12月 12
10月11日(日)、高校作文教育研究会10月例会が行われた。
シリーズ:「聞き書き」を学び合う 第6回
報告は以下の2つ
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(1) 「聞き書き」を書かせて34年
茨城キリスト教学園高校 程塚英雄
私の聞き書き指導の始まりは1975年の正月の頃だったから、もう34年も前のことになる。それから私の作文指導の柱の一つはいつも聞き書きだった。それは、茨城県立太田第一高校の記念誌『益習の百年』を見ていただけば一目瞭然なので、当日そのコピーを持参する。また、私の聞き書き指導の出発点となった当時の教科書『現代国語1?3』(筑摩書房)、生徒の聞き書き作品の載った『読書のすすめ』6?29号(太田一高図書館)、学年全員文集『わたしたちの作文教室』昭和57?平6(太田一高)のうちの何点かをお日にかけたい。さらに昨年の文集『国語演習通信』もご覧いただいて、皆さんの感想をお聞かせいただけたらと考えている。
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(2)祖父母の叙事詩 ?祖父母の人生を作品として残す?
長野県立 諏訪清陵高等学校 石城 正志
この実践を一言でいえば、生まれてから今日までの人生を祖父母から聞き出し、それを詩にするということだ。話を聞く相手は祖父母であって、父母でもそれ以外の誰かでもない。聞き取った内容は叙事詩(人生の物語詩)として作品化するのであり、散文の記録として残すのではない。これがこの実践の肝であり全てである。
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程塚さんの報告は、「自分史」の報告だった。
?表現指導全体の中での、聞き書きの位置づけ
?聞き書き内部の問題(目的、方法、文体など)
?歴史。程塚さんが影響を受けた教科書教材、1974年に筑摩の『現代国語』で取り上げられた丸尾寿郎氏や小沢俊郎氏たちが都立豊多摩高校で行った実践
?では、「歴史から学ばない者はバカである」ことを思った。
石城さんの実践では、叙事詩で書かせる意味について議論があった。
なぜ、ルポやインタビューのように書かせず、文学的に創作的に詩で書くのか。他にも創作手法には、1人称の「一人語り」、3人称で「小説」のように書かせる方法がある。
ここでは、2つの大きな論点がある。
?事実か想像か
対象との一体化、相手への感情移入による理解が進む面があるが、
事実の押さえが弱くなり、勝手な思いこみがはびこることはないか。
?相手の意見と、自分の意見の区別
相手との一体化は、自他の区別を曖昧にし、相違や対立を曖昧にしないか。
書き手の自分自身の思いや考えをどう表現するか
これは聞き書きの教育目的をどう考えるかにも関係する。
こうした論点について、茨木のり子の「りゅうりぇんれんの物語」を読んで考えた。
これは長くなったので、数回に分けて発表する。
12月 12
「聞き書き」における文体の選択についての私見を述べます。この文体の選択は、聞き書きに限らず、文章一般における大きな問題です。取材したことをレポート、ルポ、小説などで表現するときに、文体をどう使い分けするのでしょうか。
この問題は重要であるにもかかわらず、教育現場でも自覚的な指導はなされておらず、研究者の間でも、ほとんど研究されていないようです。みなさんは考えたことがありますか。
なお、以下の私見は、現在『月刊 国語教育』誌に連載中の聞き書きの討議を踏まえて行った座談会での発言です。分かりにくい点は無視して、私見の骨子をとらえてください。
◇◆ 「聞き書き」における文体の選択について ◆◇
聞き書きというのは、普通何を意味するかというと自伝だと思います。本人が語った人生を他者が文章化したもので、『マルコムX』や矢沢永吉の『成りあがり』が有名です。つまり、本人の人生経験が一人称でまとめられたものを指すのです。ただここでは、教育としての聞き書きを考えているので、文献調査したり、現場に行ったり、現場の経験者の話を聞いたりするようなことも含めて、広い意味で考えています。
聞き書きの文体ですが、これはふたつに分けられます。書き手が残されるものと、書き手が完全に消えるものです。書き手を残すというのは、問いと答えをそのまま残すインタビューの形や、書き手の観点が最初から最後まで貫かれるルポのような形になると思います。書き手を消す時には、一人称が普通ですが、三人称で書く方法もあります。
次に、取材対象の面ですが、ここでも大きくは二つに分けられます。一つは問題そのもの、事柄そのものを聞くことが中心となるものです。事実やデータであったり、それを基にした意見や主張を聞くものです。もうひとつは、問題に関わった語り手自身の人生や経験を中心に聞くものです。
ではこうした対象と文体を、一般にはどう結びつけているでしょうか。事柄や問題点を中心に書く場合には、書き手を残すのが普通です。社会科や理科のレポートや論文の書き方です。対象を客観的にとらえようとします。
一方、人生ドラマを前面に出す場合は、書き手を消す文体が選択されるようです。藤本実践や小野田実践では、一人称や三人称で、小説や物語風に書かせています。これはいわゆる「文学」的手法で、書き手が対象と一体化することをうながします。
この場合は、前者のレポートやルポでは、要約が中心になり、後者では描写が中心になってきます。意見や主張が問われるところでは、要約しなければまとまらないですが、人間ドラマでは、要約すると大事な要素が消えてしまいます。
さて、以上は、現在の教育現場での一般的な考えだと思います。事柄中心に書かせるのが社会や理科のレポートで、人間ドラマを書かせるのが国語科だと思われているのです。しかし、ここには大きな間違いがあると思うのです。第1に、人間ドラマと事実は切り離せません。人間ドラマを書かせる場合でも、事実や問題そのものもきちんと取り上げるべきだし、社会や理科のレポートでも、そこに関わった人の人生経験も書かせるべきです。
第2に、人生ドラマは、書き手を消す文学的文体だけではなく、書き手が残されるルポやインタビュー形式でも十分に表現できます。そこでの違いとは、何を教育目標とするかの違いなのです。
ここで忘れてならないのは、表現において、「対象理解」と「自己理解」は切り離せず、高校生にとっては常に「自己理解」を起点とし、また最終目的としなければならないということです。「対象理解」としては、事柄も人間ドラマも、しっかりととらえさせたいと思います。そして、その「対象理解」から、「自己理解」を一層深めなければなりません。つまり、自分は聞き書きを通してどういうふうに考えが変わったか、影響を受けたかをきちっと書かせることが重要です。そのために必要な文体と構成を考えなければならないとうことです。
こうした考えから、僕は、書き手が残される文体を基本にするように、高校生には薦めています。教育の場で行われる調べ学習や聞き書きにおいて、自分が消えてしまっては困るからです。
しかしこれは、書き手が消える文体を否定するものではありません。対象を深く理解するには、感情移入も必要です。その場合は、その前後に書き手を表せるような他の文体が必要になると思うのです。社会科のレポートでもそうですが、最初に、人物やテーマを選んだ動機を書かせたり、最後に聞き書きを通して考えたことを書かせることが非常に重要です。林実践ではそれを書かせています。藤本実践は一人語りの文体ですが、初めに語り手の略歴(事実)を説明の文体で入れ、最後に、「聞き書きを終えて」という書き手を語る作文を書かせている。要するに、三つの文体を使っています。このように構成と文体を意識して、しかも選択的に使わせるという指導をするのが国語科の役割ではないか。そんなことを考えてみたのですが、読者のみなさんは、どう考えますか。
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12月 09
12月4日
静嘉堂文庫美術館で「筆墨の美―水墨画展 第2部 山水・人物・花鳥」、松濤美術館で「没後90年 村山槐多(むらやまかいた) ガランスの悦楽」を見た。22歳で夭折した天才だ。
HPによれば、前者は「墨のぼかしやにじみ、筆線の抑揚などを生かして描く水墨画。『墨色を用いて五彩を兼ぬるがごとし』といわれるように、墨の微妙な濃淡のなかにさまざまな色の世界が想起されます。一方、著色画と違って色彩がない、あるいは少ない分、明暗や奥行き、大気や水の表現にすぐれ、とりわけ早朝や夕暮れ、月下や雨中・雪中などの景色を実感ゆたかにあらわします。生動感あふれる筆線の絵、丹念な運筆の跡に画家の思いがこめられた絵など、一枚一枚の水墨画が多様な筆墨によって作られています。
本展では、このような筆墨の表現効果に着目しながら水墨画の魅力を探っていきます。会期を二つに分け、前期には中国・南宋以来の山水画の系譜と室町時代の水墨画、後期には明時代の山水画や花鳥画、江戸時代の文人画家の作品を中心に展示します。本展を通じ、水墨画を楽しむ新たな視点を見つけていただければ幸いです」とある。
「牧谿 羅漢図 南宋時」も良いが、私は、「鈴木芙蓉 那智大瀑雨景図」と「酒井抱一 波図屏風」を堪能した。
後者は「 22歳で逝った夭折の天才画家・村山槐多(1896年?1919年)の油彩、水彩、デッサン、詩歌原稿、書簡など約150点を回顧し、早熟で多感な青年であった槐多の、詩と絵画に駆け抜けた生涯とその世界観をあますところなく、紹介します」とHPにある。
おどろおどろしいのも面白いが、房州旅行の風景を描いた小品が心に染みた。
12月 09
東京国立博物館の「皇室の名宝―日本美の華」の前期と後期をそれぞれ見た。
前期は伊藤若冲の「動植綵絵三十幅」が見たいので行った。10月23日、金曜の晩だが、混んでいた。
伊藤の画風は、水墨画風で一筆書きのようなシンプルなものや点描のような風景画、色彩の鮮やかなもの、細密画などと幅広い。
「動植綵絵三十幅」は色彩の鮮やかな細密画だ。見ていると頭がくらくらしてくる。浪や、雪が鮮やかだ。その細やかさはアウトサイダーアートの一部と同じ質を感じたし、以前はやったサイケデリック風の印象ももった。「ナウイ」のである。
後期は11月28日に行った。「春日権現験記絵」や「蒙古襲来絵詞」を見たが、これもすごい混み方だった。春日神社に11月の初旬に奈良の正倉院展を見た日によったので、親近感があった。正倉院宝物は、奈良と同じだった。
教科書で良く知っている「聖徳太子像」など、懐かしい物が多かった。
12月 03
11月28日に東京都美術館で「冷泉家 王朝の和歌守(うたもり)展」を見た。
藤原定家の肖像画が面白かった。プライドの高い、繊細で偏屈で狷介で嫌な奴だったろうな、と思っていたが、その通りの顔だった。
日本の古典を再編集したことや、歌の家を作ろうとした(家元制度の創始者)こと。それが気になる。
冷泉家の現在の当主が、外婿として冷泉家の当主になったものの当惑し、文化の保存の役割に徹すると腹が据わるまでに時間が必要だったことを書いていた。こうした「家制度」について考え込む。
定家の「明月記」が展示されていて、読みたくなった。幸い、作家の堀田善衛が『定家明月記私抄』 (ちくま学芸文庫 正続) を出している。早速読んでみた。
アマゾンには「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ―源平争闘し、群盗放火横行し、天変地異また頻発した、平安末期から鎌倉初期の大動乱の世に、妖艶な「夢の浮橋」を架けた藤原定家。彼の五十六年にわたる、難解にして厖大な漢文日記『明月記』をしなやかに読み解き、美の使徒定家を、乱世に生きる二流貴族としての苦渋に満ちた実生活者像と重ねてとらえつつ、この転換期の時代の異様な風貌を浮彫りにする名著」と紹介されている。
定家が「プライドの高い、繊細で偏屈で狷介で嫌な奴」だったことが確認されたが、かなりタフであることに驚いた。
彼は官吏としての出世になりふりかまわず、60歳になっても猟官運動に精を出す。男女関係は錯綜し、定家にも30人近い子どもがいる。それは当時にあってはごく普通のことだった。そして彼は10代から70代までに詳細な日記を書き続ける。これは決して普通ではない。
俗の俗にあった定家にも感心したが、この本の著者にも感心した。政治と文化の実相、西洋と日本の幅広い領域を視野に入れた堀田善衛の冷徹な目が行き届いている。
宮廷文化が没落していく中で、サブカルチャーが従来のカルチャーを圧倒していく。和歌を、そして自らを守るために家元制を構想するしかなかったこと。当時の宮中、後鳥羽院の人々、京都の治安の悪さ、鎌倉幕府との関係、官吏としての日常。
定家のため息、つぶやき、うめきまでが伝わるような本だ。