8月 24

9月以降のゼミの日程が決まりました。

初めての参加者には、事前に「自己紹介文」を書いていただいています。

 1. 簡単な履歴(年齢、大学・学部、仕事など)
 2. 何を学びたいのか
 3. どのようにこの学習会を知ったのか、なぜこの学習会で学びたいのか
 
などを書いて、ゼミの2週間前までに以下にお送り下さい。
E-mail:
  sogo-m@mx5.nisiq.net
 2回目以降の参加希望者は、1週間前(文ゼミの初回参加者は2週間前)までに連絡をしてください。

ゼミ参加費は、すべて1回3千円です。

(1) 読書会、文章ゼミ(文ゼミ)

読書会、文章ゼミ(文ゼミ)は、いずれも原則は午後5時開始
その後、午後7時より「報告会」があります。

9月10日 報告会(午後7時より)。文ゼミはありません。
24日 文ゼミ

10月8日 文ゼミ
22日 読書会

11月5日 文ゼミ
19日 読書会

12月3日 文ゼミ
12月17日 読書会

12月末に成績発表と忘年会を予定

(2)毎週月曜日のヘーゲル原書講読と関口存男著『定冠詞論』の読書会

 9月19日から開始します。

1.ヘーゲル原書講読

 毎週月曜日午後5時から行います。
 『大論理学』「主観性」の「概念」の「個別」を読みます。
ヘーゲル哲学の核心中の核心です。

2.日本語文献を読む時間

 毎週月曜日午後7時から行います。
 関口存男氏の『定冠詞論』の後半を読みます。
 世界的なドイツ語学は、言語とは何か、人間とは何かを解き明かします。

7月 27

夏のヘーゲル・ゼミ合宿

梅雨も明け、本格的な夏がやってきましたね。

恒例になりましたが、
今年も夏の合宿を行います。

いつものように、八ヶ岳山麓で、8月18日から21日まで。

18,19日はヘーゲル「概念論」の原書講読(ズールカンプ版全集6の277?288ページ)。
20,21日は翻訳で『精神現象学』の「理性論」後半(牧野紀之訳の未知谷版。第5章の2節、3節)を読みます。
18日の晩と20日の晩には「報告会」をします。

一部だけの参加も可能です。

関心のある方は連絡ください。

7月 10

7月16日の読書会のテキストとスケジュールです

読書会は午後4時から6時。
報告会は午後6時から7時半。

テキストは
『西洋哲学史要』(未知谷)の
(1)中世哲学史の第2編(131?148ページ)→普遍と個別の問題です
(2)スピノザ(175?184ページ)→前回も取り上げました
(3)カント(217?248ページ)

月曜日のゼミで読んでいるヘーゲル『概念論』を理解する上での前提を、確認したいと思います。

これをふまえて、
秋からの読書会で、スピノザ(『エティカ』)とカント(『純粋理性批判』)の著作を実際に読むことも考えています。

6月 24

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の11回目 

吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。

卒論は『山びこ学校』。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。

それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の最終回

■ 目次 ■

終章
 次の課題を明らかにする
 運動が連続するような問いはどこから生まれるのか
 教師の役割

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終章

次の課題を明らかにする

 私が分析した3つの文章は、その問いや答えが様々な出方をしていた。しかし、文章には基本的には1つの問いがあり、その答えを出そうとしていることが確認できた。川合末男の「父は何を心配して死んでいったか」は、タイトルがそのまま問いになっていて、分かりやすく、明確だった。それに対する答えも明確で「私の将来の仕事を心配して死んでいった」というもので川合は文章の中で繰り返し述べているのだった。
 江口江一の「母の死とその後」については一見、2つの問いに分かれているような文章だった。それは「母があんなに働いてもなぜ生活がらくにならなかったのか」という問いと、「自分がこれから一生懸命働けば生活は楽になるのか」という2つだった。それに対応して、答えも母に関するものと、自分に関する内容があるのだった。しかし、2つの問いは実は重なり合っていたのだった。それは江口が亡くなった母と同じ立場(家の責任者)になったことによって、直面している現実が同じになったからだった。
では、佐藤藤三郎はどうかというと、彼の「ぼくはこう考える」は問いや意見が矢継ぎ早に立てられていて、その内容も一見すると多岐にわたっているのだが、大きくは「どうすれば農村の人々は貧しさから抜け出せるか」というような問いが根本にはあるのだった。
 興味深いのは、1つの問いに沿って、文章が書かれ、その答えを出すのだが、答えを出したところで終わってしまわないということだ。
 川合末男の文章についていえば、「私の将来の仕事を心配して死んでいった」という明確な答えは得たのだが、次に自分の課題を良い職業につくこととして書いているのだ。さらに、文章の最後では良い職業とは何かということを既に書き始めてしまっていて、川合はとりあえず警察予備隊を例にして考えたのだった。そして「予備隊は良い職業か」という問いが立ち、そのことを考え始めているのだった。
江口江一についていえば、川合ほど結論そのものが分かりやすくはない。というのは、第一に、精一杯の生活をするということ。第二に、借金をなくすということ。第三は、扶助料なしに生活していくこと。第四は、金をためて不自由なしの家にするという、4つに分けたときに、第四の金をためて不自由なしにするということは「ハッキリ間違っている」ことが分かったのだ。第一の水準は達成できるかもしれないが、しかし、第二、第三の課題となると分からないのだった。これでは問いの答えがハッキリ出たとはいえず、当然さらに明確な答えを求めることになると思う。
けれども、私はすでにこの答えの段階で相当の進歩があると思う。それはまず、金をためて不自由なしの家にするなどということが無理だと分かったことだ。自分の限界をしっかりと見極めている。また、同時に課題も明らかになっている。それは第二・第三の水準を目指せるかどうか分からないという問いがすでに生まれているからだ。最後に、4つの水準に分けたことが素晴らしいと思う。「生活は楽になるのか」というややあいまいな問いでなく、例えば「扶助料なしで生活していけるのか」というように問い自体が明確になっていくだろう。
次に、佐藤藤三郎についてだが、「ぼくはこう考える」では文章の中ですでに問いと答えの連続になっている。佐藤は1つ1つのことに逐一問いを持ち、それに対しての意見を提示するということを連続してやっているのだ。分かりやすいところでいえば、「農村の子供たちは何を勉強すればいいのか」→「働くということについて考える土台が必要だ」→「その土台を見に就けるには何が必要か」→「みんなが堂々と学校に通えるようになる必要がある」というような運動が連続して起きている。
1つの問いがあり、その答えを出す運動は同時に、次の課題を明らかにするのである。そこに『山びこ学校』の作文の迫力があると言えるだろう。

運動が連続するような問いはどこから生まれるのか

 答えを求め、さらに次の問いへ移るような運動が起きるだけの強さを持った問いをなぜ彼らは持っていたのだろうか。
 彼らに共通するのは、まず貧しさという問題に直面していることだった。川合と江口に関しては、親の死という契機もあったのだが、根本には貧しさの問題がやはりあった。しかし、その貧しさと貧しさに対する関わり方(立場)はそれぞれ異なった。貧しさを解決するため、彼らのテーマが労働にあることも共通している。しかし、労働についてもまた、それぞれ異なる立場にあった。
 最も貧しかったのは江口だ。彼は山元村でも最も貧しく、扶助料をもらわないと生活できないほどだった。親の死によって、家の責任者となった江口はまず、なんとか生きていけるかどうかがテーマだったのだ。働く目的は何と言っても、生きることにあった。しかし、江口は村から扶助料をもらうことを恥じていて、経済的自立ということも求めた。
川合は農村の次男以下として、職業をどうするかという選択に迫られていた。農家として生まれながら、農業以外の仕事に追い出されるような状況にあり、その意味では山元村の貧しさに直接関わることすらできなくなるのだった。しかし、選択に迫られたことによって、労働の目的について考えるようになった。その結果金銭のみを労働の目的とすることに疑問を持ち、世の中への貢献、自分の才能や欲求という面も考えるに至った。
江口と同じように、佐藤も山元村の貧しさに真正面から関わる立場にあった。それは佐藤が農家の跡取りとして育てられてきた。しかし、江口ほどに貧しい家ではなかった。その結果、佐藤は貧しさを自分の問題だけでなく、農村全体の問題として考えられる余裕があった。また、ただ働くだけでは限界があることを感じ、学問の必要性を強く意識していたのだった。しかし、それは農家の跡取りとして、親とともに一生懸命働いてきたからであり、むしろ労働の中から学問の必要性が生れたと言えるのではないか。しかし、江口のようにあまりにも労働と一体である時には、なかなか佐藤のような考えにならないようだ。江口は労働する人とその労働条件という区別を考えることはできたが、佐藤のように労働全体を他(ここでは学問)と関係付けて考えることはできなかった。
 ここまでで分かるのは人はその置かれている状況、立場によって、課題(問い)が異なるということだ。そして、それを各自進めるしかできないのではないか。川合、江口、佐藤はそれぞれの状況、立場に応じた問いを持ち、作文においてそれを各自一生懸命進めていることが分かる。しかし、そもそも彼らの直面している問題はまず分かりやすく、厳しく、立場もそれぞれ明確であるから問いが初めから強くあったのだろう。

教師の役割

問いを自覚し、さらに進めて行く上で大きな役割を果たしたのは教師の無着だ。各章で分析した通り、無着の働きかけが3人の問いを進める契機となっている。ここで述べておきたいのは、無着があくまでも教師としての役割を果たしたということだ。
 生徒たちの直面する農村の貧しさを何とかしたいという思いは無着の中にあったと思う。生徒たちの直面する貧しさはそれだけ厳しかったし、また作文を書かせれば貧しさの問題がたくさん出てくるのだ。
 しかし、その貧しさ、厳しさを知っても、無着はあくまでも教師としての本分を忘れなかったと思う。それは生徒の成長を進めるという本分だ。佐藤を級長として教育したことを考えてほしい。佐藤は農村の貧しさを共有しながらも、問題にあたるリーダーをして育てられたと思う。そういう意味では無着は佐藤に農村の問題を任せたと言えないだろうか。
それもそのはずで、無着はあくまでも学校教員なのだ。出身も寺の生まれなのだ。その無着にとって、本当のテーマはやはり農村の貧しさではなかったのではないか。突き詰めれば、無着は「よそ者」であって、もっと言えば、農村の貧しさが本当に分かる人間ではないのではないか。無着にできることは、農村の子どもたちが、農村の貧しさを自分で考えられる人間になれるように教育することだけなのではないだろうか。そして、それは全く正しいし、実際無着はそれをやったのだと思う。

<参考文献>
・佐野眞一「遠い『山びこ』」(新潮文庫、2005年)
・無着成恭編『山びこ学校』(岩波文庫、1995年)
・(山元中学校学級文集)「きかんしゃ」5号(1950年)

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6月 23

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の10回目 

吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。

卒論は『山びこ学校』。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。

それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の10回目

■ 目次 ■

第3章 佐藤藤三郎「ぼくはこう考える」
第2節 佐藤の作文の分かりにくさ
川合末男や江口江一との違い
 佐藤の中心の問い、答えは何だったのか
第3節 佐藤の素晴らしさ
働くことと学問
 佐藤藤三郎の立場
 無着と佐藤

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第2節 佐藤の作文の分かりにくさ

川合末男や江口江一との違い

 第1章の「父は何を心配して死んで行ったか」や、第2章の「母の死とその後」では、その文章に表れている問いや、問いの答えを求める運動に注目して分析をした。しかし、実は佐藤藤三郎の「僕はこう考える」はそれがとても難しい。それは、この作文においてとにかく多岐にわたる問いや意見(答え)が連続して立っているからだ。あまりにも問いから答えへの運動が多すぎる。
それは、共産党やそれを語る「屋根ふきさん」についての批判(1)(2)(3)や、働かされて一冊の本を読む時間すらないことについての意見(7)(8)(9)、雑誌や新聞や本や小説についての批判(10)(11)、「働くことが勉強だ」という教師の発言に対する意見(12)、ヤミ炭についての問い(14)(16)、学校教育についての意見(17)(18)(19)(20)(21)(22)、といった内容になる。
 こうなってくると、これまでの第1、2章のように、「問い」、「問いから答え」といった具合の章立てで論じることが難しくなってくる。そこでこの「僕はこう考える」についてはそういう分け方はせずに、論じることとする。
「僕はこう考える」の全体を眺めてみよう。まず、日常を綴った日記のような文章でこの作文は始まっていて、それが(4)まで続く。その次に、自分の家についての説明、特に亡くなった姉のことについて書いていて、それは(5)まで続く。そして(7)のある段落から(22)のある段落までが大きくひとまとまりとなっていて、特にそこにおいて問いや意見が集中していることが分かる。ちなみに、(23)のある段落からはまた、日常を綴る文章に戻っていて、(4)の後の続きとなっている。
「ぼくはこう考える」は、特にその意見文の箇所において、問いや意見が連続しているので迫力を感じるのだが、内容が多岐にわたっていることで逆に佐藤藤三郎が一番悩んでいたことは何なのか、佐藤の中心をなす問いは何なのか、それが分かりにくいのだ。
もちろん、悩みや問いといったものには、一番だとか中心だとかいうものはなくて、それぞれがただバラバラに並んであるだけだという考え方もあると思う。しかし、そんなことがありうるのだろうか。第1章で扱った川合末男の「父は何を心配して死んでいったか」はそのタイトル自体が問いとしてしっかりと中心にあった。第2章で扱った江口江一の「母の死とその後」では、母親について「あんなに働いてもなぜ暮しがらくにならなかったのだろう」という問いと、自分について「あんなに死にものぐるいで働いたお母さんでも借金をくいとめることができなかったものを、僕が同じように、いや、その倍も働けば生活はらくになるか」という問いの2つが存在していた。しかし、その2つの問いで考えている内容はほぼ1つに重なり合っていたのだった。それでは佐藤の「ぼくはこう考える」はどうなっているのだろうか。川合末男や江口江一の文章との違いをどう考えればよいのだろうか。
問いや意見の出し方についてもこれまでの川合末男や江口江一の文章と異なることが分かる。それは佐藤の問いや意見が個人や自分の家の個別の問題として出されてるのではないことだ。そうではなくて、それぞれの問題を自分の学級全体に共有されるものとして意見を述べているのである。
「私たちがどうがんばってみたところで、本をたくさんよみ、上の学校にはいった人から((によって))(によって)政治をとられるだろう」(7)だとか、「私たちがみんな毎日たのしく学校に来ることが出来るようにすることだ」(17)など、佐藤は繰り返し「私たち」という言葉を使っている。もっと、ハッキリと「私たちの学級には」(18)と述べられている箇所もある。佐藤のいう「私たち」というのは、無着学級のみんな、という意味だろう。もともと「僕はこう考える」は本になる予定で書かれたものではなく、クラスメイトと無着が読者だった。
もっとハッキリするのは、「私たちのような山の子供たち」「年中労働にかりたてられている子供たち」(10)といった表現だ。つまり佐藤は自分個別の問題としてでなく、無着学級全体に共有されるような問題として問いや意見を出しているのだが、その無着学級で想定されるのは「農村の貧しい子供たち」ということだったようだ。
ここまで、佐藤の問いや意見の内容が多岐にわたっていて中心が分かりにくいこと、またそれらの問いや意見は「農村の貧しい子供たち」全体のこととして表現されていることを確認した。一体佐藤が最も悩んでいたこと、直面していた問題は何だったのだろうか。彼の問いはどういう事実から始まっているのだろうか。また、なぜ無着学級全体に共有される問題として問いや意見を述べているのか、そういうことについても考えて行きたい。
 

佐藤の中心の問い、答えは何だったのか

 まず、佐藤の一番考えていたこと、核となるような問いは何だったのだろうか。そもそも核となる問いがあるのだろうか。そういうことについて考えたい。そこで問いや意見の集中している(7)の段落から(22)の段落までに絞って詳しく見ていく。
するとまず、「(農村のくらしは)よくなったにもかかわらず、たった一冊の本を読む時間すら持っていない」ということ、そしてそれに対する意見から始まることが分かる。本を読む時間すらないのでは、「私たち」、つまり農村の人々は貧しいままだという批判は「だろう」「だろう」「だろう」というふうにたたみかけるように述べられている(7)(8)(9)。そもそも、この作文自体は本を読もうとするたびに働かされて読むことがかなわない日常を綴っているところから始まっている。意見文がそのことから始まるのも納得がいく。
続いて、本を読んだとしても、あらゆる雑誌、新聞、本、小説にいたるまで、ほとんど「私たち」、つまり「山の子供たち、年中労働にかりたてられているような子供たち」のことと関わりのない内容ばかりであることを批判している(10)。ここで注目すべきなのは、「私たちのような山の子供たち、年中労働にかりたてられているような子供たちがどんなことを勉強すればよいのか、どんなことを考えればよいのか、ちっとも書いていないじゃないか」という批判の仕方だ。これは別の見方をすれば、自分達が「どんなことを勉強すればよいのか、どんなことを考えればよいのか」という問いを佐藤が持っていたことを表わしていると思う。
その問いは「働くことが勉強だ。」という先生の発言に対する疑問、批判(12)につながっていると思う。佐藤は働くだけではなくて、「働く」ということについて考えられるだけの土台が必要だと主張するのだが、これは自分達に必要な勉強は何なのかということを語っているのだ。「どんなことを勉強すればよいのか、どんなことを考えればよいのか」という問い(10)に、「『働く』ということについて考えられるだけの土台が必要なのではないか」という意見(12)は答えとして対応している。
続いて、その働くということについての考えられる土台とはどういうものなのか、ヤミ炭の問題を例として説明している。この説明はとても自分が分かっていることと分からないことが明確で、「働くことが勉強だ」ということについては「わかっている」「わかる」「わかったのだ」(13)と繰り返している。ところがそれではなぜヤミ炭をしなきゃいけないかが分からないのだ。
「働くことが勉強」を佐藤は実際やってきたわけだが、それだけではヤミ炭の問題はどうしても分からないわけだ(14)。そこで、なぜヤミ炭をやらざるをえないのかということを、佐藤は中学校で「先生と計算」(15)したりして実際に考えているところがまっとうだと思う。
そこで佐藤はヤミ炭という問題を考えることができるような、つまり「働く」ということについて考えられる土台というのを作るために、まずは「私たち」、つまり農村の子供たちが全員毎日学校に来れるようにするべきだという意見に至る(17)。佐藤は働かされて本を読む暇さえないと言っていたが、佐藤の学級には満足に学校に来ることすら叶わない生徒がたくさんいたのだ。
ここから後は、同じように学校教育への意見が続き。最後は「こういう問題は誰が解決するんだろう」(22)という問いで終わる。そこで佐藤が立派なのは、「学校はどのくらい金がかかるものか」という別の文章で実際に学校の予算にどのくらい必要かなどを調べたことだ。その文章は『山びこ学校』に収められている。
ここまで詳しく読んできたが、どうやら矢継ぎ早に提示されている問いや意見はどうやらバラバラなものではなく、1つの連関の中のあるように思える。この文章においては、働くための土台が必要だという主張が佐藤の文章の中心としてあるように思える。
その主張は、農村の子供たちはどんなことを勉強すればよいのかという問いに対する答えであり、ヤミ炭の問題は「働くための土台」を説明する具体例であったし、学校は「土台を作る」ための手段として位置付けられているし、本を読む時間がないのも「土台を作る」ことができないことができないから批判しているのではないだろうか。本当にそこまで言えるかどうかは分からないが、この作文が何か1つのテーマのもとにあるということは確認できるのではないだろうか。大きくは「農村が貧しさから抜け出すためにはどうすればよいのか」という問いになるのだろう。

第3節 佐藤の素晴らしさ

働くことと学問

 佐藤はただ働くだけではダメで、「働くための土台」が必要だと主張し、「働くことが勉強だ」という無着の発言を批判している。ここまで強く、無着を批判しているのは佐藤の他にいない。
 また、批判の内容は当たっているのではないだろうか。炭焼きという仕事を例に挙げれば、炭を焼くこと自体は炭を実際に焼いてみて、研究はしているのだ。しかし、その炭をヤミで売らなければならない理由はやはり分からないのだ。無着と一緒に計算をし、ヤミで売らなければ原価割れすることは分かったのだが、では「なぜこういうふうに炭のねだんは原価をわり、また一方では炭が不足しているのだろう(16)」ということは分からないのだ。
 つまり、目の前の現実をただ見つめるだけではやはり分からないことはあるのではないだろうか。そこで佐藤藤三郎は学問の必要性を強く自覚していることに驚かされる。佐藤は本当に学問を必要としている。佐藤ほど強く学問への意欲を文章で表現している生徒はいない。そこまで気付けたのであれば、佐藤は学問をやらなければいけないと思う。実際に佐藤は中学卒業後、高校に進むことになる。
 佐藤はなぜ学問の必要性に気付けたのだろうか。それは1つには労働に深くかかわっていたからだろう。つまり、佐藤も他の生徒たちと同じように、家ではすでに労働者だったのだ。それだけではない。佐藤の場合、農家の跡取りとして育てられたのだ。それだけ農業に対する取り組み方も深かったのではないか。『山びこ学校』所収の「すみやき日記」という別の作文には、佐藤が父親と一緒に炭焼き用の窯を作りながら仕事を教わっていく過程が描かれている。
 山元中学を卒業して高校に進学したのは佐藤を含めて4名だった。その中で農家の跡取りとして育てられた佐藤から学問への強い意欲が生れたことには意味があるだろう。他の3名は、農家の生まれの川合義憲、村長の孫で財産家に育った横戸惣重と、教員の息子の川合貞義だ。その中でも農家の生まれでなく、経済的に余裕のある横戸と川合貞義からはそもそも差し迫った村の問題が出てこない。佐藤が強い学問への意欲を持つようになったことには、まず貧しさという問題が目の前にあり、さらに跡取りとして育てられたために貧しさに対する関わり方が強かったからではないだろうか。
 しかし、それではなぜ他の農家の跡取りから佐藤のような学問の意欲が出てこなかったのだろうか。そのことは佐藤が目の前の問題を「私たち」などといって、学級全体の問題として捉えたことと関係する。

佐藤藤三郎の立場

 なぜ佐藤は「私たち」などといって、学級全体のこととして問題を捉えたのだろうか。
佐藤は農家の生まれだ。それも跡取りとして育てられた。子どもの頃から農業従事者として働いていたが、卒業後の進路もやはり農業従事者となるわけである。そういう意味では、佐藤がヤミ炭や学校教育の問題を農村全体の問題として取り上げたのは当たり前とも言える。しかし、川合末男や江口江一にしても農家の生まれであるし、特に江口はすでに農家の一家の責任者となっていた。それではなぜ佐藤は農村全体の問題として取り上げることができたのだろうか。
 それは、経済的に佐藤の家が無着学級の中で「中よりも上」の家だったからだろう。佐藤の家は過去に女工にうられた姉が亡くなったりはしているが、一応両親も存命で働いていたし、川合や江口よりは金銭的に余裕のある家だった。もちろん山元村全体が貧しく、「中より上」の佐藤の家も貧しくはあったのだが、川合や特に江口の家と比べるとまだ余裕があったのである。特に江口の家は生きていけるかどうかギリギリの水準だったが、佐藤は高校にも進んでいる。江口などはとりあえず、自分が生きて行くことで精一杯で周りを考える余裕はほとんどなかったのだと思う。それに対して佐藤はまだ農村全体を考える余裕があったのだ。
 無着学級の卒業生42名から高校に進学したのは佐藤藤三郎、川合貞義、川合義憲、横戸惣重の4名だった。しかし、そのうち2人は山元村の一般的な農家ではなかった。祖父が村長だった横戸惣重は財産家の出身で、川合貞義は父親が教員をしていて裕福な家だったのだ。川合義憲と佐藤藤三郎は、農村である山元村の一般的だったヤミ炭のような貧しさの問題に直面していて、他方では何とか高校に行けるだけの経済的な余裕はあったのだった。佐藤が農村の貧しさを学級の生徒と共有しながら、そのリーダー的な立場に立ったのには、そういう背景があった。
 農家の中でも佐藤が学問の必要性にまで気付けたのも、経済的な余裕が関係あるだろう。例えば、江口江一に学問をやる余裕が実際にあるだろうか。実は江口にしても、作文の最後で「お母さんのように働いてもなぜゼニがたまらなかったのか、しんけんに勉強することを約束したいと思っています(無着成恭編『山びこ学校』岩波文庫、1995年、37頁)」と学問の必要に気付いてるような表現があるのだが、佐藤ほどの強さはない。また、農村全体の貧しさとまで捉えられてもいない。それは仕方ないと思う。江口はとりあえず一生懸命生きて行くだけで精一杯なのだ。その江口に学問を求めることはできないだろう。

無着と佐藤

 先に、佐藤ほど強く無着を批判している生徒はいないと述べた。それは「働くことが勉強だ」ということに対して、「働くことを考える土台」が必要だと批判したのだった。しかし、佐藤と無着が全く疎遠であるということではない。むしろ佐藤と無着の間には響き合うところがたくさんあったのだと思う。
 そもそも、無着が佐藤を級長にしたことをどう考えたらよいのだろうか。それは無着が佐藤を最も高く評価していたということではないか。また、『山びこ学校』に「学校がどのくらい金がかかるものか」という調査報告文があるが、無着はその班長も佐藤にやらせ、組織させている。他にも、学級文集「きかんしゃ」において度々編集を佐藤に任せている。この作文に佐藤が無着と一緒に炭の原価や売値の計算をやったとも書いている。無着は佐藤にかなり多くの課題を与えていたのだろう。
 先ほど、佐藤がリーダー的立場に立ったのは、農家の出身でありながら経済的に比較的余裕があったことが背景だと述べた。しかし、それだけではなく、無着が級長にしたことによって、よりリーダー的な立場、農村全体を考える視点を自覚し、「私たち」などという表現に至ったのではないだろうか。また、佐藤を級長にし、様々な課題を任せたのは、無着が意識的にリーダーを育てようとしたと考えられないだろうか。その佐藤が学問の必要性を強く自覚するまでに至ったことは、無着の意図が成功していることを意味しないだろうか。
 佐藤にしても、作文の中では無着を批判しているが、当然尊敬していたと思う。卒業式の答辞で「私たちは、はっきりいいます。私たちは、この三年間、ほんものの勉強をさせてもらったのです(無着成恭編『山びこ学校』岩波文庫、1995年、298頁)。」と述べている。また、尊敬していなければ、無着の教育に応え数々の文章を書かなかっただろう。尊敬している無着だからこそ本気で文章を書いたのではないだろうか。
 佐藤が無着を尊敬し、無着も佐藤のことを認め、級長という立場を与え、様々な課題を与え、成長を促した。特別に優れている人間はそういう中で生まれてくるのではないだろうか。教師は生徒の能力や意欲に応じた要求をしていくべきではないだろうか。もしも、無着がどの生徒にも一律に同じ課題を与えるなどということをしていたら、佐藤はここまで成長できなかったのではないだろうか。

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