5月 13

アリストテレスの『形而上学』から学ぶ その3

 ■ 今回掲載分の目次 ■

 (6)アリストテレスの「判断論」と「推理論」
 (7)アリストテレスの「矛盾律」と「排中律」

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◇◆ アリストテレスの『形而上学』から学ぶ 中井浩一 ◆◇

(6)アリストテレスの「判断論」と「推理論」

 今回、『形而上学』がある程度理解できたように思えるのは、
観点が明確だったからだけではない。
私の側に、その前提となる学習がある程度できていたからだろう。

『形而上学』を理解するには、その前提として『論理学』を
読まなければならないと言われる。事実、アリストテレス自身が、
自らの体系上で『形而上学』の前に『論理学』をおいた。
その意味は、『論理学』はあらゆる学問研究に先だつ予備科目で、
一般に正しく思考し考えるための「道具」「方法」であるとされている。

 その論理学の中心に判断論と推理論があるが、
特に判断の捉え方が重要だと思う。アリストテレスは『形而上学』において、
判断の形式からすべてを考えようとしているからだ。

 昨年はヘーゲルの論理学から「判断論」「推理論」を読んだ。
さらにカントの関連箇所、カントが参考にしたアリストテレスの論理学から
『カテゴリー論』と『命題論』を読み、言語学の学習会で、
関口ドイツ語学から『冠詞論』を読み、判断を中心に置いた
文構造の読みを展開していることを知ったこと。
同じような理解で日本語を考察している、日本語学者の論考も読んだ。
これらが私の側の準備になっていた。

 ヘーゲルと関口や一部のすぐれた日本語学者にとって、
その源泉はアリストテレスにあることが確認できた。
アリストテレスの考えを継承して、自分の哲学を作ったのが
カントであり、ヘーゲルである。

 アリストテレスの判断を説明する前に、そもそもなぜ判断の形式が
問題になるのかを考えよう。

 それは人類の認識や知恵は、この形の中に蓄積されているからだ。
それは人々の長い営みの中で生活の知恵として結晶している。
従って、個人が改めて真理を探す必要はない。
この蓄積の中にその認識と知恵を学べば良いことになる。
それがアリストテレスの基本的な立場なのだ。
これはソクラテス、プラトンからアリストテレスへと継承された、
基本中の基本だろう。アリストテレスにとっては、判断の形式、
「定義」「説明方式」がすべての前提で、すべての対象を
それに関する判断(定義)の主語・述語関係から考えていく。

 さて、この判断論と、判断の根拠に遡る推理論においては、
アリストテレスの2面性がはっきりと現れている。
ナカミのない形式主義者である面と、他方で
圧倒的にすぐれた思索を展開した面とである。

 その形式主義の側面とは何か。

 アリストテレスは、判断(命題)を一般の文と区別して、
真偽が決まるものに限定して判断(命題)と考える。
ここがすでに悟性的なとらえ方だ。1つの判断を他から切り離し、
それだけで固定させて、その真偽を捉えられると考えるからだ。

 こうした前提のもとに、アリストテレスは判断全体を分類し、
その相互関係を明らかにしようとする。ここまでは良いのだが、
その捉え方が、機械的で、実に悟性的なのだ。分類や相互関係といっても、
結局は、その命題の真偽だけを問題にすることに終始するからだ。

 アリストテレスの分類とは、判断の文が肯定か否定かと、
主語が全称か特称かで大きくわける。その組み合わせは4種類できるが、
それらの関係を「矛盾」「反対」「小反対」「大小」の4種に整理し、
一方の判断の真偽から、他方の真偽が自動的に演繹される体系を作った。
ここでは真偽が対象世界から切り離され、機械的で形式的な作業で決められる。

 さらに、この判断の真偽の根拠を遡ると推理(3段論法)が
導出されるのだが、ここでも、アリストテレスは推理全体の分類と
相互関係を考える。まずは、推理を定言3段論法、仮言3段論法、
選言3段論法に分類し、それぞれの推理を大前提と小前提と結論の関係から、
1格から3格までの種類に分類し、それぞれの格における真偽の基準を示すのだ。

 そして、ここでもアリストテレスは1つの推理を他から切り離して、
その真偽だけを問題にするので、極めて形式的な演繹のルールだけが示される。

 こうした判断と推理のルールは、対象と無関係なものだから、それは
「存在論」と対立する意味での「認識論」としての論理学と言えよう。

 こうした側面が、後に形式論理学として完成され、今日も記号論理学として、
大学などで勢力を誇っている。現代の普通の考えでも、判断は対象(主語)に、
ある内容(述語)を人間が「結びつける」「つなぐ」と考えられている。
そして、その判断が正しいかどうか(真偽)だけが問われるとされる。
ここには、主語と述語の言葉は、そもそもバラバラなもので、
それらを「結ぶ」のも「切り離す」のも人間だ、という考え方がある。

 こうした主語・述語関係は、人間、認識主体が、対象と無関係に、
対象の外部から、恣意的に、あれこれと「貼りつける」もので、人間の恣意的なものだ。
それが対象世界に関わるのは、判断の真偽決定の検討においてのみだとされる。

 以上の形式論理学ならびに、現代の普通の理解は、アリストテレスに始まるとされる。
しかし、アリストテレスにはもう1つの側面がある。
「存在論」として、対象世界そのものを判断の形式からとらえていく側面である。
そこでは判断は静止せず、運動した形で捉えられる。
そして存在の運動は、そのままで判断の運動、認識の運動となる。

 存在の運動とは、対象がその実体と属性とにわかれることであり、
判断の運動とは、実体が主語におかれ、その属性が述語におかれることである。

 そして、言葉を分析し、主語にしかおけないもの、主語にも述語にもなるもの、
述語にしかおけないものに分類する。それらの言葉の関係でも、
主述関係をさらに考えていく。

 この作業を積み重ねていくと、主語にしかならないものと、
述語におかれても、他の述語の頂点にくる言葉が把握できる。
その主語=基体で、決して述語にならないものを「実体」として、
またそれ以外の主要なカテゴリーを導出した。

 このように、主語(基体)と述語の関係から、対象世界の実体と属性との関係を
運動の中で捉えようとしているのが、アリストテレスの『形而上学』である。

 判断は認識の運動であると同時に、存在の運動の反映でもある。
アリストテレスは、いつもこの両面を見ながら論じている。
例えば、7巻の4章で、まずは「言語形式の問題」(234ページ)を考察し、
その後ただちに、「事実上の問題」(238ページ)を考察する。
その後も、アリストテレスは常に、両者を結びつけながら、対象に迫ろうとする。

 推理論でも、対象世界の運動を捉えようとするのが、
『形而上学』における推理の用語法である。そこでの推理とは、
現実の中にある運動を「始め」「中」「終わり」ととらえた3者の媒介関係、
媒介の運動として捉えていると思う。7巻の7章(249ページの「推理」)や
9章(258ページの「推理」)に当たられたし。

 こうしたアリストテレスにある2面性を指摘し、前者を批判し、
後者を高く評価したのがカントであり、ヘーゲルだった。

 ヘーゲルは、アリストテレスの後者の側面を、さらに大きく発展させている。
人間が対象を判断できるのは、対象世界が自ら判断し、
自らが何物であるかを示すからだ、ヘーゲルはそう考える。
その対象が自らに内在化していた本質を外に現すことが、
判断における主語と述語の分裂であり、それが1つの対象でもあることが
コプラによる主語と述語との一致である。判断も低い段階では、
主語は空虚で、判断の内容とはその述語にある。この主語と述語の
コプラ(一致)は、実際は完全には一致せず、その矛盾が判断という形式を
発展させ、次第に主語と述語の関係がより深いレベルで統一されていく。
それがヘーゲルの「判断論」の4段階の発展なのだが、これは、
アリストテレスが示そうとした判断の分類と相互関係に、
ヘーゲルが代案を示したものと言える。同じく、ヘーゲルの推理論は、
アリストテレスの推理論への代案である。

 今日では、アリストテレスが創始したと言われる「形式論理学」、
演繹推理を、ナカミのない形式主義であるとして否定する人も多い。
例えば、野矢茂樹は『論理トレーニング』(産業図書)の
3(注:アラビア数字)で「演繹」を取り上げ、演繹推理や
記号論理学のくだらなさを指摘する。
しかし、結局はそこから一部を取り上げ、練習問題を用意する。

 「形式論理学」を批判するならば、その低さの理由を示し、
それを克服する方法を明示するべきだろう。野矢はそれができないために、
結局はそれに追随しているのではないか。
では演繹推理におけるアリストテレスの低さとは何か。
それは普遍と特殊(個別)、肯定と否定を悟性的に対立させるだけで、
それらの相互転化を言えなかったことだ。それでは運動が起こらない。
ヘーゲルはそれらの相互転化を示すことで、発展として判断を展開して見せている。

 しかし、アリストテレスの形式的な演繹推理を、アリストテレス自身が
思考全体のどこに位置づけていたのかは、それとは別に考えるべきだ。
アリストテレスはただのバカではない。「運動」の説明を求め、
それができないでいるプラトン主義をもっとも激しく批判したのが、
アリストテレスその人だったことを忘れることはできない。

 ヘーゲルは、自らの「判断論」でも「推理論」でも、「形式論理学」は
ナカミのない形式主義であるとして徹底的に罵倒し、否定している。
そして、その責任の一端を創始者としてのアリストテレスに帰すとともに、
アリストテレスを擁護し、アリストテレスの偉大さは、実際のアリストテレスの
思考(例えば『形而上学』)では、彼の形式論理を使用していないところに
あるとまで言っている(『小論理学』187節注釈)。

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(7)アリストテレスの「矛盾律」と「排中律」

 現在の形式論理学は、アリストテレスの『論理学』に基づくとされている。
そうした論理学の教科書の構成は、概念、判断、推理の順に展開され、
その根本原理として「三大法則」(「同一律」「矛盾律」「排中律」)が
おかれている。これは現代の記号論理学でも、基本的な部分は同じである。

 この「三大法則」は、『形而上学』では4巻で取り上げられる。
それを読んで驚いた。世間の説明と正反対だったからだ。

 かの有名な「矛盾律」は、次のように述べられる。
「同じもの(同じ属性・述語)が同時に、そしてまた同じ事情のもとで、
同じもの(同じ基体・主語)に属しかつ属さないということは不可能である」
(上巻122ページ)。つまり「Aは非Aではない」。

 しかし、いわゆる3大法則は出てこない。そのことに新鮮な驚きがあった。
直接に、アリストテレスが原則として出しているのは、矛盾律だけなのだ。

 同一律(「AはAである」)は出てこない。もちろん矛盾律の中に
含意されているわけだろう。排中律は出てくる(「二つの矛盾したものの
あいだにはいかなる中間のものもありえず、必ず我々はある一つについては
何かある一つのことを肯定するか否定するかの、いずれかである」上巻148ページ。
つまり「AはBか、または非Bである」)が、これは矛盾律に内在化しているものを、
わざわざ引き出して見せただけだ。
 

 つまり、「3大法則」とは余計なもので、いかにも、バカのやるやり方だ。
アリストテレスはそうしたバカではない。

 さらに実際に読んでみて、「矛盾律」「排中律」についての
アリストテレスの叙述は、教科書の説明とは逆であることを知って、愕然とした。

 普通に考えると、「矛盾律」は、悟性的で、固定した世界と結びつき、
結果的に現状肯定の保守的な立場になると思う。

 確かに、規定、対をしっかりと確立させ、固定させるのが矛盾律なのだが、
アリストテレスがそうするのは、それによって、その先(反対の規定の相互転化)に
突き進みたいからだと思った。規定を、対立を明確にすることで、矛盾を屹立させ、
そこから運動を導出することをしようとしているのだ。
これは弁証法であり、絶えざる変革の立場であり、ヘーゲルそのものではないか。

 一方、普通の形式論理学者は、その先に進まないために、
現状を肯定するために、矛盾律を使う。
これがバカたちの理解するアリストテレスなのだろう。

 他方、矛盾律に反対する人たちは、生成、消滅や運動を説明できないとして、
規定や対そのものを否定する。その結果、対立があいまいになり、
矛盾が突き詰められず、結果的に運動を説明できなくなる。
(上巻137ページ以下に詳しい)

 排中律(つまり矛盾律)に反対するのは、相対主義者たちである。
アリストテレスは、そうした相対主義者の立場や心情を理解した上で、
その批判を展開する。

  「すべての現れがことごとく真実であると説く者は、
   すべての存在を相対的であるとする者である。
   それゆえに、理論上の強制力を要求すると同時に、
   自らの説の正当性を主張する彼らも、現れがただ端的に
   存在するというのではなくて、現れはそれが現れる人に対してそうあり、
   それが現れる時にそうあり、またそれも現れる感覚やその時の事情の
   いかんに応じてそうあるのである、と言って自ら警戒せねばならない。
   もし彼らがこのように自ら警戒することなしに、自説の正当性を
   要求するならば、彼らは直ちに自ら矛盾したことをいうことになるであろう」
    (4巻6章。上巻145ページ)。

 アリストテレスは相対主義を否定するのではない。むしろその徹底を求めている。
それが徹底できないで、あいまいなところで停止し、思考停止していることを
批判しているのだ。つまりアリストテレスの立場は相対主義の否定ではなく、
それを止揚した上での絶対主義なのだ。

 排中律を人々が嫌う理由は、選択、決断を迫られたくないという心情にあると思う。
それが相対主義者たちの本音ではないか。(4巻7章。上巻148,149ページ参照)

 以上を確認して、私は驚いた。私はすっかり騙されていたのだ。
 いわゆる形式論理学とは対極の所に、アリストテレスは立っていた。

5月 12

アリストテレスの『形而上学』から学ぶ  その2

 ■ 今回掲載分の目次 ■

 (3)「自然科学オタク」としてのアリストテレス
 (4)アリストテレスの著作の読み方と、
    『形而上学』のアリストテレス哲学体系における位置
 (5)アリストテレスの問題への向き合い方

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◇◆ アリストテレスの『形而上学』から学ぶ 中井浩一 ◆◇

(3)「自然科学オタク」としてのアリストテレス

 アリストテレスとプラトンの対立の意味については、すでに多くの人が考えてきた。
カントは「アリストテレスは経験主義者たちの頭目と、
またプラトンは理性主義者たちの頭目と見なされうる」
(『純粋理性批判』「純粋理性の歴史」)と言っている。
アリストテレスに経験主義者の面は強い。『形而上学』冒頭の有名な箇所からは、
アリストテレスの感覚への偏愛が確認できる。

  「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。
   その証拠としては感官知覚〔感覚〕への愛好があげられる。
   というのは、感覚は、その効用をぬきにしても、すでに感覚すること
   それ自らのゆえにさえ愛好されるものだからである」(1巻1章)。

 これはアリストテレスがいかに感覚を愛し、その対象の自然と
自然研究を愛していたかを示すだろう。1960年代、70年代の
カウンター・カルチャーでは「いま、ここ」がスローガンになったが、
この考えを確立したのは、アリストテレスだと言えるかも知れない。

 私はアリストテレスを、「自然科学オタク」として考えるとわかりやすいと思った。
 哲学者には理系的な人と、文系的な人に大きくわかれると思う。
また、実証主義的な人と、理念主義的な人とにわかれるだろう。
アリストテレスは生来、理系的な実証主義者で、オタクだったと思う。
プラトンはその対極にあったのではないか。
そうした違いもその対立の原因だったろう。

 哲学史上で、理系的なのはアリストテレスやデカルトである。
倫理や人間社会の研究が中心なのは、ソクラテス、プラトン、
ヘーゲル、マルクスなどである。

 自然研究は社会研究よりもわかりやすい点がある。対象が
自分と無関係(とりあえず)に存在し、その全体像がつかみやすい。
そこで、自然界の運動、生成・消滅を観察し、統一的な説明をしようとした。
自然の階層性、分類も体系的に考えようとした。その際、まずは
徹底的な実証的研究になるし、アリストテレスはそれが得意だった。

 社会や倫理は、対象が自分自身を内在しており、その全体像がつかみにくく、
観察や実験だけではとらえられない。運動、生成・消滅は、政治闘争、
経済闘争として社会にもあるのだが、その全体像は見えにくく、把握が困難だ。
こちらは観念論的になりやすい。ここにも、自我の内的二分が
アリストテレスからは出てこなかった理由があるかも知れない。

 アリストテレスとプラトンとの対立にはこうした違いが根底にあったと思う。
しかしアリストテレスは、その自分のオタク性を、プラトン主義によって
陶冶したのではないか。そうだ。しかし、そうした資質の一部は暴走し、
枝葉末節へのこだわりとなることもあったのではないか。

 アリストテレスにある矛盾、二面性は、このようにも考えられるだろう。

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(4)アリストテレスの著作の読み方と、
   『形而上学』のアリストテレスの体系における位置

 実際にアリストテレスの著作を読んでみて、その読みにくさには辟易した。
 それはどこから来るのだろうか。

 1つは、それが紀元前の古いものであり、当時は今のような「書き言葉」の
世界ではなく「話し言葉」の世界、オーラルが中心の世界であったことから
生まれるのではないか。

 アリストテレスの著作には、「言われるものども」「?と言われるから」
「?と言われないから」という言葉が繰り返し出てくるのだが、
当時は音声、「語り」が中心の時代であり、文字は、その話し言葉を
記録するという役割が主であり、「書き言葉」本来の意義がまだ十分に
現れていない時代だったのではないか。

 宮本常一の『忘れられた日本人』の世界だと言える。
口承の世界、聞き書きの世界、一人語りの世界なのだ。

 したがって、その読み方は、内容理解以前に、文化人類学的、
民俗学的なものとなるだろう。
近代の著作を読むようには読めないのが当然だ。

 「書き言葉」は、「話し言葉」の反省形態であり、それを整理し、
高め、純化するものだが、当時の書き言葉にはそうした役割が弱い。

 もちろん、当時も著作として意識された文章があり、それはプラトンの
対話編のように読みやすく整い、「話し言葉」を反省したものになっている。

 アリストテレスの著作の読みにくさとは、今日残されているもの
(「アリストテレス大全」)のほとんどが講義のメモ、草稿であり、
完成された著作ではないという点にもある。さらには、
書かれた時代も異なる草稿類を、後の人が編集したものであることが、
いっそうわかりにくくしている。

 アリストテレスの著作には「ところで」で文や段落をつなぎ、
前後の論理的関係が示されないことが多い。接続詞が変な箇所も多い。

 これはそもそもが「語り」だからなのか、「メモ」「草稿」類だからなのか、
他者の編集だからなのか。もちろんそれらも理由だろうが、
当時は「書き言葉」によって、構想全体を立体的に
整理し直すようなことができなかったのだろう。

 アリストテレスは対概念をたくさん使用しているのだが、
全体として叙述は平板で、すべてがべた?っと並べられ、立体的にならない。

 これは、アリストテレス自身の思考の弱さ、体質的な実証主義の側面が
強く関係していると思う。実証主義は事実や現象にべた?っと寄り添うもので、
そこから身をひきはがし、屹立することが弱い。
プラトンのような飛翔する力は、アリストテレスには弱いのではないか。

 例えば、プラトン主義批判の23カ条などがそうだ。
いくらなんでも、もう少し整理して立体的に述べられないものか。
こうしたバカっぽいところがアリストテレスにはあると思う。

 しかし、そうした草稿類ではあるが、アリストテレスは体系家であり、
体系的に整理編集されて、「アリストテレス大全」にまとめられ、
今日に伝わっている。その中で、『形而上学』は、どこに位置づけられているのか。

 「アリストテレス大全」で、最初に来るのが予備学としての「論理学」だ。
これは、あらゆる学問研究に先だつ予備科目で、一般に正しく思考し
考えるための「道具」「方法」であるとされている。

 「論理学」に続いて、次には「本論」として、「理論学」と
「実践学」(倫理、政治)と「制作術」(弁論述、詩学)がおかれている。

 「理論学」がその中心だが、それは3部門あったようだ。
「自然学」と「第1哲学」と「数学」。「数学」は残っていない。

 「自然学」は、アリストテレスの最も得意とするものであり、
この研究をしたいからこそ彼は哲学者になったと言えるだろう。

 そして「自然学」の次におかれたのが『形而上学』である。
そもそも『形而上学』とは「自然科学の諸論文の次書」という意味からの命名だ。
それは「第1哲学」と呼ばれるが、自然に関する実証研究を理論化、一般化して、
世界の実体に迫ろうとしたものと言えるのだろう。

 以上から、「アリストテレス大全」における核心は『形而上学』にあることが確認できよう。

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(5)アリストテレスの問題への向き合い方

 『形而上学』を通読すると、人が本気で何かをしようとする時の覚悟が、
具体的につたわってくる。それは、哲学史(1巻)であり、
「難問集」(3巻)であり、「用語集」(「哲学辞典」5巻)である。

 アリストテレスは、巨大なテーマを前にしていた。
 そうした時に、人はどのように取り組めばよいのだろうか。

 アリストテレスはまず、その問題、対象に対する過去の考え方、
論争、論点を確認することから始める。それが哲学史の確認であり、
「難問集」としての論点の整理である。このテーマに答えるには、
どういった論点に回答できればよいかを、自分に対して確認しているのだ。

 その論点確認の際に、用語の確認、意味の分析と整理がどうしても必要になる。
「?には多くの意味がある」(9巻 下巻20ページ)からだ。それが「用語集」だ。

 このように、アリストテレスは哲学史の研究者から哲学者になった。
これが、自分の哲学を作るための「王道」だろう。ヘーゲルもそうだった。
それはプラトン主義を全面的に克服するための方法でもあったろう。
そして、哲学史を研究するには、当時の世界で、アカデメイアの書庫が、
最高の環境だったのではないか。

 巨大なテーマに取り組むと、道に迷い、自分を見失いやすい。
アリストテレスのような取り組みは、自分の方向性を、自分自身に
はっきりさせるために必要なのだ。こうして、アリストテレスは
問題の全体を見渡そうとする。この「全体」を把握しようとしたことが、
アリストテレスの圧倒的にすぐれた点であり、彼の体系性を生みだしていく。

5月 11

アリストテレスの『形而上学』から学ぶ

 アリストテレスの『形而上学』を、2011年の1月から3月の
 読書会のテキストに取り上げ、通読してみた。
 改めて、その巨大さに圧倒された。
 世間の言うアリストテレスとは、全く対極にあるアリストテレスを発見した。

 ■ 全体の目次 ■

(1)『形而上学』を読む観点
(2)アリストテレスとプラトン →その1

(3)「自然科学オタク」としてのアリストテレス
(4)アリストテレスの著作の読み方と、
   『形而上学』のアリストテレス哲学体系における位置
(5)アリストテレスの問題への向き合い方 →その2

(6)アリストテレスの「判断論」と「推理論」
(7)アリストテレスの「矛盾律」と「排中律」 →その3

(8)アリストテレス哲学の核心 全世界の発展における始まりと終わり →その4

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◇◆ アリストテレスの『形而上学』から学ぶ 中井浩一 ◆◇

(1)『形而上学』を読む観点

 アリストテレスの『形而上学』(岩波文庫版。ページ数はこれから)を
2011年の1月から3月の読書会のテキストに取り上げ、通読してみた。
20年以上も前に読んだことがあるが、当時のことはほとんど記憶にない。
対象が巨大すぎて、手も足も出なかったのだと思う。

 今回は、確認したいことがあり、そうした観点をもってのぞんだ。
 その分、今回は収穫があったように思う。

 アリストテレスとヘーゲルは、人類の哲学史上の2つの巨峰である。
ともに、それまでのすべての哲学が流れ込み、その後のすべての哲学が
そこから流れ出た。ヘーゲルは他の誰よりも、アリストテレスから学び、
アリストテレスを絶賛している。その核心部分を理解したかった。

 昨年、波多野精一著『西洋哲学史要』のアリストテレスの項を読み、以下を考えた。

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   アリストテレスのすごさとは何か。

   【1】個別と普遍(本質)の問題と、【2】変化・発展の問題と、
   【3】全世界の構造、神から物質までの階層、順番の問題。
   この3つの最も根源的な問題を、3つともにとりあげていることもすごいのだが、
   それらを1つに結びつけていることが、その圧倒的な高さだ。

   この【1】は誰もが問題にする。この【1】に対するアリストテレスの答えは
   並の答えで、すごいのは、この【1】と【2】とを結びつけて論じたことだ。
   【1】と【2】を、同じ事態の2つの側面としてとらえた。
   その結果、【3】を説明することができたのだ。
   ヘーゲルは、何よりも、ここから学んでいると思った。

    (以上「ヘーゲルとアリストテレス」メルマガ179号)

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 まず、この点を確認したかった。これが今回の最大の観点である。

 もう1点、確認したいことがあった。ヘーゲル哲学が、近代世界を
切り開いたものだと言われるのは、その「自我の内的二分」の考えによって、
全世界の中心に人間を置いたからだ。それはアリストテレス哲学ではどうだったのか。

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   アリストテレスには対象意識はあった。対象世界、その全体と
   その構造や最上位に君臨する神を、とらえていた。
   対象世界の中には、自然も精神(魂)も人間社会も含まれていた。
   人間社会では、法律も制度も道徳も国家体制もとらえていた。
   無いのは、自己意識(意識の内的二分)だけだ。

    (以上「ヘーゲルとアリストテレス」メルマガ179号)

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 この点も確認したかった。
 なお、以下の前提となる知識は岩波文庫下巻の解説による。

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(2)アリストテレスとプラトン  

 この確認作業の結果を述べる前に、改めて、アリストテレスの人生や、
歴史上の位置についても考えたので、それを最初に述べたい。

 アリストテレスは、紀元前384年ごろの生まれだという。これだけ古い時代に、
これほどの思想、思考レベルに到達していたことに驚く。

 アリストテレスとプラトン、この巨人二人の出会いは、アリストテレス17歳、
プラトン60歳の時。その後、プラトンが死ぬまでの20年間、アリストテレスは
プラトンの学園アカデメイアで修業を重ね、次第に頭角を現していた。

 しかし、プラトンの死後、学園の後継者(学頭)はアリストテレスではなく、
プラトンの血縁者(甥)だった。アリストテレスは独立し、自らの学園を作ることになる。
なぜ、後継者がアリストテレスにならなかったのかは、不明なようだが、
路線対立があったことは確かだろう。

 『形而上学』には、「1」や数学(ピタゴラス主義)とイデア論を
批判的に検討する部分が多く、全体の3分の1ほどある。
これは、アカデメイアで当時強まっていたイデア論の数学化、
神秘化への断固たる批判なのだろう。プラトン主義、そのイデア論についても
徹底的で執拗な批判が繰り返されている。

 しかし、こうした批判をする以前に、アリストテレスには
プラトンの下で学んだ20年間がある。したがって、批判は、
プラトンの下で学んだことを発展させるためのものであったと理解するべきだろう。
それがアリストテレスの発展の立場から、アリストテレス哲学を
理解することになるだろうから。

 アリストテレスが、プラトン(ソクラテスも)から学んだことは何だろうか。

 第1に、哲学する姿勢であり、第2にその能力であろう。
 現象ではなく、対象の「それ自体」としてのあり方(イデア論)を問うこと。
超感覚的なイデアの世界で考え、そこに生きること。
つまりたんなる現状肯定、現状追認ではなく、それを変革していくこと。

 そして、対象の「それ自体」(イデア)を考えるための方法と能力。
それはプラトンによって対話編として展開されるから、言葉の研究、
判断(定義)の形式の研究になっていく。その時に、その対象は、専門用語ではなく、
日常用語、生活の言葉や思考の形式であったことを改めて確認した。
そのことに新鮮な驚きがあった。

 例えば、『形而上学』でアリストテレスは「教える」ことの意味を次のように説明する。

  「また一般に、ひとが物事を知っているか知っていないかについては、
   そのひとがそれを他に教えうるか否かが、その一つの証拠になる。
   そして、この理由からするも、技術の方が経験よりも
   より多く学問〔学的認識〕であるとみなされる。
   けだし、技術家は教えうるが、経験のみの人々は教ええないからである」
   (1巻1章。上巻24ページ)。

 このように、「教える」という日常的な行為を取り出し、
その根源的で普遍的な意味を大きくとらえる捉え方に感心する。

 また、これに関連して、経験と技術(理論)の違いを他の箇所では次のようにとらえる。

 まず、経験家が個別のことにつては、理論化より、しばしば上手く
処理できることを認める。例えば、医術でも「(理論家が)概念的に
原則を心得ているだけであるなら、したがって、普遍的に全体を
知っておりはするが、そのうちに含まれる個々特殊については無知であるなら、
しばしばかれは治療に失敗するであろう」と述べるが、

 「しかし、そうは言うものの」と論を転じて、

  「『知る』ということや『理解する』ということは、経験によりも
   いっそう多く技術に属することであると我々は思っており、
   したがって、経験家よりも技術家〔理論家〕の方が、いっそう多く
   知恵ある者だと我々は判断している、このことは、「知恵」なるものが、
   いずれの場合にも、「知ること」の方により多く関するものであることを
   意味するのであるが、そのわけは、後者〔理論家〕は、物事の原因を知っているのに、
   前者はそうでないから、というにある。けだし、経験家の方は、
   物事のそうあるということ〔事実〕を知っておりはするが、それの
   なにゆえにそうあるかについては知っていない。しかるに他の人は
   なにゆえにを、すなわちそれの原因を、認知している」
    (1巻1章。上巻24ページ)。

 この「なにゆえに」つまり「原因」が実体であり、アリストテレスの研究対象になる。
こうした考えの進め方は、まさに「生活の中の哲学」そのものだ。

 当たり前のことだろうが、当時は、日常用語、生活の言葉と、
学術用語の区別がなかったのだ。哲学者も生活の言葉で考えている。
アリストテレスは、哲学用語をその言葉の生活面での使われ方から考えている。
それはさらに言えば、日常と哲学などの専門学術が分裂していなかったことを意味する。
アリストテレスの用語は、生活から地続きなのだ。

 その後、西洋でも両者は分裂するが、近代化の過程で日本などの「後進国」は
西洋の学問を輸入する過程で、この日常語と思考の言葉の間に完全な分裂が
起きている。この問題は、明治の夏目漱石らの先人達が押しつぶされそうに
なりながらも取り組んだ問題だが、私たち日本人には今も重くのしかかっている。

 さて、アリストテレスはプラトンから学ぶ一方で、プラトンを
激しく批判している。その批判点は何だったのか。

 それは、プラトンのイデア論では運動の説明ができないことにあった。
アリストテレスは、プラトンによって「自然についての研究は壊滅されるしかなかった」
(1巻9章。上巻67ページ)とまで言っている。

 アリストテレスの第1の関心は自然研究だった。
自然界には生成・消滅や変化があり、物理的な運動があるが、それが研究対象だった。
生物の世界、植物や動物の世界の分類、体系化がテーマだった。
ところが、それがイデア論では説明ができない。

 その限界を、イデア論を全否定するのではなく、イデア論を発展させることで
乗り越えることがアリストテレスの課題だったと思う。

 アリストテレスは、プラトンの死後、アカデミアを去って自分の学園を作った。
すでに40歳をすぎていた。ここからアリストテレスが自らの哲学を確立するための、
プラトンから真に自立するための、本当の闘いが始まったと思う。
そして、生涯をかけて自らの課題と取り組んだ。
そのアリストテレスの回答は『形而上学』にまとめられている。

5月 10

全国の実践家との交流をしましょう  
高校作文教育研究会6月例会

今年度は、全国の実践家との交流をはかりたいと思っております。

表現指導には、実にさまざまな取り組み方があります。また、高校には多様な学校があり、多様な生徒たちが学んでいます。そうした多様な実態と、その中から生まれている多様な実践、多様な生徒作品。それらと向き合いながら、表現の可能性を広く、深く、考えてみたいと思います。

6月は、東大附属の「卒業研究」と、「総合学習」で小児救急医療問題を追究した高校生の事例を取り上げます。2つの実践は、ともに高校生に強い問題意識を作り上げるための果敢な挑戦だと思います。こうした試みが全国に広がっていくことを願いながら、そのすぐれた点はもちろんのこと、その課題についても学び合いたいと思います。
いずれも、具体的な生徒作品に即して、検討していきます。

高校作文教育研究会は、昨年まで2年間ほど「聞き書き」をテーマとして研究してきました。その中で、いくつかの課題や問題点が浮かび上がってきました。それが最大の成果だったと言えるでしょう。連載を完走した古宇田さんが、その課題を報告します。みなさんとともに、考えていきたいと思います。

どうぞ、みなさん、おいでください。

なお、参加希望者は、前もって以下に申し込みください。
  E-mail:sogo-m@mx5.nisiq.net

1 期 日    2011年6月26日(日)10:00?16:30

2 会 場   鶏鳴学園御茶ノ水校
         東京都文京区湯島1?9?14  プチモンド御茶ノ水301号
         ? 03(3818)7405 JR御茶ノ水駅下車徒歩4分
       ※鶏鳴学園の地図はhttp://www.keimei-kokugo.net/をご覧ください

3 報告の内容

(1)高校生の卒業研究の指導過程と論文の実際
          東京 東京大学教育学部附属中等教育学校  鈴木 一史

 東京大学附属中等教育学校では卒業必修単位として「卒業研究」を課している。4年生(高1)の冬にテーマ決定をし、6年生(高3)の夏に提出する。進路や受験勉強との葛藤の中で、大部の論文を作成する。この2年近くにわたって取り組む卒業研究のカリキュラムと指導過程の実際の流れを確認し、出された成果としての「論文」を検討したい。月に一度ある教員の「指導時間」は、主に論文の作成過程の確認、参考文献等の情報、論文全体の論理構成の助言である。数値を扱う生徒もいれば、文献調査のみで終える生徒もいる。また、生徒の多くはフィールドワークを通して情報を集めて書きあげる。生徒への助言がどのように奏功しているのか、失敗しているのかを具体的な生徒の作文から検討し、カリキュラムと具体事例との関係性についても議論していきたい。

(2)「総合学習を通した高校生のアイデンティティ形成」
                        北海道教育大学  高橋 亜希子

 高校における総合学習は、学力低下論や進学に向けた学校間競争などから不活発な状況が続いています。しかし、総合学習において、テーマ設定のために自分を問い取材を通じ学校外の人に出会うことは、生徒の自己形成に大きく寄与します。
 今回の発表では、総合学習における学校外の人々との関わりに焦点を当て、学習過程の一高校生の継続的な面接資料と記した文章から、出会った人の言葉、印象、そこで得た体験が生徒の在り方を変容させていく過程を分析します
 生徒は1年半にわたる小児救急医療問題の追究を通し、命の意味を考え、周囲の人々との関係を変えていきます。高校生における学習と自己形成のかかわりや、高校生にとっての“生きた学び”についてみなさまの意見を頂けると幸いです。よろしくお願い致します。

(3)聞き書きの構成と文体についての試論
           茨城 古宇田栄子

「聞き書きの魅力と指導法」の連載は終わりましたが、まだ、研究結果の報告会が終わっていないので、なんだか宙ぶらりんな気分です。やはり、研究結果はきちんと整理・分析し、新たな課題を把握しておくべきだと強く感じています。その中で、いちばん気になるのが、聞き書きの構成と文体です。中井さんが新たな発想、視点でいろいろ提案してくれましたが、その結果についての検討が不十分です。今回のレポートでは、私なりにそれを整理してみたいと思います。今、思いつくことをランダムに書いてみます。

?理科社会における聞き書きの文体と国語における聞き書きの文体は分けて考えるべきかどうか。
?テープ起こしにはどのような意味があるか。
?国語科の聞き書きにおいて文献調査等事前調査をどうとらえるか。
?聞き出せなかったところは想像して書く、についてどう考えるか。
?ひとり語りの文体と書き手(聞き手)の感想、思索をどうとらえるか。
?聞き書きの文体としては、伝聞体、Q&A型の文体、ひとり語り、ルポルタージュ風の文体等が考えられるが、それぞれどんな違いがあるのだろうか。
?問題意識の深化と文体は関係があるのかどうか。
?子どもの論理的思考と描写とはどのような関係があるのか。ほか。
他者の経験を自己の生活や生き方に引き寄せて考えられるようにするためにはどのような指導が必要なのだろうか。また、その際のリアリティをどう保障したらいいのだろうか。

どこまで整理できるか、自信はありませんが、一緒に考えていただければ幸いです。

4 参加費   1,500円(会員無料)

5月 09

5月以降のゼミのスケジュールが決まりました。

関心のある方は、今から日程調整や、テキスト購入などの準備をしてください。

参加希望者は、前もって以下に申し込みください。
 読書会、文章ゼミ、月曜日のゼミなど、すべての参加費は1回3000円です。

なお、初めての参加者には、事前に「自己紹介文」を書いていただいています。

 1. 簡単な履歴(年齢、大学・学部、仕事など)
 2. 何を学びたいのか
 3. どのようにこの学習会を知ったのか、なぜこの学習会で学びたいのか
 
 などを書いて、以下にお送り下さい。
 E-mail:sogo-m@mx5.nisiq.net

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(1)5月以降の読書会と文章ゼミのスケジュール

読書会は、原則は午後5時から開始。7時からは、参加者の報告と意見交換の時間があります。
文章ゼミは午後5時開始です。

5月
   21日 読書会 

 6月
  4日 文ゼミ
  18日 読書会

 7月
  2日 文ゼミ
  16日 読書会

 8月
  18?21日(予定) 合宿

 9月
  17日 文ゼミ

 10月以降は未定。

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(2)読書会のテキスト

☆5月21日 読書会 

ヘーゲル『精神現象学』の「理性論」を翻訳で読みます。
 
範囲はヘーゲル『精神現象学』の第3部第5章「理性論」の第1節です。

テキストは牧野紀之訳、未知谷からの刊行版を使用します。購入するか、図書館でかりるなりしてください。

「理性」の段階とは、夏目漱石の「私の個人主義」(『漱石文明論集』岩波文庫に収録)でいうところの、他者本位から自己本位への大転換後の段階で、「先生を選べ」を自覚的に行っている段階と言えるでしょう。

☆6月18日 読書会

 テキスト:山田孝雄『日本文法学要論』(書肆心水)

日本語とは何か、言語とは何かを考えるシリーズです。
明治以降の日本語論で最高最大の功績を残しているのが山田文法です。それに取り組みます。
 テキストは高価なので、図書館で借りるなどしてください。
 必要箇所はコピーをお渡しする予定です(実費をいただきます。)

☆7月16日 読書会

 福沢諭吉の『文明論の概略』(岩波文庫)を読みます。
 これは日本の近代化を考える上での必須のテキストであり、政治、経済、文化などのあらゆる面での、日本の近代化の諸問題を考えるための、前提となるテキストです。
 明治時代のその諸問題が、実は、今の私たちの諸問題の根底に「未解決」のまま横たわっているのです。

これは、内容充実のテキストなので、数回に分けて読みたいと思います。

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(3)毎週月曜日のゼミは5月16日から開始します。

午後5時からはヘーゲルの原書講読で
『小論理学』の「概念論」を読みます。毎回3ページほどを読みます。

ドイツ語の初心者のために、午後3時からドイツ語の指導の時間もとっています。

午後7時からは、関口存男『定冠詞論』を毎回80?100ページずつ読みます。
5月は、第2編からです。
参加者にはテキストはコピーしたものをお渡しします。(実費をいただきます。)