日本の美術展を観ていると、たいがいは不満でたまらなくなる。企画力の貧困、問題意識の弱さ、それにつくづく情けなくなる。そこで、時々優れた企画に出会うことができると本当に嬉しい。それについて書いた。
◇◆ 展覧会には2種類ある ◆◇
3月5日に神奈川県立近代美術館 葉山で「アジアとヨーロッパの肖像」を見た。国際巡回展で、神奈川県立歴史博物館と県立近代美術館 葉山で同時開催となった。美術館のHPでは「特色ある活動を展開してきた両館が、初めて全面的に連携を組む新しい試み」と謳っている。「この展覧会では、アジアとヨーロッパの出会いを背景に、広い意味での肖像、すなわち人物表現を伴う絵画・彫刻・工芸・写真などに表現された自己と他者の姿の歴史的な展開を、5 つの章で紹介します」とある。
私は、後進国であるアジア諸国が、西洋画を受容する過程が展示され、その比較もできることが面白かった。日本の画家たちを、他のアジア諸国の西洋画受容との比較で見ると、違うように見えてくるのが面白い。もちろん、西洋側の東洋絵画の受容もある。
展覧会には2種類があると思う。
(1)新しい視点、観点の提示をし、その視点からの展示をする。したがって、内容的には従来とすべて同じでも、そこに新たな発見がある。
(2)新しい視点、観点はない。既成の枠内で行っている。典型的なのは「ルーブル展」とか「ピカソ展」「ゴッホ展」「ゴーギャン展」とかである。これは現地(外国)に行かなければ見られないものが、日本に居ながらにして見ることができる。しかしそれだけのことだ。
もちろん、(1)(2)それぞれの範疇においても、それぞれの企画においてレベルの差がある。しかし、大きく言って、(1)を私は(2)の上に置く。
(2)は昔ならいざ知らず、今の時代には大きな価値はない。また、これは既存の価値観に依存するだけに、そこそこの成功は確約される、安全策だ。しかし、安易で情けないものだ。企画力が不要だし、学芸員の問題意識も不要である。金のあるなしだけが問題だ。
こうして二つを区別すると、日本ではほとんどが(2)であり、(1)は非常に少ないことがわかる。
展示があれば、私はいつもこの2種のいずれであるかを考える。単なる個人展でも、無名の新人の発掘や新たなグループ展などは(1)になる。絵画ではないが、以前見た中村真一郎の企画による「堀辰雄展」などは、全く独自な中村の視点で編集されていて、目を見張らされた。
日本の美術館で言うと、神奈川県立近代美術館はよく(1)の企画をしてくれる。戦後初めての近代美術館であり、学芸員が良く教育されているのだと思う。
東京の渋谷区立松濤美術館も、そうした企画が多い。これは所蔵作品が少なく、企画力だけで勝負するしかないという状況が大きいと思う。その結果、学芸員は頑張らざるをえない。
東京国立博物館の最近の企画には、しばしば(1)が入る。所蔵品に恵まれ、なおかつ、企画力に優れていれば、鬼に金棒だ。
京都国立博物館もしばしば(1)の企画を行う。春の「妙心寺展」はすばらしかった。妙心寺は禅宗(臨済宗)の中で京都五山などの官制に組みすることのなかった一門だ。その権力に距離を取った寺が芸術を守ってきた。また初代から代々のトップの肖像画や弟子への認可証などが並べられ、師弟関係がとぎれることなく続いてきたことがわかる。「師弟関係」について関心を持っている私にとっての、一つの規範がここにある。良い点も悪い点も含めてだ。
今回、腑に落ちたことがある。妙心寺派が運営する花園大学では、禅の独自の研究が行われてきた。京大人文研出身の入矢義高と妙心寺の柳田聖山によって、臨済録などの古典の読み直しが行われてきた。従来の読み方への徹底的な批判だ。口語、俗語を正確に読むことで、権威づけられてきた古典から虚飾をはぎ、剛直で直截な表現を浮かび上がらせた。もってまわった高遠な思想は消え失せ、師弟の緊迫した息づかいが生き生きと甦った。正統派からは、異端として扱われたその試みが、なぜ花園大学で可能だったのか。長年の疑問の答えがわかったように思う。もちろん妙心寺一門の問題点もあるが、それには今は触れないでおく。
京都国立博物館は、今年秋にも魅力的な展示を行う。「日蓮と法華の名宝―華ひらく京都町衆文化―」であり、「文応元年(1260)、39歳の日蓮は、度重なる災厄と国家の危機を憂えて、『立正安国論』を著し、鎌倉幕府前執権の北條時頼に献じました。それから750年目にあたる今年、それを記念し、『立正安国論』を軸に、京都十六本山を中心とした諸寺伝来の宝物の数々を、一堂に展観します」(博物館のHPより)とある。
これはいわゆる「琳派」展だろう。江戸時代の本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ)、俵屋宗達に始まり、尾形光琳、尾形乾山らが確立し、その後もすぐれた継承者を多数生んだ「琳派」の流れの展示である。
しかし、それがなぜ「日蓮と法華の名宝」なのか。光悦たちの多くが法華宗徒だったからだ。光悦は、京都の洛北鷹ヶ峯に芸術村(光悦村)を築いたことで有名だが、その住人の本阿弥一族や町衆、職人などは皆、法華宗徒だった。光悦の死後、光悦の屋敷は日蓮宗の寺(光悦寺)となっている。
これには当然わけがある。浄土を死後の世界に求めず、現世に実現しようとする在り方、現世と人間の欲望を肯定する教えが、彼らの拠り所になっていたのだろう。
その宗教と芸術との関係から「琳派」を見直すことで、これまでと違う側面が見えてくるかも知れない。