6月 10

「ふつうのお嬢様」の自立 全8回中の第7回

江口朋子さんが、この春に「修了」した。
その修業に専念した6年間を振り返る、シリーズ全8回中の第7回。

眠りから覚めたオオサンショウウオ (その3)
 ?江口朋子さんの事例から、テーマ探し、テーマ作りのための課題を考える?
            中井浩一

■ 本日の目次 ■

(6)「引きこもり」の意味
(7)親からの自立

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(6)「引きこもり」の意味

 「この6年間、自分は実質的に引きこもり状態だった。付き合う人が量的にも質的にも限られ、文章など読んでいても、家族と鶏鳴以外に生身の他人がほとんど出てこない。これは自分の関心に集中し、余計なものに邪魔をされたくなかったからだが、そういう時期も人間の成長の一つの段階として必要だと思う」。
 「重要なのは、引きこもること自体ではなく、むしろ風邪と一緒で引きこもりの期間をうまく過ごせるかどうかではないかと思う。自分の殻に閉じこもってはいけないとか、他人とうまく付き合わなくてはという無理をすると、後々問題が生じかねない」。

「引きこもり」は、江口さんが動物的本能で選択した戦略だったと思う。オオサンショウウオが他の生物の流れからはおり、一人うずくまってしまったように、江口さんも、友との関係を切り、徹底的な「引きこもり」を始めた。
昆虫がマユやサナギの中でしずかに変態の時期をすごすように、外界との関わりをたち、しっかりと自分を守れる状況を作った。それは自分を守るためだが、それは徹底的に自分自身と闘いきるためだったと思う。
これを「甘ったれ」「甘やかし」だと批判するのは間違いだ。「引きこもり」は、「古い自分を破壊し、新たな自分をつくる」という困難な課題と正面からとりくむためであり、日常的に危機的状況にむきあっている。それを続けるには、しなやかでタフでねばり強い強靱な精神力を必要とすることを理解しなければならない。途中で引きこもりを止めて、いい加減な行動をする方がはるかに簡単なことだ。しかし、それでは課題を達成できない。江口さんは最後まで課題をやりきって、変態作業を完了し、蝶になった(そうであってほしい)。

「自分は思う存分引きこもったと自信をもって言える。(中略)不思議とこれだけ引きこもれると、逆にもう外に出て第三者とぶつかっても何とかなるだろうと思えるし、外に出たいという気にもなる」。

さて、以上が過去から現在までの振りかえりであり、そこから今後の課題が見えてくる。

(7)親からの自立

今後、何をすべきか。それは明確だ。短歌をテーマに決めた以上は、その道を突き進むしかない。それによってのみ、その選択が正しかったかどうかがわかる。短歌がそれまでのすべてを止揚するものかどうかも明らかになる。
江口さんは、すでに「先生」をさがし、歌会にも数カ所に参加し、研究者にも連絡をとって授業に出たりしている。短歌の創作活動はもちろん日常的な活動である。

しかし、そうしたこと以上に、重要なことは、これまでの「引きこもり」を終わりにし、外の世界で勝負していくことだ。外の嵐の中でも自分の足でしっかりと立ち、現実社会の中で徹底的に闘っていくことだ。
つまり、「自立」の完成がこれからの目標である。それが、江口さんのゼミの原則からの振り返りの文章の中に書かれている。

 これまでは、表のテーマである「人生のテーマ作り」とともに、「親からの自立」が重要な裏テーマだった。
 それはどういうことか。
6年前も、今の江口さんにも、大きな欠落部分がある。

「自分を含めて、他人に対して、全体に対して常に問題提起するということが課題だ」。
「現状維持・現状肯定ではなく、自分で自分に対して問題提起できるような目を、自分の中に持つ必要があると思う」。

 それができないでいるのは、それまで育った環境に大きな原因がある。
「どちらかというと学校や家庭で優等生的に振る舞ってきたためか、自分には問題点をさらっと流してきれいに整えたがる傾向がある」。

「もともと自分に問題提起や葛藤、衝突を避ける傾向があるからで、これは自分の過ごした学校生活が特に影響していると思う。つまり、幼稚園に入った4歳から14年間同じ私立の女子高で過ごしたので、そこでの温室状態というか、周りが似た者同士で自分が何者かを問われるほど他人を意識する経験がなかった状態が体に染みつき、無意識のうちに居心地良く感じるようになってしまった。結果として、自分に対しても、他人に対しても、見たくないものに反射的に目をつぶるような、要するに問題点を指摘して先へ進めていくようなことができにくくなったという面がある」。

しかし、学校の選択は親が行ったのだから、それも含めて、親の影響は決定的だ。この親からの影響は、20歳までの人格形成の8割から9割を決めると思う。
「その理由の一つに学校生活を挙げたが、それ以外に親からの影響もあると思う。要するに、両親もどちらかというと現状肯定で、波風立てず安定した生活を送りたいという気持ちが本音としてあると思う」。

 親からの自立とは、親への反抗や反撥ではない。親を批判し否定することではない。親の人生、その価値観への深い理解と、その親と自分との決定的な関係性の理解のことだ。そのような相対化だけが、自立の可能性を生み出す。

「自分に対する両親の影響の自覚や相対化は、6年前と比べると進んだと思う。大学卒業直後、自分がこれから何をどうするかを話し合った時は、父親は自分の話を理解できず、むしろ母親は同調する傾向が強かったが、それは母親の理解があったわけではなく、ただ母娘が一体化している面が強いだけだった。その後、自分の関心やその時々の大きなテーマが変わる節目ごとに、両親と話し合ってきた。その結果、例えば父が会社勤めではなく、教師という学問や研究を仕事としていることは、大きくみれば自分と似ていること、自分に働くように強く言わないのも、テーマを作ることの大変さを一応わかっていて、父自身職に就くまで時間がかかったことが関係していることなど、両親の言動を背景も含めて考えるようになった」。

今後、外で勝負して行くには、当然ながら、経済的にも自立しなければならない。
「親との関係で今一番大きい問題は経済的に依存していることで、家を出て独り立ちすることが避けられない課題である。そもそも、親に全面的に養われている立場では自立とはとても言えない。衣食住の心配のない安全な場所にいて、本当にいい歌が作れるのか、中身のある仕事ができるのか、他人に対して何か意見が言えるのか、そうした問題に向き合わないといけない」。

しかし、「引きこもり」をやりきるには、親に徹底的に依存することも必要だった。
「今までは、親に養ってもらっている事実を敢えて見ないようにしてきた面が強く、それを意識してしまうと自分の関心やテーマ作りに集中できなくなってしまう恐れがあった」。

また、親の側にも、それを許せた事情があった。
 「自分が大学卒業後6年間も働かずに好きなように過ごせたのも、当然両親の影響があり、特に父の影響が強い。父自身、浪人や留年で大学卒業まで人より3,4年時間がかかっており、更に大学院まで進んだので、実質的に社会に出て働き始めたのが30歳近くになってからで、その間学費などで親に援助してもらうこともあった。だから本当にぎりぎりの生活の苦労を経験せず、どこかで親を頼れる意識があり、その意識が自分の子供に対してもあり、私にもそのまま受け継がれている」。

 こうして、「引きこもり」の課題をやりきり、親の人生の意味を深く理解した今こそ、経済的な自立が、リアルな課題になってくるのだ。

6月 09

「ふつうのお嬢様」の自立 全8回中の第6回

江口朋子さんが、この春に「修了」した。
その修業に専念した6年間を振り返る、シリーズ全8回中の第6回。

眠りから覚めたオオサンショウウオ (その2)
 ?江口朋子さんの事例から、テーマ探し、テーマ作りのための課題を考える?
            中井浩一

■ 本日の目次 ■

(4)ゼロからの「自分探し」
(5)テーマがくるくる変わったのはなぜか

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(4)ゼロからの「自分探し」

引きこもって、何を始めたのか。自分の生涯を貫くはずのテーマ探しであり、テーマ作りだった。それは「自分探し」であり、「自分作り」であった。世間ではこれを「自分探し」と言うが、私はそれに反対で、「自分作り」と名付けている。テーマは確かに潜在的には内在しているのだが、「探し」て簡単にみつかるようなものではなく、それを顕在化させるには、主体的に闘いとるような激しさが必要で、それは「作る」という言葉で表現するのがふさわしいと思うからだ。
しかし、江口さんの場合は、文字通り「探し」始めたのだ。自分を「つくる」ためにそれが必要だったからだ。

江口さんの「自分探し」は徹底していた。それは過去の自己への完全な否定から始まったからだ。それは自分を「ゼロ」ととらえることから始まる。
 「他のゼミ参加者と比べて、自分は本当に中身の何もないゼロからのスタートだったと思う」「自分には『これに関心がある』と言えるものが4月の時点で何もなかった。(中略)それまでの大学生活で自分の興味関心を本当のところで意識していなかった。だから最初はほとんど中身が空っぽの状態で、自分が何に興味があるかわからず、そもそも興味が向くもの自体なかった」。

ゼロから始めて、テーマを発見するために、何をしたのか。
「本当に自分の心が動き、身体が反応したもの」を探し、それを1つ1つ文章にまとめては報告を重ねてきた。それを地道に辛抱強く、行ってきた。
「鶏鳴で何をやってきたかと聞かれてまず思い浮かぶのは、何より自分の実感に従って、自分が何に強くひかれ、逆に何に関心が弱いかを、自分に対してはっきりさせてきたということだ。今の自分が持てる関心は出し尽くしたと思う。これは自分のテーマを作る上で、一つ必要な段階ではないかと思う」。
 「中身の空っぽの状態から始めた自分にとっては、何かに興味をもつということは、同時にそれに対して感じたことや考えたことで自分の中身を埋めていくことでもあった」。

1つ1つの対象を、自分の実感でとらえていく。それは同時に、それらの対象によって、自分の中の感覚、知覚を1つ1つ呼び覚ましていく作業だったのだと思う。何かを本当に感ずるためには、「感ずる」練習が必要なのだ。テーマを「探す」作業は、同時にゼロから自分の感性そのものを「つくる」という厳しい作業だった。

 しかし、その作業は簡単ではない。どんなに強い初心、明確な目的意識があっても、途中では行きづまり、自分を見失い、テーマがわからなくなる時期もあるからだ。
文字通り、死んだようになって何ヶ月も引きこもることもあった。自殺しないかと心配したこともある。
そうした時こそ、自分の状況を発展的に理解する力が必要だ。それらの停滞や破綻や挫折はマイナスに見えるが、その中にこそ、次への発展の芽がある。
 そして、「先生」が必要なのは、まさにこうした時だと思う。事態や状況を発展的に理解し、その意味づけをし、それを辛抱強く見守ってくれる人がいること。何よりも、自分を信じてくれる人がいること。

江口さんのテーマは「ころころ」とかわった。「石とは何か」から「地形とは何か」へ、そして最後に急に「短歌」が出てきた。
「6年間を振り返ると、確かにその時々の変化に意味があると思うし、特に「石とは何か」というテーマで論文を書けず、地形とは何かも途中のまま、急に短歌が出てきたというこの約3年の流れは、一応12月の時点で意味づけを報告に書いたものの、自分でもよくわかっていない」。
この変化は私にもよくわからず、本人同様に私もとまどっていた。

 人間個人の成長過程が矛盾と葛藤のプロセスであるように、テーマの対象世界も同じで、そうしたプロセスを経て、成長、発展する。
自分のそうした過程を理解する力は、対象世界の理解を深め、テーマを明確にするだろう。そこでは認識の力が大きく伸び、文章力が飛躍的にのびる。
そして、思考力、自己理解の深まりがあるレベルに到達すれば、おのずからテーマも見えてくるのではないか。江口さんのテーマは「短歌」になった。歌人になるのが江口さんの当面の課題であり、「自分とは何か」の取りあえずの答えは「歌人」だ。
実は、昨年の12月、今年1月に、江口さんは、短歌の創作の様子と、祖父母の病死と死の看取り、病院や看護士の対応などを厳しく見つめた文章を提出している(私的な内容なので、今は公開しない)。
その洞察、観察の深さ、的確さ。文章の落ち着きと静けさ。それに深く感動した。この人はもう一人でやっていける力を獲得している。それが今回の修了の意味だ。「短歌」が本当に生涯のテーマなのかどうかは、私にもわからない。しかし、いずれにしても「独り立ちする力を持っている」ことは間違いないと判断した。後は実際に外に出て勝負していくしかない。
私の判断が正しいかどうかは、この6年を振り返った江口さん自身の文章で考えてもらえるだろう。

(5)テーマがくるくる変わったのはなぜか

意外にも、くるくる変わったのではなく、「自分の関心は一貫している」というのが江口さんの答えだ。
 「過去6年間の報告や文章を読み直すと、自分の関心は奈良に行った時から基本的に変わっていないのではないかと思った」。
 「自分の興味ある対象に向かって、どう切り込んでいったらいいかわからず、試行錯誤し、時間がかかったように思える」。
「ただ自分の関心をはっきりさせるだけでは足りず、その対象にどう入っていくか、どういう方法で対象を理解するのかが問題になるが、自分が苦労していたのもこの点だったのではないか。イサム・ノグチや日本庭園、民俗学、石、地形など試行錯誤を繰り返したが、やっと「短歌」という方法に出会い、これならいけると思えた」。

もちろん、スムーズにいったわけではない。「無理や強引さや、その時々のテーマの変化の急さ」はあった。しかしそうしたことも含めて、「自分の関心が向けられている対象ははっきりしていて、それに対して手を変え品を変え何とかアプローチしようとしている」ことがわかった。「しかしそう思えたのも、今までの失敗があったからではないかと思う」。
こうした思考法が、江口さんには確立されている。
しかし、結局、「短歌」は最終的な答えなのかどうか。

「石から地形、地形から短歌という変化にどう意味があるということは、今の自分にとっては正直どうでもいい。それは、今いくらかんがえても仕方がないという意味だ。これから短歌の道を進みながら、考えていくしかないと思う」。
この考え方は、ヘーゲルが『精神現象学』の序言で述べていたものでもあり、真っ当だと思う。出した答えが正しかったかどうかは、今後の方向性と活動にかかっている。

江口さんは自分の傾向性を次のように分析する。
「自分の場合、ある対象に心が動かされると、その対象に自分が乗り移りかねないほど、対象にひきつけられてしまう。対象と一体化してしまうとも言えるかもしれない」。
「しかし対象を深く理解するためには、いったん自分と対象を切り離し、対象それ自体として見なければならない。これが自分には苦手で弱いのではないだろうか。例えばイサム・ノグチについても、彼のアトリエで見たままのもの、例えば彼がつくった庭や周りの屋島や五剣山など地形との調和には心が動かされる。しかし、そうしたアトリエを作った彼の人生、時代背景となると、関心が薄れてしまう。総じて歴史、経済、法律、社会に対する興味が片寄って少ない」。

前者は江口さんの最大の武器になるだろう。
そして、後者、特に「歴史、経済、法律、社会に対する興味が片寄って少ない」点は、今の段階ではしかたがないものだ。それはこの6年間の「引きこもり」生活による。

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6月 08

「ふつうのお嬢様」の自立 全8回中の第5回

江口朋子さんが、この春に「修了」した。
その修業に専念した6年間を振り返る、シリーズ全8回中の第5回。

眠りから覚めたオオサンショウウオ (その1)
 ?江口朋子さんの事例から、テーマ探し、テーマ作りのための課題を考える?
            中井浩一
■ 全体の目次 ■

(1)「特殊」の守谷君と「ふつう」の江口さん
(2)江口さんの初心
(3)オオサンショウウオになってしまった
(4)ゼロからの「自分探し」
(5)テーマがくるくる変わったのはなぜか →本号(205号)掲載
(6)「引きこもり」の意味
(7)親からの自立
(8)本当の自立
(9)「お嬢様」の凄み →206号掲載

■ 本日の目次 ■

(1)「特殊」の守谷君と「ふつう」の江口さん
(2)江口さんの初心
(3)オオサンショウウオになってしまった

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眠りから覚めたオオサンショウウオ
 ?江口朋子さんの事例から、テーマ探し、テーマ作りのための課題を考える?
            中井浩一

(1)「特殊」の守谷君と「ふつう」の江口さん

私のゼミで師弟契約の第1号は江口朋子さんだが、師弟契約を結んだ時期は、江口さんと守谷君がほぼ同じで、それから6年ほどになる。
この二人は、正反対の位置にいるように思う。かなり「特殊」なのが守谷君で、「ふつう」なのが江口さんだと思う。二人は、動と静、たえざる運動と引きこもり、外的と内的、躁状態とうつ病的、などと対比することもできよう。
守谷君は、きわめて特殊で、鶏鳴学園以外では「居場所」を見つけられない人だと思う。幼年期から小・中・高校と豊かな(プラス面でもマイナス面でも)経験をし、問題意識も強く、大学時代にもたくさんの活動をし、他の「先生」方にはしっかりと絶望し、その上で私を選び、師弟契約が結ばれた。この6年間も休むことなく、活動と報告と文章を出し続けてきた。守谷君は、1つの理想モデルとして、「わかりやすい」と思う。
守谷君については、最近でも修士論文を掲載した(メルマガ189号?194号)が、それ以前にも大学の卒論と大学卒業までをまとめた文章を掲載した(メルマガ127?129号)。それぞれについての私の評価、コメントも出し(メルマガ130号、195号)、守谷君を事例として「若者の自立のためには何が必要なのか」をまとめている(メルマガ130号)。
江口さんは、守谷君とはまったく違う。守谷君が「わかりやすい」のと比べると、「わかりにくい」のではないか。江口さんは「ふつうの人」「ふつうの女子高生」「ふつうのお嬢様」だった。経験の幅は極端に狭く、私を選んだのも、他のさまざまな人々との比較によるものではない。その意味で、それは偶然だったといえる。そういう人が、なぜ私の下で6年間もの修業にたえ、「修了」第1号になることができたのか。
このメルマガの読者の多くも、「ふつうの人」だと思うので、江口さんの事例の方が自分を重ねやすく、参考になるだろう。また、最近では、10代、20代の若者に「引きこもり」や「ニート」が急増していることを踏まえると、江口さんの事例はきわめて重要なのではないかとも思う。

江口さんは、幼稚園から高校まで同じ私立女子校に通った典型的なお嬢様だ。鶏鳴学園には高校時代に通っていたが、作文を書かせてもたいした経験は出てこない。他者との対立もなく、自己内の葛藤も弱く、めだたない生徒だった。正直にいって、当時は、彼女と将来に師弟契約を結ぶことになるとは夢にも思っていなかった。むしろ、そうした可能性はゼロの人だと思っていた。
慶應の文学部(教育学専攻)に進学したが、大学1,2年のときに、鶏鳴学園で松永さんが行っていた大学生対象の古典の学習会に出ていた。私との関係は、江口さんが大学3年になってからで、鶏鳴学園の研修制度で、現国の読解指導、作文指導を学んでいた。そして卒論は「読むとは何か」をテーマにし、西郷信綱の『古典の影』を参考にした。その卒論の指導は私がした。卒論に専念していた大学4年の夏にはすでに、慶應文学部の大学院にそのまま進学する予定を変更し、私のもとで修業する決意を固めていたと思う。
大学4年の1月から3月にかけて、ゼミで論理トレーニングの学習会を行い、守谷君も参加した。そこでは論理と生き方が結びついていることを強調したが、その学習会を終えてから、江口さんとは師弟契約をし、その後、守谷君も続いた。

こうして見ると、江口さんの変化が見えるようになったのは、大学入学後であり、特に大学3年以降だと思う。
「ふつうの人」「ふつうの女子高生」「ふつうのお嬢様」が、自分自身のテーマを作り、それに生涯をかけて生きていくことになった。現在は、まだまだその入り口のところにいるにすぎないが、それでも大変な変化である。
それはなぜ可能になったのか。その過程にどのような困難があり、それらをどのように克服していったのか。

(2)江口さんの初心

まずは、江口さんの「初心」の激しさを思ってみなければならない。この激しさなしで、師弟契約第1号はなく、ましてや「修了」第1号はありえなかったと思う。
師弟契約第1号とは、契約をした時点で、他に誰もいなく、何の組織も制度もなかったということだ。示せるほどの実績もまだなく、何の保証もなかった。そこにただ一人で飛び込んでくれたのだ。
「今自分の中にある関心、具体的にいうと6年間の文章で関心をひいたものとして取りあげた一つ一つの対象は、どれも本当に自分の心が動き、身体が反応したものである。興味がないのにあるような振りをしたり、ごまかしたものはない。それは、師弟契約をした時にはっきり意識したことで、今まで自分はやりたくない勉強を嫌々やったり、周りに合わせて何となくやり過ごしてきたので、これからはそういうごまかしはしないと決めていた」。
初心の激しさは、それまでの自分の生き方への「否定」から生まれていることがわかる。
「ごまかしはしない」という決意は、最後までゆらぐことはなかった。江口さんの文章には「ウソ」がない、「ハッタリ」がない。ゼミ生の誰よりも、正直な文章だと思う。それは、第1には、この初心によって、つまり過去の自己への否定の強さに支えられていた。

(3)オオサンショウウオになってしまった

その否定の激しさは、江口さんを突き動かし、外的にも急激な変化をもたらした。
 「最初の1年は自分の関心以前に、現状を理解することで精一杯だった。大学院進学を辞め、それまでの友人と関係を切り、親とも話し合いでぶつかるという、それまでと逆の方向に走り始めた自分の状態を、自分で理解するのに精一杯だった」。

 親との話し合いは、私がアドバイスしたことだが、友人関係を切ってしまったのは本人がしたことで、その報告を聞いて驚いた記憶がある。幼稚園から高校まで同じ私立女子校に通ったお嬢様で(大学もその延長)、その外の世界を知らない江口さんにとって、その友人との関係を切ることは、世界との唯一の関係を切り、全く孤独になることを意味する。

江口さんは、一方では自分がつんのめりそうなまでに前のめりになって突き進んでいき、他方では「認識」がそれについていけず、何が起こっているのかわからないために、不安で恐くなることも多かったと思う。
その頃、江口さんは地球の生成と発展、生命の誕生と生物進化の過程に強い関心を持っていた。そして生物進化の本流からおりて、休んでしまったようなオオサンショウウオに自分を重ねていたようだ。
 「私は師弟契約をしてゼミで学ぶようになってすぐ、地球の進化に興味をもち、それについて書いた文章で中井さんから『発展を問題にしている』と言われた。その後も同じことを度々言われたが、自分では『発展』という言葉をどこかで避ける意識があった。今思うと、発展するということは、矛盾が露わになること、問題が起こったりそれに伴う苦しさから避けられないが、そうした自分に迫ってくるものから逃れたいという気持ちが強かったのだと思う」。

それまでの自分を否定する時は、その否定が強ければ強いほど、それへの抵抗も激しくなる。内部の矛盾は激化する。人生で初めてのことに、江口さんはどうしてよいかわからないままに、しかし、直感的に、自分を重ねられるオオサンショウウオを見いだし、自己相対化をはたしていたのだろう。
オオサンショウウオが他の生物たちとの進化の競争路線からはおり、一人うずくまってしまったように、江口さんも、友との関係を切り、徹底的な「引きこもり」を始めたとも言えよう。それは結果的に正しい戦略だったのではなかったか。

6月 07

「ふつうのお嬢様」の自立  全8回中の第4回

江口朋子さんが、この春に「修了」した。
その修業に専念した6年間を振り返る、シリーズ全8回中の第4回。

現状維持ではなく問題提起を目指せ (下)
 ―中井ゼミの原則から振り返る― 江口朋子

■ 本日の目次 ■

B.各項目について
2.目標達成の方法、大きなプロセス
(2)先生を選べ、学ぶ姿勢の確立
(3)民主主義の原則
3.原則に対する態度、立場の問題

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(2)先生を選べ、学ぶ姿勢の確立

 6年前に中井さんと師弟契約を行い、「先生を選べ」の原則でやってきて、この原則の威力の大きさを改めて実感する。一言でいって、自分が途中で潰れることなくここまで自分の関心を広げ、深め、ひとまずのテーマをはっきりさせるところまでこれたのは、「先生を選べ」を実践してきたからだと思う。その時々の課題をはっきりさせ、自分でやってみて先生の意見を聞いて自分で考えるということが、少しずつではあっても着実に先へ進むプロセスになっている。それは、他のゼミ参加者をみていてもわかる。
 「先生を選べ」の原則と、学ぶ姿勢の自分でやって結果を出した上で批評を聞くというやり方は、今後の自分の指針になっている。例えば、短歌を作るために、あるいは和歌の歴史を学ぶために、自分一人でやるだけではなく、先生を選んで学ぶべきことを学ぼうと自然に考えるようになった。自分が何に困っているのか、何を求めているかをはっきりさせることが必要だし、先生について黙って聞くだけではなく自分でやって考えなければ自分の成長にならないということも、同じ先生から学ぶにしても、意識しているかいないかでは、得るものが大きく違うと思う。
 また、誰かを評価する時にも、そもそもその人が先生を選んでいるか、それだけの強いものを持っているかどうかが一つの基準になっている。
 ただ、自分が今まで経験したのは本当の意味での「先生を選べ」ではなく、その前段階として、テーマをはっきりさせる、作るための「先生」だった。本当の意味で先生を選ぶ
段階のことは今あれこれ考えても仕方ないと思うが、少なくとも自分を成長させるためのプロセスとして、先生を選ぶこと、選べるだけの疑問や課題を自覚して実際にやっていくことが必要不可欠であると学べたことは、大きな糧になっていると思う。

(3)民主主義の原則

 自己理解が他者理解と一体であることは、文章ゼミを通して、ゼミの1年目から考えてきた。他人に対して何か意見を言う時、そこにはそっくり今の自分が反映されてしまう。だから、特に批判的なことを言う時は、自分にもそれが当てはまらないか考えるということには比較的注意してきたが、むしろ今の自分にとっての課題は、慎重になり過ぎて批判や疑問を積極的に言うことを避けがちであることだと思う。自分を含めて、他人に対して、全体に対して常に問題提起するということが課題だ。
 感情的な言動への対応も含めて、この民主主義の原則は、鶏鳴の場では半ば当たり前のように提起され、実践されているが、他の組織ではむしろここまで自覚されていないのが普通だろうと思う。だから、例えば歌の結社のように、これから自分がどこかの組織に所属した時、この原則を頭において実行していくことが必要になってくると思う。

3.原則に対する態度、立場の問題

 立場の問題も、ゼミの場で繰り返し問題になってきた。本人の自覚の有無はともかく、どんな人もある立場からしか物をみることはできない、そして多くの場合、事実上は親の立場に立っているということも、言葉としては理解しているつもりだが、しかし本当のところ、立場の問題は自分にとってまだまだ曖昧なところが多い。それは、自分がまだ本当には立場を問われたことがなく、この問題に心底悩んだことがないからではないかと思う。
 ただ、「発展の立場」という言葉から思い浮かぶことが2つあるので、それについて述べたい。
 1つめは自分自身のことだが、私は師弟契約をしてゼミで学ぶようになってすぐ、地球の進化に興味をもち、それについて書いた文章で中井さんから「発展を問題にしている」と言われた。その後も同じことを度々言われたが、自分では「発展」という言葉をどこかで避ける意識があった。今思うと、発展するということは、矛盾が露わになること、問題が起こったりそれに伴う苦しさから避けられないが、そうした自分に迫ってくるものから逃れたいという気持ちが強かったのだと思う。
 しかし、3年目あたりに、一度自分の関心がわからなくなってそれまでを振り返るような文章を書いた時、自分がやってきたことについて、脈絡なくただ関心の向くままにやってきただけで、全体を一貫したものとして見るような書き方にならなかった。その時中井さんから、「発展に関心を持っているのに、自分のやってきたことを発展的に理解していない、しようとしていない」と言われた。その言葉は自分にとって重かったし、今でも重いまま残っている。要するに言っていることとやっていることが違うということだが、発展云々以前に、いくら言葉を重ねても、自分の言動やものの見方にその人のありのままの立場がそっくり出てしまい隠しようがないということを、身を以て経験した。
 牧野さんも、ヘーゲルの言葉を「弁証法とはこういうこと」というように知識として、言葉だけで知っているのではなく、弁証法的に読んで理解できる人がどれだけいるのかという批判を述べているが、知識としていくら立派そうなことを知っていても、それを能力として身につけ自分で使えるようにならなければ意味がないということを考えるきっかけになった。
 もう一つ「発展の立場」という言葉から思い浮かべるのは、鶏鳴のゼミ全体のことだ。私は今のようにゼミが行われるようになった最初の頃からゼミに参加してきたが、本当に変わってきたと思う。私の師弟契約の話が出た最初の時点では他に一緒にやっていく人がおらず一人で、その時中井さんが、一対一でやるよりは、他にも何人か一緒にやる人がいた方がいい、組織でなければできないことがあるという話をしていたが、自分にはぴんとこなかった。しかし今の状態を見ると、確かに組織となって、横のつながりもないとできないことがあるということがわかる。それは相互作用とも言えるかもしれないが、文章や報告の意見交換を通じて、参加者同士のその後の行動や考え方を変えてしまうということが実際に起こっている。
 なぜゼミの場が充実するようになったのかと考えると、今まで何か問題が起きた時にそれをうやむやにせず、一つ一つ取り上げて考えてきた、その積み重ねではないかと思う。例えば2007年頃だったと思うが、中井さんがゼミ生各自の成長はあっても、ゼミ全体についてはほとんど成長していないと言ったことがあった。そしてその後に、本質論の重要性の話から、報告の仕方も改めて、そもそも報告とは何のためにあるのか、報告の目的、今の課題や実際の取り組みを整理して書くように指導したことがあった。その成果は、すぐには形になって見えてこなかったかもしれないが、報告に対するゼミ生の意識を改めて、各自の成長につながっていっただろうし、結局ゼミの参加者一人一人が成長しなければ、いくら指導者が力を入れても全体の成長はなかなか実現しないと思う。
 もう一つ印象的なのは、感情的な言動に対する対応をゼミの場で話し合ったことだ。普通の組織でも、意見交換や議論の場で感情的なやり取りが行われることはあるが、それを敢えて問題にすることはない。むしろ見ないふりをしてやり過ごすか、適当にごまかして終わらせると思う。だから中井さんがこの問題をわざわざ取り上げ、感情は抑える必要はない、そこに隠れているふくみを丁寧に考えればいいという話をしたとき、本当にこの場で起きている生の問題を考えていること、実は大切で誰もが本当は気にしているけれどうやむやにされてしまう問題こそ丁寧に考えていることの意味を改めて強く感じた。端的に、こんなことをしているゼミは他にないと思った。
 要するに、世間的に言えばまずいこと、厄介な問題が起きた時、むしろそこにこそ成長を促す大切なものがあると考え、その意味を全体でオープンにして話し合うということをしてきた。その場ではすぐに大きな変化は見えなくても、その積み重ねが今の相互作用の活発な状態を生んでいると思う。逆に、今一見順調なように見えても、見えないところで何か問題が起きつつあって、それがいつか表に出てくるかもしれない。ゼミという組織も個人と同じ生き物で、問題が起きたり、順調に過ぎたり波があるものだ。そして、矛盾や衝突、問題点にこそ、その先の成長の芽があると考え実践できるのは、このゼミが、正確には指導者の中井さんが発展の立場に立ち、そこからゼミで起きる一つ一つを見ているからだと思う。

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6月 06

「ふつうのお嬢様」の自立 全8回中の第3回

江口朋子さんが、この春に「修了」した。
その修業に専念した6年間を振り返る、シリーズ全8回中の第3回。

現状維持ではなく問題提起を目指せ (上)
 ―中井ゼミの原則から振り返る― 江口朋子

■ 目次 ■

A.全体的に言えること
B.各項目について
1.目標「自立」をめざせ
2.目標達成の方法、大きなプロセス
(1)親からの自立
(2)先生を選べ、学ぶ姿勢の確立
(3)民主主義の原則
3.原則に対する態度、立場の問題

■ 本日の目次 ■

A.全体的に言えること
B.各項目について
1.目標「自立」をめざせ

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◇◆ 現状維持ではなく問題提起を目指せ
―中井ゼミの原則から振り返る―   江口朋子 ◆◇
                               
A.全体的に言えること

 原則1?7の観点から自分が鶏鳴でやってきた6年間を振り返ると、これらの原則が達成できたわけでは到底ない。しかし中井さんがゼミの場で、これらの原則を繰り返し話題に出し、問題提起し続けてきたのを聞きながら、少しずつ自分にひきつけて考えるようになり、また実践し始めたところだと思う。これからが、本当にこれらの原則の意味が問われてくるのだと思う。

B.各項目について

1.目標「自立」をめざせ

 今までの自分は、自立するため、また自分のテーマを作るための準備をしてきた段階だった。テーマを作るためには、そもそも自分が何に関心があるのか、心から面白いと思えるもの、ひきつけられるものは何なのかをはっきりさせなければならない。その作業に集中したのがこの6年間だった。
 これからが本当に自立を問われる段階だが、まだまだ自分は自立の意識が弱いと思う。第一に親に対する経済的依存がある。これについては、3.「親から自立せよ」で改めて述べる。第二に、今までは師弟契約をしていた中井さんに頼っている面が少なからずあった。それも仕方ない面はあり、自分一人では先に進めないわけだからアドバイスを受けるのは当然だが、自分でやって先生の意見を聞くというより、中井さんからの提案や助言を受けて考える、行動するということも多々あった。しかしこれからは、現状維持・現状肯定ではなく、自分で自分に対して問題提起できるような目を、自分の中に持つ必要があると思う。
 その必要を感じるのは、もともと自分に問題提起や葛藤、衝突を避ける傾向があるからで、これは自分の過ごした学校生活が特に影響していると思う。つまり、幼稚園に入った4歳から14年間同じ私立の女子高で過ごしたので、そこでの温室状態というか、周りが似た者同士で自分が何者かを問われるほど他人を意識する経験がなかった状態が体に染みつき、無意識のうちに居心地良く感じるようになってしまった。結果として、自分に対しても、他人に対しても、見たくないものに反射的に目をつぶるような、要するに問題点を指摘して先へ進めていくようなことができにくくなったという面がある。
 だからこそ、これからは今までのような守られた世界から外へ出て、他人や世間にもまれて、時には自分を正面から否定されたり、思うようにいかない事態をたくさん経験することが必要だと思う。そうしなければ、今までの自分がある意味そうだったように、自分とは何か、自分のテーマは何かがぼんやりしたままで、はっきりしない。具体化されていかない。
他人とぶつかるということは、自分の未熟さ、低さが露わになることでもある。例えば歌会に参加すれば、そこでの自分の態度から自分が議論の場で問題提起できないことが明らかになる。歌についても、わからないことがいくらでも出てくるし、自分の歌に対する参加者の批評を聞けば、自分の歌の駄目さを嫌でも感じさせられる。千年以上の歴史をもつ日本の歌に対して、足がすくむような、越えようのない壁が立ちはだかっているような不安や恐れを感じてしまうのが正直な気持ちだ。
しかし、まずはそういう自分の現状を認めないとどうしようもない。今は何もわかっていない一番低い段階だが、まずはここから始めて、目の前にある課題を一つずつクリアしていくしかない。いきなり大きい問題に取り組もうとしてもできないし、きれいに取り繕おうとしても仕方ない。どちらかというと学校や家庭で優等生的に振る舞ってきたためか、自分には問題点をさらっと流してきれいに整えたがる傾向がある。石の論文を書いている時もそうだった。しかしどうしたって上手くいかないことは起きる。むしろ問題が起こることが自然なのだ。それならば、一つ一つの問題から目を逸らさず向き合う方が、表面だけ取り繕って済ますより、結局は得るものが大きい。
牛が一度口にしたものを繰り返し咀嚼し続け、反芻しているような、あのしつこさというか粘りを見習って、できることから一つずつ、しかし着実に課題に取り組むという意識が大切ではないかと思う。そうすれば、必要以上に臆することなく外の世界に出て他人と関わっていけると思う。

2.目標達成の方法、大きなプロセス

(1)親からの自立

 自分に対する両親の影響の自覚や相対化は、6年前と比べると進んだと思う。大学卒業直後、自分がこれから何をどうするかを話し合った時は、父親は自分の話を理解できず、むしろ母親は同調する傾向が強かったが、それは母親の理解があったわけではなく、ただ母娘が一体化している面が強いだけだった。その後、自分の関心やその時々の大きなテーマが変わる節目ごとに、両親と話し合ってきた。その結果、例えば父が会社勤めではなく、大学教授という学問や研究を仕事としていることは、大きくみれば自分と似ていること、自分に働くように強く言わないのも、テーマを作ることの大変さを一応わかっていて、父自身職に就くまで時間がかかったことが関係していることなど、両親の言動を背景も含めて考えるようになった。父方、母方の祖父母に対する理解も、以前と比べると進んだ。
 一方、親との関係で今一番大きい問題は経済的に依存していることで、家を出て独り立ちすることが避けられない課題である。そもそも、親に全面的に養われている立場では自立とはとても言えない。衣食住の心配のない安全な場所にいて、本当にいい歌が作れるのか、中身のある仕事ができるのか、他人に対して何か意見が言えるのか、そうした問題に向き合わないといけない。今までは、親に養ってもらっている事実を敢えて見ないようにしてきた面が強く、それを意識してしまうと自分の関心やテーマ作りに集中できなくなってしまう恐れがあった。しかし今は、ひとまず自分のやりたいことがはっきりし、社会に出ていくだけの準備もできたので、自活していく方法を考えるべき時だと思う。
 自分が大学卒業後6年間も働かずに好きなように過ごせたのも、当然両親の影響があり、特に父の影響が強い。父自身、浪人や留年で大学卒業まで人より3,4年時間がかかっており、更に大学院まで進んだので、実質的に社会に出て働き始めたのが30歳近くになってからで、その間学費などで親に援助してもらうこともあった。だから本当にぎりぎりの生活の苦労を経験せず、どこかで親を頼れる意識があり、その意識が自分の子供に対してもあり、私にもそのまま受け継がれている。
 また、「1.目標「自立」をめざせ」のところで、自分に問題提起を避ける傾向があると書き、その理由の一つに学校生活を挙げたが、それ以外に親からの影響もあると思う。要するに、両親もどちらかというと現状肯定で、波風立てず安定した生活を送りたいという気持ちが本音としてあると思う。そしてこのまま親元で生活していると、自分もそういう親の本音を受けた継いだまま、乗り越えられずに終わってしまう。そのためにも、1,2年以内に自活することを目指して、今からその準備を始めていくことが自分にとって大きな課題である。