1月 18

昨年12月29日には、ゼミ生と1年の振り返りをしましたが、
 そこで話したことをまとめました。

———————————————————–

人が行動することは、自分が何者かを明らかにする 

     — 「概念の生成史」と「概念の展開史」 — 

 「意識(人)が行動しなければならないのは、自分の潜在的な姿を
意識の対象にするためでしかない。意識は自分の行動の結果としての現実から
自分の潜在的な姿を知るのである。したがって個人が行為を通して
現実にもたらされるまでは、個人は自分の何たるかを知ることはできないのである」

(『精神現象学』第5章理性論、第3節「絶対的に実在的だと自覚している個人」。
  牧野紀之訳、未知谷版574ページより)。

 これはヘーゲルの発展観そのものの表現だと思う。そしてヘーゲルの発展観を
理解するには、「概念の生成史」と「概念の展開史」の関係を考えねばならない。
ヘーゲルは、そのものが何なのか(その本質、すなわちその生成史)は、
そのものの生成後の自己展開で明らかになると言う。つまり、その展開史で
その生成史の意味が明らかになるのだ(『精神現象学』の序論にある。
鶏鳴会通信107号を参照されたし)。これは「類」の進化において言われるが、
それはそのまま類の中の個別における成長過程でも言えることだ
(これが『精神現象学』の大きな枠組み)。

 私たち人間は、いつもそれまでの人生を背負って生きている。
ある年齢に達して、今、新たなことに挑戦するときに、
過去がそれに大きな影響を与えていることは明らかだ。
その過去は当然意識されており、その振り返りの上で、
未来への決断・選択が行われると考えられている。
過去は記憶されており、自分史として把握できる。
しかし、そうだろうか。記憶から消された過去も多い。
否、大切な過去ほど、意識の奥深くにしまい込まれているのではないのか。

 ゼミ生に、以下のようなことが起こった

 ある人Aは、私との師弟契約をすることを真剣に考え始めていた。
そのきっかけとしては、それまでの生き方の反省がある。
他人任せで、世間の基準を無自覚に自分の基準としてきたこと。
そして、私と師弟契約をする決断をする際に、忘れていた記憶が
呼び戻されてきた。

 それは、その人には以前にも先生というべき人がいたことだった。
本人はすっかり忘れていたが、整体の指導者を事実上の師としていた。
その師のまわりには弟子の集団があって、その中の一員だった。
そして、その師との辛い別れがあった。その師に、あることから
厳しい叱責を受け、不本意ながらも関係は終わった。
その師弟関係が失われたことは大きなショックであり、とても辛いことだった。
当時、その師は、悩みの相談相手であり、いつも親身にこたえてくれた。
その人は、人生の行き先を照らしてくれる大きな燈明だった。
そうしたことがすっかり思い出されてきた。

 それらの記憶は大切なことだったはずだが、すっかり忘れていたのだった。
そして、その記憶が浮かび上がってきたときには、それはただ辛く
受け止めがたい記憶ではなくなっていた。その師や弟子集団の問題が
おぼろげに見えていたのだ。そうした相対化の視点は、
私を師とすることで与えられたのではないだろうか。
そして、そうした視点がない限り、その記憶は、
心の奥深くにしまい込まれたままだっただろう。

 また、別の人Bには、それまで仕事上の先輩で信頼し尊敬している人がいた。
その人の考え方、仕事の進め方などを、必死で学んできた。
そして、確実にその成果も出て、仕事上でも順調に進んだ。
しかし、次第に、その先輩の不十分な点にも気づくようになり、
生き方や考え方に大きな欠落があることにも気づくようになっていた。
しかし、そうした不満や疑問を口にすることはなかった。

 私は、そうした関係は、その大切な先輩に対して誠実な態度とは
言えないのではないか、と注意をした。そこから、改めて、その先輩を
きちんと批判することを決意するようになる。その時に、
すっかり忘れていた親友とのことが思い出されてきたのだ。

 大学生の時にその親友とは同じクラブを運営する立場として、
互いに批判しあい、支え合っていた。最初は相手が上だった、
しかし、いつしか相手との関係が逆転し、就職後は、相手を
見下すようになっていた。それでも「親友」としての
いつわりの関係は続けてきていた。

 そのことが急に思い出されてくる。そして、そのいつわりの関係を
清算しないではいられない、強い思いがこみ上げてくる。

 こうしたことを見ていると、ヘーゲルの言っていたことの意味が
わかるように思うのだ。

 「行動」「行為」とは、それまでの生き方に一線を画するだけの
ものでなければならない。

 そうした決断の際に、その時点では潜在的だった自分の正体が
はっきりと現れてくる。自分とはもちろん過去の人生によって
作り上げられてきたものだから、現れてきた潜在的本質にも、
それに対応する過去があるのだ。

 Bさんについて、ゼミでは「なぜ精算する必要があるのか」
「親友ではなかったとか、いつわりの関係だったとか、
わざわざ言う必要はないのではないか」といった意見も出た。
しかし、そうした過去を清算しないと、私たちは前には
進めないのではないだろうか。過去が私たちをとらえ、
前に進めなくしているのではないか。

 精算とは、その親友を切り捨てたり、過去の自分を切り捨てる
ということではないと思う。その失われていた過去を呼び戻し、
その意味づけを変えることなのではないだろうか。
私たちは過去を切り捨てることはできない。
すべてを背負って生きるしかない。
できることは、その個々の経験の全体における位置づけをかえ、
より高いレベルで生き直すための、一歩を進めることだけだろう。

 そうした過去の清算ができない限り、それまでの延長線上の生き方、
同レベルの生き方しかできず、発展は不可能なのだろう。
逆に言えば、それまでのレベルを乗り越えて生きていく中で、
過去の一つ一つの経験の意味が、より深いレベルで明らかになる。
一歩前に進むたびに、1つ上のレベルで経験の意味を捉え返し続ける。
それを繰り返していくことで、過去の全体が構造化され、
その意味が透明なすがたとして現れてくる。

 これがヘーゲルの「展開史でその生成史が明らかになる」の
 意味なのではないか。

 これを世間で言われていることを比較してみよう。
世間でも「過去を反省せよ」とか「過去の振り返りをせよ」とか言われる。
それによって、今の選択についてどうしたら良いかわかるし、
未来の方向付けもできる、と言うのだ。

 ここにないのは、「生成史」とは別の「展開史」という考えであり、
この両者を統一的にとらえる観点なのだ。だから「反省しなさい」や
「過去の総括文」には無意味なことも多い。
むしろ、嘘を書かせるだけなので、有害なことの方が圧倒的に多いのだ。

 また、過去に執着して前に進めない人が多数存在していることを
どう考えるか。実際には、過去にこだわり、生い立ちにこだわっている人で、
前に進めないでいる人が多い。「過去の反省」は、
こうした人に対しては無力なのではないか。

 人が前に進むときにだけ、意識の奥底に隠してきた過去の記憶が
浮かび上がってくる。前に進むことなく、過去をとらえようとしても
無理なのではないか。

 「大切なことほど意識の奥底に隠されている」と言えば、
すぐに「精神分析」を思い出す人もいるだろう。
そこでは様々な手法によって記憶を探り出し、新たな視点から
過去の人生の全体を捉え直そうとする。しかし、この「新たな視点」は誰が、
どのように与えるのだろうか。そうした曖昧さや危険性に反対する立場からは、
他の手法がさまざまに提案されている。

 しかし、いずれにしても、大切なのは「生成史」と「展開史」の
両方の視点であり、この両者を統一的にとらえる観点なのだと思う。
そして、人が先に進むためには、これらについての認識の深まりが必要である。
そしてそのためには認識能力の高まりが必要であり、その能力を高める過程と
その保障が必要になるだろう。その回答が「先生を選べ」であることは、
すでに繰り返し述べてきた。

1月 16

昨年12月29日には、ゼミ生と1年の振り返りをしましたが、
 そこで話したことをまとめました。

「謙虚」と「傲慢」 

 すぐにあやまる人がいる。すぐに反省を口にする人がいる。
しかし、こうした人をよく観察すると、本当に反省しているわけではなく、
問題点の改善はされていないことがわかる。謝りながら、実は問題を
スルーしてごまかし、ただ流しているだけなのだ。

 私は、こうした人たちの反省や謝罪に、とても軽薄な印象を受ける。
そこに「間」がないからだ。人は、気付かなかった事実や批判を
受け止めるには、少しばかりの時間が必要だろう。その批判が
核心を突いている時は、しばし沈黙するのが普通なのではないか。
そうした間もなく、すぐに謝り、すぐに反省の言葉を出すのは、
問題をきちんと受け止めようとしていないからだろう。
その結果、同じ過ちを繰り返し、同じ反省をし続ける。

 こうした人は実に多い。こうした人は、一見「謙虚」そうだが、
実際はとても「傲慢」なのだと思う。

 他方で、いつも自己卑下をする人がいる。
いつも自信無げでおどおどしている人がいる。

 こうした人たちも、普通は「謙虚な人」と言われる。
しかし、こういう人もまた、実はとても「傲慢」なのだと思うようになった。

 こんなことがあった。ある人はいつも自信がなく、
自分はきちんとしていない、普通の人ができることができない、
ダメな人間だなどと言っていた。しかし、ある日、見かねて
カウンセラーに行くことを薦めると、「自分が行くのは大げさなのでは
ないかという気がする。私の状態はそんなに深刻ではない」と言うのだ。
この時に、初めて、この人の傲慢さが見えた。

 こうした人は、いつも自信がなく、他人と比べて自分を責めて、
おどおどしているように見えるが、他方では、すごく傲慢で、
他人と比べて、自分はそれほどひどくはないと、安心してもいるのだ。
「きちんとした社会人」ではないが、「きちんとした病人」ではない。

 この「きちんとした」が問題だ。
その判断の基準は、他者や世間や親の基準でしかないからだ。
こういう人は、世間の基準を鵜呑みにし、疑うこともなく、
それに従って生きている。それが自分の実感に合わなかったり、
変だと感じることもあるはずだが、自分独自の基準を作るまでには至らなかった。
世間の基準に従っている方が楽だからであり、それに対立しながら、
自分自身の基準を作ることははるかに厳しく難しいことだからだ。

 その結果、すべてをこうした世間の基準、枠組みから、見ることになる。
しかし、それは自分自身の実感や、心の動きを抑圧することにもなる。
その結果は、ノイローゼであり、心の病に至るだろう。
いつも自信がなく、おどおどするのは当たり前なのだ。

 こういう人は、自分の実感、自分のハートの声に耳傾けることがなくなっていく。
しかし、それを生きていると言えるだろうか。生きる実感とは、
自分の五感に責任を持つことから始まるだろう。
それを放棄してしまえば、あとは自動人形になるのではないか。

 それは人生に対して、自分に対して、他者に対して、生命に対して、
限りなく傲慢で、不遜で、不誠実なことではないだろうか。

1月 14

ベン・シャーン展を見てきました。彼の絵の出自と生成史、その展開史を見せつけられた印象が深かったです。
それを、彼自身の言葉でも確認したいので、『ある絵の伝記』を1月の読書会テキストにします。

———————————————————–

◇◆ ベン・シャーンの絵の生成史と展開史  ◆◇

ベン・シャーン展をみてきた。とても心動かされた。

前から関心を持ち、彼の画集をながめていた。心に染みてきて、私の体の内側から静かに力が満ちてきて、背筋をグンとのばしてくれる。

有名な《ラッキードラゴン》 1960年 テンペラ・綿布
は、日本の漁船がアメリカの水爆実験に巻き込まれ放射能被曝をした第五福竜丸(ラッキードラゴン)事件を題材にしたもの。
そうした社会派の側面を強く持ちながら、
リルケの「マルテの手記」の1節を版画集にしているような側面もある。これがいい。

『版画集:リルケ「マルテの手記」より:一行の詩のためには…』はどうしても実物が見たく、大川美術館まで行き、鎌倉の近代美術館にも行った。

今回は、彼の絵がどのような形で生まれてくるかを解き明かすような展覧会になっている。絵の出自、絵の生成史と、その展開史が一緒に展示されている。

その意味でも、興味が尽きなかった。

ベン・シャーン展については、以下を参照のこと。1月29日まで

神奈川県立近代美術館 葉山
〒240-0111
神奈川県三浦郡葉山町一色2208-1
電話:046-875-2800(代表)
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2011/benshahn/index.html

———————————————————–

◇◆ 1月の読書会とテキスト ◆◇

ベン・シャーン展で、彼の絵の出自、絵の生成史と、その展開史の展示を見て帰ってから、今度は、彼自身の言葉でそれを述べている『ある絵の伝記』(美術出版社)を読みたくなった。

数年前に「マルテの手記」の版画集を見た際に、一度読んでいたのだが、今回は実際に実物でその軌跡を確認した上で読んだので、印象が深かった。そして、ヘーゲルの発展観、人間の意識の内的二分と、きわめて近い考えが展開されていることに感銘を受けた。

そこで、東日本大震災シリーズを1回お休みして、『ある絵の伝記』を1月の読書会では取り上げる。

(1)日時 1月28日(土曜日)午後4時から6時まで  
  ※ただし、日時に変更の可能性があるので、必ず確認してください。

(2)テキスト
ベン・シャーン『ある絵の伝記』(美術出版社)
 その中の特に、「ある絵の伝記」

1月 13

1月10日発売の雑誌『中央公論』の2月号に

東北大、福島大、岩手大の、震災後の復興支援活動と、法人化の関係を書いた。

久しぶりの原稿だったことと、震災、津波や原発事故という大きな課題に向き合ったこととで、取材中も書きあげるまでも大変だった。

取材中は、震災への対応や原発について考え、普段見えなかった私たちの社会の課題を考え続けた。

拙稿では、紙数の関係で、詳しくは述べられなかったが、
6月に、新書の形で、詳しく私見を発表するつもりだ。

1月 05

愛犬を看取る

 私の愛犬が死にました。名前はモモ、雑種のメスで12歳でした。生まれてまもない子犬を1匹もらってきたのです。白地で、背中に茶色の島模様が3つあり、とてもかわいかったのを覚えています。中型犬になりましたが、洋犬(おそらくグレーハウンド系)と和犬の雑種のようで、胸は外側に大きなカーブを描き、お腹がキュッとくびれ、鼻は長く、瞳が青色なのがきれいでした。一方、背中に乗っかる太めのしっぽはクルッとまるまり和犬であることを示しています。人懐っこく、散歩に連れて行くと、犬好きな人を見つけては甘えるのが上手で愛嬌がありました。妻の背中におぶさるのが好きで、周囲の人が驚いていました。

 この12年間は、犬とともに生きることの幸せをかみしめる日々でした。私は犬を観察しては、動物と人間の違いを考え続けました。自己意識の有無の意味、それ以外では、動物と人間にはほとんど違いがないこと。犬は自己意識がなくバカですが、それゆえに、私たち人間にとっての癒しの対象であること。

 犬の散歩で近くの公園を毎日散歩するようになり、犬を連れた方々と友達になりました。こうした「犬仲間」という付き合い方があることも知りました。犬を媒介に、人と人とがつながっているので、主役は犬です。そして、その中には、実に立派な犬がいました。雑種ですが、凛として自立しており、静かで近寄りがたい風格がありました。不思議な存在感に圧倒されました。それに対して、わがモモはごく普通のバカ犬です。しかし、それでも大切なパートナーで、なくてはならない友であり、わが子であり、わが娘のようでもありました。

 年に数回、犬猫病院で見てもらうのですが、5、6歳の時に内臓の調子がよくないと言われました。しかし、幸いにも特段のことは起こらず、10歳をすぎました。鼻先の黒かった毛が白くなってきて、だんだんと老化が見えてきます。12歳になった昨年の9月のおわり頃、散歩のときの様子がおかしく、なかなか歩こうとせず、うずくまるようにしました。病院で診てもらうと、膵臓に腫瘍(癌でしょう)があり腹内出血しているとのことで、手術の可能性も言われました。しかし、危険だとも言われ、手術はせず薬で処置する選択をしました。
 それからは、あと何日か、という思いで見守りました。しかし、回復の気配もあり、散歩の際も普通に歩ける日々もありました。そして、2週間が過ぎた10月15日に亡くなりました。私が東北の被災地に取材に出ていて、5,6日ぶりに深夜帰宅し、翌朝、妻といつものように近くの公園に散歩に出ました。その時は、ずいぶんとしっかりと歩き、これはまだ数カ月頑張れるのではと思われました。
 しかし、昼ごろから、急に様子が変になり、足元がふらついたり、庭で苦しんでいたりしたようです。私は自室で仕事をしていたのですが、妻に「様子が変だから来て」と呼ばれました。
 いってみると、横たわっているのですが、長い舌をだらりと出し、息も弱々しく苦しげです。妻と二男が傍で見守っています。私は背中や頭を何度もなでさすりましたが、何となくこのまま死んでいくことがわかりました。私も横になり顔を近づけ、モモの眼と眼があうようにして、その青い瞳を見ました。光が弱まっていくように感じます。「ありがとう。お前との12年は楽しかった。本当にありがとうな」と話しかけました。
 呼吸が止まったのがわかり、「死んだよ」と言いました。二男はしばらくなでさすっていました。まだまだ温かく、死んだようには思えないのです。妻はまぶたを閉じさせ、そのまま抱き上げて、しばらくそうしていました。3者3様ですが、「看取る」とはこういうことなのだと、思いました。

 私は翌日早朝にまた東北に行くことになっていました。そうすると、モモは私の帰宅に合わせて亡くなったことになります。「私を待っていてくれた」。妻はただの偶然だと笑いますが、私にはそうは思えません。
(2012年1月3日)