7月 10

松田道雄著『新しい家庭像を求めて』の読書会の報告 その3

6月21日(日)に、鶏鳴学園にて、松田道雄著『新しい家庭像を求めて』(筑摩書房 1979/12)の読書会を行いました。

この読書会の報告を3日にわたって掲載します。

本日は、「5.卒塾生とゼミ生の感想」以下です。

 ■ 目次 ■

1.テキストと著者
2.本書の読み方
3.「忠君愛国」に取り込まれた「家内安全」 (中井の感想)
4.塾の保護者、生徒の感想
5.卒塾生とゼミ生の感想
(1)T君(大学1年生)
(2)加山 明
(3)畑間 香織
(4)掛 泰輔
(5)田中 由美子
6.おまけ

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(1)T君(大学1年生)

1. 久しぶりに鶏鳴に顔を出しましたが、やっぱり楽しかったです。
大学の授業の中では、「こんなことして何になるんだろう」と思うようなものが沢山ありました。
本を読む、中井先生の意見を聞く。そして、見聞きしたことが自分の経験の中で活きてくる。
勉強はこの方がやはりずっと面白いです。

2. テキスト
松田さんは、問題や矛盾から目を背けないで研究していく姿勢を徹底していて、そこがすごいと思う。
私は矛盾が出てくると、ついうやむやにすませたくなることがある。
松田さんは、そうした私の姿勢を逃さず指摘してくれた。

3. 私の母方の祖父は、私をとても大切に思っていることがよくわかる態度を示してくれる。 
しかし、思い方が完全にまちがいではないにしても、私にとっては好ましくないことを言い続けてくる。 
対して、私の父は、あまり私のすることにとやかく言わない。ただ、言わなすぎて意思疎通ができずにいる。
多分、父は、祖父とは反対のやり方で、私を大切に思ってくれている。

それが、今回の読書会で、中井さんの意見を聞いたり、父の言動を思い返しているうちに分かった。
ただ、父は具体的にどうすればいいか、どこまで口出ししないのがいいかが分からないのだと思う。
何故かというと、父も又、両親と意思疎通が上手く取れていなかったようだからだ。
父の母は、父が市川中の生徒だった時、毎朝テーブルに500円玉(弁当代)をおいて、二度寝したのだという。
つまり、父は、親子の接し方はどういうのがベストなのかわからないのだろう。
だから、私と父、父子の接し方がわからない者同士で、接し方を共に考えていく作業が、私の課題への最大の対策だと思う。

(2)加山 明
1. 「自立」の問題は、女性だけではなく、男性にもあてはまる。
2. 人生の「始まり」と「おわり」を誰が、どうサポートするか。
  基本的人権としての位置付けか、
  受益と負担がバランスする行政サービスとしての位置付けか、等々、論点が無数にある。
3. 昔の女性は、家事労働を芸術の域にまで高めれば善く生きられるという様式美の時代で、手段と目的が一致していた。
今はそれが分裂している。
  1、2とも相まって、大変な時代になっている。
4. このレベルの高さでの「売れっ子」は、今ほとんど見当たらない。
 
(3)畑間 香織
  一貫して自立がテーマだったので、面白かった。
  自分の生活は自力で選択できることの大切さを改めて実感した。

(4)掛 泰輔
1.三世代共生の意味を考えることで、自己理解を深めようとした読書会だった。
 よく考えられるような論点を、松田さんがたくさん出している。
 こういう人がいるのに驚いた。
2.祖母が僕を教育してきた、その中身を考える必要もあるが、
中井さんが指摘した、祖母の生き方の明確なスタンスとオープンな思想は、
しっかりと受け継ぎたいと思った。
 自由、自立ということが、主婦だけではなく、正に若者にこそ問題にされているという観点で、
読み直したり、歴史的、唯物論的な考え方を学びたい。

(5)田中 由美子
60代の主婦である友人は、共働きの息子夫婦の子ども、つまり孫の世話をしている。
その合間に、愛知で一人で暮らす父親の世話をしに行く。
子育てを終えてなお、大きな責任を負って毎日孫の命を守り、
自分の時間のほとんどを家族のために費やす。
私にはそういう生活はできない、と考えていた。
それは、家が中心の、家を存続させるために生きるような、
例えば祖母のような生き方であるように思っていた。

私は大家族に対して人一倍否定的な思いを持っている。
そのことに、今回の読書会の中で気付いた。
それは、大家族の嫁という立場にあって、働きづめだった祖母を見て育った、長女としての母の思いから来ている。
それでも、祖母は、家族の生活を豊かに支える、家庭の中心でもあった。
しかし、祖母は、80代で曾祖母を見送った後、体の自由が利かなくなって、
その時やっと働かなくてもよくなったというのに、「もう何にもできんようになってしもて…」と消え入りそうな声で度々言った。
家族のために労働する自分でなければ、存在価値がないと感じているのだと、祖母と同じく専業主婦だった私は思った。
祖母の人生は何だったのかと感じた記憶は、大家族の問題以外の様々なことをごちゃまぜにしたものだったと思う。

確かに、私は友人のように孫の世話をするような生活はできない。
しかし、その理由は、それが家を中心に生きることだからではない。
今の私がその仕事を選ばないからに過ぎない。
仮に私が孫育ての仕事を担うとすれば、それが家を中心に生きることなのかどうかではなく、
その孫育ての中身がどうなのかということが、私がどう生きるのかということだと、読書会の中で思った。子育ても同じだ。
今もし私が若ければ、自我を押しつぶしてもたれ合う三世代家族を一旦否定した上で、
個人が個人として生きるための大家族づくりに、挑戦くらいはしてみるかもしれない。

                                        

6.おまけ

当日参加した保護者の方から、大学生・社会人ゼミについて、次のような感想をもらいました。
「テキストはもちろんですが、お若い学生さんや社会人の方々のピュアで真摯なご意見など、大変興味深かったです。
多分常に中井先生とは隠し事をせずに本音で語り合う訓練がされているからでしょう」。
 私のゼミで行っていることを、改めて自覚したようにおもいます。

7月 09

松田道雄著『新しい家庭像を求めて』の読書会の報告 その2

6月21日(日)に、鶏鳴学園にて、松田道雄著『新しい家庭像を求めて』(筑摩書房 1979/12)の読書会を行いました。

この読書会の報告を3日にわたって掲載します。

本日は、以下の「4.塾の保護者、生徒の感想」です。

 ■ 目次 ■

1.テキストと著者
2.本書の読み方
3.「忠君愛国」に取り込まれた「家内安全」 (中井の感想)
4.塾の保護者、生徒の感想
5.卒塾生とゼミ生の感想
(1)T君(大学1年生)
(2)加山 明
(3)畑間 香織
(4)掛 泰輔
(5)田中 由美子
6.おまけ

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4.塾の保護者、生徒の感想

(1)高3女子の母

 働きながら、家庭をしっかりと守っている女性が増えていますので、
家の中のことしか出来ない自分に対して、複雑な思いと、
誰よりも子供達や主人に愛情を持って行動しているのではないかという主婦としての誇りが入り交じって居りました。
 主婦の自立や生きがいを考えた時に、あまり子供と一体化し過ぎず、
しかし、子供を幸せに導くことは、バランス感覚が必要なことであると思います。
 自分のことより家庭を優先し過ぎないよう、
自分自身の自由や老後を考える良いチャンスとなりました。

(2)高3女子の母
 日々、子育てに関しては自問自答しながら真剣に取り組んできたつもりですが、
それは自分の楽しみでもあり、確実に母子一体化してきたと自覚しております。
 自分自身が、自立して自分らしく、できれば社会貢献できる道というのは、
漠然と以前から考えてきたことですが、改めて真剣に考えなければいけないと思いました。
 この20年ほど、専業主婦をしてきて、
今はまた外に出て社会貢献をしたいという思いも強いのですが、
本当に意味のあることを選び取っていきたいと思います。

(3)中1女子の母
 この本を読み、改めてこれから自分がどうしていったらいいのかを考えるきっかけとなった。
 自由であるから迷っているし、正解がないので、今選んでいることも正解かもしれないし、間違っているかもしれない。
これからもずっと、どう生きていくのかを考え続けることになると思う。
 ふだん、なかなか他の世代の人の意見を聞く機会がないので、読書会を開いていただき、うれしく思います。

(4)中1男子の母
 文明がどんどん発達して、便利になって来た現代において、
昔のような三世代同居に逆戻りすることは、そう簡単ではない、
むしろ不可能だと思います。
その中で、介護の問題や、独居老人の問題などをどう解決するのかは、非常に難しい問題で、
なかなか答えが見つかりません。
 ただ、これから長い人生を生きていく上で、
一人一人が意識を持って生きていくこと、考えていくことで、
何らかの答えが出てくるのではないでしょうか。

(5)高3女子
 女性の自立について考えていて、お金を稼ぐことが必ずしも自立ではない、
指示されたままでは女性の立場は低いままだ、という新しい視点が持てた。
 p71に、民主主義になるほどかえって女のよわさがでてくる、とあるが、
何故民主主義だと女のよわさがでてくるのだろう。ここをもっと本を読んで、考えていきたい。

(6)中1男子 
 この本自体、難しくて半分ぐらいしかわからなかった。
 この本では、江戸時代から終戦までの変化をくわしく書いていたので、
自分が大人になってからもう一度読んでみたいと思う。
 あと、初めて知ったこともあり、とても参考になった。

7月 08

松田道雄著『新しい家庭像を求めて』の読書会の報告 その1

6月21日(日)に、鶏鳴学園にて、松田道雄著『新しい家庭像を求めて』(筑摩書房 1979/12)の読書会を行いました。
もともと大学生・社会人ゼミ主催の読書会だったのですが、今回のテーマが「家庭論」でしたので、
鶏鳴学園(中学、高校生対象の塾)の生徒や保護者の方々にもご案内しました。
以下の「1.テキストと著者」はその案内文で、
「2.本書の読み方」は参加者に読み方のアドバイスをしたものです。

当日はゼミ生4人以外に、卒塾生(大学生)1人、生徒2人、保護者の方4人が参加しました。
10代から60代までが集って共に議論をするという、壮大で、異色の勉強会でした。
家庭というテーマが、すべての人に共通する、本質的なものであることを、改めて再認識しました。
こうした勉強会を、
今後も用意していきたいと思います。

この読書会の報告を3日にわたって掲載します。
本日は、以下の
3.「忠君愛国」に取り込まれた「家内安全」
まで。

 ■ 目次 ■

1.テキストと著者
2.本書の読み方
3.「忠君愛国」に取り込まれた「家内安全」 (中井の感想)
4.塾の保護者、生徒の感想
5.卒塾生とゼミ生の感想
(1)T君(大学1年生)
(2)加山 明
(3)畑間 香織
(4)掛 泰輔
(5)田中 由美子
6.おまけ

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1.テキストと著者

少子高齢化社会を迎え、核家族のもとでは両親の介護の問題が深刻です。
私たち自身の老後にも不安があり、男性の定年後の夫婦の生き方の問題もあります。
そうした中で女性の生き方も改めて問われます。
子育てや子供の教育に関しても悩みは多いと思いますが、根底には母子一体化の問題があるように思います。

こうしたことを考えるために、松田道雄著『新しい家庭像を求めて』(筑摩書房 1979/12)を読みます。
1979年刊行の本で、少し古いのですが、根本的なところから家庭の在り方を捉えているので、本書を選びました。

戦後、家族や家庭の在り方に大転換がありました。
3世代の大家族から、核家族になり、マイホームや専業主婦が現れてきました。
そうした変化の背景やその意味を、本書はわかりやすく説明してくれます。
そこからどのような問題が生まれているかを考えてみたいと思います。

松田道雄(1908-1998)は、小児科医であり育児書『育児の百科』(1967年出版)はベストセラーになりました。
開業医として、地域の家庭の変容を見守り、母親、主婦の声に耳傾け、
さらに老人たちやその孫たちの思いもしっかりと受け止めようとしています。
また彼は京都大学の人文科学研究所のメンバーとして共同研究にも参加し、
広く人類の社会と歴史を研究しています。
そうした豊かな視点から、家庭問題を解明しているのが本書です。

                                        

2.本書の読み方

松田道雄著『新しい家庭像を求めて』は、読みやすくわかりやすく書かれた本ですが、200ページ以上あります。
読書会では読むテキストと論点を絞って議論したいと思います。

一「民主主義のなかの家庭」(前半)は、日本の家庭に敗戦後に起きた大きな変化をとらえたものです。
ここでは、「あなたの家庭はそれでよいか」は省略し、「マイホームと現代」と「親と子」と「一夫一婦制と性」を取り上げます。
「マイホームと現代」は、老人問題を考えています。老人介護の問題が緊急な課題となっている現代では、切実です。
「親と子」では、特に「父親考」が重要だと思います。「おやじと私」は松田自身の父親が書かれており、面白いです。
「一夫一婦制と性」では「自由と男と女」を読めば良いと思います。

二「母親たちの明日」(後半)は、いわゆる「女性の自立」の問題を扱っています。
ここでは「母親へのメッセージ」から「母性愛今昔」と「独立した個人として」と
「主婦の生きがいとは何か」と「子どもの文化・母親の文化」を読みたいと思います。
特に「主婦の生きがいとは何か」が重要です。

                                          

3.「忠君愛国」に取り込まれた「家内安全」 (中井の感想)

 「家庭」論は、ムズカシイものです。
「家庭」については皆がよく知っているのですが、
その本質や問題を平易に説明するのは、至難の業です。
それを本書は、楽々と余裕を持って行っていることにまず、感心します。

 これまで私が読んだ家庭論では、ヘーゲルの『法の哲学』の家庭論を別格とすると、
社会主義者の堺利彦の『家庭の新風味』がダントツです。
子どもを「次の時代の働き手」と規定し、それゆえに子どもとは人類と両親にとっての「夢」そのものであることを示します。
そこから「子どもは社会からの預かり物」として大切に愛し育てなければならないという規定。
それは「子どもを親の私物化することを許さない」というまっとうな方針を含みます。
こうした大きな原理原則を踏まえながらも、日常の基本的生活の実用書でもあります。
戦前に、こうした著書があったことを嬉しく思います。

本書は、それに匹敵するもので、20世紀後半の日本社会の家庭の大きな変化の本質と問題をあざやかに示しています。

特に、明治維新後の大きな変質の指摘にはうなりました。
明治維新の指導者(旧武士)たちは日本に近代国家を作るために、
それまで国民にあった「家」を守るための原理「親孝行(孝)」を基礎に置きながら、
天皇と国民を疑似親子関係とした「天皇制」の上に人工国家を作りました。

それはそれまでの「家内安全」の家族主義を国家規模にまで拡大するもので、
「孝行(孝)」の原理を、「忠君」の原理に取り込んでしまったものです。
国家を大家族としてとらえたのです。

これは上手いやり方でした。
ここから国家のためには「家」(両親、妻子)も犠牲にする「忠君愛国」の兵士と労働者が誕生し、
彼ら壮年の男子と家を守る女や年寄との分業も進み、
日本は近代化と戦争と海外の植民地化に向けて邁進することになりました。
もちろん「忠君愛国」は「家内安全」を犠牲にするところにしか成り立ちません。

敗戦後に生まれた核家族とマイホーム主義に対しても、松田の批判は辛辣です。
アメリカ占領軍は、封建制解体、家長による大家族制の解体の方針を出しましたが、
それを受けて、いっきょに3世代の家族のありかたが壊滅し、核家族とマイホーム主義が覆い尽くしました。
それは「強制」だけではなく、むしろ国民自身が望んだことでした。

これは封建制に対する民主化の「つもり」だったのですが、
それはあまりに短絡的で視野が狭かったと、松田は批判します。
人間は、子供時代と老年期に人の助けを必要とします。
そのために、人間たちは「家」を守ることを必要とした。
それを解体するのなら、老人が切り捨てられることになる、と松田は指摘します。
松田は、高齢者の「年を取ってから楽をする権利」は「基本的人権」だと主張します。
私は、こうした指摘を自分自身への厳しい批判として重く受け止めました。

松田は全体として常に「自立」「自己決定」「基本的人権」を問題にします。
それが生きること全体を貫く原則として示されていることに感心します。
それは松田自身がそう生きていることの表れでしょう。
彼は京大の人文研のメンバーとしても活躍していますが、もともとは町医者です。
そして、彼の父もまたそうであり、その父の方針から多くを学んだようです。

彼は患者の自己決定権を大切にしようとします。
「症状があっても、その症状が本人の現在の生活にとって支障になっていなかったら、
医者は治療という名で、その人の生活に立ちいるべきではない」94ページ
さらには「安楽自殺の権利を要求するところまでいかないのは、
自由意思で生きようという老人が少ないせいだろう」(61ページ)とまで述べています。
「ここまで言うか」と驚きました。

女性の自立についても、女性が外で働けば解決ではありません。
むしろ奴隷化が強まる可能性もあるのです。松田はそこを見逃しません。
「指図してもらわないと落ち着かないからというような自由恐怖症の女だけが働くことになれば、
女の地位は今よりよくはならない」183ページ

家庭の問題は、誰にも身近だからこそ、どうしても感情的になったり、一面的になりやすいものです。
本書は違います。
ここには広い視野に基づくおだやかさ、
過激な問題提起を含みながらも、人間を見つめるまなざしの温かさがあります。
それに改めて感心しました。

松田は何も触れていませんが、
本書の論考は、梅棹忠夫の「妻無用論」「母という名のきり札」に触発されて書かれたように感じました。
梅棹の問題提起を受け、その不十分さを補いながら、それをさらに客観的に深めているように思います。

松田の論考は70年代で終わっています。その先を私たちは進まなければなりません。
そこでは社会における「家族主義」を改めて問題にしなければならないと思います。
明治維新後に「孝行(孝)」が「忠君」に取り込まれたのは、
それほどに「家族主義」的な感情が私たちに強く作用するということでしょう。
それは身内の一体感を大切にしますが、ひとたび身内でないと判断すれば、徹底的に排除する論理です。
それは国家にも会社にも役所にも学校にも、マイホームにも根付いているのではないでしょうか。
そこを解決していかなければ「自立」「自己決定」は不可能であり、先の展望は開かれないと思います。

                              2015年7月5日
                                               

7月 07

程塚英雄さんを偲んで
追悼学習会のお知らせ

高校作文教育研究会

 程塚英雄さんが亡くなられて1年になります。亡くなられたのは昨年の4月4日でした。
程塚さん(昭和12年生まれ)は、高校教師として長い間作文教育の実践と研究をされてきました。
程塚さんの退職の年に設立された本会には創立者の一人として参加され、東京で開いていた例会には皆勤でした。
退職後も講師として勤務、意欲的に実践を生み出され、本会の活動を実践と研究の面でリードしてくれました。

 ここに追悼学習会を開いて、在りし日の程塚さんを偲ぶとともに、
程塚さんの実践から学んだことや、引き継いでいきたいことを語り合いたいと思います。
多くの皆様方のご参加をお待ちしています。

1 期日 2015年7月12日(日)午後1時?4時
2 会場 鶏鳴学園 
3 内容 
 3?1 程塚さんの実践に学ぶ
  宮尾 美徳(東京 私立正則高校)
  古宇田栄子(茨城 元高校教師)
  中井 浩一(東京 鶏鳴学園)
 3?2 全体討論…参加者の感想と意見
 3?3 追悼学習会に参加して…程塚節子さん(茨城)

7月 07

梅棹忠夫の「妻無用論」「母という名のきり札」を久しぶりに読み直しました。
女性の自立の問題を考えるためです。

これと併せて、松田道雄著『新しい家庭像を求めて』の読書会も開催しました。

本日は梅棹忠夫の「妻無用論」「母という名のきり札」について私見を述べ、
明日は、松田道雄著『新しい家庭像を求めて』の読書会の報告をします。

■ 目次 ■

1.先見性と一面性  梅棹忠夫の「妻無用論」「母という名のきり札」について
 中井浩一

(1)梅棹忠夫の問題提起
(2)妻という生き方、母という生き方
(3)梅棹の一面性
(4)人類学の意義と限界

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1.先見性と一面性  梅棹忠夫の「妻無用論」「母という名のきり札」について
  中井浩一

(1)梅棹忠夫の問題提起

梅棹忠夫の「妻無用論」「母という名のきり札」(『女と文明』中公叢書に収録)は1959年に発表された。
この1959年は、55年頃から始まった高度経済成長により「主婦」層が急増していた時期だった。
この論考は発表されるやいなや、一大論争を巻き起こす。それは約10年ほど続く大論争の火付け役をになったのだ。
これらは後に「主婦論争」として本にまとめられている(『主婦論争を読む』上野 千鶴子編著、勁草書房1982など)。

梅棹のねらいは、問題提起をすることそれ自体にあったろうから、それは大成功だったことになる。
彼はまさに問題の核心を突いたのだ。そしてそれは、今も解決できないままに残されている。

今回、この2つの論考を読み直し、考えたことをまとめる。

(2)妻という生き方、母という生き方

梅棹は、妻という生き方、母という生き方に問題提起をしている。
夫のみが直接に社会で生産労働を担い収入を得て、
妻は家庭に引きこもり家事労働、子育てを専門とする。
これでいいのだろうか。

近代以降、家事はどんどん産業化、機械化されてきたが、
高度経済成長下で家事の電化によって妻たちの負担は大幅に軽減された。
主婦たちに余暇が生まれ、主婦たちの「生きがい」が問題になる段階になった。
そこで梅棹の問題提起は威力を発揮した。

主婦の多くは余剰エネルギーを育児に振り向け、
過保護や母子一体化が進んでいる。
その結果、自分の人生の目的や計画は持たず、
子どもの人生がそのまま自分の人生であるような生き方に陥ることが多い。

女性が妻や母のポジションに埋没するのではなく、
人間として充実した生き方をするにはどうしたらよいのか。

梅棹の答えはこうだ。
「女自身が、男を媒介としないで、自分自身が直接に何らかの生産活動に参加することだ。
女自身が、男と同じように、ひとつの社会的な職業を持つほかない」。

(3)梅棹の一面性

梅棹による妻や母の問題の指摘は、すべてもっともだ。
だからこそ、大きな衝撃力をもったのだろう。

しかし、この女性の問題は、基本的には男女の社会的な「分業」にともなうものだ。
すべての分業は一面性や、視野の狭さ、ゆがみなどを必然的に生み出す。
それは女性側だけのことではない。
男性側にも大きな欠落を生みだしている。
ところが、梅棹は男性側の問題を語らない。これではあまりにも、一面的ではないだろうか。

男は社会で生産労働を担い、女は家庭で家事労働や子育てを専門とする。
こうした分業は、そもそもなぜ行われたのだろうか。

梅棹は、そうした分業が行われるサラリーマン家庭を江戸時代の武士の系譜の延長に見ているが、
それは現象面での類似でしかない。
この分業システムは武士云々とは無関係に、
近代社会、資本主義社会に必然的なことでしかない。
賃金労働(これがサラリーマン化)が普遍化すれば、世界中のどこでも同じことが起こる。
それは近代化、工業化の必然的な結果でしかない。

分業はその社会の生産力を高めるために行われる。
男女の分業、そして社会的生産の場(会社)と家庭の分業も、そのために行われるものだ。
日本では、この男女の分業システムは、高度経済成長下で完成した。
「専業主婦」の在り方が一般的になったのだ。

男性はほとんど家庭にいない状態になり、家庭の仕事は全部が女性に託されるようになる。
男性は、サラリーマンとして企業に埋没して生きる。「会社人間」「モーレツ社員」「企業戦士」。
家庭を顧みる余裕はなく、親子の時間も夫婦の時間もなくなった。
女性が、妻として母としてしか生きておらず、人間として生きていない、との梅棹の批判は正しいが、
男性もまた「会社人間」としてしか生きておらず、人間として生きていないのではないか。

女性の問題と男性の問題は1つの問題の裏表である。
したがって、この女性たちの問題は、
女性が男性と同じように外で働くこと、男性と同じことをするだけでは解決されない。
「会社人間」「モーレツ社員」「企業戦士」が増えるだけのことだ。

こうした完全分業制は、生産力を飛躍的に高めることに成功したし、生産性が上がる限り続く。
しかし、そこには自己矛盾があり、その成功ゆえに崩壊していく面を持つ。
日本は高度経済成長で豊かになった。家庭には家電製品があふれ、家事の負担は大幅に軽減される。
その時、女性たちには時間的余裕が生まれ、改めて「生きがい」が問題となってくる。

工業化は公害を生み、環境保護が初めて意識される段階が現れる。
高度経済成長も終わりを迎える。
女性と同じことが「モーレツ社員」「企業戦士」たちにも起こる。
彼らも改めて「生きがい」の問題に直面したのだ。
その時、そこに「空虚さ」しか見いだせない人たちが大量に現れた。

梅棹の予言はまさに的中した。
しかし、それは現実の半分だけだ。
男性側の問題がそこには完全に抜け落ちていた。

(4)人類学の意義と限界

改めて、梅棹の先見性と、その一面性を考えたい。

梅棹の先見性はどこから生まれたのか。
梅棹は「社会人類学」や「文化人類学」を仰々しくふりかざしているが、
それはサラリーマンと武士との現象的類似を指摘するレベルのものでしかない。
この専業主婦の問題は、本来は、近代化や資本主義経済の基本的な枠組みからのみ理解できることなのだ。

しかし、経済学や政治学の研究者、社会主義運動の理論家や実践家からは
梅棹のような問題提起が生まれなかったのも事実である。
彼らには主婦や母たちの問題が見えていなかったのだ。

梅棹のように、世界中の民族を比較研究する中で、
家庭や女性や結婚のありかたを比較研究する視点からしか、
女性の問題は見えなかった。
男性社会であり、工業化社会であり、
その中に埋没して生きている限り、それを超える視点は持てないからだろう。
そこに梅棹の先見性があった。

しかし、一方で、近代化や資本主義経済の理解が不足している梅棹には、
男性側の問題の指摘はできなかった。
しかし、それこそが問題の中の問題、核心的問題だったはずだ。

「女自身が、男を媒介としないで、自分自身が直接に何らかの生産活動に参加することだ。
女自身が、男と同じように、ひとつの社会的な職業を持つほかない」

これでは何も問題は解決しない。そのことを、今、私たちは知っている。

                          (2015年7月5日)