5月 03

日本民芸館の「朝鮮陶磁‐柳宗悦没後50年記念展」を観、柳宗悦の『民芸四十年』を読んで考えたことをまとめました

1 柳宗悦の朝鮮陶磁器コレクションと「安宅コレクション」

4月1日(2010年)から日本民芸館で「朝鮮陶磁‐柳宗悦没後50年記念展」を開催している。民芸館の創立者柳宗悦自身が収集した朝鮮陶磁器のベスト約270点を展示している。「当館が誇る朝鮮陶磁器コレクションの至宝展とでもいうべきもの」。

最近、李朝の白磁などに異様に惹かれている私は数ヶ月前から楽しみにしており、いよいよ明日という晩は寝付けなかったぐらい興奮していた。豊かなコレクションで圧倒してくれるだろうと期待したのだ。ところが、実際に観て、私は少しばかり失望したのだった。質量共に、それほどではなかった。陶磁器の口部分などの破損や全体的なシミなども目に付いた。

こう思ったのは「安宅コレクション」と比較したからだ。「安宅コレクション」とは安宅英一(安宅産業)の中国、朝鮮の陶磁のコレクションで、現在は大阪市の東洋陶磁美術館で観ることができる。これは専門家から「第2次大戦後も収集された東洋陶磁のコレクションとしては世界的に見てももっとも質の高いもの」「高麗・朝鮮の陶磁は私的コレクションとして世界第1といっても過言ではない」(林屋晴三)と言われる。私はこのコレクションに親しむようになり、その朝鮮の陶磁器に強く惹きつけられていた。今回の民芸館にやや失望したことで、安宅コレクションの質量がいかに高いかを思い知ったように思う。そこでは1つ1つの作品が完璧な保存状態であり、完成度や質が高い。

2 柳宗悦の『民芸四十年』の生き方

4月に柳宗悦の『民芸四十年』、鶴見俊輔の『柳宗悦』を読んだ。柳宗悦には20年以上も前から関心があり、岩波文庫から彼の著作が刊行されるたびに購入していたが、なかなか読む機会がなかった。自分の中に、そのきっかけを作れないでいた、と言った方が良い。
今回、急に矢も楯もたまらず、『民芸四十年』を読みたくなり、一気に読み終えた。それは、柳の民芸という考え方の根っこに、朝鮮の陶磁器への開眼があることがわかったからだ。柳も最初から「民芸」という観点があったわけではない。朝鮮(李朝)の陶磁器のすばらしさに目覚め、その意味を深めた結果、より普遍的な民衆の芸術、民衆の生み出す美に気づき、それを日本に当てはめた時に見えてきたのが日本の「民芸」「工芸」の姿だった。

しかし、改めて思い出すと、このことは私も前から知っていたことに気づく。私の側の問題だったのだ。最近になって、私の中に、朝鮮(李朝)の陶磁器への熱い思いが生まれていた。それが機縁となって、柳宗悦の軌跡が、私の中にストンと腑に落ちたのだ。ずいぶん長い時間がかかったものだと思う。

柳の偉さ、凄みが、まっすぐに、私の中に入ってきた。柳は単なるコレクターや美学者ではない。彼は朝鮮(李朝)陶磁の美にめざめただけではなく、その陶磁器が美しく立派なものならば、その制作者もまた立派に生きていると見極めていた。それは美の基準の変革にとどまらず、人間・民族への評価を変え、社会や歴史の見方をも変えるほどのものだった。それゆえに、柳は日韓併合の状況下で朝鮮側に立って発言することになる。それは社会的な軋轢を生み、柳はさまざまな勢力から批判や攻撃を受けることになる。そうした中で、柳はひるむことなく自分の道を最後まで歩いていった。最期に待っていたのは念仏宗であり他力道である。結果として残された柳の人生の軌跡のみごとさに、うなってしまう。

3 民芸と民衆と

「朝鮮の友に贈る書」「失われんとする一朝鮮建築のために」など、柳は当時の日本の朝鮮への植民地政策、同化・教化政策に反対したが、当時にあってそうした日本人は少数に限られていた。しかし、それは政治的な発言というよりも、朝鮮の美とそれを生みだした朝鮮文化と民族を守るための、美に生きる者としてのやむにやまれぬ行為だった。

その中で柳は2つのことに気づく(「四十年の回想」より)。1つは、朝鮮人自身が柳たちのコレクションに関心を持たなかったことだ。そこで柳は「朝鮮人に代わって美術館を京城に設置」した。これが柳が作った初めての美術館になる。しかし「朝鮮側からの思いもかけぬ反対に出会った。下賤の民が作った品々で朝鮮の美など語られるのは、誠に以て迷惑だというのである」。

一方、日本人には朝鮮の陶磁のコレクターはいるが、柳の観点とはやはり違う。柳のは民間の雑器が多かった。一番違うのは、彼らは「朝鮮の品々は好きではあるのだが、それを通して朝鮮の心を理解しようとするのではなく、まして朝鮮人のために尽くそうとするのでもなく、ただ自分の蒐集欲や知識欲を満足させているのに過ぎない」点だ。「それで私は義憤を感じて、朝鮮人の味方として立とうと意を決した」。それが「朝鮮の品物から受ける恩義に酬いる所以」だ。ここに、安宅コレクションと日本民芸館のコレクションの決定的な違いがある。

この2点の指摘からは、柳が問題にしていることは、日本と朝鮮の間で朝鮮の側に立つ、という単純な図式ではすまないことがわかる。同じ朝鮮内部でも、「下賤の民」が生んだ「美」に盲目な人々がいるのだ。もちろんそれは日本国内でも同じである。

朝鮮の陶磁の美を発見した柳は、それを生みだした朝鮮の文化と民衆を発見し、民芸を発見した柳は、民芸を制作する民衆の価値をも発見したのだ。

それは柳が誰を友とし、師としたかによく現れている。柳自身は上流階層の出身であり、学習院で学び、白樺派の同人として活躍した。しかし、そこから大きく逸脱した付き合いをしている。柳に朝鮮の陶磁・工芸の美を教えた浅川伯教、巧の兄弟との付き合いだ。

4 浅川伯教、巧兄弟

朝鮮を愛して朝鮮に暮らしていた浅川伯教、巧の兄弟。伯教は小学校の教員(後に李朝陶磁の研究者)、巧は林業試験場の下級役人である。柳はそうした二人を尊敬し、深く信頼していた。
浅川巧は朝鮮語を学び、朝鮮服を着、朝鮮人として生きようとし、朝鮮人を愛し、愛された。41歳で急逝するが、その葬儀には多数の朝鮮人が参列し、彼らがその棺を担いだ。巧は朝鮮人の共同墓地に葬られた。

巧の死後の柳の追悼文は以下だ。「私はわけても彼を人間として尊敬した。私は彼ぐらい道徳的誠実さをもった人を他に知らない」「私は彼の行為からどんなに多くを教わったことか、私は私の友だちの一人に彼を持ったことを名誉に感じる」。巧の遺児である園絵は民芸館と柳を終生支え続けた。

私が気になったのは、浅川兄弟がメソジスト派のキリスト教徒だったことだ。その信仰と彼らの生き方の関係だ。江宮隆之著『白磁の人』(浅川巧の生涯の物語)では、それを強調し、巧と朝鮮人をいたぶっていた日本の軍人が回心し、キリスト教に入信するエピソードを入れている。彼ら兄弟の信仰は柳の念仏宗への帰依に近いものだろうか。(2010・5.2)

12月 09

12月4日
 静嘉堂文庫美術館で「筆墨の美―水墨画展 第2部 山水・人物・花鳥」、松濤美術館で「没後90年 村山槐多(むらやまかいた) ガランスの悦楽」を見た。22歳で夭折した天才だ。

HPによれば、前者は「墨のぼかしやにじみ、筆線の抑揚などを生かして描く水墨画。『墨色を用いて五彩を兼ぬるがごとし』といわれるように、墨の微妙な濃淡のなかにさまざまな色の世界が想起されます。一方、著色画と違って色彩がない、あるいは少ない分、明暗や奥行き、大気や水の表現にすぐれ、とりわけ早朝や夕暮れ、月下や雨中・雪中などの景色を実感ゆたかにあらわします。生動感あふれる筆線の絵、丹念な運筆の跡に画家の思いがこめられた絵など、一枚一枚の水墨画が多様な筆墨によって作られています。
 本展では、このような筆墨の表現効果に着目しながら水墨画の魅力を探っていきます。会期を二つに分け、前期には中国・南宋以来の山水画の系譜と室町時代の水墨画、後期には明時代の山水画や花鳥画、江戸時代の文人画家の作品を中心に展示します。本展を通じ、水墨画を楽しむ新たな視点を見つけていただければ幸いです」とある。
「牧谿 羅漢図 南宋時」も良いが、私は、「鈴木芙蓉 那智大瀑雨景図」と「酒井抱一 波図屏風」を堪能した。

 後者は「 22歳で逝った夭折の天才画家・村山槐多(1896年?1919年)の油彩、水彩、デッサン、詩歌原稿、書簡など約150点を回顧し、早熟で多感な青年であった槐多の、詩と絵画に駆け抜けた生涯とその世界観をあますところなく、紹介します」とHPにある。
 おどろおどろしいのも面白いが、房州旅行の風景を描いた小品が心に染みた。

12月 09

東京国立博物館の「皇室の名宝―日本美の華」の前期と後期をそれぞれ見た。

 前期は伊藤若冲の「動植綵絵三十幅」が見たいので行った。10月23日、金曜の晩だが、混んでいた。
 伊藤の画風は、水墨画風で一筆書きのようなシンプルなものや点描のような風景画、色彩の鮮やかなもの、細密画などと幅広い。
 「動植綵絵三十幅」は色彩の鮮やかな細密画だ。見ていると頭がくらくらしてくる。浪や、雪が鮮やかだ。その細やかさはアウトサイダーアートの一部と同じ質を感じたし、以前はやったサイケデリック風の印象ももった。「ナウイ」のである。

 後期は11月28日に行った。「春日権現験記絵」や「蒙古襲来絵詞」を見たが、これもすごい混み方だった。春日神社に11月の初旬に奈良の正倉院展を見た日によったので、親近感があった。正倉院宝物は、奈良と同じだった。
 教科書で良く知っている「聖徳太子像」など、懐かしい物が多かった。

12月 03

11月28日に東京都美術館で「冷泉家 王朝の和歌守(うたもり)展」を見た。
藤原定家の肖像画が面白かった。プライドの高い、繊細で偏屈で狷介で嫌な奴だったろうな、と思っていたが、その通りの顔だった。
日本の古典を再編集したことや、歌の家を作ろうとした(家元制度の創始者)こと。それが気になる。
 冷泉家の現在の当主が、外婿として冷泉家の当主になったものの当惑し、文化の保存の役割に徹すると腹が据わるまでに時間が必要だったことを書いていた。こうした「家制度」について考え込む。

定家の「明月記」が展示されていて、読みたくなった。幸い、作家の堀田善衛が『定家明月記私抄』 (ちくま学芸文庫 正続) を出している。早速読んでみた。

アマゾンには「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ―源平争闘し、群盗放火横行し、天変地異また頻発した、平安末期から鎌倉初期の大動乱の世に、妖艶な「夢の浮橋」を架けた藤原定家。彼の五十六年にわたる、難解にして厖大な漢文日記『明月記』をしなやかに読み解き、美の使徒定家を、乱世に生きる二流貴族としての苦渋に満ちた実生活者像と重ねてとらえつつ、この転換期の時代の異様な風貌を浮彫りにする名著」と紹介されている。

定家が「プライドの高い、繊細で偏屈で狷介で嫌な奴」だったことが確認されたが、かなりタフであることに驚いた。
 彼は官吏としての出世になりふりかまわず、60歳になっても猟官運動に精を出す。男女関係は錯綜し、定家にも30人近い子どもがいる。それは当時にあってはごく普通のことだった。そして彼は10代から70代までに詳細な日記を書き続ける。これは決して普通ではない。

 俗の俗にあった定家にも感心したが、この本の著者にも感心した。政治と文化の実相、西洋と日本の幅広い領域を視野に入れた堀田善衛の冷徹な目が行き届いている。
 宮廷文化が没落していく中で、サブカルチャーが従来のカルチャーを圧倒していく。和歌を、そして自らを守るために家元制を構想するしかなかったこと。当時の宮中、後鳥羽院の人々、京都の治安の悪さ、鎌倉幕府との関係、官吏としての日常。
 定家のため息、つぶやき、うめきまでが伝わるような本だ。

 

12月 01

11月8日に、京都国立博物館の「日蓮と法華の名宝―華ひらく京都町衆文化―」を見た。

この企画展については、5月1日のブログで触れた。
そのブログでは「展覧会には2種類ある」として、「新しい視点、観点の提示をし、その視点からの展示をする」あり方を推奨した。

そこで、その期待する例として出したのだ。
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 京都国立博物館は、今年秋にも魅力的な展示を行う。「日蓮と法華の名宝―華ひらく京都町衆文化―」であり、「文応元年(1260)、39歳の日蓮は、度重なる災厄と国家の危機を憂えて、『立正安国論』を著し、鎌倉幕府前執権の北條時頼に献じました。それから750年目にあたる今年、それを記念し、『立正安国論』を軸に、京都十六本山を中心とした諸寺伝来の宝物の数々を、一堂に展観します」(博物館のHPより)とある。
 これはいわゆる「琳派」展だろう。江戸時代の本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ)、俵屋宗達に始まり、尾形光琳、尾形乾山らが確立し、その後もすぐれた継承者を多数生んだ「琳派」の流れの展示である。

 しかし、それがなぜ「日蓮と法華の名宝」なのか。光悦たちの多くが法華宗徒だったからだ。光悦は、京都の洛北鷹ヶ峯に芸術村(光悦村)を築いたことで有名だが、その住人の本阿弥一族や町衆、職人などは皆、法華宗徒だった。光悦の死後、光悦の屋敷は日蓮宗の寺(光悦寺)となっている。
 これには当然わけがある。浄土を死後の世界に求めず、現世に実現しようとする在り方、現世と人間の欲望を肯定する教えが、彼らの拠り所になっていたのだろう。
 その宗教と芸術との関係から「琳派」を見直すことで、これまでと違う側面が見えてくるかも知れない。
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その結果はどうだったか。
期待はずれだった。
そもそも、江戸時代の「琳派」の展示はほんの一部だった。何か「新たな発見」がそこにあったわけでもない。
本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ)、俵屋宗達、尾形光琳、尾形乾山らの展示は、それぞれ数点しかなく、新たに知った物は光悦の自筆の立正安国論しかなかった。「琳派」に新たな光が当てられたわけではない。

もちろん、新たに知ったことはある。以下は、今回の企画のHPからの引用。
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 本展はこれを記念し、『立正安国論』を軸に、鎌倉新仏教の一翼を担った日蓮の足跡をたどり、その門下の活躍、特に孫弟子にあたる日像の京都布教以降、公家文化と並ぶ町衆文化の形成に果たした日蓮諸宗の大きな役割を紹介します。
 日像は三度の京都追放にもめげず、帝都布教の悲願を達成し、大覚大僧正妙実(だいかくだいそうじょうみょうじつ)という優れた後継者を得て、その基盤が確立しました。やがて、法華信仰は室町時代を通じて町衆を中心に広がり、京都は「題目の巷(ちまた)」と称されるまでになりました。
 反面、勢いが強まったことで、旧仏教界の中心であった比叡山と関係が悪化します。天文五年(1536)、ついにその対立は天文法華の乱として火を噴き、京都撤退の憂き目をみましたが、ほどなく帰京が許されてから、再び勢いを回復します。
 その後、天正七年(1579)の織田信長による安土宗論での浄土宗への敗北、文禄四年(1595)の豊臣秀吉の方広寺大仏殿千僧供養に際して日蓮諸宗への出仕の強要による宗内の動揺など、政治と宗教という難しい問題にも遭遇しました。ちなみに、当館の敷地には、まさにその方広寺の遺構の一部が含まれており、史跡に指定されています。
 このような曲折を経つつも、今日なお、その伝統は京都十六本山を中心に受け継がれており、それを支えたのが町衆だったのです。
 この町衆が京都近世文化の形成に大きな役割を果たしたことは知られていますが、名だたる近世の芸術家たちが法華の信者だったことは意外と知られていません。たとえば、狩野元信、長谷川等伯、本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳、尾形乾山、彼らがみな法華信徒であったと聞くと「エッ!?」と驚く方も多いのではないでしょうか。つまり、狩野派、長谷川派、琳派といった画派は、この法華を媒介にした京都町衆の濃密な人間関係から形成されたともいえるのです。
  本展では、法華信仰の遺品はもとより、これら近世日本美術の名家の優品も展示することで、日蓮諸宗と京都町衆文化の奥深さを再確認するものです。こうした趣旨の展覧会はあまり例がありませんでしたので、十六本山を中心に事前調査を行い、多くの新発見に結びつきました。中には重要文化財級の作品もあり、数多くの初公開作品もみどころと考えています。多くの方のご来場をお待ちしています。

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 以上の中で、日像のことと、彼の京都布教以降、日蓮宗が京都の町衆文化の形成に大きな役割をはたしたこと。
狩野元信、長谷川等伯も法華信徒であったこと。今回の企画のための調査で長谷川等伯や彼の一派の作品が発見されたこと。
 ということは、安土桃山時代には、京都の主要な芸術家は日蓮宗だったと言うことになる。そしてそれが、当時の政治との関わりで大きな混乱があったらしい。
 そうしたことは、学んだ。

 しかし、そうした知識以上のものは、そこにはなかった。展示企画した側に、それ以上のものがなかったのだと思う。

 期待が裏切られること。それは良くあることだし、しかたがない。