10月 01

夏の「ヘーゲル哲学」合宿を行いました。
 参加した内から3人の感想を掲載します。

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◇◆ 必然的な展開を示すことの凄さ E ◆◇

 今回のヘーゲルの合宿では、前半に『大論理学』の判断論を読み、
後半は『精神現象学』の自己意識の部分を読んだが、
どちらかというと印象に残ったのは前半の判断論の方だった。

 例えば、質の判断で「このバラは赤い」、「このバラは赤くない」、
(赤ではなく)「このバラは青い」という肯定判断と否定判断を
無限に繰り返すうちに、「バラは色をもつ」という普遍にたどり着く。
そこから次の反省の判断、「この植物は?である」、「いくつかの植物は?である」、
「すべての金属は?である」へと移るのだが、質の判断の肯定と否定の繰り返しが、
実は既に反省の判断にもなっていた。つまり、反省の判断の主語、
「この?」、「いくつかの?」、「すべての?」は、前の質の判断で
個別のバラを比較した時に、事実上出ていたものだった。
ただ、質の判断では述語(「赤い」、「赤くない」など)に注目し
主語はいったん脇に置いていたので、反省の判断では主語に注目して
「この?」、「いくつかの?」、「すべての?」ともってきた。

 こういう展開を読んで、それが普段の生活の場面とどう関わるのかと
聞かれると即答できないが、しかし何かを「考える」ということは
こういうことではないかと思った。「こういうこと」というのは、
普段人々が無意識に使っている無数の言葉や考え方、言い方を
目の前にした時、一見それらは無秩序にただ並んで存在するようだが、
自分の力で相互の関係の必然性を見つけて段階的につなげていく、
ということである。しかもその時に、「このバラは赤い」などという
一番平凡で低い段階から始めながら、その中に、次のより高いレベルの
判断が内在しているように並べている。

 こういう展開を、カントをはじめとする先行研究から学びながらとはいえ、
ヘーゲルが自分の力で考えて示していることに、途方もない凄さを感じてしまう。
自分が読む側にあり、しかも自分ではわからない多くの部分を中井さんの解説を
聞きながら読んでいると、まるで最初からこの展開が出来上がったものとして
あるように錯覚してしまうが、これを自説として作り出していることの凄さを
改めて感じた。

 合宿の全体については、今年3回目を迎えて、年々良くなってきていると思う。
施設などの生活面以外に、特に報告の時間が前回より充実していて、
各自にとって今一番重要な問題を、当事者に限らず全体で丁寧に
考えられるような時間になっていた。そうなったのは、合宿ということで
ゆとりを持って報告の時間をとれたこともあるだろうし、今まで5年間
報告の時間をやり続けてきた成果が、合宿の場で表れたということもあると思う。

 【中井からのコメント】

 Eさんが触れていないことで、私が面白いと思う点がある。
ヘーゲルは「判断」を、認識の運動の前に、まずは対象の運動として
とらえている。バラが赤かったり、青かったり、白かったりするのは、
バラ自身が判断をしているのだ。すべての事物はそのように自己を判断し、
自らを現している。それゆえに、私たちがそれを認識できる。
ヘーゲルは、この原則をすべての場面で、すべての対象に適応していく。

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9月 26

夏の「ヘーゲル哲学」合宿を行いました。
 参加した内から3人の感想を掲載します。
 
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◇◆ 長い長い思春期 K ◆◇

 精神現象学は、人間の成長段階に合わせて、時間的順序に則って
叙述したものであるという。そして、今回の合宿では自己意識、
すなわち自我の目覚めと思春期が範囲であった。だとするならば、
現代においては、思春期とは十代のごく一時期を意味するものではなく、
十代から二十代にかけての二十年間、まさに一世代にも及ぶものではないだろうか。

 自己意識は、人類や絶対的存在を意識し、絶対的否定を経ることで
芽生えるというが、自分の経験を振り返ってみるに、それは、二十歳を過ぎて、
鶏鳴学園に通うようになってからのことであった。夏目漱石を通じて
人間のエゴイズムに圧倒され、途端に、それまでの自分の人生が、
どうしようもなくみすぼらしいものであるように思うこととなった。

 そうして、初めて、人間(自分)が生きることとは何かを問い、
人間(自分)とは何かを問うようになった。無論、それまでも問いかけてはいた。
だが、まともに考えていたとは言えないし、問いかけ方も個々別々の
経験の範疇を出るものではなく、拒絶感もその場限りであったし、
何より普遍性がなかった。やはり、ヘーゲルの言うとおり、
圧倒的存在に触れることは不可欠なのだと思う。しかし、一足飛びに
そこまで到達するものではなく、一定以上の経験を積んだ上でなければ、
何も反応できないのではないかとも思う。

 なお、こうした問いに対し、本腰を入れて考えるようになってから
五年が経過したが、未だにその答えは出ていない。あと二年で
華ある二十代も終わり、三十路を迎えてしまう。だが、その答えの芽は
出ているように感じているし、その手応えもある。行き詰るたびに
圧倒的存在に当たり、都度、打ちのめされ、しかしそこに希望を感じながら
成長していく。これしかないし、それがすべてだと思う。そして、鶏鳴学園という
目的を同じくする仲間たちとの研鑽の場があることを、幸せなことだと思う。

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9月 25

夏の「ヘーゲル哲学」合宿を行いました。
 8月19日から22日(3泊4日)の日程で、山梨県の八ヶ岳山麓に籠もり、
 一日中ヘーゲル哲学の学習に専念しました。
 合宿を始めて3年目ですが、年々充実してきたと思います。

 参加した内から3人の感想を掲載します。
 
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◇◆ 報告することの意味 M ◆◇

 今回の合宿は後半の精神現象学の講読から参加した。
自己意識が今回の範囲だったが、内容は正直それほど興奮するものではなかった。
ヘーゲルに関する知識を得て、お勉強をしたと言う感じで、
自分の身につまされて、背筋がピンと張るという瞬間があまりなかった。
それは自己意識が範囲といってもまだ始めの段階で、自己意識のあり方が、
まだどこか受動的な段階についての記述であったからだと思う。
次の範囲を早く読みたいと感じたのが正直な感想だ。

 各自の報告の時間は印象深かった。うまく言えないが、各自が報告をし、
それについてそれぞれが意見を言う。これまで5年間続けてきたことだが、
このことにどんな意味、効果があるのかと深く考えたことはなかった。
今回初めて、一体何が起こっているのだろうかと考えた。

 一番大事なのは、報告するその人が一番自分にとってその時
切実な事について正直に書くこと。この切実な事というのは、
書いた本人にとってこれでいいのだろうか、これは間違ったことを
書いているのではないか、自分の考えはおかしいのでは、と自分でも
自分の書いたことを認められず、消化出来ないことが多い。

 そして、第二にこのように切実な事について書いた文章を
みんなに読んでもらい、一通りの意見を聞く。その意見が
自分の切実な問題についての意見であろうが、全く見当はずれの意見であろうが、
あまり関係ない。自分は言いたいことを書いた、言った。
この人は一応読んでくれた、聞いてくれた。この時点で、ある程度の目的は
達成されるように思う。

 目的というのは自己理解を押し進めるということだが。
自分の感覚では、最初に自分の報告を話すときは何かおかしなことを
書いたのではないか、実はこんなことを全く自分は考えてないのではないかと
ドキドキしながら、みんなの意見を聞いていき、それが一通り終わると、
自分がそのことを考えているということを自他ともに認められるということで、
落ち着く。

 そして、第三に中井さんの意見を中心にその問題について、
どういうことか、どういうことをしていけばいいのかを考えられ、
一歩ずつ進んでいく。

 今回初めて感じたのが、人に聞いてもらうこと、人に自分の問題を
聞いてもらい、認めてもらうことの重要性である。この段階で初めて
自分でもそのことを自分のものとして認められ、位置付けようと
することが出来る。この段階が無いと自分で文章を書いても、
それを自分で消化できない。

 ヘーゲルの講読でも他人の承認というテーマが出ていたが、
このことの重要性を感じ、またどんなテーマでもまず受け入れてくれる
鶏鳴学園という場は貴重だと感じた。まず受け入れてくれないとその時点で
パニックに陥ると思う。そういうきわどさも今回初めて考えた。

 【中井からのコメント】

 M君が提起したのは大切な問題だと思う。
「どんなテーマでもまず受け入れられる」条件が問われているのだと思うが、
それは何か。第1に「先生」の実力であり、第2に師弟関係、
第3に弟子同士の関係における信頼度。別の視点から言えば、
師弟のすべてが、真理の前に謙虚であることが必要だろう。

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9月 20

 今年も夏の合宿を行いました。
 8月19日から22日(3泊4日)の日程で、山梨県の八ヶ岳山麓に籠もり、
 一日中ヘーゲル哲学の学習に専念しました。
 合宿を始めて3年目ですが、年々充実してきたと思います。

 今回のメニューは、ヘーゲル『大論理学』(寺沢恒信訳、以文社)の
 「判断論」(「必然性の判断」のみ原書)、『精神現象学』
 (牧野紀之訳注、未知谷)の「自己意識論」を読みました。
 晩は「文章ゼミ」と、各自の報告会もおこないました。

 私以外に8人の方が参加しました。大学生4人、社会人4人です。
 「なぜ合宿をするのか」という私の文章と
参加した内から3人の感想を掲載します。
 ヘーゲル哲学について私が学んだことは、別にまとめます。

 ちなみに、来年は8月18日から21日(3泊4日)を予定しています。
 
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◇◆ なぜ合宿をするのか 中井浩一 ◆◇

 参加者から、「なぜ合宿をするのか」という問いが出された。
「参加者ではなく、主催者(中井)にとっての意味は何か」という問いかけだった。

 「私自身がヘーゲル哲学を学ぶため」。それが回答。

 「それなら、一人でやれば良いのではないか」。

 それがダメなんです。どうしても、私の話しを
聞いてくれる人が必要なんですね。それも真剣に全身で
受け止めてくれる人に向かって話すことが必要だ。
それでこそ、私の学習が前進できる。そういう人を確保することが、
5年前から始めた「師弟契約」で可能になった。「先生を選べ」の原則で選び、
選ばれた関係が、これを保障する。こうした条件下では、
「教えること」は「学ぶこと」そのものになる。

 ゼミの参加者の中には、興味本位な人や、一時的な参加者や、
緊急避難的な人もいてよい。しかし、そうした人を受け入れても
「壊れない」ためには、しっかりした基礎が必要で、
それはきちんとした師弟関係だと思う。

 これが、「中井にとって師弟関係の必要な意味とは何か」への回答になる。

 「しかし、それは普段からゼミでやっていることで、
 なぜわざわざ『合宿』をしなければならないのか」。

 「効果」が違うんですね。この3泊4日で朝から晩まで
ヘーゲルを読むことで、自分を追い込む。そのことで、普段より集中し、
一つ上のレベルの気づきや発見をすることができる。

 ヘーゲルの『精神現象学』の「自己意識論」で、人間の相互「承認」の
重要さが言われていたが、私にとっては、このメンバーたちにこそ
「承認」してもらいたいのだ。この人たちにこそ、ヘーゲルの
「凄み」を見せつけたい。見せつけられる自分でありたい。

 そのようにして、3年間自分を追い込んでやってきた。
実際に、この3年間の自分の成長を実感できる。
ヘーゲル哲学の理解は確実に深まっている。
他方、師弟契約をしている人も、ゼミの参加者も、
それぞれのペースで成長してきたと思う。
この5年間は間違いではなかった。

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9月 17

『コミュニティビジネス入門』から学ぶ 
 (5)社会資本、地域資源は誰のものか 「所有」と「主体」の問題
 (6)本書の意義と限界
 
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(5)社会資本、地域資源は誰のものか ?「所有」と「主体」の問題?

 さて、「地域」が、外部者も含めたものであるのならば、
社会資本、地域資源は誰のものか。ここに、「所有」「主体」の
問題が浮き上がってくる。

 この「所有」「主体」の問題のところで、本書では捉え方が曖昧になる。
一般にも、この点が曖昧なので、問題提起しておきたい。
一般に「コミュニティビジネス」を論ずる人は、その主体を個々の事業主、
つまりNPOや企業、団体として理解、その内部での「所有」の問題を論ずる。
しかし、その団体も含めて、その事業に関係するすべての関係者が
「主体」なのではないか。
これが本当の、地域資本、社会資本という考え方ではないか。

 例えば、ワインツーリズムは誰のものなのか? 
企画運営者の笹本さんたち(3次)だけのものではない。
ワインツーリズムの関係者のすべてのものだろう。
もちろん中心は2次産業のワイナリーだが、「かつぬま朝市会」や地域の
散策組織(「勝沼フットパス」)も加わっている(以上は3次、一部は4次)。
ワインツーリズム参加者はそのワイナリー周辺地域を散策するが、
そこに1次産業のぶどう農家が大きく関わってくる。
ワイナリーにぶどうを提供しているのは、彼ら(の一部)なのだ。

 長く1次の農家と2次のワイナリーには対立があった。
地域の人々から見て、外部の笹本さんたちが偉そうにしていることも
面白くないだろう。そこに都会からワイン好きが集まってきて、
地域の自然や文化財をも楽しむ。

 これらがすべてを所有者、主体として考えるべきではないか。
ここには、多様な利害関係者がいるし、対立の側面は常にある。
一般に、「コミュニティビジネス」の一事業やイベントには、
多様なステイクホルダー、複数のセクターが関わるので、
そこには必ず利害対立が起こり、矛盾がある。だからこそ、
それを解決するための民主主義が、情報公開が問題になるのだ。

 ワインツーリズムでは、実行委員会が一応立ちあげられている。
委員長は笹本さんで、副委員長に大木さんや朝市会の主催者、
ワイナリーや地元農家からは委員が出ている。
地元甲州市の行政マンも委員だ。しかし、議論は低調で、
笹本さんたちにお任せの状態が続いた。関係者間には利害対立があって、
収入アップになるワイナリーと、ボランテアを「強いられた」と感ずる
地元農家との間には、感情的な対立がある。補助金獲得を巡り、
行政や地元、笹本さんたちとの間にも対立がある。
しかしそうした対立が表面化していないので、うやむやになっている。
ワイナリーや個々の利害関係者に、どんな金の流れがあったのか?
それは、現段階ではオープンになっていない。
これが「ガバナンス」の問題であり、「所有」の問題なのだ。

(6)本書の意義と限界

 今示したのは、この社会資本のモデル、理念から見えてくる
論点のほんの一部だが、その有効性がわかるだろう。

 これでワインツーリズの総括ができる。他の似たような
活動をしているコミュニティビジネス(ソーシャルビジネス入)の分類、
位置づけ、評価の観点や課題の整理と、その解決のための政策づくりが可能になる。

 本書では、この社会資本というモデルを提示したことが
最大の貢献だと思うが、ヨーロッパモデルの考え方や情報、
日本でのたくさんの事例が紹介されているのも、参考にはなる。
ヨーロッパの社会的企業。福祉国家から福祉社会への転換。
EUの「社会的排除」との闘いなど。

 コミュニティビジネスを評価する人にも2派がいる、という指摘は重要だ。
一方は「社会的排除との闘い」(社会民主主義)の側面を見る。
他方は「安上がりサービス」(新自由主義)の側面を見る。
この2つは必ずしも正反対の立場ではないが、
どちらを中心とするかで対立をはらんでいるのだ。
これは『良い社会の公共サービスを考える』でも指摘されたことだが、
表面的にはともかく、問題が起きるたびに、どちらの立場なのかが
問われるだろう。そのことを自覚しているだけでも、対応は変わる。

 本書の意義を挙げてきたが、もちろん問題もある。
「用語集」を付けて、今の諸問題を整理し、方向を明確にしている点で、
教科書として成功していると思うが、その内容には疑問も多々ある。

 すでに社会資本の「所有」「主体」のとらえかたに疑問を出したが、
他では、就労形態で、「ワーカーズコレクティブ」と「生協」の違いが
分からない。結局は大きさ、規模の違いなのではないか。
生協は大きくなりすぎて、小ささが必要なのではないか。
所有と意思決定と労働の間で、小ささの持つ意味が問われているのでは。

 「社会的企業」とか「社会起業家」の「社会」も曖昧だ。
「正しい」とか「正義の」といったニュアンスだが、それでは
「社会的」でない「企業」や「起業家」が存在することになるし、
それを認めることになるが、それで良いのか。本来は、
企業や起業は社会的な物なのだから、こうした「社会」という冠が
不要になることが最終ゴールなのだ。「社会的企業」という言葉がなくなること。

 つまり、本書の「用語集」では、一般に言われていることを
まとめているだけで、著者たちの自説や掘り下げがないのだ。
もっとも、そもそもまだ概念が曖昧で混乱している段階だ。
私たちで自前の「用語集」を作り直すような覚悟が
必要だということだ。用語、概念は単なる知識ではなく、
課題を深く、広く考えていくための基本的な武器なのだから。

 こうした基本概念に対する理解の程度が運動のレベルを決めてしまう。
概念には、人類の問題意識と英知が集約されている。
 

 本書には問題を深めるよりも、きれいごとで済ませている箇所も多い。

 例えば、コミュニティビジネスの意義を強調するために、
行政と民間企業の限界を以下のように強調する。
地域、家庭の崩壊により、行政サービスが拡大したが、
それも今では財政破綻したし、もともとが一律サービスしかできず、
特定の地域ニーズには対応できない。一方の民間企業は
多様なサービスを提供できるが、ニーズがあり利益があがる限りのことだ。
こうした狭間で、利益が上がりにくい多様なサービスを提供できるのが、
コミュニティビジネスだと言うのだ。そのためには、民間以上の力で
「経営的イノベーション」の能力が必要になる。しかし、
それほど困難で高い能力を持つ人が、本当にコミュニティビジネスに
関わるだろうか。彼らの年収は約200万だと言う。
ここには根本的な無理がないか。

 この点で、コミュニティビジネスと生協との連携などを提案しているのは
現実的だ。理解ある企業との提携が一番現実的だろう。

 しかし、そうした際にも、結局は、また「所有」の問題にぶつかるだろう。
これがやはり肝なのではないか。だから、本書では多様な
コミュニティビジネスを紹介しているが、一番知りたいのは、
その所有の問題や、内部対立をどう解決しているかなのだ。
もちろん、内部民主主義と公開の原則の重要さは言われている。
しかし、そうした建て前ではなく、実際のコミュニティビジネス内部での
深刻な対立の問題は出さなければ、説得力はない。

 現在のコミュニティビジネスにはたくさんの問題がある。
なぜ横の連携が取れないのか。なぜ小さくしかまとめることができないのか。
それぞれの小さな組織で、お山の大将でいたいからではないのか。
単なる補助金荒らしではないのか。

 そうした内部の深刻な問題には触れていない。
しかし、それは求める方が間違っている。自分たちで行うべきだろう。

 私たちの議論の中から、次のような意見も出た。
「社会的排除」と言うと、いわゆる「社会的弱者」を念頭に思い浮かべやすいが、
そうでない場合もある。ワインツーリズムでの「社会的排除」とは、
「大量生産・大量消費のマーケットや受身の社会生活に満足できない層」を意味する。
彼らは山梨では、プライドが保てない。出て行って(排除されて)しまう。
 こうした視点も大切にしたい。

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