6月 17

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の4回目 

吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。

卒論は『山びこ学校』。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。

それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の4回目

■ 目次 ■

第1章 川合末男「父は何を心配して死んで行ったか」
第3節 問いから答えへ
 答えについて
 父親とその病気との区別
 答えの根拠
 問いと答えの関係
第4節 答えを出した結果どうだったのか。
課題を明らかにする

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第3節 問いから答えへ

答えについて

 第2節では川合末男の問いとは何だったのか、そしてなぜそのような問い、しかも明確で強い問いが生まれたのか、ということについて述べてきた。次に、この第3節では、問いに対する答えがどういうものだったのか、どうやって川合は答えを出したのか、ということについて考える。しかし、それは答えやその根拠を分析することによって、そもそもの問いがなぜ生まれたのかを考えることにもなる。
 まず答えについて分析していくと、問いと同じように川合の答えは明確だ。父は自分の将来を心配して死んでいったという答えを、繰り返し繰り返し述べている(11)(14)(18)(20)(21)(23)(27)(29)。また、その答えは「父は何を心配して死んで行ったか」という問いにしっかりと対応していることも確認したい。それは問いが明確であることも示していると思う。問いが明確でない限り、それに正確に対応した答えというものは出てこないだろう。横道にそれることを許さない厳しさが川合の問いにあったと言えるのではないか。
また、答えの内容にも納得させられるものがある。それは、父親の心配が家族の命に関わる内容だということにある。家から出ることもなく家族に頼りきりだった川合の父親にとって、家族の命以上に大きな心配があっただろうか。だから生計を立てて行く手段が唯一決まっていなかった川合末男の将来についての心配が最も大きかっただろうと納得できるのだ。もちろん、まず父親自身の命を心配してはいただろうが、自分が死ぬかもしれないとなれば、家族のことが最も心配だったと思う。

父親とその病気との区別

川合が「父は何を心配して死んで行ったか」という問いの答えを求めていく中で、父親の奇妙な行動を理解し直している点は興味深い。
例えば、「急にあばれ出し、目玉をひっくりかえし、身体がふるえてくる時があった。それが終わると、まわらない口で「ヤロ」「ヤロ」と云いながら、あっちを向いたりこっちを向いたりして私を探すのだった。私を見付けると、安心したように、じーっと私を見つめるのだった」といった行動(12)の意味を、何とか理解できるようになっている。そして川合は父親にも色々な心配があり、特に息子である自分についての心配が大きく、それが上記のような不思議な行動に表れたのではないかと理解するようになったのだった(13)(14)。これは「父親が自分の将来を心配して死んで行った」という答えを得たことで、そのように理解できるようになったのだろう。作文の中で考え続けた答えと、かなり直接的な影響が見られるので分かりやすい変化だ。
他にも、「遠くに働きに出ている兄さんや姉さんたちが、たまさか来ると、ふとんをかぶって泣くのだった」といった行動(4)を捉えなおすようになった。「中風という病気だけが泣かせるのではなくて、もっと別なところに原因があったのでなかったか」と捉え直している(9)。ここでは川合が中風と父親とを一応区別できるようになったことが成長だと言えるだろう。以前は、父親について中風という病気の面でしか理解してこなかったのではないだろうか。そこには、父親と父親の病気についての混乱があったと思う。それが父親に自分への心配が強くあったのではないかと考え、父親に中風とは別の面があることを認め、父親と父親の病気を一応別のこととして理解するようになったのだ。
また、父親への理解が深まり、父親とその病気を区別することによって、実は病気についても理解が深まっている。以前は「中風という病気はいやな病気だなあ」(5)、「私だけは、こんな病気になりたくない」(6)というように中風に対する拒否感、嫌悪感が強く出ていた。しかも他方で根拠の弱い情報に流されていて、遺伝で中風になるのだろうと中風を受け入れてしまっていた(7)。しかし、それが「はたして、まきというものがほんとうなものかどうか」(8)というように、とても冷静に中風という病気を捉えられるようになっていて、中風という病気を知ろう、中風に向きあおうという姿勢も感じられるようになったのだ。「まきというものがほんものか」と中風を冷静に捉えているのも、病気と父親とを区別できたからではないだろうか。そして、父親とその病気を区別するようになったのは、父親の病気とはまた別の面、つまり「父親の心配」を徹底的に考えたからだろう。
父親とその病気の区別という理解の変化を含め、なぜ川合は明確で強く、それも納得いくような答えを出せたのだろうか。「父は何を心配して死んで行ったか」という問いから、「私が将来どんな職業について、どんな生活を立てるかということについての心配が、一番大きかったのにちがいない」のような答え(14)との間に何があったのだろうか。

答えの根拠

そこで注目するのは、当然答えの根拠ということになる。この作文の中では、「四 兄弟たちと家」がその根拠に当たる部分だ。「そのことをもっとよくわかってもらうために、どうしても、私の家のことをもうすこしかかなければいけない」(15)、と川合自身が根拠として位置づけている。
それは、大きくは家の貧しさの問題と言えるだろう。具体的には、自分以外の家族が生活費を稼ぐ手段がすでに決まっていて、自分だけが何も決まっていないという状況を主な根拠として挙げている(17)(19)(24)(25)(26)(28)。ここでも、繰り返し繰り返し、同じことが言いかえられていることに注目したい。問いや答えだけでなく、根拠にも強いものを持っていたと認められるだろう。
特に(25)においては、かなり明確に根拠を説明している。川合が兄や姉についてそれぞれの事情を説明しているのだが、「一番大きい兄さんは」「二番目の兄さんは」「三番目の兄さんは」「一番大きい姉さんは」「二番目の姉も」というようにたたみかけるような表現となっている。そして、仕事が決まっていないということは、川合が生きていけるかさえ分からない状況だったということを意味する。
また、川合が述べている通り、家の財産は決して多くなかったようだし(16)、しかもその少ない財産を継ぐのは末子の川合末男ではなく、兄の多慶夫だったのだ。つまり、川合はとりあえず生きていけるかどうかさえ分からなかった状況だったのだ。ちなみに、それは農家の次男以下の問題として、一般的なことだった。無着はそれを学級で学習を組織し、男だけの問題ではないという意見を得るに至っている。無着が生徒たちの現実問題を1つずつ取りあげ、それに対する考え方を作らせていることは見逃せない。
川合は中学3年であることも挙げている(21)。この作文が書かれたのは、川合が中学3年の10月のことで、あと半年もすれば卒業なのだ。当時の山元村では中学卒業後はほとんどが労働者になっていた(卒業する前から、すでに労働者でもあったのだが)。実際、1951年に山元中学校を卒業した『山びこ学校』の卒業生42名のうち、高校へ進学したのは4名(内2名が全日制、残り2名は定時制)のみだった。川合も多くの生徒と同じように高校への進学はしなかった。本人の希望どうこうではなく、まず経済的にそんな余裕がある状況ではなかったのだ。働かないと生きていけないのだ。それに加えて、川合は就職の難しい時代背景(22)も挙げている。
これらの根拠は、客観的な事実であって、その意味で根拠としてふさわしいと思う。これらの根拠は父親が川合の将来の職業をどうするのかということを一番心配していた、ということを納得させるものがある。川合の仕事が決まらない限り、彼が生きていけるかさえ分からない状況なのだ。それにしても、なぜ答えの根拠として冷静に主に兄弟の就職状況を提示し、他にも自分の年齢や財産の少なさ、時代背景が挙げられたのだろうか。それらを根拠として提示した理由までは分からないのだ。「父は何を心配して死んで行ったか」という問いを考える時に、なぜ川合から答えの根拠となるそれらの事実が出てきたのだろうか。

問いと答えの関係

ここで、「父が何を心配して死んで行ったのか」という問いがなぜ生れたのかという第2節の話を思い出したい。川合には、父親の病気や理解しにくい行動があり、そこに問いを持っていて、それが父親の死や、無着成恭の働きかけによって、より明確な問いになったということを述べた。しかし、さらに辿ってみると、父親の理解しにくい行動には父親の心配が原因にあるということだった。そして、心配があるということは、そうさせるだけの事実が根本にあったということであり、川合末男に父親に心配があることを納得させたのもその根本の事実であると第2節で私は述べた。
では、その問いの始まりとなる根本の事実とは何なのかというと、やはり川合が答えの根拠として挙げた内容がそれに当たるのではないか。それは、大きくは家の貧しさであり、兄弟の就職状況や家の財産の少なさ、また中学3年というタイミングのことや、他にも就職の厳しい社会背景のことだ。
つまり、問いと答えが同じ事実から生まれているということだ。ある事実から問いが立ち、その答えを求める時には何か全く別の新しい事実に向かったわけではないのである。問いが立ったということの中にすでに強い事実があり、その事実を言葉にして明らかにするのが答えを求めることになっている。
川合が「父は何を心配して死んで行ったか」という問いを明確に言葉にできるようになり、この作文を書くことになったのは無着成恭の一言がきっかけだった。それは「お前のおっつぁんは、お前のことをずいぶん心配して死んで行ったんだということでないか。」という一言だった。ここで分かるのは、無着の一言がすでに川合の問いの答えになっているということだ。川合は「父は何を心配心配して行ったか」という問いを持ち、「私が将来どんな職業について、どんな生活を立てるかということについての心配が、いちばん大きかったのにちがいないと思うことが出来るのだ」(14)という答えに至るわけだが、その答えへの気付きのようなものがすでに無着から与えられていたのだ。
川合の中に言葉にならない問いがあったところに、無着からの答えの提示によって川合の問いが明確に言葉にできるようになったことをどう考えれば良いのだろうか。まず問いがあり、答えを求めて行くというのが普通の理解だと思うが、実際には答えへの気付きのようなことが、逆に問いを明確にさせることもあるのではないだろうか。そして、それは答えと問いが同じ事実から出てきているからでは起きることではないだろうか。
よって、自分の将来を父は心配して死んで行ったという答えの根拠として、冷静に兄弟の就職状況や、他にも自分の年齢や財産の少なさ、時代背景などを川合がなぜ挙げられたのかというと、そもそもの問いがそれらの事実から生まれたからではないだろうか。明確な問いを言葉にできた時点で、根本にある事実についての認識はある程度確かになっていて、それは答えの根拠でもあるのでそのまま提示することができたのではないだろうか。

第4節 答えを出した結果どうだったのか。

課題を明らかにする

 「父は何を心配して死んで行ったか」という問いを考え、答えを川合は出したわけだが、さらに進んで川合が自らの次の課題を明らかにしていることにも注目したい。それは作文の「五 私の考え」の部分にあって、生き残っている母親だけでも安心させること、そのために良い職業に就くことだと言っている(30)(31)。「五 私の考え」では自分の課題を考えているが、それは「父は何を心配して死んで行ったか」を考えてきたことを受けている。「お父さんが心配したのも、将来なにさせるかということだったと思う」(32)というように、良い職業につくという自分の課題と父親の心配の中身とを一致させて考えていることからも分かる。
 さらに、自動車の運転手になることを望んでいた川合は、「よい職業」とは何かということを警察予備隊を1つの例として考えている(33)。当時の背景にふれると、この作文が書かれたのは1950年10月だが、同年の8月に警察予備隊が発足していたのだった。6月には朝鮮戦争が勃発していた。定員7万5000人の警察予備隊は安定した収入のある職業だった。その警察予備隊について考える際に、川合は教科書や本を参考にした(34)(37)。まず、本のどこから引用したのかが明確だ。しかも「今でも覚えている」と言う。問題意識の強い人間が文献に当たったとき、学習がどれだけ深いものになるのかを示唆している。
また、職業について、金銭的な収入源という面(35)、世の中への貢献いう面(36)(39)、自分の才能と欲求という面(38)に注目している。その上で予備隊について世の中への貢献という面から、そして才能や欲求という面からそれぞれ批判をしている(40)(41)。職業の重要な意味と、予備隊への批判がそれぞれしっかりと対応していることに注目したい。それだけ思考が明確だということだ。また、「職業を選ぶ権利」について「実際は、そんな権利は今の世の中ではなんの役にもたたないのだ」と川合は言う。そういった建前は、厳しく吟味されるのだ。
それにしても、川合が立派なのは、自身は貧しさの中で生きているのにもかかわらず、職業を金銭面(35)でのみ考えていないことだ。特に金銭的な面だけにとらわれず、世の中のためになるかどうかということ(40)まで考えられるのはなぜだろうか。
そこにはやはり無着成恭の指導が大きかっただろう。この作文のタイトルは「父は何を心配して死んで行ったか」ということだが、作文の最後には「職業科の勉強として」とある。無着によって計画された職業について考えさせる学習の一環だったことが分かる。山元中学校の生徒はすでに労働をしていたし、卒業すればそのほとんどは純粋に労働者となる。また、川合のような農村の次男以下にとっては何を職業に選ぶかということが問題だった。山元中学校の生徒としては労働は大きなテーマの1つであり、それを無着は深めさせたと言えるだろう。
警察予備隊については、無着の意見に強く影響されているだろうし、ただの無着の口真似である面が強いかもしれない。しかし、職業について、金銭面、世の中への貢献、自分の才能と欲求という面に分けて考えられていることは川合にとって重要なことではないだろうか。
また、川合の職業についての学習が深まったのは、指導している無着の働き方の中に川合に響くものがあったからでもないだろうか。そこで無着自身が学校教員として労働していたことに注目したいが、果たして金銭のためだけに無着は働いていただろうか。そんなことはないだろう。確かに学校教員はもちろん安定した収入源ではあったと思うが、無着はそれにとどまっていない。教師として生徒の成長を促す役割を果たしている。それはこの作文からでも分かることだ。川合の問いを言葉にできるまでに明確にさせ、作文も書かせ、職業についての学習も組織しているではないか。少なくとも中学生の成長という点で世の中への貢献はしっかり果たしているだろう。
ただし、金銭面ももちろん重要だと思う。無着は教師として立派に世の中への貢献を果たしていたと思うが、それにはやはり安定した収入があったからこそできたのではないだろうか。安定した収入が約束されていない川合が、警察予備隊という仕事を金銭以外の観点から批判するに至っているのは、そういう無着の影響がやはり大きいのではないだろうか。

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6月 16

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の3回目 

吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。

卒論は『山びこ学校』。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。

それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の3回目

■ 目次 ■

第1章 川合末男「父は何を心配して死んで行ったか」
第2節 問いについて
なぜこの問いが生まれたのか
 父親の死
 父親の理解しにくい行動

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第2節 問いについて

なぜこの問いが生まれたのか

 川合の問いは明確だ。それは(1)の部分、つまりこの作文のタイトルにある通りで、「父は何を心配して死んで行ったか」ということだ。タイトルにこれだけ明確な問いが立っていることは、「父は何を心配して死んで行ったか」が、川合の一番考えたかったこと、そして実際に考えたこと、と言えるだろう。それは「父は何を心配して死んで行ったか」という問いに対して、末っ子である川合末男自身の将来の仕事を一番心配して死んでいったという答えを、(11)、(14)、(18)、(20)、(21)、(23)、(27)、(29)で繰り返し繰り返し書いていることからも明らかではないだろうか。
また、そのことは何度も何度も答えを繰り返さないと気が済まない程に川合の「父は何を心配して死んで行ったか」という問いが強烈であったことも示している。そもそも、中学生が文章の量としてここまで書けるだろうか。この作文は約6000字ある。中学生でなくても簡単に書ける量ではないだろう。文量にも川合の問いの強さが表れていると思う。しかも、この作文は川合の父の死後1ヶ月で書かれている。普通、父の死後1ヶ月で中学生がこれだけの文章を書けるだろうか。父の死の直後にわざわざ文章を書かせるものが川合にはあったはずだ。
なぜそこまで強い問いを川合は持っていたのだろうか。
川合が「父は何を心配して死んで行ったか」という問いを明確に意識するようになったのは、父親はお前をとても心配して死んでいったそうだという教師の一言がきっかけとしてあったようだ(10)。その教師とは恐らく川合の担任だった無着成恭のことだろう。教師無着のたった一言の働きかけによって、父親の心配ということについての意識が明確になり、ハッキリと言葉で表現できるまでに至った。それだけ無着の役割は大きい。たった一言の働きかけであるからといって、無着の果たした役割が小さいということはできない。たった一言の働きかけではあるが、そこには前提となる無着の素晴らしさがいくつも内包されている。
教師のたった一言で、自分の問題意識が明確になるのは一体どういうことだろうか。もちろんそれは無着の一言に対して、川合の中に響くものがあったということがまず言える。そうでなければ、たった一言からここまでの文章に発展しただろうか。逆にいえば、川合に響くことを言える無着のすごさがそこにはある。それは無着の川合に対する理解の深さだ。川合にとって、父をどう理解するかという問いが大きいこと知っていたのではないか。また、亡くなった父親の心配に対する共感もあったことだろう。それは親から子への心配に対する理解であり、またその心配の内容にも共感できるものがあったのだろう。
 それから、無着は他人伝いではあるが、話すことのできない川合の父の思いを受け止め、それをその息子に伝えたわけだが、それは寝たきりの人間を1人の父親として扱ったということも意味する。そういう姿勢も川合にとっては響くところがあったのだろう。
教師無着の生徒川合に対するたった一言の働きかけが問いを明確にさせた。それは川合の中に響くものがあったということであり、すでに川合の中に強いものがあったことが前提にある。しかしそれを引き出すのに1つの役割を果たしたのは無着だ。
それでは無着によって、引き出されたもの、つまり川合の中にもともとあった問いはどこから生まれてきたのだろうか。なぜ強く問いを持つことが出来たのだろうか。
 

父親の死

1つには、何と言っても、父親の死という大きな事実にあるだろう。この作文にある通り、1950年の9月に川合の父親は亡くなっている。その1ヶ月後、10月に「父は何を心配して死んで行ったか」を川合は書いた。中学生の川合にとって、親の死よりも大きな喪失があるだろうか。また、病気で寝たきりだった父親の介護をするのは川合末男の仕事、役割であった(2)。川合にとって父親の死は、そういう役割がなくなることも意味していた。
しかし、それにしてもなぜ川合は父親が死んでから、より父親について考えるようになったのか。父親が生きている間にそれはできなかったのだろうか。分かりやすくいえば、父親の生前に「父は何を心配しているか」という作文を川合末男が書くことはできなかったのだろうか。
私には、なぜ父親の死後になって、父親の行動、想いを理解できるようになったのか、逆になぜ父親の生前にそれができなかったのかはハッキリと言えることがない。しかし、事実として父親の死によって、父親のことを想い、父親への理解が進んだことは確かだ。父親の死は川合にとって、父への理解を深める契機の1つであった。
しかし、それも川合がもともと問いを持っていたからこそ契機となりえたのではないだろうか。川合が父親に対する問いを持っていなければ、父の死が父への理解を一気に深める契機とはなりえなかったはずだ。その点、やはり川合はもともと強い問いを持っていたのではないか。

父親の理解しにくい行動

そこで注目したのは、父親の奇妙というか理解しにくいような行動がいくつか書かれている点である。例えば、「急にあばれ出し、目玉をひっくりかえし、身体がふるえてくる時があった。それが終わると、まわらない口で「ヤロ」「ヤロ」と云いながら、あっちを向いたりこっちを向いたりして私を探すのだった。私を見付けると、安心したように、じーっと私を見つめるのだった」という行動だ(12)。父親の行動は、奇妙というか理解しにくい行動だったからこそ、川合はずっと覚えていたのであろう。他にも、兄や姉が家に帰ってくると布団をかぶって泣く父親などが挙げられている(4)。父親の生前はどう理解すればいいのか分からずにいた行動は、川合にとっては問いそのものだったろう。
しかし、川合は父親の想い、父親の心配を意識しづらい状況ではあったとも言える。それは父親が「中風」で寝たきりでしゃべることもできなかったので、コミュニケーションを取るのが相当難しい状態にあったからだ。まず父親が自分のことを心配していたかどうか、ということが息子の川合には分かりづらかっただろう。しかし、中風ゆえに理解しにくい奇妙な行動もあり、それはある意味分かりやすい形で表れる分かりづらさでもあった。その分、言葉にならなくても川合の中では漠然とした問いが育っていたのではないだろうか。それが父親の死や、無着の働きかけによって明確に言葉にできるようになったのだろう。
親をどう理解するかということは病気であろうとなかろうと、子にとっては大きな課題だと思う。しかし、川合の場合、父親が病気ゆえに理解しにくい行動があり、かなり分かりやすい形で親の問題が迫っていて、またその父の死もあり、問いを特に強く意識できたのではないだろうか。
父親の病気や理解しにくい行動のため、川合の中に父をどう理解するかという問いがあり、そこに父親の死があり、さらに教師無着の働きかけがあり、その上で川合が問いを言葉にするまでに至ったということを述べてきた。しかし、それらをさらに辿って考えてみると、そもそも父親の理解しにくい行動は息子への心配・不安から出たということが言える。そして、心配・不安があるということは、そういう気持ちを抱かせるだけの事実があるということだ。そこにこそ、川合が強い問いを持ち、文章を書くまでに至った根本の要因があるのではないか。父親が息子の将来を一番心配して死んで行ったというのは、あくまでも川合末男の意見ではある。もしかしたら、それは勝手な思い込みであって、間違いかもしれない。しかし、川合末男にとって、父親に心配があったということに納得できるものがあったことは間違いない。ということは、少なくとも川合が父親の心配を納得できるだけの事実自体はやはりあったと考えられる。
では父親の心配のもととなる事実とは何だったのだろうか。もしくは川合が父親の心配を納得できるだけの事実とは何だったのだろうか。まとめると、川合の問いの根本にある事実とは一体何だったのか。
そのことを考えるために、遠回りのようだが、一旦川合の問いではなく、その答え、ならびに答えの根拠に注目したい。実はどうやって答えを出したかというところに、川合の問いの必然性が表れていると思うからだ。「父が何を心配して死んで行ったか」という問いの答えを川合が考えることと、川合の父親に心配を抱かせた事実が何であったかを筆者(私)が考えることは、同じことではないだろうか。

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6月 15

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の2回目 

吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。

卒論は『山びこ学校』。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。

それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の2回目

■ 目次 ■

第1章 川合末男「父は何を心配して死んで行ったか」
第1節 「父は何を心配して死んで行ったか」
一 父の死
 二 父の病気
 三 父の心配
 四 兄弟たちと家
 五 私の考え

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第1章 川合末男「父は何を心配して死んで行ったか」

第1節 「父は何を心配して死んで行ったか」

 第1章では、川合末男の書いた「父は何を心配して死んで行ったか」を扱う。川合末男は農家の生まれで、九人兄弟の末っ子(五男)だ。この文章は1950年の10月に書かれた文章で、川合が中学3年の時期にあたる。また、川合の父親が亡くなったのが同年の9月であり、その死から1ヶ月後に書かれた文章でもある。
 ここから実際の文章を引用する。省略部分には「(中略)」と筆者が記しておいた。ただし省略は少なくし、引用を長めにとっている。自分の意見に都合のいい表現だけを切り取ることを防ぎ、できるだけ実際の文章に即して考えるのが目的だ。この論文を読まれる方にとっても、生徒作文の全体を読まれた方が分かりやすいだろう。ちなみに、筆者が注目した部分には下線と括弧付きの数字を書き加えている(注:メルマガでは下線を【 】で代用)。後でその数字に対応させて、文章を解説することとする。また、ルビに関しては岩波文庫版の『山びこ学校』をそのまま書き写している。

【父は何を心配して死んで行ったか(1)】
川合(かわい)末男(すえお)
一 父の死
 一九五〇年九月十四日、私の父は死んだ。
 一六日は、西部班子供協議会の運動会であった。私はそのときの応援団の副団長に選ばれていたので、毎日放課後は練習でおそくなった。
 父が死んだ日も「今日と明日きりだなあ。」などと考えて家を出たのだった。まさか、今日父が死ぬなどということは夢にも考えられなかったのである。
(中略)
 私はありったけの声をはりあげて歌って行った。そして、そのまま家の中に一歩はいったら、親類の人がみんな集まっているのだ。私はどきっとして歌をやめた。
 いろりを囲み、和雄君のお父さんが主になって、「電報を誰が打ちに行く。」とか、「ござは。」とか云って何かきめていた。私は、かばんをおろして、お父さんの方へ行ったら、白いてぬぐいをかぶり北枕で寝ていた。そのときはじめて「ああ、死んだんだなはあ。」と思ったのだった。

二 父の病気
 しかし、手ぬぐいを取ってみると、寝ていたときと同じなので、どうしても、これが死んだ人の顔だなどと思われなかった。
 お父さんは、昭和二十二年の一〇月から中風でずうっとねていたのだ。【自分の用も足すことが出来なくて、お父さんの用を足してくれるのは私の仕事だった(2)】。
 ある時、顔をあつい手ぬぐいでふいてやったとき、「おお」と云ってただ笑ったことがある。それが、いちばんよろこんだお父さんの表情だった。【まるっきり口がきけなくて、なにをいうにも、長い細い手を出して、もぐもぐ云いながら動かすだけだった(3)】。
 【遠くに働きに出ている兄さんや姉さんたちが、たまさか来ると、ふとんをかぶって泣くのだった(4)】。
 そういう父を見るたびに、私は、【中風という病気はいやな病気だなあと思う(5)】のだった。そして、【私だけは、こんな病気になりたくない(6)】と思うのだった。しかし、【私の家は中風まきという血統で、必ずなるんだそうだ(7)】。そういうことをお母さんが云っていたことがある。だが、今では、【はたして、まきというものがほんとうなものかどうか(8)】。また、【兄さんや姉さんが来たとき泣くのは、中風という病気だけが泣かせるのではなくて、もっと別なところに原因があったのでなかったか(9)】などとも思っている。

三 父の心配
 【何故、そう思うようになったかと云えば、先生が、「文男君のおかちゃんから聞いたんだが。」と云って、「お前のおっつぁんは、お前のことをずいぶん心配して死んで行ったんだということでないか。」と話してくれたからだ(10)】。ここからが、学級のみんなから考えてもらい討論してもらわなければならない問題が出てくるのだが、はっきり云えば、【私の父は、私の将来のことを心配して死んで行ったということなのだ(11)】。
 子供のことを心配しない親などないと云えばそれまでだが、口もきけない、手足の自由さえもきかない私の父の場合は特別であろう。たとえば、先生から「お前のお父さんは……。」と云われたとき、はっと気がついたのであったが、父をあつかっているとき((看病しているとき))(看病している時)、【急にあばれ出し、目玉をひっくりかえし、身体がふるえてくる時があった。それが終わると、まわらない口で「ヤロ」「ヤロ」と云いながら、あっちを向いたりこっちを向いたりして私を探すのだった。私を見付けると、安心したように、じーっと私を見つめるのだった(12)】。
 そのことを、【今考えて見ると、色々な心配ごとがたまってきたときそういうことがおこったのではなかったかと考えられるのだ(13)】。そして、その心配のうち、私のことに関係した心配、つまり、【私が将来どんな職業について、どんな生活を立てるかということについての心配が、いちばん大きかったのにちがいないと思うことが出来るのだ(14)】。

四 兄弟たちと家
 【そのことをもっとよくわかってもらうために、どうしても、私の家のことをもうすこしかかなければいけない(15)】。
 まず【私の家が生活を立てていくための財産としては、水田はもち米を作る位と、畑は五段歩だけなのだ(16)】。【それにへばりついて生活してきたのは、父と母と、多慶夫兄さんに秋子ねえさんに鶴代ねえさんに私とで六人であった。こんどお父さんが死んでしまったから五人になってしまったけれども。それで、そのうち家に残ることが出来るのは多慶夫兄さんと、お母さんの二人だけになるわけである(17)】。【そうなれば、お父さんは、何を一番心配であったかと云えば、私の就職のことであったにちがいない(18)】と、はっきり思いあたるのである。【二人の、まだかたづかない姉のことをどう思っていたかと云えば、「女は嫁に行くのだから心配はない。女はお嫁にさえ行けばよいのだ。」と考えていたにちがいない(19)】。どうしてかと云えば、今でも、お母さんや親類の人たちがみんなそう考えているからである。
 もちろん、こういう考え方が正しいかどうかということは、私たちの組で問題になり、農村の二男三男が職業に就けなくて困ってくると、嫁ももらうことが出来なくなって、それだけ「嫁に行きさえすればよい。」と考えていた女の中に嫁に行けない人が出て来るから、ほんとうは、女の問題であるんだ。だからこういう考え方は間違いだ、というふうになったのであるが、お父さんやお母さんたち、大人の人たちは、どうもこういう考えにならないらしい。
 それで、私のお父さんもそういう考えにちがいなかったと思うのだ。そうだとすれば、【やっぱりお父さんとしては、九人兄弟のうち末子の私のことがいちばん心配であったにちがいない(20)】。どういう風に心配し、どんなことを考えていたのかは、誰も知らないけれども、【中学三年で、学校も卒業しなくて、もちろんどんな職業に就くかということもわからなくて死んで行かなければならないのだったから、心配なことであったにちがいない(21)】。とくに今は、【職業に就くのが、なかなかなんぎだということを知っていたお父さんの心配(22)】は、つまりは、【私のことだけが心配だったと思われてくるのだ(23)】。
 【何故兄さんや姉さんのことをそんなに心配しなくともよかったと云えば、みんな一丁前になって働いていたからだ(24)】。
 【一番大きい兄さんは、もう四十才にもなり宮内(みやうち)に家を持って暮らしているし、二番目の兄さんは、上の山にむこに行ったし、三番目の兄さんは川崎で家を持っている。また姉たちは姉たちで、一番大きい姉さんは、一度お嫁に行ったんだがなんのわけかもどってきて、今は、仙台にお嫁に行ってしあわせに暮している。二番目の姉も、一度須刈田におよめに行ったのだが、これももどってきて今仙台の駅前で働いている(25)】。ここでまた考えるんだが、私の家の女衆は二人とも一度お嫁に行ってもどってきたのだ。何故だろうと不思議に思っている。
 だが、【とにかく、男三人に女二人はこのようにしてかたづいていることだけはほんとうだ。
では、家に残った兄弟はどうかというと、男二人に女二人のうち、二人の女は、お嫁に行くか心配ないとして、多慶夫兄さんと私が問題だ。
ところが、多慶夫兄さんは、どうしても、家のあととりにならなければいけないのだ(26)】。どうしてかと云えば、小学校一年生のとき、蝉とりをして高い木に登ったとき、高いところからほろきおちて、頭が二十七糎(センチ)(センチ)ぐらい割れたんだそうだ。そのため、すこしぼうっとしているところがあるから、職業に就かせるなどということは無理なのである。その上、百姓仕事が大好きで、黙々としてうんと働くので、親類の人がみんな集ったときも多慶夫兄さんに家のあとをつがせることにきまったのである。
 これは、あとで先生から聞いた話だけれど、多慶夫兄さんにあととりさせるという問題も、そう簡単にきまったのでなかったんだそうだ。つまり、大きい兄さんたちが家の財産をいくらかずつでも分けるように話を出したため、問題がこんがらかってきて困ったのだったそうだ。そのとき、和男君のお父さんや、庄兵衛さんが、「こんなちっぽけな百姓の財産を兄弟九人がわけて、どうしろというのだ。まだ一丁前にもならない末男や、またさきのみじかい、おっかあたちのことを考えてみろ。」と云って頑張ったので、財産をこまかにわけないで、多慶夫兄さんがあととりになることにきまったんだそうだ。
 そういうことがあったということは私も知らなかったのであるが、若しも、そういうことが私の家に出てくるということがわかっておれば、お父さんの心配は、私のことよりもその方が心配だったにちがいない。
 しかし、やっぱり、【まだ一丁前にならない私のことは、心配して死んで行ったと思うのだ(27)】。どうしてかと云えば、【みんな一丁前になっているので、財産を分けてもらっても生活出来るのだ。私だけが出来ないのだ(28)】。そう考えて来ると、【お父さんは、最後のところ、やっぱり私の将来のことを心配して死んで行ったのだ(29)】。
 
五 私の考え
口もきけない、手足の自由もろくにきかない父が、私のことを心配して死んで行ったと考えるのは実際いやだ。その上、どういうことを、どういうふうに心配して死んで行ったのかということが、はっきりわからないからなおさら苦しくなってくる。
 男は、独立して家をおこさなければならないということは、よくいわれているから私はそのつもりでいるけれども、ほんとうは、私が実際兄さんたちのようになって、家をおこしてからお父さんを死なせたかったと考えられてきてならない。私が家から出て、働きだしたのを見せれば、お父さんは今よりももっと安心して死んで行けただろうと思う。
 しかし、もう死んでしまったのだからしかたがない。【今生きているお母さんだけでも、安心させなければならないのだ(30)】。お母さんを安心させることは、死んだお父さんを安心させることと同じだと考える。
 ところで、安心させるためにはどうするかということだ。【それはよい職業に就くことだと思う(31)】。【お父さんが心配したのも、将来なにさせるかということだったと思う(32)】。
 そう考えてくると私は心配になってくるのだ。私としては、自動車の運転手になりたいと思うのだが、今なかなかなれないそうだ。戦争で、自動車の運転を覚えてきた人でさえ、なかなか運転手になることが出来ないという話など学級であるくらいだから。戦争から帰ってきた太郎さんの善助さんなのも、二十三才にもなるのに、なにになったらよいかわからなくて、この間予備隊に受けたというくらいだ。しかし、【予備隊というのはよい職業だろうか(33)】。私は社会科でならったことが不思議になってくるのだ。たとえば、【社会科の2の「家庭と社会生活」で習ったことは今でも覚えている。教科書の二十五頁(34)】に、
 「あなたがたも、学校を卒業すれば職業に就くにちがいない。」と書いてある。それはきまっている。どうしてかというと、「あなたがたはじめ、家庭の人々は今はお父さんやにいさんの職業の収入によって生活している。そこで、職業は人の生活を支えるもとであるということができる。」というように、【自分の生活をして行くため(35)】である。その次は、「どの職業も、その仕事が社会生活に必要なものだからこの世の中で営まれている。」というように、世の中の一人として生きて行く限り【「個人や家族の生活を支えるだけのために職業に就くことが必要なのではない。それは世の中の要求するものを作るために必要なのである(36)」。」からである。
 そしてまた、【三年生でならった文化遺産という本の四十八頁(37)】には、
 「あなたがたは今は職業を選ぶ自由を持っている。そして【自分の才能と欲求にしたがって(38)】、【いちばん世の中と自分のためになる職業につくことがよいとされている(39)】。」と書かれている。
 それなのに、どうだろうか。【予備隊というのは、私たちがほんとうに必要とする仕事をする職業なのだろうか(40)】。また、【行く人も、ほんとうに好きで行くのであろうか。うそである。みんな職業がないからしかたなしに行くのである(41)】。
 私はそう考えてくると、なにがなんだかわからなくなってくるのだ。
 社会科では、私たちは職業を選ぶ権利を持っていると教えられた。ところが実際は、そんな権利は今の世の中ではなんの役にもたたないのだ。若しも社会科の本が正しくて、私たちは実際に、安心して職業を選び、職業に就くことができる世の中であれば文句はないのだ。そうすれば、何も今々死にそうな親父にまでも心配かける必要はなかったのではないか。
 私は、今まで考えてきて、ひとりでにそうなってしまった。つまり、私たちは、世の中のお父さんやお母さんから安心してもらうためには、どうしても、社会科の本にあるように職業を自由にえらべるような世の中、職業に就くことが出来ない人が一人もないような世の中、そんな世の中にすることだというふうに考えてきた。日本国中の学校を今々卒業して職業に就かなければならない人はみんな立ち上って、団結して、一人も職業に就くことが出来ない人がいないような世の中に、一日でも早くすることが一番正しいのではないだろうか。
 そして、そのような世の中にするためにはどうしたらよいかということを、学級のみんなで、いや日本国中の子供たちがみんな手をとり合って考えなければならないときなのでないだろうか。
 私の父のように、子供のことで心配しているお父さんがあったら、お母さんがあったら、一人一人で考えないで、みんな一緒に考えるようになればよいのでないか。
 私は、そういう世の中が来るように頑張って、そうして一日も早くそういう世の中にすることが、死んだ父をいちばん安心させることではないか。また、生きている日本国中のお父さん、お母さんを安心させることではないか、というふうに考えてきている。
(一九五〇・一〇・二三、職業科の勉強として)
            (無着成恭編『山びこ学校』岩波文庫、1995年、256-267頁)

 以上で引用を終わる。繰り返しになるが、下線(注:メルマガでは【 】)と括弧付きの数字は私が書き加えたものである。

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6月 14

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の1回目 

吉木政人君は、この春に立教大学(教育学専攻)を卒業した。8年かかっている。彼は、5年前に私のゼミに通い、卒論で『山びこ学校』に取り組んでいた。その時は挫折し、ゼミからも消えた。

それが昨年の春に復帰した。こうした「復活」劇は、ゼミの歴史上初めてのケースとなった。彼にはこの4年間に、それなりの事があり、それなりの覚悟ができていたように思う。そして卒論にまた取り組むことになった。しかし、順調には進まなかった。

結局、12月の締め切りに何とか間に合ったものの、本人も納得できない内容だった。
今年2月3月の就職活動がきっかけとなって、書き直しをすることになった。その書き直したものと、それを振り返った文(「ありのままを認めるということ」)と、全体への私のコメントを掲載する。

吉木君のように、ゼミを1回やめてから「復活」したような人の経験こそ、読者にとって参考になるのではないだろうか。

なお、今回、卒論の一部ではなくすべてを掲載した。この長大な分量の3分の1ほどは、『山びこ学校』の3つの生徒作品からの引用である。それを省略することはできたのだが、このメルマガで『山びこ学校』を初めて読む方もいることを考えて、あえて全文を掲載した。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。戦後教育を語るなら、まずは『山びこ学校』を読まなければならない。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。
「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない、このメルマガの若い読者たちには、一度でもそれを体感してほしいと思う。『山びこ学校』は岩波文庫に収録されている。

■ 全体の目次 ■

・卒業論文「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人
 →1回?11回
・ありのままを認めるということ 吉木政人
 →12回
・父親と向き合う 中井浩一
 →13回

■ 卒業論文の目次 ■

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人
序章 →1回
第1章 川合末男「父は何を心配して死んで行ったか」
 第1節 「父は何を心配して死んで行ったか」 →2回
 第2節 問いについて →3回
 第3節 問いから答えへ
 第4節 答えを出した結果どうだったのか →4回
第2章 江口江一「母の死とその後」
 第1節 「母の死とその後」 →5回、6回
第2節 2つの問い →7回
 第3節 問いから答えへ
 第4節 次の課題へ →8回
第3章 佐藤藤三郎「ぼくはこう考える」
 第1節 「ぼくはこう考える」 →9回
 第2節 佐藤の作文の分かりにくさ
 第3節 佐藤の素晴らしさ →10回
終章  →11回

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◇◆ 「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 ◆◇

序章

『山びこ学校』は戦後間もなくの山形県山元中学校で行われた文章表現指導から生まれた詩・作文集だ。『山びこ学校』は1951年3月に出版されている。
私は『山びこ学校』の作文に力強さ、迫力のようなものを感じる。なぜ彼らはそのような文章を書けたのだろうか。『山びこ学校』の実際の生徒作品を詳しく分析することで少しでもその答えに近付ければよいと思う。
以下、『山びこ学校』に関する簡単な背景説明をしておく。
山形県南村山郡山元村という当時非常に貧しかった山村で中学生の指導にあたったのは、無着成恭という新任教員である。無着は1927年生まれで、同じ山形県南村山郡内の出身だ。ちなみに当時、山形県の南村山郡にあった山元村は、1957年には上山市に編入されている。また、山元中学校は生徒減少のため2009年春から廃校となっている。
無着は戦前からの生活綴方に学び、自身がその実践を戦後の中学校で行った。山形新聞の論説委員で、戦前には教員として旧制小学校で生活綴方による教育を行っていた須藤克三からは特に多くを学んだようだ。
『山びこ学校』に収められている文章を書いたのは1935年度生まれの生徒だ。無着と8つしか歳は変わらない。彼らは1948年4月に中学校に入学し、1951年3月に卒業している。その学年の全ての生徒の文章が『山びこ学校』には収められている。新任である無着にとって、彼らは教員として初めて受け持つ生徒だった。無着はその学年の生徒を入学から卒業まで3年間担任した。新任として赴任した当時、山元中学校には1年から3年まで126名の生徒がいたのだが、教員が校長を含めて7名だったために、無着は担任クラスの国語、社会、数学、理科、体育、英語、さらに3年生の国語まで担当したという(佐野眞一『遠い「山びこ」』新潮文庫、2005年、19頁を参考)。
ちなみに、『山びこ学校』は1951年3月に初め青銅社から、後に百合出版、角川文庫から出版されている。しかし、いずれも絶版となっていて、1995年から現在にあっては岩波文庫で発行されている。この論文では岩波文庫版を参照した。それから、『山びこ学校』という本は実は、「きかんしゃ」という学級文集をもとに作られていることを述べておく。『山びこ学校』に収められている生徒の文章は、そのほとんどが無着学級で作られていた「きかんしゃ」という文集(全16号)の中から選ばれた一部に過ぎないのだ。「きかんしゃ」は、あくまでも学級文集であって公に出版されたものではないのだが、山形県立図書館に複写版が保存されているので、現在でも読むことが出来る。この論文の中で「きかんしゃ」を参考にした箇所があるので先に述べておいた。
この論文では生徒作品を全部で3つ扱う。
第1章では、川合末男の「父は何を心配して死んでいったか」。川合末男は病気だった父が亡くなり、その父のことを考えている文章だ。
第2章では、江口江一の「母の死とその後」。江口江一の家は山元村でも最も貧しい。こちらも母が亡くなって、貧しさと母の死という2つの問題をしっかりと見つめようとしている文章だ。
第3章では、佐藤藤三郎の「ぼくはこう考える」。佐藤藤三郎は学級の代表的な人物で級長も務めていた。農村の問題についての意見文を書いている。
彼らは同じ中学校の生徒だが、それぞれ置かれている状況は異なる。まず、川合と江口は親が亡くなり、その直後に作文を書いている。
また、川合は農村の次男以下の問題、つまり家の財産を継ぐことができずに別の仕事を選ばなくてはいけないという状況にいる。
江口は親の死によって、中学2年生にして家の責任者となるのだった。江口の家は山元村でも最も貧しい家の1つで、自分でどうやって生計を立てていくかが彼のテーマだった。
 佐藤は、農家の跡取りとして育てられた。しかし、一方では級長を努めるほど優秀で、勉強をしたいという意思を持っている。
 彼ら3人の作文を分析するにあたって、注目したのは問いとその答えを求める運動にある。彼らの問いは何だったのか、何のために作文を書いたのか。どのような答えを、どうやって得て、その結果どうだったのか、作文を書いたことにどういう意味があったのか。そういったことを注意して分析した。

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6月 11

「ふつうのお嬢様」の自立  全8回中の第8回

江口朋子さんが、この春に「修了」した。
その修業に専念した6年間を振り返る、シリーズ全8回中の第8回。

眠りから覚めたオオサンショウウオ (その4)
 ?江口朋子さんの事例から、テーマ探し、テーマ作りのための課題を考える?
            中井浩一

■ 本日の目次 ■

(8)本当の自立
(9)「お嬢様」の凄み

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(8)本当の自立

表のテーマである「人生のテーマ作り」と、裏テーマである「親からの自立」には、「先生を選べ」が欠かせない。この「先生」の重要さは絶対的なものであることがわかっていただけると思う。それだけに、先生への依存は一時的には強まる。
「今までは師弟契約をしていた中井さんに頼っている面が少なからずあった。それも仕方ない面はあり、自分一人では先に進めないわけだからアドバイスを受けるのは当然だが、自分でやって先生の意見を聞くというより、中井さんからの提案や助言を受けて考える、行動するということも多々あった」。
江口さんの現状の問題は、「自分でやって」が弱いという以外に、私への批判や問題提起が少なく、ほとんどないということがある。今回の振り返りの文章でも、私への批判は皆無といってよい。
しかし、この6年間の私の指導への疑問、不満や怒りなどは多々あったと思う。実際に、私の力量不足で、指導が的確ではなかった場面は数多かったと思う。3つのテーマ変更の意味がわからなかったし、「引きこもり」の意味も十分にわかっていたわけではない。
江口さんからの適切な問題提起や質問や相談がもっとあれば、不要な混乱は少なく、停滞した時期も短くすんだかもしれない。しかし、それがその時点での二人の力量の結果だったといえる。私と江口さんは、その渦中ではそれぞれのベストを尽くしてきたし、その中で成長してきた。

江口さんは親からの自立をへて、私からの自立、つまり独り立ちが今後の課題となる。それは、外での勝負、闘いの中でおのずと解決されていくだろう。

 「これからは今までのような守られた世界から外へ出て、他人や世間にもまれて、時には自分を正面から否定されたり、思うようにいかない事態をたくさん経験することが必要だと思う。そうしなければ、今までの自分がある意味そうだったように、自分とは何か、自分のテーマは何かがぼんやりしたままで、はっきりしない。具体化されていかない」。

江口さんは、経験の幅が極端に狭い。この6年間の「引きこもり」でそれはいっそう強まった。これからは、おもいきって経験の幅を広げる必要がある。素敵な男たちと出会い、深刻で猛烈な恋愛をたくさんして、歓喜と苦しさのあまりのたうち回って欲しい。バカなことも、悪いことも徹底的にやって欲しい。敵とは激しく戦い、友や同志ともとことん付き合って欲しい。海外に出ることも、世界中の「うた」と出会うことも必要だろう。すべてはこれから始まる。それに必要な最低限度の力はあるはずだ。

「他人とぶつかるということは、自分の未熟さ、低さが露わになることでもある。例えば歌会に参加すれば、そこでの自分の態度から自分が議論の場で問題提起できないことが明らかになる。歌についても、わからないことがいくらでも出てくるし、自分の歌に対する参加者の批評を聞けば、自分の歌の駄目さを嫌でも感じさせられる。千年以上の歴史をもつ日本の歌に対して、足がすくむような、越えようのない壁が立ちはだかっているような不安や恐れを感じてしまうのが正直な気持ちだ」。

自分がテーマに決めた歌への畏敬の念と、ふるいたつようなあこがれと、武者震い。そうした初心がすべてを決める。
今後、江口さんは短歌の創作で勝負していかなければならない。歌会で勝負し、投稿で勝負し、論争で勝負する。その中で、自分の歌詠みとしての立場を確立し、自分のグループを作っていくことになるだろう。
そこでは組織の原則と、師弟関係の原則が問われよう。
こうして、自分自身のぎりぎりの立場が問われていくことになるだろう。

 「本当のところ、立場の問題は自分にとってまだまだ曖昧なところが多い。それは、自分がまだ本当には立場を問われたことがなく、この問題に心底悩んだことがないからではないかと思う」。

 今後、江口さんがこうした課題をどこまで達成できるかは、今はわからない。それはすべて、江口さん次第である。

(9)「お嬢様」の凄み

さて、本稿を終えるにあたって、冒頭に述べた守谷君と江口さんの比較にもどろう。そこでは、守谷君と江口さんを、動と静、たえざる運動と引きこもり、外的と内的、躁状態とうつ病的、などと対比した。面白いことに、この数ヶ月は、それが逆転し、入れ替わったような気配がある。江口さんが外での活動を開始した一方で、守谷君はそれまでの外での活動を自粛し、内面に沈潜している。自分の心と体との対話を静かに繰り返し、自分の人生を振り返る作業をしている。ここにも、大きな意味があると思う。

冒頭ではまた、守谷君と江口さんを「特殊」と「ふつう」と対比し、江口さんを「ふつうの人」「ふつうの女子高生」「ふつうのお嬢様」だったとし、それを「わかりにくい」と述べた。そして、このメルマガの読者の多くの「ふつうの人」には、江口さんの事例の方が参考になるだろうと。
こうした言い方は、「ふつうの人」「ふつうの女子高生」「ふつうのお嬢様」をバカにしているような印象を与えると思う。しかし、それは違う。むしろ反対だ。私は「ふつう」の凄さ、「ふつうのお嬢様」の凄みを語りたいのだ。

江口さんは、確かに「お嬢様」だった。しかし、彼女は、師弟契約第1号として、私を選んで、ただ1人、単身で飛び込んできてくれた。これほどの度胸と思いっきりのよさも、世間を知らないからこそ可能になったともいえる。
 その後、オオサンショウウオに自分を重ねていたことも、すごいことだ。お嬢様があの奇怪なオオサンショウウオを自分の本当の姿だとしていたのだ。
友人関係をすべて切り、6年間のひきこもりを最後までやりきったことも尋常ではない。そもそもの初心がそれ程に激しいものだった。それは、それまでの自分のすべてを否定するような激しさだ。こうしたことは、とうてい「ふつう」とはいえない。守谷君以上に「特殊」であり、稀なことではないか。
 しかし、それも、いかにも「お嬢様」的だと思うのだ。もちろん、お嬢様たちのすべてがそうではないのだが、その中からとんでもない傑物が生まれるのも、歴史上の事実だ。
 「艱難汝を玉にする」という諺があるように、世間では苦労人を評価し、貧窮した生活環境からこそ傑物が生まれるといった理解がある。そうした人ほど問題意識が強く、大きな仕事をすると、考えられている。
 しかし、それだけだとすると、豊かな時代になればなる程、傑物、偉大な人間は生まれなくなるだろう。

 私はお嬢様に大きな可能性を感じている。「両親の愛情にも恵まれ」、「何不自由なく暮らし」、苦労知らずで、のんびりと育つ。すべてに満たされていて、金銭や物品や愛情等への欠乏感はない。確かに問題意識は育ちにくい。しかし、何かことが起これば、すべてのものを投げ捨て、大胆な行動をとることもできる。一方、苦労人は、富や名声にしがみつきやすいという面もある。
 私は、江口さんによって、「お嬢様」の凄みと可能性を改めて確認した。読者の方々の中には、「ふつうの人」や、「ふつうのお嬢様」も多いと思う。そうした方々には、御自身の大きな可能性と、それゆえの厳しさを思っていただけると思う。

本稿の引用はすべて江口さんの総括文から。下線はすべて私(中井)による。

(2011年5月29日)