9月 06

2019年の夏の学習会の報告をします。

毎年、八ヶ岳のふもとの清里で3泊4日の合宿を行ってきました。
今年は諸事情により、合宿は中止にし、8月22日から25日の4日間、東京の鶏鳴学園、またウェブによって中井ゼミを集中的に行いました。
事前に2回ウェブでの打ち合わせや自己紹介、現実と闘う時間などもありました。

前半の2日間はヘーゲルの原書購読。小論理学の本質論の112節から122節の本文と注釈(付録部分は適宜選択)を読みました。

後半の2日間は日本語訳で以下の3つのテキストを読みました。
(1)エンゲルス 「サルの人間化における労働の役割」
(2)マルクス「労働過程論」
(3)ヘーゲル「目的論」
 また、現実と闘う時間(各自の活動や学習の報告と検討会)を適宜入れました。

参加者は前半から通しての参加が4人、後半だけの参加が4人、合わせて8人の参加がありました。新たに参加した男子が3人いました。

私はゼミの10日ほど前から予習を開始し、直近の5日ほどは、終日テキスト読解に集中しました。
成果はあったと思います。
私の目的は、ヘーゲル哲学を踏まえた私自身の世界観を書く原稿を完成させるための、いくつかの論点について確認することです。それはできたと思います。

前半の2日間の目的は、本質論における存在の運動とは何か、そこで明らかになる本質とは何か、どうすれば認識は深まるのかについて、ヘーゲルの考えを確認することでした。
本質論の最初に置かれる、同一、区別、根拠の展開の意味、本質論の前に置かれた存在論は何なのか、そこで示される根拠とは本質一般のことだが、
その後、現象論と現実性論で展開される本質とどう関係し、概念とどう関係するのか。本質論が、関係の論理とされることはどういう意味か。
これらを確認することが目的でした。それは達成できたと思います。

後半では日本語訳で、エンゲルス、マルクス、ヘーゲルのそれぞれの労働論を読みましたが、それは以下を確認するためでした。
労働とは何か、労働はどう発生し、どう人間を変えてきたのか。唯物史観はその過程のどこでどう説明されるか、特にその社会変革の必然性はどこにどう位置づけられているのか。
これらの論点について、ヘーゲル、マルクス、エンゲルスはどう考えていたのか。
これらはほぼ、確認できました。

良い夏休みでした。

参加者から4人の感想を掲載します。根本さんは初めて参加した方です。

■ 目次 ■

1.ゼミで得た三つの学び  根本 梓
2.私が、逃げてきたこと  小堀 陽子
3.欲求全開  高松 慶 
4.10年目のゼミ  田中 由美子

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◇◆ 1.ゼミで得た三つの学び  根本 梓 ◆◇
                          
・はじめに

 今回夏の集中ゼミに参加し、多くの学びがあった。些細な気づきも挙げればきりがない。それだけの収穫があったと感じている。数日経って振り返り、大きく三つの学びを文章の形で残したい。
それは「テクストを読む悦び」「内容を表現する形式の重要性」「世界解釈の試み」である。以下、三つの項目順に沿って感想を述べていく。

・テクストを読む悦び

 参加前の予習からゼミ終了までを通じ、第一に抱いた素朴な感情がこれであった。やはりテクストを読むことは愉しい。密度があり、安易な読解を許さないテクストと向き合うのは久々だった。
テクストと睨めっこする機会が乏しくなっていたからだろう。

 特にヘーゲルは良かった。読みにくさがたまらなかった。たったの数行数語のうちに油断ならぬ思考と論理が詰まっていた。読解に難渋するテクストだからこそ、魅力がある。
テクストには、書いた人間の息づかいがある。書く人間の思考のクセが現れる。簡素に洗練された名文も良いが、理解にあたって努力を強制する難文の方が読みごたえがある。
より書き手の思考を想像しなくてはならないからだ。読者としては筆者にどこまで付き合いきれるか試されるわけで、時には同化をも要求される。しかし個性の強い難文は、あくまで遠く離れた他者である。

 険しい岩山のような難所をいくつもくぐりぬけた時、ようやく理解の兆しが見える。その瞬間はうれしい。とはいえ、私は読み手であって書き手ではない。
新しく疑問も生まれる。そのやりとり、対立、対話こそが面白い。手強い他者、ヘーゲルは紛れもなくその一人だった。

 ヘーゲルのテクストは動態的だった。思考の運動が、そのまま形になっているような文である。読む私も彼に合わせて動いていかなければならなかった。
しかし一朝一夕で追えるような動きではない。何度も同じパラグラフやセンテンスを読み直した。読み終えると、脳が汗をかくような感覚があった。頭が痛くなった。
それだけ思考の運動量を要求するのがヘーゲルなのだろう。

 私はこれまで哲学書や思想書の類を読んできた人間ではない。だが哲学は、「哲学」であってはいけないと考えている。
哲学は名詞ではなく、動詞であるべきだ。「ある」ものではなく、「する」はずだ。その意味でヘーゲルのテクストは、すぐれて哲学であった。

・内容を表現する形式の重要性

 芥川龍之介は「芸術その他」において、「作品の内容とは、必然的に形式と一つになった内容だ」と述べる。
表現に相対するとき、また自身が何かを表現するとき、私は必ずこの言葉を思い出すようにしている。形式と内容とが必然的に一体か。
それは芸術に限らず、思想の体系においても重要であろう。

 今回のゼミでは、エンゲルスとマルクスのテクスト構成に問題があるとの指摘があった。その上で、どのような構成にするべきかを考える時間もあった。
これには読み手の視点だけでなく、書き手としての視点も必要だ。それがとても面白かった。読むことはやはり、書くことに繋がるのだと再認識した。

 しかしヘーゲルは形式の点でも恐ろしかった。テクスト自体が思考そのものだったからだ。止揚の三角の角のひとつひとつに、また止揚の三角がある。
それが連鎖していく。彼の思考は、無限の三角によって幾何学的に絵画化もしくは立体造形化できるだろう。
それは優れた体系の証拠であり、また優れた体系は美しいものでもあると感じた。

・世界解釈の試み

 今回エンゲルス・マルクス・ヘーゲルの三者のテクストを読んだ。各々に立場の違いもあり、それに応じた瑕疵もあろう。
しかし一点、あえてその思想上の差異を放擲するという暴挙を犯してでも、表したい敬意がある。彼らの情熱に対する敬意である。

 彼らの労作には、自らの視点と思想から世界を解釈し、働きかけをしようという情熱があった。
人間とは何か、社会とは何か、世界とは何か、それらを考え、語ろうとする労苦は並大抵のことではない。正気か狂気か、はたまたその先にあるものか。

 自覚的に「生きる」ということは、世界に相対する気概と覚悟を持つことであろう。ただ生きるのでは飽き足らない精神が彼らにはあった。
エンゲルスはサルの人間化を語り、マルクスは労働過程から人間の営みを語り、ヘーゲルは理念までの無限の道程を語る。
人間というものは、自己を語るために世界まで語らなければいけない存在かもしれない。自覚的な生は、物語にならざるを得ないからである。

◇◆ 2.私が、逃げてきたこと    小堀 陽子 ◆◇

 集中ゼミに4日間参加した。自分の中に残ったことを2つ書く。 

1.現実を直視できない

 相手と対立したくないから、自分が間違っていたと反省して相手との違いをなくすように自分が動く。これは自分を深める行為ではなく、ごまかす行為だ。
今までずっと、あらゆる場面で、私はやり続けてきたのだと思う。
 
ある出来事について何か思う。この思いを伝えたい。相手に話をする。けれどその時、私は自分が思ったことを言葉にしないで、出来事の再現で話が終わってしまう。
なぜか。それは、その出来事を再現して相手と共有することが、そのまま自分の思いを伝えることになると思っていたからではないか。
自分の思いを言葉にすることで生まれるかもしれない、相手との対立を無意識に避けてきた。
 
 けれど、そこに無理があった。同じ出来事を体験した時、私の意識を通して出てくるものと、相手の意識を通して出てくるものは同じではない。
だから、私の思いは私が言葉にしなければならない。そして相手と違いがあっとき、その違いをはっきりさせることで、
自分の思いを自分に対してもっとはっきさせることができる。そこを私はさぼってきたのだ。
 
 集中ゼミ3日目、現実と闘う時間。自分が利用している福祉サービスについて、制度がわからないまま放っている点を指摘された。自分の思いを言葉にしないことと同じだと思った。つまり目の前の現実を直視できないということ。
 集中ゼミのあと、制度を調べ始めて手がとまった。頭もとまった。なぜ止まるのか。制度を知ることは金の出所と流れを知ること。金を私が直視できないということ。

2.頭が真っ白になる、組織の一員という自覚がない

 集中ゼミ2日目、ヘーゲル『小論理学』原書講読。担当だった私が121節の付録に訳をつけていなかったために、参加者全員で分担することになった。
午前のゼミは12時で終了。昼休みと訳をつける時間を見越して17時に再開と決まった。1人になって自分の担当箇所を開く。
担当が減ったことで気持ちが楽になってとりかかることができた。

 集中ゼミが近づいて、どんどん訳をつけていかなければならない直前の2日間、全く手につかなくなった。
30年も前に大学受験の勉強で世界史の教科書を開いた光景がよみがえった。もう無理だ、と思ったら、少しずつ進もう、もできなくなる。
 
そのときに「できない」と中井さんに連絡することはちらとも浮かばなかった。自分しかいなかった。

◇◆ 3.欲求全開  高松 慶 ◆◇
   
 4日間の集中ゼミの内、日本語の時間と現実と闘う時間の2日間だけ参加した。
日本語の時間はエンゲルスの「サルの人間化における労働の役割」、マルクスの「労働過程論」、ヘーゲルの『小論理学』より「目的論」を読んだ。
私自身にとって通算3回目の合宿形態のゼミ参加となった。

 私は現実と闘う時間で恋愛報告を出した。相手は大学時代の友人。
8月の頭、大学卒業後初めて会う中で、彼女に対する思いを素直に認め、告白に向けて走る方針を決めた。

 この報告は、3年間のゼミ活動の中で2つの大きな意味があった。1つは自分の欲求全開で貫かれた内容の報告を初めて書いたこと。
もう1つはその報告を誰かに促されてではなく、自分から出すと決めて書き、実際に出したこと。

 今までは自分の欲求の中で確かなものだなと感じられることは無く、したがって自分から欲求をゼミに出し、それがどの程度妥当か客観視する気もなかった。
中井さんやゼミ生から働きかけられる中で、私の核心部分を出さざるを得なくなる具合だった。それが今回は、何をしてでもこの欲求を実現させると思い、報告を書いた。

 しかし、ゼミでは私の考えた彼女に対する告白の仕方が、彼女の状況の変化を待ってそこにつけこもうとしているもので、真っ当でないという批判を受けた。
自分でも書いていて、「彼女に真正面から向かっていきたい」と書いた一文と矛盾している気がしたが、この欲求は手放せないという一念が勝った。

 中井さんがヘーゲルの目的論に触れる中で、「目的を達成する際には、自分自身がその目的に限定された掟にしたがって行動しなければいけない」と言っていた。
私が告白しようとしている彼女のどこが私にとって決め手だったのか。その理解が、私自身の告白の仕方を決めてしまうのだと思った。
8月の頭に会った際、私から彼女に恋人はいないのか尋ねた。彼女はしばらく間を開けてから、自分の現状を話した。
中身は書かないが、実際話すことに決意のいる中身だった。それを正直に出してくるのが、決め手になったのだろう。
ならば私もストレートに思いを伝えないといけない、正直に行くしか道が無い。

 これは、告白が成功するか失敗するかという結果の話を大きく超えた話なのではないか。
私は彼女のどこを求めているのか、欲求の本来の姿を見失わず踏まえたうえで走れるかということだと思う。
欲求の中に「告白が成功し、彼女とくっつくだけでOK」と「いやもう十分くっついた、これからはただくっつくのではなく、土壇場で出てくる正直な彼女にこそ対峙したい」という2つの面があり、
しかもそれらがせめぎあっている。その中で、私は後者を見失わず、道として生きていく。

◇◆ 4.10年目のゼミ  田中 由美子 ◆◇
   
(1) 10年の意味

 ゼミに参加し始めてから、この秋で10年になる。

 その間何をしてきたのかというと、いちばん大事な点は、それまでの50年の人生の意味を明らかにしてきたということだと思う。
今自分自身についてああだったとか、こうだったと考えるナカミは、その当時の私がそうだったということではない。
その当時はそうは考えていなかったのだから、それはその時の私ではない。
今私が私について何かを話すときに、その考えはどれもこの10年でつくってきたのだということに気付く。
その後をどう生きていくのか決めるために、そのふり返りが必要だった。
その結果これまでの人生をどうだったととらえている人間なのか、そして、その上でこの後をどう生きていきたいと考えている人間なのかということが、今私が何者なのかということなのだと思う。

 今回の集中ゼミに新しい人たちの参加があって、そういうことを思い返した。
 今後も、自分の問題にぶつかることが続いていく。

(2) ヘーゲルという源

 ゼミでは、自分の将来をどう考え、これまでの人生をどうふり返るのか、その考え方を学んでも来た。
以前はいろいろ悩むことはあっても、それについてどう考えればよいのかわからず、漠然とした疑問がただただ積み上がっていた。
どのように考えることに意味があるのか、その考え方を学ぶために、文章を書いてゼミで話し合うと共に、ヘーゲルを読んできた。

 そして、今回は牧野さんの『ヘーゲルの読書会?』に沿ってエンゲルス、マルクス、ヘーゲルのいわゆる労働論を並べて読んだことで、ヘーゲルの文章に薄日が差した。
エンゲルスの「サルの人間化における労働の役割」、マルクスの「労働過程論」、ヘーゲルの「目的論」だ。書かれた時代の順番とは逆に読んでいき、
最も具体的なエンゲルスの叙述がどう生まれてきたのか遡り、その源としてのヘーゲルを読んだ。
これまでも論理学の付録の具体的な叙述などが自分の経験と響くことはあったが、今回は論理そのものに現実を感じた。

(3) 精神労働についての疑問

 疑問として残ったのは、マルクスやエンゲルスの労働論で、具体例が肉体労働に関するもののみで、精神労働中心の労働の例がないことだ。
もちろん、労働の精神面については書かれている。労働は人間の自然との物質代謝であるだけではなく、人間が自覚している目的を実現させる行為であり、観念が前提である。
しかし、直接の労働対象が、自然ではなく、人間や社会であるような精神労働の例はない。
その場合、手段はたとえば法律であったりするのだろうか、手段の核心は学習だろうか等の疑問が頭を巡った。

 アダム・スミスは、彼自身の学者としての精神労働も、社会の中の一つの分業労働として明確にとらえている。
それでも、「国民が年々消費する生活の必需品と便益品」を生産する労働を価値として、権力と結びついた重商主義と闘うことをテーマとしていた彼にとっては、やはり農業や工業が重要だっただろう。
18世紀のそういう発展段階にあって、精神労働が中心の職業従事者は社会の中で圧倒的に少数だったのではないだろうか。

 その点については、マルクスの19世紀も大きな違いはなかったのではないか。
マルクスがテーマとしたことは労働者の社会的な問題であったのに、「労働過程論」では「労働を他の労働者との関係において叙述する必要はなかった」と社会を切り捨て、
そして人間や社会を対象とする精神労働である資本家の労働も切り捨てられたのではないか。

 逆に今の社会では、精神労働従事者の数も、労働の中での精神労働の占める割合も大きく増えただろうが、今もやはり、精神労働をよく行い、またよくとらえることは難しいのではないか。
立派な仕事をしてきた人は皆、何より精神労働の面で秀でていたにちがいない。そういう精神労働には高い能力が必要であり、それは精神労働によって培われる。
私は長い間そういうことをしっかりとやってこなかったとふり返る。生きていくには何らかの労働はしているから、それで済ませてしまった。

 私が勤めている塾、鶏鳴学園の生徒の話によると、「今ある仕事の半分はAIに取って代わられる」などと学校の教師からよく聞かされるらしいが、
AIや社会をそのようにとらえ、また、そういうことを言って生徒を不安にさせるのも、人間やその精神労働を正しくとらえているとは思えない。

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