12月 24

来年のゼミの日程で、1月の読書会の1月25日を1週間後の2月1日に変更しました。

また、1月と2月の読書会のテキスト『国富論』と範囲が決まりました。

再度、スケジュールを以下に提示しておきます。

参加希望者は早めに(読書会は1週間前まで、文章ゼミは2週間前まで)連絡ください。参加には条件があります。

参加費は1回3000円です。ただし文章ゼミは1回2000円。

◎来年2014年の1月以降の予定

1.日程

1月11日 文章ゼミ
2月1日 読書会
2月8日 文章ゼミ
2月22日 読書会
3月8日 文章ゼミ
3月22日 読書会

2.読書会テキストについて
(1)1月
『国富論』?の第2編と
『国富論』?の第4編

(2)2月
『国富論』?の第3編と
『国富論』?の第5編2014年1月の読書会

 古典派経済学の創始者アダム・スミスの『国富論』を読みます。
 スミスはマルクス『資本論』の前提の労働価値説の創始者でもあります。

 新たに経済学が生まれてきた時代背景を知り、その時代の経済問題と
 雄々しく闘ったスミスの戦いぶりを、読んで考えてみたいと思います。

 岩波文庫版ではなく、中公文庫版で読みます。
 「要約的小見出し」だけを読んでも一応読めること、その注釈が「使える」点がすぐれているからです。共同研究が背景にあるのでしょう。

今月12月の読書会で『国富論』の第1篇を通読しましたが、その大きさと面白さに驚きました。

 第2編は重要です。
スミスの「資本論」です。

第3編は、都市と農村の関係がテーマです。
都市がどのように領主や王権から自立し、農村を簒奪したか。

第4編は、経済学の主要な主張の歴史です。重商主義と重農主義が比較検討され、スミス自身の考えが示されます。

第5編は、国家の役割、国家と国民との関係がテーマです。
スミスの国家観が明らかになります。

第3編から第5編は、まず「要約的小見出し」だけを読み、
その中で重要と思う個所、面白いと思う個所だけを
読めばよいと思います。

◎毎週月曜日のゼミ
1月13日から開始します。

(1)日本語文献の読書会 午後5時より
  関口存男の冠詞論を読んできましたが、
いよいよ3巻目『無冠詞論』も終わりに近づきました。ラスト2章を読みます。
  その後、関口『ドイツ語講話』を読みます。

(2)ドイツ語原書講読 午後7時より
  昨年後半はマルクスの「労働過程論」から
ヘーゲルの「目的論」(『小論理学』204節から212節)を読みました。
それらを受けて、ヘーゲルの「目的論」(『大論理学』)を読みます。
ヘーゲル論理学の山場の一つです。
ズールカンプ社版全集第6巻を使用します。

10月 27

改めて、今年の暮れまでの学習会のスケジュールと読書会テキストをお知らせします。

参加希望者は早めに(読書会は1週間前まで、文章ゼミは2週間前まで)連絡ください。参加には条件があります。

参加費は1回3000円です。ただし文章ゼミは1回2000円。

(1)毎週月曜日のゼミ
 ?日本語文献の読書会 午後5時より
  関口『無冠詞論』を読んでいます。
  今、5章を読んでいるところです。

 ?ドイツ語原書講読 午後7時より
  マルクスの「労働過程論」(『資本論』第1巻第3編第5章)を読み終え、
  来週(11月4日)から、ヘーゲルの「目的論」(『小論理学』204節から212節)を読みます。
  ズールカンプ社版全集第8巻を使用します。

(2)毎月の文章ゼミと読書会の日程

11月9日 文章ゼミ+現実と闘う時間
11月23日 読書会
12月7日 文章ゼミ+現実と闘う時間
12月21日 読書会
12月某日 今年1年の振り返りと忘年会

(3)11月からの読書会テキストについて

 11月23日 読書会(高島善哉著『アダム・スミス』岩波新書 青版 674)
 12月21日 読書会(アダム・スミス『国富論』1 中公文庫)
 2014年1月 読書会(アダム・スミス『国富論』2、3 中公文庫)

 古典派経済学の創始者アダム・スミスの『国富論』を読みます。
 スミスはマルクス『資本論』の前提の労働価値説の創始者でもあります。

 新たに経済学が生まれてきた時代背景を知り、その時代の経済問題と
 雄々しく闘ったスミスの戦いぶりを、読んで考えてみたいと思います。

 高島善哉著『アダム・スミス』岩波新書(青版 674)は古いですが、
 アマゾンで 「中古品」として簡単に購入できます。

 アダム・スミスの『国富論』は、岩波文庫版ではなく、中公文庫版で読みます。
 訳文の点と共同研究が背景にある点で、そうします。

10月 23

上野の東京国立博物館(東洋館)で開催されている特別展「上海博物館 中国絵画の至宝」

先週金曜日に東京国立博物館に行ってきました。
東洋館でやっている特別展「上海博物館 中国絵画の至宝」を見に行ったのですが、
これはお奨めです。
久しぶりに「凄い」と思いました。

今は、東京国立博物館の平成館でも特別展「京都―洛中洛外図と障壁画の美」を開催していて、
・国宝 「洛中洛外図屏風 上杉本」狩野永徳筆(山形・米沢市上杉博物館蔵)
・重要文化財 「洛中洛外図屏風 舟木本」岩佐又兵衛筆(東京国立博物館蔵)
は大いに楽しめますが

私がぜひ勧めたいのは「上海博物館 中国絵画の至宝」です。
人間の精神について興味を持つ者は、必ず見ておくべきです。

これらの絵画は、人間の精神性の表現として、極北にあると思います。

日本にも山水画、南画、文人画がありますが、日本のものには甘えがあります。
そうした甘さを排除した厳しい世界がここにあります。

王朝が繰り返し滅亡してきただけではなく、異民族に何度も支配された漢民族の矜持と孤独が凝縮されてここにあります。

ホームページには以下のように紹介されています。
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中国でも最大規模の収蔵を誇る上海博物館。そのなかから、宋元から明清まで、約千年に渡る中国絵画を代表する名画を一堂に展示いたします。
初公開、一級文物をふくむ40件もの名品によって、五代・北宋から明清にいたる中国絵画の流れを辿ることのできるまたとない機会です。日本にはない、本場中国ならではの中国絵画の真髄をお楽しみください。
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私が感銘を受けた中から、3点のみを紹介しておきます。

(1)煙江畳嶂図巻(えんこうじょうしょうずかん)
王詵(おうしん)筆 北宋時代・11?12世紀 
[展示期間:前期 2013年10月1日(火)?10月27日(日)]

何も語りたくありません。見てください。

(2)山陰道上図巻(さんいんどうじょうずかん)
呉彬(ごひん)筆 明時代・1608年 

これにはぶっ飛びました。奇想派(エキセントリックスクール)と呼ばれるそうです。

(3)花鳥図冊(10開) 朱耷(八大山人) 1帖  清時代・康煕44年(1705)

限りなく深く、厳しい世界がここにあると思いました。

10月 18

今年の夏の集中ゼミでは、マルクスの『資本論』の第1篇「商品と貨幣」と
 第2編「貨幣の資本への転化」を読みました。

 第1篇「商品と貨幣」は一番難解とされています。
 この30年近く、何度も読んできた部分を、今、どのレベルまでマルクスの真意に迫り、
 それをヘーゲルの論理学の視点から批判できるかが、勝負だと思って読みました。

 マルクスのやろうとしていることがわかるようになってきたと、感じました。

 驚いたのは、第1篇「商品と貨幣」では、
 商品交換から貨幣が生成した必然性の証明を目指しているのに対して、
 第2篇「貨幣の資本への転化」では、
 貨幣から資本が生成した必然性の展開になっていないことです。
 ここでは単に、「貨幣による商品の等価交換」と
 「貨幣の増殖という資本形成の過程」の矛盾を示して、
 その矛盾を説明するものでしかないのです。

 このために、本当に第1篇「商品と貨幣」での
 商品交換から貨幣が生成した必然性の証明が必要だったでしょうか。

 その他、今回考えたことをまとめました。

■ 目次 ■

1.マルクスの『資本論』の第1篇「商品と貨幣」、第2編「貨幣の資本への転化」の内在的論理展開
(1)第1篇
(2)第1篇内部の1章から3章の展開の意味
(3)第1篇内部の1章の「判断」と3章の「推理」との関係
(4)第1篇第1章内部
(5)第1篇第1章第4節と第2章
(6)第1篇第1章の本来の展開(代案)
(7)第1篇第1章の第3節
(8)第2篇

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1.マルクスの『資本論』の第1篇「商品と貨幣」、第2篇「貨幣の資本への転化」の内在的論理展開

(1)第1篇
 【1】目的は貨幣の生成の必然性の証明
  そのために、まず商品交換の矛盾を指摘し、その矛盾から貨幣が生成するまでを展開する。
 【2】この第1篇は、ヘーゲル論理学そのもの。
  マルクスのヘーゲル批判の激しさと、ここでのヘーゲル論理学への追従ぶりの激しさとのギャップ。
 【3】この第1篇で、商品の使用価値と交換価値への分裂、労働の二重化の説明をするが、
  それが剰余価値を発見するための前提だった。それが4章で明らかになる。

(2)第1篇内部の1章から3章の展開の意味
  1章は商品交換から貨幣が生成する必然性の論理的証明
  2章は、その貨幣の立場からの生成過程の歴史的振り返り
  3章は、貨幣自身の論理的展開

  これはヘーゲルの論理学における3構成法の踏襲
  【1】生成の必然性の展開 〔生成史〕
  【2】その成果の立場からの振り返り
  【3】その成果自身の展開 〔展開史〕

(3)第1篇内部の1章の「判断」と3章の「推理」との関係
 【1】第1篇は第1章の商品交換(物々交換)から始めている。
  この資本論はブルジョア社会を前提としている。
  そうであれば、ブルジョア社会では物々交換は例外であるからおかしい。
  実際のブルジョア社会での商品交換は実際には貨幣を媒介している。

 【2】しかし、そもそも貨幣の生成過程の説明をしたいのだから、
  貨幣による媒介の段階から始められない。
  そこで貨幣による媒介が外在化せず、まだ内的で潜在的だった段階の物々交換から
  始めるしかなかった。

 【3】この物々交換の場合から始める点だけは、歴史的始まりでもある。
  これは商品交換(物々交換)が歴史的始まりだが、同時に論理的始まりでもあるから。

 【4】第1篇内部の1章「判断」と3章「推理」の関係
  これを概念論でとらえれば、3章は3項からなる推理で、
  1章は2項からなる判断である。
  そして、判断の矛盾が顕在化したのが推理であるという
  ヘーゲル論理学と同じ展開である。推理は判断の止揚なのだ。
  だから判断の2項から始めるしかなかった。

 【5】しかし、マルクスの説明はそうなっていない。
  マルクスは、判断から推理へと言う論理展開を意識できなかったのかもしれない。
  または読者にそうした理解を前提できなかったのか?
  マルクスが理解できなかったとして、それでも事実上、
  ヘーゲルの概念論の展開を行えたことは、マルクスがいかに深く、
  ヘーゲルの方法と能力を身につけていたかを示す。

(4)第1篇第1章内部
  第1節、第2節は、教科書的に、
  商品とその商品を生む労働の内部矛盾(議論の前提)と労働価値節の説明。
  それをまるで定義のような「断定」の形で置く。(「断定は科学の敵」牧野紀之)
  この唐突さはマルクスの本意ではなかったろう。
  読者にとっての「わかりやすさ」のために、こういう展開にしたのではないか。

  第1節、第2節を前提にして、商品の内部矛盾から貨幣を導出するのが第3節。
  ここで、この1節から3節までは、論理的証明。
  それに対して4節は何か。歴史的説明のようだ。

(5)第1篇第1章第4節と第2章
  ともに歴史的過程の確認、それを反映する経済学史の確認である。
  マルクスは、自分の論理的説明に、これらを対置している。

  違いは、4節は、商品内の価値=労働時間(労働価値説)の、
  歴史的展開(事実)と、経済学(事実の理論的反映)の発展の振り返り。
  (つまり第2節への注釈)
  2章は、商品交換→貨幣→金貨の歴史的過程と、
  貨幣の生成の必然性を問わないブルジョア経済学への批判
  (つまり第3節への注釈)

(6)第1篇第1章の本来の展開(代案)
  冒頭に、「問題提起」として、第1章第4節と第2章の内容を置く。
  つまり、商品交換→貨幣→金貨の歴史的過程と、
  商品内の価値=労働時間の歴史的展開。

  次に、それをとらえる経済学の発展の振り返りをして、

  最後に、アダムスミス以来のブルジョア経済学の意義と限界をまとめる。
  その限界を克服するには、論理的説明が必要で、
  それを行ったのがマルクス自身の経済学だとする。
  以上が冒頭の「問題提起」。

  この答えとして、第1篇の第1章の第1節から第3節までを出す。
  そうすれば、第1節、第2節の唐突さもなくなる。
  このように、歴史と経済学史からの問題提起と、
  その答え(論理的展開)とすれば、自然な展開になる。

(7)第1篇第1章の第3節
 【1】論理的説明だが、内在的と言うよりも、機械的(悟性的)な説明になっている
  ・AからBが部分と全体の関係
  ・BからCが「反転」という説明
  ・CからDが「置き変え」

 【2】本来はAとBの交換に内在する矛盾が、顕在化し自己展開したと書くべき
  この分裂、矛盾を全面展開したのが、今のブルジョア社会と、説明するべき

 【3】交換(判断)そのものは本質論なのだが、その内部でのマルクスの説明は、
  存在論のカテゴリーがほとんど。
  質と量、悪無限からの止揚(独立存在)で説明している。

(8)第2篇
 【1】「貨幣から資本への転化」というタイトルだが、
  貨幣から資本の生成の必然性の証明にはなっていない。

  商品と貨幣の等価交換という仮象の中に、本質(秘密=剰余価値)を
  見出したという書き方。つまり推理小説のような面白さ。

  商品交換における使用価値と価値との対立から、
  論理的に「新たに使用価値そのものを生み出すような使用価値である商品」を
  さがすことになり、それが「労働」という商品だった、という展開。
  W-WからW-G-Wを出し、次のG-W-Gとの矛盾を示した。

 【2】なぜ、資本の生成の必然性を展開しなかったのか。
  当時は、それが無理だったからか。
  しかし、それなら、貨幣の生成の必然性を示すことにどれだけの意味があったのか。
  
 【3】マルクスの思考は、概念論よりは、本質論の範囲で動くことが多いように思える。
  用語では存在論のものが多い。そこに問題がある。
  しかし、ヘーゲルの用語を振り回す誰よりも、
  ヘーゲルの考え方を実行しているのもマルクスだ。
  貨幣の生成の必然性、資本主義社会の没落の必然性を書いたことがそれだ。

 【4】唯物史観と剰余価値の発見
  マルクスは剰余価値の発見を、自分の経済学史における最大の功績と考えていた。
  マルクスは、自らがプロレタリアートの立場に立っていることを、
  自分が剰余価値を発見できたことで確認できたと考えていただろう。
  ブルジョア経済学では無理だったと考えていた。

  しかし、剰余価値の創造には、プロレタリアートだけではなく、
  ブルジョアも多大の貢献をしている。それをまったく無視するのはおかしい。

 【5】剰余価値の発見には、第1篇の商品の使用価値と交換価値への分裂、
  労働の二重化が前提だった。それが4章で明らかになる。

10月 16

例年、夏になると八ヶ岳でゼミの合宿を3泊4日で実施してきましたが、
今年は、形を変えて、東京で8月24日、25日の2日間の「集中ゼミ」という形で行いました。

参加者は8人(内、大学生が2人)でした。

集中ゼミの初日晩には「現実と闘う時間」を実施。各自の活動報告をし、意見交換するのですが、結局は当人の「生き方」を問うことになります。

参加者(大学生)の感想を紹介します。

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1.商品論が生き方に通ずるのはなぜか 大学生

(1)資本論の商品論と生き方

 資本論を読んだ。マルクスもヘーゲルも読んだことのない私にとって、
その内容はわからないものだったが、特に第一章(第三節)あたりを読んで、強く感じるものがあった。

 それは、以下のようなことだ。

 私はこの夏に、牧野紀之の「先生を選べ」を読み、鶏鳴の場にレジュメを提出し、中井さんを先生に選んだ。
私は高校に入る前から、周囲の人間、学校の教師、親、友人たちの価値観や生き方につきあいきれず、
高校を辞め地元から東京に出てきて、高2の春に鶏鳴に入塾した。
そして、中井さんに言われて、初めて学校を辞めたことを家族と話し合い、
高校3年の春からは原発の聞き書きで自分の問題意識を深めてからも、ある種、無意識的にも中井さんを先生としてきた。
牧野の「先生を選べ」を読んで意識的に振り返ってみると、中井さんの言ったことを守り、行動し、批判され、
また考え、行動してきたという意味で、中井さんを先生にして過ごした2年間だったと思う。

 そのような一連の過程が、資本論の第一章(第三節)あたりと重なって感じられた。

つまり、以下のようなことである。

 まず、ある一つの商品の中で、使用価値と交換価値という内的二分、自己分裂(葛藤、矛盾)が起こる。
これは人間におきかえれば自我の芽生えであるし、私自身も義務教育が終わって自己責任でやっていくとなったときに非常に葛藤した。
そのとき結果的に私の場合高校を辞めたのだが、そういう経験がある。

 次に、その商品がどの「商品」と交換されるのか
(例えば、20エレのリンネル=1着の上着、10ポンドの茶、40ポンドのコーヒー・・・)という、
「悪無限」が発生する。
 そうした「悪無限」というのは、私のことで言えば、私が高校を中退するときに、
私の人間関係とテーマの否定はできるが肯定(止揚)はできない、ということと重なる。
なぜか。私は高校を辞める前後で、無意識的に、自分の生きるテーマと、先生、仲間を探していた。
その時の私は、どうでもいいものが目の前に無限に「ある」、つまり、何も決定的なものが「ない」、という状態であった。
 そしてその「悪無限」を止揚して、貨幣が現れ、さらにその貨幣が、通約可能性をもつと、商品論に書いてあった。

 このことは、私が一人の先生を選び、そしてその先生を通して、私の新しい人間関係とテーマをつくっていく、ということになる。
このように、商品論には現在に至るまでの私の人生の形式がそこに現れているように思った。

 一体何故、「商品」という一見「生き方」とは遠いものを叙述していながら、そのようなことが起こるのだろうか。

 ひとつに、マルクスが先生として選んだヘーゲルが、自我を徹底的に究明したからだと思う。
 まず、「関係」を問題にするとき、それはAとBという二つのものの関係である。
ヘーゲルは何よりもまず自我を問題とした、ということを牧野さんの本で読んだことがある。
自我は内的二分であるので、まず内的二分の二つの関係から出発するのは、ヘーゲルを先生としたマルクスならそうするだろう。

 次に、先生を選ぶということについて、牧野さんの『生活の中の哲学』を読んでいて、
「感覚の個別」と「概念の個別」という言葉がでてきた。
前者は「世界中に一人しかいない」(すべての人にあてはまる)という意味で個別なのだが、
それは後者の「かけがえのない個別」よりも低いものだという。

 貨幣や先生は、後者の概念の個別ということで一致すると思う。
なぜならば、両者はそれまでの関係を止揚して現れた(悪無限を止揚して現れた)からである。
前者は諸商品を止揚し、後者はその人の人間関係を止揚した。

 以上のように、自我から出発し、「概念の個別」というヘーゲルの思想で物事を捉えると、
それは商品(の関係)であれ人間関係であれ、内的二分に始まり、止揚されるものとするものが現れ、
それが結果的に、「生き方」と同じ論理で現れているのではないか、と思う。

(2)「現実と闘う時間」
 後半の「現実と闘う時間」では、現在の私がいかに自分の周りで起きていることを批判できていないか、
ということを思った。

 現実と闘う時間で問題になったのは、同じ大学生のAが私の行ってきた聞き書きの「後追い」をして、
つまり私のインタビュー相手に同じインタビューをして、それを鶏鳴の文ゼミに提出したことだった。
私は彼がそのインタビュー相手にインタビューに行くということを(あるいは行ったということを)きいていたが、
何の疑問も感じられなかった。
ただ「私の聞き書きに不十分な点があり、それを知りたいがためにインタビューに行ったんだろう」などと「推測」してしまって、
直接理由をきかなかった。
そうした自分の周りで起こることひとつひとつに敏感になれないと、相手を批判できず、
ただ漫然と問題を見過していってしまうのだと思った。

 そして今後、社会問題と関わっていくなかで、外に対してだけでなく、自分たちの組織内部でもどれだけ批判をし合い、
代案を出せるか、ということが勝負ということがわかり、自分のやっていく方向性の中で、やるべきことが以前よりも具体的になった。

 私の中で確かな前進のあった合宿だった。