ゼミのヘーゲル学習会の成果。
?から?を、この順でブログで発表する。今回は?
?ヘーゲル『法の哲学』へのノート
?ヘーゲルの国家論
?マルクスの「ヘーゲル国家論批判」へのノート
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◇◆ マルクスの「ヘーゲル国家論批判」へのノート ◆◇
昨年2008年8月にはヘーゲル学習会の合宿でヘーゲル『法の哲学』の国家論を読んだ。さらに秋にかけて、マルクスの「ヘーゲル国法論批判」と「ヘーゲル法哲学批判序説」を読んでみた。そこで考えたことをまとめておく。テキストは「ヘーゲル国法論批判」は『マルクス・エンゲルス全集第1巻(大月書店)』、「ヘーゲル法哲学批判序説」は岩波文庫『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』を使用した。ページ数はこれらのテキストのもの。
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○マルクスの学ぶ姿勢
(1)「先生を追い越す」ために「先生から徹底的に学ぶ」姿勢がある
「徹底的に学ぶ」ことは、徹底的に「真似」をすることだ。
?「科学的社会主義」
マルクスは、当時のドイツに入ってきたフランス直輸入の共産主義について「この共産主義はそれ自体、その対立物である私有制度の影響を受けた一現象、人道的原理の特異な一現象にすぎません」と言う(岩波文庫『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』の訳者解説から 165ページ)
これは次のように言っていることになる。「この共産主義は私有制度に反対するだけで、私有制度を理解した上で、それを止揚する立場として自らを構築したのではない。したがって、それは反対する私有制度に依存している低い思想でしかなく、自立していない。一方的に否定するだけで、その根拠は抽象的人道的原理があるだけだ」。
マルクスの言いたいことは、ヘーゲルの論理展開と一致する。この批判が「空想的社会主義」と概念化され、その代案としての自らの立場に「科学的社会主義」が対置された。それはヘーゲル主義と言って良いと牧野紀之は言うが、その通りなのだ。
?「疎外」論もヘーゲルから。
「疎外」論もヘーゲルからの継承発展。ただ、フォイエルバッハを媒介にして、ヘーゲルから間接的に導入したと言えるかもしれない。即自的や対自的「an sich][feur sich]もそう
?フォイエルバッハも、ヘーゲルから「徹底的に学ぶ」ことをしている。
彼の神の存在の否定(唯物論)、つまり「神は人間の本質を外に投影したものでしかない」ことを導き出す論理が、「ある存在が何であるかは、ただその対象からのみ認識され、ある存在が必然的に関係する対象は、その明示された本質に他ならない」。つまり、ある対象の本質は、それが必然的に関係する対象に現れるのだが、そのヘーゲルの論理を応用したものだった。
(2)マルクスには性急で強引に否定する面がある。青二才の部分
「論理的汎神論的神秘主義」(236ページ)の説明など
これは青年期特有の、功を焦り、自立をあせり、唯物史観の確立へのあせりが大きな要因だと思う。しかし、これは大志を抱く青年につきものの欠点であり、批判しても仕方ない。マルクスは後に反省し、また周囲がヘーゲルの優れた点をあまりにも理解していないことにも気づき、ヘーゲルを持ち上げるようになる。
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○マルクスのヘーゲル国家論批判
核心は2点
(1)思想家としての自立のために、唯物史観を完成することが緊急の課題だった
?ヘーゲル哲学を観念論として激しく批判する
ヘーゲルは「観念論」だとの、マルクスのヘーゲル批判(「論理的汎神論的神秘主義」236ページ)は、結局、唯物史観での上部と下部のどちらを規定的と考えるかの相違なのだろう。
マルクスは経済と政治の対立を述べている。経済的解放と政治的解放との違い。
「政治的国家」と「市民社会」、「市民身分」と「政治的身分」の矛盾としてマルクスが指摘しているのは、すべてこの問題ではないか。
?ヘーゲルは唯物史観の観点でも、観念論的とは決めつけられないと思う。
第1部で所有権を人格の平等の根拠としていること。
第3部の市民社会論で、ヘーゲルは経済問題を取り上げ、格差の拡大(窮乏化論)、市場拡大の至上命題、植民地政策と国家との一体化などを述べていた。
こうした点を、マルクスはどこまで理解していたのだろう。
?市民社会論で、ヘーゲルは経済問題を取り上げ、格差の拡大(窮乏化論)、市場拡大の至上命題、植民地政策と国家との一体化などを述べていた。
それを受けて、国家論では、植民地政策と国家との一体化の運動について詳しく論述されると、私は期待していたが、それはない。ヘーゲルの国家論は政治組織論で、経済問題はごっそりと落ちている。制度論(形式論)で、内容の話がない。
この点の批判としてならば、マルクスの批判は妥当。
?§274へのマルクスの批判(251ページ)にもマルクスの曲解がある。
エンゲルスは、マルクスとは反対に、ヘーゲルの真意を、当時のドイツ民族の程度(民度)が、君主制しか可能にしなかった、と理解している。私も同じ。
エンゲルスは「フォイエルバッハ論」で、ヘーゲルの有名な「現実的なものは理性的であり、理性的なものはすべて現実的である」という言葉を説明して、「現実的=必然性」の意味だと述べ、「必然的なものは結局のところ、理性的でもあることが明らかになる」という意味だと説明する。
そして、次のように述べる。
「これを当時のプロイセン国家にあてはめると、ヘーゲルの命題の意味するところは、だから、ただこういうことにすぎない。すなわち、この国家が合理的であり、理性にかなっているのは、それが必然的であるかぎりにおいてである。もしこの国家がそれにもかかわらずわれわれに悪いものに思われ、しかもそれが悪いにもかかわらず存在しつづけるならば、政府の悪さは、臣民たちがそれに照応して悪いという事実で正当化され説明される。その当時のプロイセン人たちは、自分たちにふさわしい政府をもっていたのである」。
(エンゲルスの「フォイエルバッハ論」より)
?唯物史観の立場からヘーゲルを批判したければ、彼の「観念論」を批判するのではなく、当時のプロイセンの経済状態から、プロイセンの君主制を説明するべきだったはずだ。それをマルクスは行っていない。
?ヘーゲル哲学を根底から批判するとしても、唯物史観の観点からに限定しておけば良かった。「観念論」として斥けたことは、どれほど大きな災いをもたらしたか知れない。ヘーゲルを読まない人間を増やしたからだ。
(2)国家論
「政治的国家」と「市民社会」の矛盾(263?267ページ)が核心的
「政治的国家は亡くなる」(264下)。政治的国家(の彼岸の定在)は国民自身の疎外の肯定態に他ならない(265下)。
この点については牧野が次のように述べている。「マルクスは、国家は最初共同体の純粋な行政として(現在の自治体の住民サービスみたいなものとして)共同生活を円滑にするための道具として発生したが、階級社会に入ってそれは階級支配の道具に変質した、ととらえるからです。こうとらえる時には、宗教や国家を原始社会で発生した時の姿に求めて、階級社会での姿をその疎外態とみるか、階級社会での姿を本質とするかで考えが分かれます。レーニンの国家暴力説は後者に立つものです。(「唯物弁証法問答」より。『ヘーゲルと共に』180ページ)
ここで階級社会での国家は、国家のそもそもの本質の現れか、その疎外態か、という問題提起はまさに急所だ。これはやはり疎外態と考えるのが正しかったのだと思う。ソ連の失敗の原因としてレーニンの理解が間違っていたことが大きいだろう。
ただし、国家の始元をどこに取るかが重要で、この点では牧野にも理解が不十分な点がある。ヘーゲルも、したがってマルクスも、ここでは近代国家を前提としている。したがって、その国民(市民)とは地縁・血縁、共同体から切り離された人々であり、その人々の人格の抽象的平等と、市場を求めて拡大し続ける資本主義社会が前提なのだ。牧野が言うような原始社会で発生した時の姿、「共同体の純粋な行政」が前提ではない。こうした共同体が崩壊した後に、それを補うために成立したのが近代国家だろう。
問題は、原始社会で発生した国家の疎外ではなく、共同体崩壊後に生まれた近代国家、近代社会の本質とその概念であり、その疎外態かどうかなのだ。
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○ヘーゲルとマルクスの違いは、時代の進展の違いが最大の理由
ヘーゲルが知っていたのは近代社会の生成史まで、マルクスも展開史の初期でしかなかったと言えるのではないか。
ヘーゲル マルクス
目的 ?立憲君主制の確立 ?立憲君主制の批判=打倒=革命前夜
ドイツの独立、自立の達成
プロイセン政府の擁護
?ヘーゲルの観念論批判
=唯物史観の模索
※この目的がすべてに優先した
時代背景 フランス革命後
立憲君主制が進歩的だった 立憲君主制が反動化
※マルクスはこの意味を唯物史観から明らかにすべきだった
産業改革前 産業改革後=工業化
農村国家
土地の所有権は不自由 私的所有権が前提
土地は特殊な私有財産 土地所有も自由
市民社会内の自由競争=格差の拡大
大土地所有者が基盤 市民階級(ブルジョア)が台頭してきた
農村国家 プロレタリアートも存在
身分社会 階級社会へ
国家と市民社会の分裂 国家と市民社会の分裂
その解決は、官僚制と議会 官僚制と、身分議会では無理
土地所有階級が媒介 市民社会の混乱を国家が抑制する
完全な普通選挙の実施
市民社会内部での階級対立の解決
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○しかし、マルクスの問題提起で、近代の矛盾がよりはっきりと捉えられた側面がある
それは人格の平等ゆえの階級社会の成立、格差の拡大という矛盾だ。形式的(人格の)平等と内容的(能力の)平等との矛盾だ。
(1)人格という抽象的平等と、実質的な能力の平等、個性化の実現には決定的な矛盾がある。
地縁、血縁は、その内部では均一でも、全体としては多層的で複合的で多様。
その地縁、血縁が壊れたことと、抽象的人格や所有権での平等とは同じこと。それは人間の均一化であり、画一化である。その上に成立したのが近代国家。
地縁、血縁社会には抽象的な所有権はない。身分が固定していた中世との違い。
人格という抽象的平等と、実質的な能力の平等、個性化の実現には決定的な矛盾がある。
(2)国内部の均一化が国家成立、国内統一ということ
日本の明治維新で言えば、徳川幕府は諸藩の連合体の代表で、国家は存在しなかった。
横の関係が中心で、絶対的な抽象的な一般的な上下関係ではない
国内の多層的で複合的で多様な統治が壊れ、均一化し、中央集権化する。
「教育」が、国家の観念を植え付けるための先兵になる
天皇制だけが、血縁関係を残した部分
(3)国内統一と国外への対抗・侵略とは一体
?先進国では国内の対立を使用するために植民化
それを協力に押し進めるために国家が必要
?後進国では国家の目的は、外の他国から守るため。植民地化される危機。
また、内部の統一体を作るため
教育と殖産を振興し、産業改革で工業化を達成するため
(4)マルクスは国家と市民社会、公私の対立を強調している。ヘーゲルの予定調和の考え方への批判。これは絶対的に矛盾し、対立する、と言う。
マルクスにあっては、これは階級社会を意味した。その克服を考えたのがマルクス。
しかし、さらに根底には(1)の矛盾があるのだ。
(5)愛国心を言う人
国はムラではない。その正反対のもの。地縁、血縁が壊れ、抽象的人格や所有権での平等、つまり人間の均一化の上に成立したのが近代国家。
近代以前には公私の区別はなかった(266ページ)。それは一体だったから。
私が私になり、公が公になったのは、同時である。
愛国心や公共心の確立・再建を言う人は、公を求めているのではない。公私の分裂前の一体の時代への回帰を求めているのだ。
公を確立するには、私を確立するしかない。現代の日本では、私が私にならず、小さなムラに留まっている。依然として個人はいない。
(6)市民社会と国家の分裂、対立
官僚機構や国の諸制度は、本来の目的から離れて自己運動してしまう
高度経済成長下で生まれ、拡大し続けた制度を変えられない
ここから「小さな政府」「官から民」が出てくる必然性がある。