6月 02

「自己否定」から発展が始まる(その3)
(ベン・シャーン著「ある絵の伝記」の読書会の記録)  記録者 小堀陽子

 ■ 目次 ■

2.読書会
(3)テキストの検討
 <1>「ある絵の伝記」
     検討3

=====================================

〈自分と異なる方法について〉
 ・62p後ろから3行目
 ≪クライヴ・ベルの理論のように、純粋形式のためにのみ描く画家は、
  芸術における最終的に可能な表現としての形式に確信を抱いている
  のであろう。≫

 → これは抽象絵画のこと。形と色だけが全てでそれが思想だと。
  勿論それも思想で、あるメッセージを持っている。

  作品にはその時代の何か、その人間の深さ、馬鹿さ加減、
  全てが丸見えになる。

  僕は抽象絵画でも関心が持てないものと、すごいと思うものが
  ある。ベン・シャーンの中にすごいと思う作品も、つまらないと
  思うものもある。

 ・62p後ろから2行目
 ≪フロイトの理論のように療法として芸術を見る人々は
  自分のしていることに自信があるだろう。
  いろいろな材料を巧みに扱うだけの画家たちも同様だろう。

  しかし、かかる芸術は内面的な経験をも、外部的な経験をも
  含むことができないのではないか。≫

 → 内面的な経験も外部的な経験も、作者と客観世界を
  引き離してしまうだけで表現できない。
  彼は両者を統一しなければならないと思っている。

 〈自分の方法 ─ 普遍性を描く〉
 ・63p5行目
 ≪私にとっては、主観と客観は共に極めて重要なものであって、
  前に述べたイメージとアイデアの問題のひとつの面に
  外ならない。

  取るべき手段はこの両者を芸術から抹消し去ることではなく、
  むしろ両者を統合して、一個の感銘を与えるもの、

  ─すなわち「意味」がその不可欠な要素になっている
  ひとつの視覚「映像」たらしめることである。≫

 → 統一することはこの人の核心。具体的には次の段落の最後
  「世界的な性質をもつシンボル」だと。65p「普遍性を描く」。

  しかし「概括」とか「抽象化」によって描くのではない。
  絵は具体的なものしか描けない。絵に表れるのは全部個別。
  そのことを一見否定したかのようなのが抽象絵画。

  66pは、個別しか表現できない絵で普遍的なものを描くことは
  いかにして可能か、という問い。

  65p最後にデ・キリコの絵とマサッチオの絵という2つの例を
  出している。自分が持っている問いについて、二人が
  一応答えを出している。

  66p「感情の極限から」生まれて「偉大な普遍性」に到達している。
  それはどういうことか。

 ・66p4行目
 ≪私が第二次大戦の末期頃に描いた作品、例えば「解放」とか、
 「赤い階段」とか─は、様式の上では、以前の作品とはっきり
  区別できるようなものではなかったが、一層個人的なものになり、
  一層内面的なものになっていたことは確かである。≫
 
 → 「解放」(図録69p,197)は第二次大戦末期にフランスが
  ドイツから解放されたニュースを聞いて描かれた。

  普通は解放を明るく描く。シャーンの「解放」では子供が
  死んだような顔をしている。

  これは、ある感情の深さから始まって普遍性に到達するということ
  を試み、苦しさの中でこの段階での結論として出されたもの。
  写実であるが写実を超えた作品。

 ・66p7行目
 ≪かつて秘隠的で難解だと思われた象徴主義が、今は
  戦争がわれわれに感じさせた「空虚」と「空費」の感じと、
  戦時下に生きんとする人間の力の弱さを表現しうる
  唯一の手段となった。≫

 → 普通は解放された時、良かった、明るいと捉える。
  一方シャーンは解放された時にその戦争の空虚さが露出する、
  という捉え方。
  これが戦争を経験した人たちにとっての最も深い受けとめ方
  である、ということ。

  先日、野見山暁治の抽象画を見てきて良いと思った。

  野見山が、戦争を20代で経験して引き揚げてきて、
  これから自分がどういう絵を描くかと悩んでいた時に、
  シャーンの「解放」は衝撃的だったと言っていた。

  「衝撃的」とは、自分の心の中がそのまま描かれている
  という意味。

  戦争に負けた日本人の心の中と戦争に勝った側の心の中が
  実は全く同じだと。

  これが、個人的なもの、または感情の極限が普遍化される
  ということだと思う。

  野見山は自分の作品についてベン・シャーンのように
  言葉にならない。けれどそれは彼の絵がダメだということ
  にはならない。
  言葉にできる人が本当にいい絵を描いているとも限らない。

  ベン・シャーンの場合は両立している。
  野見山の場合は言葉での表現はできないが問題はない。
  けれどもう少し言葉にしてほしい。

  ただ、野見山が「解放」という絵に自分が何を感じたかを
  言っている言葉は僕の中にとても響いてきたし、
  この絵がどういう絵なのかということがわかる説明だった。

 ・66p8行目
 ≪当時私は作品の形成だけが問題だった。つまり強く感じられた
  感情を、絵具を塗った平面の視覚像に形成することが、
  目標だった。≫

 → 油絵は構図及び表情だけではダメ。シャーンの絵は、
  背景の色使いがすごい。

  絵は二次元の世界だから、その中にどういう像を作っていくか
  ということがプロの画家の力量。

 ・66p12行目
 ≪私自身の見解では、これらの作品は成功だった。

  当時はっきりと知った事は、情感ある視覚像はわれわれの
  感情を動かす外界の事件そのものの映像である必要はなく、

  むしろ多くの事件の内面的な痕跡から組立てられる
  ということだった。≫

 → 例えば「解放」は実際のリアルな場面ではなくイメージを
  描いた作品。

  67p2行目「このようないろんなイメージこそ」を「形成」
  するのだと言っている。

 ・68、69p
 → 絵で表現するということはどういうことか。
  68p最後。それは色であり形であり、その触感、背景の肌触り、感覚。
  そこにまで落としこんでいく力がなければ画家ではない。

 〈人間の価値〉
 ・69p後ろから7行目
 ≪私は以前に私をひどく苦しめたアイデアとイメージとの間の
  長期戦のことを述べた。
  私はこの紛争をアイデアすなわち思想を放棄することにより
  調停することはできなかった。

  かかる解決は絵画を単純化するかもしれないが、同時に
  絵画というものを勇気ある、知性的な、大人の実践の闘技場から
  退場させてしまうことになるからだ。

  私にとっては、もし思想が作品から現示すべきでないとしたら、
  絵画にあまり存在理由を認めない。
  人間が思想をもつ力があるという点、そしてその思想そのものが
  価値があるという点にこそ、人間の価値があると
  私は考えているからである。≫

 → こういうことを言える思想家がいるだろうか。

  「知性的な実践の大人の闘技場から退場させてしまう」という
  ところにぐっとくる。
  要するに彼からすると、そいつらの絵は子供っぽい。
  大人がやる闘いは違うと言っている。

  これは本当に成熟した人の言葉を聴いている感じがする。
  成熟は今の社会では難しい。全共闘世代、吉田拓郎や井上陽水は
  60になっても子供みたいな顔をしている。

 〈晩年の作品─「マルテの手記」を題材に〉
 ・71p後ろから5行目
 ≪リルケはマルテの手記のなかで書いている。

 「一行の詩のためには、あまたの都市や、人間や、事物を
  みなければならぬ。─ 中略 ─ 詩人はまた死にゆく人の傍に
  いたことがなければならないし、開いた窓がかたこと鳴る部屋での
  通夜もしたことがなければならない。≫

 → この「詩」という言葉のところに自分のテーマを入れれば
  全ての人に当てはまる。

  あらゆるものを見てあらゆるものを聞いてあらゆるものを感じて、
  それが大前提だと言っている。しかしそれだけでは足りない。

 ・72p7行目
 ≪しかも、こういう記憶をもっていることで充分ではない。
  追憶が多かったら、これを忘れることができなければならない。
  そしてそういう追憶が再び帰ってくるまで待つ大きな忍耐力を
  もたなければならない。

  追憶はいまだほんとうの追憶になっていないからだ。

  追憶がわれらの身体のなかの血となり、眼差しとなり、
  表情となり、名前のない、われら自身と区別のつかないものに
  なるまでは…。

  そして、その時に、いとも稀なる時刻に、
  ひとつの詩の最初の言葉が、それら追憶のまんなかに浮き上り、
  追憶そのものから進み出て来るのだ」と。≫

 → リルケがリルケであるところはこの後半にある。

  忘れた追憶が再び帰ってくるまで、そこに最も忍耐力が必要。
  そこで人間は成熟する。これはヘーゲルそのもの。

  僕たちは強い経験をした時にその記憶は強烈な故に消える。
  普通はそのまま消えて終りだが、頑張った人にだけ浮かび上がって
  くる時はある。リルケは詩人だからそれが詩になる時だと言う。

  最後にこれを持ってきたベン・シャーンはまさに自分は
  これをやってきたと言っている。

  ベン・シャーンはこの一節に対しての思い入れが強く、
  マルテの手記の今の部分について最晩年に描いている。
  これを自分が最初にそこからスタートした石版画でやっている。
  ここにも意味がある。

6月 01

「自己否定」から発展が始まる(その2)
(ベン・シャーン著「ある絵の伝記」の読書会の記録) 記録者 小堀陽子

■ 目次 ■

2.読書会
(3)テキストの検討
 <1>「ある絵の伝記」
     検討2

=====================================

 〈自分の方法〉
 ・初めて自分がこれではないかと思えたのが、52pのドレフェスの作品
 (版画集「ドレフェス事件」図録21p、001?008)。
  こういう漫画みたいな絵を単純性、直接性という言葉で表わしている。
  53p後ろから2行目「第一に、私自身の作品が私の人柄とひとつになった。」
  それは当然「世間の反応も大きかった」。

  54p1行目「普通は展覧会に行かない」人々、つまり絵の専門家ではない人が
  見てわかる。そういう絵が、自分がやる方法ではないかと思った。

 〈思想の中身〉
 ・54p真ん中の段落
 ≪私が中心主題に関する絵画の仕事をした時は、内なる批評家は
  やや温和になった。次に問題になるのは、画家の思想そのものの
  中味である。≫

 → 形式がある程度見えてきて次に中身が問題になる。

 ・54p後ろから4行目、人間を「社会的に見る見解」から
  55p1行目の「個々の特殊性」へと変化した。

  この人は当時社会主義的な立場、つまり貧しい人たちに身を寄せて
  その悲惨さを描けばいいという立場にいた。
  それが、個人を見なければならない、と思うようになった。

 ・55p4行目
 ≪絵画や彫刻を見にくるのは、彼という個人があらゆる階級を
  超越し、あらゆる偏見を打破しうることをさとることが
  できるからだ。芸術品の中に彼は彼の独自性が確認されているのを
  見出す。≫

 → 「彼」は作品を見る人。展覧会に来た人が、絵に描かれている
  人が自分と違う階層であっても「これは自分だ」と思う絵になる。

  貧しい人がかわいそうだという立場で絵を描いても、上流階級は
  自分と何の関係も感じられない。さらにその奥に迫れるという考え方。

 〈個人と社会の関係〉
 ・55p7行目
 ≪人は社会的不正に苦しみ、集団的改善を強く望むが、
  いかなる集団であれ個人から成っている。
  個人は誰でも感情をもち、希望や夢をもつことができる。≫

 → こういうことを表現するのが芸術だと思っている。

 ≪このような考え方は私の確信している芸術の統一力に関する考え方と
  矛盾しない。

  私は常にひとつの社会の性格は偉大な創造的作品により形成され、
  統一されること、ひとつの社会はその叙事詩の上に形成され、
  ひとつの社会はその大寺院や、美術品や、音楽や、文学や、
  哲学のような創造作品によって想像するものだと信じてきた。

  社会がかく統一されるのは、高度に個性的な経験が、
  その社会の多数の個人の成員によって、共通にもたれるためであろう。≫

 → 社会と個人の関係。これは大衆と指導者の関係とも同じ。
  一方では全てを敵にまわしてでも闘わなければならないが、
  同時に全てを自分が止揚するために闘わなければならない。
  僕はそう考えている。ベン・シャーンは直感的にそれがわかっている。

 〈否定の意味〉
 ・彼はひとつずつ前を否定して次に行く。パリの絵に毒された自分に
  対してほぼ全否定に近い形から始まる。ではその否定はどういうことか。

 ・56p1行目
 ≪通り過ぎてきた芸術上の経路はすべてその後の作品に
  影響を及ぼし、変化を与えるものだ。

  私が捨てたものがなんであれ、それはそれ自体確実な形成力である。
  私は社会的な人間観を捨てても、共感や愛他心は大切にもち続けている。≫

 → この否定は、ヘーゲル的に言えば止揚されたということ。
  否定はその立場より上に行こうとしたということで、同じレベルで
  否定しているわけではない。

  信念は否定に否定をし続けてきた人だけが持てる。

 〈時代背景─思想の変遷〉
 ・56p後ろから6行目
 ≪私だけが「社会的な夢」に夢中になったのではなかった。
  1930年代には芸術は「大衆思想」に席巻され、一転して
  1940年代には抽象芸術に対する大衆運動が起った。

  社会的な夢が却けられただけでなく、夢全体が却けられた。
  30年代に仮定的な独裁と理論的な対策を描いた画家たちの多くが、
  40年代になると正方形や円錐形や、色彩の糸や、色彩の渦の絵に
  署名されるようになった。≫

 → 「社会的な夢」「仮定的独裁と理論的な対策」は
  マルクス主義者たちの当時の社会主義革命や理論のこと。
  1930年代、この人がまさにマルキシストだった。
  その全否定が抽象芸術という形で出てきた。

  彼は社会主義の形のものではダメだと。しかし、
  その全否定の抽象芸術もダメだと言っている。では何なのか。

 ・57p後ろから4行目
 ≪それまで「社会的写実主義」と呼ばれていた私の芸術は
  一種の「個性的写実主義」に転向した。私は民衆の性格を、
  絶えず興味深いものとして眺めた。≫

 → 自身の絵の変化を「個性的写実主義」と言っている。
  それ以前は、被写体の個性的な表情ではなく、ある役割として
  描いていた。それが「個性的」へ変化しても、やはり
  ある立場を表わしている。それは社会を否定した個性ではない。

  59p真ん中「個性的写実主義、すなわち人間の生活の
  個性的観察、人生と場所の気分の個性的観察」。
  さらに次に行くと、60pの「主観的写実主義」。

  結局今この立場だと言う。そうすると、ずっと写実主義の
  立場にいる。写実主義それ自体を否定する立場、
  抽象画の立場はとらない。

 ・60p1行目
 ≪私の企てたあらゆる変化を通じて、私が絵画の原則として
  もち続けた主義は、外的対象は細部まで鋭敏な眼で
  観察されねばならないが、この観察は総て、内面的な見方
  から形成されねばならない─いわば「主観的写実主義」とも
  称すべき立場であった。≫

 → この「主観的」という言葉は客観性を否定するという
  意味ではない。

  社会主義リアリズムでは、客観世界がそのまま作品に
  反映されると言う。しかしそれは間違い。

  なぜなら社会的な現実を、作者が媒介して作品を作る。
  そうすると、作者が客観世界とどのように関わっているか、
  また作者が人類の絵画の歴史をどのように担って生きているか、
  ということが作品の中に現われてくる。

  これが「主観的写実主義」。

  僕たちは全て自分自身を反映すると同時に自分の周りの
  全てを反映させてあらゆる表現活動を行なっている。

  客観世界にも作者にも矛盾があり、その矛盾から出てくる
  作品にも矛盾が起こる。だからこそ発展できる。

  僕は彼の言葉をそう理解した。彼はそれを自覚した立場で、
  全体を自分は統一しなければならないという意識。
  それは僕の立場でもある。

  ここまでは一般論。次に絵の特殊性の話へ。
 ・60p4行目
 ≪かかる内容は、油絵具であれ、テンペラであれ、
  フレスコであれ、絵具の種類に忠実な方法で
  描かれなければならない。≫

 〈抽象絵画に対する批判〉
 ・60p6行目
 ≪芸術が抽象化し、材料のみに媚びるのをみた私は、
  かかる傾向は画家に袋小路を約束するのみのように
  考えられた。

  私はこの方向を避け、同時に芸術の中にある深い意味を、
  政治的気候の変化にも枯渇しない泉のような意味を
  発見したいと思った。≫

 → 材料のみに媚びる芸術とは、恐らく抽象絵画。
  メッセージを全て排除して、油絵の具は油絵の具だけの
  ものを表現できるという、今もある立場だが、
  自分は違うと言っている。

 〈自分の絵画の位置づけ〉
 ・60p10行目
 ≪一人の画家のスタイルを形成する例の「受納」と「拒否」の
  バッテリーのなかから、ひとつの力として生じてくるものは、
  その画家自身の成長し、変化する仕事だけではない。

  他の現在及び過去の画家の仕事に対する評価も変ってくる。

  われわれはあらゆる傾向を観察して、実り多きものと思える
  方向を続け、他方永続きしないように思われる方向は
  遠ざけねばならない。

  かくして、画家にはある程度の知性も不可欠なものになる。≫

 → あるレベルに到達していく時に、進むと同時に
  彼を生み出した本質のところに戻る運動が起こる。
  これはまさにヘーゲル。

  ある立場に行けば現在の他の画家の仕事に対する評価
  および過去の画家の仕事に対する評価につながる。

  つまり、自分の仕事は、過去のどことつながって
  今自分はこれをやっているのかという自覚。
  ここに僕たちが歴史を勉強する理由がある。

  自分のやっていることを歴史の中に位置づけることが
  できて初めて、その意味が自分の中で確信できる。

 ・その具体的な例が53p7行目
 ≪私が心から寸時も離さなかったのはあのジオットが
  連続的な情景─個々の場面は単純で独立しながらも、

  全体としては彼にとって生きている宗教的な物語を
  表現している多くの情景を描いた際に彼が用いた
  単純性であった。≫

 → 自分の絵画は、絵画の歴史の中のどのことを
  意味づけるものなのか。これが抜き差しならない形で
  現われてくる人がいる。

  だから自分が前に進むことは周りへの批判になると
  同時に過去の意味づけにもなる。

 〈超現実主義に対する批判〉
 ・次の段落は、超現実主義に対する批判。
  人類の歴史で、この人の発展させた方向性以外に
  発展の方向がないのではない。
  違う画家は違う発展ができるしそれで正しい。

  でもこの人にとってはこれしかない。
  その立場からすると、超現実主義は違うと。

  60年代の終り、無意識の世界の中で表現されるものがいい、
  勝手にタイプライターを打って出てきたものが詩だとか、
  そういう一群があった。潜在意識こそが全てだと。61p。

  しかし、この人は潜在意識の持つ力を認めた上で、
  最終的にそれを統一するものを持つのは意図的な自己で
  なければならないと言う。

  例えば野口整体では、無自覚に無意識に僕たちの身体が
  動いて身体を整えている運動が鈍っていくことが問題である
  として、その運動を意識によって高めようとする。

  活元運動はそれを意識的に高めていこうという、
  意識で行なう無意識の運動。そういうことだと思う。

  ここでは、当時の、無意識こそが全てだという運動を、
  彼が位置づけて、自分はそれはやらない、と言っている。

 〈心理学者と芸術家〉
 ・62p5行目。
  ヴァン・ゴッホについての心理学者と芸術家で捉え方が
  違うと言っているが、これは不正確。

  ここで言っている心理学者は馬鹿たれで、心理学もそれが
  本当のものになっていったら、彼が言っているところに行く。
  逆に、芸術家の浅はかな人間が言うことは馬鹿なことだということ。

5月 31

1月に、ベン・シャーン展をみてきた(神奈川県立近代美術館 葉山)。とても心動かされた。

 前から関心を持ち、彼の画集をながめていた。
心に染みてきて、私の体の内側から静かに力が満ちてきて、
背筋をグンとのばしてくれる。

 今回は、彼の絵がどのような形で生まれてくるかを
解き明かすような展覧会になっている。
絵の出自、絵の生成史と、その展開史が一緒に展示されている。
 その意味でも、興味が尽きなかった。

 ベン・シャーン展で、彼の絵の出自、絵の生成史と、
その展開史の展示を見て帰ってから、今度は、
彼自身の言葉でそれを述べている『ある絵の伝記』
(美術出版社)を読みたくなった。

 数年前に一度読んでいたのだが、
今回は実際に実物でその軌跡を確認した上で読んだので、印象が深かった。
そして、ヘーゲルの発展観、人間の意識の内的二分と、
きわめて近い考えが展開されていることに感銘を受けた。

 そこで、『ある絵の伝記』を1月の読書会で取り上げた。
 その読書会の記録である。

■ 全体の目次 ■
1.はじめに
(1)1月読書会について
(2)記録について
(3)テキスト選択の経緯
2.読書会
(1)テーマ
(2)参加者の読後感想
(3)テキストの検討
 <1>「ある絵の伝記」
     検討1 →ここまで本日(5月31日)掲載
     検討2 →6月1日掲載
     検討3 →6月2日掲載
 <2>「異端について」 →以下6月3日掲載
 <3>「現代的な評価」
(4)質疑応答
(5)読書会を終えて─参加者の感想
3.記録者の感想
(1)記録を書いて
(2)他人との関わり
(3)自己否定の違い
(4)表現の違い
────────────────────────────────────────
■ 本号の目次 ■
1.はじめに
(1)1月読書会について
(2)記録について
(3)テキスト選択の経緯
2.読書会
(1)テーマ
(2)参加者の読後感想
(3)テキストの検討
 <1>「ある絵の伝記」
     検討1
=====================================
1.はじめに
(1)1月読書会について
  ○日時   2012年1月28日16:00?18:00
  ○参加者  中井、社会人3名、就職活動生1名
  ○テキスト 『ある絵の伝記』(美術選書、1979)より
    主に「ある絵の伝記」 他「異端について」「現代的な評価」
  ○著者   ベン・シャーン(著)、佐藤明(訳)

(2)記録について
  ・以下の記録は、中井の語りを中心にまとめた。但し書きのない箇所は
   中井の発言である。
  ・読書会の(3)テキストの検討 の中で≪ ≫を付した文章は、
   テキスト本文の引用、あるいは要約である。
  ・語られた絵については、作品のタイトル、ベン・シャーン展図録の
   掲載ページ、作品番号を付した。

(3)テキスト選択の経緯
 <1> ベン・シャーン展 
   (神奈川県立近代美術館 葉山 2011.12.3?2012.1.29)
   ベン・シャーンは以前から好きだったが、展覧会を見てきて
  面白かったので、「ある絵の伝記」を読み直した。

  1.画家としての出発点から最晩年の作品が出てくるまでの
   プロセスがよくわかる展示だった。
   「ある絵の伝記」の最初の「シンプルな」作品群はこれ
   (版画集『ドレフュス事件』図録21p、001?008)。
   最初に自分の絵の道を自覚した段階。

   その次の共産主義者が冤罪で殺された時がこれ
   (「四人の検事」22p、010)。

   最晩年の作品、リルケの「マルテの手記」への石版画が
   終りに展示されていた。
   (版画集『一行の詩のためには…:リルケ「マルテの手記」より』、
   図録117?124p、275?298)

  2.絵ができあがるプロセスがわかる展示だった。
   社会で生きる人間を写真で撮って、その写真から絵を
   構成している。

   労働者の写真をたくさん撮っていることも、
   今回の展覧会で初めて知った。

  3.デッサンがたくさん展示されていた。(図録62、63p素描断片)
   シャーンはデッサンを発展させようとしていた。

 <2>ヘーゲルとの類似
  1.「ある絵の伝記」を読み直して、ヘーゲルについて
   今考えているところにかなり符号するものがあったので、
   とりあげた。

  2.今日はヘーゲルの話も少しする。
   生成史と展開史との関係を僕は考えている。
   この「ある絵の伝記」も、この両面を押さえていると思った。

   ある人間、或いはある本質がここに現われるまでの歴史と
   それが現われたあとそれ自体を自ら明らかにする運動。
 
   この両者は大きく見れば1つの歴史、1つの運動だ。だから
   生成史と展開史は何か固定した形で二つと押さえられるのではなく、
   無限の運動になっている。そういうことをいま考えている。
────────────────────────────────────────
2.読書会
(1)テーマ
 <1>「ある絵の伝記」
  「寓意」という油絵を描き上げる過程で画家が考えたこと。
  絵の実物はこれ(テキスト口絵「寓意」)。
火事のひとつのシンボルが描かれている。ケダモノの顔、
顔の周りに炎のシンボル。子供たちが横たわっていて、家がある。

 <2>「異端について」
   現実社会の中で芸術家はどこに位置づけられるものなのか、
   という問いの答え。

 <3>「現代的な評価」
   大衆による作品への評価についてどう考えるのか、
   という問いの答え。

(2)参加者の読後感想
  (社会人)面白かった。絵と画家の思想は切り離せない、
    これは本質と現象が一致するという話だと思った。
    また自分を否定する厳しい批評家がいて進化していく
    という話は、中井さんが話していた発展観そのものだと思った。

  (就職活動生)本はほとんど読めなかったので、感想はない。

  (小堀)ベン・シャーンを知らなかったが、テキストを読んで
    絵が見たくなり、展覧会に行った。そこで展示を担当した
    学芸員の講演を聴いた。その話が面白くて、絵も面白く見て来た。

  (社会人)自分が考えている「当事者性」という問題と関係が
    あると思った。

    ベン・シャーンが自分の経験にないことを
    描いた時に、何々風の衣装を装って描いたが、それは自分には
    関係なかったという箇所に、とても共感した。

    そこから、私自身がフラメンコをやっている意味は何か、
    フラメンコという形式を使って表現したいことが
    スペイン人と違っていていいのか、ということを考えた。

    また、社会に巻き込まれながら同時に社会から自分を
    離しておかないといけないと言っていたが、具体的に
    どうやって自分たちの社会の価値観から離れられるのか、
    わからなかった。

(3)テキストの検討
 <1>「ある絵の伝記」
     検討1

 〈全体の感想─中井〉
 まず、これだけ自分の自己反省をしながら絵を描く画家がいることに
 感動した。普通、画家は言葉には出来ない。

 それだけでなく、その中身が非常に良い。ただしシャーンは
 哲学の専門家ではないので、読者は言葉尻を捉えるのではなく、
 彼が問題にしようとしている対象にどれだけ迫れたか、という点を
 考えなければいけない。

 〈画家の立場〉
 ・39pから40p
 → 問題提起。「寓意」というタイトルからも明らかだが、
  この絵にはメッセージがある。他方、絵にはメッセージは
  必要ではない、メッセージがあると絵の純粋性が損なわれる
  という立場もある。これは対立する二つの立場。

  40pの最後「私はこの双方の見解と闘わなければならない」。
  この人は両方の立場と闘っていた。

  あらゆるものは矛盾するから、正反対の二つの立場が
  現われてくる。そして世間では二つの立場が闘っている。

  普通はどちらかの陣営に属するが、真っ当な人は、
  自分の陣営の中とも闘わざるを得なくなる。
  どこかの陣営に属して済むレベルならばその人が
  存在する意味はない。

 ・41pからは、「寓意」に則して言っている。

  ベン・シャーンは42p1行目にあるように挿絵画家だった。
  純粋芸術を言う人からすると、挿絵という大衆画を
  描いている奴は下らないという意識がある。

  しかしシャーンは価値において、挿絵だから即低い、
  油絵だから即高い、という発想ではない立場だと思う。

 〈作品の製作方法・製作過程〉
 ・42p「私は多数の視覚的な事実を調査する。」
  この人はまず現場に入って写真を撮る。次にそのすべてを捨てる。
  捨てた上で普遍的なものに迫ろうとするのがこの人の方法論。

 ・42p後ろから4行目で、一応出来上がるが、満足出来ない。
  43p3行目≪私の画室に多くの反写実的な、象徴的な方向の
  線画が残された。≫
  画材から切り離された断片の中に発展の芽がある、
  と捉えてそれを発展させようとする。

 ・44p4行目から、「線画」と油絵の違いについて述べている。
  音楽に例えれば、油絵はオーケストラで線描はポリフォニー。
  しかし、ジャンルが違うことが即、絵のレベルの上下関係だ
  とは思っていない。

  油絵でしか表現できないものがあり、線描でしか表現できない
  ものがある。
  ここで彼が描きたいと思っているものは油絵の形式でしか
  表現できないものだと言っている。

 ・46p後ろから5行目≪この油絵に私が火事に関して感じて
  きたことのすべてを描き込むことができるのではないか。≫
  僕は展覧会を見てきて、画面構成、色、画面の質感について
  シャーンは考えぬいていると感じた。

  47p1行目≪災害を取り巻く感情的な調子─別の言葉で
  言えば内面的な災害が描きたかったのだ。≫
  この内面性、感情、という言葉は、この人の特別な
  言葉づかいだと思うが、それを表現したいと言っている。

  47p真ん中の段落の最後「私の狼に対する恐怖はリアルで」。
  恐怖感、内面的災害、感情、それをこの絵でリアルに
  表現しようとした、と説明している。

 〈内的二分─強烈な自己否定〉
 ・49p1行目
 ≪芸術家は仕事をしている時は二人の人間になっていて、
  一方はイメージを作り、他方は厳しい批評家である。≫

 → 自分の中で二人の言葉が対立し、片方が芸術家で
  片方が批評家だと言っているが、正確な表現ではない。

  絶えず否定する声が自分の中から出てくるということ。
  これはヘーゲルの内的二分。それによって自分を
  発展させてきた、と言っている。

  50pから、内面の自分がどういう否定を突き付けて
  きたかが書かれている。

 ・51p後ろから2行目
 ≪最初はこんな着想とイメージというような分離が現われる
  ことはなかった。もともと私が絵画に打ち込むようになった
  のは、半分真剣とでもいうような調子だったからである。≫

 → 本気になった時に、自分を否定する自分が強烈に現われる。
  その第一の否定が50p。

  この人は旧ソ連の出身だが、貧しくて8歳の時に家族で
  アメリカに移住した。貧しいので子供の時から働いていた。
  石版画も芸術家としてではなく、職人として身につけた。

  そして、芸術家にとって最先端の場所だったパリに行った。
  ところが、パリの専門的なものは自分にとっては違った。

  50p後ろから2行目「これは私の芸術だろうか」。
  最後「私そのものが、その中心に含まれていない」。
  51p5行目それが「たとえ完全に立派だったとしても」
  「総ては私自身に無関係な芸術」。

  全否定から何かが始まる。

4月 22

「福島県立小高工業高校の1年を追う 18歳の決断」

福島県の小高工業高校の、震災後の1年を振り返る連載が
週刊『金曜日』の4月20日号から始まりました。

3回の連載で、タイトルは「福島県立小高工業高校の1年を追う 18歳の決断」です。
「18歳の決断」とは、インパクトのあるタイトルですね。
編集部の作品です。

小高工業高校は福島県の相双(相馬、双葉)地区唯一の工業高校。
卒業生の2割(約40人)は進学、8割(約160人)は就職する。
例年一二月には就職内定一〇〇%を達成している。
就職の内訳は3割が県外(東京を中心)で7割は南相馬市を中心とする、いわゆる地元(自宅からの通勤が可能)であるが、
その中でも最優良企業である東京電力とその関連子会社に就職できることが売りだった。

東電の福島第一原発事故のため、原発から二〇キロ圏内にある小高工業は閉鎖された。
混乱の中で小高工業では福島県内五地区(会津、県南、県北、いわき、相双)すべてにサテライト校を設置し、
五月九日から開校した。しかし約200名の生徒が転向を余儀無くされ、在籍数は600人から三九〇人まで減少した。

その生徒たちの避難生活、就職活動、野球部の活躍、サテライト校の困難。それを主に生徒の視点から報告します。

昨年の7月から、私は被災地を取材して回りました。
福島県にもずいぶん訪れ、今年の1月、2月は毎週のように通ってきました。
そうした取材の1つの成果が、今回の連載です。

来月、月刊『高校教育』でも6月号から、
震災後の福島県の県立高校の被害の実態と、復興へ向けた努力をリポートします。
約1年の連載予定。こちらでは、学校の運営、経営という視点から考えてみるつもりです。

4月 19

人間そのものの本質に迫る本 

『痴呆を生きるということ』 (岩波新書847) 小澤 勲

これは素晴らしい本です。認知症という特殊な病を理解するために大いに有効なだけではありません。これは、人間そのものの本質に迫っている本なのです。

認知症を、外から理解する本は多数あります。この本は、そうした本ではなく、認知症をその内側からとらえようとするのです。
徹底的に患者本人に寄り添い、当人の心の世界を、当人の側から理解しようとします。彼らはどのような世界を生きているのか。それを理解し、その世界をともに生きようとします。

この本は、認知症の人の世界を解き明かしただけではありません。それを通して、すべての人間の本質、社会と家族との関係で生きることの本当の意味を浮き彫りにします。
それほどの深さと広がりを持った本です。

最近、私の父が入院しました。腰をいため、食事がとれなくなったからです。そして入院生活の中で、認知症の症状がはっきりとわかりました。
約2年前から、認知症は進行していたようです。

私が気づくのが遅すぎました。しかし、そんなもののようです。父と一緒に生活し、介護していた母も、父を認知症だとは思わず、「寝ぼけている」とか、「意地が悪くなった」とかとこぼすだけでした。私の妻の母は20年ほど前から認知症で、その義母との関係で私もそれなりに認知症を理解しているつもりでした。しかし、そうではなかった。直接の当事者か否かでは、それほどに違うようです。

今は、少子・高齢化社会です。家族が認知症になり、その介護で悩み苦しんでいる方が多いことと思います。他人ごとではなく、また介護側としてだけではなく、私たち自身が認知症になる可能性も高いのです。

本書をゼミの7月の読書会のテキストにし、認知症への理解を深め、人間の本質を考えてみたいと思います。

最後に本書を読む上でのアドバイスを。

本書は、全体としてのまとまりが弱く、読みにくい部分があります。特に本論である、3章?5章の関係、特に3章と4章の関係がわかりにくいと思います。

一番大事で核心的なのは3章です。ここだけでも読めますし、ここをしっかり読むだけでも、圧倒的に学べると思います。

3章と4章の関係については、本書の続編である『認知症とは何か』 (岩波新書942) を読むとわかります。つまり、大きく言って、中核症状(4章)と周辺状況(3章)との区別なのだと思います。本書に感動した人には、『認知症とは何か』を併読することをおすすめします。