3月 19

10のテキストへの批評  5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)

■ 全体の目次 ■

1 ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)
6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)
7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)
8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)
9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))
10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)

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5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)

 セルフサービス方式の本質分析は実に面白い。高校生にとってもっとも身近な場所がコンビニやスーパーマーケットだろうから、そのシステムの構造を教える本テキストは刺激的な学習に導くことだろう。
 ただしその面白さは、著者・長谷川一によるものではない。経営コンサルタントの渥美俊一らの「ワンウェイ・コントロール理論」そのものの面白さなのだ。この理論を知ってから、我が身を振り返れば、確かにその理論がスーパーマーケット売り場と客たちの行動を支配していることがわかる。私たち消費者にとって、自分たちが無自覚に動かされていた理論と、その目的(売上げアップ)を自覚することは重要だ。
しかし、この理論への長谷川の分析と解決策(?)はいただけない。長谷川は前半で「自由」のつもりが「不自由」であることを示す。後半ではその「不自由」さがいかに徹底的に制御統合されたものであるかを示す。それは「『消費』を生産する工場なのだ」。しかしそれは矛盾であり、その矛盾が「裂け目」や「ほころび」を生む。長谷川はそこにわずかに「自由」の可能性を見ている。
しかし、これでは問題の解決にはならないだろう。7段落で示される「自由」概念、つまり「主体の意志にもとづく選択にあたって外部から制限の加えられないこと」という考え方自体がニセモノで低級であることこそが核心である。「ワンウェイ・コントロール理論」はそれを暴露しているだけなのだ。その意味では、私は「ワンウェイ・コントロール理論」を大いに祝福したい。
「ワンウェイ・コントロール理論」に対抗したいなら、その理論と実践の「裂け目」や「ほころぶ刹那」に解決や出口をさがしても有効ではないだろう。本来の解決は、ここで示された自由概念の低級さを超えた、本当の自由概念を示すことだと思う。「本当の自由とは何か?」
なお、直接はテーマとは関係しないが、長谷川の考察にある「身体主義」(「特定の身体」「身体の運動」「身体と実践」といった用語の多様)が気になる。フッションに流行があるように、思想や学問にもそれがある。今では「身体性」がそれだ。ブームだからそれは雰囲気的なものであり、実質は乏しい。そうしたブームを相対化できることが、研究者の要件の1つではないだろうか。

3月 18

10のテキストへの批評  4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)

■ 全体の目次 ■

1 ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)
6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)
7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)
8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)
9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))
10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)

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4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)

養老孟司は東大の解剖学者だったが、大ベストセラー『バカの壁』などの著者として有名になった。『唯脳論』も話題になった。本テキストでも、脳の問題を前半で述べている。
 しかし、『バカの壁』の魅力は解剖学や脳科学からの分析にあるのではなく、養老の自然や社会の見方にもともとあった斬新さから生まれているのではないか。それは科学者としての知見というよりも、昆虫採集大好き少年の経験と世界観であるように思う。
正直なところ、私には養老がなぜ「脳」という言葉を多用するのかがわからない。なぜ「人間」「主体」「思考」といった伝統的な概念を使わないのだろうか。「脳」という言葉は、その物質を問題にしているのか、その機能の「思考」を問題にしているのかが、わかりにくい。「人間」という「主体」の他に、「脳」という独立主体が存在するのだろうか。
本テキストでも、前半の脳の議論は、テキストの結論と結びついてはいない。このテキストがすばらしいのは、「自然はすでに解を与えている」との養老の主張が、木の葉の配列の例示によって実に鮮明な印象を与えてくれるからである。それは真実であるが、なによりも「美しい」から、読者をはっとさせる力がある。しかしそれは脳科学から生まれた発見や知見などではなく、昆虫少年の感性から生まれたものではないか。それに後付けで「脳」の話を加えただけのように思われる。

3月 17

10のテキストへの批評  3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)

■ 全体の目次 ■

1 ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)
6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)
7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)
8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)
9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))
10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)

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3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)

鷲田は、読者の琴線に触れる書き方ができる数少ない学者の1人である。だからフアンが多いのだろう。
このテキストでもラストの情景は、多くの読者に思い当たる場面だし、心動かされる。それが琴線に触れるのは、それが多くの人々が悩んでいる問題であり、同時にその問題への具体的で直接的な解決を示しているからだ。「こころは、みなさん自身で作ることができるのですよ!」「みなさんは、無自覚にですが、すでに正しい答えを実践しています」。それは人々を勇気づけるメッセージだ。
一方で鷲田は、そうした実際の問題解決につながらないような見方、考え方、固定観念や思考の枠組みを厳しく批判し、その虚構性を暴露する。このテキストでも、4段落がそれで、6段落でその代案を提示する。
 また、鷲田の文章は、出だしのつかみもうまい。さりげない問いによって、読者は自然に問題の核心部分につれられていく。
 以上、そのすぐれた特質について述べたが、私には不満もある。鷲田の処方箋は、無意味な固定観念を壊し、誰もがやっていることに対して「それでいいのだ」と励ますところに力点がある。しかし、問題のより深い意味を明らかにし、より上のレベルの解決策を示すことにはなっていない。それは「臨床哲学」と「哲学」を標榜しながら、問題の論理的なおさえ方が弱いせいだと思う。
本テキストでも論理的にはあいまいな点があり、構成らしき構成はない。そのために、やさしく書かれてはいるが、実はとても分かりにくい。たとえば「こころがあると思うか」「こころを見たことがあるか」「こころはどこにあるか」と3つの問いが提示されるが、この3つをどう関係させているのかがわからない。
本当は、「こころがあると思うか」と「こころはどこにあるか」はこころの存在論の問いであり、「こころを見たことがあるか」はこころの認識論の問いであり、両者は対立しながら結びついている。こころが持つその2つの側面はどう区別され、どう関係しているのか。それがわかりやすく示されなければ、本当の理解には到達できないと思う。

3月 16

10のテキストへの批評  2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)

■ 全体の目次 ■

1 ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)
6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)
7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)
8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)
9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))
10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)

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2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
 昔読んだことがある懐かしいテキストだ。改めて読んでみて、すぐれた洞察が込められていると感じた。前半の議論も面白い。失われたゆえに想像のうちで暗示が膨らみ、それが美という全体性への飛翔を生む。「なるほど!」と感心する。しかし今回読み直してみて、前半よりも後半にこそ詩人の凄みを感じた。ここで示される「手」の象徴的な意味には、心を動かされる。それは人間が手足を使って労働し、人間同士で社会をつくって生きてきたことの証なのだろう。
 このテキストの内容には深い洞察を感じるが、テキストの前半と後半が内的につながっていないように思った。ミロのヴィーナスの美しさの理由として、2つをならべただけで、前半から必然的な形で後半を導出できていないように思う。
私も「ミロのヴィーナス」に感動する。しかしその理由は清岡とは少し違うようだ。もちろん清岡が言う「均整の美」は前提である。私は「ミロのヴィーナス」に、たまらない心地よさを感ずる。それは、その全身に運動の予感が感じられるからだと思う。その身体はゆるやかな運動の中に、とらえられている。そして、人間の運動は、その先端の手の動きで完成するだろう。腕(手)が消えていることは、その運動の頂点を消したことを意味し、それゆえに、私たちの空想は一層膨らんでいくではないか。

3月 15

今年の4月から全国の高校で使用される、
大修館書店の国語科教科書「現代文」「新編 現代文」「精選 現代文」の3種類に関して、
教師用の副教材『論理トレーニング指導ノート』(3種類)を、
鶏鳴学園のスタッフの松永奏吾、田中由美子と一緒に製作・編集した。

これは、3種の「現代文」に収録された評論から10のテキストを取り上げ、
そのテキストの論理的な読解、立体的読解を示したものだ。

そこでは、取り上げた1つ1つのテキストについて、
その考え方を私が批評するコラムをつけている。

指導者が指導する上でのヒントになるように、
テキストへの1つの視点、1つのとらえ方を示したものだ。
これは、広く、世間への問題提起のつもりでもある。

昨年も大修館書店の国語科教科書「国語総合」の3種類に関して、
同様のことを行った。
高校の先生方の中には、私のコメントを楽しみに読んで切るという方々の声を聴いた。
講演に呼ばれたこともある。

教科書には、今、世間で売れていて、評価されている著者が並ぶ。
このメルマガの読者も読んだことがあったり、ファンであったりするだろう。

そうした方々にも、考えるヒントになると思うので、
このブログにも転載します。

■ 全体の目次 ■

1 ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)
6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)
7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)
8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)
9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))
10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)

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1.ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)

ペット論のようだが、実は家族論である。「失われた家族のきずな、その回復を!」といった論調だ。「3丁目の夕日」よ、今一度! それは甘い郷愁へといざない、世間に受け入れられやすいものだろう。しかし、私には大いに疑問がある。
著者は家族こそ守るべきだと主張する。しかし、そもそもの前提は正しいだろうか。近代と前近代の比較から、近代で初めて家族が重要になったと主張しているが、本当だろうか。逆ではないか。近代ではそれまでの大家族が崩壊し、家族は近代産業(資本主義)を支えるための労働力を提供する場へとなりさがったのではないか。高度経済成長期には、「豊かさ」という目標が家族をまとめていたように言うが、「親子の断絶」が激しく起こってもいた。そして、親から独立して若者たちが作った核家族には、芯になる目標がなくなっていた。
資本主義の進展で市場原理主義が席巻しているのは事実だし、そこでは個人が個人としての競争にさらされるのだが、そこから生まれる孤独感は家族の回復で解決されることなのだろうか。そもそも従来の意味での「家族の回復」は可能だろうか。
旧来の血縁による家族や、家族主義的な会社にかわって、新しい原理に基づく共同体が生まれる必要があるのではないか。そしてそれは今、生まれつつあるのではないか。現代はその過渡期であり、その1つの形態として「ペットの家族化」も考えるべきだろう。
たとえば、犬を飼っている人は、毎日の犬の散歩によって地域の人々と「犬仲間」としてつながることができる。ペットは人の孤独をなぐさめるだけではなく、もっと積極的に、人を社会に開く役割をも担うのである。
また「動物介在療法」は未来を切り開くモデルではないか。老人施設などでは、施設内で飼われるペットが福祉の中心的役割を果たし始めている。そこではペットがいることで、周辺の子どもたちが施設に入ってくるようになり、老人たちとの交流が生まれる。ペットは家族の補完ではなく、人と人を結ぶための媒介になっているのだ。