2月 13

2月の読書会

 今回は、『河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙』河北新報社 (著)
を取り上げ、ジャーナリズムと震災を考えたいと思います。

 読書会では、昨年の秋から「東日本大震災で提起された問題」をテーマにしています。
 この震災と原発事故への対応の中で、日本社会の抱えていた諸問題が表に吹き出し、誰の目にも見えるようになってきたこと。
これが、今回の大きな不幸の中の、唯一の(と言ってよいと思います)成果です。それを真剣に学ばなければならないと思っています。

 読書会では、これまで

 10月
 ◆海堂 尊 (監修)『救命─東日本大震災、医師たちの奮闘』
   新潮社 (2011/08/30)

 11月
 ◆清水 修二 (著)『原発になお地域の未来を託せるか』
   自治体研究社 (2011/06/15)
 ◆佐藤栄佐久(著)『福島原発の真実』
   (平凡社新書) (2011/06/22)

 12月
 ◆『石巻赤十字病院の100日間』由井りょう子 (著), 石巻赤十字病院 (著)
   小学館(2011/10/05)

 以上を読みました。次は、地元新聞を取り上げます。

(1)期日 2月25日 午後4時から6時まで
(2)場所 鶏鳴学園の3階
(3)テキスト
  『河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙』河北新報社 (著)
   文藝春秋 (2011/10/27)
   ¥ 1,400
(4)参加費 3000円
参加希望者は、鶏鳴学園まで申し込み下さい。

今回は、ジャーナリズムと震災を考えたいと思います。

新聞とは何か。
地元紙とは何か。何をするべきか
震災下の地元紙とは何か。何をするべきか。

『河北新報』とは宮城県仙台市に本社がある、
宮城県を中心にした東北の地元紙です。
その震災直後からの1カ月ほどの活動の日々を、
自らが振り返ったドキュメントです。

「肉親を喪いながらも取材を続けた総局長、殉職した販売店主、
倒壊した組版システム、被災者から浴びた罵声、避難所から出勤する記者」
とアマゾンの内容紹介にあります。

参加希望者は、以下に申し込み下さい。

            鶏鳴学園 読書会事務局
  メールアドレス sogo-m@mx5.nisiq.net
 ホームページ http://www.keimei-kokugo.net/

1月 18

昨年12月29日には、ゼミ生と1年の振り返りをしましたが、
 そこで話したことをまとめました。

———————————————————–

人が行動することは、自分が何者かを明らかにする 

     — 「概念の生成史」と「概念の展開史」 — 

 「意識(人)が行動しなければならないのは、自分の潜在的な姿を
意識の対象にするためでしかない。意識は自分の行動の結果としての現実から
自分の潜在的な姿を知るのである。したがって個人が行為を通して
現実にもたらされるまでは、個人は自分の何たるかを知ることはできないのである」

(『精神現象学』第5章理性論、第3節「絶対的に実在的だと自覚している個人」。
  牧野紀之訳、未知谷版574ページより)。

 これはヘーゲルの発展観そのものの表現だと思う。そしてヘーゲルの発展観を
理解するには、「概念の生成史」と「概念の展開史」の関係を考えねばならない。
ヘーゲルは、そのものが何なのか(その本質、すなわちその生成史)は、
そのものの生成後の自己展開で明らかになると言う。つまり、その展開史で
その生成史の意味が明らかになるのだ(『精神現象学』の序論にある。
鶏鳴会通信107号を参照されたし)。これは「類」の進化において言われるが、
それはそのまま類の中の個別における成長過程でも言えることだ
(これが『精神現象学』の大きな枠組み)。

 私たち人間は、いつもそれまでの人生を背負って生きている。
ある年齢に達して、今、新たなことに挑戦するときに、
過去がそれに大きな影響を与えていることは明らかだ。
その過去は当然意識されており、その振り返りの上で、
未来への決断・選択が行われると考えられている。
過去は記憶されており、自分史として把握できる。
しかし、そうだろうか。記憶から消された過去も多い。
否、大切な過去ほど、意識の奥深くにしまい込まれているのではないのか。

 ゼミ生に、以下のようなことが起こった

 ある人Aは、私との師弟契約をすることを真剣に考え始めていた。
そのきっかけとしては、それまでの生き方の反省がある。
他人任せで、世間の基準を無自覚に自分の基準としてきたこと。
そして、私と師弟契約をする決断をする際に、忘れていた記憶が
呼び戻されてきた。

 それは、その人には以前にも先生というべき人がいたことだった。
本人はすっかり忘れていたが、整体の指導者を事実上の師としていた。
その師のまわりには弟子の集団があって、その中の一員だった。
そして、その師との辛い別れがあった。その師に、あることから
厳しい叱責を受け、不本意ながらも関係は終わった。
その師弟関係が失われたことは大きなショックであり、とても辛いことだった。
当時、その師は、悩みの相談相手であり、いつも親身にこたえてくれた。
その人は、人生の行き先を照らしてくれる大きな燈明だった。
そうしたことがすっかり思い出されてきた。

 それらの記憶は大切なことだったはずだが、すっかり忘れていたのだった。
そして、その記憶が浮かび上がってきたときには、それはただ辛く
受け止めがたい記憶ではなくなっていた。その師や弟子集団の問題が
おぼろげに見えていたのだ。そうした相対化の視点は、
私を師とすることで与えられたのではないだろうか。
そして、そうした視点がない限り、その記憶は、
心の奥深くにしまい込まれたままだっただろう。

 また、別の人Bには、それまで仕事上の先輩で信頼し尊敬している人がいた。
その人の考え方、仕事の進め方などを、必死で学んできた。
そして、確実にその成果も出て、仕事上でも順調に進んだ。
しかし、次第に、その先輩の不十分な点にも気づくようになり、
生き方や考え方に大きな欠落があることにも気づくようになっていた。
しかし、そうした不満や疑問を口にすることはなかった。

 私は、そうした関係は、その大切な先輩に対して誠実な態度とは
言えないのではないか、と注意をした。そこから、改めて、その先輩を
きちんと批判することを決意するようになる。その時に、
すっかり忘れていた親友とのことが思い出されてきたのだ。

 大学生の時にその親友とは同じクラブを運営する立場として、
互いに批判しあい、支え合っていた。最初は相手が上だった、
しかし、いつしか相手との関係が逆転し、就職後は、相手を
見下すようになっていた。それでも「親友」としての
いつわりの関係は続けてきていた。

 そのことが急に思い出されてくる。そして、そのいつわりの関係を
清算しないではいられない、強い思いがこみ上げてくる。

 こうしたことを見ていると、ヘーゲルの言っていたことの意味が
わかるように思うのだ。

 「行動」「行為」とは、それまでの生き方に一線を画するだけの
ものでなければならない。

 そうした決断の際に、その時点では潜在的だった自分の正体が
はっきりと現れてくる。自分とはもちろん過去の人生によって
作り上げられてきたものだから、現れてきた潜在的本質にも、
それに対応する過去があるのだ。

 Bさんについて、ゼミでは「なぜ精算する必要があるのか」
「親友ではなかったとか、いつわりの関係だったとか、
わざわざ言う必要はないのではないか」といった意見も出た。
しかし、そうした過去を清算しないと、私たちは前には
進めないのではないだろうか。過去が私たちをとらえ、
前に進めなくしているのではないか。

 精算とは、その親友を切り捨てたり、過去の自分を切り捨てる
ということではないと思う。その失われていた過去を呼び戻し、
その意味づけを変えることなのではないだろうか。
私たちは過去を切り捨てることはできない。
すべてを背負って生きるしかない。
できることは、その個々の経験の全体における位置づけをかえ、
より高いレベルで生き直すための、一歩を進めることだけだろう。

 そうした過去の清算ができない限り、それまでの延長線上の生き方、
同レベルの生き方しかできず、発展は不可能なのだろう。
逆に言えば、それまでのレベルを乗り越えて生きていく中で、
過去の一つ一つの経験の意味が、より深いレベルで明らかになる。
一歩前に進むたびに、1つ上のレベルで経験の意味を捉え返し続ける。
それを繰り返していくことで、過去の全体が構造化され、
その意味が透明なすがたとして現れてくる。

 これがヘーゲルの「展開史でその生成史が明らかになる」の
 意味なのではないか。

 これを世間で言われていることを比較してみよう。
世間でも「過去を反省せよ」とか「過去の振り返りをせよ」とか言われる。
それによって、今の選択についてどうしたら良いかわかるし、
未来の方向付けもできる、と言うのだ。

 ここにないのは、「生成史」とは別の「展開史」という考えであり、
この両者を統一的にとらえる観点なのだ。だから「反省しなさい」や
「過去の総括文」には無意味なことも多い。
むしろ、嘘を書かせるだけなので、有害なことの方が圧倒的に多いのだ。

 また、過去に執着して前に進めない人が多数存在していることを
どう考えるか。実際には、過去にこだわり、生い立ちにこだわっている人で、
前に進めないでいる人が多い。「過去の反省」は、
こうした人に対しては無力なのではないか。

 人が前に進むときにだけ、意識の奥底に隠してきた過去の記憶が
浮かび上がってくる。前に進むことなく、過去をとらえようとしても
無理なのではないか。

 「大切なことほど意識の奥底に隠されている」と言えば、
すぐに「精神分析」を思い出す人もいるだろう。
そこでは様々な手法によって記憶を探り出し、新たな視点から
過去の人生の全体を捉え直そうとする。しかし、この「新たな視点」は誰が、
どのように与えるのだろうか。そうした曖昧さや危険性に反対する立場からは、
他の手法がさまざまに提案されている。

 しかし、いずれにしても、大切なのは「生成史」と「展開史」の
両方の視点であり、この両者を統一的にとらえる観点なのだと思う。
そして、人が先に進むためには、これらについての認識の深まりが必要である。
そしてそのためには認識能力の高まりが必要であり、その能力を高める過程と
その保障が必要になるだろう。その回答が「先生を選べ」であることは、
すでに繰り返し述べてきた。

1月 16

昨年12月29日には、ゼミ生と1年の振り返りをしましたが、
 そこで話したことをまとめました。

「謙虚」と「傲慢」 

 すぐにあやまる人がいる。すぐに反省を口にする人がいる。
しかし、こうした人をよく観察すると、本当に反省しているわけではなく、
問題点の改善はされていないことがわかる。謝りながら、実は問題を
スルーしてごまかし、ただ流しているだけなのだ。

 私は、こうした人たちの反省や謝罪に、とても軽薄な印象を受ける。
そこに「間」がないからだ。人は、気付かなかった事実や批判を
受け止めるには、少しばかりの時間が必要だろう。その批判が
核心を突いている時は、しばし沈黙するのが普通なのではないか。
そうした間もなく、すぐに謝り、すぐに反省の言葉を出すのは、
問題をきちんと受け止めようとしていないからだろう。
その結果、同じ過ちを繰り返し、同じ反省をし続ける。

 こうした人は実に多い。こうした人は、一見「謙虚」そうだが、
実際はとても「傲慢」なのだと思う。

 他方で、いつも自己卑下をする人がいる。
いつも自信無げでおどおどしている人がいる。

 こうした人たちも、普通は「謙虚な人」と言われる。
しかし、こういう人もまた、実はとても「傲慢」なのだと思うようになった。

 こんなことがあった。ある人はいつも自信がなく、
自分はきちんとしていない、普通の人ができることができない、
ダメな人間だなどと言っていた。しかし、ある日、見かねて
カウンセラーに行くことを薦めると、「自分が行くのは大げさなのでは
ないかという気がする。私の状態はそんなに深刻ではない」と言うのだ。
この時に、初めて、この人の傲慢さが見えた。

 こうした人は、いつも自信がなく、他人と比べて自分を責めて、
おどおどしているように見えるが、他方では、すごく傲慢で、
他人と比べて、自分はそれほどひどくはないと、安心してもいるのだ。
「きちんとした社会人」ではないが、「きちんとした病人」ではない。

 この「きちんとした」が問題だ。
その判断の基準は、他者や世間や親の基準でしかないからだ。
こういう人は、世間の基準を鵜呑みにし、疑うこともなく、
それに従って生きている。それが自分の実感に合わなかったり、
変だと感じることもあるはずだが、自分独自の基準を作るまでには至らなかった。
世間の基準に従っている方が楽だからであり、それに対立しながら、
自分自身の基準を作ることははるかに厳しく難しいことだからだ。

 その結果、すべてをこうした世間の基準、枠組みから、見ることになる。
しかし、それは自分自身の実感や、心の動きを抑圧することにもなる。
その結果は、ノイローゼであり、心の病に至るだろう。
いつも自信がなく、おどおどするのは当たり前なのだ。

 こういう人は、自分の実感、自分のハートの声に耳傾けることがなくなっていく。
しかし、それを生きていると言えるだろうか。生きる実感とは、
自分の五感に責任を持つことから始まるだろう。
それを放棄してしまえば、あとは自動人形になるのではないか。

 それは人生に対して、自分に対して、他者に対して、生命に対して、
限りなく傲慢で、不遜で、不誠実なことではないだろうか。

1月 14

ベン・シャーン展を見てきました。彼の絵の出自と生成史、その展開史を見せつけられた印象が深かったです。
それを、彼自身の言葉でも確認したいので、『ある絵の伝記』を1月の読書会テキストにします。

———————————————————–

◇◆ ベン・シャーンの絵の生成史と展開史  ◆◇

ベン・シャーン展をみてきた。とても心動かされた。

前から関心を持ち、彼の画集をながめていた。心に染みてきて、私の体の内側から静かに力が満ちてきて、背筋をグンとのばしてくれる。

有名な《ラッキードラゴン》 1960年 テンペラ・綿布
は、日本の漁船がアメリカの水爆実験に巻き込まれ放射能被曝をした第五福竜丸(ラッキードラゴン)事件を題材にしたもの。
そうした社会派の側面を強く持ちながら、
リルケの「マルテの手記」の1節を版画集にしているような側面もある。これがいい。

『版画集:リルケ「マルテの手記」より:一行の詩のためには…』はどうしても実物が見たく、大川美術館まで行き、鎌倉の近代美術館にも行った。

今回は、彼の絵がどのような形で生まれてくるかを解き明かすような展覧会になっている。絵の出自、絵の生成史と、その展開史が一緒に展示されている。

その意味でも、興味が尽きなかった。

ベン・シャーン展については、以下を参照のこと。1月29日まで

神奈川県立近代美術館 葉山
〒240-0111
神奈川県三浦郡葉山町一色2208-1
電話:046-875-2800(代表)
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2011/benshahn/index.html

———————————————————–

◇◆ 1月の読書会とテキスト ◆◇

ベン・シャーン展で、彼の絵の出自、絵の生成史と、その展開史の展示を見て帰ってから、今度は、彼自身の言葉でそれを述べている『ある絵の伝記』(美術出版社)を読みたくなった。

数年前に「マルテの手記」の版画集を見た際に、一度読んでいたのだが、今回は実際に実物でその軌跡を確認した上で読んだので、印象が深かった。そして、ヘーゲルの発展観、人間の意識の内的二分と、きわめて近い考えが展開されていることに感銘を受けた。

そこで、東日本大震災シリーズを1回お休みして、『ある絵の伝記』を1月の読書会では取り上げる。

(1)日時 1月28日(土曜日)午後4時から6時まで  
  ※ただし、日時に変更の可能性があるので、必ず確認してください。

(2)テキスト
ベン・シャーン『ある絵の伝記』(美術出版社)
 その中の特に、「ある絵の伝記」

1月 04

11月の読書会の記録 太田峻文

 (佐藤栄佐久『福島原発の真実』,清水修二『原発になお地域の未来を託せるか』)

 ■ 目次 ■

 4、佐藤栄佐久『福島原発の真実』の検討
 5、清水修二『原発になお地域の未来を託せるか』の検討
 6、記録者の感想

=====================================

4、佐藤栄佐久『福島原発の真実』の検討

 全体について
 
 〇汚職事件で逮捕

・佐藤前知事は検察にハメられたと主張するが、有罪が確定するも
 収賄額ゼロという認定からは、前知事の主張の妥当性がわかると思う。

・国と徹底的に喧嘩する人は、過去の読書会で扱った佐藤優のように、
 検察によって潰されていくことが、事実としてあるのではないか。

・県知事が東電や国と喧嘩をすることで、彼にも読者にも
 見えてくるものがある。

 〇本質論

・普通の政治家は利益誘導だけを考えて調整すれば良いので、
 本質論なんてやらない。

・佐藤知事は原子力政策で本質論をやろうとした所に凄さを感じる。

・本気で物事に取り組む人、本気で国家と喧嘩をする覚悟がある人は、
 本質論をやらないと話にならない。

 第1章:事故は隠されていた

・1991年1月の、第二原発3号基の部品脱落事故。

・原発政策に自治体はなんの権限も無く、関与できない。

 第2章:まぼろしの核サイクル 

 〇官僚の無責任さ

・核燃料の処理に関する、知事と官僚との約束が破られる。
 官僚は異動してしまえば責任のがれができる。
 その責任は誰がとるのか?

 〇本気で戦う人の姿勢

・原発政策に対して国に申し入れをする際、
 原発集中地域である福島、新潟、福井の3県に絞る。

・県の原子力関係部門を課に格上げして、さらに専門家を入れる。

 〇本質論に向けて

・議論を尽くす事を目的に「核燃料サイクル懇話会」を設置。
 ここが、本質論のレベルの始まり。

・4回目の懇話会に『原発になお地域の未来を託せるか』の著者、清水さんが
 呼ばれている。原発について本質論をやる時に欠かせない人。

 〇リーダー論 

・自治体の不適切な支出、膨大な接待が発覚。佐藤知事は職員に
 徹底的に討論させ、最終的に課長以上の職員に、200万円を
 県に返還させることを決断。

・つまり、多数決ではなく、最終決定をトップが行い、
 その責任をトップが取るというスタンス。

・今回の震災で、責任を取ろうとしないトップがいかに多かったか。

 3章:安全神話の失墜

 〇リスク管理

・JCO臨界事故において、リスク管理の欠如が明らかになる。

 〇地方の過疎の問題

・県庁所在地であるにも関わらず、駅前はシャッター通りに
 なっていている。

・古い町並みにあった商店街はほとんど潰れ、一方で郊外の
 ショッピングセンターが栄えている。

・平成の大合併。地域のコミュニティを無視した、政府主導の
 アメとムチの政策。

・大規模小売店鋪法。規制緩和の名の下に押し進められた
 経済産業省の新自由主義政策。

・地方の過疎化を加速させた新自由主義の政策にも、
 正当な理由(競争がなく、時代に取り残された)はあるが、
 今は全体を考えた政策が必要。

・佐藤知事は以上の政策に反対の姿勢を示してきたが、
 その対応策は成功しているのかは不明。

 第4章:核燃料税の攻防

 〇プルサーマル計画

・計画実施をめぐり、国、官僚があの手この手で揺さぶりをかけ、
 東電が脅しをかけたりと、そのやりとりが実におもしろい。

・経産相の知らないうちに、役人たちが動いていろいろな事が
 進められてしまうと知事が言っている。

 〇経産省内の電力自由化抗争

・「新規電源凍結騒動」の結果、電力自由化論者の官僚が経産省を追われる。
 このことから、原発推進派=反電力自由化という理解で良いのだろうか。
 また、この電力自由化論は55年体制を是正しようとする流れから
 来ているのかは不明。

・また一方で、原発推進派はどちらかというと電力自由化論者である
 という見方もある。中には「東電解体」「発送電分離」を
 支持しているにもかかわらず、「原発の国有化」も
 主張している人がいたりと矛盾が多い。

・国は東電をコントロールしたいけれど、東電の影響力は強いので
 うまくいかない。だから国の「東電憎し」という気持ちから
 「電力自由化」という主張が出てくるのではないか。

・電力自由化を実現させたアメリカへの憧れから
 支持している人もいるだろう。電力自由化抗争は複雑。

・しかし、佐藤前知事が言うように、国のエネルギー政策に対して
 きちんとした考えを持って取り組んでいる人というのは
 どれくらいいるのだろうか。本来、電力自由化は手段にすぎない。

・国と東電の関係は歪んだ共依存関係ではないか。
 つまり、東電としては原発、特にプルサーマルは、
 リスクが 大きいだけだから本音としてはやりたくない。
 ところが、国が国策の名のもとに原発を東電に押し付けるので、
 東電には被害者意識がある。だからその代わりに東電が
 儲かる構造があり、社員は役人以上に高い給料を貰っている。

・その関係が、責任を取ろうとしない体質につながっていく。
 原発事故以後の報道を見ていても、両者の無責任さは見え見えだった。

 第5章:国との全面対決

 〇エネルギー政策検討会

・「県民の意見を聞く会」に寄せられた意見を整理して、
 テーマを4つに絞り込み、そしてそこから本質論をやって行こうとする。

・議事録をホームページに公開していくというやり方は
 真っ当であり、この姿勢から、佐藤前知事の本気度がわかる。

 第6章:握りつぶされた内部告発

 〇内部告発への対応

・東電は事故隠しを行い、経産省は内部告発を2年間放置していたことが発覚。

・経産省は、外国人の告発者を東電に報告するというひどさ。

・政治家は官僚にはしごを外されている。

 第7章:大停電が来る

・「原発の安全管理は厳しすぎる」という東電社員のホンネがみえる。

────────────────────────────────────────

5、清水修二『原発になお地域の未来を託せるか』の検討

 全体について

・研究者として30年間、原発の問題に関わってきているので
 主張に年季がある。

・あくまで原発を誘致した側の視点で書かれているため、経済的に
 どうして受け入れる必然性があるのかという問いに、答えようとしている。

・一方的に脱原発、反原発と言うような人ではない。
 経済的な問題がそこにあり、地域の問題を解決せずして、
 原発を無くすもなにもない。そういう意味では、
 清水さんのような研究はとても重要。

・第一章の「原発震災は何をもたらしたか」は、今回の事故で
 明らかになった問題の論点整理。ここに根本的な問題提起がある。
 問いに対する答えは本書にはまだ出せていないが、当然。
 これからみんなで、一人一人が出していくべき。

 第一章:原発震災は何をもたらしたか

 〇避難と退避

・避難と退避の区別の基準が曖昧。
 それがいかに大きな問題になっているか。

・今回の福島の問題は、内的な気持ちのところの被害が大きい。
 もちろん、肉親が亡くなったりする外的な要因で心の被害を受けるのだが、
 福島県内の人は直接的にではなく、心が傷つけられていくという
 陰湿な被害を受けている。

 〇心理的なストレス

・放射能の恐怖によって、ストレスがものすごくかかっている中で
 生きている人たちの気持ちは、僕たちにはとても分からない。

・自主避難をした人たちへの補償は一切無いが、そういうストレスの中で
 生きていく事が耐えられなくて避難した人ヘの救済が、行なわれないでいいのか。
 ストレスに耐えられないのが、むしろ正常なのではないか。
 (これは一部補償の対象になることになった)

 〇避難をめぐる葛藤

・福島県の地域、職場、家族間のあらゆるコミュニティで、
 避難できた人と残った人、避難したい人と残りたい人とで2分された。

・避難とは、職場放棄でもある。仲間などへの「裏切り」という面がある。

・どういう判断をしても誰かを傷つける結果になり、
 両者がそれぞれ、深刻な心の傷を負うことになった。

 〇規制値とは何か

・政府の示した暫定規制値をどう考えるか。

・これまで、被ばく規制値は年間1ミリシーベルトとされてきたが、
 それがいきなり20ミリシーベルトに引き上げられ、不安を呼んだ。
 本当に大丈夫か?

・低線量被曝の影響が専門家の間でもはっきりしないので、
 個々の責任で判断するしかない。

・ひとつの判断として、浴びる線量をゼロにするために
 避難することもある。

・「被曝のリスク以上に、避難をすることで社会的、経済的、
 精神的リスクの方が大きいのではないか」という、清水さんの問題提起。

 〇農業者が抱える悩み

・福島県産に手を出さない消費者の行動は、風評被害なのか。

・福島県のある一定の地域が放射能で汚染されたことは事実であり、
 それに対して手を出さないというのは、極めて合理的な判断と
 言えるのではないか。

 〇福島の第一次産業を救わないで良いのか?

・(著者)日本国民はこれまで原発を許してきたわけだから、
 その結果として生まれた汚染大地の産物を、大人の国民は
 甘んじて口にするべき。

・(中井)基本的に賛成。一般に風評被害ということで
 軽く済ませている。実際に放射能で汚染されていることを
 重く受け止めなければいけない。子供は守ることを前提に、
 大人たちはあえて福島県産を食べろというのは、極めて重要な
 問題提起ではないか。

 〇東京と福島のねじれた関係

・原発立地地区の住民は、これまで原発の恩恵に預かってきた訳だから
 福島県の農業を、そうまでして救わなければいけないのか。

・福島で発電された電気は、地元ではなく東京が消費している。

・福島が東京に電力を提供し、東京が福島にお金を払うという関係は
 対等と言えるのか。

・これまでの東京一極集中の構造から、東京と地方の関係に
 どのような関係がありうるのか。

 〇公式情報を信じるかどうか

・今回政府、東電が情報隠しをやったが、これをどのようにとらえるか?

・(著者の意見)原発事故に際しての福島県民の行動様式は
 「お上に従順な東北人気質」に見えるかもしれないが
 「誇るに足るもの」である。

・普通は批判点としてあげられるところだと思う。
 大学教授でもある著者が、なぜこういう評価になるのか。

・家族も仕事も福島にある人の中には、自分だけ残り、子供と奥さんは
 避難させるという選択がある。一方で、放射能のリスクはあるけれども、
 親と離れることによる子供への精神的な影響を考え、家族と一緒に
 残るという選択がある。政府の情報を信用してというよりは、
 直感的にリスク管理をやっているのではないか。

・清水さんは信頼できる。「政府は信頼できない」と一方的に
 言っている人は、その発言の責任をどう取るのか
 というところまで深く考えていない。

・震災直後に直ちに避難できたのは、外国人と金持ち。
 金がない人間は、どう行動することが現実的だったのか。

 〇損害の補償はだれがするのか

・東電が過剰な賠償責任を問われるのを恐れているのは
 日本の財界、というのはリアル。

・東電の大株主は大企業であり、それは東電が潰れる事で
 もっとも直接の被害を受けるのは、日本の財界。

 〇今後の可能性

・脱原発をして、自然エネルギーを中心としたエネルギー基地に
 なったとしても、そこにはなんらかの補助金、交付金がついて、
 構造的には同じになってしまうのではないか。

・もともと産業がなかった地域だからこそ原発が
 建ってきたのだから、風力にしたからと言って
 地域の問題は解決されるわけではない。

・政府、東電を批判していれば正しいというような風潮があるが、
 それは間違っている。国は政策を決めなければいけないし、
 エネルギー政策は、国家の根幹に関わる問題。
 一貫した政府、自民党の原子力政策を、40年近く
 国民が指示し続けてきた重さをどう考えるのか。

・今、脱原発に進むとして、その先にどういう社会があるのか。
 そもそも、どういう将来を僕たちが望むのか。

・一つの可能性として、外の人がどんどん入っていくというのは良いと思う。

────────────────────────────────────────

 6、記録者の感想

 私は『福島原発の真実』を読んで、福島県が10年以上にわたり
原子力政策をめぐり、国との間で激しい対立、抗争が
あったのにもかかわらず、それらについて私の記憶の片隅には
一切残っていないということにまず驚いた。

 そして、佐藤前知事が本質論で原発政策に取り組み、逮捕されるまで
突き詰めてきた姿勢に圧倒され、自分もこのような激しさを持って
物事に取り組んでいくことができるだろうか、不安に思った。

 私のように無知であることからくる恥ずかしさ、申し訳なさ、
負い目を、今回の福島原発事故から誰もが少なからず感じたと思う。
そういった、これまでの国民の無責任さについては、清水さんが
著書の中で言及しており、その責任のとり方についても
問題提起している。

 これまでの無関心な姿勢を反省して生きていくことは必須だと思うが、
それが即、いま盛り上がりを見せている「脱原発・反原発」
ということになるのだろうか。その「脱原発・反原発」が、
これまでの姿勢を反省した形になっているのだろうかと疑問に思った。

 確かに、原発事故以後の政府、東電、経団連に関するネガティブな
報道がたくさん流れる一方で、被災者を追ったドキュメンタリー番組
などで、放射能汚染の影響で廃業せざるを得ない農家や、
畜産農家の方が、涙をぼろぼろ流しながらその悔しさを
語る姿をみると、東電憎しで脱原発は当然だろうとも思う。

 しかし、ある番組で原発事故のせいで農業を廃業し、
家族と離れ離れになったという人が、地元に残って
最終的に見つけた就職先が、東電の関連会社だった
というのを見て、こんな厳しい現実が地方にはあるのかと
その時初めて知った。このような地方の本当の現実、問題を考えず、
さらにそこに暮らす人々に思いを馳せないで脱原発を
主張することは、結局これまでと同じ、東京側の
視点でしかないのではないか。

 今回の読書会で扱ったテキストの著者は、長年福島で生活し、
それぞれの問題に取り組んできたということで共通している。
だから、今回の両テキストが東京側の視点ではなく、福島側の視点を
提供してくれているという点で、非常に意味があるものだと思った。

────────────────────────────────────────