7月 30

 小中の先生方を対象とする月刊誌『悠(はるか)』8月号に、教員免許更新制の有効利用というテーマで原稿を書きました。
 この制度自体には問題がたくさんありますが、実施が決まった以上、それをできるだけ学校の先生方にとって有効利用するための考え方を示すことが、編集部からの依頼の内容でした。
 以下が拙稿です。
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学校外へと発想とネットワークを広げるために ?免許更新制の有効利用?

? 時代の転換期にあって

 免許更新制度は、突然上から降ってきました。それだけにいろいろと問題点が指摘されています。しかしすでに決まったことですし、毎年約一〇万人近くの全国の先生方が、校種や地域を越えて、全国の大学で一斉に講習を受けるのです。これはすごいことですから、是非、良い結果が出る方向に、この制度を運用しなければならないでしょう。

 そのためには、今が時代の大きな転換期だという認識が必要です。将来への展望を切り開けない閉塞感の中で、私たちの社会は不安やいらだちを募らせています。その中で、教育界はずっとバッシングの嵐の中にあります。「ゆとり教育」では文科省と公立校が、「法人化」では国立大学が、そして「免許更新制度」では学校と教員が強く批判を受けています。どうしてでしょうか。

 個々の問題は多々あるのですが、大きく言って、学校内と外との意識のズレが非常に大きくなっているのです。政治・経済のリーダーたちだけではなく、広く社会一般の意識と、学校や教育界の価値観、行動様式との間に大きなズレが生じているようです。

 学校、大学、教育界全般は、もともと強固な閉鎖社会でした。「子どもたち」を守るという善意からではありますが、しばしば外の社会に対して独善的になりました。外に閉じるだけではなく、内部でも個々の先生方は相互不干渉が普通でした。また、教員養成に関わる大学と学校と教育委員会、この三者もこれまではバラバラなことが多かったのです。

 しかし、そうした在り方が批判を受けているのです。今は私たちの社会や家庭が壊れかかっています。その時に、教育界と言えども、自分たちだけが守られることはできません。社会からの外圧を受けながら、逆に社会に働きかけ、学校や先生方の意識を変えながらも、逆に教育界全体や社会を変えていくような発想と戦略が求められています。

 では、特に本誌の読者である小中のスクールリーダーの先生方を念頭に、その戦略を考えてみましょう。そしてあわせて学校内の内向きの言葉を外に通用する言葉へと翻訳する能力、つまり媒介者の能力についても考えてみましょう。

? 戦略的発想と媒介者としての能力

 まずは、全体像を把握することが必要です。今回の免許更新制では、地域にあっては三者が登場します。主役はもちろん講習受講者の学校の先生方ですが、もう一方に講習実施者の大学があり、さらに地域の教育行政をつかさどる県教育委員会が存在します。この大学と教育委員会に、今回何が求められ、何が変化するのか、それを知ることが戦略作成の第一歩です。

 教員の養成をする大学と、教員の採用と教育を行う教育委員会は、本来は密接な連携と協力がなければならなかったはずです。しかし、そうした関係はほとんど存在しませんでした。だからこそ、今、それが強く求められています。大学間の連携も模索され始めました。

 教員養成系大学ではその教育・研究が教育現場の実践から遊離していることが問題とされてきました。そして今回の講習で、大学はその実力を世間にさらけ出すことになります。すでに今年度の申し込み状況に、大学間、個々の教員間での人気の差がはっきりと出ています。初回である今回はただの人気投票の意味しかもたないでしょう。しかし講習実施後には受講者からの事後評価が公表されます。口コミでも噂は広がり、来年以降はさらに厳しい結果が出るでしょう。こうして大学は社会から裁かれるのです。

 裁かれるのは教育委員会も同じです。講習の質を高めるには、現場の情報を大学に伝えなければなりませんが、それは教育委員会の役割だからです。教育委員会は、地域の学校現場の現状や課題を正確に理解していなければならないはずです。その実力も今回チェックされます。

 今回の免許更新制で、大学と教育委員会が直面しているのは以上のような厳しい状況です。受講者は、ただ受け身でいるべきではありません。自分たちが大学や教育委員会を評価するとの自覚を持って、主体的に関わるべきなのです。

 本来は、大学と教育委員会だけではなく、学校(先生方)をも含めた三者が普段から連携していなければならないでしょう。それができている地域では、免許更新制もスムーズに行くはずです。例えば岐阜県では、大学コンソーシアム岐阜(岐阜大を中心に県内17大学、岐阜県教育委員会が参加)の下部組織として免許更新事業を位置づけ、必修科目や選択科目に10大学が連携して取り組んでいます。このコンソーシアムの中で30時間分の講習を選択して全て揃えることができます。普通は、受講者は各大学単位の講習手続きする必要がありますが、ここでは一つで済むのです。岐阜では以前から、こうした連携が行われていたからこそ、こうしたことが可能になっているのです。こうした例と、自分の地域を比較すれば、その地域の課題が見えてきます。

 こうした全体を見る目と共に、先生方が自分自身の教師力を高める研修の場として、更新制度を利用することが大切です。現場に必要なものを主張し、それを学ぶ場を実現していくのです。しかし、単に教科指導や生活指導などの直接的な面だけではなく、スクールリーダーに必須の媒介者としての能力も磨くことができます。
講習では全国の小中高、私立・公立といった種別を超えた人々、大学の教員や教育委員会の関係者との出会いがあります。そうした場を意識的に利用して人脈を広げ、自分の地域や学校外とのネットワークを作っていくことです。それが、上記のような戦略的な発想を生むことにもつながり、媒介者としての能力を向上させますから。

7月 24

 昨日7月23日に、東大で講演をしました。
 と言っても、学生が対象ではなく、教員と職員が対象でした。
 それも、総長以下、副学長、理事、総長補佐らの執行部の方々や、部局長の方々、本部職員の方々です。

 東大は4月に総長が交代し、新たに濱田純一氏が就任しました。
 第2期中期目標・計画の案を6月に提出し、年度内に、より具体化した将来構想(「行動シナリオ」)を策定する予定で、プロジェクトチーム(トップは佐藤愼一副学長・理事)を立ち上げたところです。
 東大は、この「行動シナリオ」策定の一環として「学外有識者」から意見を聞く機会を数次にわたって設けており、その一人としてよばれたと言うことです。
 
 濱田総長は、「所信」の中で「タフな東大生」の育成を標榜されていて、その中身を煮詰めていく作業が今後行われるはずです。

 私が話した内容の詳細はここには書きません。いずれ東大の方で文章などにまとめられれば、ここに掲載するかも知れません。

 拙著『大学法人化』『大学「法人化」以降』『日本語論理トレーニング』『脱マニュアル小論文』の内容を踏まえて、根本的な問題提起をしました。

 今は、現実社会と大学が深く関わらざるを得ないこと。その結果、各大学の真の力量(その学問がどれほどのものか)が問われることになる。大学はあくまでもその社会の反省機能であり、その機能を失えば、大学も社会も滅びること。そのためには、大学は決して「なしくずし」に現実社会と対応するのではなく、筋を通し、それぞれの論点に原理・原則を打ち立てていかなければならない。自らの属す社会を根底から批判し、正しい方向性を指し示すこと。それが大学の使命だが、ほとんどの大学はそれができず、東大もゆらいでいる。

 教育の今の一番の問題は、子どもの親からの自立が難しくなっており、社会的自立には18歳からの10年ほどが必要だという覚悟が必要。その内の最初の4年、または6年を引き受けて、東大はどれだけの教育をする覚悟があるのか。人生のテーマ自体を作るまでは無理でも、その芽をしっかりと作り上げるまではしなければならない。

 論理的能力。自己理解と対象理解を、相互関係の中で深めること。これが大学での教育に求められていること。そのためには、教員自身にそれができていなければならないが、それが疑わしい。教員自身の自己理解について言えば、研究者としてのそれはできていても、教育者としては疑わしい。国民としてのそれも大いに疑わしい。税金で自らの教育・研究ができていることの自覚はどれほどあるのか。さらには、人間としてのそれはさらに疑わしい。

 一言で言えば、「東大を叱咤激励した」ということですね。

私は、東大は100点満点で60点ぐらいの大学だと思っています。60点が合格基準ですから、一応合格は合格です。それに他大学のほとんどが20点から40点ほどのところをうろついているので、相対的にはダントツの一番と言うことになります。しかし、80点でも、90点でもありません。その最大の課題は、教育責任を果たしていないことです。

5月 06

 5月3日のJ-CASTニュースで、東大の一人勝ち状況にコメントしました。
 以下が私の校正した文面ですが、ラストが変更されました。

東大「一人勝ち」ますます進む 
京大や早慶は「何をやっとるのか」

(連載「大学崩壊」第2回/国語専門塾代表・中井浩一さんにきく)

「東大一人勝ち」。他大学からため息とともに漏らされる言葉だ。研究・運営費の多さを指すらしい。ただ、研究だけでなく、東京大学は「キャリア官僚」を最も多く輩出してきた大学でもある。しかし、「官僚が国を支える」時代が終わりを告げ、東大の存在意義に疑問符を投げかける声も出てきた。東大を「優遇」する必要は今後もあるのだろうか。「『勝ち組』大学ランキング どうなる東大一人勝ち」(中公新書ラクレ)など大学関連著書も多い、国語専門塾「鶏鳴学園」代表の中井浩一さんにきいた。

(中見出し)
ますます「一人勝ち」が進み、差が広がる

――「東大一人勝ち」について中井さんが取り上げた本の出版が2002年でした。その後04年に国立大学が独立行政法人化されました。「東大一人勝ち」の状況に変化は出てきたでしょうか。

中井 ますます「一人勝ち」が進み、差が広がっています。運営交付金が多いとか、論文発表数や引用数が多いとか、そういう数字に表れるランキング的な話ばかりでなく、総合的な力で他大学は水をあけられています。教養部改革や大学院重点化でも、法人化や産学連携の体制作りでも、東大が一番早く、根本的なことを行っています。改革のパワーでは最強であると言っていいと思います。

――差が広がるのはなぜでしょうか。運営交付金など「国費」投入額が国内1位であり続けていることが影響しているのでしょうか。2008年度の運営交付金(当初予算)は、東大は約882億7000万円で、2位京大より274億円以上も多く受け取っています。

中井 お金の問題も影響してないとはいいません。しかし、本質的にはまったく別問題だと考えています。そもそも独立行政法人化以降、旧国立大は、国立大時代よりはるかに自由に独自の視点で動けるようになりました。ところが未だに東大の背中を見ながら様子見をしている。これは私立大もそうです。東大が先にやって、うまくいけば自分たちも導入、失敗すればしないという姿勢です。京大など2番手、3番手は何をやっとるのか、ということです。新しい価値観、新しい動きを打ち出す気構えが感じられない。これでは東大に「一人勝ちしてくれ」と言っているようなものです。

――今話に出てきた京大は、物理や化学などの理系のノーベル賞受賞者が、東大より多いとよく言われます。東大とは違う独自性を発揮しているとは言えないでしょうか

中井 そういう部分を全否定する気はありません。しかし、ノーベル賞受賞者が京大を卒業したのって何十年前の話ですか。差があるといってもごくわずか数人差です。確かに、京大には例えば1970年前後ごろ、今西錦司や桑原武夫、梅棹忠夫など学問をリードする人材がいて輝いていた時代がありました。しかし、それ以降は凋落がはなはだしい。その原因は、学内を優遇する親分・子分人事にあります。

 一方東大は、90年代に建築家の安藤忠雄や京大卒の上野千鶴子を教授として外部から迎え、最近では早大卒の政治学者姜尚中を迎え入れるといった、思い切った人事をしています。学内の序列で順番を待つ人がいるのに、よそから教授を連れてくるのは大変なことです。また、やはり90年代ですが、東大は教養教育の新しいカリキュラムを実施し、そこから生まれた本を出版、「知の技法」と「ユニヴァース・オブ・イングリッシュ」はベストセラーになりました。こうしたことをする力が東大にはある、ということです。他大学では感じられないパワーが確かにあります。

(中見出し)
創造性、先見性ある人材を

――東大の存在意義としては、学問の分野だけでなく、「官僚養成機関」としての役割も大きかったと思います。高度成長期など「国を支える、国を引っ張る官僚」が求められた時代もありました。しかし、昨今では官僚が国を引っ張る時代ではなくなり、「官僚養成機関」としての東大の価値は低下したのでは、という見方もあります。

中井 確かに東大が育成してきたのはキャッチアップ能力に優れた人材でした。先行するものがあって、それをうまく効率的に早く追いかける力がある人間でした。その最たるのが官僚です。東西冷戦以降、そうした人材では、すべての運営がうまくいかなくなった。もっと創造性、先見性ある人材が求められるようになりました。しかし、東大はそうした人材を育成して来られなかったし、今もできていません。

 しかし、キャッチアップ能力しか持ち得なかったのは、何も官僚だけではありません。日本の政治家だって財界人だって同じようなものです。結局はアメリカの後追いをする発想の枠組みでしか行動できませんでした。東大以外のほかの大学、例えば京大や早稲田や慶応は、以前から創造性ある人材を育成していたのでしょうか。要するに、官僚の役割低下の問題は、東大だけの問題でも官僚だけの問題でもない、ということです。

――では、東大一人勝ちはまだ続くし、それで構わない、ということでしょうか。

中井 今のままの発想と能力では、同じ状態が続くだけでしょう。それでいいとは思いません。東大が育てられなかった創造性、先見性ある人材を輩出する大学が出て来なければなりません。しかし、それにはお金の話の前に意識改革が必要です。これは社会一般、国民意識にも当てはまると思いますが、大学の教員自らがキャッチアップ能力しかなかったことを反省できるかどうかです。

 まずは安易に東大批判をする風潮をやめるべきです。批判すべき所は勿論批判すべきですが、他と比べて優れているところは素直に認めるべきでしょう。アンチ東大、なんて言っている限り永遠に東大を超えることはできません。アンチの姿勢を心地よく感じるのは、70年代までの学生運動のノリで、それは実はありがたがっていることの裏返しです。もっと独自の価値観で堂々と勝負していい。アメリカ追随の政治しか持ち得ない日本社会ではもうだめなように、一人ひとりが考え直す時期かも知れません。このまま東大一人勝ちを許し続けるようでは、日本の将来は明るくありません。

 真のエリートを教育するにはどうしたらよいのか。私の塾ではすでに4半世紀にわたり、それを実践してきました。拙著「日本語論理トレーニング」「脱マニュアル小論文」などを参考にして、是非大学の授業をチェンジしてほしいものです。

中井浩一さん プロフィール
なかい こういち 1954年生まれ。京都大文学部卒業。一般企業や大手予備校勤務の後、ドイツへ留学。1989年に国語専門塾「鶏鳴学園」を設立、現在も代表を務めている。著書に「日本語論理トレーニング」(講談社現代新書)、「脱マニュアル小論文」(大修館書店)、「大学『法人化』以降」(中公新書ラクレ)、「大学入試の戦後史」(同)など多数。

(写真キャプション)「東大はがんばってる、なんていうと文句を言われることもある」と話す中井浩一さん。中井さんは京大OBだ

4月 29

日本教育新聞の連載コラムの4回目が、4月27日に掲載されました。

 「塾」について書きました。
前回同様、日本社会の同質性、その偏った平等感(いわゆる「悪平等」)と能力主義についての論考です。

塾 見えない存在

カナダから教育学の研究者が幣塾を訪れた。ブリティッシュ・コロンビア大学のジュリアン・ディルケス助教授で、彼は「私塾」を研究しており、日本全国の大手から町塾まで数10もの私塾を訪問調査している。最近は韓国、台湾などのアジア諸国までまわっている。ジュリアンによれば、塾の存在はアジア圏に限られ西欧では例外的だという。

 確かに日本では塾の存在抜きに、教育については語れない。しかし日本では塾をテーマにした研究はほとんど存在しない。その事実にジュリアンは驚いていた。「研究上の宝の山が手つかずで放置されている。おかげで私が先駆者の栄誉を得た」と笑う。日本では塾は「見えない存在」であり、敵役としてのみ現れるのだ。

私の塾では大学のゼミのように、少人数による自由討論で授業が進む。「こうした授業は初めて見た。他はどこも、ほとんどが画一的授業形式で、学校と何が違うのかわからなかった」とジュリアンは言う。「塾では市場原理が働くはずなのに、多様性が生まれないのはなぜか」。

これらの指摘は、日本の教育、日本社会の急所を突いている。それは社会や価値観の同質性だ。多くの塾は第二の学校でしかなく、通塾とは2回学校に行くだけのことなのだ。そして、この同質性(平等性)を守るために大きな分断が生まれた。建て前と本音、平等主義と能力主義の分裂である。後者は塾や予備校が担当し、学校内では私学が引き受けている。

最近では、学校と塾の連携として、塾教師が学校に入ったり、予備校の受験情報やテクニックが学校に導入されている。話題になった東京杉並区立和田中学校(藤原和博氏が当時の校長)の「夜スペシャル」も同じだ。しかし、こうした試みは表面的な彌縫策でしかない。社会の同質性、それゆえの教育の分断。この本質的な問題を直視しない限り、何も始まらないだろう。

4月 20

 日本教育新聞の連載コラムの3回目が、4月20日に掲載されました。
 「高大接続テスト(仮称)」について書きました。

 日本的な平等観と能力主義の再検討を

高大接続のための新たなテストが検討されている。すでに昨年11月から関係者が集まって協議を始めた。参加メンバーは国立大学協会や私立大学の諸団体、全国高等学校長協会、大学入試センター関係者ら22人の委員。文部科学省も支援している。

このテストの目的は高校生、大学生の学力低下への歯止めである。すでに10年近く前から大学生の学力低下が叫ばれ、高校生の「学力の底が抜け」てしまったと言われてきた。

高校では何十年も前から全入であり、高校生の基礎学力の低下が進行していた。少子化で大学全入時代を迎え、大学入試の簡易化が学力低下を一層助長している。その責任をめぐり、高校側と大学側とは、互いを非難し合ってきた。高校内部、大学内部でも私学と公立・国立などの対立がある。文科省内の小等中等教育局と高等教育局との縦割りの問題も大きい。

今回の新テスト導入でも、高校側からは「推薦入試やAO入試の定員を拡大しておいて、高校卒業時の学力に問題があるとは笑止」「卒業認定は校長の権限だ、別に基準はいらん!」。地方では「われわれの高校はどこもきちんとやっているし、統一テストで高校生を脅さないと学習意欲が喚起できない関東都市圏の公立高校とは違う」などと強い反発がある。そもそも大学入試やセンター試験に問題があるのだから、その改善から始めるべきだ。

しかし、今回すべての利害関係者が同じテーブルについたことは大きい。相互の疑問を率直に話し合って欲しいと思う。ただし注文がある。これまでは常に現状に追われ、その追認とその表面的な対応に終始してきた。そして本質論や根本理念の議論はほとんど行われなかった。本質論とは、戦後の日本的な平等観(いわゆる「悪平等」)と能力主義の在り方の問題である(詳しくは拙著『大学入試の戦後史』を参照されたい)。今度こそ、そうした議論を率直に行って欲しいと思う。当事者だからこそそれができるし、有効だと思うからだ。