ。
また杉浦氏のディベートでは、審査するのは生徒だ。「学習はあくまでも生徒のレベルに応じておこります。ですから生徒が審査するのが一番良いのです。不十分でたどたどしい論争であっても生徒にとってはわかりやすいこともあるのです」。これが、生徒の「共同的な」探求学習、という意味だ。クラスの仲間とともに探求を深めることを追求するのだ。
 審査とは、真実を決めたり、意志決定をすることではない。あくまでも、いずれが説得力があったかを判断するだけだ。論争の評価が生徒の学習になる。そして、審査を下すことで、困難な真理認識は保留にし、それに向けた探求の欲求を引き出すのだ。
こうした杉浦氏のディベートに「詭弁家を育てる」との批判は当たらないだろう。しかし、それもやはり競技ディベートであることには違いはない。したがって、人格と思想の分裂との批判には答えなければならないだろう。

4.ディベートの意義
私はディベート、特に「探求学習」型のディベートの大きな意義を認める。その理由は、この過程は思考の過程そのものであり、思考学習そのものだからだ。
それは、事実と意見を区別することから始まる。これは木下是雄氏の方法論と同じだ。もちろん区別するのは、より深く、より全体的な視点から両者をつなぐためだ。これは意見文が、根拠(事実)とその根拠に基づく意見の2つの部分からなることを明確に意識させる。
次に、ある立場(主張)を支えるための根拠(事実)を構成するのだが、事実を深く丁寧に考えねばならない。あるテーマに関する賛成と反対の両方の立場から考えることで、対象の全体をながめることになり、それぞれの立場が対象のどの面を、どの立場から考えているかを、冷静に検討することになる。これは確かに、多面的に物事を考えることであり、これによって「複眼的思考」ができるようになる。考えるということは、このように対立や矛盾を手がかりに進んでいくのだ。ここまでは誰も反対はないだろう。
さて、では、自分の本当の考えと違う役割を与えられた場合はどうなるのだろうか。ここでは、事実と主張の分断とともに、自分と自分の意見をも、一旦は切り離すことが求められる。それは相手の意見とその人格を区別する態度を学ぶことにもなる。
さてここで、当然ながら、「人格と思想を切り離す」との批判が待っている。しかし、つねに人格と思想が一体であるならば、論争の際に自分と相手の意見対立は、即互いの人格を否定しあうことになる。本当にそれで良いのだろうか。また、それでは「相手の立場に立つ」ことは不可能になるのではないか。

5.2つの態度
こうした批判の前提には、人格と思想はつねに一体のものであり、切り離すことはよくない、という考えがあるのだろう。それは思想の内部に対立や矛盾を認めないことになる。しかし私たちの考えの内部には、つねに懐疑や動揺がある。これが実際の姿ではないか。社会内部の賛成・反対の対立は、それぞれの陣営の個々人の内部にも、矛盾や対立を引き起こすはずだ。逆も真だ。そして、対立・矛盾によってのみ個人の認識は深化し、相互理解も拡大する。だから、われわれは矛盾や対立を歓迎すべきなのだ。
また、ここには「正解主義」が隠されていると思う。つねに、論争には正解があり、正解はわかっている。そうした思い上がりがないだろうか。つねに「答え」があり、それは教師が知っており、それを教師は生徒に教えることができる。「答え」があるのなら、手っ取り早くそれを教えればよいだけで、途中の困難な過程は省略できる。これが従来の教育で、これが「内容主義」なのだ。
一方、この反対の「形式主義」的な考え方がある。教師や大人もつねに「正解」を知っているわけではない。しかし自発的な「問い」を引き出し、それを深める方法は教えなければならない。その過程では繰り返し、疑惑や反問、立場の転換が起こるが、それで良いのだということも教える必要がある。
そして、教室内部の議論や、資料統計だけでは解決できないのだから、現実社会の現場に出ていく必要を強く感じるようになるはずだ。
こうした二つの立場と態度が、現在の教育現場にはあるだろう。言語活動や論理を教育するには、教師自身はどちらの立場に立つ必要があるのか。それを、各自が自分に問うべきだろう。それが一番肝心なことではないか。