3月 25

2019年4月以降の中井ゼミの日程が決まりました。

いずれも日曜日で、午後2時開始予定です。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。

月の前半は、文章ゼミ+「現実と闘う時間」を行い、
月の後半では、読書会+「現実と闘う時間」を行う予定です。
読書会テキストは決まり次第、連絡します。

「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

参加希望者は今からスケジュールに入れておいてください。また、早めに申し込みをしてください。
遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加も可能にしました。申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。

ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

4月
 7日
 21日

5月
 5日
 19日
 
6月
 2日
 16日
 30日
 
7月
 14日

8月
8月22日?25日(三泊)
 

3月 14

3月24日の読書会テキストが決まりました。

テーマは、認識は現実の後追いしかできないのか、未来はどうつかまえられるのか、です

ヘーゲル『法の哲学』(中公クラッシクス)の序文と
マルクスの『経済学批判』(岩波文庫)の序説の「三 経済学の方法」とを読みます。

ヘーゲル『法の哲学』では
「世界がいかにあるべきかの教説のためには、もともと哲学の生まれてくるのが遅すぎるのをつねとする。」「ミネルバの梟は黄昏とともにようやくとびたつ」と主張します。

マルクスの『経済学批判』序説の「三 経済学の方法」では
「人間の解剖は猿の解剖にたいする一つの鍵となる」、「下等な種の諸動物にあるいっそう高等なものへの諸暗示は、このいっそう高等なもの自体がすでに知られている場合にのみ、これを理解することができる」と述べます。
 
しかし、私たちに大切なのはサルの解剖ではなく、私たち人間の解剖であり、人間社会の現状分析と未来社会の提示です。
では私たちはどうしたらよいのでしょうか。
ヘーゲルやマルクスは何を言いたいのでしょうか。

午後1時開始です。

参加希望者は申し込みをしてください。
遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加も可能にしました。申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。

ただし、参加には条件があります。

参加費は2000円です。

1月 26

ゼミ生の塚田毬子さんの文章を掲載します。

塚田さんは昨年春に、初の演出作品を上演しました。
題材は、古代ギリシャ悲劇『アンティゴネー』でした。

それは初めての演劇創作としては、素晴らしいものだったと思いますが、
「引きこもりの、引きこもりによる、引きこもりのための劇」という面をもっていました。

それが、いま、大きく変わろうとしているようです。

東日本大震災の被災者の語りを記録したドキュメンタリー映画。その映画では、語り手が、その人そのものが立ち上がってきます。

「そうなったとき、やっぱり自分にとってどうでもいい人と話はできない」。
「そして、それならやはり、自分が特に関わりたくない、縁がない、興味のない人の話は聞けないと私は思う。聞いても困る。興味がない人の人生の断片を披露されても困る」。

ここまでなら、以前の塚田さんです。今回は違います。「しかし」で続くからです。

「しかし、この映画を見ていて、私は登場する人々のごく個人的な話をとてもよく聞くことができた。いつまででも聞いていられると思った」。

ここから何かが変わっていくでしょう。それを見守りたいと思います。

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対話と第三者 東北記録映画三部作
塚田毬子

 先月、映画館で酒井耕・濱口竜介共同監督の東北記録映画三部作を見た。ソフト化されておらず、現状では特集上映でしか見ることが出来ない。ずっと見たいと思っていて、やっと見れた。
 これは、酒井耕と濱口竜介という映画監督が、東日本大震災以後、被災者の対話を現地で記録したドキュメンタリー映画のシリーズで、第1弾が『なみのおと』(2011)、第2弾が『なみのこえ 新地町』『なみのこえ 気仙沼』(2013)、第3弾が『うたうひと』(2013)である。

 第3弾の『うたうひと』は、東北に伝承される民話のドキュメンタリーで、これは震災に直接関係した内容ではないので毛色が違うが、第1弾と第2弾は、被災者同士、または被災者と監督の対話が収録されている。『なみのおと』は震災から半年後に三陸沿岸各地を回ったもの、『なみのこえ』は震災から一年後に宮城県気仙沼、福島県新地町に限定して収録したものである。『なみのおと』『なみのこえ』は、私が2018年に見たものの中で一番面白かった。

 対話は、対談もしくは鼎談で、被災者が向かい合って語る。監督と一対一で、監督がインタビューをする形もある。どちらにせよ、被災者が自分の体験を語るということが目的とされた対話で、生々しい当時の体験が語られる。対談、鼎談の組み合わせは、夫婦、兄弟姉妹、仕事仲間、友達同士がほとんどで、登場する被災者の職業は、市議会議員、地元消防団、漁師、呉服屋、コンビニのパートとさまざまだ。

同じ震災を経験しても、個々の経験には個人差がある。津波に流された人、町が津波に流されていくのを見た人、津波が引いた後にその残骸を見た人。地域を同じ津波が襲っていても、個人の体験は千差万別で、その分感じたものも一つ一つ異なってくる。

 それらは決して均質化されるようなものではないし、同じ体験をしたからといって同じことを感じるわけでもない。同じように家を流されても、その感じ方は人によってちがう。それぞれにその人の体験があり、その人の震災がある。そしてそれは、本人の口から言葉になって出てこないと、他人には見ることが出来ない。

 この映画シリーズは、体験が対話の中で言語化され、外化していく様が鮮やかに記録されたドキュメンタリーだ。そして、言葉によってみるみる鮮明になっていくのは、結局のところ、その人自身である。津波の様子がどうだったか、被害の状況がどうかということよりも、その人がこれまでどうやって生きてきたか、どういうものを大事にして生きてきた人か、そして震災以後、今どうやって生きているかが浮かび上がるだけなのだ。震災という非現実的で大きな体験は、まるでその人自身を映し出す鏡のようで、震災を語っているのに、だんだんとその人そのものが見えてくる。

 人が発する言葉は、結局のところその人そのものでしかない。その人自身が言葉の断片として現れてくるだけだ。これが明らかになった時、私が思うことが二つある。一つは、対話を通してその人の輪郭が鮮明にこちらに見えてくることの素晴らしさ、そしてもう一つは、そうなったとき、やっぱり自分にとってどうでもいい人と話はできない。

 関口存男は、「過去」の表現は「話し手が仮に過去のある瞬間に身を置いて考えながらその瞬間に行われた動作又は状態を表現」したものだといい、それは「物語」であると言う。自身の過去の体験を物語ること、それが他者との対話の中で引き出されていくことがこのドキュメンタリーでは描かれる。震災についての映画であるから全員「あの日」の話をするわけだが、そういった特殊な状況に限らず、過去を物語る、どういった経緯で今の自分がいるのかを語ることは、自分の足元を確かめる作業なのだと思う。

 私は10代の頃寺山修司の詩が好きで、いくつかある好きな詩の一つに「振り向くな、振り向くな、後ろには夢がない」という言葉があった。当時の私には、この前だけを向く潔さが、自分が気を強く持っているための追い風のようにはたらいて心地よかった。しかし、後ろに夢はないかもしれないが今日に続く現実がある。そこに目を向け、記憶をたどって一つ一つ思い返すこと。それを現在から、「今から思うと、あれはああだった」と捉え直すこと。これを人と話をする中で行い、自己理解と他者理解が深まっていくこと。これこそが対話の重要な役割であって、人間が2人いることの意味、絶対的に相互理解が不可能な人間同士が関係することの意味なのではないかと思った。「人が2人いて、絶対的に分かり合えない、けど話をすることに何の意味があるんだろう」と私はよく思うが、この映画の中にその答えが含まれている気がした。

 そして、それならやはり、自分が特に関わりたくない、縁がない、興味のない人の話は聞けないと私は思う。聞いても困る。興味がない人の人生の断片を披露されても困る。

 しかし、この映画を見ていて、私は登場する人々のごく個人的な話をとてもよく聞くことができた。いつまででも聞いていられると思った。自分に直接関係のない、自分がただ「東日本大震災の被災者」としか見ていない人たちの対話をスクリーン越しに見聞きして、「被災者の一人」としか認識していなかった匿名の人の、顔が顔として見え、その生活が見え、人生が見えてくると、風景の一部のようにそこにおさまっていた人が、画面の中で立ち上がってくるような感覚を覚えた。それを助長する演出として、はじめは対話する二人を捉えていたカメラが、途中から一人ずつを正面からバストショットで捉えるようになる。特殊なカメラ配置で、対話する人の顔を正面から撮るという演出を可能にしている。そういった演出がこの映画に優れた媒介の構造を作っていて、観客の私が第三者として、対話の中で人の輪郭が鮮明になっていく様に立ち会うことを可能にしているのだと思う。これがこの映画を、たんなる出来事の記録ではなく、媒介性のある表現として成立させていると感じた。

1月 24

大学入試センター試験が2020年から大きく変わります。
この点について、取材を受け、意見を求められることが増えてきました。
この1ブログでもはっきりと見解を出しておきます。

以下は『こら、慶応』(2018年12月29日刊行 宝島社)というタイトルの慶応大学の「裏ガイド」の取材を受けた内容のラスト部分です。
以下は、私が書き足したものです。

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大学入試センター試験の改悪

2020年から現行の大学入試センター試験に代わって大学入学共通テストが始まる。
記述式問題が一部で導入され、英語の4技能のための民間試験が使用されることなどが話題になっている。
しかし、私はこの改革には賛成できない。現実の深刻な問題を無視した、きれいごとでしかないからだ。

現下の日本の教育の最大の問題とは、経済格差の拡大、それによる学力格差の拡大である。
特に低学力層の学力低下が止まらないでいる。それへの対策こそが急務なのである。
したがって、入試改革の議論も、当初は高校生の学力を基礎レベルと発展レベルに分けて、それぞれの「達成度テスト」の導入が検討された。
従来のセンター試験は発展レベルであり、基礎レベルのテストの導入こそが真剣に検討されていたのである。

ところがいつのまにか、基礎レベルの方は消えていまい、「発展レベル」だけが、記述式問題や英語の4技能などできらびやかな装いをもたせられ脚光を浴びることになった。
これは本末転倒である。「発展レベル」は従来のままで問題はなかった。
本当は、大学全体が入試における3段階に区分され、ほとんどの大学から入試がなくなる方向に進むべきだったのだ。

それが、今回の改革(改悪)のように、現実の問題解決に役立たない、摩訶不思議なことが起こっている。

「学力低下」が問題になっているが、激しく低下しているのは、こうした改革を行おうとしている中央教育審議会の委員たちと霞が関の役人たち、政治家たちである。

今の日本の大人たちは、自らが問題を直視できず、問題解決の能力がないことを示している。
彼らは、戦後の入試改革の失敗の歴史、SFCの失敗から何も学ぼうとしていないのである。

1月 14

高校作文教育研究会の2月例会(2月17日(日))の案内です

高校作文教育研究会は、中井が関わっている高校段階を中心とした表現指導の研究会です。

年に3・4回の例会を開催しています。

関心のある方は、以下のブログから、研究会の活動の詳細を知ることができます。
また参加申し込みもできます。

高校作文研究会ブログ
http://sakubun.keimei-kokugo.net/

2月例会は、清教学園の「探究科」の実践報告です。
すばらしい実践です。
この実践の中心で活躍した片岡則夫さんと山本志保さんが、自らの実践を語ってくれます。
またとない機会です。

実は、私(中井)は清教学園のこと、「探究科」のこと、それに関わっている片岡則夫さんや山本志保さんのことを知りませんでした。
昨年の夏の終わりに、兵庫の藤本英二さん(『聞かせて?な 仕事の話』など著書多数)からすばらしい実践が行われていると教えてもらいました。
そして、大いに驚き、嬉しかったのは、片岡さんが私の『脱マニュアル小論文』の読者だったことです。
以下、片岡さんからのメールの引用です。
「実は数年前に『脱マニュアル小論文』を読み連絡をとってみようかと考えた時期があったのです。
『「聞き書きの力」 表現指導の理論と実践』も手元にあります。
といいますのも、多くの小論文の類書のなかで、中井氏のみが生徒自らの足元を掘り下げる指導をされていたからです。
論文は結局はそこからしかはじまらない、という考え方に深く共感しておりました。
いま手元の『脱マニュアル…』を開きますと、
「無関係な題材を書くことを許容しながら、注意深く、本人の『覚悟』ができるのを待つことが肝心だ」(p.96)
に傍線が引いてあります。
テーマ探しそのものです。
手紙を書く,フィールドワークする、みなタラントンでもしてきたことです。
お会いできる機会があれば喜んで参上します。」(引用終わり)
同志と巡り合えることの喜びを、今回は強く感じました。

なお、清教学園の応援団として、藤本英二さんと教育学者の小笠原喜康さん(『大学生のためのレポート・論文術』などで有名。2月には講談社現代新書で『中高生からの論文入門』を片岡さんと共著で刊行)が参加されます。

みなさん、ぜひ、ぜひ、おいでください。

1  期 日   2019年2月17日(日)10:30?16:30

2 会 場  鶏鳴学園
〒113?0034  東京都文京区湯島1?3?6 Uビル7F
ホームページ https://www.keimei-kokugo.net/
※こちらで地図をご覧ください

3 報告内容
「探究科」9年間を振り返る
大阪府清教学園(中学・高校)片岡則夫、山本志保

大阪府河内長野市に清教学園(中学・高校)というキリスト教系の私立学校があります。
この清教学園の探求科の実践です。
大学との連携コースの1クラス40人(年度により2クラスの場合もあり)が対象で、高2、高3の2年間かけて入念な指導を行い、最終的に四万字(原稿用紙100枚)の卒論を書かせます。
目的は「生徒が主体的な学びを通じて、学問の世界に触れるとともに、自らの賜物(才能、個性)を見いだし生かす」。
自分の関心にそって各自がテーマを設定し、その問題を論じます。
そのテーマ設定にも、その調査にも、論文にまとめる際にも、丁寧な指導がなされています。
調査とは、文献調査であり、フィールドワークや取材(聞き書き)までを行います。
文献調査のためには、図書館が大きな役割を果たします。
これは2008年度から2016年度までの9年間行われた実践ですが、この間に、「図書館を使った調べる学習コンクール」で13作品が8年連続で入賞。
最高賞の文部大臣賞などを3人が受章。
こうした授業を組織する上での様々な問題をどうクリアーしていったのか。
一般に探究学習の課題とされてきたのは以下の4つですが、それにどう挑戦し、どこまでが解決できたのか。
1.テーマが決まらない。
→何度でも変更すればよく、いずれは決まる。
2.論文作成をどう指導するか。
→ピースを基礎とした論文デザインの指導をまとめた。
しかしピース作成時にコメントが書けない
3.資料が行き届かない。
→図書館の充実とレファレンスで解決。
4.やる気が出ない・論文に意義を見出せない・興味に正面から立ち向かえない。
この4点は、こうした実践をすれば必ずぶつかる難問です。
参加者同士で互いの悩みを出し合い、その克服の方法をご一緒に考えましょう。
参加希望者には、あらかじめ資料などをお送りします。
それらに目を通してから参加してください。
(中井記)

4 参加費   1,500円(会員無料)

参加をご希望の方は、下記、お問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/sakubun-contact/postmail.html