2月 25

「家庭・子育て・自立」学習会をスタートしました

昨年の秋から、田中由美子さんが責任者となって、家庭論学習会が始まりました。

田中さんは、鶏鳴学園の塾生の保護者でしたが、6年前から中井ゼミ(大学生、社会人のクラス)で、
ヘーゲル哲学を中心とした学習を積み重ねてきました。5年半前からは鶏鳴学園に中学生クラスを開設し、
担当してきました。

その田中さんのテーマは「家庭・子育て・自立」であり、満を持して、その学習会が始まったわけです。
今回は、この学習会の目的や概要と、最初の2回の報告をします。

■ 目次 ■

1.「家庭・子育て・自立」学習会をスタートしました 田中 由美子
(1)家庭についての思想をつくる場
(2)オープンに学び合う場
(3)「自立」を考える場

※ここまでを本日に掲載。

2.斎藤学著『アダルト・チルドレンと家族』学習会  田中 由美子
(第1回、2015年11月8日)
(1)生きる目標の問題が核心
(2)親による無意識の刷り込み

3.斎藤環著『社会的ひきこもり』学習会  田中 由美子
(第2回、2015年12月13日)
私たち大人の「ひきこもり」

※ここまでを明日掲載。

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◇◆ 1.「家庭・子育て・自立」学習会をスタートしました 田中 由美子 ◆◇

(1)家庭についての思想をつくる場
数年前から、鶏鳴学園の大学生・社会人ゼミに参加して、自分が築いた家庭について、
また、私が育った実家について振り返ってきた。
夫婦や子育ての問題について考え、また、両親の老後の問題にも取り組んでいく。
子育てが、社会で働く人間を送り出す仕事であるのに対して、
老後の問題は、それまで社会で働いてきた人が自力では生活できなくなったときに、
その生活をどう支えるのかという問題だ。
また、私自身はどう老いて、どう死ぬのか。
子どもを育てる中で、自分の子ども時代から思春期をある意味辿り直し、「復習」してきた。
そして、今後は親の介護や看取りに際して、
自分の今後のことを「予習」していく。それはどういうことなのだろう。

また、ゼミでは、私だけではなく、その多くが独身者であるゼミ生全員が、家庭、家族の問題を考えてきた。
直面する問題に対処しようとするとき、自分の生き方、考え方をつくっていこうというときに、
その問題は外せない。
私たちは誰もが、自分の人生を生きるために、一つの家庭で子どもとして育てられたことを
相対化する必要がある。

家庭、家族とは何か、自分はどう育てられたのか、また、子どもをどう育てるのか、
親の介護とは何かということについて、私たちそれぞれが自分の思想をつくっていこうということが、
学習会スタートの趣旨だ。まず、テキストを切り口として、私たちの生活の実感を率直に話し合い、
それぞれの生活を振り返ることができるようにしたい。また、その上で、問題解決のための方向性を、
テキストも手掛かりにして考えていけるような学習会を目指す。

(2)オープンに学び合う場
家庭の外での仕事については、たいてい同じ仕事をする仲間が周りにいて、学び合う場がある。
また、日々社会的な評価を受ける。
それに対して、家庭内の仕事、子育ては、各々の家庭という閉じた場で行われる孤独な仕事になりがちだ。
「家庭の恥」を外にさらしたくないという気持ちも働きがちだ。また、子育てへの評価は、親自身の価値観
の中に閉じたものになりやすい。
そして、子育てに関する自己教育の機会は乏しい。
私は、子どもの思春期に戸惑い、悩んだときに、本を読んだり、夫や友だちに愚痴をこぼしたりするだけで、
問題を根本的に考えて深められる場を持たなかった。
私たちの親の世代とは異なり、今は、一般教養的なことを学ぶカルチャーセンターや娯楽の場、また
ママランチなどの交流の機会には事欠かない。しかし、子育てなどの悩みについて本気で語り合い、
親自身の生き方について考えられる場は、今も乏しいのではないか。
PTAも、行事などのときに教師の手伝いをする役割しか担っていないのが現状だ。

しかし、本来子育てとは、子どもを社会に送り出すことを目的とする、正に社会的な仕事だ。
主婦の仕事と言えば、私はそれを家事だと考えがちだったが、それだけではない。むしろ、どう子育てするのか、
どういう家庭をつくるのか、そして、どう子別れするのかという思想をつくっていくことが中心にあるべきだった。
 そういう広い視点を持つことはなかなか難しく、いきおい、家事の完璧を追求することに偏ったり、
子どもの過保護や過干渉に陥りやすい。
 また、家庭の思想をつくることは、主婦に限らず、全ての母親、父親の仕事だ。
こういう大人の学習会の必要性を、中学生のための国語の授業に取り組む中でも感じてきた。
より広く言えば、どういう社会をつくっていくのかという思想が必要だ。
今現在の社会に合わせて子どもを育てようとするのではなく、こうありたいという理想の社会に向けて
働く子どもを育てようとするのが本来だ。そのために、現実社会にどれだけ向き合い闘えるのかが、
まず親自身に問われる。親の人生を切り拓くことが、子どもがその人生を切り拓くことの土台になる。
つまり、親の「自立」が問われるのではないか。
子育てから、また自分自身が「育てられた」ことから、社会を考え、また子育て、その他の問題を
社会的な視点をもって解決するために、オープンに語り合い、真剣に考えていける場をつくりたい。

(3)「自立」を考える場
「自立」とは何か、何をして、どう生きることが「自立」なのかというところで、私は長年混乱し、
つまずいていた。
また、それは私だけの問題ではなく、世間一般に根深い混乱があるようだ。大学生・社会人ゼミの
女子大生が、母親を「専業主婦で、ダメだ」と断じ、一方で、女子高生が「男が女を養う」と何の
留保もなく言う。梅棹忠夫の、経済的基盤を持たない主婦批判に対して、女子中学生が同調したかと思えば、
一転、感情的に反発する。
本来、「自立」の基準は、女性が外で働いているか否かではない。
家庭の中でも外でも、社会的な展望のある自分のテーマを持って生きているのかどうかだけが、その基準である。
男性も同様だ。社会で働いていることが、即、どういう社会をつくり、どういう家庭をつくるのかという展望を持ち、
「自立」していることを意味する訳ではない。
家庭内の仕事は、ある意味最も「共依存」の問題が問われる場だ。それは、家庭が、人間の本性がむき出しになり、
第三者の入る余地に乏しい閉じた場であるという話に留まらない。
また、妻が夫に経済的に依存することが多いからでもない。むしろ、そのように必然的に依存し合って生活する中で、
同時に個々人の「自立」が求められ、子どもを「自立」させる必要があるからだ。
親の「自立」、自分の「自立」を問うていきたい。

※明日につづく。

1月 31

2015年11月14日から16日まで広島を旅した。掛君が同行した。

15日午前には福山市の広島県立歴史博物館(企画展「頼山陽を愛した女流画人平田玉蘊」)、福山市美術館。午後には広島市の頼山陽史跡資料館(頼山陽史跡資料館開館20周年記念特別展「風流才子の交わり」 ?頼山陽と田能村竹田を中心に?)、広島原爆ドームと平和資料館。
16日は終日、下浦刈島で蘭島文化振興財団の事務局長の取材と2つの美術館などの文化施設を回った。ここは「歴史と文化のガーデンアイランド 下浦刈島」としてサントリー地域文化賞を受賞している。取材は、地域資源経営を考えるヒントになると思ってのもの。
下浦刈島に行ったのは、蘭島閣美術館(秋季特別展『靉光とゆかりの画家たち』)、三之瀬御本陣芸術文化館(『須田国太郎の足跡をたどる』)の展示を見たかったのだが、 靉光や須田の絵画がなぜどのようにして、ここに集まっているのかを知りたかった。
下浦刈島の蘭島文化振興財団については別稿にまとめることにし、今回は、広島県立歴史博物館の常設展示と企画展を見て回り、企画展では学芸員さんに教えてもらったこと、そこから考えたことをまとめておく。

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◇◆ 文化意識と国防意識と  中井浩一 ◆◇

(1)菅茶山と平田玉蘊

福山市の広島県立歴史博物館の企画展「頼山陽を愛した女流画人平田玉蘊」を見た。
学芸員の方に案内をしてもらい、江戸時代後期・文化文政期の日本の文化状況を教えてもらった。それは面白く、刺激的だった。

平田は尾道の豪商の娘だったが、当時すでに尾道や福山、神辺、竹原、広島などを結ぶ地域の文化のネットワークがあり、
その文化センターが神辺(現在の福山市内)の儒学者・漢詩人の菅茶山(1748?1827)であった。
菅茶山は当然ながら、平田玉蘊(1787?1855)のパトロンであり、庇護者、支援者であった。
頼山陽(1781?1832)も、若き日に放蕩三昧で実家を追い出され、菅茶山のもとにおいてもらっていた時期がある。
そこで頼と平田は出会ったらしい。2人は恋に落ちたが、悲劇的な別れが待っている。
その後、平田は尾道を拠点にして職業画家として生きたらしい。

そして、平田にとっては、菅茶山はつねに変わることない庇護者だった。
例えば、平田が伊藤若冲や蠣崎波響などの作品の模写をしているのだが、その事実は菅茶山が当時の文化の最先端の絵画を所有し、それを平田が自由に閲覧できたことを物語っている。
この歴史博物館には菅茶山関係の資料が集まっており、その解読、分析が進んでいる。

(2)全国各地と地域を結ぶ文化のネットワーク

当時の日本には、全国各地と地域を結ぶネットワークができあがっていた。知識人、文化人のネットワークの完成である。
それがそのまま政治、文化に関する情報ルートとなっており、文化に関する多様な情報も、そのネットワークを通じて全国に流れていた。
 中央には江戸の知識人たちがいるのだが、幕府のトップである松平定信(1758?1829)自身がそうした全国的な文化のネットワークの中心にあり、
そのネットワークの完成者として自覚的な動きをしている。各地の文化のセンターたる文化人たちはその事業の協力者だった。

 例えば、『集古十種(しゅうこじっしゅ) 古画肖像之部』の刊行である。集古十種は、日本全国の古美術の木版図録集(目録)であり、
1859点の文物を碑銘、鐘銘、兵器、銅器、楽器、文房(文房具)、印璽、扁額、肖像、書画の10種類に分類し、その寸法、所在地、特徴などを記し、模写図を添えたものだ。
その編纂は松平定信を中心に柴野栗山・広瀬蒙斎・屋代弘賢・鵜飼貴重らの学者や家臣、
画人としては谷文晁、喜多武清・大野文泉(巨野泉祐)・僧白雲・住吉廣行・森川竹窓などによって4年の歳月を掛けて行われ、
寛政12年(1800年)に第一次の刊行がなされた。
絵師らは奥州から九州まで全国各地の寺社に赴き、現地で書画や古器物を写しとった。
現地調査以外に直接取り寄せることや模本や写本を利用することもしている。(以上の集古十種の説明はウィキペディアに依っている)

 この編集作業のための全国各地の協力者たちがいた。それが当時の知識人、文化人のネットワークであった。
その背景には、国防意識やナショナリズムの高揚があったようだ。当時、日本各地にヨーロッパ列強の影が現れていた。
ロシアが南下を開始し、北海道に迫っていた。オランダに代わって、フランスやイギリスがその勢力をまし、日本沿岸に現れていた。
日本を舞台にしてそれら列強が覇権を争うような事態も想定できた。その対策に当たったのが松平定信だった。
彼は、当時の最大の文化人の1人として、国防意識と文化意識が一体となった事業を遂行していった。
国防意識やナショナリズムの高揚と地方の文化振興策は一体となって進んだようだ。

(3)尾道、福山、神辺、竹原、広島、三原などを結ぶ文化のネットワーク

各地の拠点はその地域での文化の広がりや浸透に大きな役割をはたした。
そこに文化の保護者、パトロンの存在があり、各地の自立性があった。

西日本の一大センターが福山の神辺の菅茶山だった。それは四国、九州、中国地方におよぶ大きな文化圏を形成していた。
広島だけでも、尾道、福山、神辺、竹原、広島、三原などを結ぶ文化のネットワークがあったことは、歴史的にもうなずける。

そうした中に、頼山陽や平田玉蘊が生まれ、九州の田能村竹田らとの交流も保障されているようだ。
尾道は商業都市として経済的に栄え、都市としての自立性もある程度持っていたようだ。
平田玉蘊の父親がそうだったように文化的なパトロンも多く、田能村竹田はそうした後援者のもとを何度も訪ね、ある年は半年も滞在している。

そうした伝統は近代、現代になっても続いているように思った。
私の大好きな画家・須田国太郎のパトロンがいたし(その1人は岡林監督の父〔開業医〕だったらしい。福山にも彼の支援者たちがいた)、
彼の親友だった小林和作は尾道が気に入って住み着いてしまったのだが、後に尾道の文化のセンターとして地域のボス的存在にまでなっていたらしい。
小林は須田の絵画の販売や保護、文化的な位置づけまでを決定する役割を果たしている。

(4)文化の成熟と国防意識

私は若いころは日本文化を低く評価していた。ちまちまとまとまっていることが嫌だった。
洗練はあっても激しさや強靭さが弱いと思っていた。ハチャメチャで激烈で広大な世界こそがあこがれだった。

しかし、今は少し違っている。日本文化の総体に、文化の成熟、爛熟、高い美意識を見出し、それを評価するようになったのだ。
この「日本文化の総体」という意識は江戸時代の後半に成立すると思うが、それは日本人の自己意識の深まり、日本文化の総体の反省の上になりたっていると考える。
それが日本文化の成熟、爛熟をもたらしていると思う。

こうした日本人の自己意識の深まりは、過去の作品の収集と整理、その分類から始まる。
そうした作業の1つが集古十種の編集作業だったろう。江戸時代に手鑑(てかがみ)の類が多数作成されたのもその現れだろう。
手鑑とは数多くの古筆・名筆を鑑賞する目的で作成された手(筆跡のこと)のアルバム。
奈良時代から南北朝・室町時代の各時代にわたる古筆切が、台紙に一枚から三枚ほどが貼り付けられ、その台紙を50枚ほどつなげて、帖(じょう)に仕立ててある。
ここにあるのはコレクション、編集・編纂、異文化のコラボ、プロデュースの意識である。
そしてその強烈な自己意識は他者意識との響き合いで強まり、高まる。
その背後には諸外国の影と国防意識やナショナリズムの高揚があったことを今回、意識した。

(5)「海の道」

 福山市の広島県立歴史博物館は、美術館ではない。それがこうした女流画人の企画展を行うのも面白い。
ここでは学芸員が全員まわりもちで、企画展を実施するようにしているのだ。
これは福山市の市立美術館でも同じだった。そうしたことに感心する。

そもそもこの博物館は、福山市の草戸千軒町遺跡の発掘調査の成果を展示するために生まれた。
草戸千軒とは、福山市街地の西部を流れる芦田川の川底に埋もれた中世の集落跡である。それは中世の瀬戸内に栄えた港町・市場町であった。
今もこの常設展では、その港町・市場町の様子が再現され、遺物や関連資料が展示されている。
ここ瀬戸内海は古くから九州と近畿地方とを結ぶ物品と文化の大動脈だったのだ。その交易の様子なども展示されていた。
そうした展示を見ながら、「海の道」を強く意識した。
私にとっては陸の道が普通であり、空の道が例外で、海の道には縁が薄いのだが、近世までは海の道こそが中心だった。
瀬戸内海はその意味で、物流と文化の基幹道路だったことに目が開かれた気がする。
瀬戸内海の拠点は、そうした意味での拠点群であり、尾道もその1つだったのだ。

6月 24

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の11回目 

吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。

卒論は『山びこ学校』。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。

それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の最終回

■ 目次 ■

終章
 次の課題を明らかにする
 運動が連続するような問いはどこから生まれるのか
 教師の役割

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終章

次の課題を明らかにする

 私が分析した3つの文章は、その問いや答えが様々な出方をしていた。しかし、文章には基本的には1つの問いがあり、その答えを出そうとしていることが確認できた。川合末男の「父は何を心配して死んでいったか」は、タイトルがそのまま問いになっていて、分かりやすく、明確だった。それに対する答えも明確で「私の将来の仕事を心配して死んでいった」というもので川合は文章の中で繰り返し述べているのだった。
 江口江一の「母の死とその後」については一見、2つの問いに分かれているような文章だった。それは「母があんなに働いてもなぜ生活がらくにならなかったのか」という問いと、「自分がこれから一生懸命働けば生活は楽になるのか」という2つだった。それに対応して、答えも母に関するものと、自分に関する内容があるのだった。しかし、2つの問いは実は重なり合っていたのだった。それは江口が亡くなった母と同じ立場(家の責任者)になったことによって、直面している現実が同じになったからだった。
では、佐藤藤三郎はどうかというと、彼の「ぼくはこう考える」は問いや意見が矢継ぎ早に立てられていて、その内容も一見すると多岐にわたっているのだが、大きくは「どうすれば農村の人々は貧しさから抜け出せるか」というような問いが根本にはあるのだった。
 興味深いのは、1つの問いに沿って、文章が書かれ、その答えを出すのだが、答えを出したところで終わってしまわないということだ。
 川合末男の文章についていえば、「私の将来の仕事を心配して死んでいった」という明確な答えは得たのだが、次に自分の課題を良い職業につくこととして書いているのだ。さらに、文章の最後では良い職業とは何かということを既に書き始めてしまっていて、川合はとりあえず警察予備隊を例にして考えたのだった。そして「予備隊は良い職業か」という問いが立ち、そのことを考え始めているのだった。
江口江一についていえば、川合ほど結論そのものが分かりやすくはない。というのは、第一に、精一杯の生活をするということ。第二に、借金をなくすということ。第三は、扶助料なしに生活していくこと。第四は、金をためて不自由なしの家にするという、4つに分けたときに、第四の金をためて不自由なしにするということは「ハッキリ間違っている」ことが分かったのだ。第一の水準は達成できるかもしれないが、しかし、第二、第三の課題となると分からないのだった。これでは問いの答えがハッキリ出たとはいえず、当然さらに明確な答えを求めることになると思う。
けれども、私はすでにこの答えの段階で相当の進歩があると思う。それはまず、金をためて不自由なしの家にするなどということが無理だと分かったことだ。自分の限界をしっかりと見極めている。また、同時に課題も明らかになっている。それは第二・第三の水準を目指せるかどうか分からないという問いがすでに生まれているからだ。最後に、4つの水準に分けたことが素晴らしいと思う。「生活は楽になるのか」というややあいまいな問いでなく、例えば「扶助料なしで生活していけるのか」というように問い自体が明確になっていくだろう。
次に、佐藤藤三郎についてだが、「ぼくはこう考える」では文章の中ですでに問いと答えの連続になっている。佐藤は1つ1つのことに逐一問いを持ち、それに対しての意見を提示するということを連続してやっているのだ。分かりやすいところでいえば、「農村の子供たちは何を勉強すればいいのか」→「働くということについて考える土台が必要だ」→「その土台を見に就けるには何が必要か」→「みんなが堂々と学校に通えるようになる必要がある」というような運動が連続して起きている。
1つの問いがあり、その答えを出す運動は同時に、次の課題を明らかにするのである。そこに『山びこ学校』の作文の迫力があると言えるだろう。

運動が連続するような問いはどこから生まれるのか

 答えを求め、さらに次の問いへ移るような運動が起きるだけの強さを持った問いをなぜ彼らは持っていたのだろうか。
 彼らに共通するのは、まず貧しさという問題に直面していることだった。川合と江口に関しては、親の死という契機もあったのだが、根本には貧しさの問題がやはりあった。しかし、その貧しさと貧しさに対する関わり方(立場)はそれぞれ異なった。貧しさを解決するため、彼らのテーマが労働にあることも共通している。しかし、労働についてもまた、それぞれ異なる立場にあった。
 最も貧しかったのは江口だ。彼は山元村でも最も貧しく、扶助料をもらわないと生活できないほどだった。親の死によって、家の責任者となった江口はまず、なんとか生きていけるかどうかがテーマだったのだ。働く目的は何と言っても、生きることにあった。しかし、江口は村から扶助料をもらうことを恥じていて、経済的自立ということも求めた。
川合は農村の次男以下として、職業をどうするかという選択に迫られていた。農家として生まれながら、農業以外の仕事に追い出されるような状況にあり、その意味では山元村の貧しさに直接関わることすらできなくなるのだった。しかし、選択に迫られたことによって、労働の目的について考えるようになった。その結果金銭のみを労働の目的とすることに疑問を持ち、世の中への貢献、自分の才能や欲求という面も考えるに至った。
江口と同じように、佐藤も山元村の貧しさに真正面から関わる立場にあった。それは佐藤が農家の跡取りとして育てられてきた。しかし、江口ほどに貧しい家ではなかった。その結果、佐藤は貧しさを自分の問題だけでなく、農村全体の問題として考えられる余裕があった。また、ただ働くだけでは限界があることを感じ、学問の必要性を強く意識していたのだった。しかし、それは農家の跡取りとして、親とともに一生懸命働いてきたからであり、むしろ労働の中から学問の必要性が生れたと言えるのではないか。しかし、江口のようにあまりにも労働と一体である時には、なかなか佐藤のような考えにならないようだ。江口は労働する人とその労働条件という区別を考えることはできたが、佐藤のように労働全体を他(ここでは学問)と関係付けて考えることはできなかった。
 ここまでで分かるのは人はその置かれている状況、立場によって、課題(問い)が異なるということだ。そして、それを各自進めるしかできないのではないか。川合、江口、佐藤はそれぞれの状況、立場に応じた問いを持ち、作文においてそれを各自一生懸命進めていることが分かる。しかし、そもそも彼らの直面している問題はまず分かりやすく、厳しく、立場もそれぞれ明確であるから問いが初めから強くあったのだろう。

教師の役割

問いを自覚し、さらに進めて行く上で大きな役割を果たしたのは教師の無着だ。各章で分析した通り、無着の働きかけが3人の問いを進める契機となっている。ここで述べておきたいのは、無着があくまでも教師としての役割を果たしたということだ。
 生徒たちの直面する農村の貧しさを何とかしたいという思いは無着の中にあったと思う。生徒たちの直面する貧しさはそれだけ厳しかったし、また作文を書かせれば貧しさの問題がたくさん出てくるのだ。
 しかし、その貧しさ、厳しさを知っても、無着はあくまでも教師としての本分を忘れなかったと思う。それは生徒の成長を進めるという本分だ。佐藤を級長として教育したことを考えてほしい。佐藤は農村の貧しさを共有しながらも、問題にあたるリーダーをして育てられたと思う。そういう意味では無着は佐藤に農村の問題を任せたと言えないだろうか。
それもそのはずで、無着はあくまでも学校教員なのだ。出身も寺の生まれなのだ。その無着にとって、本当のテーマはやはり農村の貧しさではなかったのではないか。突き詰めれば、無着は「よそ者」であって、もっと言えば、農村の貧しさが本当に分かる人間ではないのではないか。無着にできることは、農村の子どもたちが、農村の貧しさを自分で考えられる人間になれるように教育することだけなのではないだろうか。そして、それは全く正しいし、実際無着はそれをやったのだと思う。

<参考文献>
・佐野眞一「遠い『山びこ』」(新潮文庫、2005年)
・無着成恭編『山びこ学校』(岩波文庫、1995年)
・(山元中学校学級文集)「きかんしゃ」5号(1950年)

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6月 23

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の10回目 

吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。

卒論は『山びこ学校』。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。

それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の10回目

■ 目次 ■

第3章 佐藤藤三郎「ぼくはこう考える」
第2節 佐藤の作文の分かりにくさ
川合末男や江口江一との違い
 佐藤の中心の問い、答えは何だったのか
第3節 佐藤の素晴らしさ
働くことと学問
 佐藤藤三郎の立場
 無着と佐藤

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第2節 佐藤の作文の分かりにくさ

川合末男や江口江一との違い

 第1章の「父は何を心配して死んで行ったか」や、第2章の「母の死とその後」では、その文章に表れている問いや、問いの答えを求める運動に注目して分析をした。しかし、実は佐藤藤三郎の「僕はこう考える」はそれがとても難しい。それは、この作文においてとにかく多岐にわたる問いや意見(答え)が連続して立っているからだ。あまりにも問いから答えへの運動が多すぎる。
それは、共産党やそれを語る「屋根ふきさん」についての批判(1)(2)(3)や、働かされて一冊の本を読む時間すらないことについての意見(7)(8)(9)、雑誌や新聞や本や小説についての批判(10)(11)、「働くことが勉強だ」という教師の発言に対する意見(12)、ヤミ炭についての問い(14)(16)、学校教育についての意見(17)(18)(19)(20)(21)(22)、といった内容になる。
 こうなってくると、これまでの第1、2章のように、「問い」、「問いから答え」といった具合の章立てで論じることが難しくなってくる。そこでこの「僕はこう考える」についてはそういう分け方はせずに、論じることとする。
「僕はこう考える」の全体を眺めてみよう。まず、日常を綴った日記のような文章でこの作文は始まっていて、それが(4)まで続く。その次に、自分の家についての説明、特に亡くなった姉のことについて書いていて、それは(5)まで続く。そして(7)のある段落から(22)のある段落までが大きくひとまとまりとなっていて、特にそこにおいて問いや意見が集中していることが分かる。ちなみに、(23)のある段落からはまた、日常を綴る文章に戻っていて、(4)の後の続きとなっている。
「ぼくはこう考える」は、特にその意見文の箇所において、問いや意見が連続しているので迫力を感じるのだが、内容が多岐にわたっていることで逆に佐藤藤三郎が一番悩んでいたことは何なのか、佐藤の中心をなす問いは何なのか、それが分かりにくいのだ。
もちろん、悩みや問いといったものには、一番だとか中心だとかいうものはなくて、それぞれがただバラバラに並んであるだけだという考え方もあると思う。しかし、そんなことがありうるのだろうか。第1章で扱った川合末男の「父は何を心配して死んでいったか」はそのタイトル自体が問いとしてしっかりと中心にあった。第2章で扱った江口江一の「母の死とその後」では、母親について「あんなに働いてもなぜ暮しがらくにならなかったのだろう」という問いと、自分について「あんなに死にものぐるいで働いたお母さんでも借金をくいとめることができなかったものを、僕が同じように、いや、その倍も働けば生活はらくになるか」という問いの2つが存在していた。しかし、その2つの問いで考えている内容はほぼ1つに重なり合っていたのだった。それでは佐藤の「ぼくはこう考える」はどうなっているのだろうか。川合末男や江口江一の文章との違いをどう考えればよいのだろうか。
問いや意見の出し方についてもこれまでの川合末男や江口江一の文章と異なることが分かる。それは佐藤の問いや意見が個人や自分の家の個別の問題として出されてるのではないことだ。そうではなくて、それぞれの問題を自分の学級全体に共有されるものとして意見を述べているのである。
「私たちがどうがんばってみたところで、本をたくさんよみ、上の学校にはいった人から((によって))(によって)政治をとられるだろう」(7)だとか、「私たちがみんな毎日たのしく学校に来ることが出来るようにすることだ」(17)など、佐藤は繰り返し「私たち」という言葉を使っている。もっと、ハッキリと「私たちの学級には」(18)と述べられている箇所もある。佐藤のいう「私たち」というのは、無着学級のみんな、という意味だろう。もともと「僕はこう考える」は本になる予定で書かれたものではなく、クラスメイトと無着が読者だった。
もっとハッキリするのは、「私たちのような山の子供たち」「年中労働にかりたてられている子供たち」(10)といった表現だ。つまり佐藤は自分個別の問題としてでなく、無着学級全体に共有されるような問題として問いや意見を出しているのだが、その無着学級で想定されるのは「農村の貧しい子供たち」ということだったようだ。
ここまで、佐藤の問いや意見の内容が多岐にわたっていて中心が分かりにくいこと、またそれらの問いや意見は「農村の貧しい子供たち」全体のこととして表現されていることを確認した。一体佐藤が最も悩んでいたこと、直面していた問題は何だったのだろうか。彼の問いはどういう事実から始まっているのだろうか。また、なぜ無着学級全体に共有される問題として問いや意見を述べているのか、そういうことについても考えて行きたい。
 

佐藤の中心の問い、答えは何だったのか

 まず、佐藤の一番考えていたこと、核となるような問いは何だったのだろうか。そもそも核となる問いがあるのだろうか。そういうことについて考えたい。そこで問いや意見の集中している(7)の段落から(22)の段落までに絞って詳しく見ていく。
するとまず、「(農村のくらしは)よくなったにもかかわらず、たった一冊の本を読む時間すら持っていない」ということ、そしてそれに対する意見から始まることが分かる。本を読む時間すらないのでは、「私たち」、つまり農村の人々は貧しいままだという批判は「だろう」「だろう」「だろう」というふうにたたみかけるように述べられている(7)(8)(9)。そもそも、この作文自体は本を読もうとするたびに働かされて読むことがかなわない日常を綴っているところから始まっている。意見文がそのことから始まるのも納得がいく。
続いて、本を読んだとしても、あらゆる雑誌、新聞、本、小説にいたるまで、ほとんど「私たち」、つまり「山の子供たち、年中労働にかりたてられているような子供たち」のことと関わりのない内容ばかりであることを批判している(10)。ここで注目すべきなのは、「私たちのような山の子供たち、年中労働にかりたてられているような子供たちがどんなことを勉強すればよいのか、どんなことを考えればよいのか、ちっとも書いていないじゃないか」という批判の仕方だ。これは別の見方をすれば、自分達が「どんなことを勉強すればよいのか、どんなことを考えればよいのか」という問いを佐藤が持っていたことを表わしていると思う。
その問いは「働くことが勉強だ。」という先生の発言に対する疑問、批判(12)につながっていると思う。佐藤は働くだけではなくて、「働く」ということについて考えられるだけの土台が必要だと主張するのだが、これは自分達に必要な勉強は何なのかということを語っているのだ。「どんなことを勉強すればよいのか、どんなことを考えればよいのか」という問い(10)に、「『働く』ということについて考えられるだけの土台が必要なのではないか」という意見(12)は答えとして対応している。
続いて、その働くということについての考えられる土台とはどういうものなのか、ヤミ炭の問題を例として説明している。この説明はとても自分が分かっていることと分からないことが明確で、「働くことが勉強だ」ということについては「わかっている」「わかる」「わかったのだ」(13)と繰り返している。ところがそれではなぜヤミ炭をしなきゃいけないかが分からないのだ。
「働くことが勉強」を佐藤は実際やってきたわけだが、それだけではヤミ炭の問題はどうしても分からないわけだ(14)。そこで、なぜヤミ炭をやらざるをえないのかということを、佐藤は中学校で「先生と計算」(15)したりして実際に考えているところがまっとうだと思う。
そこで佐藤はヤミ炭という問題を考えることができるような、つまり「働く」ということについて考えられる土台というのを作るために、まずは「私たち」、つまり農村の子供たちが全員毎日学校に来れるようにするべきだという意見に至る(17)。佐藤は働かされて本を読む暇さえないと言っていたが、佐藤の学級には満足に学校に来ることすら叶わない生徒がたくさんいたのだ。
ここから後は、同じように学校教育への意見が続き。最後は「こういう問題は誰が解決するんだろう」(22)という問いで終わる。そこで佐藤が立派なのは、「学校はどのくらい金がかかるものか」という別の文章で実際に学校の予算にどのくらい必要かなどを調べたことだ。その文章は『山びこ学校』に収められている。
ここまで詳しく読んできたが、どうやら矢継ぎ早に提示されている問いや意見はどうやらバラバラなものではなく、1つの連関の中のあるように思える。この文章においては、働くための土台が必要だという主張が佐藤の文章の中心としてあるように思える。
その主張は、農村の子供たちはどんなことを勉強すればよいのかという問いに対する答えであり、ヤミ炭の問題は「働くための土台」を説明する具体例であったし、学校は「土台を作る」ための手段として位置付けられているし、本を読む時間がないのも「土台を作る」ことができないことができないから批判しているのではないだろうか。本当にそこまで言えるかどうかは分からないが、この作文が何か1つのテーマのもとにあるということは確認できるのではないだろうか。大きくは「農村が貧しさから抜け出すためにはどうすればよいのか」という問いになるのだろう。

第3節 佐藤の素晴らしさ

働くことと学問

 佐藤はただ働くだけではダメで、「働くための土台」が必要だと主張し、「働くことが勉強だ」という無着の発言を批判している。ここまで強く、無着を批判しているのは佐藤の他にいない。
 また、批判の内容は当たっているのではないだろうか。炭焼きという仕事を例に挙げれば、炭を焼くこと自体は炭を実際に焼いてみて、研究はしているのだ。しかし、その炭をヤミで売らなければならない理由はやはり分からないのだ。無着と一緒に計算をし、ヤミで売らなければ原価割れすることは分かったのだが、では「なぜこういうふうに炭のねだんは原価をわり、また一方では炭が不足しているのだろう(16)」ということは分からないのだ。
 つまり、目の前の現実をただ見つめるだけではやはり分からないことはあるのではないだろうか。そこで佐藤藤三郎は学問の必要性を強く自覚していることに驚かされる。佐藤は本当に学問を必要としている。佐藤ほど強く学問への意欲を文章で表現している生徒はいない。そこまで気付けたのであれば、佐藤は学問をやらなければいけないと思う。実際に佐藤は中学卒業後、高校に進むことになる。
 佐藤はなぜ学問の必要性に気付けたのだろうか。それは1つには労働に深くかかわっていたからだろう。つまり、佐藤も他の生徒たちと同じように、家ではすでに労働者だったのだ。それだけではない。佐藤の場合、農家の跡取りとして育てられたのだ。それだけ農業に対する取り組み方も深かったのではないか。『山びこ学校』所収の「すみやき日記」という別の作文には、佐藤が父親と一緒に炭焼き用の窯を作りながら仕事を教わっていく過程が描かれている。
 山元中学を卒業して高校に進学したのは佐藤を含めて4名だった。その中で農家の跡取りとして育てられた佐藤から学問への強い意欲が生れたことには意味があるだろう。他の3名は、農家の生まれの川合義憲、村長の孫で財産家に育った横戸惣重と、教員の息子の川合貞義だ。その中でも農家の生まれでなく、経済的に余裕のある横戸と川合貞義からはそもそも差し迫った村の問題が出てこない。佐藤が強い学問への意欲を持つようになったことには、まず貧しさという問題が目の前にあり、さらに跡取りとして育てられたために貧しさに対する関わり方が強かったからではないだろうか。
 しかし、それではなぜ他の農家の跡取りから佐藤のような学問の意欲が出てこなかったのだろうか。そのことは佐藤が目の前の問題を「私たち」などといって、学級全体の問題として捉えたことと関係する。

佐藤藤三郎の立場

 なぜ佐藤は「私たち」などといって、学級全体のこととして問題を捉えたのだろうか。
佐藤は農家の生まれだ。それも跡取りとして育てられた。子どもの頃から農業従事者として働いていたが、卒業後の進路もやはり農業従事者となるわけである。そういう意味では、佐藤がヤミ炭や学校教育の問題を農村全体の問題として取り上げたのは当たり前とも言える。しかし、川合末男や江口江一にしても農家の生まれであるし、特に江口はすでに農家の一家の責任者となっていた。それではなぜ佐藤は農村全体の問題として取り上げることができたのだろうか。
 それは、経済的に佐藤の家が無着学級の中で「中よりも上」の家だったからだろう。佐藤の家は過去に女工にうられた姉が亡くなったりはしているが、一応両親も存命で働いていたし、川合や江口よりは金銭的に余裕のある家だった。もちろん山元村全体が貧しく、「中より上」の佐藤の家も貧しくはあったのだが、川合や特に江口の家と比べるとまだ余裕があったのである。特に江口の家は生きていけるかどうかギリギリの水準だったが、佐藤は高校にも進んでいる。江口などはとりあえず、自分が生きて行くことで精一杯で周りを考える余裕はほとんどなかったのだと思う。それに対して佐藤はまだ農村全体を考える余裕があったのだ。
 無着学級の卒業生42名から高校に進学したのは佐藤藤三郎、川合貞義、川合義憲、横戸惣重の4名だった。しかし、そのうち2人は山元村の一般的な農家ではなかった。祖父が村長だった横戸惣重は財産家の出身で、川合貞義は父親が教員をしていて裕福な家だったのだ。川合義憲と佐藤藤三郎は、農村である山元村の一般的だったヤミ炭のような貧しさの問題に直面していて、他方では何とか高校に行けるだけの経済的な余裕はあったのだった。佐藤が農村の貧しさを学級の生徒と共有しながら、そのリーダー的な立場に立ったのには、そういう背景があった。
 農家の中でも佐藤が学問の必要性にまで気付けたのも、経済的な余裕が関係あるだろう。例えば、江口江一に学問をやる余裕が実際にあるだろうか。実は江口にしても、作文の最後で「お母さんのように働いてもなぜゼニがたまらなかったのか、しんけんに勉強することを約束したいと思っています(無着成恭編『山びこ学校』岩波文庫、1995年、37頁)」と学問の必要に気付いてるような表現があるのだが、佐藤ほどの強さはない。また、農村全体の貧しさとまで捉えられてもいない。それは仕方ないと思う。江口はとりあえず一生懸命生きて行くだけで精一杯なのだ。その江口に学問を求めることはできないだろう。

無着と佐藤

 先に、佐藤ほど強く無着を批判している生徒はいないと述べた。それは「働くことが勉強だ」ということに対して、「働くことを考える土台」が必要だと批判したのだった。しかし、佐藤と無着が全く疎遠であるということではない。むしろ佐藤と無着の間には響き合うところがたくさんあったのだと思う。
 そもそも、無着が佐藤を級長にしたことをどう考えたらよいのだろうか。それは無着が佐藤を最も高く評価していたということではないか。また、『山びこ学校』に「学校がどのくらい金がかかるものか」という調査報告文があるが、無着はその班長も佐藤にやらせ、組織させている。他にも、学級文集「きかんしゃ」において度々編集を佐藤に任せている。この作文に佐藤が無着と一緒に炭の原価や売値の計算をやったとも書いている。無着は佐藤にかなり多くの課題を与えていたのだろう。
 先ほど、佐藤がリーダー的立場に立ったのは、農家の出身でありながら経済的に比較的余裕があったことが背景だと述べた。しかし、それだけではなく、無着が級長にしたことによって、よりリーダー的な立場、農村全体を考える視点を自覚し、「私たち」などという表現に至ったのではないだろうか。また、佐藤を級長にし、様々な課題を任せたのは、無着が意識的にリーダーを育てようとしたと考えられないだろうか。その佐藤が学問の必要性を強く自覚するまでに至ったことは、無着の意図が成功していることを意味しないだろうか。
 佐藤にしても、作文の中では無着を批判しているが、当然尊敬していたと思う。卒業式の答辞で「私たちは、はっきりいいます。私たちは、この三年間、ほんものの勉強をさせてもらったのです(無着成恭編『山びこ学校』岩波文庫、1995年、298頁)。」と述べている。また、尊敬していなければ、無着の教育に応え数々の文章を書かなかっただろう。尊敬している無着だからこそ本気で文章を書いたのではないだろうか。
 佐藤が無着を尊敬し、無着も佐藤のことを認め、級長という立場を与え、様々な課題を与え、成長を促した。特別に優れている人間はそういう中で生まれてくるのではないだろうか。教師は生徒の能力や意欲に応じた要求をしていくべきではないだろうか。もしも、無着がどの生徒にも一律に同じ課題を与えるなどということをしていたら、佐藤はここまで成長できなかったのではないだろうか。

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6月 22

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の9回目 

吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。

卒論は『山びこ学校』。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。

それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の9回目

■ 目次 ■

第3章 佐藤藤三郎「ぼくはこう考える」
第1節 「ぼくはこう考える」

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第3章 佐藤藤三郎「ぼくはこう考える」

第1節 「ぼくはこう考える」

 第3章では、佐藤藤三郎の書いた「ぼくはこう考える」を扱う。佐藤藤三郎は農家の生まれで、女7人男2人の9人兄弟の7番目の生まれだ。作文に書かれているが、彼の家は山元村の中では特別貧しい方ではなく「中より上」だったという。佐藤藤三郎は次男だったのだが、跡取りとして育てられた。長男が小さい頃に亡くなっていたのだ。この作文が書かれたのは、1949年の8月で、佐藤は中学2年生だった。
佐藤藤三郎は無着学級の代表的な人物だった。まず、当時彼は学級の級長を務めていた。また、『山びこ学校』の中には佐藤の文章が多く収められている。この論文で扱う「ぼくはこう考える」以外にも、「すみやき日記」や彼が班長として書いた「学校はどのくらい金がかかるものか」など文量としても生徒の中では相当多い方だ。中学校の卒業式の「答辞」も佐藤は務めていて、それも『山びこ学校』に文章として収められている。また、佐藤は卒業生の中では珍しく高校に進学している。上山農業高校(定時制)に進んだ。山元中学校卒業生42名のうち、高校に進学したのは4人だけだ。
それでは以下で本文を引用する。引用の仕方は、第1、2章を引き継いでいる。

ぼくはこう考える
佐藤(さとう)藤(とう)三郎(ざぶろう)
(前略)
 昼食後、いろりばたにどっかりあぐらをかいて、屋根ふきさんのいつも語る農民組合の話を聞いていた。それは「農民組合のことで山形に行き、共産党の本部へついでに寄ったら、長岡から『入党したらどうだ。相談ばかり来て、はいらねっずぁあんまえな((ということはあるまいな))(ということはあるまいな)』とすすめられた。」ということである。そして、「入りたいには入りたいのだが、帰ってから村の人からきらわれるといけないから『まず、いますこし考えてみてからだ』といって帰ってきた」ということ。そして最後に「やっぱり共産党でなければならない。」というのだった。
 しかし、私は本当にそうなのかわからなかった。【本当に共産党がよいのなら、屋根ふきさんが「村の人あどう思うか」などと考えずに、はいるべきなのではないだろうか(1)】。私は子供だからだまって聞いていたが、次には疑問がおこってきた。
たとえば小白府の方で横戸了(さとる)(さとる)氏の未墾地を開墾させてもらうようにお願いしたところが、横戸氏は許さなかった。だから県の農地課へ行って願った。そして全部かな((叶))(叶)った。そのとき意地で、いらない土地でも書類を作って願ったというのである。【いったい共産党は意地で党を持っているのであろうか(2)】。しかし、私は、まだ「意地だ」ということだけならたいして問題でもないのだが、【横戸氏の場合は「意地」だけでなく「自分だけよければ他人はどうなってもよい」というような気持があるが、この屋根ふきさんにはないのか(3)】?
 とにかく私は「今のうち本を読んで、みっしり勉強しておかないと、今にこの屋根ふきさんみたいに、気持ちの小さい人間になってしまうぞ。」と思い、「午後こそ山に行かないで目的の本を読んでやろう。」と考えて、そっとうつえん((内縁側))(内縁側)に行ってねむったふりをしていた。
 五分もたったろうか、「ヤロ、ヤロ。」と三、四回ほどよんで「アマガリ((地名))(地名)さだ。」といって、父はむしろをばさりと背負って、母に「よこせよ」と言い捨てて出て行った。「ヤロ」と呼ばれたとき、【私は「もうダメだ」と思うと身体がじいんと痛んできた(4)】。
私たち四十三人の学級で、私の家のくらしはそう悪い方ではない、中よりもよい方だ。
考えてみると、これで昔からくらべてみればよくなっているんだ。第一、父が私の家にむこに来たとき、なんにもないのでたまげた((驚いた))(驚いた)というではないか。もちろんないことは承知で、ただ一人娘にだから、やっかいがなくてよい、といって向うでもくれたのだそうだが、こんなにないとはまさか思わなかったのかも知れない。
だから一番大きい姉ちゃんは小学校を卒業すると和歌山の紡績工場へ、募集人からよいことを語られて、どうせこんなびんぼうの中にくるしんでいるよりは、工場へでも行った方がよっぽど幸福だと考えて、親はあんまり遠いのでゆるさなかったがびりびり((むりやり))(むりやり)いやそればかりではない。もう一つの理由は、祖父の妹が子供を持たないので、それにもらわれるのがいやだということだ。いつも母は私たちにかたってきかせることだが「ンぐどぎあ((行くときは))(行くときは)ンぐンぐ((行く行く))(行く行く)いって、あとからやんだぐなたみた((いやになったような))(いやになったような)ことばかり手紙よこすっけまなは((よこしたものだ))(よこしたものだ)」と。そして行ってから半年もたつだろうか。水があわなくてはらをわるくしたという手紙がきて、まもなく病気になって家へ帰ったのだ。その時は蚕が四つ((四齢))(四齢)におきて、忙しい最中だった。だから病人もおちついてねていられず、かいこのあとたて((除糞))(除糞)したり、くわかせ((桑食わせ))(桑食わせ)したりしたもので身体はがおる((よわる))(よわる)ばかり、強くなるものは病気だけだった。
そこで金井の横山医院に入院した。もうその時は、あつかうのは、ばんちゃんが一人ではまにあわなくなり、おばちゃんのばんちゃをもたのんで二人であつかった。
だが、いくらたっても病気はわるくなるばかりで、「医者がえしてみろは((かえてみてはよう))(かえてみてはよう)」というので、今度は山形の至誠堂病院にうつったのだった。だが、よくなるどころが、かえってわるくなるばかりだった。
そしてその年の秋もすぎるころ、とうとう腸結核で死んでしまった。その時は十九歳であった。この時は私は四歳の時であったそうだ。母と病院に行って姉ちゃんがせがめっつら((しかめつら))(しかめつら)をしてねていた顔、それが私の姉ちゃんの記憶だ。
こうして女工にうられたのも私の姉ちゃんだけではない。すこしくらしのわるいような家へ行って募集人がすすめたもので、この年頃の娘は大体みんなかわれたのだった。母は「いっぱえ((たくさん))(たくさん)行ったんだげんども((のだけれど))(のだけれども)、みな病気したわけでないから、身体よわかったんだベな((だろう))(だろう)。」とあきらめている。
以上が私が四歳のころのことだが、このことは家の人がいつもかたるのでよくおぼえている。ときどき私たちがちょっと仕事をいいつけられてきかなかったりすると、じき「がきぴらいっぱえ((子供らがたくさん))えっど((いるが))かしぐもんでない((かせごうとしない))(子供らがたくさんいるがかせごうとしない)。トヨノばなの((などは))(などは)めちゃこえ((小さい))(小さい)ときから子守なの((など))(など)させて、おこさま((お蚕様))(お蚕様)のときなど赤んぼおぶって『いいがは((もういいでしょう))(もういいでしょう)、いいがは』てえっけあ((といっていたよ))(といっていたよ)、もつこえったら((かわいそうだったことよ))(かわいそうだったことよ)、もつこえったら」といわれると、なんだかほんとにもつこえ((かわいそうな))(かわいそうな)ような、【ごしゃける((腹が立つ))(腹が立つ)ような気がする(5)】。
ほんとに今三十代四十代の人が子供のときとはくらべることができないほど、農村のくらしがよくなっているのだ。だからこそ、いまのうち本をよんで勉強しておこうと思うのだ。だが【そんなよくなったにもかかわらず、たった一冊の本を読む時間すら持っていないのだ(6)】。【これでは私たちがどうがんばってみたところで、本をたくさんよみ、上の学校にはいった人から((によって))(によって)政治をとられるだろう(7)】。【そうすれば、そういう人は金持に都合のよい政治をとるだろう(8)】。【そうすれば、どう考えてみたところで私たちがよくなりっこないだろう(9)】。
あらゆる少年雑誌を見よ!
あらゆる少年新聞を見よ!
あらゆる本を見よ!
それがどうであるというのだ!
そこにはまったく一日を自由に使える子供たちのために、「五日制の土曜日は、こんな計画を立てて」とか、「日曜日はこんな計画でたのしくすごそう」等々、遊びと勉強があるだけで、【私たちのような山の子供たち、年中労働にかりたてられている子供たちがどんなことを勉強すればよいのか、どんなことを考えればよいのか、ちっとも書いていないじゃないか(10)】!
【私が今までよんだ小説だってほとんどそうだ(11)】。ただ国分一太郎の『少し昔のはなし』と、徳永直の『はたらく一家』だけが、勉強しようと思っても家が貧乏でできないことが書いてあっただけだ。そこにあらわれた子供たちは、私たちよりもっともっとひどい生活をしていたような気がする。しかし、【先生にいわせると「働くことが勉強だ。」という。おれには、それがどうしてものみこめないのだ。それがほんとうになるためには「働く」ということについて考えられるだけの土台が必要なのではないか(12)】。たとえば【炭を上手にやくことを研究しなければならないことはわかっている。その研究はやいてみなければわからないこともわかる。それは炭をやいてみて、炭やきはむずかしいことがわかったのだ(13)】。【ところがそんなになんぎしてやいた炭を、なぜ父や母がヤミで売ろうとするのだろうか(14)】、ここに問題がおこってくる。
ただ馬鹿かせぎしてもだめだという問題だ。なぜかというと、炭をヤミで売らず公定で供出したりすると、まにあわないということがおこってくるからだ。
この間、【先生と計算したら(15)】一俵(四貫)の炭をつくるのになんとしても百八十八円十銭かかるのだ。それを公定で組合に出せば、楢の上等で百五十円、並であれは百二十円である。だから百八十八円十銭よりは並が六十八円も安いのだ。それに、木も全部楢だけであればよいのだが、そうばかりでもない。山代も雑木だからといって安いわけでもないのだ。それに雑炭といえば百二円という安さだ。これではいくら「ヤミをするな」といわれたって、しないでは生活が出来ないのだ(21)。では、ヤミはどのぐらいしたかといえば、二百円くらいで、これがようやく手間になるようだ。いや、それよりも高いものがないから、それぐらいでがまんせねばならないのだ。しかし全部ヤミで売るわけにもいかない。大体全部が供出でヤミはわずかなものなのだ。ヤミ炭を買う人だって金持だけで、びんぼうな人はヤミでは買えず、困っているのだ。
【なぜこういうふうに炭のねだんは原価をわり、また一方では炭が不足しているのだろう(16)】。こんなことを、【そしてその土台を作る一番最初の仕事は、私たちがみんな毎日たのしく学校に来ることが出来るようにすることだ(17)】。学校がたのしくないとすれば原因を考えねばならない。もしもそれが私たち生徒同志のきまずい感情が原因だったり、先生がビンタを張るなどという問題だとすれば、自治会で簡単にかたづくし、私たちの学級にはそんなことは全然ないのだ。とすれば何だろう。それは教科書代金などを早くもってこい、早くもってこい、などとあまり催促されて、つぎの日から金が工面つくまで学校を休んで、材木ひっぱりなんかするなどということ、家で「学校なの休んで手伝え」といってびりびり学校を休ませること、などだ。
【政府では、義務教育を三年のばすとそれだけ実力がつくと思っているのだろうか(18)】。【三年のばしただけで私たちは、親からブツブツ云われ、かせがせられて、そのあい間をみつけて学校にはしって行かなければならない、ということは、いったいどういうことなんだろう(19)】。
【ほんとに、学校教育がすばらしくなるというのは、どんな貧乏人の子供でもその親たちにさっぱり気がねしないでくることができるようになったときでないだろうか(20)。こういう問題はいったいだれが解決するんだろう(21)】。
こんなことを考えながらみのを着ようとして背中にやったら、三年の昇君が得意の流行歌を歌って、鎌をふりふり山へ行くところだ。それを見て「昇君だ((なんかは))(なんかは)いいものだ。何も考えずにただ『おらえの((うちの))(うちの)昇あ、かしぐまあ((はたらくよ))(はたらくよ)』とほめられるのをたのしんでいることが出来て……」と思った。が「【そういう考えは、生活について考えるのに正しい方法だろうか(22)】」と疑問がすぐおこってきた。
(後略)

(一九四九年八月二八日)
         (無着成恭編『山びこ学校』岩波文庫、1995年、151-159頁)

以上で引用を終わり、第2節へ移る。

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