3月 24

10のテキストへの批評  10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)

■ 全体の目次 ■

1 ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)
6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)
7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)
8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)
9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))
10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)

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10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)

丸山真男の本テキストは1958年に行なわれた講演記録で、61年刊行の『日本の思想』(岩波新書)に収録されている。講演が行われ、本として刊行されてからすでに50年以上が過ぎている。本テキストは50年間読まれ続けてきた「永遠のロングセラー」であり、中でも「『である』ことと『する』こと」は今も多数の教科書に採用されている。凄いことである。時代を超えた「古典」になったといえる。
丸山は日本の敗戦後の混乱の中で、新しい民主的な日本社会を作るために働いた。「進歩的文化人」を代表する1人で、反戦・平和・民主主義の運動の思想的拠り所となっていた。60年の安保闘争時には、市民運動や学生運動に大きな影響を与えた。本テキストはまさにこの時点の講演であり、当時の市民運動の理論を代表するものである。
しかし60年安保は「挫折」し、その十分な総括ができないままに時代は流れた。60年代後半の学生紛争やベトナム反戦運動や新左翼の革命運動の盛り上がりのなかで丸山理論はすでに指導理念ではなかった。学生紛争時には新左翼などから丸山は批判される側になっていた。
60年の安保闘争の「挫折」とその総括ができなかったこと、組合運動や市民運動が大きく成長できなかったことの一因は、丸山理論の弱さにもあったのではないか。一方で、丸山を批判する側も、丸山の根本的な欠陥を見抜き、それを克服するような理論を提示できたわけではない。それゆえに、70年代の革命運動や市民運動も成功せず、成熟することができないままに流れてきたように思う。
丸山が今も読まれていることは、丸山が50年前に問題としたことが今も未解決のママであり、今もそこに考えるべきことがあるからに他ならない。そして、今もなお、丸山を越える思想を私たちが持っていないことを示してもいるだろう。

丸山理論を克服するためには、まずは、丸山の凄味、このテキストの何がそんなにすごいのか、それを明らかにしなければならない。
丸山の凄さは、日本社会の根本問題を正面から取り上げ、その問題をこれ以上ないほどにシンプルにわかりやすく説明し、その解決策を示したことだ。
その問題とは、近代化において西欧に大きく遅れた後進国・日本の問題だ。アジアの国が近代化=西欧化を進めようとする際の根本矛盾であり、夏目が「私の個人主義」で問題にした「他者本位」の問題である。一言でいえば、後進国の「自立」が如何にして可能かの問題だ。丸山は、特に政治(民主主義)における前近代的な考え方、意識の問題を徹底的に追及する。一方でラストでは文化・学問の問題を出して、政治と学問の両者の解決を示して終わる。
一般に、多くの学者は自分の専門とする「タコツボ」(これも丸山の用語だ)の中に閉じこもり、大きな問題には立ち向かおうとしない。そうした中にあって、丸山の姿勢は突出している。こうした根源的な大テーマに対して発言すること自体、蛮勇がなければできないことだ。
丸山の凄みは、日本社会の根源的な問題に正面から挑んだことにあるだけではない。その問題を、これ以上ないほどにシンプルにわかりやすく説明してみせた。何しろ「である」ことと「する」ことの2つのキーワードだけで、すべての問題を快刀乱麻、一挙に解明して見せたのだから恐れ入る。こんな学者はかつていなかったし、今もいない。
しかもそれは乱暴で粗雑な議論ではない。丸山は論理の大家であり、論理を完璧なまでに駆使できる圧倒的な能力を持っていた。当時の文化人における最高のレベルだったのではないかと思う。それは本テキストで確認できる。そうした能力による分析による究極の単純化が「である」ことと「する」ことだったのであり、その威力はすさまじかった。すべてがこの2語で粉砕できた。おそらく向かうところ敵なしであったことだろう。しかし好事魔多し。丸山にとって不幸だったことは、丸山を批判できる相手がいなかったことである。才子は才に倒れ、策士は策に溺れる。それが丸山にも当てはまる。
 
 丸山の何が間違いだったのかを考えよう。丸山は、前近代社会と近代社会を「である」原理と「する」原理という反対概念でとらえる。身分制社会と自由・平等の社会の比較としては、それにはある一定の正しさがあり、限定された範囲では有効な分析だ。特定の局面を分析する際の、有効な「比喩」としてならそれほどの問題はない。しかし、「である」と「する」で、前近代と近代の本質をとらえようとするのは無理である。そのために大きな混乱をもたらした。
例えば、丸山は「○○らしさ」や「分をわきまえる」こと(これは本テキストでは省略されている)を求めること自体を前近代的として退ける。しかし、本当はこうした考え方には何も問題が無いどころか、いつの時代にも必要なことなのだ。
 丸山のこの2分法の破綻は、経済と政治では「する」を求め、文化では正反対の「である」を求めるという矛盾によく現れている。しかも、この矛盾を詳しく説明するどころか、最後のわずか10行ほどで両者の逆説的融合を示して講演は終わる。最後のどんでん返しと、一挙の大団円。
これはあざやかではあるが「手品」でしかない。丸山はこうしたアクロバティックな藝が好きなようだ。ここに無理を感じない方がどうかしているのだが、丸山ファンは、かえってそこに喝采したのではないか。
私はこのラストを読んで、あまりにもびっくりして腰が抜けた。「あれ?っ」。もしかして、この後に、丸山が「な?んちゃって」と言って舌を出したのではないか、と邪推したぐらいだ。丸山は「本気」だったのか、冗談を言ったのか、何だったのだろうか。

 丸山の破綻を、本来はどう解決すべきなのか。解決は「である」と「する」を一体のものと考えることによって可能になる。説明しよう。
人がどう生きるか、何を「する」か(当為=使命)は、常にその人がどう「である」か、何「である」か(存在=本質)によって決まるのだ。これを「存在が当為(=使命)を決める」と言う。つまり「である」が「する」を決めるのだ。その意味で両者は一体であり、このことは時代によって変わらない。何時の時代でも、私たちはそのように考えて生きてきたし、今後もそうするしかない。岐路に立ったとき、私たちは「自分とは何か」を問うことで、選択するしかない。その時、私たちは人間の本質、家族の本質、社会の本質などを考えることになる。これを深めたものが「学問」だ。だから丸山も、学問・文化では「である」が重要だとするのだ。
では、前近代と近代の違いはどこに現れるのか。それは、「存在が当為を決める」時の「存在」のあり方の違いに現れる。前近代では生まれ(出自)によって決まる。つまり地縁・血縁関係で決まる。これは当人の自由意思では変えられない。例えば「武士」「長男」「女性」という生まれがその人の人生を決めてしまう。身分制度があり、職業は身分と一体であり、結婚も家制度の枠組みの中で行われていた。
 一方、近代では、本人の自由意思で選択した仕事や人間関係が本質を作る。身分制度はなくなり、職業の自由が保障され、結婚は個人の契約になった。そこでは個人の自由な選択が決定的で、それゆえに、自己責任が問われる。
 丸山が前半で、「である」と「する」で表現しているのは、この「存在」のあり方の内部での違いでしかないのだ。もちろん近代では、「自分とは何か」に対する答えが一層ムズカシクなっている。社会が複雑になり、多様な役割関係の中で、どの役割を「本質」と考えるか、役割の相互関係をどう考えるかでは、人によって大きな違いが生まれてきている。
 しかし、「分をわきまえる」ことや、「○○らしさ」を求めることが間違いなのではない。むしろ近代になって初めて「人間らしさ」が真に問われるようになったのであり、種々の役割を果たす社会になったからこそ、それぞれの役割の「分をわきまえる」ことが問題になるのだ。
例えば、女性に「女らしさ」を求めることに問題があるのではないだろう。他の多様な役割相互の関係を無視して、それだけを社会的な比重以上に大きく求めることが間違いなだけだ。ただし、「女らしさ」という言葉は、女性が社会で働くことが許されず、家庭の主婦や家族労働の狭い範囲の生活に限定されていた時の意味合いを濃厚に持っている。それが嫌われるというのはよくわかる。現代の多様な社会関係の中で、改めて「女らしさ」「男らしさ」が問われるべきなのだ。
 先に述べたように、丸山は論理を完璧なまでに駆使できる圧倒的な能力を持っていた。当時の最高レベルであり、ライバルもおらず、根本的批判を受けることもなかったのだろう。しかしそのレベルは、絶対的な意味では低いものだったのだ。私は丸山のような頭の良さを「小頭」と呼ぶことにしている。「大頭」こそ目指したいものだ。

3月 23

10のテキストへの批評  9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))

■ 全体の目次 ■

1 ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)
6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)
7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)
8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)
9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))
10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)

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9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))

よくある日本文化論である。比較文化論に慣れていない高校生にとって、こうした比較は最初は面白いかもしれない。「へえ?っ」と感心して、何か重要なことがわかったような気になる。しかし、それが続くとあきてくる。こうした議論には、何か現象面をなでているだけのようなところがある。なぜだろうか。
1つには、一面的な、つまり表面的にしか見ていないように感ずるからだ。区別の面のみを強調している。たとえば、著者はバッハやモーツァルトの音楽が音によって埋め尽くされ、沈黙を恐れているようだ、と述べる。しかし、私は両者の音楽に深い深い沈黙(間)をいつも聴くことができる。つまり、著者のくくり方は、細部の切り捨てやわりきりで成り立っているのだ。
それ以上に問題なのは、区別や対立の側面ばかりを見て、その同一の面を、つまり人間としての共通の面を見ていないことだ。実は、区別や違いの面よりも、それでもなお「同じ」側面こそが重要ではないだろうか。それをしっかりと見据えるならば、その同じ本質を持った人間同士なのに、それでも決定的な違いがあることに深く驚くことになる。そしてその同じ本質が、その違いの中にどうのように現れているかを考えることになるだろう。そこにこそ、本当の意味の対立が現れてくるはずだ。
そうしたことを思う時、私はいつも世界的なドイツ語学者の関口存男を思い出す。彼は日本語とドイツ語の違いはもちろん指摘するが、そこにとどまらず、両者に共通する言語一般の本質に迫っている。世界のすべての言語は、言語が言語であるための根底的な同一の側面を持つ。関口はそこに迫り、さらにそこに「人間とは何か」を見ようとする。そしてそこから再度、日本人とは何か、ドイツ人とは何かを把握しようとする。こうしたダイナミックな思考が、本テキストにはない。
さて、最後に今回のテキストのテーマである日本の「和」について一言。「和」について取り上げるなら、何よりも「和して同ぜず、同じて和せず」の問題を指摘したいと思う。日本人の「和」は本当に「和」だろうか。実は「同」なのではないか。「和」(調和)の名のもとに、ほとんどが「同」(狎れあい)になっているのではないか。
本テキスト16段落を見ると、「和を実現させること」を「異質なもの同士の対立をやわらげ、調和させ、共存させること」と説明し、「二人のあいだに十分な間をとってやれば、互いに共存できるはずだ」としている。しかし、これこそ「同」そのものではないか。本当の「和」とは「異質なもの同士の対立を激化させ」、その対立のただ中から、対立があるがゆえに相互理解を深めることが可能になり、互いに異質なままに共存できるようになることを言うのではないだろうか。

3月 22

10のテキストへの批評  8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)

■ 全体の目次 ■

1 ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)
6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)
7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)
8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)
9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))
10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)

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8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)

 なぜ、こんなに難しく書かないといけないのだろう。それが率直な感想だ。このテキストは、読んでスーッと頭に入ってくる文章ではない。しかし文の構成を分析すれば、「分節化された世界」(現実世界)と「論理空間」(観念世界)と「分節化された言語」(言語世界)の3者の関係を説明しているだけであることがわかる。それがわかれば、それはそれでわかりやすく簡単な説明のように思えてくる。ところが少し突っ込んで考えようとすると、急にわけがわからなくなる。これで何が明らかになったのだろうか。
ここでは「分節化された世界」と「論理空間」と「分節化された言語」が同時に成立したと説明しており、この3者の関係も説明されている。しかしそれだけでは説明にならない。
そもそもなぜこの3者が出てくるのか。この3者以外には世界は存在しないのか。そうした問題には触れることがない。3者の存在は前提されてしまい、この3者がどこから生まれるかは問われない。
野矢の文章は、いくつかの対象や結論が、突然で偶然で恣意的な形で提示される。そしてそれらの必然的な関係や証明は、提示後に野矢の得意の「背理法」によって行われる。こうした展開は野矢の嗜好なのかもしれないが、非常に分かりにくい説明法だと思う。
たとえば「論理空間」の導出は、「ひとつ用語を導入しておきたい」(4段落)で始まる。しかもそれが他人が使ったに過ぎない用語だ。「ウィトゲンシュタインは、可能な事実の総体を『論理空間』と呼ぶ」。なぜ、ウィトゲンシュタインのこの用語から始めなければならないのだろうか。
「分節化された世界」の提示は、いきなりの「なによりもまず、世界が分節化されていなければならない」である。
「分節化された言語」の提示はこうだ。「さらに、論理空間の成立のためには、それゆえまた分節化された世界の成立のためには、われわれは分節化された言葉をもっていなければならない」(16段落)。この冒頭の「さらに」は、どのような意味で「さらに」なのだろうか。これらはすべて背理法で後から根拠づけられていく。
こうしたわかりにくい展開を、論理的と言えるだろうか。野矢には背理法への偏愛があるようだが、そもそも「背理法」は証明法としてどのレベルのものだろうか。これはすでに証明されたことを、逆の書き方で書くだけのものではないだろうか。
さて、最後まで読むと、著者は動物を次のように分類していることがわかる。まず動物は、「言語を持っていない動物」と「言語を持っている動物」に分かれ、後者はさらにその「言語が分節化されていない動物」と「言語が分節化されている動物」(人間)に分かれる。そして人間だけが後悔できる。
この分類(分節化)も一見わかりやすいように見えるのだが、これも私にはわかりにくい。分類はそれ自体が「分節化」なのだが、「分節化」は最初から出来上がっていたわけではなく、ある運動の結果生じたものだ。「言語を持っていない動物」だけの状況から「言語を持っている動物」が生まれてきた(分節化した)のはなぜなのか。さらに「言語が分節化されている動物」(人間)が生まれてきたのはなぜなのか。その分節化、つまり発展にはどのような意味があり、どのような運動が起こっていたのか。それがわからないのだ。なぜわれわれは猫でなく、猫はわれわれではないのだろうか。

3月 21

10のテキストへの批評  7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)

■ 全体の目次 ■

1 ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)
6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)
7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)
8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)
9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))
10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)

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7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)

チンパンジーなどの霊長類の社会から人間社会を考える。また狩猟採集社会から現代の都市生活型の人間社会を考える。それは刺激的でとても面白い。従来の固定した枠組みから離れて、まったく別の観点から考えることができるからだ。ここには新たな可能性がある。
しかし、この方法はどれほど有効で、その可能性はどれほどのものなのだろうか。マルクスが「人間の解剖はサルの解剖のための鍵である」と述べたことは有名だ。ではその逆は正しいか。「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」だろうか。本テキストは、まさにそれをやっている。
一般に言って、発達した動物や社会は、未発展の段階の動物や社会を考えるための大きな手がかりになる。未発達の段階にあっては、その様々な要素のうちのどれが将来につながる芽なのかは分からない。しかし、発展した段階を知ってから過去を振り返るならば、未発達の段階のどの要素が将来につながるものだったのかが明らかになる。
では、その逆はどうか。人間社会の解明の鍵は、動物からえられるか。人間の発達した社会の解明の鍵は、未発達の社会構造の研究から得られるか。
ヒントにはなっても、解明にはつながらないだろう。未来は過去の単純な延長上には存在しないからだ。社会の発展は過去のそのままの延長ではなく、必ず「否定」がつきもので、しかもこの否定にこそ新たな展開、つまり真の発展の芽があるからだ。しかし過去の時点だけでは、そのどこがどのように「否定」されるかは、予測が難しい。
例えば12段落の「狩猟採集民」の社会のルールから、13段落の人類一般(現代人)の社会が説明できるのだろうか。「狩猟採集民」の社会の「分かち合い」や「共在のイデオロギー」は、生産力が低く食物が不足がちな社会では「私有財産」(個人的所有)や「私的関係」(「二者間の人格的な贈与関係」)が否定されることを意味している。「共同体の維持」と「私的所有」「私的関係」は真っ向から対立するからだ。しかし人類はその後、牧畜の段階、農業の段階を経て、商業を営むまでに発展し、生産力を高めてきた。そして工業化の時代の到来とともに生産力は爆発的に向上した。
近代社会は、「私有財産」(個人的所有)を認めることで資本主義社会という人類史上空前の豊かな世界を作り上げることに成功した。この近代の原則の上に私たち現代社会は成立している。だから私たちは「常に仲間と食事をともにする」(1段落)ようなことはない。目的により、時と場所と相手を選び、食事を共にするだけだ。「私有財産」「私的関係」の前提の上に、私たちは生きている。
「サルの解剖」は「人間の解剖」にヒントを与えるが、そのままでは解明にはならない。そこには大きな限界がある。そういう、自らの方法の限界を自覚することは重要だ。本テキストでは、それがどこまでできているだろうか。

3月 20

10のテキストへの批評  6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)

■ 全体の目次 ■

1 ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)
6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)
7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)
8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)
9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))
10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)

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6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)

私が高校生、大学生だった1960年代後半から70年代の前半にかけて、「文明批判」「近代合理主義批判」が流行した。それは単純だが、それゆえに元気なものだった。機械文明や科学技術、その根底にある合理主義、理性や理性を全否定して平然としていた。アメリカ発のベトナム反戦運動の背後には「カウンター・カルチャー」「ヒッピー・ムーブメント」「ウーマン・リブ」「フリーセックス」などの思想があり、そこにも同じような思考傾向が潜んでいた。
多くの若者たちはそれにいかれたものだ。かく言う私もその1人で、「若気の至り」だった。私が関わった運動はあえなく破たんした。私だけではなく、各地の共同体運動やエコロジー運動などは自滅していった。その後80年代になり「オタク」文化とバブルの時代がやって来た。それが破たんして今に至り、「閉塞」した状況が続いている。
さて、このテキストである。70年代をなつかしく思いだしたが、いまどき、単純な科学技術否定論者がいるようにも思えない。坂村は今でもそうした人がいると思っているのだろうか。「人間の生きる力が弱くなる」とか「退化する」とかいう人は、科学技術を否定できないことを知りながら、弱弱しく「愚痴」り「揶揄」しているだけなのだ。彼らは否定論者などではない。彼らのような「敗北主義者」を叩くには坂村の批判で十分だろうから、特に何も言うべきことはない。
しかし、現代の若者へのメッセージとしては、このテキストでは不十分だと思う。抽象的な議論で具体的なことがわからないからだ。坂村の言う「教養」とはどのような内容のもので、どういった教育で獲得できるのだろうか。それが示されていない。
私には、11段落で示される「大きな原理での理解」や「物事の段取りを考える力」などはどうでもよいと思う。それよりも真の「教養」とは、何かの発明や制度が「退化」か「発展」かを見分ける基準、その能力ではないからだ。
著者はその点ではあいまいであり、「自動で水が流れるトイレ」が「発展」なのか「退化」なのか、にきちんと答えていない。「人工の自然」と「自然な自然」との関係を暗示するだけだ。それでは、新しい「自然」の中で生き抜くことはできないのではないか。